はてなキーワード: 江ノ島とは
小学生編
掃除の時間に寺島君から人生で初めて「サボる」という選択肢を教わる
塾をサボりチャリで片道10kmほど走りイオンモールで時間を潰す
中学生編
部活をサボり駅前のマックでアイスコーヒー一杯で半日読書に耽る
高校生編
海を目指して立川辺りから多摩川沿いをチャリであてもなく下るも世田谷辺りで諦める
高尾山に登る
大学編
講義をサボり終電で江ノ島や上野公園へ行って夜通し歩き回ったり、ミッドナイトショーをハシゴしたりして始発で帰る たまにサウナに泊まる
夜な夜な多摩川の河川敷へ出掛けてトランペットを吹くか夜釣りをする
聖蹟のゆうひの丘で音楽を聴きながら一晩中ボーっと多摩の夜景を眺める
こんな事ばっかしてたから菊次郎の夏とかスタンド・バイ・ミーみたいなロードムービーが滅茶苦茶突き刺さるし、思春期やモラトリアムを描いた作品が好きで好きでたまらない
●動機
数年通っていた舞台に小澤廉が出演しており、文春砲の後も情報を追っていたのだが、全然反省してなさそうなのでどういう心理なのか興味があった。
●当日の運営
「参加予約はインスタのDMで人数を知らせる」「前々日まで会場が告知されない」という体たらくだったので完全な素人運営だと予想していたが、入場までに5〜6人のスタッフを適切に配置するなど意外と頑張っていた。
入場までの流れは
・はっき(マネージャー)の持ってる抽選箱から座席のクジを引く。予約した人はここで名前伝えてた
・クソ狭エレベーターで4人づつ会場階へ(ここの担当スタッフイケメンだった)
・入り口入るとすぐスーツ姿の小澤廉から「来てくれてありがとう」とメッセージ入りブロマイドを渡される。いきなりでビビった。「小澤廉からお手紙が渡される」ってこれか
・座席に案内される。座席の番号の付け方が謎で、予想と全然違う席だった
入場までが思ってたよりスムーズで驚いたけど、予約した人の特定とかどうしてたのかは謎。はっきスマホしか見てなかったし。
あと座席のクジが鼻糞みたいに小さい紙で、なんとかして1枚の紙に出力したかったんだなと思った。
はっき・エレベーター係・検温係・小澤廉の横にいる係・案内係と少なくとも5人スタッフがいて、あと MC(どれかと同一人物だったかもしれんが不明)とカメラマンの女性が入っていた。
特典会の前に帰ったので特典会のことはわかんない。チェキが真っ暗という情報だけTwitterで見た。
●イベント内容
Twitterでごうやまさんがレポしていたとおり、面白いことはとくになかった。
インスタの告知には17時からイベント開始、17時半から特典会と書いてあったが、とくに聞きどころのないトークが18時ちょい前くらいまで続いた。
・最初に注意事項のアナウンス。「トラブルの元になるからイベント内容をSNSに書くな」とのこと
・中学・大学で一緒だったというMCの人(音楽やってた人?らしい ※追記:メン地下の運営とかやってる人らしい。慣れてるのも納得)が出てきて、小澤廉を呼び込む
・客席の真ん中の通報(花道とは言い難い狭さ)からスーツ姿の小澤廉登場
・「この度はご心配をおかけしてすみませんでした」「来てくれてありがとうございます」と2回も深々と礼をしてた。めちゃくちゃ綺麗な直角に腰を曲げてて、この2年で謝りまくって上達したんだろうな笑
・ MCが「ここからは雰囲気を変えて、地元のノリで行きます!飛沫が飛ばない程度には声出してリアクションしてもらってOKです」みたいなこと言って、自分の名前を客に呼ばせる。「大声はNG」とか気は遣ってたけど、根本的にコロナ対策を軽視してるっぽくて、このご時世にマスクなしで人前に立ってるのに強気だなと思った
・トーク内容は主にこの2年でやってたことなど。鼻の骨が曲がってたのをまっすぐにする手術した!とか、ラーメンにハマって食べまくってたら51キロから70キロまで太った!58キロまで戻した!とか、とくいりょうりはハンバーグ!とか、地下アイドル仲間と鎌倉・江ノ島で遊んだ!とか。引きこもってたことを強調してて、沖縄ダイビングには触れてなかった
・ 小澤廉はMCの人の服を何枚か借りパクしているらしい。なんで復帰して真面目にやっていきますとアピールするためのイベントでそんな話するのかな、全然反省してないじゃんと思った
・今後やりたいことはTikTok、YouTube Liveなどで心霊スポットとか都市伝説の話をしたり、ゲーム実況しながらお悩み相談に乗ったりしたいらしい。基本的にファンからの投げ銭で生活するつもりみたいだけど、今の小澤廉に何を相談するんだろうと思った。彼氏がSMプレイと言い張ってDVしてきますとか?
