はてなキーワード: 滑り込みとは
あ~わたしぃ~の恋は南の風に乗って走るわ~
元ネタ知らないけど、
アムロ行きますって言いたくなっちゃう感じのアムロジェットなのよ。
あのさ、
冷やしざるパスタ!
何とか間に合ったわ。
まあお店の人は閉店間際滑り込んできて迷惑だろうけど
もう片付け始めちゃったんだよねーと言わんばかりの形相だったけど。
背に腹は海川だわ!
ごめんね!
急いで食べてけど満たされるわ~。
お腹が減ってたら軍が出来ない!
うふふ。
釜上げシラスがあったので
それでいただいたわ。
上げたてシラスって美味しいのよねぇ。
めーだーかーの学校は~
そうそうそっと泳いでみてごらん~って
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
支離滅裂な文章になってしまっているので訳が分からないかもしれない。ただただ、僕の状況を思い出しながら書き連ねただけの文章。
まず、僕の状況から説明する。某都道府県のトップレベルの進学校に通っている地方国立大理系志望の受験生。判定はセンターで無事爆死して、出願大の二次試験で満点かそれ以上の点を取ってやっとボーダーに乗るか乗らないかのところ。なお、私立大はMARCHを受験はしたけれど受かっても行けない。親が行かせてくれない。現役ではダメ、と言われたため国立に受からなければ浪人。早慶ならいいと言われたが残念ながらそのレベルには達せなかったため受験をしていない。
こんな所に書き込みなんてしてないで、最後の最後まで諦めるな、って言われても残念ながら、この状況でいけると思えるほど強靱な意思を持ち合わせていない。
どう言っても敗者の言い訳にしかならないから気にせず言うが根本的に高校選びから間違えたと思っている。
親、周囲の「できる限りレベルの高いところに行きなさい」という言葉の言いなりにしかなれなかった自分が悪い。自己分析が不十分で、頭のいいやつがいっぱい集まればその中での序列が更にできる、ということに気づけなかった自分がただ悪い。
僕は一小一中の地元の学校に通って成績でトップに位置していた。先取りをして進める勉強は楽しかった。トップに居れることの快感からだと高校に入学して気づいた。
高校の内容を学習し始めてからは進度が遅くなって中学卒業の時点での進度はぎりぎり高校二年の内容に入るか入らないかくらいだった。先取り学習の進度が実際の学年に追いついてしまった事が少し怖かった。
高校で様々なテキストを渡されて気づいた。常に渡された教材を解き続けることで勉強していた僕は一学年分の教材を渡されてどこから手をつければいいか見当がつかなかった。
今思えば、そんなの最初から片していけばいい、ということくらいすぐに思い至る。でも、当時の自分は通学時間も、周りにいるメンバーも大きく変わった状況で混乱していたのだと思う。
そして、高校にぎりぎり、滑り込みで入学した自分は多分周囲から1歩か2歩出遅れていた。そこで勉強を始められていたら今が違っていたかもしれない。
僕はどうしたらいいか分からなくなって勉強をやめた。やめたと言うよりはしなくなった、が正しいかもしれない。表現はともかく勉強時間はゼロに等しくなった。
勉強時間が無くなった僕と初めから少しリードしていて少しでも勉強時間を確保した同級生。格差なんて一気に広がった。
模試の全国偏差値が初め65あったものが2年の夏には30まで落ちた。校内偏差値なんて気にするものではないと言うけれど、数字があるのなら気にしてしまう。
トップであることが勉強のモチベーションになっていたような人間にこの状態から受験勉強を普通に始められる、と思う方が失礼だがどうかしていると思う。
偏差値が最低を記録した2年の夏頃から鬱の様な症状などの心の方の不調が出た。特に親にも言わず、言えず、病院にも行かなかったから断言はできないが鬱だったと思うし、自律神経もおかしくなっていたと思う。2年の夏休み明けから学年が変わるまでは、大体保健室にいた。
3年に無事進級してからは受験が迫ってきたこともあって荒療治に出た。自分を勉強せざるを得ない状況に置いた。塾の授業の出席状況は親に筒抜けだったし、塾の希望制の特訓に参加したりもした。
はじめの頃は机に向かうだけで吐き気頭痛腹痛のオンパレードだった僕も調子に波がありつつも、休憩を挟みながらも一日机に向かえるようになった。
ちょっとやれば成績は上がる。その通りだった。V字回復とまでは行かなくとも『へ』の字をひっくり返したくらいの傾きで成績は上がった。模試の全国偏差値が55になるくらいまではすぐだった。秋以降になると伸び悩んだがまだモチベーションがあった。
冬になってセンターが終わった。数学で序盤にミスを連発したため数学だけで約80点を落とした。この時点で出願した大学に受かるのは絶望的になった。
僕は、進学と浪人、どちらでも選べるようにしたいと出願大のレベルを下げる事を親に提案した。親は僕の提案を認めて次の日学校で先生に候補の大学を出して貰いなさい、ということを言った。
次の日、先生と面談して幾つか候補の国公立大学を出してもらって親に見せた。そこで、意訳するとこう言われた。
意訳ではある。もしかしたら違うことを意図して言葉を発したのかもしれない。でも、受け取る側の僕はこう受け取った。びっくりした。同時に今年度の試験に対するモチベーションがゼロになった。
昨日と言っていることが違う。訳が分からなくなって僕はその日の話し合いを打ち切りにしてふて寝した。もしかしたらその場で真意を問うて意思疎通を図るべきだったのかもしれない。そうは言っても、センターが思わぬ結果に終わってショックを少なからず受けた受験生がそんなに冷静でいられるか。否である。
自分の事は、他の誰よりも自分が分かる。僕は勉強の事で大きなスランプに陥ったから、そしてまだ完全に回復したわけではなくて状態に波があるから、どちらの選択肢も用意したくて提案をした。僕にだって無駄に高くはあるがプライドのようなものもある。出来ることならできるだけ上位の大学に進みたい。でも、心身の状態がそれを許さないことも起こり得る。最悪の事態にならないためにも避難先を用意したかった。
出願を行ったのも自身であったから勝手に出願先を変えることもできた。しかし、しなかった。できなかったのかもしれない。そんな親の言いなりになっている僕が悪いと言われるのならそうなのであろう。
親は自身の体験から僕に苦労して欲しくないと思って様々な事を言ってくれている。そのことには感謝しているし、言う通りにすれば一般に言われるような幸せが訪れるのかもしれない。
でもその途上で僕の人生が絶たれたら?親が辿った時代と現代は事情が変わっていたりもする。親は親で、僕は僕だ。その先にあるものが万が一にも僕の幸せでなかったら?全てとはいわなくとも多くのモノが無に帰すのではないか。
僕はリスクを減らしたかった。ぎりぎりまで行きそうになったことがあるから分かる。もし、もう一度心が壊れたら多分ダメ。理系だから院にまで進学もするつもりでいる。大学と別の院に進もうと思えばそれもできる。そういう選択肢も教えてもらった。先延ばしにして猶予が欲しかった。自分の体制を整える猶予が。
残念ながらその機会は失われた。僕には、高い確率でもう一年死にそうになりながらやる道しかない。もう腹は括った。やるからには自分が許す限りやってやろう。
書いてみるとこうすれば良かったのではないか、というのが出てくる。でもそれは客観的に見た最善策であって当時の選べる最善策ではなかった。勉強の悩みなんて親に話せるはずもなかった。もし、話せたのなら理解もされただろう。日本語は通じるはずである。しかし、そんな事を許すような親ではないと思っている。僕から見るとそう見える。
他の人から見れば何をやっているんだ、と言われそうだが僕がその時に尽くせるベストを尽くした結果である。
内容が飛躍するが、親への不満、入試の仕組みへの不満、何より自分への不満がとにかくある。
もちろん、親に関しては自分へ金銭、時間の投資をしてくれた事への感謝もある。けれどもいつかは不満を、一覧にしたものを、突きつけたい。突きつけられるようになりたい。自分の意見をきちんと突きつけられるようになりたい。
出る杭は打たれるような所ではあるが打たれてなお出ていよう。自己で決定ができるようになろう。
かなり長い文章になってしまったから、最後まで読んでくれた方はいないかもしれない。もし、ここまで見た方が、この文を読まれたのであるならば感謝を伝えます。ありがとうございます。
ついさっきスーパーまで行ってどさっと1箱、ストロングゼロの500mlの24本入りを買ってきた。
これを来月8日までに飲み干すわけだから、ざっと計算して1日2缶、1,000mlは呑むことになる。
みたいな。
さて、酒は中1から飲み始めたと昨日書いたけれど、今日はそのことについて振り返ってみようと思う。
あー、でも、まだ酔いが足りないかもしれない。
今手に持っているストロングゼロをまず一缶空けてから、キーボードを叩くことにしましょう。
……。
呑み干した。てことで、もう一缶。
にしても不味いな、ストロングゼロ!
