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2018-02-02

萌えるからと言ってなんでも書くのは危ない

 小説なり漫画なりで好きなシーンや良いシーンがあったら自分なりの解釈でそのシーンの絵や小説にすることがあると思う。

 先に述べるが、私はそれに大いに賛成である

 私は小説を書くのだが、その中で「ここのシーンたまんない!」とか言われて絵にしてもらえた日には感激で夜も眠れない。

 さらに言えば、私宛に送ってくれれば喜んで家宝にしたか軽率に送って欲しかった。

 だが世の中そんな人ばかりではない。

 これは私が以前に経験し、現在も未解決に近い(理由は後述する)話だ。

 私は当時とある作品のAというキャラにハマっていた。

 今でこそそのAは凄い人気なのだが、当時は登場して間もないこともありpixivなどで検索しても総数で2桁ないくらいだった。

 そんな由々しき事態に、私はそのジャンル出会った仲間たちと共にキャラの良さを広めるべく日々小説を書いていた。

 そんなある日、とあるCPを見かけた。

 それは現在そのジャンル大手CPのS×Aだった。

 これはいいと私も最初は書いたり読んだりしていたが、作品が多くなるにつれて主流が可愛いAという風になっていった。

 それも仕方ないことだ。

 Sに対してはAもツンデレのようなところもあったし、そもそも公式設定からして童顔など可愛い要素多めなのだ

 けれど初登場や要所要所で現れる格好良さ、正体不明の頃から時折見せる恐ろしさなども魅力なキャラだ。

 そして悲しいことに、私は後者の部分でAを愛していた。

 つまり解釈違いだ。

 こうなってはS×Aに触れにくくなる。

 幸いにして当時はAの魅力を全力投球で書いたA攻めの別CP小説が好評で普段のメインはこっちだった。

 だから無理してS×Aに触れる必要はない。

 ないのだけど——

 これまた悲しいことに私はSも好きだったのだ。

 特にAと絡むのが好きだった。

 これは原作エピソードのせいとも言えるのだが、語ると長いのでここでは省く。

 とりあえず、原作がAとSの絡みを推してくるのである

 そうなるとAとSが絡む二次が見たくなる。

 でもそれでは主流解釈可愛いAを見なければいけない。

 雑食とはいえ、解釈違いばかりというのはさすがにキツいものがある。

 ならばと、逆CPに手を出した。

 今から考えればこれがいけなかったのだが、当時は雑食の利点を生かした良い手だと思ったのだ。

 そして私はA×Sを検索するようになった。

 まぁ当時ジャンル自体マイナーな上に、その主流CPとは逆なため作品総数が少なかった。

 それでも活動する人はいた。

 そしてその中に彼女はいた。

 仮名はエヌ子としておこう。

 エヌ子は絵も小説も書けたため当時のpixivにあるASの大半は彼女作品だった。

 少なくとも私が検索した範囲ではエヌ子の作品に溢れていた。

 なので真っ先にエヌ子の作品をみることになったのたが、正直ドストライクだった。

 小説にしても小話を書いた絵にしても私の好みでヤバかった。

 本当に好みすぎてpixivに日参し、Twitterフォローして新作を待ち望むほどのファンになった。

 けれど声をかけることはしなかった。

 理由としては単純だ。

 私が雑食で、逆CPを既にいくつか書いていたかである

 私はそうではないが人によっては逆CP絶対NGなんてこともある。

 そもそもエヌ子はS総受の人だった。

 ならSA以外にもS攻めを書いている私なんか範疇外の可能性がある。

 だからまりかかわるべきではないと思ったのだ。

 だが悲しきかな、雑食書き手の性。

 エヌ子の作品を読む内に私もASを書きたくなった。

 そして同時に、エヌ子さんの作品もっと多くの人に見てもらいたいと思った。

 そのためにはどうすればいいか

 それが、その日からそれが私の命題になったのだ。

 そんなある日、エヌ子の新作が投下された。

 それはいもの妄想シチュエーションの絵だった。

 そして、その中のひとつが、私の心に深く刺さったのだ。

 それは普段Sにひどく当たってしまうAが酔っ払い甘えるというシチュエーションだった。

 簡潔に言えば凄く萌えた。ヤバかった。

 そして、この萌えならばいいのではないかと私は思ったのだ。

 この萌えならばエヌ子さんの作品紹介に打ってつけではないかと。

 そしてTwitterにてリツイートした。

 が、それでは足りないと思った。

 もっと他の作品pixivにあるから見てほしいと。

 そして、私はある作品を書き上げた。

 そう、それが冒頭の説明に繋がるのだ。

 つまり、私はエヌ子さんのその絵のシーンを元に小説を書いたのだ。

 そしてそれを、pixivにアップした。

 そのときはまだpixivにまとめた作品がアップされてなかったのでURLは乗せてなかったが、代わりに「エヌ子さんのAS萌えて」とも「元ネタはエヌ子さんの作品から」なども明記していた。

 これが多分いけなかった。

 これがどういう経緯でかは未だにわからないが、人伝に私が上げた作品を知ったエヌ子は「嫌だ」とツイートした。

 今はそのツイート自体消されてしまい残っていないのだが、はっきりとした拒絶だった。

 今でもそのショックは覚えている。

 だが考え方の違いもあるだろうし、何か不手際もあったのだろうと心を落ち着かせた。

 そしてすぐに該当作品を消し、リプでエヌ子にその旨を伝えた。

 すると今度はそれを「嫌だ」と言われたのだ。

 そして「きっかけのツイートは消すから戻して」と上記ツイートを消されてしまった。

 そうは言われてもこちももう消しているしと困惑する中、リプでは埒があかないと言われDMに移行することとなるのだが。

 DMもっと混迷する。

 そのときのやりとりは最初に消されてしまったツイート以外すべて画像に残しているのだが、先方がネットに公開しないことを約束しろと言うので上げられない。

 だが内容としては早々にこちから「どうしたいのかわからない」や「そちらの主張が一貫していない」ことを指摘した。

 すると先方からよくわからない問題を出されたり、果ては「消して済むなんて思うな」「こちらの仕事に影響が出て困る」などと送られてくるようになったのだ。

 こうなったのは多少は私の落ち度なのだろうが、それにしてもよく意味がわからなかった。

 その中で1番訳が分からないのは直接やり取りしているのに「仲介役になってくれ」と私と仲のいい相互さんに連絡していたりするところなのだ

 幸いその方にはエヌ子とのDMやり取りに移行するときからずっと相談しており、DM内容も見せていたので中立に徹してくださったのだが。

 その方をしても意味が分からないと言っているほどなのである

 なお、エヌ子がその方に送った文面は私は見ていない。

 その方が見ない方がいいと言ったからだ。

 まぁそれはいい。悪口だろうとなんだろと気にしない。

 それよりも最初の方に述べているが、これは未解決に近いことが問題なのだ

 結果を先に述べると、先方からの返信が来ていないのだ。

 DMでも埒があかないかSkypeにしてくれと言われ、証拠が残らなくなるからと断ったら返信がこなくなった。

 そしてフォローが外されてしまった(当時は相互フォローではないとDMを送れなかった)。

 まぁ返信が途絶えるのは既に何度もあり、その都度こちから折りをみて催促していたからそこはもうどうでもよかった。

 それよりもフォローが外された方が困ったのだ。

 先方都合でDMにしたのに、これではもう絶縁状である

 正確にはブロックはされていないので違うのだが、それでも返信しないという意志の現れである

 こうなると本当に困惑しかない。

 解決したいってのも、責任を取ってくれっていうのも先方の要望なのにそれを達成する前に切られてしまってはどうしようもない。

 このまま活動するにもまた絡まれ訳の分からないことを言われても困るし、そもそもCPを変えようとジャンルは同じなのだからどこかで出会可能性が高い。

 そして考えた結果、私はアカウントごと引退することを決めたのだ。

 そうする以外手段が思い付かなかったし、少なからず仲間たちに迷惑もかけていたのが嫌になっていた。

 そうして私は先方の消すなという言葉尊重し、pixiv作品には閲覧制限をかけ、ことの経緯を書いた文面を公開した。

 もちろんよく分からなかったところや、二転三転していた発言には触れずだ。

 そしてTwitterアカウントも消さず、あらましを書き放置した。

 後日談として、その後も繋がっていた相互さんなどから

解決してよかった!ってあの人すごく喜んでるんだけど」や、ちょっと人としてどうなの?という話を聞くのだが、もう関わりたくなさすぎてスルーしてしまった。

 その節は失礼しましたと、この場を借りて謝罪したい。

 でももうエヌ子には愛想が尽きていたから話も聞きたくなかったということで許して頂きたい。

 あと私の作品を好きだと言ってくださった人たちへの申し訳なさすぎが強かったのもある。

 閲覧制限をかけたあともpixivメッセで「好きでした。残念です」や「どうにか見れるようにしてもらえませんか」など当時はもちろん、数年経った今でも届く。

 それを見るたび、もっとどうにかならなかったかなと思う。

 なので、というわけではないがこれを書こうと思ったのだ。

 脱線なども多かったですが、一応これは注意喚起です。

 こういう人もいるからという。

 そして冒頭のそれになるのです。

 つまりいくら萌えようと安易に人の作品元ネタに書かない方がいいよっていう。

 書いてくれーって言ってる人は大丈夫でしょ?とか思うよね。

 ダメです。私の関わった人も言ってました。

 だから書くなら仲間内にした方がいいです。

 じゃないとこうなったときすごく面倒くさいです。

 神の作品とか書きたいよね。

 でも神ほど気を付けた方がいいです。

 神に失望したくないなら余計に。

 件のエヌ子ですが、最近は浮上していないようですけど未だにそのジャンルに居ますし、どうも商業お仕事しているようですし、別垢を持ってないとも限らないので本当に気を付けて。

 途中からパクリだとか、出るとこ出るとか気の弱い方だと心が折れそうなことまで言ってくるような人なので。

 そして、そんな人間はエヌ子だけではないと思うので私の実体験を元に紹介しました。

 長くなりましたが、どうか皆様は楽しい創作ライフお楽しみください。

 長文乱文をここまでお読み頂きありがとうございました。

2018-02-01

anond:20180201214803

ならば焼き付ける前にざっくりと蒸すというテクニックもある。

水でも中華スープ溶いた出汁でもいいから、フライパンが温まりもやしに若干火が入ったところでぶち込んで蒸発させてしまうんだ。

熱が7割がた通っていると判断したら強火で焼き付ける、最後の1割は皿に盛りながら余熱で通すくらいの勢いだ。

良いもやしライフを!

