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美術手帖で連載中の「シリーズ:これからの美術館を考える」の第6回、横山由季子(金沢21世紀美術館学芸員)による「シリーズ:これからの美術館を考える(6) ブロックバスター展は善か、悪か|MAGAZINE | 美術手帖」。一読して何が言いたいのか理解し難かったが、それもそのはず、書いている本人が考えがまとまらないと言っているのだった。
まとまらない考え、逡巡をそのまま書いてしまいましたが、現状を共有することで、今後の共催展、ブロックバスター展について考えるきっかけになれば幸いです。
「考えまとめてから話せ、バカ」で済む話ではあるけど、一部好意的に受け止められている様子もあり、少しこだわってみたい。
まず、かなり気に食わないことの一つに、ブロックバスター展について「善か、悪か」と問うている点がある。「善悪」というのは倫理道徳的な価値判断であり、展覧会の評価をするにあたってはなじまない言葉である。「是非」でよかったはずだ。にもかかわらず、横山は敢えて「善悪」という強い言葉を用いた。その理由は推測することも可能だが、不要だから止めておく。ただ、私自身は「善か、悪か」という問いに答える気にはならないし、また応じて「ブロックバスター展は悪だ」と言っている人がいたら異様だと思う。些末な問題ではある。しかし、筆者の立ち位置や考え方が無意識に出ているように見受けられる所、注意を要する点である。
次。筆者はタイトルで「ブロックバスター展は」と議論の対象を提示する。そして文中で「ブロックバスター展」の定義を明確に行う。ここまではまったく素晴らしい。だが、なぜか横山は文中でブロックバスター展以外についても語り出してしまう。こんなわずか短い文章にもかかわらず、その対象を固定することすらできない。大丈夫なのか、この人?
実際に対象になっているのはブロックバスター展と共催展である。前者も後者の一部だが、このうち60~70万人ほどを動員したものを指すと定義している。もちろんそれ以上動員した場合も含まれるのだろう。また、共催展以外でこの規模の動員は不可能と考えられる。すなわち、60万人以上の動員を記録した展覧会はブロックバスター展だと言っていい。明確だ。
共催展のなかでも、とりわけ規模が大きく大量動員が見込まれるものは「ブロックバスター展」と呼ばれる。ブロックバスター展の基準について100万人以上の動員としている記述もあるが、近年ではさすがにそこまでの来場者を集めた例はないので、ここでは60〜70万人規模の展覧会ととらえることにしたい。広報会議でメディアの担当者と話していても、60万人あたりがひとつの分水嶺になっているような感覚がある。
共催展一般が共通するものであるならば、わざわざ分ける必要はない。だが、60万を越える規模になると、単に量の違いではなく、質の差が出るようだ。「60万人あたりがひとつの分水嶺になっているような感覚」というのはそういうことだろう。ならば、「ブロックバスター展」と呼び分けることに意味が出るわけだ。
しかし、結局筆者が俎上に乗せるのは共催展一般であって、ブロックバスター展特有の問題についての指摘はわずかしかない。筆者は読者にブロックバスター展のみに絞って考えて欲しいのか、それを含めた共催展一般について考えて欲しいのか不明である。というよりも、筆者自身の中で、その程度のことすら整理できていないのではないかと思われる。
そんな筆者横山が共催展やブロックバスター展の「現状」についてどのように認識しているか、批判的に捉えているか、文章を引用しつつ細かく見ていこう。
ブロックバスター展はその華やかな話題性によって、普段は美術館に足を運ばないような人が展覧会を訪れるきっかけをつくり、美術の裾野を広げているという側面もある。そのいっぽうで、やはり集客のために打ち出される広報の数々は「イベント」としての側面を強調するものであり、一過性の消費で終わってしまうのではないかという危惧がつきまとう。
一過性の消費の何が悪いのかさっぱり分からん。人生は短い割に、世界はあまりにも豊かだ。誰しもが、美術とがっぷり四つに組んでいる暇があるわけではない。すべてのことに入れ込むことはできないわけだ。学芸員と成るほど美術に真剣に取り組んでる横山も、例えば音楽とか、芝居とか、映画とか、ほかのジャンルに関しては一過性の消費で済ませていたりするわけでしょ? 美術に対してそういう態度をとる人たちを批判する権利なんかないわな。
ブロックバスター展やそれに準ずる共催展に足を運ぶ人の多くは、作品を見に来ているのね。有名作に心踊り、傑作に胸を打たれに来てる。学術性とか、正直無くても構わないとすら思っている。
最近ではメディア側も展覧会事業にこれまでになく採算性を求める傾向にあり、10万人を動員する小規模の企画を年に何本も実施するよりも、大量動員が見込めるブロックバスター展を1本開いたほうが、労力的にも資金的にも報われるという事情もあるだろう。
共催展の数を減らして、ブロックバスター展に集約していると読めるけど、事実なのか?