ちなみに葡萄ダブルを今呑んでいるが、安いウォッカ特有の、あのザ・アルコールな苦味がなんとも言えない。それを無理やりぶどうの香料で消した感じも、うん、なんとも!
なーんて悪態を吐きつつ、でも、人生で一番飲み干した酒缶は間違いなくストロングゼロの自分である。
手元に酒がないとき、とりあえず手軽に安くて簡単に酩酊するにはこれは最適すぎるのだ。
500mlのストロングゼロをぐいぐいと呑みつつ、〆には鬼ころし。あとはタール11mgの重めのラッキーストライクなんかの煙草もつまみにして。
そうすればほら、たったの300円程度で酔っ払いの出来上がりだ。
300円の処方箋。
高校時代から続く、いつまでも煮えたぎっている自己嫌悪だって、とりあえず思考の端には追いやれる。
延々と続く毒にしかならない退屈な時間を、この瞬間だけは確かに、こいつらは薬になって埋めてくれるのだ。
……なんの話をしたいんだっけ? ああ、思い出した。
んー、じゃあ。さて、振り返ってみるとするけれど。
ええと、自分が初めて酒を飲んだのは中学一年の冬……7年前のことになる。
ちょうど7年前。
2010年12月23日のことだ。日付だってちゃんと覚えている。
その日は友達の家でクリスマスパーティーだった。メンバーは曖昧だけれど、六人程度。全員、小学校からの幼馴染だ。そいつらとは今でも仲は良い。
酒を持ってきたのは吉田くんだった。
吉田くんはこの小学校メンバーの中では一番アウトローな存在で、不良を嫌いつつ、行動は不良そのものみたいなやつだった。2010年の当時は、脱法ハーブなんかがまだギリギリ滑り込みで出来ていた時代で、吉田くんはドラッグやアルコールなんかの知識を中学1年生ながら無駄に溜め込んでいた。そんな吉田くんを僕は若干尊敬さえしていた。
彼の存在は、部活も何もない暇な中学生であるぼくにとって、ある意味の「非日常」だったのだ。
わんやわんやと騒ぎ立てて、お菓子やジュースなんかにそろそろみんなが飽きてきたころ、吉田くんは青色の水筒を得意げにカバンから取り出して、
ひとこと。
「酒、持ってきた」
と言った。
――たぶん、そのとき一番その言葉に興奮していたのは自分だったと思う。
吉田くんが飲むやつは、とみんなに訊ねて、ぼくは「飲む! 飲む!」と目を輝かせて挙手した記憶がある。
そうしてにやっと笑った吉田くんは、ぼくのグラスに水筒に入った酒を注いでくれた。
茶色の液体。あとになって知ったことだけれど、ブランデーと呼ばれる種類のものだった。
ぼくは余っていた三ツ矢サイダーでそれを割って、ごくっと勢いよくグラスを呷ってみた。
甘い。
なんか、ケーキのにおいに似てる。
それが生まれて初めてのお酒の感想。当時中学一年生のぼくが抱いたお酒への感想だった。
それからお酒はこのクリパのメンバー中で黙認化されて、新年、進級、七夕、ハロウィン、そういう行事を口実にしては酒を呑む日常が始まった。
それはたぶん今もおんなじで、お酒の味が良いからだとか、そんな理由で呑みたいと思ったことは一度もない。
これに尽きた。
たぶん、LSDだとか、大麻だとか、そういうものの代替え品として使っていたのだ、当時の自分たちは。
こうして中学一年生にしてぼくは、暇な日常からそこそこ楽しく脱するためのツールを知ってしまった。
ただそれだけ。
自分が酒を飲み始めたのは、こんな経緯。
ある意味では健全だった当時の酒の飲み方は、高校に入ってから一変し始めるわけだけれど、それは明日書いてみようと思う。
あー、ほんと、ストロングゼロは不味いなあ。でも酔いが足りない。
だからもう1缶追加しようと思う。
例えばAとBの2つを比べるとき、Aを推したいと理由からBの劣っている点ばかりを列挙するやつがいる。
そんなことしたらBを推したい人間が怒るに決まっているのにそれが理解できていない。
でも今回怒らせたのは平社員じゃなくて社長だったのは残念でした。
それ、僕の提案だと思った?バーカ。今まで散々に追い込まれた社員たちの恨みを思い知れ。
これまで幾度なく「優れた点で比較しましょう」って言い続けてきましたよね。
それを偉そうにあげつらって、自分は会社守ってますみたいな顔するのが本当に許せなかった。
リスク把握して、その上で行動して責任カバーしてやるのが上司の務めだろうが。
そんなこともわからないで本当に今までよくそんなポジションに居続けられましたね。
会社の損害計り知れないっすよ。まじで。
新しいところで自分の無能を思い知って、静かに去ってくれることを願います。
あー!ぎりぎり滑り込みでめちゃくちゃいい年になった!
胎嚢がない。
26日に産婦人科にいった。
最終月経からすると6w2d。排卵検査薬の反応が出てからだと5w4d。
地元では人気の産婦人科。予約した時間からしばらく経って診察が始まった。
胎嚢が見えない。子宮外妊娠や稽留流産の可能性もあるかも。詳しくは別室で。と
他の妊婦の分娩がはじまったようで、そちらに行ったらしい。
看護師がとりあえず次回の予約を…と状況を飲み込めぬまま10/13の予約を取った。
そのまま会計を済ませ、ぽつぽつ歩いてスーパーに寄り、家に帰った。
つわりはほんの二日ほど。妊娠したという自覚もあまりないので、なんだか拍子抜け。
虚無感というか心が凪いでいる。
誕生日プレゼントもレア鯖もいらないから、お腹の中の人が生きていますように。
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ほかの家庭は知らないけど、うちはだめだったね>時間
暇な時間がないわけじゃないんだが、家事とか子供の風呂入れの合間とかの10分~20分ほど休める時間が細切れにある感じ。でもそんな短時間じゃ読める本なんて軽く読める新書くらいだし、映画なんて2時間くらいがっつり時間作らないと見れない。
今年はスターウォーズの新作は運よく年末に仕事が速く終わって滑り込みで見れたけど(至福)、「シンゴジラ」は結局劇場で見れなかったし、「君の名は」は移動中の飛行機の中であったから見ようと思ったけど始まって20分くらいで息子二人がアンパンマンの歌を合唱し始めたのでそこで打ち切って後は見てない。そんなんばっかよ。。。「アイアムアヒーロー」とか「何者」とか見たかったなー。マーベルシリーズもあれだけすきだったのに「アベンジャーズ」を最後に完全に見る機会失ったわ。
代わりといっちゃあれだが「となりのトトロ」と「カーズ」、「トイストーリー」シリーズはこの2,3年でもう100回以上は見てる気がする。「トトロ」にいたっては150回はいってるかも。。。一時期家に帰ったら毎晩テレビでトトロ流れててデジャブ感すごかったわ。
・初見
・面白くなくはなかったけど、正直そこまでのものでもなかったなあと思った
・すげーセリフ多いな
・何回もNG出たのかな
・でも同じ場面をいろんな角度からいっぱいとったってのはインタビューでみたな
・それにしてもなんかみんな演技下手だなあ
・石原さとみどころかそれ以外は日本語レベルの演技が下手じゃん
・一般人の声は一般人だからしょうがないけどあまりにも棒すぎてひどかった
・東京ぶっこわしていくところ見てると、「ああこれは庵野が、中二病でよくある『今教室にテロリストが急に入ってきたらどうするかな』っていう妄想をゴジラでやってるんだな」という感じがした
・第二から第三になるところがめっちゃ巨神兵の歯?口?っぽくて、これは庵野なりのナウシカなのかもと思った
・第二形態?まんまるの目が出て来る形態。あれ最初生理的にキモいと思ったけど、しばらく見てたら逆にかわいく見えてきた
・2時間あっという間だった
・ゴジラに自衛隊のしょぼいように見えちゃう攻撃があたってるシーン、ガリバー旅行記を彷彿とさせた
・人間が蚊に刺されるような感じだったんだろうなあ
・初代ゴジラを数ヶ月前に見た後だと、ゴジラがせめてきた後の瓦礫の現場検証的なとことか、戦車とか、ほほうオマージュしてるなあと面白く感じることができた
・最後のあの演説は若者にむけてのメッセージでもあるのかなあとか陳腐な感想持った
・それにしても2時間の尺ぎりぎりだったなあ
・映画終わった後物販にガチャガチャがあってシンゴジラのもあったけど、第一~4形態のガチャじゃなくて昭和ゴジラ、平成ゴジラ、今回のゴジラの3パターンのフィギュアで、びみょーと思ってしまった
花粉症持ちの私はこの時期からヨーグルトを食べるようにしている。
乳酸菌がアレルギーを抑えると聞いたからだ。事実、私の体質には効果があるようだ。
さて出勤だ。しかし少し歩いたらお腹が痛くなってきた。朝から冷たいもの食べるもんじゃないな。