・他にもひとり舞台をやりたいらしい。ひとりって言うことは、複数人の舞台だと他の演者に迷惑かけるってわかってるんだな。あと舞台のプロデュースもしたいと言っていた
・復帰の理由は、はっきから紹介された警備員だか交通整理だかの仕事をしている最中、「俺なにやってんだろ、もっとみんなを笑顔にする仕事がしたい!」と思ったかららしい。戻ってくることによって笑顔が消える人のことは考えないのかなと思った。あとバイト先の世話までしてやってるはっき、めっちゃいい奴
・締めの挨拶で、「大切な人を守れる強さを持ちたい」みたいなことを言っていた。大切な彼女や新しい命は守らなかったのに?と思った
・小澤廉の退場後、はっきが特典会の案内をするとき、わざわざマスク取っててなんでだよと思った
私は特典会の前に帰ったので様子がわからなかったけど、おそらくほとんどみんな特典会にも参加したんだと思う。一緒のタイミングで会場出たのは2〜3人だけだった。
●客層
もっと治安の悪そうな雰囲気になるのかなと思ってたけど、最初の MCとのコーレス以外、声出ししてる人もいなくておとなしいかんじ。
なんならうんうん頷いたりして熱心に聞いてる人もいて普通にあったかい空気だった。
泣くオタクとかいるのかなと思ったけど見える範囲にはいなくて、まあでもそれは夕方回だったからかも。熱心な人は初回の昼回に行っただろうし。
自分みたいに様子を見にきただけの人がいるのかもわからなかった。
●感想
小澤廉は前に「自分こそリベンジポルノの被害者」みたいなスタンスで文春に出てたけど、その時と変わってなくて全然反省とかしてないんだろうなと思った。
何が悪かったのか、どう反省しないといけないのかについて、誰も教えてくれなかったんだろうか。
今回のイベント、参加自体は無料だったけど、特典会は有料。40種のランブロ2枚とチェキ1枚で3000円、1周目は1人5セットまで、2周目以降上限なし。
会場のキャパは8席×9列=72席で、ほとんど空席なし、立ち見数名だったので仮に参加者数を75人とすると、全員が1回ずつチェキ撮るだけだけで22万5000円の売り上げ、昼回と夕方回の2回で45万。
会議室のレンタル代(1日フルで10万弱)とスタッフのバイト代、ブロマイドの撮影・印刷代、チェキの機械とフィルム代などもろもろを引いても、少なくとも大卒初任給くらいは手元に残りそう。
そりゃ警備員のバイトなんて時給1000円程度でフルタイムで働いてもたかが知れてるだろうから、金銭面で戻ってきたくなっても仕方ないよなと思った。
あとやたらと地元の友達!親友!仲間!と強調していたので、そのへんも含めてコムドットとか東海みたいなグループYouTuberぽいことをしたいのかな、みたいな予想もしている。
私はもうこの人のことは見なくていいなと思った。
江ノ島まで足を延ばすといいよ。
占領直後の性的暴行や強姦の件数については確定していないが、藤目ゆきによれば上陸後一ヶ月だけでも最低3,500人以上の女性が連合軍兵士によって被害をうけ、その後も1947年に283人、1948年に265人、1949年に312人の被害届けが確認されているがこれらは氷山の一角であり、藤目は占領とは「日本人女性に対する米軍の性的蹂躙の始まり」でもあったと述べている[8]。
その後も在日米軍による犯罪は続き、1952年5月から1953年6月の警察資料でも殺人8、過失致死435、強姦51、暴行704など合計4476件の犯罪が報告されており、1954年2月には宇治市大久保小学校4年生の女子児童が強姦されたあとに陰部から肛門まで刃物で引き裂かれる事件が発生し、ほかにも4歳の幼児が強姦され、危篤状態になった事件や、突然狙撃されて死亡した事件などが多発した[9]。