2018-01-31

こんなんどれも5秒で思いつくだろ

ラクショーすぎるわ

16 ガーデニング アリスと蔵六職業花屋

20 海外ドラマ ラブライブ元ネタ

22 ウクレレ おじゃる丸ウクレレさん)

24 数学 アリスSOS問題)・仮面ライダービルド必殺技

41 ジャグリング カレイドスター(頻繁に登場)

42 切り絵 FGO(マシュ◯◯◯ライト

48 ルービックキューブ ファイ・ブレインキュービックガロア

49 バルーンアート ジョジョSBR(まだアニメ化してない世界だがアニメ化するのはほぼ確定の世界から問題ないはずの世界だ)

52 漬物 ボボボーボ・ボーボボ(けものはいものものはいない)

57 人間観察 ピーピングライフ名前の通り)

63 アロマ プリパラ(ありょま~)

64 スキー 艦これ(ただしスキー水上でやる)

65 ハーモニカ ふたつのスピカ見上げてごらん夜の星を

70 歴史 げんしけん2(そもさん!せっぱ!)

76 フルート キノの旅(出て来る回はだいたい神回になる)

77 盆栽 バンドリ(金髪の子可愛そう)

78 バードウォッチング ガンダム(手の空いている者は左舷を見ろ)

79 パントマイム ガラスの仮面恐ろしい子!)

81 スケボー クラシカロイドモツ

83 そば打ち てーきゅう(ごめん。うどんだった。まあ誤差みたいなもんでしょ)

84 ペン回し CCさくらペン(ギン大王)回し)

89 リフティング サンリオ男子(さっき見たから)

90 フラワーアレンジメント アリスと蔵六(よく考えたら花屋ガーデニングって似て非なるもんだわメンゴメンゴ)

91 キャンドル ポケモン(なんかそんなのいたはず)

92 切手集め ジョジョ4部(切(った)手)

94 ダム巡り ∀ガンダムダムガンダムダムでありその歴史を巡っている∀ガンダムは実質ダム巡り)

98 ジグソーパズル 宇宙兄弟ふたつのスピカと迷ったけど同じネタ2回は流石にね)

99 ペーパークラフト R.O.D

100 ステンドグラス まどマギ(なんかそんな演出合った気がする)

よっし俺の勝ち!

執筆時間 1500秒

anond:20180131111545

あー、それ『女性観点での美しさ』でみてます?だとしたら同意

ただ『男性から需要』みたいな観点だと、加齢で需要は下がる。

男性のみ魅力も加齢によって下がるが、男性との賃金格差に執着する女性一定数いるので、ある程度の賃金のみ男性には魅力が残る。

ブスBBAは早い段階でフェミ的なライフプラン高学歴福祉の整っていて高収入企業に入るか独立して、インディペンデント生き方確立しないと、魅力が落ちる中年から難しくなる(これは中年男性も同様ではあるが)

anond:20180129221711

前回の増田へのトラバで↓を書いた渓流釣り趣味のおばちゃんですよ。

anond:20150621012339

あれから時々、考古学研究室増田氏は元気にやっているかな、と思っていたので、後日談を報告してくれて本当に嬉しかったです。ありがとう

困りごととその対応案を伝えて、教授陣の理解と協力を得られたこと。実際に行動して、研究室の仲間と準備し、備品に組み込んでもらったこと。簡易トイレも導入できたこと。更に、ルールブックを整備して、増田氏がいなくても運用が回る状態したこと

本当に素晴らしくて、増田や周りの人の研究ライフが少し快適になっただけでなく、今回の行動が、増田自身の今後の仕事研究にもきっと生かされていくんだろうなって思える内容でした。

よく頑張りましたね。大きな花マルあげたいです。

増田氏の、残り少ない研究室ライフと、その後の将来に、大きな幸せがありますように。

2018-01-30

anond:20180130014600

いえいえ、しょうもない書き込みに興味持っていただきありがとうございます

異性にぐいぐいすると、痛い目にあったりするのでほどほどに。

同性であってもアイタタになったりもするので(

どういう経験があってそういう人柄が成り立ったんだろうみたいな部分は本当にそれぞれが持つ物語としてひとつとして同じではないので面白いです。

が、「趣味人間観察なの!」はだいぶアレなのでお気をつけください!

良いエンタメライフを!

かぼちゃの馬車の思い出の追記

【追記しました】かぼちゃの馬車の思い出

都内に勤めるOLというシンデレラになった元増田です。

本当に、何の気なしに仕事のお昼休みぽちっと投稿してみたエントリがこんなに伸びてしまってめちゃくちゃびっくりしています……。スマートライフ(いまはスマートデイズなんですね)に特定されて業務なんちゃら妨害って言われたらどうしようとびくびくしています

こんな長い文章読んでくださってありがとうございます

自分では思いつかないような視点コメントもたくさんあって、また一つ勉強になりました。

気になったコメントもあったのでぽろぽろ追記します。

・まず、結構詳細に書いてしまったので退去時のアレソレは控えさせてください……。特定されそう。

ざっくり言うと、入居時に説明されていなかったことで不利益を被りそうになった、という感じです。

でもこういうのって多分シェアハウスじゃなくて普通アパートとかでも全然ある話だとは思う。

・そして「おすすめできない」と書きましたが、正しくは

上京の足がかりとして期間を定めて利用する分には便利」です。

実際わたしシンデレラにしてもらったので言えることかもしれませんが。

それと、管理会社側もこの使い方を想定しているので、契約は3ヶ月更新と短かったし、入居する際も担当に「半年位で引越し資金を貯めて出ていく人が多い」と聞かされました。

若い時分にはこういうのもいいんじゃない?というコメもありましたが、正しくその通り。

若いし、なかなか人が経験できないことをしてみたい!というのも飛び込んだ理由の一つでした。

あと半年で出ていくと決めていれば大体のことには寛容になれた。私が一番キレまわしたのは退去の際に鍵を受け取りに来るはずの管理会社の人が結局来てくれなかった時ですね。最後最後!?!???!

・「半年間にいろいろありすぎ」本当に……

でも私は平和な階に住んでいたのと、結構他人干渉しなかったので多分事件としては少ない方です。別の階の住人の方が毎日事件だったと思います

変質者被害も、直接のものは私はかなり少ないです。会社飲み会終電で帰ったら性器露出されながら「性器をなめたい」とシャウトされたくらい。

それでも強烈な思い出なので、駅からの帰り道の暗がりに男性が立っていたり、後ろを歩いている人がいると、何かあったとき通報できるよう携帯を握り締める癖がつきました。

後ろ歩いている人が変質者って確率低いとはわかってるんですがどうにもね……

それと変質者発生→性器露出敷地徘徊までものの1,2ヶ月程度だったと思いますスピード進化

・変質者絡みで思い出したんですが、変質者って日本人だけじゃないです。余計怖いな。

・私がいた物件は変質者たちの格好の的になってしまったわけですが、他の物件がどうだったのかはわからないです。私の経験レアケースなのかそうじゃないのか比較材料がない……。ちなみに土地治安については、入居前に担当者から「悪くない」と聞いてました。

・今ちょうど「女性だけの街」が話題になっているせいかそれと絡めてのコメント散見されましたが、例の漫画のことを言っているなら私の場合は内部崩壊というより外敵の脅威の方が問題だったのでちょっと違うかな。

ただ、別の階は内部崩壊と言っても差し支えなさそうなほど険悪でしたが。みんな疑心暗鬼

まあ私の階でもなんだかんだ住人同士の陰口はあったので、結局女が集まるとそうなっちゃうのかなー!悲しいなー!とは思います

わたしがいた頃の私の階がたまたま平和だっただけで、他の物件では内部崩壊したって噂も聞きましたしね。

というかコメント見た時咄嗟に思ったのが漫画の方だったんだけど元ツイートの方……?それならきっと似たような経験をした人なのだろうなあ、と思うので共感できます


対応が遅かったのも決裁が遅かったのでは?という意見わたし転職して「稟議」や「決裁」のシステムをきちんと理解してから思うようになりました。

それでも女性ばかりが住む家としては本当に死活問題なので、どうにかもっと早く対応して欲しかったなあ……と思います。もし男性の変質者に押し入られても応戦できんし。

あと大掛かりな工事するなら事前に教えてください。


・内部ストーキングこわいですね。私がいた頃はなかったけれど、結構音筒抜けなのでやろうと思えば全然できますね……こわ。

・「文章面白い」「もっと書いて」系

ありがとう~~~~~~~~~~~!そして私ちょいちょい投稿してるよ~~~~~~~~~!!!

私の文章力は日々のTwitterで養われ磨かれているので、私の言い回し面白いとしたらおそらく私のTLのみんなが面白いということです。感謝

管理会社について色々書きましたが、たまたまその時その時の担当が悪かったのかな……とも思うのであまり管理会社自体を責める気はないです。あまりね。

入居するとき担当さんは本当に色々尽くしてくださったので、それはすごく感謝しているし、定期的に巡回に来る社員さんも寮母さんみたいに色々気遣ってくれて嬉しかったし。

いいところも悪いところもあります

・これを書いてからスマートライフ関係記事いくつか読んだんですが、いまは結構入居者ルールかなり厳しくなっているようですね。私がいた頃はまだシェアハウス自体走り出したばかりで緩かった……。シャワールーム使ったあと排水口の髪を取って捨てるは私がいた頃からありました。というか恐らくあの家が発祥だったのでは……?捨てるの忘れて洗面台で髪乾かしてたらその後入った人が即文句つけにきてひょ、ひょえ……となった思い出。これに関しては完全に私が悪いんですけど……。

これくらいですかね。また何かあったらぽろぽろ追記します。

2018-01-29

【追記しました】かぼちゃの馬車の思い出

Twitter見てたら「かぼちゃの馬車」という懐かしい単語を見た。あんまり記事はちゃんと読んでいないが、いろいろ問題が起きているらしい。

女性専用シェアハウス運営会社賃借料支払いを突然停止

http://www.sankei.com/affairs/news/180121/afr1801210005-n1.html

かぼちゃの馬車」とはスマートライフという会社が運営する女性向けシェアハウスのことだ。今からもう3年くらい前、上京するとき半年ほどお世話になった。懐かしいついでに当時の思い出をちょっと書き残したい。




契約するまで

その当時はまだ研究生として大学に残っており、ほとんどフリーターみたいな生活を送っていた。

就職するにしても実家から通えるところ、と考えていたがネサフしているときかぼちゃの馬車の広告を見つけ、「案外簡単上京できるかもしれない」と思い立った。それからは早くて東京の興味のあった企業第二新卒として応募し、面接のため上京した際に物件見学もしてきた。

まず「駅から近いところ」が条件だった。大学までは駅まで徒歩5分もないところに住んでいたので、その頃はそれより遠くまで毎朝歩ける自信がなかった。

駅で担当と待ち合わせて、電車で移動。(たまたま営業車がなかったらしい)物件を二つみた。

どちらも入社予定の会社までは1時間以内と言ったところ。どちらも新築。入居者が殺到しているので、なるべく早く決めて欲しい(契約してほしい)と言われたが、面接の結果が出るまでは待って欲しいと伝えたらこころよく応じてくれて、面接結果が出るであろう2週間までは仮押さえしておくと言われた。部屋の間取りはどれも4畳半ほど。狭い。

