はてなキーワード: はや取りとは
素直にYMMを使えというのは当然だけど、結構面白いのであえてダヴィンチにしている
割りとどこにでもある動画編集ソフトにあるはずのものがないので、自作だったり高価なプラグインを駆使する必要がある
ダヴィンチがおかしいのは、動画や画像といった素材の管理だと思う。素材をドラッグ&ドロップして取り込んだ後、その元ファイルをリネームしたり移動すると、ダヴィンチ側はそれを見失ってしまう。こうすると一々そのファイルの場所を再指定する必要があるのだが、膨大なファイルを移動してしまうともはや取り返しがつかない。結果、古いデータが再利用しづらい問題がある。これはプロキシを作っても変わらない。
この仕様のせいで迂闊に素材を取り込むことができない。なので素材の管理を徹底した上で取り込むというちょっとした準備が必要。それでもデータは壊れるが
あと、テキストの融通が効かなさすぎる
複数のテキストクリップを一括でフォント変更する、ということが難しい。しかもダヴィンチには字幕、テキスト、テキストプラスという3種類のテキストがあって、これらで仕様がバラバラ過ぎる。例えばテキストだと一部だけフォントや色を簡単に変えられるけど複雑な装飾は苦手。
逆にテキストプラスはかなり装飾を自在にできる反面、簡単な変更に恐ろしく手間がかかる。
字幕は装飾なんてものがなくて単色の文字列を素早く入れることだけに特化している。
これらを相互に変換したりすることはやや難しく、最初の選択肢を謝ると全部作り直しになる。
そんでもって図形の取り扱いが厄介すぎる。
ダヴィンチは基本的にタイムライン上で図形を描くことがほぼできない。それにはダヴィンチに統合されたFusionというAEのようなツールを駆使する必要がある。
ちょっとした三角形を入れるだけなのに、一々画面を切り替えて手作業で面倒くさいことをする必要がある。なので簡単なものならばテンプレに落とし込む必要がある。
全体を通してみると、ダヴィンチ・リゾルブってのは簡単な作業が面倒な動画編集ソフトだと思う。もちろん用途が合えば無茶苦茶簡単なんだが、日本人が好きなアニメ効果的なものをダヴィンチは大の苦手としている。
ようはパワポ的な表現。やろうと思えばできるし、実際に合成音声と立ち絵を駆使した解説動画は作れている。けれど簡単に素早くできるかといえば難しいところも多々ある。
なのでダヴィンチでそういうものを作るのであれば、計画的に設定を組んで一気に作るしかない。
でも良い点もある
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
それを言うなら賛成しない、だろ?
https://news.yahoo.co.jp/byline/kazuhirotaira/20220523-00297192
少しでもロシアに有利な論調は読んでないか無視してるだけなんだろう。
西側諸国と第三世界の分断はもはや取り返しがつかないレベルになってきている。国連大使が素晴らしい演説によってロシアを非難したケニアですらたった数週間で方針を変えてしまった。
そもそも、所謂「民主的な価値観」に基づいた国が世界で少数派である現状を見たら予想に難くない展開で、ロシアと中国がうざいから今後国連改革をします、と言ったところで果たして西側諸国に有利な展開が待っているかと言われたらそんなことはなさそうな状況なんだが。
現実の積み重ねを奇跡と呼ぶような頭お花畑な人間、「思うがね」なんていうフィクションにしか出てこないような言い回しを使っちゃうような非現実的な思考の人間だからウクライナがずっと戦い続けられる(そして勝つ)と信じるしかできないんだろうね。ウクライナが善戦したのは2014年からの戦闘経験の積み重ねでしかないし、ロシアや欧米がウクライナを甘く見たのも2014年の結果を念頭に置いてたからでしかない。何も不思議なことなんてない。
そして、ロシアだって永遠に学習しない愚かな存在ではないわけだ。それがここ最近のウクライナの苦戦に表れてる。
ウクライナには停戦する理由はないが、果たしてウクライナ以外の国はどうか?という話でしかないのに。
ウクライナ人が虐殺されて、倫理観みたいな上っ面の感情以外で本当の意味で痛みを感じているのはウクライナ人だけ。
民族浄化はいけないって価値観を共有してるのは西側諸国だけ。しかも西側諸国だってアメリカやフランスを筆頭に右派政権に変わったらどうなるか分からないのが現実なのに。
