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2024-11-19

石丸が嬉々として「さあこの結果を受けて不信任出した議会はどう責任取るんだ〜?」

みたいなこと言ってるけど、素人なんか?

二元代表制やいうとんねん

立場は対等

しろこっから知事VS議会綱引き本番が始まって誰も得しないのよ

2024-11-15

自己責任論とかいう個責論

言わんとする事を言おうとすれば、タイトルのようになるしかないのだが、この事実が既に矛盾を抱えていて、「自己責任論という対象への批難をする他己責任論」の蔓延であるように思える。というと、他己責任論者と詰られたと勝手に感じた自意識過剰ずんぐりむっくりの干渉的なタイプ人間が、あんたはじゃあ失敗のすべては個人責任で、被抑圧的な対象に同情しないんだね、みたいなことを言ってくるのだが、まあまて。

誰もそんな事言ってなければ、あんたを責めもしていないから、一度聞け。

そんな自分を責めている被抑圧者の要求がなにを求めているのかといえば、あんたの勝手自意識の解消ではなく、まず問題の正しい把握である

自己責任論が批難される理由は、まあ端的にそういうことなのだが、自己責任論とは個人に生じた悪い現象自業自得だとする論理だ。

しかし、世の中通り一片では語れない。

ここでは、

悪い現象責任個人に帰責するのはやめろ→自己責任論は諸悪の根源攻撃→他己責任論者への転回(自己責任論への詰責、被害者加害者への転身)

という一連のプロセスが発生しているのであるが、これは個人的にも社会的にも同時並行で進行する。

個人問題社会の大問題拡張されうれば、

護身のための具術は他人へ剥ける牙にもなり得るのだ。

デフレへの視点で捉えるとわかりやすい(経済的問題はいつも視点が一点集中していて、多角的視点からつの現象を捉えようとはしない。)

通り一片というのは、負の側面だけを捉えているということで、個にとって悪質な自己責任論を撤廃、廃絶させてしまった先に何が残るのかという事を、《自己責任論者》は考えようとはしない。

そもそも彼らがしているのは、存在しない自己責任論者に対するテクストの訂正行為じみたもので、勝手に「自己責任論」という議題を設定して問題を追求しようとしているようなものだ。

まり、そのような対象(自己責任論者)は現実人格としては存在しないに等しい。だから、それに対する攻撃は、そもそも何に対して怒っているのか、攻撃しているのかがわからない。

から彼ら自身が《自己責任論者》となる。

が、彼らの攻撃自己責任論者として現実人格を叱責する。換言すれば、自己責任論の問題現実に帰責し、具体化する(してしまう)ことで、無関係他者を詰問する。

このような状態人格二元性と名付ける。この名称自体にそんな錯誤と矛盾が表れている。あたかも「自己責任論」のように。

そのような状態では言論攻撃的か、批難的か、あるいは攻撃的に批難的かになる。

整理しよう。

自己責任論の負の側面は悪い現象自業自得になるということだが、では正の側面は良い現象自業自得=本人の努力という捉え方に回収される事だろうか?

注意してほしいのはここで人格二元化された観念的な状態区別することだ。

まり、”自己責任論の正の側面として何らかの良い現象を受けている個人なんていないということ”だ。

たか上級国民に向けられる復讐根性のように、これ自体が正の論理から、負の論理はわからないとか、そういう事もない。

なんていうか、まずその、あなたの負の状況というものが無い。その穴も都合よくつくられたシチュエーションである

自己責任論も単なる視点にすぎず、良い現象も悪い現象もない。

にもかかわらず自己責任論が個人である私を批難しているように”現実において”感じるとしたら、それはたぶん観念的な他者への他責社会意識にまで拡張された時代からで、だからって別に一方的他責されてる被害者がいるわけではない。そんなふうに思うやつがいれば自身が目の敵にする迫害者と同じ。だが、そんなふうに思うやつが実在するわけではない。

その社会においては、皆が被害者で、加害者だ。

しかし、そのような変質を受けたものではない、自己責任という語句意味については肯定されるべきで、本当に憂いるべきは誤った負の観念が正しい意味まで同時に否定してしまう事だ。

さて貴方が本当に否定したいのは、自己責任論ではなく、それ自体誤った自己責任論の状態であり、求めているのは、廃絶という意味ではない負の否定である。負は無限に廃絶されるべきだ。だがその循環自体廃止は誰も望んでいない。

負の状態否定するために廃止を望んではならず、この廃止を望んでいる状態廃止された状態が負の状態といえるのではないか

一定結論を出すために、個人個人責任を持つべきだし、持てる社会状態が結局は望まれている。

しかし、「自己責任論」に限らずに、誤った観念がそれを阻害している。その状態改善こそが求められている。だから問題なのは自己責任論」そのものではない。「自己責任論」という記号問題にまつわる状態の全て。「自己責任論」がどのように社会において問題にされているかというシチュエーションが最も討議すべき根幹的な問題。それを問わない結果が誤った方向に行く。諸悪の原因は本当はこれ。なので、誤った社会的観念における誤った状況の防止のために、誤った社会的観念個人の逸脱の原因という意味で、社会責任のがれなんかせずに、「自己責任論」なんて議題の設定の仕方はやめて「個人責任」とか「個責主義」とか、もっと現代的な抑圧論に結びつけて考えたらいいし、そうするべきだと思う。

問題なのは自分の及ばない範囲問題まで自分責任にされているというか、そうだからって自己責任否定するんじゃなくて肯定するのが大事だっていう事なんだけど、その自己責任っていうのは正しい言葉意味肯定しようってことで、社会的に捻じ曲げられた仮置の信号として解釈すべきでなく、そこに置くべきではない。社会的には個人社会責任があるという自負でよくないか

自己責任論の提起のされ方がどこか病理的に思える。

テクストの訂正と、自己責任《論》

2024-10-25

anond:20241025015512

二元ミステリーは好きだし好きな人多いと思うが

からこそ昨年の映画ベルモットと灰原の馴れ合い感がマジで無理だった

なんかもっとあの辺の緊張感は大事にしてほしい

名探偵コナン史上最も重要事件10選(ではなくて)

流行に乗る。

名探偵コナンに追い付くために読んでいたほうがいいエピソードは既にいろんな所でまとまっているし、10エピソードどころではおさまらない。

なので読んでほしい回を下記に書く。(傑作集とでも言うべきか)

というのもコナンの人気エピソード投票はよくしているのだが、どうしてもキャラクター活躍する回とか、話が大きく動いて流れが変わる回とか、幼少期のアニメ視聴者が絵的インパクトのみで記憶に残ってるとか、妙にネットでこすられた回がピックアップされてしまうのだ。

今回はそういうの無しで行きたいと思う。

順不同だ。あと見るなら原作おすすめする。アニメ原作からちょっといじってるし、漫画の絵が良いんだよコナンは。

ミステリー作家失踪事件

19巻に収録された3話構成エピソードだ。

行方不明推理小説家を探すというもの。鍵は作家が残した原稿にある暗号ミステリーである。この暗号を解くまでのコナンが良い。あまり知られていない蝶ネクタイ変声機の弱点も知れる。推理小説好きは好き。

奇術愛好家殺人事件

20巻に収録された5話構成エピソード

原作で読んでほしいと先に書いたが、これはトリック漫画ならではの構図の絵が美しいのが特徴だ。

雪山山荘燃えさかる吊り橋、何も起きないわけがないと知ったあの頃を思い出す。

天狗伝説殺人事件

11巻に収録された3話構成エピソード

これは初期作品でなかなかにインパクトが強い絵面が楽しめる事件だが、これがあるから名探偵コナン国民的になれたのではないかと感じる。こんなん誰が思いつくねん、という事件

殺人犯工藤新一/新一の正体に蘭の涙

62巻に収録された6話構成エピソード

この辺は入れとかないと誰かに刺されるかなと思った。コナンの設定を生かした事件で本当に唯一無二だと思うが、その中でも特に驚きが強く展開が読めないので面白い

県警の黒い闇

86巻~87巻に収録された5話構成エピソード

まぁこれはなんというか来年映画のために見とけよってかんじではあるのだが、好評だったからメインに長野県警が選ばれたわけで、それは大事なことだろう?