当たり前なのでは。
ここで、そこまでの費用をかけてまで、海外の作品を借りてくる必要があるのかという問いが生じるだろう。国内の美術館にも豊かなコレクションがあり、それだけでも十分に展覧会は成り立つ。実際に、近年では国内の所蔵品を中心に見ごたえのある展覧会が多く企画されている。
ブロックバスター展や美術館展など、学術性の低い展覧会を批判する人って、だいたい欧米によく行っていて、そこで十分に作品を見ている人なんだよね。だから、そういった展覧会が名作や有名作を持ってきているということ自体に意味を見いだせないわけだ。でも例えば、今後10年間、海外所蔵の作品を見ることを一切禁じるって言われたら、我慢できるの? できないでしょ。できないなら「国内の美術館にも豊かなコレクションがあり」とか言って欲しくないよね。子供や仕事で忙しい人、貧乏人、障害者、老人。誰しもが気軽に海外に行けるわけではない。そういうところにブロックバスター展の意味の一つがあると思うんだよな。弱者に優しいという点を鑑みれば、筆者の問いかけに「ブロックバスター展は善である」と答えることも可能かもしれない。
共催展の広報において差し迫った課題は、いかにして若者に展覧会に足を運んでもらうかということである。とりわけブロックバスター展を支えているのは、バブル期以降の大型展に足を運んできた50代以上の世代であり、メディア側も確実な集客を見込んで、この年齢層に的を絞った広報戦略を立てることが多い。しかしながら、このような目先の集客ばかりを求める広報が続くようであれば、美術館や展覧会の未来はそう長くはないであろう。
若者じゃないから分からないけど、どっちかというとやはりブロックバスター展の方が若者にリーチしていて、それより規模の小さい共催展に問題がある気がするけどなあ。今なら例えばフェルメール展とルーベンス展。
近代美術の延長線上に現代美術を位置づけ、両者を結びつける作業は、やはり美術館が担うべきものである。そして、村上隆や草間彌生などの知名度と人気を誇るごく一部の作家を除いて、メディアが現代美術展に出資することは考えにくい。美術館が主導して近代美術と現代美術をつなぐ展覧会を企画したり、現代美術を一般へと浸透させる持続的なプログラムを行うための体制づくりや予算が求められる。
これはブロックバスター展や共催展の問題じゃないよね。美術館や学芸員が怠けていたからこういう状況になったんじゃないの? 「国内の美術館にも豊かなコレクションがあり、それだけでも十分に展覧会は成り立つ」んでしょ。美術館主催で粛々とやってればいいのでは。
数十万人の来場者を想定したブロックバスター展の場合、あまり大胆な切り口を提示することは難しく、個展であれば年代や主題ごとに画業をたどるようなオーソドックスな構成となりがちだ。先行研究や調査をふまえた新たな視点を、カタログの論文や作品解説のなかで示すことはできても、展覧会の構成全体に反映するにはいくつものハードルがある。とりわけオルセー美術館やルーヴル美術館からまとめて作品を借りる場合は、これらの美術館の学芸員が監修を務めることが多く、そのことによって企画の自由度が低くなるという側面もあるだろう。
そういう学術性は不要なんだって。単にいい作品を持ってくればいいの。学術性を発揮したいのであれば美術館主催の展示でやればいい。それでは自分の能力が十分に生かされないと感じるなら本場の美術館に就職してください。あと、日本の学芸員よりオルセーやルーヴルの学芸員の方が信用できるから、その場合は口出さなくていいよ。
オルセー美術館には各所蔵作家の膨大な資料が集められており(ルノワールだけでざっと50箱以上はあり、フランス語だけでなく、英語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語、そして日本語や中国語、韓国語の資料も網羅されている)、それを日々リアルタイムで更新していくドキュメンタリストたちがいる。学芸員は彼らの協力を得て調査研究に勤しみ、その成果が展覧会に反映される。この蓄積こそが、オルセー美術館の、さらには今日における世界的なフランス近代美術の人気の礎なのである。これは一朝一夕に実現されるものではなく、長期的な視点に基づいた、たゆまぬ歴史化の作業の賜物といえよう。
日本がフランス絵画についてオルセーと張り合う必要なんかないよ。自国の美術の研究環境が貧弱なこと(いろいろ話を聞くに相応の事実だろう)については悲しむべきことだけど、西洋美術は基本的に横のものを縦にしてればいい。もちろん立派な研究をなしとげれば敬意を表するが、俺達のブロックバスター展を研究発表の場として利用してくれるな。
私はブロックバスター展やそれに準ずる規模の共催展を楽しんでいるのだ。それを学芸員風情の浅薄な考えや安っぽい使命感によってぶち壊さないで欲しい。日本に居ながらにして傑作や有名作を鑑賞することができる。これだけでブロックバスター展は素晴らしいものなんだ。ということを学芸員や玄人気取りに理解してもらいたいのだが、なかなか難しいのかもしれない。
いわゆるモダンアートと呼ばれる作品と、古典的な美術作品とはまるで別物である。同列に置いて論じてはならない。
一方は落書きであり、もう一方は人の精神の深いところへ訴えかけてくる魅力と刺激を伴う神妙なものであり、これらを同じアートという言葉でくくるのは伝統的芸術作品、本来の芸術家精神に対する冒涜である。
もちろん深く精神に訴えかけてくるのは古典的美術品の方である。モダンアートは伝統的な芸術作品とは天と地ほどの差がある。もちろん天が伝統的な芸術作品である。勝負にならない。
モダンアートとはただの落書きである。これは教養なく金を手にした連中が感性高い風を気取ってただの落書きに高値を付けたことによる。戦後のアメリカ人が悪い。戦争による感性の破壊と言う線も考えられるが、大戦、冷戦を経て世界唯一の超大国となったアメリカ、火事場泥棒的な富の蓄積によるアート市場への歴史なき国民の劣等感とともに参入した成金のアメリカ人たちによる影響が大きい。彼らの悪乗りにモダンアート作品なるものの高値づかみは従来の伝統的、写実的、正統派の芸術家を隅へ追いやり、落書き小僧に過ぎない軽薄な自称芸術家たちを優遇し調子づかせ、現代の芸術的感性の退化を招いた。
集団催眠的効果を疑っても良い。集団に対しての洗脳である。落書きを価値ある芸術作品とみなす集団催眠。仮に意図的にそのような舞台を形成したと言うのなら、それこそ芸術と言っていい。人間心理操作しかも集団に対する芸術的操作である。価値なんてない落書きに巨額のマネーを引き寄せる。落書きを市場に供給することによって巨額のマネーを引き寄せる仕組みである可能性もある。
というようなことをニューヨークのMOMA、その他諸々のモダンアート現代美術作品を展示するあちらこちらの美術館をめぐって結論を得た。日本の地方の市立美術館とかがモダンアートによる浸食被害が大きい。ただの落書きに過ぎない作品を高値で購入している。見れば見るほど軽薄で、全く役に立たない落書きが価値ある作品として掲げ続けられていることに怒りすら覚えたのでこんなことを書いた。
金魚で有名な奈良県大和郡山市の「金魚の電話ボックス」について、大和郡山お城まつり終了後の4月9日以降に撤去されることがわかった。
福島県在住の現代美術作家・山本伸樹氏の作品とそっくりであると各方面から指摘されていた大和郡山の金魚電話ボックス。4月9日に撤去されることになったそうです。設置場所の K COFFEEの森和也さんに確認しました。
大和郡山のお城祭りは4月8日まで開催されます。それが終了してからとの配慮で、4月9日の撤去となる模様です。みなさま、お城祭りに行かれたら、最期にぜひひと目、見てください!