結局私はより駅に近く、かつ帰り道の途中に交番があって安心できるという理由で某所の物件を仮押さえしてもらった。部屋もまだその当時は結構空きがあって好きな壁紙の部屋にしてもらった覚えがある。

見学している間、担当ものすごく親切にあれこれ見せてくれた。共同生活雰囲気や、持ち込むとよい荷物なども教えてくれてイメージやすかった。

無事内定が出て本契約したいと連絡した。引越しの日に契約書を取り交わす、それまでに初月の家賃を入れてくれと言われ、入金した。この辺はもうあいまいだけど初期費用でかかったのはこの初月の家賃だけだった。礼金敷金保証金一切なし。10万以内で上京を決められた(何かキャンペーンしててそれでの金額かもしれない)


引越し

引越し家族に手伝ってもらった。車でいろいろ荷物を運びこんだが、建物の中は完全男子禁制で、せっかく手伝いに来てくれた父は一度も中を見ずじまいだった。母と私と、契約のためにきた担当荷物を運びこむのを手伝ってくれた。私はかなり荷物が多い方だったらしい。過去最高と言われた。少ない人だとスーツケース一つで入居してしまうとか。私は後から買い足すのが嫌で、カラーボックスやら衣装ケースやらとにかくいろいろ持ち込んだ。


入居してから

早速私のシェアハウス生活が始まった。

シェアハウスと言うと大体の人が「テラスハウスみたいなやつ?」と聞いてくるがそんなしゃれたものではない。

私が入居した物件は2階建て、それぞれの階に7部屋あって最大14人入居可能だった。私がいる間はほぼ常に満室だった。

物件全体の設備

シャワールームが2つ、トイレが各階1つ、洗濯機乾燥機が計3セット、洗面台は各階2つ。あとキッチンが各階にあった。ここまでが共用設備で、あとは各人個別の部屋が与えられている。イメージシェアハウスというか寮に近い。

物件によって部屋数は当然違うし、部屋数が同じでも設備の数が少なかったりということもある。

私は自炊派だったのもあってキッチンが2つある物件を選んだが、もう一つ検討していた方は1階にしかなかった。

設備面で特に面倒を感じたことはなかった。基本好きな時にシャワー洗濯機も使えるが、どうしても用事があってこの時間に入りたい!みたいなときホワイトボードを使って予約できたし、不思議と住人の生活リズム微妙にずれているので朝の準備で洗面台が占拠されているということもなかった。洗濯機も同様。キッチン自炊派が少なくてほぼ私の独占状態だった。

あと冷蔵庫各部屋に備え付けられているので「私のプリン勝手に食べた奴誰!?」みたいな事件は起きようがなかった。

それと週に2日くらい、お掃除の人が共用スペースをお掃除してくれるのでいつもきれいだった。

【部屋の設備

テレビロフトベッド(ハンガーラック付き)、ライト付きのデスク椅子冷蔵庫があった。

ものが多いので棚なしには生活できなかったが、ミニマリストたちはその備え付けの家具だけで充分生活していた。私はオタクなのでDVDレコーダーパソコンデスクトップ+ノート)なども持ち込んで、ロフト下のデスクはなんかもう大変なことになっていた。

ありがたかったのはネット使い放題、エアコン使い放題。電気代も水道代も家賃に込みなので、ここぞとばかりに空調は常に稼働させていた。wi-fi用のルーターも買って導入した。

それと個人用の設備というか備品として、折り畳み自転車があった。一度使ったが思った以上に使いにくくもう使わなかった。他の住人もみんな使っておらず、雨風にさらされてさび付いて無残な姿になってしまった。それでも一応そういった備品があるのは入居者のことを考えているなあと好感が持てた。折り畳みでなければ使ったのになあ。

人間関係

入居前の説明では結構仲良くやっていると聞いていたが、物件によりけりだなあ……という印象。

というか、基本みんな自分の部屋にこもっているのであまり交流がなかった。共用のダイニングは一応あって最初の1週間くらいは集まって食べたりもしてたけれど、共用の「リビング」はないので基本引きこもることになる。食事も私は自分の部屋で取ることがほとんどだった。

それでもやはり同じ階の入居者とはまあまあ仲良くなった。なので多少共用スペースのルール無視(洗い物を後で洗うつもりでちょっとシンクに置いておくとか、共用のドライヤー掃除機ちょっと拝借して自室で使うとか)は「お互い様精神で受け入れられたし、何ならついでに洗い物してくれたり、外出中に乾燥機に入れてた衣類を出して部屋の前に置いておいてくれるみたいなのはあった。私もした。

ただしもう一つの階の住人仲は最悪だった。何人かそういうルール無視を頻繁にする住人がいるらしく、潔癖気味の住人が蛇蝎のごとく彼女を嫌っていた。まあルール無視しているのだから悪いのは圧倒的にルールを守っていない住人なんだけど。

私の階の住人はみな朗らかで「お互い様だし~」「折角同じ家に住んでる縁だし~」ということで大目に見られていたことが、別の階ではそれが一切許されなかった。ルール無視住人は他にもいろいろ問題があったらしく、余計嫌われた。多分私の階にいても嫌われたかもしれない。

そんなこんなで別の階の住人は常にピリピリしていて、たまにその階の設備を使おうものならどんな細かいルール無視も厳しく指摘された。洗面台に髪が1本残ってる、シンクを使ったらゴミは欠片も残さず捨てろ、洗濯機使ったらゴミとりネットの中は捨てろ……いやまあ当然のことなんだけどすごい剣幕で指摘されるのでめちゃくちゃ怖かった。換気扇切り忘れて「換気扇切り忘れましたよね?」とわざわざ部屋まで凸られたこともある。怖かった。

【住人】

私は一応正社員だったが、周りの住人は派遣社員が多かった。就職した会社ビックリブラック企業病院で鬱診断をもらいかけ、入居中に強引に退社したのだが、彼女らのアドバイス経験談から派遣社員になった。

他にも仕事はないがとりあえず上京したくて来た、という人もいたし、地元バリバリ働いていたが趣味のために上京フリーターしているという人もいた。それから何か叶えたい夢(就きたい職業)があって、非正規で働きながら勉強しているという人も多かった。お金のない若い女子の受け入れ先としてはよくできたシステムだと思う。運営元の会社から定期的にお知らせのお手紙各部屋のドアに差しまれるのだが、仕事斡旋などもしていた。


退去するまで

退去しようと思うに至った事件が二つあるので言及しておく。

管理会社対応の悪さ】

ある週末、起きて部屋を出ると廊下水浸しで、どうやら洗濯機の不調で水漏れしたという事件があった。その時家にいた同じ階の住人総出で対応にあたった。一人はすぐさま管理会社スマートライフ)に電話、こっちでは対応しかねるのでサポートダイヤルの方に連絡してくれ、と言われた。そういえばそんなものがあった、とそれを受けてまたサポートダイヤルに連絡すると、「対応分かり次第折り返す」とのこと。待っているとまた管理会社から確認の連絡があり、「一体どっちが対応してくれるんですか?」と尋ねると「それも確認して折り返します」。住人一同意味が分から困惑

その内特に連絡なく、管理会社担当クラシアン的な人が来て現場確認していった。同じ階の他の住人はみんな不在になってしまったので私が立ち会う。この時点で連絡してからすでに6時間以上経過。結局クラシアン的な人たちでは対応できず、メーカーに問い合わせてくれという結論になった。その時3つある内の洗濯機の1つが既に故障中だったため、現状使用できる洗濯機が1つになってしまった。さすがにこれを14人で使いまわすのきついな、と考えているとクラシアン的な人と一緒に帰ろうとする担当者。待って待って今後の対応どうするか聞いてないし私明日以降は仕事で立ち会えない。

帰ろうとする担当を玄関で捕まえ、「今後どうなるんですか?メーカーへはこちらで連絡した方がいいんですか?」「明日こちからメーカーに連絡して、今後どうなるかはまた連絡します」「誰にですか?私?」「はい」「つまり私がしばらく窓口になって、住人みんなに周知すればいいってことですか?」「そうですね」

帰る前に、私が聞く前に教えてくれ。入居するとき担当対応が良かっただけにこの時はものすごくショックを受けた。水浸しになったおかげで洗濯機の近くにあったトイレもしばらく使えなくなったのだが、「トイレ使えません」「洗濯機使えません」の張り紙は私がした。

【変質者にターゲットにされる】

女性しかいないシェアハウスだということが周囲にバレたらしく変質者のターゲットになった。夜、家から少し離れた場所男性が立っていて、前を通り過ぎると突然卑猥言葉を投げかけられる。最初はその程度だったのがエスカレートして露出狂進化したり、家の周りというか敷地内を徘徊された。ごみをあさら生理用品を持ち去られたという事件もあった。警察が来た回数も私がいた半年で3回。交番近くにある意味パトロール強化しますと言われても変質者は減らない。複数人いるようだった。

夜窓を開けて換気しようとカーテン開けたらそこにいたとかもある。

もちろん管理会社に連絡したが、対応がびっくりするほど遅かった。窓の外に男いる事件から実に2,3週間経ってから突如玄関前に監視カメラが設置された。遅いうえに家の中に作業員が立ち入っての大掛かりな作業だったが事前の連絡はまたしてもなかった。

その他、敷地内にセンサーライトをつける、砂利を敷くなど一応対応はしてくれたが、そこに至るまでが遅く、住人への説明特になく不安は続いた。


退去しました

実に半年程度しかいなかったが、他の住人も大体半年くらいで引越し資金を貯めて普通ワンルームなどへ越していった。特に長くも短くもない入居期間だった。

もうこの頃には管理会社への不信感がMAXになっていて、退去のやり取りでもひと悶着あったがここでは割愛する。

引越しの時は業者を使った。管理会社には「男性は入れられないので荷物自分で玄関まで運んでください」と言われた。いやクラシアン的な人も監視カメラの設置の人も男性だったじゃん!引越し業者男性はだめなの!?