スカシっ屁をすれば治まるか、、いいや、こりゃウンチの方だな。近くのコンビにまで間に合うか、、冒険は止めよう。
近所を一周して家に戻ってきた。カバンから鍵を出す、一緒にUSBメモリーも出て道路に落としてしまう。
USBメモリー無くした日には情報ダダ漏れで人生詰んでしまう。何でこんな時に、、
玄関を入ったときには臨界だった。このとき「汁」が少し出た。汁くらいならケツ拭いてパンツを変えれば済む。
この際、土足で上がる、靴脱いでる場合じゃない。
滑り込みセーフ、ゲリゲリゲリピー、、と思ったらゲリ便の半分は便座に出てた。
半べそ泣きながらシャワーでケツを流して、「へー温水便座でも分解できるようなってんだー」と妙に関心しながら便座の便を拭く。続きは帰ってからやろう。
朝から自分のウンコこねて、遅刻かよとか気が重いまま歩き始めると、途中でうずくまって倒れている人がいて、周りに「大丈夫ですか?」とかやってるじゃないか
「あー もしもし?人が道に倒れていてね、人を呼んでたりして少し遅れま・・・」
ではメリークリスマス
どなた様も良い年をお迎えください
こないだ30になった
そして世間ではそれ(20代のうちに出産)は望ましいことのように考える人は多い
出会ってすぐ付き合うのもなんなので付き合うまで1年
付き合ってすぐ結婚というのもなんなので3年付き合う
この時点で27歳
5年もかけるなんて悠長すぎると思うかもしれないが
そうなるなら相手は慎重に見極めるべきだ
で、まあ結婚式やらなんやらの準備で半年、いざ子作りするかとなってもすぐ出来るとは限らないので半年
ここで29歳
余裕は1年しかない
出会って付き合って2年たったころに破局なんてことになったらそれだけで4年無駄になる
20歳なりたての学生でそんな不確定な10年先まで考えて行動している奴なんているだろうか
いるのだ
就職活動と同じだ
(余程の強運か才能に恵まれていない限り)希望の内定を得られる人間は3年生以前から動いていた奴だ
ある者は結婚相手に目星をつけ、ある者は経験を積み結婚相手を見極める力をつけている
人生50年と言われた時代ならもう折り返し、何もすること無く連休が終わるので振り返る。古い記憶は思い出すのが難しく、新しい記憶ほど濃く出てしまうのは仕方ない。
進研ゼミをやってたこともあり勉強はそれなりに、いやそもそも小学校の範囲なんて普通に聞いてればどうにかなるだろうと。
運動は苦手というか嫌いで部活はインドア系、今で言う程の虐めは無かったがからかわれたりされるキャラ。同じ目立たな系グループや、全方位社交的タイプの人や、辛うじてまだ友人と呼べる人がいた。
この頃、パソコン(PC-9821)を買って貰った。もちろん建前は一家共用のもの、だけど実際に使うのはほぼ自分だった(PC-98というところかしてお察しください)。
当時のパソコン通信もやるようになり、「馬鹿(なことを言う奴)は叩かれる」という現代に通ずる教訓を得ることができた。
そして勉強。生来のズボラさ、真面目系クズの因子があるとこの辺で勉強に付いていけなくなる。当然、落ち零れ始めると進研ゼミはテキストも開かない、課題提出もしないまま高3まで継続することになる。
この頃、一人だけ自分に対して話しかけてくれる女の子がいた。「○○って好きな人とかいるの?どんな人?だれだれ?」と妙に絡んできたり、将来はパソコン使う仕事がしてみたいとか話したら、教室の班内で日記的なものを順に書き教師に提出するノートで(明らかにそんな興味はなさそうなのに)「パソコンの仕事がしてみたい」と書いたり、それなんてエロゲ的な知識からするとフラグと思えなくも無いが目に見えないフラグなんて何の意味も無いし気付くわけが無い。しかし今でも夢に見ることがある。お陰で、上述したエピソードどころかその存在すらも夢の中で自分が妄想したものではないかとすら疑い始めている。
この辺りから、顔を知っているという程度の知人はいても友人というほど親しい存在がいなくなっていた。放課後に誰かと遊びに行くこともなく、パソコンにかまけていたんだと思う。
中学時代の女の子は帰り道が一緒になったときに声を掛けてくれたりたまに話してくれたりもしたが、いつしかそれも無くなり、逆に自分が無意識に目で追っていることに後で気付いた。
大学受験は散々だった。理系なのに数学の内容が全く理解できない時点で終わってる。結局、3月過ぎの最終日程で、得意な現国一教科受験が可能なFラン大学の新設情報系学部へ滑り込みを果たした。
(高い)金さえ出せばアホでも行けるという周囲の評判通り、他学部ではチャラそうな男女が目に付いたが、一日自由に誰の目を気にすることも無く快適なパソコンとネットが使えるというのは大変に魅力的で暇さえあれば通い、家では新作エロゲをひたすらプレーしていた。
ゼミのメンバは(イベント毎があれば何かしたがるリア充的な彼ら特有のノリで)大変に気さくで飲みに行くこともあったが、それ以外の場ではやはり話す人も無く、遊びに行く友人も無く、淡々と3年で必修単位を取ることに徹した。卒業1年後、ゼミの同窓会的な催しの連絡があり行ったが、その後は音信不通となった。
氷河期と呼ばれる時代は辛い。私はこの時点まで使う必要がないことから携帯電話を持っていなかったが、さすがに差し障りが大きいということで親名義のものを譲って貰った。
就活は自己分析に始まり自己否定に終わる。誰もが思ってもいない建前を並べ、何処でも良いから内定を寄越せという本音を隠そうとするがそれでも否定され、自分が社会に不必要な存在であると言うことを実感させられる。
「性格分析の結果だと、凄く明るくて社交的なのに全然違うね?」と宣うぐらいなら、性格検査なんていうアホな試験をさせるべきでは無い。何処の世界に就活で、自分は暗くて内向的なコミュ障ですとアピールする奴がいるというのだ。
「凄く優秀そうなのに、どうしてまだ未内定なのか不思議です」、その理由はすぐ横にいる人事に聞けばいい(これを言われた面接で落とされた)。
しかし50、60、と面接の回数を重ねると利点が一つだけ有る。心身が疲弊しきって、面接程度ではもはや緊張を覚えなくなるのだ。相手も本気で新卒に何かを求めているわけじゃない、地雷かどうかを見極めているだけだ。グループ面接で聞き飽きた他人のエピソード第一位は「サークル or バイトのリーダーとしてイベント or 仕事を成功させた」だが、横で聞いてる自分ですらまたかよと思うのに採用担当者ともなればもうやめてくれと思うんじゃ無かろうか。
そんな無我の境地が奏功したのか、一社だけ内定を得ることができた。自分のやりたかったこと(開発)とは微妙に異なるがIT系ではあるので運が良かった。
アキバをオタクの聖地だなんて今でも言うのか知らんが、半導体からアニメまで界隈に集い、ここに慣れてしまうと他が物足りなくショボく見えてしまうのは仕方ないことだと思う。毎週通うために回数券で切符を買っていた。
仕事の方は、残業70~90H/月程度だったがこの頃は羽振りがまだ良く残業時間にうるさくは無かった。むしろ残業代の形で還元されることもあり、周囲含めて生活残業が多かったのだと思う。
しかしそんな給与は1円も貯金すること無く、エロゲやアニメDVD、同人誌、マンガ、CDへと消えていった。
社会人何年目かで、アキバで出会ってしまったのがいわゆるドールだった。フィギュア的な造形でありながら、フィギュア以上の表現力を持ったそれにすっかり魅せられてしまった。
ドールは大量生産に向かないためか通常に買う場合でも一体6~10万、過去の人気ドールともなるとヤフオクで20万、30万、もしくはそれ以上という異常な価格となる。しかし買えない価格では無い。そう、社会人にとっては多少無理をすれば大抵のものは買えてしまう。
ある時、どうしても欲しいドールがあり、初めてキャッシュカードに付属したキャッシング枠を使った。そしてクレジットカードと同じように後日それを返すだけ。
人間の感覚というのは本当に恐ろしいもので、一度味をしめると慣れが生じる。経験が油断を生み、警戒心を歪ませる。
間が悪いことにこの頃、親会社への出向が解除となり入社以来縁がなかった自社に戻ることになった。子会社にとって残業時間管理は死活問題、定時を過ぎて用が無ければ帰れとしつこく言われ、何年かぶりに明るい時間の帰宅をした時は戸惑うしか無かった。
残業時間が減れば残業代が減る。残業代が減れば収入が減る。収入が減れば欲しいものが買えなくなる。ここで話は戻り、足りないなら借りるしかないということになる。