コナン唐突にくるグロ回が好きなのだが、長野県警が出ると大体グロいので良い。コナングロなら平気~って人もこの回はヒェッとなるかも。多分作中ベスト3に入るグロさ。

36マスの完全犯罪パーフェクトゲーム

97巻に収録された5話構成エピソード

まぁこれもなんというか来年映画のために見とけよってかんじでは(以下同文)

97巻ともなると人物相関図がややこしくなるが、かなり緊張感があったのでそういう楽しみ方もできるし、出てくる暗号コナンを読んでいればいるほどミスリード的なお遊びがあり、ほどよい難易度だった。ぜひ一旦解読してみてから進んでほしい。

殺意コーヒー香り

60巻に収録された3話構成エピソード

地味な話ながら地味にファン人気があるエピソード。地味なファンに人気があるエピソードとも言おうか。地味に面白くて地味に残るものがあるシンプルで良い回だ。結構悲しい話。

黒の組織と真っ向勝負 満月の夜二元ミステリー

42巻に収録された6話構成エピソード、だがベルモット編の終結とも言えるのでそこまでの流れを見ている方が良い。

とにかくここまでの流れの完成度が高く、すべてがうまく行っている。ある種の名探偵コナン一部完結といった感じもあり、おそらくここまでを読み込めば名探偵コナンラストが予想できるのではないか…といった考察もある。もちろん80巻以降毎回のように重要情報を出すようになったので全巻読まないといけない仕組みなのだが…。

正直この事件が入っていない人気投票系のエピソードランキングは信用していない。これは必ず入っておくべき、と思う二元厄介オタク

毒と幻のデザイン

74巻~75巻に収録されている6話構成エピソード

一回読んだだけだと理解できず、何度も見返して「なるほど」となったので印象深い。謎一つ一つはクイズ番組であるようなものなのだが、それを事件に繋げて複雑化していくのでなかなか読めない。

あ、これも長野県警出てるから来年映画のために…いや、これは読まなくていい。

大体このエピソードライト層におすすめしてくるファンとは関わらない方が良い。

でもこの場はそういうのを書いていい場所だと聞いたので。

二十年目の殺意 シンフォニー連続殺人事件

23巻に収録されている6話構成エピソード

お札を見せるやつねって言ったら覚えてる人多いかな。

毒と幻のデザインと同じくコナンと平次の共闘と言っても、上の話と違ってこれをおすすめしてくるコナンファンはとても優しい。大事にした方が良いと思う。このエピソードは完成度が高く、映画を見たかのような満足度がある。


1000話超えてるのであれが入ってないとかこれが入ってないとかあると思うけど、まあそういうのは各自おすすめしてください。

2024-09-10

なぜリコールの話が全く出ないのか

市長を辞めさせたいということで、市長本人に辞職の意思がない場合議会の動きだけでは解職まで時間手続きが嵩むというニュースを見た。

議会とその構成員たる議員は、例え地方であっても固定票に支えられており必ずしも市民意思を正しく代表できているとは限らないのはみなさん御存知の通り。

政治利権争いで、議員達が勝手市長を解任させられないというのは当然のことなのだ。それはすでに壊れているとはいえ二元代表制を土台から崩すものである


不思議なのはリコールについてさほどニュースにならないことだ。

リコール市民投票によって行われ、市長本人の意思関係ない解職させられる。

リコールさえ成立させればいいのだ。

なぜ起きない?起こさない?

私の考えでは、リコールは「民主主義」の言い訳からだ。リコールなぞ成立しないと、立法側も理解しているのだ。リコールが成立するより、面倒で時間もかかる議会による解職運動のほうがまだ実現可能性が高いと議会側ですら思っているかである

2024-08-18

煮詰まる」はいかにして「結論が出る」という意味になったか

それでは夏休み自由研究を発表したいと思います

最初

現在のところ「煮詰まる」という言葉は、「議論交渉がまとまって結論が出る」という用法が正しいとされ、「議論が進まなくなって行き詰まる」という用法誤用であるとされている。「煮詰まる」という言葉がどのように用いられてきたのかに興味を持ったので、その変遷を辿っていこうと思う。ソースはだいたい国会図書館デジタルコレクションである

注意として、ここでは「煮詰まる」と「煮詰める」を区別して、「煮詰まる」の用例のみを追っていくこととする。現在においても「煮詰める」のほうには「行き詰まる」という用法はなさそうだからである

白樺派の例

調べてまず気付くのは武者小路実篤が「煮詰まる」を多用していたこである。そして同じく白樺派有島武郎長与善郎、その影響を受けたという岸田劉生木村荘八なども「煮詰まる」を用いている。まるで実篤から伝染したようである。それらは概ね「無駄な修飾を排して凝縮されている」あるいは「態度が一つに決まっていく」というような用法であり、いずれもポジティブ意味で使っているところが共通している。いくつかの例を挙げる。

大正10年 武者小路実篤自分脚本に就て』

僕は脚本はどうしても人間精神のあらわれである上に、煮つまったものであることを要求します。


大正10年 有島武郎『筆頭語』

心が二元的である間は、即ち或る機縁によって煮つまって一元的にならない間は、どこまでも二元なり多元なりの生活を押し通して行くがいいと思う。


大正11年 木村荘八『泰西名画家伝』

長官デリニのあやが「うまく」かかるもかからぬもなく、競技――即(すなわち)対抗の空気は忽ち煮つまるばかりであった。


大正13年 長与善郎『書斎より』

牛のよだれのようにだらだらした書きぶりがいかんのは問題にもならぬ事であるが、さればと云って何でも只無暗に簡潔に端折って書きさえすればいいと云う事を一つおぼえて、まるで電報文句のような言葉さえつかえば煮つまったいい文章だ、と思っている人の文章は又不自然な、とらわれた感じのするものである


昭和5年 岸田劉生演劇美論』

全体として、一つの美しさを出すけれど、旧劇の如く煮つまった味はなく、その美は甘く、低級である


白樺派以外の例

もちろん白樺派以外の用例も同時期にあった。意味的にはさまざまだが、ネガティブ用法も多かったようだ。

明治40年イヴィッド・パーリー『くらげ』

この説明には余程可笑しな点がある、で、僕は云った。

『じゃ、この国では、宗教煮詰まって了ったのですネ。』

もとは『The Scarlet Empire』というタイトルアメリカ小説である。原文は「It looks as if religion may correctly be said to have gone to seed, in this country.」となっており、「gone to seed」は「盛りを過ぎて衰える」という意味なので、つまりそういった意味で「煮詰まる」が使われていると考えられる。「加熱しすぎて水分が飛んでしまった」ようなイメージだろうか。

大正9年 ドストエフスキー白夜

私が余りに余計なことを喋舌り、私の心の中で長い間煮つまっていたことを必要もないのに述べ立てたことを、而もそれに就いては私は書いたものから読むように話すことが出来たのだ

こちらも翻訳書。英文は「I had unnecessarily described what had long been simmering in my heart」。「心の中でくすぶり続けていた」とか「ずっと感情が渦巻いていた」といったイメージか。

大正10年 岡本一平へぼ胡瓜』

何処かに法華宗があると見え、この熱気の世界の中へ煮詰まった声でお題目をいきみ出してる。

真夏暑い日に遠く法華宗お題目が聞こえてくる…という場面で、この「煮詰まった声」は「重苦しく絞り出している」ような印象を受ける。もの煮詰まったあとのドロドロとしたイメージだろうか。

大正12年 佐々木味津三『呪はしき生存

単にそれを考えるだけでも、彼は天地が煮つまるように感じていたたまらないような震撼を覚えた。

「居た堪らない」というので、世界が煮られて、そこにいられなくなるような感じだろうか。ぎゅっと狭窄するような感覚もあるかもしれない。

昭和2年歌舞伎 第三年第十三号』

森金之丞は正直にこれに答えるが、だんだん議場(公議所)の空気が煮つまって行き怒声、罵声騒然たる裡に第一場は閉じて行く。

議論が悪い方向に盛り上がってヒートアップしているという描写結論が出そうにないという点では現在の「誤用」のほうに近いか

昭和6年 大高巌『近代支那文学史上の先駆者

かるが故に自己生活を安泰ならせんが為には儼然として己れが階級城壁を固守しなくてはならない。科挙制度がそれだ。かかる試験制度採用することは一に権力者に反抗する意志学問の為に煮つまらせ、又一には士大夫階級思想擁護有為なる人材を作ることになる。