引越しの準備は仕事の後帰ってきて夜に少しずつすすめて1週間でできた。最後の夜、共用キッチンにある自分の引き出しの荷物を片付けていたら、仲良くしていた同じ階の住人がみんな箱詰めを手伝ってくれた上、翌日の引っ越しでは部屋の掃除も手伝ってくれて本当に人に恵まれたと思った。荷物は部屋に置いておくと私が身動きできなくなる+自室が玄関から遠くて当日全て玄関まで持っていくのがしんどいため、「明日引越しますので今日だけ許してください」という張り紙を張って共用スペースに出し、引っ越し業者にはそこまで入って運んでもらった。別の階の過激派住人には会わなかったが、穏健派住人(ただしこの子も何か一歩間違えると過激派になってしまう)に会ったので「ごめん引越し業者の男の人入ってくるけど……」と一応謝っておいたら「私入居するとき男の人の作業員だったよ!業者くらいなら別に男性入ってもよくない?気にしないで~!」と言われた。過激派だったらキレまわされていたかもしれない……ほっとした。

ちなみに鍵の受け渡しのため担当者が来るはずだったが遅刻遅刻を重ねられ、最終的に「下駄箱に入れておいてください」と言われ、下駄箱にぶん投げてかぼちゃの馬車を後にした。

その後は1Kの自分の城で悠々自適な独り暮らしを満喫している。ただ職場が遠くなってしまった上、やはり家賃光熱費シェアハウスに比べるといくらか上がってしまったので、機を見て転職しようやくまた正規雇用になった。住宅手当と通勤手当のありがたさよ。

それと一応出てくるときにかつての住人達と連絡先を交換したが、ほとんどもう連絡は取っておらずみんな何してるのかも分からない。




というわけでシェアハウスって色々とお勧めできないんだけど、貧困層女性上京するにはいシステムだったなあ、とも思う。あれがなければ上京思いきれなかったし。確かに私を都内に勤めるOLというシンデレラにはしてくれた。

それに防犯対策も今はかつてより良くなっているのかもしれないし、担当者対応もよくなっているかもしれない。あくまでも3年前の話(多分かぼちゃの馬車自体まだスタートしたばかり位の頃)ということだけ書き添えておく。質問あったら答えられる範囲で答えます





たくさんの方に読んで頂けてとてもびっくりしています

ちょっと追記書きました。→https://anond.hatelabo.jp/20180130010653

2018-01-26

Amazonサクラレビューを見抜く

そのうちまた変わるかもしれないけど、サクラが気になる方に向けてのアドバイス

最近Amazonサクラレビューが活発で何を信じていいのかわからない世界になっています

ちょっと前まであやしい日本語レビューばかりで分かりやすかったんですが、今ではパット見では判断付かないものが多くて困ってました。

で、サクラっぽい人のレビュワーのページを見てたら、レビューを書いた日付がほぼ集中してるのに気づきました。

商品特に関連性もなく、大量に。みんなセレブ買い物依存症しか思えない勢いでした。

業者に気をつけて皆さん良いAmazonライフを送りましょう。

2018-01-25

anond:20180125231704

ライフプランなどというものが成り立つと考えているか無駄な怒りを抱くことになる

諸行は無常である

anond:20180125134511

まずは登録ありがとにゃ。

ここに住むには増田ガチャをひくにゃ。

そのガチャの「れありてぃ」で今後の増田ライフクオリティが決まってしまうニャ。

2018-01-18

最近また脳が死んだ

はじめまして

突然ですけど自分、よく脳が死にます

これは脳死とかそういう“ガチ”ではなく、深く思考が出来なくなったり、記憶力がクソになったり、そういう意味での死です。こうして書き起こすと、自分マジで脳の病気にかかったんじゃないか不安になりますね。

それで、最近また脳が死んだんですよ。原因は確実。ブルーライトTwitterと、学校に行かず家にこもり切っているが為の運動不足勉強不足です。

皆、先程までツイートしようとしてた内容が何だったのかとか、打とうとしてた単語が一瞬で思い出せなくなったとか、Google開いた瞬間脳の思考リセットされて検索ワードが分からなくなったりとか、1度は経験してると思う。でもそれってそんな頻度は多くなくて、多くても週に3、4回とかですよね。そんで去年の秋かな?冬かな?脳死したので、マジで覚えてませんがそんくらい。もっと前かも。それくらいにさっき書いた現象が1日に何回も何回も起こって「アッ久々に本格的に脳死んだな」と自覚したんですね。ツイートする度に「あれ?入力しようとしてた単語が思い出せない。今さっきまで思い浮かべてたのに」になる。もしこれをツイ廃の方が見てらっしゃるのならお分かりいただけると思うんですが、本当にこれ地獄なんですよ。ツイ廃から1分に3回ツイートしたいのに、単語が思い出せなくてなかなかツイートできず、欲を満たせない。掻き消えた単語以外に俺が言いたい事を的確に表現する単語が無い。もしくはあるけどそれも思い出せない。それかしっくり来ないか

塵も積もれば山となるって言葉。まさにそれで、ツイート欲を満たせないイライラ不安感、確実に脳が衰えた事への絶望感、色々なもの毎日毎日積もっていって メンタル中国建物よりも崩れやすい俺はもう限界フォロワーツイート葉っぱ天国一時的メンタルを癒す日々。まさに地獄

でも時が経てば少しは治る。

最近は、前よりもほ~~~んの少しだけ学校で頭を使ったのでクソ事象の頻度が減った。メンタル中国人瓦礫の中に閉じ込めて崩れたままだけど、まあイイだろ。

でもさ、火曜日にさ、教授の呼び出しすっぽかして電話して水曜日にしてもらって、水曜日にもすっぽかして、そんで別の大事用事もすっぽかして、今日大事用事をすっぽかした。(大事用事ってのは、友達同士の楽しいやつとかじゃなくて、思考勉強をするタイプの畏まったアレね。遊びだったら行ってる。楽しいから

そんな事したら皆はどうなるか分かってるよな?そう、脳が死んだ。もうなんの気力も湧かねえ。インターネットスプラトゥーン梅酒以外に関してはだけど。

そんで話はガラーって変わるけど、こうやって脳死ライフを送ってみて、学校は何故あるのか理解出来た気がするんですよ(行かないけど)。多分学校って、そりゃ社会を生きやすくする為のトレーニング場とか自分が対人に向いているかかめられる場所とか色あるけど、脳が死なないようにする所なんですよね。

学校まで行くってのは相当偉いことで、まず学校行く前に起きるじゃん?ここで体力と気力を使う。無意識でもそう。少しだけしか使わない人から大きく使ってしまう人もいる。ホント大変だね。でも寝過ぎも良くないんだって。人体なんかクソだ。

そんで次、服着替える。女の子場合、それにメイクとかヘアスタリングとかアクセサリー選んで装着したりとか。いや、これは男の子もする人いるか

ここでもヤベエほど大きくHPMP(気力)が減る。自分はここで何もかもがLv.100宝具レベルMAXの弓ギルの宝具を食らったぐらいに減る。それもう死んでんじゃん。死んだ時はその日すべての用事をすっぽかして寝ます。これぞ社会不適合者。

それから家出て歩いたりケッタ漕いだり電車乗ったりして学校に行き、勉強したり他人交流したりして帰ってメイク落としたりなんなりしてTwitter。なあ、重労働すぎん?これを毎日毎日やれる奴は本当にイカレてる。そこの貴方自分でもそう思いませんか?滅茶苦茶偉いですよ。まあ、俺も偉いんだけどね。

で、毎日これやってたら当然脳みそはずっとクソみたいに働いてるんですね。死ぬ暇が無いぐらいに働いてるんです。だから学校に行ったら脳は死なない。心が死ぬ事はあるけど、脳は死にません。だってそりゃ、これだけのことしてんだから

マジでこれ書いてて、学校って脳を死なせないとこなんだなって気持ちが強くなってる。でもさ、俺は学校に行かない。脳が死ぬと、学校に行くことがどうしようもなくだるくなって、そんで学校に行かないから脳が死んだままになる。その悪循環の中にいるから、まだ脳が死んだままなんですね、僕は。

こんな人、世界にも結構いると思うんです。で、大体の人はここから抜け出して脳を蘇生した方がいいと思ってる。偉いね

でもさ、治さなくてもいいんじゃない?楽しかったら良いんだよ、人生。ただ、蘇生したらもっと楽しくなると思うならそりゃ蘇生させた方が断然いい。蘇生して息抜きスプラトゥーン2してまた蘇生活動してさ。イイじゃん。脳なんていつでも殺せるしな。そうじゃない人は、俺と一緒にダメ人生を楽しく送ってよう。スプラトゥーン2してさ。みんなでアメフラシかまして梅雨にしようぜ。イイね。脳なんていつでも蘇生するしな。

から皆、スプラトゥーン2して俺と遊ぼうぜ。スプラトゥーンも持ってるけど、ゲームパッドがねえんだよ。だから蘇生したい奴も死んでない奴も死んでる奴も、みんなSWITCH定価で買ってスプラトゥーン2買って、俺とクソみたいに遊ぼうぜ。時間はいくらでもあるし、死ぬ機会も蘇生する機会もいくらでもあるんだからスプラトゥーン2しよう。もし俺とスプラトゥーンしたい人間が現れたら、フレンドコード追記するからさ。人生、楽しくしていこうな。




p.s 俺を殺すボールドマーカーとスシはクソ

交流疲れたオタクのなんでもない話

別になんでもないことなんだと思う。

ちょっと交流が苦手でみんなと同じように騒いでみんなと同じ方向に向かって楽しむことに疲れてしまったというか、ただただそんな感じ。

はじめはすごく楽しかったなあ。

リプライで話をするのもRTとかふぁぼとか萌え語りとか、ジャンルのために繋がってジャンルの話をしてるだけだったから本当に楽しかった。

それが長くなって2、3年経ってくるとジャンルの移動だったり不満だったりリアルのことだったりがだんだんTLに溢れるようになった。アカウント移動する人なんかもちょくちょくいて最初に繋がってた人なんか半分以下。

最近はみんなガチャ報告ばっかり。

仕事始めて鬱とか愚痴ばっかり。

オフ会リアルイベントのアフターでご飯行きました〜◯◯さんやばい神!なんて空リプ馴れ合いばっかり。

萌え語りなんて一切しない。なんでこの人達フォローしてるんだろう。でもライブとかリアルイベントには必ずこの人達がいて、フォローも切れないからひたすらミュート、ミュート。

萌え語りとか同人誌とか絵の感想とかリプライを好きな絵描きさんに送ったら擦り寄りって言われたり空リプ批判されたり勝手に鬱になられたり。自分から絡みにいかないくせに感想送る人間を妬むなよ。

本当に疲れた。界隈全体がめんどくさいのか自分フォロワーがめんどくさいのか知らないけどひたすら疲れた

ノリが寒いのに気付かずにクソみたいなタグで遊ぶジャンル者も、馴れ合いばっかりでろくに創作もしない人達も、口悪く批判することがかっこいいと思ってる自称サバサバ(笑)ちゃんも、ジャンル自分アピールのためにキャラクターを使う人達にも一切関わらないひっそりしたところに行きたい。勝手に行けって言われるな〜。ジャンルは好きだからどこにも行けないんだなこれが。

まあこんなの誰もが思って誰もが感じることだから仕方ないねえ。みんな健康オタクライフを過ごそうね。おやすみ

2018-01-14

どのゼミに入るか迷っている(慶應義塾大学商学部

昨日、ゼミ説明会に参加してきました。

「何かを身につけて卒業できること」「ゼミ生の雰囲気が良いこと」などを条件に絞り込み、50近くあるゼミの中から、今5つのゼミで迷っています

http://news.fbc.keio.ac.jp/~fbc-zemi/seminar.html

小野晃典研究会

http://news.fbc.keio.ac.jp/~onosemi/

学生の本分は勉強であることを考えると、しっかりと学問に励めるという印象です。学会での発表や、大会への出場、英語論文など、本当に充実しているゼミだと思いますゼミ生の方が、自信を持って説明しているのが好きです。