最初のキャッシュカードの使用枠はいつの間にかなくなり、別の消費者金融のカードを作っていた。最初は50万だけだったのが、100万、200万となり、気付けば借金は3社で計400万近くなっていた。
消費者金融における総量規制により年収の1/3以上を借りられなくなるという話を聞いたとき、ようやく現状を省みることができた(総量規制に便乗した、いわゆるおまとめローンの案内が来た)。
多分、一種の買い物依存症だったのだろうと思う。買うという行為自体に満足感を覚え、DVDやマンガなどは買ったときのレジ袋のまま部屋に放置していたというのがその証拠だろう。酒や煙草は全く嗜まないこともあり、溜め込んだストレスを知らず知らずのうちに買い物という方法でしか解消できなくなってしまっていた。
この400万近い借金の返済には6年を要した。途中、1円単位で小金を集めて用意することもあったが一度の遅延もなく(信用情報上、大きな借金がある時点で不利なのにさらに遅延があると極めて不利になるので絶対に避けたかった。また、大きな借金があっても遅延無く支払っているのであれば継続的に安定した収入があると見做される)、むしろ終盤には収入が増えて余裕ができたこともあり予定より三ヶ月ほど早く完済が叶った。
あれほど金が無い、金が無いと言っていたのに今では200万程の残高がある。しかし三十路を過ぎた男が200万しか貯金が無いというのは余りに情けない。
しかも20代の頃はただ闇雲に浪費を重ね、何かを極めたわけでも、引き換えに何か誇れるものを得たわけでも無い。そして30代の前半は今月分を返済したら幾ら残るかを考えるだけで過ぎてしまった。
社会人になってから自名義で契約した携帯電話としてiPhoneを持っているが、その番号を知る知人、友人、家族はいない。掛ける相手もいないので履歴は全てセールスの着信で、発信履歴はない。
一度、中学校の同窓会案内が転送されてきたことがある。当時はそれどころではなかったのと、中学時代の同級生に特に思い入れも無かったこともあり返信すらしていなかったが、引越の時にその案内書がでてきた。よくよく見ると同窓会の告知するwebサイトの案内があり、ふとした興味で何となく覗いてみた。いわゆるBBS、当日の写真といったものがあり、聞き覚えのある名前を発見することができた。
写真は年相応になった懐かしい(…とはあまり思えなかったが)面々、年老いた教師、といったものだったが、BBSの方は久闊を叙するメッセージの狭間に「当日は子供の世話が…」「嫁の都合で…」といった文言が有り衝撃を受けた。恐らく当時は26、27ぐらいの年齢だと思うが、見覚えのある名前がそういう状況になるというのはなるほど奇妙なものだ。赤の他人の話であることに違いはないのに、すぐ横で出し抜かれたような気がしてしまうのだ。
今となってはもう友人も恋人も結婚も望むべくもないし全てが遅すぎた。もし来世があり、草や木に生まれなかったのなら次はもう少し人間らしい人生を送ってみたかったと戯れに考えてしまう。
大阪で組体操のピラミッドとタワーを禁止にしたらしい、かなり危険な競技だし無くなったのはめでたい。
そのニュースを見ていて思い出したのだが、私が中学の頃に体育の時間に体育館の二階から一階に飛び降りる授業があった。
下に分厚くマットを敷いていたがヤバいだろこれと思った。
教師が行けと怒るし、周りの子達は結構楽しげにどんどん手すりを乗り越え飛び降りていくし、結局足がすくんで無理だった私を含む数人が罰として後片付けをさせられ、翌日に体が痛いと言っている生徒が多く現れた。
あと時間になると猛スピードで校門を閉めるのもやっていた、滑り込みセーフの生徒もいたので危ないだろと思っていたら、案の定他の学校で校門に挟まれて死亡する事故がおこりなくなったが、ニュースのインタビューで「遅刻した子が悪いと思います」とか言ってた死亡生徒の同級生達が怖かった。
癖毛かどうか水で濡らすのとかもあったし、定期的に体育館に集められてスカートの丈見るために視線を低くしたおっさん教師が足をじろじろ見ていったり、ブルマになるのが嫌でジャージをはいてる女子達に早く脱げと怒鳴り散らすおっさん教師もいたしなんで男子が短パンで女子はブルマって話だし、何で男は体育で女子は家庭科なのしかも女子だけ家庭科テストがあってテスト勉強一教科多いのって話だし、学校っていまから考えると意味が解らない空間だった。
いい客
おばちゃん
買い物慣れしていて、問題のある客が非常に少ない。
レジでお礼など感じのいい客が多い。
たまにシャッターが半分降りてるときに滑り込みでダイエットサプリを買いに来ていろんな商品の説明を求めるなど謎な人はいたが、普通。
これは疲れがとれる成分が多いです、などと薦めると結構素直に買ってくれる。
お婆さん
店員と話したがる人が多い、自分の時代と今の時代の違いの話題が好き。
他はおばちゃんと同じ
お爺さん
金がない可哀想な弱者といった感じで消費税をまけるよう求めたり、自分の不遇を店員と話し込みたがったり、無茶なことを怒鳴り散らしたり、女とやるときに股を滑らせて入りやすくするものはどこにありますか、もう濡れないですから妻への愛ですわなどセクハラまがいな人など、バラエティー豊かに困った客が多く、対処に困る。
おっちゃん
世界は自分でまわっているって感じの俺様気質のパワフルなクレーマーが多い。
買い物慣れしていないのか、それは本当に無理ですな無茶なごりおしやそんなことで怒るんですかな内容が多い。
金払いのよさではピカ一で一番高いドリンクも買ってくれる。
明日までに風邪を治したい人など言われたものをどんどん買ってくれる。
健康を気にしてか、高いダイエット茶やダイエットサプリもよく買う。
お金はあるから結婚して肌綺麗じゃないとねと高いコラーゲンを買いまくり絡んでくる人が特に困った。
特売値札のとりわすれなどがおこったら、親のかたきのように凄い勢いで詰ってくる。
怖い。
悪い客
大体こんな感じでした。
めちゃくちゃ長い上に主題がないです。鬱々と半生振り返ってる自分語りで人のせいにしてる愚痴。
30歳は、彼氏いない歴=年齢、友だちも少ない、内向的、デブとまだ詰んでるとは言わなくても結構揃ってゆるやかに袋小路に一直線に歩いている感じの誕生日でした。
今年前厄ですよ。厄祓いは済ませました。担げる験は担ぐタイプ。
ほんでなんかついでにずっとモヤモヤしている愚痴を垂れ流してみようかなと思ったので取り留めもなく垂れ流します。
誰にも相談できないから誰か見知らぬ人にでも、「あんたの親はちょっとズレてる」と言って欲しい、要はそんな話です。
私は非常に他人の目が怖いです。
高校卒業くらいまでは、友人を作るのすら「この人達は私のいないところで『あいつちょっと優しくしたら友だちぶってすごいウザいwww』とか笑われているんじゃないか」と疑心暗鬼で生活していました。
まあこれは、大学に入った頃に「他人はそこまで私を見ていない」と理屈だけじゃなくて心からストンと理解できたので、高校・大学の頃の友人達とは今も付き合いがあります。ありがたいです。
多分大学に入って接客業バイトを始めたのが大きかったのかなーと思いますが、ただ単にちょっと成長しただけかもしれません。
現在実家を出て一人暮らしの社会人な身ですが、やっぱりたまに寂しいので彼氏とかいたらな~ってぼんやり思うことはあります。
しかし未だに「友だち」と違って彼氏(というか好きな人)については、自信も持てないし、恋人欲しいなと言うことも何かしらアクションを起こすことも出来ません。「あいつあれで彼氏欲しいとかwwwwww」ってpgrされるんじゃないかと、怖いからです。
だからいい人だな、素敵だなと思っても、そこで全部止まります。
好きってところまで行かない。
普通赤の他人は、見知らぬ人の恋愛事情に興味なんて無いよって思うけど、でも笑われるのが怖い。
お見合いはどうか、と一度だけ母親に言われたことがあります。お見合いなんて特に怖い。「あれで結婚したいと思ってるとかマジ勘弁だわーwwww」ってそのお見合い相手に笑われるんじゃないかとか。
あとそんな風に後ろめたいというか、真後ろ向きみたいな思考回路で、内心どこかびくびく同情か嘲笑されてるんじゃってずっと心配しながら他人と生活するなんて耐えられる気がしない。
自分でもクソうぜえと思うし、私はデブスの根暗の性格わるいやつだ。
で、ここ数年は何で自分でもウザったい程マイナス思考なのか考えてみていました。
(正確な切っ掛けは数年前に色々あって、あなたは元々の自己評価が低すぎるみたいだからちょっと考えてみてはどうかと、心療内科のカウンセラーさんに言われたからでした)