撤去されるのは、京都造形芸術大学の銅金裕司教授と1回生6名からなる金魚部が水都大阪フェス2011で「テレ金」として発表したもので、イオンモール大和郡山、第52回大和郡山お城まつりでも展示された後、部材を譲り受けた街おこし団体のK-Pool Projectが第53回大和郡山お城まつりで「テレ金2013」として再度展示。さらに、金魚の会がアートイベント「HANARART 2013」で柳町商店街に出展したことをきっかけに、現在は同商店街のカフェ「K COFFEE」が管理している。
いまでは観光名所となっているこの金魚の電話ボックスだが、現代美術作家の山本伸樹さんが1998年に発表した「メッセージ」に酷似しており、これまで山本さんが抗議し続けていた。
1、京都造形芸術大の「金魚部」が2011年に私の作品と同じものを作り、大阪キャンバスに入選して、出品し、2012年には私の指摘で、それを認め、出品を辞退し、活動を休止した。
2、それによって放置されていた、作品の部品を譲り受けた、「金魚会」という別なグループが、私の作品を知りながら、それを使って新たに私の作品と同じものを制作し、2013年に奈良・町家HANARART2013に出品した。
3、私の指摘にも関わらず、その後2014年まで常設として設置し続けた。
https://www.facebook.com/nobuki.yamamoto.5/posts/602183623243317
https://www.facebook.com/nobuki.yamamoto.5/posts/603658743095805
https://www.facebook.com/nobuki.yamamoto.5/posts/604104109717935
2017年2月以降ようやく話し合いの場が設けられ、山本さん、K-Pool 、K COFFEE、郡山柳町商店街協同組合理事長の間で「金魚電話ボックスが、山本伸樹の著作物であると認めること」「オリジナル作品である緑の電話機への付け替えを認めること」「山本伸樹は著作権使用料や慰謝料、付け替え費用を請求しないこと」で一度は合意しかけ、2017年8月21日には「柳町商店街協同組合と山本伸樹のコラボレーション作品」と明示されるようになったが、郡山柳町商店街協同組合の理事会では一転合意しないことが決定。結局撤去という形で幕引きを図ることとなった。
山本氏は「いままでもこれからも、著作物使用料は一切もらわないから、せめて著作権を認めてほしい。オリジナルの緑の電話に付け替えさせてほしい」とほぼ1年前から商店街に申し出ていました。緑の電話への付け替えも自腹とのことでしたが、地元商店街の結論は「撤去」でした。大変残念なことです。
回 答 書
前略、当方は、通知人郡山柳町商店街協同組合の代理人として、貴殿の平成29年12月28日付発送の内容証明郵便に対し,以下のとおり回答します。
通知人は、本件「金魚電話ボックス」が貴殿の著作権を侵害しているとは認識しておりませんが、紛争発生の経緯および現状に鑑み、当該「金魚電話ボックス」を撤去する旨を今般決定しましたので、その旨ご連絡します。
平成30年3月28日
シックスハートプリンセス(6HP)に関する備忘録
https://anond.hatelabo.jp/20170925233933
アニメ業界の事を語るのもなんだけど、ネットフリックスがアニメ現場に資金を提供して
ギャラが上がっているような話をちょっと前に聞いた。
クリエイターがギャラを得ながらキャリアアップするのがにほんでは難しいので僕はアメリカに逃げた。
現代美術は海外ではオークションのマーケットがあり何倍にも価値が変わるが日本では悪とされる。
そのアートに何億の価値が本当にあるのか。様々な要素が価格を決める。
現代美術家村上隆が監督するテレビアニメシリーズ(全15話)。
現在は1話のみ完成、MXTVにてバージョン違いで何度か放送されている。
俺の記憶では、村上隆がルーブル美術館に作品展示した頃(注)に、プリキュアもどきのショートアニメを作成したのが大元。
2011年3月頃からテレビアニメとしての制作を始め、途中3DCG版1話が完成するも出来に不満でお蔵入りにして作り直し、
2016年12月30日にMXTVでアニメ版が初放送された。この時アバンタイトル部分はアニメが間に合わず紙芝居方式だった。
アニメ30分に対し、村上隆はじめスタッフインタビュー30分という反省会がついてきていたのが現代アート。
その後、2017年の前半にお蔵入り3DCG版と反省会アートNewを放送。
そして、2017年9月24日に、アニメ版のアバンタイトル完成バージョン+反省会アートNewを放送。
俺は村上隆は嫌いだが、なぜだか縁あって3回とも(3DCGのときはインタビュー部分のみ)見てしまっているので、
オタク界隈で6HPについて触れている記事も少ないこともあり、いずれ忘れる自分のために語っておかなければならないと思う。
今日はMXTVのエムキャスで通知が来て視聴したが、予約したことすら忘れていた。レコメンドだとしたら優秀。
http://kai-you.net/article/36689
『6HP/シックスハートプリンセス』は、2010年にヴェルサイユ宮殿で開催された村上隆さんの個展で上映された短編映像『Six♡Princess』にはじまり、コスメブランド・shu uemuraとのコラボ商品発売やコスプレパフォーマンスステージに至るまで、さまざまな媒体で展開されてきた。
仁義八行のうち多分6つが猫側で2つが犬側、キュウべえ風の猫が魔法少女にならないかと語りかけてくるけれども本当は
6HPが完成しないのは、滝沢馬琴のライフワークだったことと重ねて敢えてやってるのだとしたら、スタッフお気の毒様ですとしか。
【アバンタイトル】
雪原、廃墟のビル群やタンカーが点在する中、仮面の女型巨人が現れる。
人類軍の多数の空中戦艦などから無数の有人機械が投下されガトリング攻撃。
また攻撃機より発射された巨大ミサイルが連続して頭部直撃。(エヴァ旧劇弐号機vs戦自)
ピンク巫女が弩(いしゆみ)でワイヤーネットを打ち出し拘束、黒巫女が大砲(おおづつ)で頭を吹き飛ばし仕留めたかに見えたが
女型巨人は形状崩壊し肉塊触手状になり2人を飲み込む。(AKIRA鉄男暴走、もののけ姫乙事主タタリ神・シシ神崩壊)
いつのまにか集まり見守っている猫(月猫族)と犬(土犬族)。