こちらは「集中させる」「浪費させる」ようなニュアンスか。

昭和9年 式場隆三郎バーナード・リーチ

高村光太郎は余り外に出ない。併し仕事は煮つまってきていると思う。暫らく作品を見ない。

この式場隆三郎白樺派との交流があったらしいが、「作品を見ない」ということは、ここでの用法は「行き詰まる」に近いのではないか

昭和10年 丸山幹治『黒頭巾を脱ぐ』

勿論コチコ官僚型で煮つまって、倒さにふっても水っ気もないような人ではなく、時代に対する感受性は強く、好んで人の長所認識する感服癖さえある。

こちらは「頭が固い」というような用法

昭和10年 ギュスターヴ・フローベールジョルジュ・サンドへの書簡

では左様なら。もう遅いのです。頭がまるで煮詰まりそうです。

翻訳書。英文は「Adieu, it is late, I have an aching head.」なので、普通に頭痛がすることを言っているのか、それとも「悩んで行き詰まっている」的な意味なのかはわからない。

戦後の例

戦前武者小路実篤を中心に、小説詩歌戯曲などの文学的文脈で使われることが多かった「煮詰まる」だが、戦後になると現在のような「議論交渉煮詰まる=結論が出る」といった用法が登場し、やがて支配的になっていったようだ。

それに関してわかりやすいのは「国会会議検索」で、戦前の「帝国議会会議検索」では「煮詰まる」はほとんどヒットしないが、国会会議録では1950年代あたりから見られるようになる。さらに用例を確認していくと1960年代から爆発的に増えていったようだ。労使交渉文脈が多いように思われるので、そのあたりをきっかけに流行りはじめたのかもしれない。

となると次に気になるのは「議論煮詰まる」=「行き詰まる」という用法がいつごろ確立されたのかということである。どうやって調べればよいか。たとえば「煮詰まってしまった」みたいな形だとネガティブ文脈で使われていそうだ。ということで検索してみよう。

昭和34年週刊現代

しか日本側は表面上は「朝鮮総連相手にせず」とその抗議を重視せず、裏では字句は修正せずとも運用面に幅をもたせるという妥協の動きに期待を寄せていた。それが、日赤相手にせざるをえない北朝鮮赤十字から真向に攻撃を受けたのだから問題は煮詰ってしまった。


昭和44年『先見経済

やはり人間災害にあってみないとなかなかわからないもので、そういったことで安堵感を持っている。しかしジワジワと危機に瀕してきているわけで、そのとき判断をあやまると、残念ながら煮詰まってしまう。


昭和47年ミュージックライフ

ハイスクールからジュニアカレッジヘと進んだアリス達は2年間のカレッジライフ煮詰まってしまい、カリフォルニアに向かったのである


昭和50年キネマ旬報

その後の二本は結局むしかえしのドラマをやるしかなくて、無残な作品になってしまった

あれも、会社方針企画貧困の為せる業で、プロデューサー監督も完全に煮詰まってしまったんですよ


昭和51年レコード芸術

あい自由さが背景にあってのこの音楽じゃなくて、すごい煮詰まっちゃってて、つらいだろうなというところで出て来る音なんですね。


昭和53年スイングジャーナル

でも、いつか自分のやりたいことをやらないと苦しくなるというか煮詰まちゃうわけだよね。


昭和54年ジャズ批評

昔は、自分が何をやっていいかからなかった。やり過ぎると煮詰まってしまうし。


昭和56年週刊読売

「でも、仕事ばっかりしていると煮詰まちゃう」「煮詰まちゃうってのは、息詰まる、退屈する、スランプに陥るって意味なんです。」


昭和60年 毛利子来岡島治夫・末永蒼生『「体」発、宇宙へ』

たとえば原稿書いてて、もう煮詰まっちゃって、しょうがない、寝よう、横になると、ア、と思いついちゃう


昭和60年 チャールズ・シェフィールド放浪惑星

その問題ととっくんでいるうちにわたしの頭は煮詰まってしまい、あとをマッカンドリューにゆだねた。


昭和60年 松浦理英子いちばん長い午後』

実はそれは性的遊戯の一環ではなく、二人の交際煮詰まってしまったあげくのもがき合いであった。


結論が出る」用法と比べれば圧倒的に少ない。とはいえ1970年代くらいからは、日常語として「行き詰まる」的な用法もわりと広まっていそうな感じはする。というか「結論が出る」用法議論交渉文脈しか使えず、それ以外のときは「行き詰まる」用法になることが多かった、という感じではないか

ちなみに、この「行き詰まる」用法誤用として問題視されるようになったのは2000年ごろらしい。実際、Google Booksで「煮詰ま誤用」などと検索すると2000年以降の書籍しか引っかからない。

まとめ

といったところか。

煮詰まる」のコアイメージは「熱されることで水分がなくなっていき固形分だけが残る」というようなものであろう。

それをポジティブに捉えると「余分なものが削ぎ落とされて本質がはっきりする」といった意味合いになり、ネガティブに捉えると「瑞々しいものが失われて停滞する」といった意味合いになる。たとえば「議論」にポジティブイメージ適用すると「論点が整理されて結論がはっきりする」になり、「思考」にネガティブイメージ適用すると「新しいアイディアが生まれなくなり行き詰まる」になるわけだ。

もともとの料理としては「美味しくするために煮詰める」ことも「熱しすぎて煮詰まってしまう」こともあるわけで、どちらのイメージで使うのも自然感覚である。当初から煮詰まる」は多義的比喩表現だったのだから、「これが唯一正しい用法なのだ」などとはあまり気にしなくていいのではないだろうか。

発表は以上となります。ご清聴ありがとうございました。

2024-07-16

ちんちん取りたいと思わない人は男です!

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240710/k10014507081000.html

ちんちん下げたまま女を名乗って生きにくいと思わないなら男です!

性別女なのに全麻手術でちんちんボロンするのを生きにくいと思わないなら男です!

こちとら死ぬほど泣いて悩んで、このままなら死んだ方がマシだし死んでもいいかと思って、全財産持って言葉通じない海外病院まで行って手術したんだ。

なんでちんちんついたまま女名乗って「生きやす〜い」なんてなるの?

心が女なのにちんちんついていることが一番生きにくいはずなんだよ。

ジェンダーレインボーは好きにしてほしいけど、性別二元制の世界レインボー持ち込まないで。

2024-07-10

蓮舫党首による野党共闘路線新党

蓮舫は立憲民主党内の野党共闘路線の大きな一角だったのでは?論を書いた増田だけど、立憲・小沢氏、次期代表「泉氏でやったらまた沈没」 支持しない考え:毎日新聞を読んで、更に立憲民主党内で野党共闘支持派が都知事選野党共闘を行ったことによって現職小池百合子都知事へ肉薄するという華々しい結果を持って蓮舫立憲民主党代表就任を目論んでいたのではないか

ただ、その計算石丸二元安芸市長の想定外出馬によって狂ってしまい、野党共闘路線を裏で糸引いていた小沢一郎も流石に計画修正をせざる得ず、泉立民代表への不信を内外へ煽って野党共闘支持派の結束を高め、豪腕として知られる政界破壊小沢一郎は立憲民主党を割って計画修正を最小限で留められる野党共闘路線新党設立を目論んでるのではないか?という予想

もちろん立憲民主党割れ政党として規模の優勢が得られにくくなるが悪い話ばかりでない。以前から批判を浴びている泉立民代表派閥野田元首派閥などの野党共闘路線不支持しか取れない歯切れの悪さ、非協力的な姿勢立憲民主党として動いている間は利害関係から如何ともしがたかったが、蓮舫新党であるならば純粋野党共闘路線政党なので政党内の意思統一は容易い

野党共闘支持派が抜けた立憲民主党の泉立民代表派閥野田元首派閥からしても小沢一郎派閥蓮舫派閥との利害関係拘束力が弱まり、外部政党として交渉可能なのでこれまで以上に動きやすくなり、何なら国民民主党と再合流なんてのも非現実的じゃなくなる

蓮舫新党野党共闘ハブとして駆動することによって、都知事選で力の入った支援をしてくれた日本共産党と友好な関係を築きつつ、古巣立憲民主党旧民主党として繋がりのある国民民主党との連携はもちろん、包括的野党共闘を実現するため日本維新の会交渉することだって可能になってくる