そんで色々遡って考えてみた結果、そもそもの原因は母親かなあと思ったのが結論です。
私の中で一番古い恐らく関連するであろう記憶は、5歳くらいの頃には既によく言われていた「コロコロしてる」「どんくさい」「気が利かない」の三つでした。
太っているのとドン臭いってのは、特に繰り返し言われていた気がします。
あと「足首太い、偏平足(ゾウ足)」もかな。
いやまあ、ゾウ足については確かにそうなんですけど(下半身の骨がゴツイみたいで、こりゃ生まれつきどうしようもない模様)コロコロしてるのとどんくさいのに関しては、今では疑いようもなくデブなのでまあいいとして、当時(5歳~15歳くらいまで)は今考えると、まだ標準体重前半でせいぜいぽっちゃりレベルでしたし、運動も基本的にはいつでもクラス全体で真ん中よりちょっと良いくらいだったので、しつこく言われるほどじゃなかったんじゃないかなあと気付いた次第です。
小学校の間は水泳をしていたので肺活量もありましたし、特に持久走なんかは頭から何番目かでした。せいぜいちょっとは走れるデブぐらいではあったと思います。
因みにその水泳に関しては、母になにか言われたことはありませんでした。
母は泳げないので。
下には活発な弟二人がいましたので、そっちと比べていたのもあるでしょう。
小学校に入り、中学、高校と進むとますます母の指摘する内容は具体的になりました。でも母親の言動に初めて疑問を持ったのもこの頃です。
確か小学校五年生の運動会の日、私はクラス対抗リレー中盤の参加者でした。
その時にはもう物心つくかつかないかのころから「どんくさい」と言い続けられただけあって、完全に「私は運動音痴だ」って思い込んでいたので、すっかり運動嫌い、本番がすごく嫌だったのですが、昼休みで午後がリレーという時に母親がふと
「あんたはお父さんとお母さんの子ども(二人共運動神経は悪くない)だし、
実際足も言うほど遅くないのに、何でそんなに自分で足が遅いし運動苦手って思ってんだろうね」
と言ったことです。
もうほんと、「え?」ですよ。お母さんが言ったんじゃん。ちっちゃい頃から今までずうっと言ってたじゃん。違うの? って。
今でもこれを定期的に思い出します。
そういえば、一度足の皮がぼろっとむけてたことがあって、それを見つけた母親に(父が水虫だったので)「あんた水虫じゃないの」って。
で、いやいや~って言ってたらもうこっちがマジで深刻になるまでひたすらずうっと「水虫だ」「間違いない」「まだ中学生なのに」「伝染るからやめときなさい(弟達に)」等々……。
夏休みでその日の内に皮膚科に連れて行ってくれたのでいわゆる毒親と言うのかは判りませんが、でもあの時本当に、何かに取り憑かれているかのように繰り返し、こっちが泣きそうになるまで言われたのはなんだったんでしょう。
あ、結果はただの皮膚炎でした。
「も~この子もわたしも焦りました~」とかお医者さんに言ってたけど、焦ってただけか? あれ。あと焦らせたのはオマエだからな?
デブとかならまあダラが悪いのである程度ハイハイで終わらせますが、結構身体的にどうしようもないことで色々と云われることは多かった気がします。
「睫毛短いwww」「ほんとに短いwwww」「○○(弟)と交換できたらよかったのにねー(って弟に)」とか散々バカにされて笑われてましたねえ。
多分言われるほど短くないです。別にビューラーで上がればいいじゃんマスカラあるし。
短く見えたのは奥二重が原因でもあるんじゃないかと気付いたけど今は普通にデブなので瞼がry
弟が色白だったので、「○○と交換できたらよかったのにねーwww」って。
別に母と違って地黒じゃないので極普通の肌色してたとおもうんですけどね、昔から。兎も角弟たちageの材料でしかありませんでしたかこれ。
あと足首太いのとかくせっ毛とか、兎も角身体的にどうしようもなく『女の子なら気にするであろう』部分が悪いのは、父方に似たせいでした。
性格悪くなったのはあんたのせいですけどね。
中学に上がった頃から私は本好きがそのままオタクになり、普通のデブにもじわじわ進んでいたのでますますsageは増えました。親にsageられるので、当然弟たちからもどっか根っこで下に見られます。
父は職場は近かったものの仕事で帰宅が21時とかが多かったので、私の性格形成上では結構空気です。ただ趣味が似通ったお陰で人生楽しみが増えたので、ちょっと感謝しています(アクション映画好き)
大学に上がって確か二十歳になった頃に、一度本気で一生許さない言葉を吐かれた事がありました。
何を言われたのか、内容はもう忘れています。人間すごいですね、絶対忘れようと思ったら数日で本気で忘れた。
ただ『許さない一言を吐かれたって事実は忘れない』ともおもったので、もう一生覚えていると思います。
あとこの頃、弟たちの進学や就職がらみで色々あって、ここにきてなんだかんだ(大学は滑り止めの私立に行かせてもらいましたが)一番手がかからなかった、とちょっと周りに評価するような言動をされることが増えてきました。
就職も新卒でちゃんときめましたしね、滑り込みで可も無く不可も無くなところですけども(しかももう転職したけど)
ただここでも、中学、高校在学中は成績が50番、100番台になると、何でこんなバカになったんだろうって見え見えの顔でため息吐かれたり周りに愚痴ってた事も知っているので、その手のひらの返しように不信感が増しただけですが。
なんというか結局、親の言うことは悲しいくらいに絶対なんですね、すげーいやですけど。
親にとっては友人達に対するちょっと毒舌な冗談だったとしても、子どもは「ああそうなのか」って受け止めるだけです。本気にする方が悪いって、親の言うことを幼稚園児が疑えるか。あんたの言ってた通りに育ちましたがこの結果なので、何でアンタはそうなのって私に聞くのは愚問です。
そんなこんなで母親が私を産んだ歳をとうに突破した今、両親には確かに何不自由なく育ててくれて感謝していますが(実際、私くらいの年齢で三人も育てるのは本当に大変でしょう)尊敬しているかと言われると母親については全く話は別です。
仏様か邪神か知りませんが。尊敬していなかろうが、心の根っこのほうで「親がそういうならそうなんだろう」って思います。
別におだてて褒めてくれとは言いません。でも、子どもは親の言うことをそのまま飲み込んで成長します。成長しましたとも。親だから許されるのではなく、親だから、ただの軽口もシャレにならないことがあるってのがどうしてわからないんだろうか。
大体情緒もしっかり育ってない子供にいうことかってのばっかじゃねえか。
良く友だち親子なんてありますが、あれが成立するのは子どもが奴隷思考な事に気付かず都合よく母親が酔っているか、本当に子どもから『友だち』と思われて子どもの人生に何の影響も与えないってことに気づかずノーテンキに喜んでるバカだけだと思ってます。が、うちの母親もそれに憧れてるというか、そうありたいと(恐らく自覚なしに)思ってて反吐が出る。
小学校高学年の私が居る傍で、電話で父方の祖母の愚痴を言っていましたし(私には内緒よ♡だって。素直に内緒にしてましたよバカだね、子どもだから仕方ないけど)
(そして弟達のいるところでは母は絶対に言ってなかった、私だから、お姉ちゃんだから黙っとかなきゃいけないんだって思ってた)忘れられないのは、叔母に電話で
「○○(私)の赤ちゃんの頃、どうしてもイライラして怪我しないように畳んだ布団の上に落としたりしたよ。すぐ後にごめんねって抱き上げたりしたけど」
とかって言ってたことです。
恐らく当時赤ん坊だった従兄弟を育てる叔母に、子どもに当たりそうになるのは普通だとかそういうことを言っていたのだと思いますが、私同じ部屋で聞いていました。勿論、母も私が居ることを判ってます。
昔のこと、あくまで(当時したけど)冗談ということで、許されるとおもったのでしょう。そりゃ、友人同士で愚痴として話すのなら判ります(それこそ叔母と二人っきりでなら何も関係無いでしょう)でもそれを聞いたたった十歳ちょっとの子どもが、言いようのない何かを抱えるということを想像しない超絶鈍さが信じられんな、って今なら思います。
因みにその時のフォローは「聞いてたよねアハハごめん、まああんたが赤ちゃんの頃だから」でした。
なんて返せば良かったんでしょうね、もやもやした気持ちを表現できるほど精神的に成熟していないし、語彙もないのでいつもsageられるときと同じに曖昧に笑って誤魔化した気がします。