肉塊から再生した女型巨人のパーツに巫女から奪った勾玉が2つ追加される。(8つの設置穴に対して6つ揃った様子)
「こんな形で揃ってしまうとは…」「お願い、目覚めて…」犬か猫かの声。
【タイトル・OP】無し
【Aパート】
現代日本ではない、ちょっとレトロな異世界日本の学校、十牛図の授業中。
主人公(ハルカ?ピンク)授業中ぼーっと外を見ているところ先生に叩かれ一瞬のフラッシュバック。
友達子(黒)に鮮明な夢を見ると相談、紙に描いた風景を見せ、文化祭で2人でコレの劇をしよう。
昼、学食のスイートポテトサンド売り切れ落胆、男子から貰う貰わないのやりとり。
「罪獣(ザイジュウってたぶんこう)をハートプリンセスがまたやっつけたんだって」新聞を見せながら食堂で話している女生徒たち。
聞いていた主人公が講談調で割って入る。「なにそれハルカ劇場?」と言った女子(3人目青)に、
主人公学校からの帰路、雰囲気のある町並み。風景は今期で言うならメイドインアビスに近い。
(※ネコ科動物はカギ型の爪のため爪がよくひっかかる木登りは得意、反面降りるのは爪でブレーキをかけることができず苦手、
森の中で暮らすマーゲイは後ろ足の自由度が高いため逆向きに爪を立てて上手に降りることができる。)
【Bパート】
主人公自室、夜。月猫族の仁(ジン)からハートプリンセスにならないかと誘われる。
月猫族は悪い土犬族から珠を守っている、といった説明を主人公は理解できなかったがハトプリになれると深く考えずに契約してしまう。
翌日、友達黒と劇のロケハン。動かない風車の丘、レトロ電車、無数の鳥居でつながった沖の小島にある神社(フセミ神社?伏見稲荷と伏姫)。
神社ついてすぐ主人公がトイレに行っている間に社殿が変形して罪獣になる。目玉はカイカイキキぐるぐる。
こっそりついてきていた仁から圧縮伝心で変身方法を伝授され変身バンク。
村上隆、ロシア出展用の作品(詰めの作業中でアーティスト動いてる)の前でインタビュー。
昨年12月30日の放送版はアバンタイトルがアニメ間に合わず紙芝居だった。
今回の見どころはアバンタイトル部分が完成したところ。
アニメ業界の事を語るのもなんだけど、ネットフリックスがアニメ現場に資金を提供して
ギャラが上がっているような話をちょっと前に聞いた。
クリエイターがギャラを得ながらキャリアアップするのがにほんでは難しいので僕はアメリカに逃げた。
冒険的投資ではなく寄らば大樹の製作委員会方式。
現代美術は海外ではオークションのマーケットがあり何倍にも価値が変わるが日本では悪とされる。
そのアートに何億の価値が本当にあるのか。様々な要素が価格を決める。
リーマンショック後はアートが投資投機対象、アート(エコノミー)アナリズム。
話が散らかってきたので
金回りが悪い、ということと戦ってきた俺なので、アニメの方もなんとか金が回るような形で作っていけたらな。
というような内容の長文の意訳テロップが流れ、アニメと金の話は締め。
アニメの製作ははじめは細田守さんに頼んだりしたけれども毎回頼めるわけではない。なので作った。
2011年3月くらいから作り初めて、ここまで6年半で1話完成。3DCG版で完成したものをお蔵入りにしたことも。
オーガニックにゼロからスタジオ立ち上げると土から作らないといけないので時間がかかる。
2話に取り掛かっている。アニメ業界人にも手伝ってもらってる。
スペシャルサンクス的にお世話になったスタッフ・会社の紹介とインタビュー
主要スタッフ
世界観設計のJNTHED
シリーズ構成・脚本 中川大地(PLANETS編集長・彼女募集中)
外部協力
事情で名前は言えないが、昔から憧れていた某アニメーターに1カットだけ描いてもらった
アバンタイトル、人心が荒廃して世界が滅ぶみたいな内容の現代熟語も使った擬古文の世界観設定が、三石琴乃ナレで流れてくるが、
崩壊世界らしくボソボソとした調子なのにSE音量高くてさっぱり頭に入ってこない。年末紙芝居版は文章が文字で出ていた。
本編、普通のアニメ文法に慣れていると主人公の行動・心の動きになかなかついていけない。
天然の主人公、とか鮮明な夢の事に気を取られてぼーっとしている様子を表現しているんだろうが、トゥーマッチで支離滅裂・
意思疎通困難な人間に見える。セリフやアニメの動きが古かったり、1シーンごとに不要なおちゃらけを入れるのもつらい。
で、何がつらいって普通のテレビアニメだと続く話を見ていくことでアホで棒なサーバルちゃんは素直でポジティブで良い子なんだ
って納得できるわけだけれどもこれ次はいつなんだって話ですよ。何度も繰り返される1話、俺の中でピンクは奇人としての地位を
確立しつつある。助けてまどか。
今の自分が何をやってきたのかと言われれば・・国立系現代美術研究機関で仕事をしている。
そこで何の仕事をしているのかと言われれば、ネットで美術作品に関するWebサイトの制作や
システム、サーバ管理作業やベンダー企業と打ち合わせを行いながら、世間に情報を発信している仕事だ。
プログラムこそ書けないが、PremiumPro、AfterEffects、Photosho、Illustrator、Dreamweaverを使いな
がら画像加工や映像制作、写真撮影、簡単コーディングやJavascript、シェルスクリプトをゴリゴリ書いて
仕事している。自分では何でも屋と呼んでいる。これがクリエイティブと言われればどうかはわからないが・・・。
アーティストとかデザイナーが嫌いですと言っていた自分ではあるが、知らない人間がそう言う世界の事を
言うのも失礼だと考え、正社員をやめてデザイナーになるため、まずは安いWeb制作スクールに通ってみた。
短期間だがサイトの作り方とAdobeツールの使い方を教わった。
ところが自分にはWebコーディングやデザイン考え方は理解できたが、デザインセンスや色彩感覚に欠けていた。
スクールへ通った後、派遣会社へ「Web制作がしたい」と登録したが、ポートフォリオを見せた途端にボロクソに言われ、不採用が続いた。
そんな中、あるWeb制作会社で「君、サーバ管理の方がいいかも」と言われてしまったがデザイナーになりたいとしと考えて断った。
その言葉をきっかけに「デザイン能力がないなら」せめてサーバ管理でもと考えて、Linuxスクールに通った
(その間は派遣で時給は安いがWeb制作会社で簡単なコーディング作業と画像修正作業、印刷会社でのDTP業務をして凌いだ)。