日本占領後、多くの市民は連合国軍の上陸によって日本女性が強姦されることを恐れていた。こうした懸念から、内務省警保局をはじめ各省庁および都道府県庁は、女性らに自宅待機、避難、日本人男性から離れずいるようにとの注意喚起、また米兵との接触を回避するよう勧告をしている。
米軍が最初に上陸するものと推測された神奈川県では、県警は若い女性や少女に避難勧告をしている[10]。内務省警保局の情報にも「神奈川県ハソノ特質上敵ノ最初ノ上陸地点タルベシトノ想像モアリ「敵ハ十八日ニ神奈川ニ上陸スル」ノ流言多シ」とあり、戦争関連の諸文書が一斉に焼却廃棄されるなか、行政機関当局にも相当の混乱があったことが窺える。主要港湾を擁する横浜市では、幹部職員の全員逮捕処刑を前提として、緊急措置として市民のうちの婦女子の疎開避難、女子職員の全員解雇などを決定し、これをきっかけとして丹沢方面への疎開騒ぎが広まっていた。
これに呼応し、政府は内務省警保局長名で特殊慰安施設協会(RAA)の設立について全国都道府県に打診し、東京都下の料理飲食業組合、芸子置屋同盟、待合業組合連合会など7団体代表者により、特殊慰安施設協会が急きょ設立され、協会を通し「性の防波堤」となる志願女性を募集した[11]。これにより、各所に「進駐軍将兵慰安施設」が設置され、一例として横浜の大阪商船ビル、日本造船大丸谷寮、箱根、江ノ島の新設施設などがこれに利用された。GHQ当局は1946年1月に、「非民主的であり、女性への人権侵害である」との理由から施設の閉鎖と公娼の禁止を宣言したが、占領軍兵士を相手とする「私的」売春は継続され、兵士たちの間で性病が蔓延した[12]。
ジョン・ダワーによれば、特殊慰安施設協会設置の効果もあり、占領軍の規模と比較すると日本政府の想定よりは強姦の発生率は低かったが、同時に性病の集団感染も引き起こした。一例としては、検査の結果1個師団の70%が梅毒、50%が淋病の陽性反応を示したため、これを主因として売春施設は閉鎖されることとなった[12]。
公娼施設の廃止後、強姦の発生率は約8倍に増加し、ダワーの調査によるとRAAが活動終了した1946年以降、日本人女性に対する占領軍将兵による強姦件数は一日平均40件から一日平均330件に急増した[13]。これに対してブルマは、「毎日40件以上の強姦が行われた可能性があるが、ほとんどの日本人は、アメリカ人は恐れていたよりも規律的だと認識していただろう」と述べている[14]。
テレーズ・スヴォボダは、慰安施設閉鎖後に強姦の報告件数が急増した事から、兵士に対する慰安婦の提供が強姦事件抑制に一定の効果があった事を認めている。スヴォボダはまた、一例として慰安施設の営業開始前に、待ちきれなくなった数百人の米軍兵士が二棟の施設に乱入し、そこにいたすべての女性を強姦した事件についても言及している[15]。 また、スヴォボダによると特殊慰安施設協会の廃止後少なくとも二件の大規模な集団強姦事件が発生している。
東京都の事例
スヴォボダおよび田中の調査によれば、1946年4月4日の深夜、3台の軍用トラックに便乗した米兵50人が東京都大森区(現・大田区)の中村病院に侵入し、号令の笛とともに約一時間の間に女性患者40人、女性職員37人を回姦凌辱した[16]。被害者のうち、2歳の幼女は事後床にたたきつけられ死亡したほか、止めに入った男性職員一名が殺害された[16]。
名古屋市の事例
また、田中によると、同1946年4月11日に名古屋市の住宅街に侵入した30人から60人の米軍兵士が地域内の電話回線を切断後、各家屋に同時に侵入し、10歳から55歳の女性を強姦している[17]。
マイケル・S・モラスキー(日本文学、日本語学研究者)によると、日本の警察の報告を読むかぎり、強姦やその他の重大犯罪は海軍を中心に広まっており、横須賀基地と横浜周辺における占領後最初の数週間の犯罪件数が突出しているが、日本本土全体では一般的ではなかった[18][19]。