清水研究会

http://www.keio-shimizu-semi.com/

高校生の頃、オープンキャンパスにも参加したことがあるゼミで、やはり教授ゼミ活動内容が面白すぎます所属しているゼミ生の方も、学生生活を充実させているようで、キラキラ眩しいキャンパスライフにも憧れます

山本研究会

http://isamuyamamoto.com/wordpress/

ゼミ生の方の振る舞いがゼミの魅力をまさに体現されています。私の話を聞きながら、何を話せばより良いゼミ選びができるかを一緒に考えてくださり、ゼミ生の方とお話しする度にゼミ選びが前へ進む実感があります経済学あくまツールというのも共感しています

・田邉勝巳研究会

http://news.fbc.keio.ac.jp/~winsnake/professor.html

オンとオフの切り替えができる、スマートで要領のいいゼミ生ばかりでかっこいいです。三田に入るとすぐに就職活動が始まることを考えると、身につく力と、得られる意識の高い仲間がものすごく魅力的です。アットホーム雰囲気も好きです。

牛島利明研究会

http://gyuzemi.jp/

学問領域にとらわれず、「社会」を意識して、学生からこそできること、学生のうちに身につけておくべき力を大事にしているゼミだと感じています。どのゼミ生の方も個性的で行動力があるところが好きです。

これらのゼミ卒業生の方がいらっしゃれば、実際の経験を踏まえたアドバイスいただきたいです。

その他のアドバイスも大歓迎です。

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モノより思い出

物より思い出 - YouTube

「お金を出すならモノより思い出」の科学的根拠 | ライフハッカー[日本版]

マイケル・ノートン: 幸せを買う方法 (TED) - Yahoo!ニュース

研究では、米国人の約57%はモノより経験を買うほうがずっと幸せになれると答え、その逆は34%でした。

ノートンらは 2 ドルでも 3 万 ドルでも、モノより経験を買うほうが悔いは残らないとしています

Amazon.co.jp: ハーバード流 幸せになる技術 PHPビジネス新書

原則経験を買う

原則2 ご褒美にする

原則時間を買う

原則4 先に支払ってあとで消費する

原則他人投資する

Amazon.co.jp: 「幸せをお金で買う」5つの授業 ―HAPPY MONEY: エリザベス・ダン, マイケル・ノートン: Book

人間は行動した後悔より、行動しなかった後悔のほうがより深く残る」

~行動・非行動の研究より~

コーネル大学社会心理学者 T・ギロビッチ博士

行動は必ずしも幸福をもたらさないかも知れないが、

行動のない所に幸福は生まれない。

ベンジャミンディズレーリ

たいていの人は、自分で決心した程度だけの幸福を手に入れる。

エイブラハム・リンカーン

2018-01-13

anond:20180113075451

つっまんねーこと気にしてゲームライフをつまらなくしてる馬鹿

増田くんは設定の齟齬を気にする賢いフレンズなんだね」なんて誰も褒めてくんねーぞ

この記事は半保護されています。(半保護の方針による半保護) ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 曖昧さ回避ベートーヴェンベートーベン、ヴァン・ベートーヴェン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベートーヴェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン Ludwig van Beethoven Beethoven.jpg 基本情報 別名 楽聖 生誕 1770年12月16日頃 出身地 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、ボン 死没 1827年3月26日(56歳没) オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン ジャンル 古典派音楽 活動期間 1792 - 1827 ベートーヴェンのサイン ウィキポータル クラシック音楽 ポータル クラシック音楽 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]、1770年12月16日頃[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。 目次 [非表示] 1 生涯 2 作風 2.1 初期 2.2 中期 2.3 後期 3 後世の音楽家への影響と評価 4 芸術観 5 思想 6 人物 6.1 名前 6.2 ベートーヴェンフリーメイソンリー 7 死因また健康について 7.1 聴覚障害について 8 親族 9 弟子 10 代表作 10.1 交響曲(全9曲) 10.2 管弦楽曲 10.3 協奏曲、協奏的作品 10.4 室内楽曲 10.5 ピアノ曲 10.6 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品 10.7 宗教曲 10.8 歌曲 11 著作 12 伝記 13 脚注 14 参考文献 15 関連項目 16 外部リンク 16.1 録音ファイル 16.2 伝記 生涯 ベートーヴェン(1803年) 1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男[3]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。 1787年、16歳のベートーヴェンウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[5]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。 1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノ即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。 20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。 1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。 40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。 1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。 作風 初期 作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドンモーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[6]。 中期 1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。 中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。 これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。 後期 1818年の二度目の危機の時には後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。 後世の音楽家への影響と評価 ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。 ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。 中でもワーグナーは、ベートーヴェン交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。 一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルクバルトークプロコフィエフショスタコーヴィチラッヘンマンにまで影響を与えている。 芸術観 同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルモーツァルトなどから影響を受けた[7]。 ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[8]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しない。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。 思想 ベートーヴェンカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。 また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。 政治思想的には自由主義者であり、リベラル進歩的政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒウィーン体制では反体制分子と見られた。 その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。 人物 身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。 基本的に服装には無頓着であり、若い頃には着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。 当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。 潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。 性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人づきあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあったという。 師ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。 パトロンカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)この「場を全くわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。 テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。 交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントンシンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。 聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。 死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(独語版)やその妹ヨゼフィーネ(独語版)等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモン(en:Maynard Solomon)らが提唱するアントニエ・ブレンターノ(独語版)(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。 これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。 メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番ハンマークラフィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。 彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。 パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであり、寿命を縮めることになったのは疑いがない。 コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという[10]。 名前 原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən] ( 音声ファイル)と発音される。 日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナーヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。 姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラントフランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。 vanはドイツ語オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。 偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。 ベートーヴェンフリーメイソンリー 詳細は「フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照 死因また健康について 慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のごとくである。 ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。 1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。 聴覚障害について 難聴(40歳頃には全聾となった)の原因については諸説[11]ある。 耳硬化症説 伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動は僅かに感じ取ることが出来る性質にあると考えられる。 又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。 先天性梅毒説 「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そうした話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。 鉛中毒説 上載の死因また健康についてを参照。 メッテルニヒ政権説 ベートーヴェンが難聴であっても完全に失聴していたかどうかは、21世紀の現代では疑問視する声が大きい。ベートーヴェンは1820年代のメッテルニヒ政権ではブラックリストに入れられたため、盗聴を防ぐために「筆談帳」を使った可能性は大きい。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]という書籍が出版された。 有名な逸話に「女中に卵を投げつけた」という類の物が残されているが、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。 デビューほやほやのリストの演奏に臨み、彼を高く評価したのは、もし失聴していれば出来ない行為である。 完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に、ボイスやフォーレがいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいるのに対し、失聴したベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている。 親族 祖父:ルートヴィヒ同姓同名) (英語版) フランドル地方メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンスアウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。 祖母:マリア・ヨゼファ 父:ヨハン 母:マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)  ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。 弟:カスパール・アントンカール 甥:カールドイツ語版)  カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。 弟:ニコラウス・ヨーハン 同姓同名の兄や妹2人がいるがすぐになくなっている。 弟カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。 弟子 カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。 フェルディナント・リース - ボンのクラヴィア奏者・作曲家。 ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオルミュッツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。 ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。 アントンシンドラー - 秘書だが、弟子とされることがある。 代表作 詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照 交響曲(全9曲) 第1番 ハ長調 op.21 第2番 ニ長調 op.36 第3番 変ホ長調エロイカ(英雄)』 op.55[12][13] 第4番 変ロ長調 op.60 第5番 ハ短調 (運命) op.67 [12][13] 第6番 ヘ長調 『田園』 op.68 [12] 第7番 イ長調 op.92 第8番 ヘ長調 op.93 第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125 [12][13] 管弦楽曲 『レオノーレ』序曲第1番 op.138 『レオノーレ』序曲第3番 op.72b 序曲『コリオラン』ハ短調 op.62 交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 op.91 『命名祝日』序曲 op.115 『アテネの廃墟』序曲 ハ長調op.113 『献堂式』序曲 ハ長調op.124 協奏曲、協奏的作品 ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 op.73 [12] ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61 ロマンス第1番 ト長調 op.40 ロマンス第2番 ヘ長調 op.50 三重協奏曲(ピアノヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 op.56 合唱幻想曲 ハ短調 op.80 室内楽曲 弦楽四重奏曲(全16曲) 第7番 ヘ長調(ラズモフスキー第1番) op.59-1 第8番 ホ短調(ラズモフスキー第2番) op.59-2 第9番 ハ長調(ラズモフスキー第3番) op.59-3 第10番 変ホ長調(ハープ) op.74 第11番 ヘ短調『セリオーソ』 op.95 第12番 変ホ長調 op.127 第13番 変ロ長調 op.130 大フーガ 変ロ長調 op.133 第14番 嬰ハ短調 op.131 第15番 イ短調 op.132 第16番 ヘ長調 op.135 弦楽五重奏曲 (全3曲) ヴァイオリンソナタ(全10曲) 第5番 ヘ長調 『春』 op.24 第9番 イ長調 『クロイツェル』 op.47 チェロソナタ(全5曲) ピアノ三重奏曲(全7曲) 第5番 ニ長調『幽霊』 op.70-1 第7番 変ロ長調『大公』 op.97 その他の室内楽曲 ホルン・ソナタ ヘ長調 op.17 六重奏曲 op.81b 七重奏曲 変ホ長調 op.20 管楽八重奏曲 op.103 ピアノ曲 ピアノソナタ(全32曲)   第8番 ハ短調『悲愴』 op.13 第14番 嬰ハ短調 『月光』 op.27-2 [13] 第15番 ニ長調 『田園』 第17番 ニ短調『テンペスト』 op.31-2 第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』op.53 第23番 ヘ短調 『熱情』 op.57 [12][13] 第26番 変ホ長調『告別』 op.81a 第29番 変ロ長調ハンマークラヴィーア』 op.106 第30番 ホ長調 op.109 第31番 変イ長調 op.110 第32番 ハ短調 op.111 その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等) 創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 op.34 創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 op.35 『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78 『ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79 創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80 創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 op.76 ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 op.120 アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57 幻想曲 op.77 ポロネーズ ハ長調 op.89 7つのバガテル op.33 11の新しいバガテル op.119 6つのバガテル op.126 バガテル『エリーゼのために』 WoO.59 本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品 歌劇『フィデリオ』 op.72c 劇付随音楽『エグモント』op.84 劇付随音楽『アテネの廃墟』 op.113 バレエ音楽プロメテウスの創造物』 op.43 オラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』 op.85 カンタータ『静かな海と楽しい航海』 op.112 別れの歌 皇帝ヨーゼフ2世の為の葬送カンタータ WoO.87 宗教曲 ミサ曲 ハ長調 op.86 ミサ・ソレムニス ニ長調 [12]  修道僧の歌 歌曲 アデライーデ op.46 汝を愛す 鶉の鳴き声 新しい愛、新しい生 口づけ 追憶 懺悔の歌 モルモット(旅芸人) 連作歌曲集『遥かなる恋人に寄す』 op.98 曇りのち、快晴 著作 『ベートホーヴェンの手紙』 外山楢夫訳、新しき村出版部、1926年。 『ベートーヷンの手紙』 中西武夫訳、啓明社、1928年。 『ベートーヷン書翰集』 中西武夫訳、啓明社、1930年。 『ベートーヴェンの手紙』第1編、鈴木賢之進訳、音楽世界社〈楽聖書簡叢書〉、1936年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎訳、岩波書店岩波文庫 2579-2581〉、1940年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎選訳、岩波書店岩波文庫〉、1950年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎訳、岩波書店岩波文庫〉、1957年、改訂増補版。 - 附:

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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

曖昧さ回避ベートーヴェンベートーベン、ヴァン・ベートーヴェン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベートーヴェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

Ludwig van Beethoven

Beethoven.jpg

基本情報

別名 楽聖

生誕 1770年12月16日

出身地 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、ボン

死没 1827年3月26日(56歳没)

オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン

ジャンル 古典派音楽

活動期間 1792 - 1827

ベートーヴェンのサイン

ウィキポータル クラシック音楽 ポータル クラシック音楽

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]、1770年12月16日頃[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。

目次 [非表示]

1 生涯

2 作風

2.1 初期

2.2 中期

2.3 後期

3 後世の音楽家への影響と評価

4 芸術観

5 思想

6 人物

6.1 名前

6.2 ベートーヴェンフリーメイソンリー

7 死因また健康について

7.1 聴覚障害について

8 親族

9 弟子

10 代表作

10.1 交響曲(全9曲)

10.2 管弦楽曲

10.3 協奏曲、協奏的作品

10.4 室内楽曲

10.5 ピアノ曲

10.6 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品

10.7 宗教曲

10.8 歌曲

11 著作

12 伝記

13 脚注

14 参考文献

15 関連項目

16 外部リンク

16.1 録音ファイル

16.2 伝記

生涯

ベートーヴェン(1803年)

1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男[3]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。

1787年、16歳のベートーヴェンウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[5]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。

1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノ即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。

20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。

1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。

40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。

1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。

作風

初期

作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドンモーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[6]。

中期

1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。

中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。

これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。

後期

1818年の二度目の危機の時には後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。

後世の音楽家への影響と評価

ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。

ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。

中でもワーグナーは、ベートーヴェン交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。

一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルクバルトークプロコフィエフショスタコーヴィチラッヘンマンにまで影響を与えている。

芸術観

同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルモーツァルトなどから影響を受けた[7]。

ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[8]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しない。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。

思想

ベートーヴェンカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。

また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。

政治思想的には自由主義者であり、リベラルで進歩的な政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒウィーン体制では反体制分子と見られた。

その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。

人物

身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。

基本的に服装には無頓着であり、若い頃には着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。

当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。

潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。

性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人づきあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあったという。

ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。

パトロンカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)この「場を全くわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。

テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。

交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントンシンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。

聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。

死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(独語版)やその妹ヨゼフィーネ(独語版)等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモン(en:Maynard Solomon)らが提唱するアントニエ・ブレンターノ(独語版)(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。

これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。

メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番ハンマークラフィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。

彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。

パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであり、寿命を縮めることになったのは疑いがない。

コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという[10]。

名前

原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən] ( 音声ファイル)と発音される。

日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナーヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。

姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラントフランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。

vanはドイツ語オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。

偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。

ベートーヴェンフリーメイソンリー

詳細は「フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照

死因また健康について

慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のごとくである。

ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。

1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。

聴覚障害について

難聴(40歳頃には全聾となった)の原因については諸説[11]ある。

耳硬化症説

伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動は僅かに感じ取ることが出来る性質にあると考えられる。

又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。

先天性梅毒説

「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そうした話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。

鉛中毒説

上載の死因また健康についてを参照。

メッテルニヒ政権説

ベートーヴェンが難聴であっても完全に失聴していたかどうかは、21世紀の現代では疑問視する声が大きい。ベートーヴェンは1820年代のメッテルニヒ政権ではブラックリストに入れられたため、盗聴を防ぐために「筆談帳」を使った可能性は大きい。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]という書籍が出版された。

有名な逸話に「女中に卵を投げつけた」という類の物が残されているが、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。

デビューほやほやのリストの演奏に臨み、彼を高く評価したのは、もし失聴していれば出来ない行為である。

完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に、ボイスやフォーレがいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいるのに対し、失聴したベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている。

親族

祖父:ルートヴィヒ同姓同名) (英語版)

フランドル地方メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンスアウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。

祖母:マリア・ヨゼファ

父:ヨハン

母:マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)  ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。

弟:カスパール・アントンカール

甥:カールドイツ語版)  カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。

弟:ニコラウス・ヨーハン

同姓同名の兄や妹2人がいるがすぐになくなっている。

カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。

弟子

カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。

フェルディナント・リース - ボンのクラヴィア奏者・作曲家。

ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオルミュッツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。

ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。

アントンシンドラー - 秘書だが、弟子とされることがある。

代表作

詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照

交響曲(全9曲)

第1番 ハ長調 op.21

第2番 ニ長調 op.36

第3番 変ホ長調エロイカ(英雄)』 op.55[12][13]

第4番 変ロ長調 op.60

第5番 ハ短調 (運命) op.67 [12][13]

第6番 ヘ長調 『田園』 op.68 [12]

第7番 イ長調 op.92

第8番 ヘ長調 op.93

第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125 [12][13]

管弦楽曲

『レオノーレ』序曲第1番 op.138

『レオノーレ』序曲第3番 op.72b

序曲『コリオラン』ハ短調 op.62

交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 op.91

『命名祝日』序曲 op.115

『アテネの廃墟』序曲 ハ長調op.113

『献堂式』序曲 ハ長調op.124

協奏曲、協奏的作品

ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 op.73 [12]

ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61

ロマンス第1番 ト長調 op.40

ロマンス第2番 ヘ長調 op.50

三重協奏曲(ピアノヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 op.56

合唱幻想曲 ハ短調 op.80

室内楽曲

弦楽四重奏曲(全16曲)

第7番 ヘ長調(ラズモフスキー第1番) op.59-1

第8番 ホ短調(ラズモフスキー第2番) op.59-2

第9番 ハ長調(ラズモフスキー第3番) op.59-3

第10番 変ホ長調(ハープ) op.74

第11番 ヘ短調『セリオーソ』 op.95

第12番 変ホ長調 op.127

第13番 変ロ長調 op.130

大フーガ 変ロ長調 op.133

第14番 嬰ハ短調 op.131

第15番 イ短調 op.132

第16番 ヘ長調 op.135

弦楽五重奏曲 (全3曲)

ヴァイオリンソナタ(全10曲)

第5番 ヘ長調 『春』 op.24

第9番 イ長調 『クロイツェル』 op.47

チェロソナタ(全5曲)

ピアノ三重奏曲(全7曲)

第5番 ニ長調『幽霊』 op.70-1

第7番 変ロ長調『大公』 op.97

その他の室内楽曲

ホルン・ソナタ ヘ長調 op.17

六重奏曲 op.81b

七重奏曲 変ホ長調 op.20

管楽八重奏曲 op.103

ピアノ曲

ピアノソナタ(全32曲)  

第8番 ハ短調『悲愴』 op.13

第14番 嬰ハ短調 『月光』 op.27-2 [13]

第15番 ニ長調 『田園』

第17番 ニ短調『テンペスト』 op.31-2

第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』op.53

第23番 ヘ短調 『熱情』 op.57 [12][13]

第26番 変ホ長調『告別』 op.81a

第29番 変ロ長調ハンマークラヴィーア』 op.106

第30番 ホ長調 op.109

第31番 変イ長調 op.110

第32番 ハ短調 op.111

その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等)

創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 op.34

創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 op.35

『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78

ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79

創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80

創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 op.76

ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 op.120

アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57

幻想曲 op.77

ポロネーズ ハ長調 op.89

7つのバガテル op.33

11の新しいバガテル op.119

6つのバガテル op.126

バガテル『エリーゼのために』 WoO.59

本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。

オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品

歌劇『フィデリオ』 op.72c

劇付随音楽『エグモント』op.84

劇付随音楽『アテネの廃墟』 op.113

バレエ音楽プロメテウスの創造物』 op.43

オラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』 op.85

カンタータ『静かな海と楽しい航海』 op.112

別れの歌

皇帝ヨーゼフ2世の為の葬送カンタータ WoO.87

宗教曲

ミサ曲 ハ長調 op.86

ミサ・ソレムニス ニ長調 [12] 

修道僧の歌

歌曲

アデライーデ op.46

汝を愛す

鶉の鳴き声

新しい愛、新しい生

口づけ

追憶

懺悔の歌

モルモット Permalink | 記事への反応(1) | 03:05

iPhone

情弱

情報弱者略語ではあるが、意味はよりシンプルだ。バカ。著者のことである

今日まで、9年に渡ってiPhoneApple製品を使い続けてきた自分は、少なくともこの類の人間ではないと信じていいた。

2008年日本発売された直後のiPhone3G欲しさに、「お義父さんストラップが貰える」『料金が安くなる」などと吐き、家族全員をドコモからソフトバンクへ移行させることに成功する。11月 当時中学2年生オタクまっしくぐらの自分はついに念願のiPhone3Gを手に入れた。

説明書はない。今のようにまとめサイトや聞けば誰かが優しく教えてくれるSNSもない。

ひたすらGoogleで調べ、信頼できそうなブロガー記事を見つけ、そこのコメント欄からコミュニティーが広がり、

更に別の良質な記事を見つけ、トライアンドエラーを繰り返すことで、iPhoneを使いこなしていった。

SB店員すらもよく使い方や設定すらもよく分かっていなかった当時、頼れるのはネットの向こうの見知らぬおじさんたちしかいなかった。

某巨大掲示板半年ROMってギズモード・ジャパンライフハッカーギガジンリンクを踏み、痛いコテハンをつけたり、最初は手探り手探りでiPhoneの設定や使い方をマスターしていった。

その中でも最もよく利用していたのが、個人ブロガーするぷ氏の和洋風現在は和洋風カイ)とスタートアップ期のAppBank運営するiPhoneBBSだ。

まさかAppBank上場してここまで大きくなるとは…)