Linuxの勉強はすればするほど面白くなり、そちらの知識にのめり込んだ。サーバを学とネットワークの仕組みも知りたくなる。
最後にはネット知識で自作PCを組み上げてLinuxをインストールしてWebサーバとメールサーバを構築した。
ただ、自宅でWebサーバを構築すると言っても外部への公開はリスクが高すぎるので勉強機としてdebian系やredhati系OSなど
をデュアルブートさせたり、HDDでRAIDを組み上げたりして遊んだ。そのうちにレンタルサーバでドメインを取得、CMSで個人
ブログを立ち上げるも自分のポカミスからクラッキングにあいサイバー犯罪課の取り調べを受ける経験もした。
Web制作やデザインの仕事はなかったが、浅いネットワーク知識が幸いしてか、データセンターで映像サーバを扱う仕事に就き、
NagiosやらCisco機器、RAID、VM、セキュリティ知識、IP、デジタル映像知識、映像機器や編集の知識を得ることができた。
映像と言っても映画なのでDCPやKDP、3D映像の知識も会社で二週間研修させられた。仕事によっては夜中の仕事やAKB48ライブ
の収録に立会ったり、キアヌ・リーブスの舞台挨拶で生キアヌと打ち合わせしたりもしながらも、この日記を思い出しながら
それ以降は大企業の子会社でのWeb制作部門で勤務したり、IT資格もいくつか取得した。また途中で大学にも通い、好きだった
美術史や写真史、表現を学び、論文をいくつも書いた。その途中で亡くなった親父がフィルムカメラをくれたので、フィルムカ
メラにハマり出し、父親の形見の中判フィルムで撮影、フィルム現像、プリント額装して、個展までするようになった。
給料こそ高くはないが上記の研究機関で「何でも屋」で仕事をしている。
元々現代アートが幼少期から父親が集めていたアート関連の書籍を読んで、ドナルド・ジャドやフランク・ステラなどのハード
エッジアートに興味があったこと、簡単なシステム保守やサポートができること、フィルム現像や写真撮影ができること、ライ
ティング(照明)ができることが幸いして、作品の保管からシステム、ベンダーとの打ち合わせまでを任される仕事で採用され
ることになった。かなりの倍率だったようだが自分のように多く経験してきた方や知識、現代アートへの興味がある人は少なか
「オリも混ぜてくれよう。
実際には作ったりしないけど見るのは好きだおう
なのになんでオリを混ぜてくれないんだおう
お高く止まっちゃってさ!フン!もうこねぇよ!バーヤバーヤ!!!!
こうは書かれたものの、この気持ちもあって、それを理解するために色々と仕事と制作の仕事をしながら
勉強をしてきた(つもり)だけど、やってよかったと思う。
10年前の自分はデザイナー、アーティストがクリエイターという選民思想を持って「普通の会社員」を見下して
いるという、ルサンチマンに囚われていた。でも、仕事の業種に関わらずどんな仕事だって「創り出す」こと
は必要なのであって、それはどんな職種であっても創意工夫は必要であり皆がクリエイターである。
創り出すことが華やかに見えるのは一部だけであって、世の中にはもっと沢山のものが作り出されている。
たまーにWebのデザインや写真作品を制作することがあっても自分は「デザイナー」や「アーティスト」
とは言わない、それを言ってしまうと自分の創造の可能性を広げられなくなりそうで怖いから。もちろん周囲に
はデザイナー、ライター、アーティストの知人・友人はぐんと増えたが今はそれらの人を僻むことも今はしない。
しかし、あの日記を匿名日記を書けたことは自分の人生における仕事を大きく変えたと思うし、過去に自分が
そういう思いから出発しているから、どんな職業の人でも会う時には、まずは首を垂れて尊敬することか始めている。
それとこの言葉も気にしながら。
「未来に先回りして点と点をつなげることはできない。君たちにできるのは過去を振り返ってつなげることだけなんだ。だから点と点がいつか何らかのかたちでつながると信じなければならない。自分の根性、運命、人生、カルマ、何でもいいから、とにかく信じるのです。歩む道のどこかで点と点がつながると信じれば、自信を持って思うままに生きることができます。たとえ人と違う道を歩んでも、信じることが全てを変えてくれるのです」
勤務時間が恐ろしく短く、勤務はAM10時出社で実質7時間程度。
月収にすると手取りで15万円程度。
それまでは財閥系企業のプロパで社内SEの様なことをしていた。
仕事内容はNW設計、システム管理、ハードウェア更新、SW更新、物品購買、サーバ構築、そのた契約書管理やら。
土日祝日は休み、有給休暇消化率70%、賞与込みで年収600万あたりの仕事をしていた。
しかし、長年働いていると・・
・仕事の内容に興味がなくなったこと。
これにより鬱発症手前になり、最後は病院に通いながらも耐えかねて豆腐のメンタルで辞めてしまった。
しかし、辞めて貯金はあれど仕事をしていないと不安になるし、これで老後まで余裕がある生活が送れるとは思えない。
かと言って今は「プロパとしてのプレッシャー」に耐え切れるほどのメンタル力はない。
たまたまみていた美術館サイトで研究員補佐の欠員募集に応募してみたら受かってしまった。
待遇は業界平均単価と業務量から比べると少し安く、勤務時間も短い。
過去にやっていた仕事と重複する所も多く、写真や映像関連の仕事、HD映像配信システムを社内で構築した経験もあったことや
前職と年収比較するとかなり下がるが、50歳手前までは暫く続けてみてもいいのかも知れない。
それ以降はまだ考えていないが、子供もいないし、今の時代だと年金は70歳過ぎにはなるだろう。
それまでには自分が楽で長く続けられる仕事にありつける様に考えていきたいが・・。
どうなるんだろうなぁ、この先。
*観に行った当日に書いたものです。極力他人の感想等を見ない・聞かない努力をしています。
*とはいうものの記憶は薄れてしまっているので、読まれる方の混乱を防ぐためWikipediaなどのによりあらすじ・登場人物名確認を行った上で投稿されたものです。
*自省的なものです。レビューは他のかたの記事をお当たりください。
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映画を見なくて久しい友達が、ハリーポッターくらいしかまともな(?)映画を見たことのない僕に「観に行かへんか」と誘われ数々の選択肢から導かれて「聲の形」を観に行くことになった。