蓮舫新党野党共闘によって自民党の悪政を打倒し日本初の女性首相を生み出すという志に希望を見出す国民のための非常にわかやす政党となるのではないか、そしてこれは今最も望まれている政党なのだと思いたい

2024-07-09

当選してたらきっと東京でもとんでもないことしてましたよ」

過去最多の56人が立候補した都知事選投票率60.62%(前回55.00%)で小池氏が291万8015票で圧勝、続いて石丸氏は165万8363票を集め、蓮舫氏は128万3262票の3位に終わった。

人口約2万6千人の安芸高田市首長を辞し、500倍以上の人口約1400万人を擁する首都東京に乗り込んだ知名度もない男が、強烈な旋風を巻き起こした。

さぞや地元で実績を残して絶大な人気を誇り、「後継者」がすんなり当選を決めたのかと思いきや、当選したのは反石丸色を前面に打ち出した元郵便局長の無所属新人藤本悦志氏(51)だった。

市議会で数少ない「石丸派」として路線継承を訴えた前市議の熊高昌三氏(70)は2000票以上差をつけられ、次点にとどまった。藤本氏は昨年11月末に立候補を表明、「石丸氏は市議会市民との対話も少なく、その手法対立と分断を招いた」と訴えていただけに、石丸市政の落とした影は思いのほか色濃かったようだ。

♯1で報じたように、地元公立中高を経て京都大学経済学部に進学、卒業後は三菱東京UFJ銀行に入行、ニューヨーク駐在員も経験した石丸氏は2020年7月に突如、安芸高田市長選に立候補して当選

華々しいキャリア凱旋救世主感に満ちていたが、他者を寄せ付けない攻撃的な一面が次第に表面化し、その摩擦と軋轢広島の小都市疲弊した。現職の安芸高田市議は今回の都知事選の結果を含めた一連の経緯をこう分析した。

「危うく東京都民も騙されるとこだったから、小池さんが3選してよかったって思いますわ。石丸さんが掲げる政治再建や財政再建は、よく聞くと中身もほとんどないんだけど、人気取りだけは上手いからね。

安芸高田市長選の時もそうでしたけど、『よし、わしらが手伝ってやる』と名乗り出た地域のおじさんたちの手を『選挙カー応援もいらない。1人でやる』と払いのけ、駐車場にイスを並べて演説ばっかりしてましたよ。それで『このニューヨーク帰りの若者は何かやってくれそう』という期待感であっという間に人気者になりました。

今回の都知事選でも小池さんや蓮舫さんは政治の話ばかりでしょうから、そんな中で『石丸ちゅうんは面白い』と思われて人気は出たんでしょう。でも、あれが当選してたら、きっと東京でもとんでもないことしてましたよ」

「これまでより市政は間違いなくよくなると思う」

安芸高田市の現況を例に挙げ、市議は続けた。

「今回、当選した藤本さんは『市議会市民との対話大事』と言い続けている人で、議会と激しく対立ばかりしていた前任者と比べたら、わしらも大歓迎です。

結局、市民石丸市政はダメだって気づいたって事ですわ。人気取り市長になったものの、やったことは自分意見を押し通すだけ。

彼が議会の反対を押し切って進めてきた認定こども園問題も、藤本新市長は方針を改めるそうなので期待しています。この問題吉田町(旧高田郡吉田町)内にある保育所幼稚園の立地場所に土砂崩れ危険性があり、別の地区移転必要があるとされたことに起因します。

普通なら町内のなるべく他の場所移設しようと考えようもんですが、石丸さんは『校区をまたいで移設する』と言い出した」

石丸氏の提唱する移設先には私立保育園もあった。ところが…

「そんな地域であれば、まずは計画書を持って地元の人や私立保育園説明すべきだと議会は主張したんだけど、石丸氏は『予算使って計画書なんて作っても反対されたらお金をドブに捨てるようなもんでしょ』でしたからね。

その移設計画に関しても藤本新市長はまずは吉田町の中で土地しから始めようという方針です。議会市長も、対立ではなく対話できる関係の方がいいでしょう。今まで異常だったことがようやく平常に戻っていけそうです」

別の市議もこう胸をなでおろした。

「そりゃあもう選挙藤本さんが市長に選ばれたんだからそれが民意なんでしょう。市民石丸市政の継続を望んでいれば、後継者である熊高さんが当選したはずですから

石丸は結局のところ、4年間何の実績もなく安芸高田市をガタガタにするだけして、このままじゃ次の選挙は無理だと思って東京に逃げていったわけでしょう。

彼は地方議会の特色である二元代表制をまったく重んじることなく、とにかく自分の好き勝手物事を進めるだけの独裁者でしたから。

そのパワハラぶりについて今、こと細かにうつもりはありませんが、議会議員をアホ呼ばわりしたり、私自身も高圧的な物言いをされたことがありますよ。

こうして『対立』を選んだ前任者に対し、新市長の藤本さんは『対話』を重視すると言っているので、これまでより市政は間違いなくよくなると思うし、またよくしていかないといけません。

一方でなんの実績もない石丸氏が知名度抜群の蓮舫さんをおさえて2位になった都知事選に関しても、東京都民の『民意』なんだと思います

その都民民意が反映された都知事選後の民放各社の選挙特番で、石丸氏はコメンテーターアナウンサー質問をはぐらかしたり逆質問でキレてみせる様子がSNSなどで拡散され、パワハラ体質が早くも懸念されている。

今後は「まだ決めていない」としながら国政転身について「選択肢としては当然考えます。例えば衆院選広島1区。岸田首相選挙区です」と述べるなど、強気キャラにも拍車がかかったようだ。驕る平家は久しからず。どうぞご随意に。

https://news.yahoo.co.jp/articles/742c4dea089b23506482ee3bccf5a568cc58b0b2

なるほどなあ

石丸氏は結果に責任を持たないタイプなんだろうな

石丸氏はよく言えば人事を尽くして天命を待つタイプ、悪く言えば結果に責任を持たないタイプなのだろう。そしてこれを補助線として引くとなぜ選挙速報後のインタビューが噛み合わなかったのか、安芸高田市議会との対立問題と捉えていなかったのかがわかってくるように思える。

普通選挙(速報)後のインタビューではその結果を受けて自身活動の振り返りや今後の活動に向けた反省について聞かれることが多いし、実際石丸氏もインタビュワーにそういった質問を受けていたように思う。

一方、石丸氏にとっては順位得票数メディア報道有権者側の資質など様々な要因が絡んだうえでの『結果』でしかないのではないか。つまり彼にとっては自身東京都知事候補者としてなすべきをなしたという点が最も重要と考えており、その結果として都民がどのような決断を下したかにまではあまり興味がない。よって自身が直接結果を左右できない(責任を持てない)結果についてどう思うかと聞かれても回答できないし、なぜそんな質問をするのかも理解できないのではないかと思う。

また武田砂鉄氏がインタビューで指摘していたように石丸氏の著書では『自身責任範囲定義する』、『(自身責任を外れた)相手問題がどうなっても関知しない』ということをメンタルの強さを保つ秘訣として書かれているようで、選挙後のインタビューでのやりとりに加えて上記の推論の補強材料になるのではないかと思う。

安芸高田市議会との対立についても『石丸氏は自身がすべきと考えた提案を行う』、『議会提案に対してどのような決断を行うかは自身問題範囲外』と二元代表制を表面的に捉えていたのであればああ言った態度も頷ける。議会対立した結果、市政が混乱したとしてもそれは市長責任を外れた範囲問題と捉えていたのだろう。

個人戦略として結果に責任を持つべきかどうかは結論の出ない命題だろう。もちろん結果に責任を持つ人の方が信用されるが、自身能力裁量を超えた結果に責任を負ったことでメンタルを病んだ人を自分は何人も知っているし、自分自身も眠れないつらい日々を過ごしたことがある。

しか政治結果責任であるし、議会との関係性を他責で片付ける人はいくら有能でも責任ある立場には向かないのではないだろうか、と一有権者としては思う。

anond:20240708200656

日本二元代表制の実態首長優位で、対立構造とするにははなから不均衡だ。

いうほどか?結局専決しようがその後の審議で落とされてるじゃん

個の権限市長のがあったとしても最終的には多数派議員のやりたいような結果に事実なってるよね

いくらカタログスペックで語ったところで結果が伴わないんだったら全体的なバランス取れてる=対立構造になってるんじゃないの

2024-07-08

とある行政経験から石丸伸二評

三十代、元自治体職員の所感。

報復議員定数半減条例

就任してそこまで経っていない頃だっただろうか、副市長人事の同意議会から得られず、さら議員提案により副市長の定数を減らす条例が可決成立したことがあった。当時のニュースを見ていたときは、議会の封じ込めを図る姿勢はどうなんだろうと思ったものだ。しかし、その後、今度は氏側が議員定数を半減させる条例を提出した。それっぽいことを並べていたが、まあ報復である