そういえば、下の弟と揃って「あんたが私の同級生だったら絶対に友だちになってない」と言われたこともありました何度か。確かにいっそ同級生だったら良かったんですけどね。友だちなんてこっちからお断りですから絶対関わりにあってないと思いますし。
特に不機嫌になったり問い詰めたりせず曖昧に笑ってるだけの長女はそりゃいいサンドバッグだったんでしょうねえ。この子は鈍いから平気、と思われていた気もします。
言われたことも全部判ってましたけど、まだ子供だったので言ったって論理的な話なんて出来ないし、こっちの口が達者になった頃には母は感情論ばっかりでお話にならないことを理解して、会話するだけ無駄なんで黙ってただけです。
成長してからは長く会話しても会話が破綻するばかりなので面倒で短く応答してたら「あんたは冷たい」「どうしてそんな言い方しか出来んの」とかも言われましたけど、あんたがそうさせてんだよ。
返してもぶん殴られる(精神的に)なら極力かかわらんとこうっていうこっちの努力もお察し頂きたい。
おかげさまで初対面で人のことをどんだけ取り繕っていようが「コイツは下に見ていい人種だな」って風に接してくる人間が見分けられるようになったので、……別に役に立たないですね。
寧ろ(相手はこっちが察してないと思って)バカにしてるなーとわかるので割増で気分悪い。
ここまでぼんやりと書いてて思いましたが、他人からpgrされるのが怖いというよりも、「まじめにやった何かを」「親に馬鹿にされる」という経験が全ての原因のような気がしてきました。
友だちだと思っているのは私だけかも、とか、好きになった人にバカにされるのかも、とか、結局私はまじめに、真剣に考えて考えて勇気を振り絞ったことや、自分なりの努力を、家族に馬鹿にされ笑い話ばっかりにされてきてたので「家族でさえそうなのに、他人にそうされないはずがない」とおもってます ね。
服装やメイクに気を使うのも、にあわねーしwwwwなことを言われる位なら最初からしない、と思っていました。人と関わるときに、社交辞令じゃなくてほんとに約束していいのか判らなくて、うわ本気にしてるwww引くわwwwって言われないだろうかと思ってると、人と連絡を交わすこともなくなり、ただでさえ少ない友人は疎遠になったりならなかったり。
「デブスが何してもムダムダwwwww」みたいな風に裏で笑われて思われるのがこわい。
普通の人なら社交辞令って判ることを、私だけ判ってなくてそれを笑われてるんじゃないだろうか、とか。
実際に、「普通ならこうすべき」ってことが私はイマイチ良く分からない。
甥っ子生まれた時も嬉しかったんだけど、どういう距離を取ればいいのか解らないし、どういう風に嬉しさを表現したらいいのかも判らない。それを相手が不快に思うかもしれない……と思うと、つい気付かないふりをしたり、スルーしたりしてしまう。
みんなどうして、あんな風にやれるんだろう。
友達に子どもが生まれた時も、贈り物していいのか、おめでとうと言っていいのか、ぐるぐる考えて結局何もせず疎遠に……って子が何人かいたし。
義妹にも甥っ子にも、できればウザいと思って嫌われたくないので、だったら『無』の方がいいな……ってあまり連絡をしない。
基本的に好きな相手(友達とか)にはべったりいきそうになるので、それもたまに我に返って、めっちゃウザいし嫌いだしって思われてないかな、とか……。
ただこの頃ようやく、周りはどうあれ自分のために、ちょっとはダイエットして可愛い服を着たい!と思えるようになりました。
三十路手前のもうちょっと早い年齢でこれに関しては吹っ切れて欲しかったですがw
そしてこんなもんかいてる時点でお察しの通り根暗のダラなので地道に運動頑張ります。
そんなわけ一番の原因は母親が苦手だからで、おかげでめったに帰省しません。
でもあの人はきっと子どもが自分を苦手としているだなんて天地がひっくり返っても理解しないだろうし、言ったところで昔の些細な事をいつまでも覚えている、気持ちの悪いおかしい子どもを持ってしまったとしか思わないんでしょう。あなたがそう言いましたと言っても、あんたが根暗なせいだからで終了するのが目に見えます。根暗ですが。
メールも電話も、受けたら9割愚痴のため、母親のサンドバッグになってやる義理もないので基本無視ですが、そろそろあんたに連絡したくないんだって気付いてくれないかなあ。
父や弟の電話は出るしメールもすぐに返してますよー。このくらいのいじわるしてもいいよね、ってこっちも底意地悪いんですが。
ていうか、家族全員もう私のことはたまに「ああいるよねー」程度に思い出してくれるだけでいいんですけど。
たまに両親からは地元で就職すればいいのに、とも時折話が出ますが、ぜっっっっっっったい帰りません。するか馬鹿
私もぱっと見は仲がいいねと言われる家族の中で一人鬱屈しているので、こんなこと誰かリアルの知り合いに話したところで理解されるはずもないし、この実は結構クズなんじゃねえかなっていう親を持って不幸ですよ。スタート地点間違えたかな的な意味で。
でもある程度成長してから、特に就職して実家を出てからこの性格を改善しなかったのは自己責任だと思っているので、母親についてばかり何か言うのも間違っているのでしょう。
しかし三十にもなって今更性格変わるかって変わらんだろうしなー。
そんなこんなで対人関係についてはもう改善もないだろうし、マイナス思考は根深いので、最近はあと十年か十五年か適当なところでぽっくり逝けたらなあと結構まじめに考えます。積極的に願望があるわけじゃないですけど、安楽死制度とか出来ないかなあ。
素でぽっくりいくのは地味に難しそう。
楽しみがなくなったらもういいかなーって思うし、実際年々映画も小説も漫画も熱中するってほどでは無くなってる気がする。
あと正直働けなくなったら詰んでるし。かといって病気になるのはお金かかるしなあ……
健康体の人は臓器提供前提で安楽死オッケーですよとかあったらいいのに。
そうだなあ、出来れば親より先に死にたい。
親に先に死なれたら、あんたのせいで基本構造間違えましたよって言う機会が無くなってしまう。
でも私が先でも、あんたのせいで自己評価マイナスでここまできました、って言っても理解しないだろうし、言って私だけが感じている家族に対する不信感を明確に家族VS私の構図にする勇気もないというか。
でも、母が無自覚に「家を離れて一人暮らしをしている娘を気遣う母親」に酔ってるのも鼻についてクソなんですよね。
大体趣味あってねーよ、気持ち悪い。何年一緒に暮らしてないと思ってんだ。
こういうのをいつか知らしめたいと思うけど、言ったところで何も解決せず引っ掻き回すだけで、私が一方的に悪者になって終わるオチも見えるので
ただこれを私ひとり胸の内に抱えてしねばいいのかな。
こう書くけど、結局私がひねすぎてるだけで、ごく普通の幸せ家族を未だに厨二病でナナメに見てるだけなのかな。
でも親にsageされつづけてきたので、もしこれが好きな人(友人異性問わず)にも同じようにされたら再起不能になるから、人付き合いしたくない。
でも寂しがりなので時々無性に人恋しい。
でも母親みたいな友だちも家族もほしくない。もうお腹いっぱいです。
こんなこと書いてた頃に親からメールが来たので、一応去年は(誕生日なので)久しぶりに返しましたけど、
「あんたのメールで元気になったよ^^」って、こっちはその誕生日当日に気分悪くなりました。オエー。
そしてお誕生日おめでとうのはずが、8割弟夫婦の愚痴でした。なんで自分の性格が悪いと思いつかないんだろうこの人。
そうしてとりとめのないまま終わり。難しいですね日記って。
ところで某ネズミーランドとも同い年ですが行ったことがありません。
お金貯めていつか行ってみたい。あとちょっと彼氏欲しい(結局)
++追記
すみません、長いですよね。でもありがとうございます。
一年ぐらい悶々としてたことを一気に書いて投稿した後、すごくドキドキしてすっきりしたので消そう、と思ったんですが、どうせなのでいつか親に突きつけてやる(かもしれない)用に持っておくことにしましたw
そして何より、私の考えていた事は私の性根が腐ってるから、ではなさそうだし、別におかしくないんだーこのままでもいいのかーっていう納得をくださって、本当にありがとうございました。自虐的でなく客観的に見るのはまだ難しそうですが、もう少し気楽に私の人生楽しめるように頑張ります。
あと、私と母の性格が似ているみたい、というコメントもいくつかあって驚きました。確かに自分でも母の嫌いな部分がよく似ている、と思っていますw
ご結婚される方、対等な立場の味方を得られること、大変うらやましいです。おめでとうございます。お幸せに!