コミック未読の身としては、予告編の限りでは「普通によさそう」だと思い前向きだったが、相方はヒューマンドラマ的すぎて醒めてしまうのではないか、と消極的。結局後々の話題性(新学期の話のネタ)を考慮した結果がこれだったんですが。
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昼過ぎ集合、東宝の某劇場で別の映画を観るも機材のトラブルでサイレントに。7割は観たけど全額返金で謎のオトク感をかみしめ、軽食をとり松竹にうつる。
スクリーンにつく。若い人が多い印象。ぼくらみたいに男だけで来てる集団もかなり多かったような・・・
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主人公・石田が責任を負う形にはなるが、西宮に対するいやがらせは根本的には植野(黒髪の女子)から始まったように描写されている。
そもそもこの「いやがらせ」から「いじめ」への変遷で最も大きなものは、攻撃人数の増加・攻撃者の集団化だと思う。
集団化とは、ときに思わぬ人を巻き込むこと。川井(クリーム色の髪の女子)は集団化の被害者であり西宮への加害者である。
また、極端な描写とはいえ、教師の配慮の無さも事態をエスカレートさせている印象があった。
加害者追及(石田が全責任を負う)の場面は自分の小学生時代の記憶がフラッシュバックした・・・(加害者ではなかった分とても不愉快な記憶)
どれもこれも、人の未熟さゆえの出来事であり、高校生になった今、未だ未熟でありながらも、子どもたちはあの時の集団性を見返すのです。
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なんといっても、主要人物全員が橋の上で集まるシーンがこの作品の中核をなしていると思う。
広義的ないじめ加害者・観測者はすべてあの人物中にカテゴライズできる、と言っても過言ではないかもしれない。
そしてその一人ひとりに対し「主要な」いじめ加害者・石田が吐き捨てる言葉は的確であり、「こんなやつおるよなあ」と感心したくらい。
永束のキャラ性は決して浮きすぎず、むしろ重くなりがちな展開を緩和してくれてありがたい。
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途中に入れようとしたけど入れられない書きたかったところ。
すぐ「ごめんなさい」と伝える傾向にある西宮に対し、怒りを爆発させる植野の心情。
いじめは攻撃のある場にいるだけで参加しているようなものだ、と思う(陳腐ですが)。これを自覚できずただ流されるままの人間にはなりたくない。
たとえ偽善者と言われようと、嫌悪感を抱いたら行動は起こすほうがいい(身の上のためにも)。
島田(金髪男子・遊園地のバイト)はともかく、広瀬はWikipediaみるまで覚えてなかったんですが、なぜ彼らが石田の命を救ったのか。
・永束の扱い
記憶が正しければ劇場においてはいわゆる「正義の味方」役にとどまっていたはず(Wikipediaに載っているようなバックグラウンドは描写されていない)。ただこの一面だけであっても、実に典型的で現実的ないじめの観測者になっている。
・美也子(将也の母)の人物像
綺麗事を並べているわけでもないが、将也をはじめとした多くの人物に一言で影響を与えるとてもいい役をしている。画面にいるだけで安心する(?)。
劇場では厳格で冷たい人物であるように事故前まで描かれていた。館内で配られたSpecialBookでバックグラウンドが補完されている(ことにあとで気づいた)。
・そして、結弦
・石田・西宮が立ち寄った現代美術的モニュメント群は一体・・・?
はじめは金沢美術館あたりかなあと思ったんですが、舞台である岐阜の大垣市は結構名古屋寄り・・・今度調べなければ。
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全体的な感想としては、久々に映画を観るからか、とても楽しめましたし、精神的収穫もありました。
これが「日本映画の典型的なお涙頂戴」とは違う感慨であってほしい・・・
とりあえず自分の思ってたことはかけたので、他の人のレビューを見ていって補完していきたい所存。
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以下オタク雑感。
アニメをみてたのはほんの一時期だったので全話見て知ってるのは俺妹のあやせたんくらいなのですが(すでにうまい)、某動画サイトで異能バトルなる作品での名演が残されています。5分間しゃべりっぱなし・・・
5月に某人形画像トレパク自称現代美術作家おじさん(性別を意図的に女性と偽っている?)がTwitterで告発されてからしばらくたちました。
検証画像が削除&Googleの検索除外にされたり…のせいか、いまいち拡散性に乏しい。
検証比較動画をみればトレースは火を見るより明かなのだけれど、
そう思わない人も多いようで何だかなあ…。
顔のパーツが一致するのはもとより、ヘアスタイルやヘアリボンまで一致するのに
どんな神がかった奇跡でトレースではないと思うのか。はたはた不思議。
イラストをトレースするより実線が曖昧だからわかり辛いのかなあ…。
この事態を傍観者として眺めていたのですが、この件は本当に炎上しない。
現状Twitterを中心にボヤ程度。
ネットは拡散性が高いと思っていましたが、こんなにも周知が進まないことに驚く。
Google検索しても
「アメリカ合衆国のデジタル ミレニアム著作権法に基づいたクレームに応じ、このページから ● 件の検索結果を除外しました。」
とあって、都合の悪い事はどんどん消して検索除外。3年もたてばなかったことになるのかなあ。
日本の著作権法基準じゃないからどんどん検索除外されていくしかないのか…。
ちなみに本人はほぼ何の説明もしないままTwitterに鍵をかけ、都合の悪い投稿は削除し、一方的に事態の収束宣言。
トレスに関しての疑問質問などはブロック&投稿削除が当初からのデフォですが、現在は個展の準備とグッズの制作にいそしんでいる模様。
数年前から「社会学者」という古市某という人が、若手の論客として幅を利かせているのを、よく見かけるようになった。
「学者」というからには、どんな研究をして、いかなる学術論文を発表されているのかと思ってCiNii Articlesで検索をかけてみたが、