当然否決されるわけだが、議会への条例提出には、例規審査と呼ばれる体裁、法的整合性などの確認作業があり、付随して議案としての説明文の作成資料印刷マスメディアへの提供も行われる。子供喧嘩のような仕返しに付き合わされる職員としてはたまったものではない。

氏の支持者には、彼を論理的是々非々人間と評する者もいるが、このくだりを見る限り、その評には疑問符がつく。なるほど、深謀遠慮、否決されることありきで耳目を集めることが目的かもしれない。しかし、その個人パフォーマンスために職員リソースを空転させないで欲しい。職員議会で可決されるために議案を作りたい。

議会との過度な対立姿勢

日本地方自治議員首長直接選挙で選ばれるところに特徴がある。いわゆる二元代表制と呼ばれるものである議員首長もある方面から民意の反映で、原則として議会議決を経なければ予算も作れないし、条例の制定改廃もできない。だからこそ、氏の対議会苛烈ともいえるパフォーマンスは目に余るものがあった。

氏はどこか二元代表制を首長議会対立構造と考えているフシがあるが、それは少し誤解がある。個人商店の議員に対して、多数の職員を動員し、多くの情報アクセスできる首長とでは、そのリソースは段違い。法的なところでも、再議、後述の専決処分など、権限首長が強い。日本二元代表制の実態首長優位で、対立構造とするにははなから不均衡だ。

自分の優位が約束されている中で、対等な勝負という体で、多様な民意をすり合わせもせず言い負かすことに終止する。なにかにつけて二元代表制を強調するのならば、最低限の体裁くらいは整えてくれないものか。

議会首長対立自体はあろうとも、必要以上に煽ると通る議案も通らなくなってしまう。氏本人がそうであるように、人はしょうもない意地の張り合いで不合理な行いをする生き物なのだから

専決処分濫用

氏は無印良品を巡っては企業の言い分を丸呑みして時間がないと専決処分を行い、こども園を巡っては既に議会で否決された予算をやはり時間がないと退任直前に専決処分した。専決処分地方自治法179条の方を指す。)は、本来経なければならない議決を経ずに条例の制定改廃、予算措置などを行うものだ。その二元代表制を否定するような特性上、専決処分を行う要件(緊急性など)は厳格に解されているところであり、企業の都合や、否決された予算を押し通すのに行うものではない。というか、要件を満たしていないか違法という指摘もされ得る。

そもそも、氏は二元代表制を大事にしていたのではなかったのか。それをないがしろにする専決処分濫用は言行不一致であり、また、行政として遵守すべき手続の軽視だ。

特に無印良品に関しては、普通に臨時会を開いて議案にすれば可決された余地もあっただろうに、何故無理矢理やろうとしたのか。

まとめ

自治体は、好意的な印象を持ってくれる人に対してもそうでない人に対しても分け隔てなくサービス提供する。法令は当然として、その制度趣旨考慮し、手段適当か勘案して業務を行う。

水戸黄門半沢直樹舞台ではないし、スカッジャパンの収録でもない。自己統制として「違法ではないが不当」という考え方も存在し、目的手段正当化しない。

敵味方の劇場型政治を繰り広げ、制度趣旨を軽視し、目的のためには手段を選ばない。その一連のパフォーマンススタッフとして職員が巻き込まれる点で、氏の姿勢は「ない」ものに映った。これは、相対する議会が有能だろうと無能だろうと変わらない。

また、基本的時間金も手間もかかる裁判について「気に入らなければ、違法と思うのならば訴えればいい」というスタンス相手の足元を見てのものであり、「裁判判断されない限り合法」と主張する打算が見え隠れする。そもそも訴えられる余地をなるべく減らし、瑕疵なく進めるのが行政の基本で、予防法務民間でも知られた概念だと思うのだが。

そして本当に訴えられた場合、やはり苦労するのは職員の方である

余談

そんな氏であるが、先の都知事選ではなんと2位。

一方が他方を言い負かす構図は見ていて気持ちがよく、古い政治家に立ち向かい手段を選ばず邁進する姿は魅力的に映るのだろう。

しかし、その言い負かされる対象自分たちになる可能性や、手段を選ばないことを肯定した結果、止められず明後日の方向に暴走していく可能性は少し勘定に入れて欲しい。

政治行政はそういった危険性を織り込んで面倒くさくなっているわけで、そこまでわかりやすエンタメではないし、そうなってはいけない。

リベラル保守とかフェミニズム対男社会って二元構造そもそも通用しないと言うか

まあそれはそれで正しいのは認めるけど正しいからといって別に生活が良くなるとは思わないっていう

何なら生活を良くするなら独裁社会でも構わないけど独裁社会生活を良くしないから選ばないだけなんで生活を良くすると思えないなら正しくても選びませんっていう

2024-06-26

専決処分から見る石丸伸二氏

簡単に言うと

個別政策云々以前として、専決処分絡みから見える政治姿勢やばい

専決処分とは

端的に言えば首長議会を経ずに行う条例の制定改廃、予算などの処分のこと。地方自治法179条に基づく専決処分通称179条専決)と180条に基づく専決処分通称180条専決)がある。

179条専決

基本的には議会招集する時間のない緊急時要件として行う専決処分であり、処分後は議会で報告・承認手続きがとられる。他にも179条専決を可能とする要件はいくつかあるが、機会としては稀であり、今回は関係ないので省略。

余談だが、通年議会場合は常に会期中で招集されている状態のため、(招集時間がないことを理由とする)179条専決はほぼできない。

180条専決

議会が定める軽易な事項について行うものであり、処分後は報告の手続きがとられる。換言すると、議会がわざわざ議決しなくていいと認めたために行う専決処分。なお、軽易な事項に関しては、一定範囲に収まる損害賠償和解契約変更などが挙げられる。

今回話題にするのは179条専決の方だ。

179条専決を使うとき

多くの自治体において、179条専決を利用する機会となるのは年度末の税条例改正だろう。

これは、大本となる地方税法改正が年度末に成立・公布されることに起因する。ちなみに今回の地方税法改正3月30日公布された。

条例地方税法改正に基づき改正されるが、その中には算定基準の都合上、施行適用4月1日でないと間に合わないものもある。

地方税法改正の確定を受けてはじめて条例改正案も確定するわけだが、議会に諮る時間的余裕はない。この際に、最低限の必要改正部分だけ専決処分を行う。そして残りの急を要さな改正部分は別に臨時会定例会に諮ることとなる。

次いで、選挙絡みの予算が挙げられる。

衆議院解散はその時期について報道などから目星はつくものの、解散が確定しない限りは予算として議会に諮れない。

一方で、解散してからはすぐに資材や人員の手配をする必要があり、なんなら議会の日程調整をする間に公示日や投開票日になってしまう。

国政選挙において「議会招集できず予算がないから延期します」とはできず、こちらも解散が発表されたらすぐに179条専決となる。

なお、衆院選以外においても急遽便乗選挙首長選の一定期間前に議員に欠員が生じた場合首長選と同日に補選をするときなど)が発生した場合などでは、便乗分の予算を179条専決することがある。

179条専決、その悪用歴史

本来条例の制定改廃や予算議会議決をもって決まるのであり、議会同意のとれた軽易な事項でもないのに、それをスキップする179条専決は非常に強力な権限だ。その趣旨からすれば要件は厳格に解され、行使抑制であるべきだが、悪用される余地もあり、実際悪用された。

179条専決の悪用といえば鹿児島県阿久根市が挙げられる。当時の市長副市長の選任、職員などの給与削減条例補正予算などの179条専決を連発した。当時の地方自治法では、議会側に議会招集権限がないために首長議会招集しない(議会承認不承認意思を表示させない)、また、179条専決を不承認としても首長側に何の義務も課されないなどの点から、それはやりたい放題であった。

なお、これが影響して後に地方自治法改正され、179条専決で副市長の選任ができないこと、条例予算に係る179条専決の不承認時に首長必要措置を講じて議会に報告すること等が定められることとなった。