考え始めて一年、ずっと悩んでいたけど吐き出せて良かった。本当にありがとうございます。
本も読んでみますね。
わたしの部屋がちょうど契約更新を迎える今年の年末までに引っ越そう、というスケジュールで、ついこないだ部屋を決めたのだけど、ちょうどお互い仕事が忙しい時期でなかなか密なコミュニケーションが取れず、仕事の合間を縫ってLINEで事務的なやりとりをしながらなんとか滑り込みで決めた感じ。
広くて新しくて立地も最高で文句なしの物件なのだけどそのぶん家賃もお高く、彼もわたしも当初「第二希望」として挙げていた部屋に、結局決まった。
「第一希望」はもう少し家賃が安いけれど、そのぶん交通の便も悪く、狭い。
もろもろの条件を比較検討するうちにわたしの気持ちが変わり「家賃が割高でもやっぱり第二希望のこの部屋に傾いてきた」とわたしが希望を伝えると、それでいいよ、と彼も言い、今日、不動産屋に申込書を出してきた。
「それでいいよ」と言った彼だが、部屋が決まってからなんかものすごく不機嫌だ。
その理由を尋ねたいのだが、尋ね方がわからず、戸惑っている。
部屋のことは関係ないのかもしれない。ただ疲れているだけなのかもしれない。
今まではわたしに不満があるときは、きちんと言葉にして言ってくれていた。
見たことのないモードで、正直なんだか怖い。
同棲の話が持ち上がったもののなかなか条件に沿う部屋が見つからず(わたしが猫を飼っているのでそのせいで候補が絞られてしまう)ちょっと弱気になって「もう少し時期を見てから探そうか」とか洩らしたときにはとてもショックを受けて「俺は早く一緒に住みたい」と言ってくれたので、同棲そのものが嫌なわけではないと思う。
わたしが途中で意見を変えたのが嫌だったのだろうか。
たとえば休みの日の過ごし方なんかで言うと、わたしはどちらかというとそのときの気分でどこに行って何をするか行き当たりばったりに決めるのが好きなのだけど、彼は逆で、きっちり予定が決まっているほうがいい。
最近のメールが事務的なやりとりばかりだったのが嫌だったのだろうか。
必要なこととはいえ、今のわたしの部屋の契約更新をするのかしないのか期限が迫る中で急いで確認しなければならないことが次々と出てきて、そういったメールをたくさん送った。そのやりとりの中で何か思うところがあったのか。
それとも、家賃の高い部屋を選んだことが不服で、でも男性であるがゆえに言い出せなかったのだろうか。
彼は年齢の割に収入は決して高くない。
わたしは気にしていないが彼はそのことをとても気に病んでいる、という現状を互いに認識もしているが、わたしのほうには仕事の収入のほかにちょっとした不労所得もあり、家賃の高い部屋でもやっていけると踏んでこの部屋を選んだ。
彼とは結婚を考えているし子どもはほしいと彼は前々から言っているけれど、たとえばわたしが妊娠して仕事ができなくなったら収入はほぼ半減する。そうなったときにこの家賃ではおそらくやっていけない。ただその場合は、わたしの不労所得(まあ両親の遺産およびそれを元手にした投資なんだけど)の運用を工夫して乗り切ることができるだろう。といった話をしようにも、もし彼の不機嫌の原因がお金のことでないのならば、わたしからこの話をすることはかえって彼のプライドを無用に傷つけることになるのかもしれない、と思って切り出せない。
今まで付き合ってきた人は、どっちかというとだめんず系というか、繊細で優しいのだけど社会的には弱く、女性に寄りかかって生きていくことにさほど抵抗のないタイプの人が多かったのだけど、彼はそういうタイプではない。俺がしっかりしなきゃ、のタイプだ。だから。
でもこんな話を腹を割ってできないのならば、結婚はおろか同棲なんてできない。
ていうかわたしがこうやってあれこれ口に出せずにもやもやしているのだって彼はたぶん嫌なんだろうと思う。お互い様だ。
わたしのほうのコンプレックスなのが、こういうときの男女の思考の違いが理解できていないところだ。
経験が貧弱なのもあるし、感覚として、こういうときに男性はこう考え、こう行動しがちだというのが決定的にわからない。
ものの本を読んだりネットでライフハックを検索したりしてみるものの、それを自分たちの事例にどう援用すればよいのかがわからない。
もしかしたらなんでもないことなのかもしれないのに、男性の心理が理解できない自分、に目がいき過ぎて大切なものが見えなくなってしまいそうになる。
誰か彼の心を翻訳してください。彼が何を考えているのか、あるいは何も考えていないのか、教えてください。
知らなかった。
誰も教えてくれなかった。
現在24歳Fラン理系大学院生。2014年卒未だに無い内定。バイト歴なし。奨学金生活。
中学の頃は友人たちと共に学年TOP10の成績。そのまま地元の有力公立進学校へ進学。
しかし、高校1年春から早速落ちこぼれ、そのまま挽回する気力も無いまま3年間過ごし現在の大学へ。
中学からの友人達は国公立大へ進学する中、俺はFラン私立へ入学。学歴コンプを抱える。
周囲の同期たちを意味もなく見下しながら、講義を受け単位を取るが、ギリギリのC判定を量産。試験前もちょこっと勉強するだけ。来学期こそは、しっかり授業の復習を行い成績を上げようと誓うも毎回同じことの繰り返し。
規模の大きな学内の写真サークルに滑り込みで入り、埋もれながら隠れつつ何とか4年間を乗り切る。サークル内でそこそこ友人を得、一方学科の方では毎日一人で教室にて昼食に携帯片手にパンを頬張る。しかし、ノートの貸し借りをするくらいの友人はいた模様。
バイトはせず、最初の2年間は月3万円の仕送りで、後半の2年間は月5万円の奨学金で食費と交際費と雑費を賄う。家賃と光熱費と通信費は親が持ってくれた。
物欲というものがほぼ無いに等しかったため、苦しかったがなんとか生活出来た。家でもPCの前に居座り、読書したり映画鑑賞ということもほとんどなかった。
本当に、行きたいところもやりたいこともなかった。つまらない大学生活。
まああれだな。俺は甘いんだよな。
知らなかった。
誰も忠告してくれなかった。
趣味や楽しいことや生きがいすら、待っていれば来る物だと思っていた。
なんでお前らは知ってるんだよ?いつどこで教わったんだよ?なんでお前らはそんなに充実して楽しそうなんだよ?