書いてるだけでも懐かしくなってきた。

するぷ氏の優しいお兄さんのような語り口の文章厨房自分にも非常に分かりやすく、かつブロブデザインもおしゃれでセンスが良かった。たまーに出て来る技術的な話も、グーグル先生片手に必死に読んでいた記憶がある。

このするぷ氏の匠な技のせいで、私はAppleジョブズ、そしてiPhone さらには水樹奈々を愛するようになってしまった。

iPhoneBBSでは主に他のユーザーとの情報交換が主だった。

どうすればプロバイダメールiPhoneで受信できるか?といった何気ない話から、最強の脱獄アプリは何かと言った少々アウトローな部分まで。

流石に当時の少ないアプリ数ではApple監視の目が厳しかったのか、

脱獄関連のスレッドAppBank運営サイドによって一瞬にして消されるようになり、運営ライターの方「配信停止になるから脱獄の話は頼むからやめてくれ」と懇願されるまでになったことをなんとなく覚えている。(違ったらごめんなさい)

かに高校生起業家 うめ◯ん や 勝間某といったiPhoneTwitter黎明期有名人が色々いたような気がするけどまぁいいか

高校生社長は今何をしてるんだろうか‥。

閑話休題

先述のような試行錯誤の成果が全て自分iPhone3Gの中に入っていた。

アプリの配置から、内容まで自分だけのiPhoneが仕上がっていたと自負していた。

その後、契約から2年も立つと立派な型落ちiPhoneだ。

新版OSの動きが鈍い事にしびれを切らし、契約更新の際、iPhone3Gは一気にiPhone4進化した。

圧倒的に美しいRetinaディスプレイ、信じられないにパワフルになったA4プロセッサに加え、従来のデザイン刷新して両面を強化ガラスに変更。側面の削りだしのアルミもかっこよかった。

この時、私は、iPhoneの、性能やデザインとは全く異なる強さを痛感するのだ。

iTunesバージョンアップ機能のお陰で、ボタン一つで今日買ってきた新品のiPhone4の中身が昨日まで使っていたiPhoneと同じになった。なってしまった。

アプリ写真メール電話帳 その他設定などがすべてが一瞬で引き継げた。

2年間、ネットリアルの間で四苦八苦し続けた成果や思い出の写真音楽などがお蔵入りになるはずが、一瞬で新しい端末に引き継げたのだ。

これほど嬉しいことは無かった。

中身のデータは何一つ昨日と異なるところはないのに、動作は一気にパワフルに、本体デザインさらスタイリッシュになった。

以降は2年の更新月が来る毎に、時の最新機種に乗り換えて、中身のデータの引き継ぎを行い続けた。

13年には5Sバージョンアップ。この頃には、iPhone OS名称はとっくに無くなり、ジョブズ当人ですら帰らぬ人になってしまった。

16年春 水没した5Sの後継としてPhone6sを契約

いつものようにバージョンアップから復元し、昨日までの環境再現、新たなスタートを着り、今日2018年1月12日に至る。

約9年 4台に渡ってiPhoneを使い続けた結果、その中のデータは、私が中学1年生から大学4年生の今に至るまですべての成長の記録すべてと言っても差し障りない。

写真データなどはとうに1万枚を超え、中1のクラス写真や、中3の修学旅行で友人が軍艦島の策を乗り越えようとするところを、柔道家先生に取り押さえられるシーンなどが含まれる。

音楽などは、より顕著かもしれない。アニソンに始まりロックパンクロックフュージョーンに流れジャズ回帰する 自分音楽ブームの流れが見て取れる。

さて、そんな私のすべての詰まったiPhone再起不能となってしまった。

今週の自分は色々おかしかった。

火曜日から原因不明の40℃を越える高熱に悩まされていたとはいえ、全く合理的でないことばかりをしてしまった。

熱に魘され、寝ぼけながらパスコードを変えてしまい、それが分からなくなってしまった。

なぜかは全く覚えていない。

大方、このまま死んでしまったら両親は簡単iPhoneの中身を見ることでき、それが恥で嫌だからややこしいパスコードに変えたのだと思う。自分が。

思いつく限りのパスコードを今日1日使って総トライするも、当たるはずもなく、ついてにiPhone使用不可のロックが…。

また、バックアップデータも移動のつもりが誤って消してまうという、全くもって理解できない行動が続いた。

こうして、中1から10年の筆者の成長記録はそのすべてが無になってしまった。

一番惜しむのは、我が家で買っていた初代の飼い犬の写真が、iPhone以外に自分は持ってないということ。

その分2代目の写真を多く取っているけど、2代目の写真を取れば撮るほど初代の子を忘れていくような気をしてします、

ただ、このタイミングで熱が出て、パスコードが分からなくなってデータが消える意義はあるのか?

偶然にしろ必然しろ、やはりここで総括。

社会人になる2018年過去遺物との繋がりを断ち切るために消えた?

バカが。

iPhone

情弱

情報弱者略語ではあるが、意味はよりシンプルだ。バカ。著者のことである

今日まで、9年に渡ってiPhoneApple製品を使い続けてきた自分は、少なくともこの類の人間ではないと信じていいた。

2008年日本発売された直後のiPhone3G欲しさに、「お義父さんストラップが貰える」『料金が安くなる」などと吐き、家族全員をドコモからソフトバンクへ移行させることに成功する。11月 当時中学2年生オタクまっしくぐらの自分はついに念願のiPhone3Gを手に入れた。

説明書はない。今のようにまとめサイトや聞けば誰かが優しく教えてくれるSNSもない。

ひたすらGoogleで調べ、信頼できそうなブロガー記事を見つけ、そこのコメント欄からコミュニティーが広がり、

更に別の良質な記事を見つけ、トライアンドエラーを繰り返すことで、iPhoneを使いこなしていった。

SB店員すらもよく使い方や設定すらもよく分かっていなかった当時、頼れるのはネットの向こうの見知らぬおじさんたちしかいなかった。

某巨大掲示板半年ROMってギズモード・ジャパンライフハッカーギガジンリンクを踏み、痛いコテハンをつけたり、最初は手探り手探りでiPhoneの設定や使い方をマスターしていった。

その中でも最もよく利用していたのが、個人ブロガーするぷ氏の和洋風現在は和洋風カイ)とスタートアップ期のAppBank運営するiPhoneBBSだ。

まさかAppBank上場してここまで大きくなるとは…)

書いてるだけでも懐かしくなってきた。

するぷ氏の優しいお兄さんのような語り口の文章厨房自分にも非常に分かりやすく、かつブロブデザインもおしゃれでセンスが良かった。たまーに出て来る技術的な話も、グーグル先生片手に必死に読んでいた記憶がある。

このするぷ氏の匠な技のせいで、私はAppleジョブズ、そしてiPhone さらには水樹奈々を愛するようになってしまった。

iPhoneBBSでは主に他のユーザーとの情報交換が主だった。

どうすればプロバイダメールiPhoneで受信できるか?といった何気ない話から、最強の脱獄アプリは何かと言った少々アウトローな部分まで。

流石に当時の少ないアプリ数ではApple監視の目が厳しかったのか、

脱獄関連のスレッドAppBank運営サイドによって一瞬にして消されるようになり、運営ライターの方「配信停止になるから脱獄の話は頼むからやめてくれ」と懇願されるまでになったことをなんとなく覚えている。(違ったらごめんなさい)

かに高校生起業家 うめ◯ん や 勝間某といったiPhoneTwitter黎明期有名人が色々いたような気がするけどまぁいいか

高校生社長は今何をしてるんだろうか‥。

閑話休題

先述のような試行錯誤の成果が全て自分iPhone3Gの中に入っていた。

アプリの配置から、内容まで自分だけのiPhoneが仕上がっていたと自負していた。

その後、契約から2年も立つと立派な型落ちiPhoneだ。

新版OSの動きが鈍い事にしびれを切らし、契約更新の際、iPhone3Gは一気にiPhone4進化した。

圧倒的に美しいRetinaディスプレイ、信じられないにパワフルになったA4プロセッサに加え、従来のデザイン刷新して両面を強化ガラスに変更。側面の削りだしのアルミもかっこよかった。

この時、私は、iPhoneの、性能やデザインとは全く異なる強さを痛感するのだ。

iTunesバージョンアップ機能のお陰で、ボタン一つで今日買ってきた新品のiPhone4の中身が昨日まで使っていたiPhoneと同じになった。なってしまった。

アプリ写真メール電話帳 その他設定などがすべてが一瞬で引き継げた。

2年間、ネットリアルの間で四苦八苦し続けた成果や思い出の写真音楽などがお蔵入りになるはずが、一瞬で新しい端末に引き継げたのだ。

これほど嬉しいことは無かった。

中身のデータは何一つ昨日と異なるところはないのに、動作は一気にパワフルに、本体デザインさらスタイリッシュになった。

以降は2年の更新月が来る毎に、時の最新機種に乗り換えて、中身のデータの引き継ぎを行い続けた。

13年には5Sバージョンアップ。この頃には、iPhone OS名称はとっくに無くなり、ジョブズ当人ですら帰らぬ人になってしまった。

16年春 水没した5Sの後継としてPhone6sを契約

いつものようにバージョンアップから復元し、昨日までの環境再現、新たなスタートを着り、今日2018年1月12日に至る。

約9年 4台に渡ってiPhoneを使い続けた結果、その中のデータは、私が中学1年生から大学4年生の今に至るまですべての成長の記録すべてと言っても差し障りない。

写真データなどはとうに1万枚を超え、中1のクラス写真や、中3の修学旅行で友人が軍艦島の策を乗り越えようとするところを、柔道家先生に取り押さえられるシーンなどが含まれる。

音楽などは、より顕著かもしれない。アニソンに始まりロックパンクロックフュージョーンに流れジャズ回帰する 自分音楽ブームの流れが見て取れる。

さて、そんな私のすべての詰まったiPhone再起不能となってしまった。

今週の自分は色々おかしかった。

火曜日から原因不明の40℃を越える高熱に悩まされていたとはいえ、全く合理的でないことばかりをしてしまった。

熱に魘され、寝ぼけながらパスコードを変えてしまい、それが分からなくなってしまった。

なぜかは全く覚えていない。

大方、このまま死んでしまったら両親は簡単iPhoneの中身を見ることでき、それが恥で嫌だからややこしいパスコードに変えたのだと思う。自分が。

思いつく限りのパスコードを今日1日使って総トライするも、当たるはずもなく、ついてにiPhone使用不可のロックが…。

また、バックアップデータも移動のつもりが誤って消してまうという、全くもって理解できない行動が続いた。

こうして、中1から10年の筆者の成長記録はそのすべてが無になってしまった。

一番惜しむのは、我が家で買っていた初代の飼い犬の写真が、iPhone以外に自分は持ってないということ。

その分2代目の写真を多く取っているけど、2代目の写真を取れば撮るほど初代の子を忘れていくような気をしてします、

ただ、このタイミングで熱が出て、パスコードが分からなくなってデータが消える意義はあるのか?