安芸高田市長石丸氏の179条専決

耳目を集めたのは無印良品絡みの補正予算の179条専決である。曰く、早く予算化しないと企業が他の自治体に行く可能性があるとのことだが、それだけで緊急性があるかといえばそんなわけもない。まずはすぐに予算化できない旨企業交渉を行い、仮に呑むにしても臨時会招集検討する。予算審議に際しそのスケジュール、あり方の是非を含めて議会意見を交わすべきで、スケジュールありきかつ、不十分な説明での179条専決はいただけない。

また、最近では退任直前のこども園絡みの補正予算の179条専決も行ったようだ。敢えて言うまでもないかもしれないが、置き土産である。同様の予算案は何度か議会で否決されており、緊急性も何もあったものではない。

先の2件に関して石丸氏の179条専決は、適正な手続きに欠いた横紙破りとなっていた。

得てして議会二元代表制を没却し、自らの存在意義を失わせ得る179条専決には厳しく、不承認は見えていた。

179条専決にみる石丸氏の政治姿勢

一応石丸氏は首長議会意見を戦わせる二元代表制を志向しているようだ。件の179条専決に代表される執行部側と議会側の権限差異人員金銭リソース差異などの観点からその志向には個人的疑問符がつくものの、その心意気やよしとしておこう。

しかし、特にこども園絡みでは、既に否決された補正予算を179条専決している。意見を戦わせて、既に負けているのに、最終的には179条専決で無理矢理済ませる。これは当人志向する二元代表制の否定ではないか

それっぽいことを言いながら、最後には手続き無視し、抑制的に使うべき制度をも利用して自分意見を押し通す。目的のためには手段を選ばない。その姿勢には危うさを感じざるを得ない。

その他179条専決について

同じく最近東大阪市市長が自らの報酬を減額する条例を179条専決して不承認となっていた。

このことについても、「本人の報酬から」「いい内容だから」といったコメントがされているが、問題はそういうものではない。

内容の是非以前で、本来踏むべき手続きを踏まないのが問題になっている。

手続き論と言う人もいるだろうが、安易例外の許容は暴走紙一重であり、それを防ぐための適正な手続きである

有権者側もだが、こと行政に関しては、適切な目的は適正な手段によって達せられるべきであることを意識して欲しい。

2024-06-23

ふと黒人って自分の肌の色を塗り潰すのかなって思った。

紙って大体白いと思うけど、そこに鉛筆で人の絵を描いたときにおれはわざわざ塗り潰さない。

ちゃんとしたスケッチするなら濃淡で表現するんだろうけど、テキトー落書きではしない。

おれみたいなモンゴロイドコーカソイドでも別に肌の色が白くはないのに。

それは「白」として表現してるというか、単に白黒二元の濃淡だけで表現してるから黄色さや赤さが切り捨てられるんだろうか。色鉛筆があれば「はだいろ」で塗るかもしれない。

それとも特に色を施すような部位ではないから敢えて何もしないだけなんだろうか。髪は黒ければ塗り潰すしな。目も黒い。靴も黒ければ塗り潰すかもしれない。でも黒とも白ともつかない服なら塗りつぶさないかもしれない。じゃあ肌はどうなる?

ガッツリ黒めの黒人ならどうなんだろう。

中央アジアのやや黒め、東アジア人でもめちゃくちゃ日焼けした人なら黒く描くだろうか。どうなんだろう。

2024-05-16

地方議会首長ガチンコ勝負」という幻想

議会との対立を鮮明にして泥仕合を繰り広げた安芸高田市長東京都知事選出馬するということで話題になっている。

この市長は、議会との論戦を志向していたようだが、本邦の地方議会二元代表制は残念ながらそういった方向には適していない。

議会との調整」の意味

議員リソース不足

当然ながら、首長はその自治体職員を駆使して議会に向けた調査研究を行う。対して地方議員は、多少の政務活動費こそあれど国会議員と異なり公設秘書はおらず、秘書を雇えるような収入が確保できる議員は限られる。自治体業務は広範で、議会に諮られる案件産業振興、厚生、文化教育など多岐に渡る。これらの内容を議員やその支持者の少数で調査し、理解し、疑問点を整理しなれけばならない。加えて、議案説明会は上程日の1週間前が相場である時間も足りない。

なお、議員から条例の制定などの提案可能だが、その場合は一層の調査研究必要なのは言うまでもない。

それは本当にガチンコなのか?

先述のとおり議員側には方方のリソースが不足しているため、特に首長政策的な面が強い案件については、突然議会に諮られても賛否以前の問題なのが現状である。そこで、議案説明会の前に、政策の内容を議員説明し、質疑応答などを経る「調整」「根回し」というものが行われる。これを馴れ合い忌避する人もいるが、議員側に事前知識がなければ議会で実のあるやりとりはできない。

「初歩的な部分を質問せざるを得なくして首長マウントをとる」「事前に言われれば簡単に用意できた内容を不意打ちで質問して議員が勝ち誇る」といった展開は、果たして議論として称揚に値するものなのだろうか。

対等のようにみえ首長優勢な権限

チェックアンドバランスということで、議会首長は対等のように見えるが、一概にそうともいえない。かつての阿久根市での暴挙一定の枷はついたが、専決処分は依然として強力であり、再議も可能首長不信任決議は逆に議会解散させることもできる。

根回しを不要とするためには

首長議会権限の差は置くとして、まずは議員リソース強化に尽きる。時間的な面では議案説明会から議会への上程までの期間を空けることも一考だが、首長側のスケジュールタイトになる。政務活動費報酬の増はわかりやすい例だが、賛同する人は少ないかもしれない。住民を巻き込むという点では、議会広報などによる発信強化も面白いところだ。

なお、件のガチンコ志向安芸高田市長にあっては、議会広報予算カットした予算を提出、議会が当該部分を復活させた修正予算を可決したことでやっぱり揉めていることを申し添えておく。

そもそもとして別に勝負ではない

議会首長ガチンコ勝負というのは昨今の政治エンタメ化の文脈では受けるかもしれない。しかし、国と異なり地方二元代表制で、議員首長市民が直接選んだ代表である。それぞれがそれぞれの民意を反映している。この中で必要なのは、各々の背負った民意をすり合わせて着地点を探ることである。一方の民意が他方の民意を足蹴にする様で快哉を叫ぶのはよく考えた方がいい。自分民意が足蹴にされないとも限らないのだから

2024-05-14

anond:20240514021736

二元じゃない。 少なくとも俺にとっては好きも嫌いも理屈じゃない。 言語化したとしても感情理由を後付けして無理やり具象化したに過ぎないという感じ。

2023-12-06

detransitionした16才の女の子の話をChatGPTに翻訳してもらいました(続き)

続きです。

anond:20231206225717

性転換を始めた当初、私はオープン自分の話をしている性転換者を3人ほど見つけることができました。その中にはクロエコールのような人もいましたが、他に思い出せる人はいません。私は、私のような人々を助けるために、自分の話を活用したいと思いました。性転換から回復について学ぶリソースがない多くの人がいることを私は知っていたのです。だから、私は自分の話をTikTok投稿することにしました。


その動画は爆発的にヒットし、200万回以上の視聴回数を記録しましたが、コメント欄の人々はひどかったです。しかし、16歳以下と16歳以上の世代の反応は明らかに異なります


16歳以下では、ただの憎しみで、私がいたコミュニティからの疎外や、自分自身に間違っていたという理由で私を憎む声がありました。また、インターネット自分の話を共有しただけなのに、トランスフォビア(※トランスジェンダーに対する偏見差別)と非難されました。


一方、16歳以上の人々、特に30歳以上の人々は、私のことを受け入れ、勇気あると言ってくれたり、親切に接してくれたりしました。彼らは私にアドバイスを求めてきます。彼ら自身人生についてのアドバイスを求められ、私はかなり多くの人を助けることができたと感じていますしかし、受ける憎しみの一部を心に留めずにはいられないのが辛いです。そのため、私はTikTokへの投稿をやめることにしました。