上述のように、駐留米軍兵士による拉致、強姦、殺人は日本全体には波及していないものの、警察記録と報道記録が示している通り、凶悪犯罪を犯す兵士の多くが、1945年に日本に上陸し、最初の数週間の間に記録的件数の犯罪行為をおこなっており、占領最初の10日間だけで1336件の強姦事件が報告され、その後も9月一か月間の横浜市内での強姦事件は119件にのぼっている[20]。ダワーによれば、被害者が数人以内の場合には警察に報告すらされなかった。[21]
北海道の事例
歴史家の竹前栄治、ロバート・リケッツらは、米空挺部隊が上陸後、札幌市内において略奪、強姦、酔ったうえでの日本人への暴行などを働くことはまれではなく、強姦被害者の中には自殺した者も少なからずいたと述べている[22]。
ロバート・アイケルバーガー第8軍司令官は、非番の兵士から女性を保護するために日本人が自警団を組織した際、第8軍の装甲車に協力を命じ、事件の首謀者を逮捕したことを記録している。しかしダワーによれば、一方で強姦事件の中には警察に報告されないものもあった。
竹前とリケッツらによると、オーストラリア、英国、インド、ニュージーランド軍の一部によって構成され、中国及び四国の9県を占領していたイギリス連邦占領軍 (BCOF)も、また多くの強姦に関与していた。
オーストラリア軍は1946年に広島県呉市に上陸するとすぐジープで若い女性を拉致し強姦していた。被害者がほぼ毎晩助けを求めて泣き叫ぶのを聞いていたが、占領軍による犯罪行為の報道は封殺されていた[22]。中には、一人の少女が20人以上の兵士に回姦される事件もあった[23]。
イギリス連邦占領軍の公式報告では軍所属の将兵が1946年5月から1947年までの期間に57件、1948年1月から1951年9月の間に、さらに23件の強姦を犯し、有罪判決を受けたされる。しかしながら、1946年2月から4月にかけての英連邦占領軍による占領当初の重大な犯罪の公式統計は存在しない[24]。オーストラリアの歴史家ロビン・ゲルスターによれば、イギリス連邦占領軍の重犯罪公式統計は米国と同様に過小評価されているが、これには日本の警察が被害報告を占領軍に提出していない場合があり、これにより英憲兵隊が調査を行わなかった事も少なからず影響していると述べている[25]。
ジョン・ダワーによれば、GHQ当局は1945年9月から1952年の占領終了までの間、幅広い検閲(プレスコード)を日本のメディアに対して実施しており、開始当初には左翼活動や軍国主義、超国家主義的な思想といった思想分野が差し止め対象となっていたが、占領開始から数か月後にはこの範囲を大きく逸脱し、占領軍による強姦などの重大犯罪や社会問題も幅広く検閲の対象となっていた[26]。
竹前栄治とロバート・リケッツによると、占領軍は、1945年9月10日付連合国軍最高司令官総司令部令「占領活動に敵対的な全ての報告・統計発行物の違法化にむけた報道発表と事前検閲に係る規則」を定め、強姦などの重大犯罪に関する報道を統制していた。占領終了後、一部の日本の雑誌はアメリカの軍人が犯した強姦件数を発表している[22]。
1990年1月の3位。わざとらしく東北弁を効かせたデュエットソング。90万枚の大ヒットだったらしい。
地方出身のアーティストが真面目に歌っている…というわけではなく一種のコミックソングの扱いだったようだ。
1990年2月の8位。90年代前半に活躍した女性アイドルグループらしい。
おニャン子とモー娘のあいだの「アイドル冬の時代」において気を吐いていたアイドルの一つという感じか。
パッと聴いた感じは徳永英明や稲垣潤一と似たような印象を受けた。
1990年3月の16位。ホコ天で人気のあったロックバンドらしい。
当時のヴィジュアル系ってだいたいメタルやパンク由来の「硬派」「尖ってる」感じを出してるイメージだけど、
このAURAは、ヘビメタ色の薄いコスプレ的な見た目、コミカルなほど明るい曲調など、後年のヴィジュアル系にかなり近いと思った。