偶然にしろ必然しろ、やはりここで総括。

社会人になる2018年過去遺物との繋がりを断ち切るために消えた?

バカが。

2018-01-12

2018-01-09

子供産む/産まないをお金解決できるか

行き詰ってふと思いついただけなのであまり道徳的ツッコミはいれないでほしい。可愛い彼女と100万円どっちがほしい?じゃあもしその彼女巨乳だったら!?くらいのくだらない話。

自分には6年半付き合っている恋人がいて、結婚の話が出ている。いくつかある障壁のうち最大のもの子供がほしい男・ほしくない女で意見が分かれていることで、お互いに理由ライフプラン家計ことなプレゼンしあったけれど結局「どうしてもほしい」「どうしても無理」ということで合意に至らなかった。

前提として、現在共働き。仮に子供ができても事情が許すなら共働き。稼ぎは今のところ同じくらい。

で、今、ふと思ったのだけれど、「毎年100万、自分の稼ぎから相手に渡す。だから子供の件は譲歩してほしい」というような解決はできないだろうか。子育てにかかる費用負担は別途相談金額も要交渉。お互いの稼ぎはたかがしれているけれど、今は互いに年数百万を貯金に回している。子供ができても年100万はオファーできるとして、それはそれなりの額ではないだろうか。

彼は、専業主夫になることも離婚する場合には子供を引き取ることも検討できると言っている。つまり子供を産んでも、彼女は耐えた年数×100万円の金額を持って元の生活に戻れる。身体的な負担産休取得による影響、バツイチになること、は、避けがたいけれども。

一方彼女はそれなりに稼ぐわりにお金を使わない体質で、しか子供を産まないとなれば100万といわずオファー可能。男の趣味に対しても寛容なので、彼は子供を諦めればかなり好きなように余暇を楽しむことができる。趣味の充実と子育ての充実は別種のものだけれども。

お金問題じゃない」と言われるだろうか。それもそうだと思う。彼女にしたって自分が産んだ子供になんの責任も感じずにはいられないし、彼にとって趣味子供はまったく別ものだ。でも、じゃあ、どんな交換条件が有効だろう。交換条件などという問題でもない?「さっさと分かれて別のパートナーを探せ」という発想以外に、あとどんな道があるだろう。

外食コスパ=どれだけ腹が膨れるか、と考えている奴多すぎ問題

外食コスパはどれだけ腹が膨れるかに非ず。そんなに腹膨らましたかったら白米にごま油と塩かけてむさぼっとけって話。

外食コスパ

にある。

なにも、オシャレな店がベストだといっているのではない。

合コンで良く使われそうなコピペしたオサレ感のあるお店なんて論外だ。

↑のどれも満たしてないのに価格だけは一丁前だから

食事で連れていくと、うすっぺらい田舎娘以外からセンスないと内心で思われるから気をつけろよ。

良いお店は、シチュエーションによって変化する。気の置けない友人となら、よっぽどボッタクリのお店とか、マズイとか、そんなんでない限りどこだって良いだろう。磯丸水産とか。

はいえそれでは元も子もないので、ここではシチュエーションデートと想定して「コスパ」について語っていきたい。

まず味。これはそのまま。美味いか美味くないか

自宅では作れないような手間のかかる料理なんかも良いね

フォン・ド・ヴォーから作られたブフ・ブルギニョンなんて何時間も煮込むし、居酒屋で人気のポテトサラダだって自宅で作ろうと思えば手間がかかる。最近人気の刻んだいぶりがっこ入りポテサラなんかも手間かかっているな〜って関心する。あと、原木から削るハモンセラーノも最高。自宅だと多すぎて手にあまるし、初心者だとうまく切れないからね。

サービス。これも大事

学生バイトがメインのお店はやっぱりどこか残念。良いお店って本当に良いんだよ。

お客さんに恥をかかせないためのさりげない気遣いや、豊富知識、会話が盛り上がってないカップルに会話のいとぐちを与えるような話題提供などなど……この店に来てよかったなと思わせる技術がすごい。

雰囲気

サイゼリアは良い店だが、デートに向かない理由はここにある。

客層が多種多様すぎるのだ。学生たちがだべってたり、ゲラゲラ騒いでいたり。照明が明るすぎるのもネック。まったく良いムードにはならない。面倒なのでソースはここには書かないけど、距離を縮めたい相手となら照明の明るくないお店の方がよいらしいよ。

閑話休題。良い雰囲気とはどういうことか?

常連同士の会話を楽しみたいという目的でないのであれば、隣の席と距離がある方が良い。落ち着くから

個人プライベートな会話も「隣の人に聞かれるかも」と思うと話しにくいものだ。

あとは、自分たち年代、懐具合が同じような客層の店の方が落ち着けるだろう。

若者が年配ばかりの店に行っても落ち着かないし、ある程度の大人学生たちの多い店にいても辟易するのは目に見える。

ちなみに、食べログなどの紹介文で店自らが「オシャレな」「スタイリッシュな」「女子ウケの良い」なんて御託を並べている店はだいたい地雷だと思っていい。

ここまでツラツラと書いたが、たくさんの店に足を運ぶことで自然と良い店とは、どんな店かわかってくる。それまでには、ハズレだなと思う店に合うことも多いだろう。そんなときは素直に、軽く1杯飲んだ後「別の店行こうか」と提案しても良いのだ。

肩肘張らず良い外食ライフを。

2018-01-05

仮想通貨取引を始めようか迷っている増田

仮想通貨をめぐる情報アフィリエイト仕手筋が入り混じりクソを煮詰めたがごとき肥溜めになってしまっているので、

損得抜きに「仮想通貨取引とはこういうものだ」という実感を書いておく。

株もやったことがないが大丈夫

仮想通貨価値を正しく判断できるのはエンジニア

通貨のコンセプトを読んで、「ユースケースは?スケールする?技術課題は?」といったことがパッと頭に浮かぶやつが適している。

しろ取引に慣れた金融出身にはアドバンテージがないと考えるべき。

もう遅いのでは?

別に遅くはない。

ただし暴落する可能性もあるので遊べる金でふわふわするぐらいにしておけ。

ビットコインを買えばいいのか

やめとけ。 ツルハシを売る業者ツルハシを振るう業者一方的に儲かるように整備されたクソ通貨

最初に作られたという以外に特徴がない。近いうちにイーサリアムリップルに抜かれる。

ではなぜビットコイン価値が落ちないのか

他のコインの購入は基本的ビットコイン建てで行われるという不幸な状況だから

例えばどこかの取引所イーサリアム建てで買えるようにした瞬間に、ビットコイン価値は大暴落する。

マイニングしたい。将来性は?

暗い。最近マイニング不要通貨とか、そもそもブロックチェーンですらない通貨が作られだしている。

どの通貨をどういうふうに買えばいいのか

まず少しでいいかブロックチェーン勉強しろ。今国内で買えるヤツで挙げるなら↓だ。

一年忘れることが難しいなら、とりあえず買ったあと値動きを見ろ。

そして気の向くままに情報を漁れば良い。

買った通貨そのままでいいの?

取引所破綻するリスクがあるので、万全を期すならハードウェアウォレット買って入れておけ。

コインとかICOかいうのは?

90%は詐欺。9%は技術不足で沈没。0.9%は開発されるけどスケールしない。

もしあなたエンジニアなら、その通貨ホワイトペーパー読んでみ。あまりのクソっぷりに失笑するから

それでも買いたければ買えばいい。

Twitterで○○が良いと言っている人がいる

すでにその通貨を仕込んでいる連中が叫んでいるだけ。

他の人が釣られて買うことにより値上がりを待ち、売り抜けをする愚劣なカスどもだ。

で、増田は何を買って、いくら儲かったの?

リップル20円のころに200万買って、いまは3200万に化けた。

SBI北尾が全力でSWIFTを奪りに行っているので、あと二年は寝かせる予定。

そもそもブロックチェーン社会を変える志を持つ技術でありインフラだろ。投機とかクソじゃん。

もっとも。ただ、正しい技術お金を突っ込むのは投機ではないと思う。

「買うのは企業、株ではない」とバフェットも言ってるだろ。「買うのは技術仮想通貨ではない」のだ。

その仮想通貨提案する未来を信じられるなら、金を入れろ。短期で売るな。寝かせろ。

金で幸せは買えないが、金は自由保障してくれる。

エンジニアが儲けを出しやす特性もあるし、現状クソ通貨をクソだと言える人が少ないため他の人にももっと入ってきて欲しいと思っている。

それでは、良い仮想通貨ライフを。

適当に書いた文章からリップルじゃなくてXRPなとかそういうツッコミは要らん。無粋だぞお前ら。

anond:20180105002339

ネトゲ廃人とか重課金兵とか今は良いかもしれないけど10年後どころか5年後すらヤバいよ大体

その間に起きるはずのライフイベント人生経験も何も無いんだぞ

仕事してるからOKじゃない、昇進なんかのチャンスも確実に逃す

親が死んで1人になって貧乏ゲーム依存おっさん大量生産されたら日本滅びるよ、労働人口減ってるんだから

2018-01-04

はてなの乗りこなし方(議論が苦手な人向け)

今年も年末年始議論政治社会が大好きな人たちが盛り上がりそうなネタがたくさんありました。

私にも考えや思いはあるけれどけどそこまで論理的じゃないし、他人議論で詰められたるのはつらい。

正直議論は苦手だし他人を打ち負かすのは嫌だと思う、でもはてなをしたい。そんな時ありますよね。

そういう論争や論理の詰めあいはそういうのが好きな人たちに任せておきましょう。スターを稼ぐのもそういう人に任せましょう。

そしてあなたなりにはてなを楽しみましょう。


1.怒りは悲しみやジョークポエムで表す

   ひどい記事を見て怒りに打ち震えるときありますよね、そんな時は怒れる人にお任せしましょう。

   怒りは正当なものですが、怒りは他人をより気づ付けやすく、自分もまた傷つけやすものです。

   その怒りを悲しみやジョークポエム表現しましょう。深い思いは必ず言葉にできます

ダジャレ知性的だと思います


2.矛盾ダブルスタンダードダブルバインドはそのまま受け取る

   矛盾ダブスタというのは生きていて必ずあるものです。

   普通の人はアレキサンダーが結び目を切るがごとく判断できるものではありません。

   論理を詰められないときは詰めなくていいです。

   まずは今そういう状態だなというのを認知しておきましょう。

   即解決する必要がなければ解決しなくて大丈夫です。


3.どうしようもない思いは匿名か非公開で書きましょう。

   それでも抑えきれない思いは匿名か非公開で書きましょう。

   いろいろな表現があると思います


4.知性も感情論理直感大事しましょう。


5.自分謙虚になりましょう。でも卑屈にはならないように。

   そこまで人間賢くもないし、立派でもありません。でもかけがえもありません。


それではよいはてなライフ

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