私はTikTokでたくさんのビデオ投稿し、人々の質問に答えていました。その後、いくつかのYouTubeチャンネルから連絡を受け、オーディンズ・メンというチャンネルで大きなインタビューを行い、ブレアホワイトビデオにも出演しました。私は彼女をとても尊敬しているので、それは本当に嬉しいことでした。しかし、それでも私はトランスフォビアと呼ばれました。しかし、ブレアホワイトは賢い人で、頭がしっかりしていますイギリスニュースソースから連絡があり、記事を書きたいと言われました。そして最終的にはニューヨークポストとの提携を行い、私についての大きな記事掲載されました。これは信じられないほどの反響を呼び、私の話がこの世界で変化をもたらしていることにとても幸せを感じています


トランスコミュニティ左翼からの憎しみは、私の政治的イデオロギーをかなりリベラルものからかなり保守的ものへと完全に変えました。私の世界観は、以前よりもはるか保守的になりました。もちろん、私は熱狂的な共和党員ではありませんが、以前よりもずっとリベラルではなくなりました。


これが起こる前は、私は未成年者の性転換を全面的に支持していました。それが彼らの命を救うと思っていましたが、それは彼らの人生台無しします。特に、今はTikTokトレンドです。10年前なら、今のトランスジェンダーの子どもたちが自分たちのことを本当に理解していると思っていたかもしれません。なぜなら、彼らはTikTokによって押し付けられた情報を飲み込まされていなかったからです。そのため、その当時は未成年者の性転換をもっと支持していたかもしれません。しかし、今はTikTokトレンドです。そして今、これらの子どもたちが考えを変えることを私たちは知っています。だから、彼らの体に永久的なダメージを与えたいとは思わないはずです。


ですから、私は未成年者の性転換に完全に反対しています。それが許されるとは思いませんし、他の人が何と言おうと気にしません。人々は「あなたトランスフォビアだ」と言いますが、私は子どもたちの安全を本当に心配しています。今の社会では、未成年者の性転換に反対するとただのトランスフォビアとされ、嫌われ、攻撃され、あなたの全てが攻撃対象になります


また、現代社会では、医者たちがトランスフォビアとレッテルを貼られ、それで訴えられることを恐れているため、ただ肯定し続けるだけで、本当の問いかけや掘り下げを行わないのです。例えば、誰かが「私はトランスです。ホルモン治療が欲しい」と言った時、彼らはトランスフォビアとレッテルを貼られるのを恐れて、「あなたトランスですね。これがあなたにとっての次のステップです。これがあなたアイデンティティを確固たるものにするための手助けになるでしょう」と言うだけです。


彼らは決して「この性同一性障害根本原因は何なのか?」と考えたり、「これはただのトレンドに乗っているのではないか?」と疑問を抱くことはありません。そのため、多くの人が性同一性障害と誤診され、体が永久に傷つけられることになります。また、彼らがあなた疑問視しない大きな理由の一つは、彼らがあなたお金を欲しているからです。あなたテストステロンエストロゲン、あるいは思春期遅延剤や手術を求めて医者のところに行くと、彼らにとってはあなた永久収入源になるのです。彼らはあなたのことを人間としては気にかけていません。あなた医者たちは、あなたのことを何とも思っていないのです。彼らはあなたお金が欲しいだけで、トランスの人のアイデンティティ肯定することで自分たちの評判を守りたいのです。これは、根本原因を持つ他の人を見逃し、性同一性障害と誤診された多くの人々が、体を永久に傷つけられることにつながります


もしも、ホルモン療法を考慮する前に少なくとも1年間のセラピー必要とされ、あなたがこのように感じる可能性のあるすべての根本原因を掘り下げることが強制されたら、現在問題は起きなかったでしょう。ホルモンを使い始めてから性転換を後悔する子どもたち、手術を受けて体を変形させて後悔する子どもたちがいなくなるはずです。なぜなら、彼らは実際にはトランスジェンダーではなく、深く考えることを強いられた結果、それが自分には適していないと気づくからです。しかし、彼らはそのようなことを行わず、今後も行うつもりはありません。ですから、18歳未満の性転換を禁止する必要があります。彼らは深く掘り下げることに興味がなく、あなたのことを全く気にかけていません。


とにかく、これがこのビデオで私が言いたかたことのすべてです。視聴してくださってありがとうございますTikTokで私をフォローしてください。私のビデオはまだ全部残っていますので、見たい方はどうぞ。これからは新しいビデオTikTok投稿することはありませんが、以前のビデオはまだ残っています。私のアカウントはAshton ask courageです。画面に表示します。いいね登録をしてください。Twitterでもフォローしてください。アカウントは画面に表示します。素晴らしい一日を過ごしてください。視聴してくださって、私の話を聞いてくださってありがとうございます

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おまけ。ChatGPTの書いた原文に対する注釈

2023-07-11

anond:20230711183244

フェミニズムは、ジェンダー関係権力的な非対称性批判しており、フェミニズムから性別二元制に対する批判が行われている。

1990年代前後フェミニストらが強調してきたように、「女」というカテゴリーは決して一枚岩ではなく、また固定的で「自然な」カテゴリーでもない。このような点から、「女」というカテゴリー自明の前提とするような立場フェミニズムに対しては批判がなされている。

2023-02-09

[]シュレーディンガー意識

シュレーディンガー形而上学物理学の後に来るのではなく、物理学に先行するという信念を表明していた。彼の技術的な思考は、より大きな形而上学的(宗教的)な問題に触発されていたのである

「外界(心に依存しない)世界存在する」「別々の心が存在する」という仮定がある。シュレーディンガーによれば、どちらの主張も経験的な証拠を得ることはできない。第一に、二つのタイプ現実(心-物質)の関係をどのように考えるかという問題。なぜ純粋物理的な世界に住んでいるように見えるのか。第二は、異なる心の関係をどう考えるかという問題。なぜ、どのように互いに違うのか。彼は還元唯物論主観的観念論と呼ばれる伝統的な西洋の考え方を支持せず、非西洋特にインド哲学インスピレーションを見いだしていたらしい。

「第二のシュレーディンガー方程式」とは、インド哲学に古くから伝わる、自己アートマン)が宇宙の究極の実在ブラフマン)と同一であるという教えであり、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの教えの中心を成しているものであるシュレーディンガーは、この「自己」は個人自己混同してはならず、むしろ個人自己は単なる側面に過ぎない宇宙的、普遍的存在であることを付け加えた。

シュレーディンガーは、この考えを説明するために、光を屈折させてさまざまな色(個々の自己)を作り出す水晶宇宙本質に等しい宇宙自己のこと)に喩えることを好んで行った。「あなたや私は、現実本質形成している一つの心の側面に過ぎない。」彼はこれを同一性教義とも呼んだ。したがって、意識の非二元的形態は、その単一の側面と混同されてはならず、単一世界に住む別々の自己への(単に見かけ上の)区別反証根拠づけるものである

シュレーディンガーは、このことから驚くべき結果を導き出した。例えば、彼はどんな人間でも、その人以前に生きていた他のどの人間とも同じであると信じていた。初期のエッセイの中で、彼は目の前の山々を眺めることについて書いている。何千年も前に、他の男たちも同じようにこの景色を楽しんでいたのだ。しかしなぜ、自分はこのような前の人たちと区別されると思い込まなければならないのだろうか。自分経験と他の人の経験区別するような科学事実があるのだろうか。何があなたあなたたらしめて、他の誰かではないのだろうか?かつてジョン・ホイーラーが、宇宙には本当に一つの電子しか存在しないと仮定したように、シュレーディンガーも、本当に一つのしか存在しないと仮定した。シュレーディンガーは、「意識は決して複数形ではなく、単数形しか経験されないという経験事実」がこれを裏付けていると考えた。私たちの誰一人として複数意識経験したことがないばかりか、それが起こったという状況証拠世界のどこにも跡形もない。

現代意識科学研究において、物質がどのように、そしてなぜ意識経験を生み出すのかという問題を、「意識は脳を備えたいくつかの物理システムが自らに語る幻想物語である」という、そもそも難しい問題があるように見える理由(実際には何もないのだが)で回避しようと試みている。シュレーディンガーは、意識実在についての幻想的な立場を受け入れるには程遠かったが、非常に似たような観点から、たった一つの心(「アートマンブラフマン」)があるのに、なぜ複数の心が存在するように見えるのかを問うている:多くの別々の心が存在するというのは、混乱した個人自分に語る幻想物語なのだ。そうでないと、私たちは常に他の存在(最終的には、現在、非生物物質と呼ばれるものとも)とつながっていることに気づかず、ある意味根本的に孤立しているという誤った信念を持つことになる。難しい問題場合とは異なり、私たち最初の信念が本物であることを示す経験証拠はない。