いかにもプリプリの影響を受けて出てきましたという感じ。時代を感じる。
1990年8月の19位。CoCoと同じテレビ番組から登場したアイドルグループらしい。
1990年9月の18位。レベッカのNOKKOが、NORMA JEANの元ギタリストと組んで、レベッカの解散直前に一曲だけ出したもの。
ギタリストの人がNOKKOのヘアメイクを担当していた繋がりらしい。
1990年11月の19位。正統派な感じのヴィジュアル系ロックバンド。
Wikipediaによると「日本一下手なバンド」として有名だったらしい。
1990年11月の20位。テレビドラマ「スクールウォーズ2」の主題歌ということで、1の主題歌「ヒーロー」を意識した洋楽カバーにしたんだろうか。
他の曲を聴いてみると、もっと大人しいアイドル然とした曲を歌っていたようだ。
1991年1月の18位。NHK「みんなのうた」からヒットしたという演歌調の曲。歌手は当時16歳。
消費税導入で(端数を支払うための)1円玉に注目が集まっていたという背景もあるらしい。
学校に提出するぞうきんのことを歌った明るいユーモラスな曲。
先日亡くなった俳優・宝田明の娘らしいが、宝田明もあんまりピンと来ないな…。
1991年5月の6位。爽やかで癖のない男性シンガー。ビーイング系っぽい(ビーイングではない)。
1991年6月の13位。松任谷正隆のプロデュースでデビューした女性シンガーソングライター。
歌唱力で売っていた感じなんかな。ちょっと広瀬香美を思い出した(デビューは障子久美のほうが先)。
1991年8月の19位。楽曲を聴いただけではあんまり引っかかりのない普通の曲だという印象。
当時からいろんな歌手に楽曲提供して実績のあった人らしい。その中でいちばん有名なのは今井美樹の「PIECE OF MY WISH」か。
昨年亡くなったらしい。
1991年10月の7位。ヒップホップ系。まだヒップホップが広くは定着してない頃だよねたぶん。
テレビの企画「高校生制服対抗ダンス甲子園」で優勝してデビューしたらしい。
1991年10月の15位。何だと思ったらサザンオールスターズの桑田佳祐だった。
1991年10月の20位。何だと思ったらウッチャンナンチャンの南原清隆だった。
1991年12月の7位。ピアノを弾きながら歌ってる映像を見て「愛は勝つ」のKANかと思った。
ピアノ弾きながら歌う系男性シンガーがちょいちょい出ていた時代だったのかな。
1991年12月の16位。名前で女性かと思ったら男性シンガーだった。
「X'mas in the Blue」と「Christmas in the Blue」とがあって発売時期も違うみたいだが何が違うかよくわからない。
1992年2月の13位。声のいいおっちゃんが歌ってるソウルっぽい楽曲。
ZOOの「Choo Choo TRAIN」とブラックビスケッツの「Timing」の作曲者なのか。そう聞くとなんかすごい。
1992年2月の19位。アーティスト名も楽曲名も歌詞も英語で洋楽かと思った。
妖しげでトリップ感のあるサイケな楽曲。時代を感じさせない。個人的にいちばん気に入った。
1992年3月の12位。これは洋楽カバーなのか。ミュージカルっぽい発声…と言われたらそうかも。
エリート一家に生まれて英才教育を受けて子供の頃から現在まで芸歴を重ねているらしい。すごい(小並感)。
1992年7月の10位。性別不詳の歌手っていうコンセプトがすごいな。確かに見ても性別がわからん。
1992年7月の17位。当時としてもオールドスタイルだったのではないかと思われる正統派のロックバンドっぽい感じ。
1992年8月の8位。B'zの女性版として企画されたらしい。
ビジュアルはまさに女性版B'z。こういうタイプの女性デュオって他にあんまり思い浮かばないし新鮮だな。