父はインフラ勤め、母は専業主婦の普通の家庭に生まれた。両親はふたりとも高卒で20代後半で結婚してわたしが生まれた。
住まいは社宅から一軒家になり、リビングのある1階と寝室のある2階の家になった。
父は酒を飲み、タバコを吸う男だった。そして母は一滴も酒が飲めなかった。
父は暴力は振るうことは一度もなかったが、酒を飲むと、少し語気が荒くなった。母はそれを毎日避難し、毎日2階に逃げた。
子供の頃のわたしは、母を2階に呼びに行かなくてはならなかった。
母は常にわたしに、年をとったらわたしが母を介護するのだと毎日言い聞かせた。
子供であるわたしは、毎日父の不満しか口にしない母に媚び、慰めないといけなかった。
そしてたまに1階でわたしは父が酒を飲んでこぼす母への愚痴を聞いてあげないといけないのだ。
わたしは2階の自室で部屋のベッドで小さくなりながら布団を抱きしめて毎晩過ごした。
わたしは体が小さく、運動はできなかった、また容姿もよくなかった。しかし勉強はそれなりにできた。
わたしは近くの中学校を経て、県立の進学校に進学した。わたしは少しだけやっていたスポーツをやめ、ガリ勉になった。
わたしの学力は上がった。地元の医学部の推薦を受けることの出来る成績であったし、父はわたしに医者になってほしかったようだった。
しかしわたしは官僚になりたかった。文部科学省で、子供の未来を司る教育を作りたかった。思い返すと、子供である自分が満たされていないことの代償行為かもしれない。
慶応には受かったのでそちらに行くことにした。当時は家がおかしいとは思っていなかったが、家で浪人はできる精神状態ではなかったというのは無自覚ながらあったのかもしれない。
滑り止めは大阪大学の予定だったが受けなかった。そのとき父が単身赴任で大阪に行っていたので、やはり避けたかった思いがあったのかもしれない。
大学は刺激的だった。
わたしはいわゆる陽キャに分類されるであろうサークルに所属し、おそらく人生で一番楽しく充実した毎日を送っていたと思う。
そこにいた彼らはみな優秀で誠実で、親の愛と期待、また財力もあった。彼らのほとんどは期待と自信に満ちあふれていた。
彼らは本当に善性に満ちあふれていて、世の中を肯定的に見ることが出来るのだ。育ちが違うというのはこういう事を言うのだろう。昔話題になった低学歴の世界と高学歴の世界はまさしくこれである。
そのうち、わたしに初めての彼女ができた。今思うと浅はかな考えだが、わたしは全くもてなかった、だから当時、彼女さえいればバラ色の人生とは行かずとも人生が好転すると信じていた。
しかし、それは何も自分の渇きを癒やしてくれなかった。自分の持っている悩みは解決されないまま恋愛関係という新たな悩みをわたしにもたらした。
わたしは彼女と別れた。そして気まずくなりあまりサークルに行かなくなった。
年次が進みわたしは就活に向けて、大学向けの官僚の話を聞きに行った。そしてショックを受けた。そこに来たのはみな東大出身だった。自分の大学向けの講演であったにもかかわらずだ。少しは慶応出身のひともいるはずなのに。
わたしは後悔し、東大に行けなかった自分を恥じた。そして受ける努力もせず官僚を諦めた。
わたしは堕落し、成績はどんどん低下した。お金もなかったが留学するだけのGPAも全く確保できていなかったと思う。卒業はぎりぎりだった。
わたしはインフラ企業に就職した。安定した企業で地方転勤がない会社に入りたかった。NGだけがあってやりたいことが思いつかなかったので公益性などを考えた、いや就職のための美辞麗句として使用しただけかもしれない。自分でもわからない。なんだかんだで父を尊敬していたのかもしれない。
しかし、コンプレックスは拭えなかった。先輩方はみな電通や博報堂に入社していた。そもそもわたしは受けもしていない。
同じサークル出身でまさに文部科学省に入った同期もいた。ハンデを乗り越えて入省した彼は本当にすごいと思う。しかしわたしは怖くて彼と連絡をとることはできなかった。
わたしは会社で体育会系の部署に配属され、不眠症になった。不眠症は一項に改善されず処方される薬はどんどん増えていった。
わたしは仕事にやりがいも見いだせず、また傍目にも優秀とは言えなかった。当然ながら、出世コースに乗ることはできなかった。
他の会社は違うのかもしれないが、この会社は出世ルートから1度でも遅れたらもう二度と追いつくことはできない仕組みになっている。
しかしやる気はでなかった。そもそも出世したいかしたくないかもわからなかった。しかしお金は必要だった。