ざっと見る限り、いわゆる総合雑誌とかの記事が多くて、しかるべき査読を経たような学術論文はほとんど発表されてないようだ。
参考までにwikipediaを検索してみると、この人は「大学院生」だとなっていた。
なるほど。
学者というのは、やはり、研究成果を世に問い続けてこその存在であって
既存の知見を上手く組あわせて、ただかみ砕いて説明したり、
ちょっとした思い付きで、複雑な問題を分かったったような気にさせたり、
ちょっと斜めからなんか気の利いたようなことを言って場を盛り上げる人たちとは違うと思う。
古市某のような感じでテレビにでているのだけれど、「○○学者」じゃなくて「○○評論家」という肩書を使っている人たちもいる。
まあ、評論家といえば、どこまで裏付けがあるのかよくわからないけれど面白げなことを放言して「ホンマでっか?」と言わせる人たちだという印象が、
ここ数年でついてしまった感じがあるのだが、個人的には、本当の評論家というのは、たとえば「現代美術が全く分からない人」にたいして、
15分で「現代美術とは何か」説明してくださいといわれたら、とりあえず、「魅力の一端」くらいを伝えてくれて
「なるほど、ちょっと面白そうだな、今度、そういう目で現代美術を見てみようかな?」とか思わせられるような人のことじゃないかと思っている。
「○○漫談の人」というのは、
以前、番組のゲストにきた杉村太蔵に対して、有吉が「アナタ、今、本業はなんなの? 政治漫談の人?」と言っていたのを見て、
「やはりうまいこと言うなあ」と感心して以来、個人的に使っている。
この言葉を使い始めて以来、世の中を見回してみると「脳科学漫談の人」とか、「生物学漫談の人」とか、「国際関係論漫談の人」とか、いろんな漫談の人が活躍していることに気付いた。。
なお、巷には、脳科学をネタに、なにかと「Aha~」と言っている茂木某のことを「アハ芸人」と呼んでいる人もいるが、
お笑い好きの自分としては「芸人」という言葉を安易に使ってほしくないという気持ちがある。
やはり笑いにそれなりに命を懸けている人たちこそが「芸人」なのであって、「アハの人」は、自分の中では「脳科学漫談の人」という棚に整理している。
マスメディアは、「学者」「評論家」「漫談の人」をちゃんと区別してはくれないようなので、したり顔で何かを語っているタレント以外の人を見かけると、
自分の中で「こいつは学者」「こいつは漫談の人」と整理しているのだが、気が付くと「漫談の人」の棚ばかりが溢れんばかりになってしまっている。
「市場で評価される作品が良い作品」が、いまの現代美術の評価軸。
そして「アートマーケットの観点からは、作品の値段はほとんどの場合キャンバスと絵の具代や労働時間などではなく『コンセプト』の値段なのです。」( http://www.amazon.co.jp/dp/4902078171/ p.182)で、村上隆はコンセプトで勝負している。
批判者の批判の一つに「村上隆作品には絶対的な美がない」というのがありそうだけど、そこを問われるゲームを村上隆はしていない。
「あんなのパクりだ」も同様で、作品自体はパクりでもなんでも良くて、そこにどう「コンセプト」を見出すかが重要。
「あんなのパクりだ」論法でいくんなら、デュシャンの便器はどう解釈するのか?
「美術とは綺麗な絵のこと。それがない美術館はおかしい。だから21世紀美術館は駄目」という考え方と、「アートとは絶対的な美のこと。それがない作品はおかしい。だから村上隆は駄目」という考え方が似てると思いました。
当時はそれが珍しいものであったというだけで,古い作品の内容自体は昔から珍しいものではない.作品が批判的であるというただその観点からのみ現代美術として認められただけのことである.また,数ある似た作品も内容がタブーであったことから一部の人間にしか知られず,問題の作品の支援者や作者を含めた多くの人々はこれが批判的で新しいと”非常に稚拙ながら”感じたにすぎない.実際,作品の作成された時代を考えればインターネットすらないのだから,作者があれをアイデンティティだと感じたのはまだ納得がいける.(支援者はこの現代においてそんなことも知らない頭の悪い人間としかいえないが) 作者を含めた支援者がおり,しかもそれが森美術館や評論家などの世間一般から言えばアートに詳しい人間であるということは,どちらかといえば現代美術をとりまく頭の悪い人々を露呈させたといえる.現代アートというのは,作品が1つ以上あれば事足りるものである.少なくとも他者がいくらでも想像しているものであっては意味がない.同じようなものがごろごろあるようなものは,社会に対して批判的なものとして捉えることはできないからだ.しかし,今回は内容の特殊性から,類似品が多くあるにもかかわらず知られなかったため,このような問題が起きてしまった.私は森美術館を含めた支援者が社会的に叩きのめされないのは納得がいかないが,狭い世界で遊んでいる彼らを自戒させるのは容易ではないだろうし,放っておいても社会に危害を加えるわけでもなく彼らがバカのままというだけだから,しょうがないだろう.
アングレーム国際漫画祭で、日本作品がノミネートされているという情報と、ALL JAPANを称する団体がしめだされたという報道
http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20140131/1391188038
アングレーム国際漫画祭開催を伝える在日フランス大使館のFacebookに、非難コメントが殺到している
http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20140201/1391315218
アングレーム国際漫画祭の情報を落穂ひろい
要するに、「ジャップの愚民どもはボクたちの偏った主義主張に従え!韓日友好!」って言いたいのかな?
別にキチガイカルト大川隆法一派の肩を持つつもりはないが、芸術に政治的主張はいらないというのが一般社会の見解だとするならば、論破プロジェクトだけじゃなくて韓国の慰安婦漫画も撤去されて然るべきなんじゃないの?
現代美術においては、社会との関わりを表現しない・社会性を持たない作品が普通に大半を占めると思うけど。もしかして、社交性を持たず一日中家に引きこもってアニメ・漫画に没頭している法華狼クンはプロレタリア文学以外は文学作品じゃないとか思ってるタイプ?