シュレーディンガー形而上学的、哲学的な教えへの取り組み方の重要な特徴は、合理的科学的な方法論を堅持する慎重さであった。同一性教義は、無批判採用することはできない。つまり、新しい形而上学採用しつつも、科学方法は維持しなければならない。科学理論には東洋思想からの輸血が必要だが、輸血は常に凝血を防ぐために大きな予防措置必要とする。科学思考が到達した、どの時代にもどこにもない論理的精度を失いたくはない。

シュレーディンガーが求めていたもの、彼が最も高く評価していたであろうものは、数学的な正確さをもって意識研究するための科学アプローチである。そのような意識理論にとって同一性教義から続く重要な制約は、その非常に基本的構造において、個々の意識のある存在が(切断された個人ではなく)より高次で統一的なエージェントの側面であり、(電子、岩、脳といった多くのものの中の一つに過ぎず)そのような存在の集合全体が現実の究極の性質構成すると認めていることであるだろう。

シュレーディンガーは、意識実在を認める根本的な一元論を望んだのである意識研究における現在理論的状況を考えると、「意識行為者の理論」はこれらの要件に最も適合しているように思われる。それは、意識が何をするのかについて正確で明確な定式化を目指しており、2つ以上の意識エージェントいかなる組み合わせも、それ自体が別のエージェントであることを提案している。また、エージェント集合体全体が現実本質構成しているという考えにも適合するように思われるが、そのためには、この集合体から物理世界がどのように発生しうるか(そして、それとは別に何も存在しないか)というモデル理論が考え出すことが必要である

シュレーディンガーは、哲学の分野で以前から提起されていたいくつかの議論(例えばカント)に依拠したが、彼の立場は次のように集約される:我々が物理世界と呼ぶものは、シュレーディンガーが「客観化」と呼んだプロセスの結果である。すなわち、一つの自己世界アートマンブラフマン)が、容易に概念化でき、客観的に研究できるもの、したがって主観的性質を完全に排除したもの、へと変化することである意識行為者の理論では、これは「インターフェース」の創造に相当する。このようなインターフェースは、効率的な行動を可能にするために、起こっていることを単純化する。優れたインターフェースは、複雑さを隠す。インターフェイスは、現実ありのままに見せるのではなく、自分にとって都合の良いように見せる。「物理世界」と呼んでいるものは、非二元意識を高度に単純化した表現に過ぎない。

この物理世界もまた、そこに向けられた多数の対象を抱いているように見える。自律した物理世界という誤った印象をもたらした客観化のプロセスは、まさに、異なる肉体に住む異なる形態意識を想定する誤りにつながる。非心理的世界に心的特性を加えるという手っ取り早い方法では、先に述べたような問題を本当に解決することはできないだろう。なぜ他の誰かではなく、あなたなのか?ある主題のセットをより上位のものにまとめるにはどうすればいいのか?しかしそれらの問題は、そもそも分離した多数の自己に対抗する一つの物理世界存在という形而上学的前提に屈しないことで回避することができる。意識行為者の理論によれば、根本的に分離した自己という考え方は、インターフェース上に見えるものと非二元的意識という真の現実混同している場合にのみ生じる便利なフィクションである

意識行為者の理論は、シュレーディンガーの問いに対する興味深い答えを提示している。なぜ、私たち特質のない物理的な世界に生きているように見えるのか?なぜ、そしてどのように私たちは互いに異なっているのだろうか?それは、意識的なエージェントダイナミクスが、現実の本当の姿を隠すようなインターフェイスを生み出すからだ。私たちは同じでありながら、異なるように見えることがある。ある視点から見ると、すべてのエージェントは一つの世界に等しい一つのものに結合する。別の視点から見ると、この単一エージェントは、それぞれの世界に住む異なるエージェントネットワークと等しくなる。どちらの視点を選ぶかは、何を説明したいかによる。

2023-02-05

anond:20230205105602

女が悪いとか男が悪いとか結論ありきの二元思考に陥るのがナンセンス

順を追って論理的に答えを導く大切さもわからないのか

2023-01-22

方程式を解く最中自分が何をしているのか分からないということになっている。

数学においてはなんとなく生きてなんとなく死ぬという酔生夢死で終わるのではなかろうかという心地だ。

たとえば速度に関する関係式としてx(t+Δt)-x(t)≒v(t)Δtというのがあるわけだ。

ここから変位xを求めようという解法のテクニックとしてΔτ=t/nとおくとかΔτk=kΔτとおくとか、極め付けにはt=τkとおくことで区分求積法に帰着させる解法が載ってたりするわけだ。

しかしこうした変換式の設定が無意味ではないとどうして分かるのかと思ってしまうというわけだ。

上記の変換式には2つの式にtが登場している。

もしそれぞれのtが出てる式についてt=と変形したとき、各式の左辺を等式で結ぶと恒偽式になるような状態だったら無意味な置き方だということぐらいは私にも分かる。

たとえばa=x+yと置く一方でa^2=x^2+2xy+y^2+1と置いたのではこれは1=0を導く関係式を導くのでこの置き方は無意味だと分かる。

他にも自明な例だけどもx=1と置きながらx=2と置いたり、x+y=2と置きながら2(x+y)=2と置くのも無意味だろう。

しかしこれらは経験的に自明なだけでなく各式をxy平面にグラフとして表したときに交わらないということでも視覚的に自明と分かる。

a+b=tとおくと同時に(a+b)^2=t+1と置いたらどうだろう。これは経験的には自明無意味な置き方に思われるが実際にtだけの式に直すとt^2+t-1=0となる。少なくとも恒偽式ではない式が出てくるわけだ。

となれば経験的にそれとなく直感されない置き方についてはそれが無意味な置き方であるかどうかどうやって検討すればいいのかという話になる。

物理の式なんてものは多変数で高次式なわけだから恒偽式かどうか到底視覚化して判断できるものじゃない。もちろん経験的な勘が働くほど単純な式というのも多くはない。2aF/(M(a+b)+4ab)-gと(F+Mg)ab/(2ab+Ma+Mb)が常に等しいか常に等しくないのかなんて判断きっこないのだ。ある式で置くということにこうした複雑な式を出されたらその置き方が論理的妥当かという検証などもうあきらめてとりあえず従っておくしかないわけである

思えばなんで連立方程式は加減法や代入法で解けるのか、それをその方法で解くということの意味について深く教わった覚えがない。二元二次方程式までならグラフなり平行移動なりの考えで方程式を解くことの図形的な意味合いの考察を垂らされた覚えがなくもないのだが、それは一般方程式について解くことの意味説明にはなっていない。

かくして応用が利かない中途半端説明しか教授されてない結果として自分が何をしているのかも分から形式的方程式を解くだけかあるいはその連立方程式妥当性が検証できないような悲しい人間が出来上がってしまっているわけである

とはいえ任意の個数だけそれぞれが任意関数であるもの同士が任意の個数の任意演算子で結びついている表現されている何ものかについて、それを解くことの意味解説されても分かる気がしないわけだけども(たとえば∫a+bはaという関数に一項演算子積分演算子作用した後、二項演算子+によってbと結び付けられ何がしかの値を示している、みたいなことをものすごく抽象化した話を言っている)。

この問題の難しさは、ある変数が変化すればそれ以外の全ての変数が変化する一方である変数以外の変数が変化した場合もある変数を含む全ての変数が変化するというそ挙動の掌握することの難しさにあるのだろう。これが変化したらあれもこれも変化するという条件の中で論理的整合性を考えるというのは変数の数だけ変数挙動を追跡する考える余力がないといけないというわけで凡人なら簡単に頭がパンクしてしまうわけだ。

効率重視の学習生涯学習において足をひっぱってくるとは思いもよらなかった。

今日も煮え切らない理解方程式を解く式を追っている悲しさよ。

2022-11-29

anond:20221129094243

「とことん日本でやっておいて 最後語学留学する」の逆は必ずしも「とりあえず海外に行けばなんとかなる」ではないぞ。

極端な二元思考はやっぱりバッターボックス永久に立たない奴の特徴だな。

2022-07-13

anond:20220713140523

その自分反論する人間全部簡単レッテル貼る癖直した方がいいよ

敵味方に二元化するだけで全然建設的な話になんないか

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