わたしはそのうち花形部署に配属された。それなりの残業代を得て、それらはすべてソーシャルゲームに消えた。
そこではわたしの評価は勝手に上がるようになった。私は上位の等級に選ばれ、少し位が上がって係長になった。同期では真ん中くらいか少し遅いほうかもしれない。
昔の部署で自分より年下の後輩が係長になっていたのを見て、ショックを受けていたわたしは少し持ち直した。
そもそもそれでショックを受けるまで出世がしたいとも思っていなかった。もはや取り返しのつかないことだが。
わたしは奨学金を借りていた。そして、借りたお金を利子がつかないよう両親が建て替えて両親に返す形になっていた。
なぜかそれが親の好意みたいな形になっていたし、そもそも払えるじゃないかとも今は思う。そして母は利子をつけない代わりに、支援機構の倍の速度での支払いを要求した。
わたしは10年かけてそれを返した。そして最後に振り込みをした日に両親と絶縁した。
わたしは外から見たら、おそらくそこそこ恵まれているように見えているのではないかと思う。
部屋は最新のガジェットとデザイナーズ家具で溢れている。椅子はアーロンだし、キーボードもRealforceだ。Alexaは一声かけるだけでシャンデリアを操作してくれる。なのに、わたしは大枚はたいた高級ベッドの上で、大の字で寝ることもできず、子供の時と変わらず隅っこで布団を抱いて眠ることしかできない。しかも大量の睡眠薬が必要だ。
わたしは人の顔を思い出すことができない。父も母も妹も昨日あった同僚でさえもゼロから顔を思い浮かべることができない。
怒られるのが、あるいは責められるのが嫌な人達が楽で姑息な進め方をしようとしてる結果、より本質的な怒られ案件が溜まっていく構図に見える。
もしかしたら現状では自宅療養中心になるのはやむを得ないのかもしれない、ない袖は振れないかもしれない。
ただ、それは「他の選択肢がもはや取り得ない」ことを納得できるように説明することもセットで必要で、「ない袖は振れないよね」と勝手に慮ってあげるのはよろしくない。
ただ、そうすると、不可抗力ではない落ち度が出てくる(例えば軽傷者の療養施設確保できてない話とか)ので、いっぱいごめんなさい案件を俎上に並べないとまともに説明ができない。
結局、ちゃんとした説明をすると「今こうすべきなのは納得したが、てめーらのせいでこうなったんじゃねーか」となるので、まともな説明が出来ない、のかなって思ってる。
なお、この「てめーら」には説明を考える官僚のみなさんだけではなくセンセイがたも含まれるので、官僚からすると「自分たちが起案したロジックでセンセイがたが責められる」ことになり、出したくないのかなぁとか勝手に思ってる(かつ、階級によってもその温度感は違いそうで、上の役職ほどその傾向が強そう)。
この推測が正しいとすると、この政権、あるいはそこと連続性のある政権では今後もまともな説明が出てこないだろうし、それが政策にも影響するだろう、と考えられる。
つまり、こういう「本質的な説明を避けて怒られを回避した案件」はあとからほじくり返されたくないので、以降の案件でも言及できなくなる。すると、以降の案件でもまともなロジックが組めなくなるので説明されない。
結果として過去案件をほじくり返されても痛くない人達が政権に着くまではこの状態が保たれてしまう。
また、合意形成のための説明を完全に放棄するならマシだが、なまじっか説明をしようとすると上記の制約に阻まれるので、「うまくつじつまが合う」政策のほうが「合理的で実効性の高い」政策より選択される可能性が高そう。
これは、とてもとても良くない事態。
処方箋は二つで、「怒られ案件を全部消化してもらってよけいな制約を取っ払ってから取り組んでもらう」か、「しがらみのない人に変わってもらう」か、しかない。
政権交代は後者で、仮に野党が与党に能力で劣るとしても、この制約を取っ払えるだけでそうとうまともに動けるようになる気がする。
ただそれはハードランディングで、時期も限られる上にいろいろ別のトラブルも起きるだろうから、前者、つまり与党の自浄に期待したい(が、絶望的だと思う)。
そんな用語があるかは知らんがw
たぶん勘違いしてるよそれ
サンクコスト(埋没費用)とは、過去に払ってしまい、もはや取り戻すことができない費用のことです。したがって将来に関する意思決定をする場合、サンクコストは考慮に入れず、今後の損益をだけを考えるのが合理的な判断です。しかし、将来にわたって金銭的・精神的・時間的な投資をしつづけることが損失になることが明らかであっても、それまでの投資によって失った費用や労力を惜しみ、投資を継続することがあります。これがサンクコスト効果です。