でも楽曲はあんまりそれっぽくないな。VガンのEDテーマ歌ってる人なのか。そっちの曲は知ってた。
1992年8月の16位。じんのうちたいぞう。すごい名前だ。本名らしい。なんかネットリした歌い方をしてる。
当時、ユニコーンのメンバーが連続でソロシングルをリリースするという企画があったらしく、この曲はその一環ということのようで。
なぜこの曲だけランクインしたのだろう…。
1993年2月の11位。女性ロックシンガーの草分けとしていくつかのヒットを飛ばした人らしい。
雰囲気としては大黒摩季っぽいかもしれない(もちろん浜田麻里のほうがデビューは先である)。
なんか系譜を感じるな。もうちょっと後に相川七瀬とかが出てくるのか。
1993年3月の6位。出生率低下を受けた厚生省の「ウェルカムベビー」キャンペーンの一環として結成されたチャリティーグループらしい。
メンツは小田和正、チャゲアスの飛鳥、カールスモーキー石井、玉置浩二、徳永英明、浜田麻里、山本潤子となかなか豪華。
1993年4月の17位。こちらはチャゲアスのチャゲを中心としたユニットらしい。
1993年5月の13位。これはサッカーの「オーレーオレオレオレー」か。Jリーグ開幕だなあ。
1993年6月の3位。グループ名と曲名でビーイング系っぽいと思ったらビーイング系だった。
デビュー時は二人組、曲調はロック色が強い感じで、ちょっとB'z的なコンセプトだったのだろうか。
1993年6月の20位。ちょっと古くさいロックバンドという感じ。いまでもメンバー変わらず活動しているらしい。
1993年7月の6位。テレビドラマ「チャンス!」の企画として、久保田利伸の同名の曲を、主演の三上博史が役名でカバーしたもののようだ。
1993年9月の6位。サザンオールスターズ絡みの企画らしい。よくわからん。
1993年9月の17位。男性二人組ユニット。双子らしい。ちょっとフォークっぽい曲調。
1993年10月の13位。女性目線で男を扱き下ろす歌詞がおもしろい。ちゃんと本人の作詞なのも良い。
もともとZYYGのベースの人と二人で組む予定だったのが音楽性の違いにより決裂してソロユニットになったらしい。
ちなみにZYYGのベースの人は音楽性の違いによりZYYGからも早々に脱退しているらしい。
1993年12月の16位。ほのかに90年代後半っぽさが混じってきた気がする。
何も知らずに「実は小室ファミリーですよ」と言われたら信じるかもしれん。
1993年12月の19位。こっちはド昭和だなあ。分類としては演歌になるのか。
1994年2月の19位。爽やかな感じの男性シンガー。いかにも90年代っぽいバラード調の曲。
いまは「支那ソバ玉龍」というラーメン屋をやっているらしい。音楽情報とラーメン情報が入り交じるTwitterアカウントがおもしろい。
1994年3月の12位。松任谷正隆に見いだされて他のアーティストへの楽曲提供も多数。「第二のユーミン」という異名もあったらしい。
この曲は明るい前向きな感じだけど、他の曲を聴いてみると郷愁を誘うような独特な曲調でちょっとジブリっぽいかもしれない。
1994年3月の19位。80年代ぽさもある哀愁の漂う歌謡曲という感じ。
1994年3月の20位。しっとりとして高音が綺麗な曲。曲調だけならビーイング系のDEENとかFIELD OF VIEWっぽいかもしれない。
1994年4月の7位。楽曲としてはあまり癖のない感じ。ボーカルの岡田浩暉は俳優としてよく見かける(名前は知らなかったけど)。
1994年5月の12位。こういう氷菓子あったよな、と思ったらガチで森永の「ICE BOX」の企画で結成されたグループらしい。
しかもボーカルの女性以外のメンバーは、中西圭三・池田聡・(久宝留理子「男」を作曲した)伊秩弘将という、この記事で取り上げた人たちばかり。
点と点が線でつながった感覚やね。なんかこの曲の「令和バージョン」もあるらしいよ。