つーか、メッセージというのは作品を通して表現するもので、直接アジビラを貼るのはアウトでしょ。芸術家なら訴えたいことは芸術作品で訴えろカス。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/39905
偽ベートーベン事件の論評は間違いだらけ
この記事のブコメは割と現代音楽の高尚な作曲家様が商業及び無知な人たちを見下してるのウゼェという感じが多く見受けられて、そういえば日本の音楽の授業とかだと現代音楽についてってあんまり触れてなくてなんとなくそういうのが原因な気もした。
そこで日本の現代音楽界とか教育をDisるのもいいんだが手っ取り早い方法としてここに現代音楽の超大雑把な歴史を書こうと思う。
大まかさ重視だし自分もかじった程度なので細かいところは気にしないでくれい。その上でこれはさすがに語弊があるとか難しくてわかんねーよってとこはフォローお願いします。
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まず、本当におおまかな2大ジャンルして「無調」と「偶然性」がある。前者が先で後者が後の時代。
まずショパンとかがいたロマン派とかの時代の後半から調性音楽をどんどん複雑にしていって和音とかもそれまでは不協和音とされていたものも許容されていくようになる流れがあって(ちなみに中世ぐらいはドとミは不協和とされてたのよ)、そのうち「無調」を目指すようになる。
一番有名なのがシェーンベルクって人で、この人は「既存の技法にとらわれてちゃ新しいもんなんて出来ないぜ!」ってことで「12音技法」ってのを作った。
これは何かってうと、まず1オクターブの12音を自由な順番に並べて、「そのまま並べる」「逆から並べる」「最初の音を中心に上下逆さまにする」「上下逆を逆から並べる」っていう4種類の音列を作る。
で、この4種の音列だけで曲を作るってものなんだ。順番があってれば始めの音はどの音程でもいいし、同じ音名ならオクターブが入れ替わっても良い。リズムについては特に指定はない。
それから時系列的に順番だけじゃなくて和音の上から順に1,2,3番目みたいなのも有り。これ以外は何でも許される。ただ音の並べ方によっては調性があるものも出てくるのでそれは使わないようにしてたみたい。
つまりはルールを最低限にすることで既成概念にとらわれない曲ができたわけだ。ある意味これは「言い訳」的でも有り「どんなものが音楽的か?」は作曲家自身に委ねられる。
でもそれじゃ和音の取り方とか特にリズムの作り方とかは今までの概念とか染み付いてきたものからは抜けだせないんじゃない?と思う人もいるんじゃないかと。
シェーンベルクの弟子たちがそう考えて、より主観性を排除する方向に向かうわけです。
どうするかというと、音列1〜12番までにそれぞれ強弱や、音の長さとかを割り当てていく。「総音列技法」とか「セリエリズム」とか呼ばれたりする。
どう考えてもめちゃくちゃなリズムだろこれ、みたいなのがこういうのだったりする。メシアンの「音価と強度のモード」とか。
そうするとどうなっていくかというと段々作曲者が考える必要性がなくなっていく。
同時にこの頃コンピュータとか電子楽器が出てきまして(まだ研究所とかしか持てないレベルだけど)、ある程度のアルゴリズムを決めたらあとは技術者に任せて音を作ってもらえば良くなってしまう、ということになってくる。
(実はこの辺の技術開発がシンセサイザーや録音技術の向上にもつながって、今日の我々の聞く商業音楽の礎(踏み台かな?)になっているというのは多分事実で案外重要なポイントだと個人的には思ってるよ。)
でも当然こんな流れを続ければみんなおんなじように一聴意味不明なものばっかり出来上がって行き詰まってくるのはだれでも予想がつくことで。
ここまでが「無調」。
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そんな中登場したのがみんな大好きジョン・ケージ。
彼がやったことをざっくり言うと「お前ら既成概念から外れた音楽作ろうとしてたのに何そんな頭固いことやってんの?もっと音楽って自由だろ?」みたいな感じで
サイコロで演奏順がその時々によって変わるとか、人によって解釈の異なる五線譜以外の楽譜とか(これはケージが最初ではないけど)、果てには皆さんご存知「4分33秒」が出てくる。
ちなみに4分33秒が有名ですけど実はその後に「0分00秒」っていうのも作ってて、演奏しなくていいどころか始まらないし終わりもしない、存在はあるけど存在しないみたいな不思議なことになってしまうわけだ。
このへんはそりゃあもう革新的だったんですが当然、さっきのよりも深刻な袋小路に入り込んでしまったわけです。
このへんは現代美術もおんなじような流れがあるけど「やれることやり尽くしちゃった」です。だって音楽なのに音楽が存在しなくてもいいんだよ。
さあ、この後どうします?っていうのが現代音楽の現状と言っていいんじゃないかと。(当然皆この後もいろんな取り組みはしてるし、このへんの見解は分かれるとは思うけど。)
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ちなみにあんまり触れなかったものとしては未来派、スペクトル楽派、ミュージック・コンクレートとかがあるんで興味があればググってみてね。
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以上を踏まえた上でイトケンさんの記事に対する個人的な思いとしては
調性音楽を作るのは現代音楽を作っていくより圧倒的に楽だ、っていうのは現代音楽の道に入る人らはみんなまず調性音楽から勉強していって、その上でないと現代音楽が作れないってことだと思う。歴史の積み重ねつながりを知らんと無理だし、調性音楽の仕組みも理解してないと無理。
ただ調性感のある音楽は大したことがないからと著作権を放棄する作曲家ばかりなのかは自分は作曲家ではないしよくわからんが、上の流れで見たように、もはや調性感があるかないかなんて昨今じゃどうでもよくなってるんじゃないかということがあるのでそれはどうなの、と思う所あり。
あとブコメでも多分触れてたと思うけどあまちゃんのテーマを作った大友良英さんはおそらく一般大衆には理解され難いノイズミュージックをバリバリやってた人です。
そういう人がなんであまちゃんテーマのような超親しみやすい曲を作るのか?ということは結構考えて行くと興味深いのではないかと思うが、自分の考えはまとまってないのでやめとく。