人材だとしたら、シンプルに「これまでの投資育成費用・採用費用がもったいないから雇い続けてしまう」状態がサンクコスト効果で、「やめられたらもったいないから愛情を注ごう」(なんだそりゃ)ってのは、サンクコスト「予防」効果だと思う
最低賃金がないと最低賃金以下の労働を仕事とする会社ができてしまうよ。
お駄賃100円で弁当を運ぶ仕事をする人がいたとしてそこに業務を委託する会社に勤めるのは最低賃金以上の仲介業務を行う仲介件数時間あたり15倍の業務をする人である生産性が必要ということだよ。
売春も最低賃金以下の労働も自分で仕事をするならそれに見合った取引をすればいい。
それを人を使ったり会社としてすると、人がそれに従事するという事を旨とした会社という単位でそれを業務として行うことになる。
会社が仕事として必要な最低水準をどこに決めるかというのが最低賃金だから、それを上げて会社という資本を出して仕事をしてもらってそれを増やす水準を設けないと搾取して利益を社員から吸い上げるような会社ができてしまう。
年末とかシーズンに売り上げノルマを課してとどかなかったら責任とらせるという名目で罰金を科したり買い取らせたりするような会社は、国からしても必要ないという見方が最低賃金の設定。
最低賃金以下の仕事でスタートして人生切り開こうっていう人のチャンスは、個人事業で個人で始められるものからすべき。
会社が人生再生を謳ってもはや取り分のないはずの最低賃金以下の労働以下の労働を社員としてさせて利益を吸い上げるのはいけないことってことだよ。
弁当配達人はただの弁当配達人。巨大飲食企業の配達員ではなくて配達する人、1件か30件かわからないが少なくとも1件を受けてくれる他人。
その人を紹介したりその人たちに案件を紹介したりする仲介業は時間にして100円とか200円だけの業務で雇用されない。
会社として税金をおさめなにより社会貢献をし従業員を保護するのにその金額では採算がとれないという最低基準をクリアしていないと会社として認めるのは最初からおかしい、というのが最低賃金。
そもそも会社法では従業員も使用者も対等。社長にたくさんお給料を稼いでもらうためには従業員がたくさん稼げないといけない。
もとより稼げない、稼ぐ元が生産ではなく従業員からであってはならない。
100円で1件うけてもいいよと本人が答えられるならそれはそれでいい、100円で従業員に仕事させるっていうのはダメ。
100円の売り上げで従業員は手取り50円、社長は紹介料で50円、そんな不幸な儲けを自分でそれはそれでよいという都合だけでなら他で調整もきくだろうしいいけど、他人を巻き込んではいけない。
経営がどうのとか以前に倫理的に自分の不幸は調整すれば幸運にもできるだろうけど、他人もそれがいいだろうとかできるだろうと巻き込んではいけない。
【覆水盆に返らず】
自分は、小学4年生(10歳くらい?)の時に父親が女をつくり、家から出ていき、それから母方の実家で高校卒業まで育ち、東京の大学に進学した。
こういう話は今のご時世ありふれた話であるし、母子家庭で育って苦労しました…という話でもない。
母方の実家にある程度金があったので何も苦労することなく大学まで出してもらったし、何なら大学生の時にアルバイトもほぼしなかった。
父親の実家にもある程度金があったので、教育費をほぼすべてサポートしてもらっていたらしい(これは最近母親から教えてもらった)
仕事人間だった父親は土日もほぼ家にいなかったし、平日は父親が帰宅するころには寝ていたから父親との思い出というものがほぼない。
土日に父親がいないことで家がたまり場になっていたことは内向的な性格の自分にとってはいちいち友達に声がけしなくて友達と遊べるからからありがたかった。
母方の実家に住むことで弟と別の子供部屋ももらえたし、叔父が残していった80-90年代の大量の漫画(マスターキートンなど)などに触れられたこともラッキーだった。
母方の実家がもともと住んでいたマンションと比較的近いところにあったので、通う小学校が変わらないこともストレスにならなかった。
ご飯も祖母が毎回きちんとしたものを作ってくれるので、生活の質は全般的に向上したと思う。
学校が終わると亡くなった祖父と弟と夕方早めに風呂に入って、祖母が作ったバランスの取れた夕飯を食べて、夜は弟とポケモンルビー&サファイアをするパラダイスみてぇな環境だった。