暗めの歌詞をパワフルに歌う女性シンガーっていうとあいみょんあたりの先祖なのかもしれんね。
1994年8月の17位。お笑い芸人のダウンタウンが白塗りで芸者のコスプレして歌うという企画らしい。作曲は坂本龍一。
見た目はかっこいいんだけど歌は意外にポップというか可愛らしい。ちょっとリンドバーグっぽいか。
少しまえに「家、ついて行ってイイですか?」に出演していたらしい。
1994年11月の18位。80年代から活躍しているアイドル(?)らしい。
この頃には30代半ばのはずだけどコロコロとした可愛らしい声だな。
Wikipediaによると「胸キュン」という言葉を最初に発した人物だとか。マジかよ。
悲しいかって?悲しい。だが俺の悲しさはお前とは違って、コンテンツの作り手である編集やライターが一向に報われていないところにある。
ちょっとした思いつきによる面白さを追求する、というカテゴリーは今も昔もあって、それ自体は今後も消えてはいかないと思う。だが、その面白さをマネタイズするのに成功してるのは、完全に後発のYouTubeやTikTokとかの連中で、デイリーポータルの編集やライターはクリエイティブに対する報酬を全くと言って良いほど受けてなさそうなのが悲しい。
少し前には、猫の動画をアップしてるやつが、YouTubeの公式から銀の盾をもらって新築の一軒家を購入していた。一方で、デイリーポータルやオモコロやらロケットニュースのライターは相変わらずビンボ臭くて、まあそれも良いところなのだが、潤ってる感じが全くない。デイリーポータルの林さんとか、YouTube業界の金持ち連中の100倍ぐらい稼いでビバリーヒルズに豪邸建てていてもいいとおもうんだが、時折記事に出てくる自宅のマンション一階ベランダとか相変わらずビンボ臭くてそれがまたいい。江ノ島くんとかジャガーとかキャデラックに乗ってるぐらいのスターになっていておかしくないところが、いまだにママチャリに乗っててもそれがいいんだが、やっばり俺は悲しい。
利根川の近くの交差点で信号待ちをしていたら、大きな鳥が少なくとも五羽、くるくると滑空していた。カラスかな? と思ったら全部トンビのようだった。だって、鳶色してたし、鷹にしてはだいぶ大きかったし。
自然豊かで結構、と一瞬思ったけど、しかしいくらなんでも多すぎのような気がする。いつもはカラスの集団に1羽だけ混ざって虐められている、あのトンビが、たくさん。
これでは、川沿いのおうちは、うかうかと庭にペットの小動物を放して遊ばせることが出来ないじゃないか。天気が良いからって、バーベキューも出来な……。
とそこまで考えて、ふと思った。今年のGWと夏は、ステイホーム期間だったので遠出が出来ず、アウトドア派は川沿いのバーベキュー場に大集合していたそう。そこでトンビが人の食べ物の味を覚えて、川沿いに集合していての、この状況なのではないか。
お昼頃に集合して、すぐ手を繋いだ。初めて繋いだ。小町通りのひとつ隣の通りにある海鮮丼屋で生しらす丼を食べた。美味しかった。美味しそうに食べる顔が良かった。食べきれないかもと言われたので少しもらった。
そのまま成り行きで鶴岡八幡宮へ行き、おみくじを引いた。大凶を引いてた。落ち込んでた。相手を信用してはならないと書いてあり、半ば合っていたのでドキリとした。願掛けもした。何を願ったのか尋ねたら、言ってしまっては叶わないと言われた。気になった。
小町通りに戻って静かなスイーツ屋でかき氷と黒蜜バニラを頼んだ。いちごシロップは控えめな味で気に入った。黒蜜バニラを少しもらった。マナーのこととか、バッグの中身とか次にどこへ行くかを話した。
進路のこととか話しながらダラダラと駅周辺を歩いたあと、江ノ電に乗って由比ヶ浜へ向かった。以前茅ヶ崎へ言ったときも感じたけど、海が近い住宅街の雰囲気は良いよねと伝えたら、海好きなんじゃない?と言われた。このとき自分は海が好きなんだなと気づいた。