俺は未熟で幼稚で24歳にして未だに社会に出る覚悟ができていない。
現実では見たことがない、訪れたことがないはずの場所に自分がいるということが何度もある。
窓がなく知り合いも居ない大学の後ろの方の席にいる。講義が終わったように周りがざわざわしだしたと思ったら、自分は焦燥感を覚えてその場を離れ、電車に乗る。
快速で8駅離れた駅まで乗り、そこから普通で3駅戻ると、閉塞感のある田舎の駅につく。大学の下宿先の木造アパートがある駅だ。
ここまでは、この設定の場合では共通している。しかし、ここから分岐する。
・砂利道を進んで下宿先に戻ると、大部屋がふすまのような木の引き戸に仕切られた一角へ体を下ろす。戸のすりガラスから周りの様子を伺えるが、誰もいないようだ。
・荷物を持って下宿先を後にする。砂利道を歩いて駅へ向かい(分岐1)、また電車に乗り大学へ向かうが、折り返しの駅でどの電車に乗ればいいのか分からなくなる。赤い■のマークが付いている路線表記の看板を見ながら電車に乗ると、名古屋についた。(分岐2)
・(分岐1の続き)どうやら忘れ物をしたようで、下宿先に戻らないといけない。戻るとやはり誰もおらず、焦燥感が訪れる。トイレに入ると、なぜかは分からないがものすごい恐怖感に襲われ、扉を叩くがなかなか開かない。やっとのことでトイレから出ると、転がるように下宿を後にし、砂利道を駆け出す。
・(分岐2の続きa)名古屋は夜になっていて、幹線道路のわきのネオンを横目に、坂道をとぼとぼと歩いていた。駅の地下街には行きつけのゲームセンターがあり、そこへ向かえば安息が得られるだろう(ゲーセン編割愛)
・(分岐2の続きb)名古屋は夜になっていて、幹線道路のわきのネオンを横目に、坂道をとぼとぼと歩いていた。夜なのでもう店は閉まりかけているが、どうしても本屋に行きたい。行きつけの本屋ビルの閉店まであと数十分というところだが、なんとか滑り込み、目的のフロアへ向かう(本屋編割愛)
と、だらだら書いたが、こういった夢をよく見る。祭りの最中に大量発生するゾンビからどうやって逃げるのか、などもよくあるシチュエーションだ。このバスに乗ればあの場面へ着き、前はああだったので今回は違う選択をしよう、などADVのような夢が多い。(大体夢のなかで、前の夢の結果を知っている)
特に電車に乗る部分は、路線から乗っている時間からどういった乗り換えなのかなど細かく覚えていて、現実でも(同じ環境があれば)夢の目的地へたどり着けると思う。
全部現実では訪れたことのない、見たことのない場所であるため、とても興味深い。(名古屋という場所は、名古屋と認識しているが現実の名古屋とは地形も景観も全く違う。現実では名古屋には何度も行ったことがある)
オカルト的な面白さもあるのだけど、トイレの下りを書いている時に尋常じゃない悪寒と震えが来たので、こういうのはあんまり考えないほうがいいのかもしれないと素人ながら思った。
http://anond.hatelabo.jp/20130716162838
長文注意。
私自身が大阪出身ということもあり、共感を覚えたので書いてみる。
彼より人生が十数年先行していることを除けば、概ね状況は似ているように感じたのだ。
つまり、いわゆる元増田の記述に昔の自分を見たので、私自身の回顧録的に勝手に文字を綴ってみるわけである。
私は大阪府北部出身だが公立中学は荒れていて、ガラスが割れる、校庭にバイクが乗り入れる、などイベントに事欠かなかった。
中学生当時の私はZやZZを全話みたり、イデオンについて語りたくてうずうずしてるような人間だったので、当然カースト下位だったし、またそれに応えてくれる人間はクラスどころか学年にもひとりもいなかったので、流れ弾に当たらないよう目立たなくして学校に行っていたのを覚えている。
かろうじてゲーム(例えばDQやFF)の話でクラスの人間と言葉を交わす程度だったように思う。
もちろん、いじめのようなことも多々あった。
思い出したくもないが、様々なモノがなくなったし、色々な心無い言葉が私に向けて飛んできた。
そのときの私は「どうせ中学までの付き合いだし無視すればいい」と考えて無反応を貫いた。
高校・大学と地元から遠いところに入学し、実際その通りになった。
ところが20歳の頃に中学の同窓会が企画され、何故か私にも声がかかる。
幹事いわく、「四大に行った人は忙しいと思うけど参加してくれないかなぁ?」
詳しく聞いてみると、その公立中学のクラス40名ほどのうち4年制大学に進学したのは私を含めたったの5名だった。
私を除いた全員が私立大学の文系で、国公立理系だった私は一緒にされたくないなと思ったものだ。
意を決して同窓会に参加してみると、そこにいたのは高卒就職組がマジョリティの30人ばかりの集団で、その多くが当時流行っていたフリーターであり、無職も多かったように思う。
数少ない正社員になった者は同級生と結婚して子持ちだったりして、「彼らはこの先どうやって生きていくつもりなんだろう」と若かりし私でも考えた。
また、女子は3割強が結婚しており、すでにバツイチがついているのもいたことに、まだ学生だった私は別世界を見た気がしたのが印象に残っている。
しかし、確かに別世界だとは思ったが、その世界もそんなに悪い気はしなかった。
彼らには彼らなりの幸せがあり毎日が充実していて、私に子どもの写真とかを嬉しそうに見せてくる。
当時の私は研究室の選択とその先が見えずに悩んでいる状態であり、彼らと話して何とも言えないもやもやした思いを持った出来事だった。
さて、その後。
バブルが本格的にはじけ就職戦線が急速に学生不利になると、私には思うような就職先はなかった。
それでも一部上場企業に何とか滑り込み、色々な開発に約10年携わった。
今でもその時の製品がこの世の片隅で役立っていることがうれしいし、地元に残った人たちとは一味違った仕事ができたと思っている。
しかし、地元の彼らが20歳で得たような幸せをついに得ることはできなかった。
また、誰かの役に立っているという実感を得ることもできず、逆に仕事に疑問を覚えるようになってしまっていた。
そして、職を辞し、医療職へと転身することを決意する。
2回目の学生をしている私に対して、子どもが小学生に育って悩みを話している人たちはもっと遠い存在に思えた。
もはや、そういう形の幸せは想像してみても実感がわかないものになっているように思えたのだ。
それよりも気になったのは参加人数が半分以下になっていることだ。今回の幹事によると消息がしれない人が多数いるらしい。
同窓会の席で聞いてみても、地元に残った人の間でもよくわからないのだそうだ。
消息不明の人たちに関しては、実家ごと引越したとか、関東方面に働きに出たとか、いろんな話が飛び交っていたが得体のしれないものばかりだった。
結局、私が15歳の時に同じ教室にいて、20歳のときに全く違う地平を見ていた人たちは、30歳を越えてもっとバラバラになってしまった。
これには様々なことが絡んでいると思う。
例えば、私が育った街が戦後にできた郊外だったからかもしれない。
地元と言っても、地縁があったり血縁者が近くに住んでいたりするわけではなく、ただ「近くに住んでいた」に過ぎないからだ。
そしてそれは、そこに留まる強力な理由にはならかったのだと思う。
その他にも挙げていけば本当にきりがないし、きっと元増田とも環境は全然違うだろう。
今回こんな文章を綴ったのは、環境が違うにも関わらず同じようなもやもや感があることが、とても気になったからだ。
私はこのもやもや感を今でも持っているし、もしかしたらさらに十数年経ってもこれを持て余しているのかもしれない。
でも、どこかの時点ではすっきりしたいとも思っている。そんな日がくるのかどうか全くわからないけれど。