パラダイスみてぇな環境で過ごしていたある日、父方のひいばあさんが亡くなったと連絡をもらった。
そこで父親と5-6年ぶりに再会した。自分は高校生になっていた。
母親は僕が父親が接触することを嫌がっていたが、久しぶりに父親と会話するのは新鮮だった。
これからはこういう時代になるから大学はこういうところに進学したほうがいいとアドバイスをもらったが、的外れな意見だったのでシカトした。
自分は父親が出て行ったいたことは正直に言うとあまり気にしていないと伝えると、安堵した様子だったことを覚えている。
(だって父親と住むより環境が良いし、そもそも一緒に暮らしていないも同然だったので)
父方の祖父・祖母が家業を畳んだり、引っ越ししたり、老人ホームに入ったりとちょいちょいイベントがあったので、前よりも父親と関わる機会が増えていた。
父方の従兄弟と久しぶりに再会したり、父親の粗相でなくなっていた親戚が一堂に会するみたいなイベントもこの頃に復活した。
父親の祖母が嬉しそうだったので、まあこういう時間も悪くないななんて思ってた。
社会人になってからは会うというより電話することが多くなった。
老人ホームに入った祖父・祖母が怪我や病気をしたりすることが多くなり、そういう情報を共有してもらっていた。
父親からはお通夜のあとに一晩葬儀場に泊まるので、自分と弟も一緒にも泊まって欲しいとお願いされた。
自分は断った。面倒だし葬儀場にはシャワーがないらしく、朝シャワーを浴びることができないことは、現代人の自分には耐えられないと思ったからだ。
父親の弟(叔父さん)からは、父親は自分と弟と一晩語りたいという思いがあるらしく、説得らしきものをされたが、断った。
別に恨んでいる訳でもないが、いまさら何を語るのか?不思議で仕方がなかった。
父親が赤ん坊だった自分を抱っこしたときに、自分におしっこを漏らされた話でも延々するつもりであったのだろうか?
「語る」だなんて、大学生の宅飲みじゃないんだから勘弁してくれと思った(しかも、となりの部屋には祖父の遺体がある、実にスリリングである)
ただ、父親が20年近く前にした家を出る(家族を捨てる)という行為に対する、代償は確かに存在する。(僕ら兄弟がそういった行為に対して、大したダメージを受けていなくとも)
父親が僕ら兄弟とよくある親子のような関係を今になり望んでも、残念ながら、僕ら兄弟はそれを望んでいないのである。
こういうことって端的に言えば、「覆水盆に返らず」になるかーと思い、人は太古から同じ過ちを繰り返すものだと身をもって理解することができた。
ただ、僕も年齢を重ねるように当時の父親が置かれている環境に同情することも増えてきた。
「仕事をしてお金は稼がないいけない」「妻とは上手くいっていない」「子供にはなついて貰えない」。
そんな状況の中でリセット願望が出てきて、それを実行しちゃうって気持ちも正直わからんではない。
ただ、そういうことを実行した際には後に金を積んでも何をしても戻せないものがあるっていうことだ。
この記事がどれだけの人の目に留まるかはわからないが、きっといま20年近く前の自分の父親と似た境遇の人もいるはずだ。
蒸発してしまう前に一度冷静になって欲しい。将来あなたは子供に恨まれるのではない、子供にとって関心がない存在になってしまう可能性があるのだ。
このブクマについたブコメが色々香ばしかったのでまとめておく。
スカタンなブクマを眺めていく前に振り返っておきたい点がふたつある。
まずひとつめは、元記事で回答者氏が述べているのは「日本は他国や過去と比較して相対的に治安がいい」という事実だけであり、そこに絶対的な尺度はないということ。「いや犯罪は起きてるじゃん」という反論は意味がないのである。日本で起きてることが他国ではもっとたくさん起きてるんですよ、ということを言っているので「うん起きてるね」で終わりである。
ふたつめは、治安レベルの指標として殺人件数を採用している意味について。回答者氏は「治安のレベルを測るのには、一般的に人口10万人あたりの殺人件数(過失やテロによる死者を含む)を利用することが多いので、以下でもその慣行に従」うと述べており、これは言い換えると殺人件数は学術研究レベルで慣行とされうる程度には治安レベルを測る指標としての妥当性を持っているということになる。
id:takamocchi 「口に粘着テープを貼りアイマスクをして飛び降り」う~ん自殺!「土管を腰に結び両手足をロープで縛って海に投身」これは自殺!「証拠品の銃を奪い自分に発射、飛び散った血をふき取って死亡」うん自殺!