浜辺で遊ぶ小さな子どもを眺めながらたくさん話をした。可愛いねと伝えたら照れてた。このときが一番こころが安らいで、幸せだった。
寒くなってきたので江ノ電に乗って江ノ島へ向かったが、水族館は閉まりかけてたので鎌倉へ引き返した。この際に降りた高校駅は、目の前に海が広がっており綺麗だった。電車を待ってる間、何も話さなくてもスマホを触りたくならないと言われた。確かにと思った。
鎌倉へ戻り、また手を繋いでダラダラと歩いた。2人で手を繋いで歩いているだけで幸せだと伝えたら、同意してくれた。
小町通りに戻り今川焼きを食べた。お互いの価値観について少し話した。なんとなく似通っていたので安心した。あなたの手はぷにぷにしてて良いねと褒められたので、そんなこと初めて言われたよと笑ったら、初めてもらっちゃったと喜んでた。可愛かった。
まだ一緒にいたかったので夜ご飯も食べようと誘った。にっこり笑って頷いてくれた。でもあんまり食べられないだろうから、どうしようか迷った。恐る恐るサイゼでもいいかと尋ねたら、快諾してくれた。慣れてなくてゴメンネと謝ったら、慣れてない方がいいと言われた。気を遣ってくれたのかもしれないが、言葉通りに受け取ることにした。
以前、ファミレスに行った時は向かい合って座るのではなく、ソファに隣り合って座ってみたいんだ、となんの気なしに話したのだが、それを覚えていてくれたらしく、席に座る際、隣に来なよと言われた。嬉しかったが、周りの目が少し恥ずかしいと伝えたら、そんなの気にならないと言われた。それもそうかと思い、隣へ座った。想像していた通り、隣は良かった。
サラダとパスタを頼み2人で分けた。お互いの学校や友だち、男や女について話した。たくさん盛り上がって、一瞬親友のように感じた。
サイゼを後にし、帰ろうかとなったとき、後30分ほど話していかないかと誘われた。まだ一緒にいたかったから、そうすることにした。手を繋ぎながらまたたくさん話をした。ママに見せるからと写真を撮られた。あんまり盛れてなかった。次はいつ会おうかなんて話もした。また2週間後くらいに会えそうだった。
別れるとき寂しかった。ずっと一緒にいたかった。でもまた2週間後くらいに会えるしなとも思った。
おわり
今日のことをなるべく多く覚えておきたかったので、思い出せる範囲で書いた。もっと細かく書くこともできたが、キリがないのでこれくらいにしとく。
江ノ島(セーリング会場)近くに住んでいるが、五輪が始まってから飛んでくるヘリがやばい。
日中ひっきりなしに飛んできては、島の上空をぐるぐる旋回していて迷惑している。
元々この地域は米軍機が訓練飛行しまくっているから、航空機の音には慣れている方なんだ。
それでもやかましい!!と思えるくらいなので、普通の人なら発狂するんじゃないかと思う。
コロナ禍がなければ、数十年に一度のお祭りだしまぁ今だけ我慢するかと思えたかもしれない。
そもそも平日は出社するから、江ノ島でヘリを飛ばされても休日だけなら平気だっただろう。
でも今はコロナ禍で、週明けからは神奈川も緊急事態宣言下だ。テレワークしている人も多い。
そんな中なのに報道各社は、コロナ禍の危機意識ではなく五輪の浮ついた雰囲気を醸成して、
そのために自分達の地域は信じられないほどの騒音の犠牲になっている。理不尽だと思う。
自治体や警察は五輪無罪で相手にしてくれないし、これが閉会まで続くと思うとしんどい。
今まで五輪やスポーツは好きではなかったが、自分の中で忌み嫌うほどの存在ではなかった。
でも数々の不祥事に加えてトドメの騒音で、完全に呪詛の対象になってしまった。しんどい。
選挙に行こう、自民以外に投票しようなんてことは、言われなくてもわかっている。
コロナ禍にあっても、ただ家で静かに過ごせればそんなに不満を垂れることはなかったのに、
それすら叶わないことに絶望している。