↑殺人事件であるはずのものが自殺として扱われて数字に入っていない(ので日本の治安がいいとは言えない)と言いたいのだろう。そうしたケースを殺人に算入した結果統計にどんな影響が出るのか見てみたいものである。年に何件あるのだろう。元記事の論拠が覆るほどの件数だとしたらたいへんなことである。
id:speedworld1231 殺人事件に関してはそうかも知れないがもうこの国はだめだよ
↑微妙な判定でセーフだが、殺人事件を治安レベルの指標としていることに不服がありそうなので加えた。「もうこの国はだめだ」に関しては同感である。
id:tableturning 日本いうほど治安良くないよ。怒鳴ってくる男の人多いし痴漢も多いし身を乗り出してツイッター覗いてくるし、都内の方なんて夜道は怖くて歩けない。酒に薬入れて女子大生が十数人昏睡状態とかニュースになってるし
↑前置きの1点目がわかっていないケース。誰もお前の体感治安の話などしていない。
id:kyo_ju 殺人の件数だけで治安の良し悪しを論じられましても/凶悪犯罪や少年犯罪が減少を続けているのは確かで、ならば警察規模縮小を論ずべきところ、体感治安ガーとか各種理屈を総動員して警察組織は拡大の一途なのがね。
↑これは前置きの2点目がわかっていないケース。殺人が多いくらいならばほかの軽犯罪や性犯罪も相関して多そうだとは思わないのか。人殺しするやつは万引やレイプだって平気でするだろ。
↑同上
id:ponkotukko 自死する人が多いことも考えに入れてほしい
↑自殺率と治安に何の関係があるのかさっぱりわからない。なぜ突然自殺の話をする?
id:kuroan 治安の良さを「殺人」で測るか「軽犯罪」で測るか。犯罪を「実際に起きた数」で測るか「警察に握りつぶされたものを除いた数」で測るか。
↑とりわけスカタンなこのコメントが星を集めてるのが心底嘆かわしい。殺人がぼこぼこ起きるような国じゃ軽犯罪なんかもはや取り締ってらんないくらい無数に起きてんだろ。なぜ軽犯罪で比べたら違う結果が出ると思うのか。そして治安が悪いってことは警察が無能か腐敗してるかその両方かだろ。なんで日本の警察のほうが無能って前提なんだよ。ほかの国より警察が優秀だから殺人が少ないんだよ。お前もその恩恵受けてんの。認知件数じゃなくて発生件数(神様にしかわからない)で比べたらむしろ差が開くわ。アホか。
id:amunku 普通に暮らしてればアメリカもイギリスも安全だし私NY市内の電車で寝てたよ。殺されなくても日本でレイプは現時点で無罪だよ。セクハラパワハラ過労死は横行してて自殺率は他国より高い。殺人にカウントされないけど
↑どこの世界線から来たのか知らないがこっちの世界線の日本ではレイプはれっきとした犯罪(強制性交等罪)で認知件数は年間3ケタある。そのすべてが有罪になるとは言えないだろうが(示談成立や容疑者不明のまま不起訴があるだろうから)少なくとも起訴されれば有罪になるはずである。また、セクハラパワハラ過労死自殺率については何言ってるかわからない。
↑誰も女性の体感治安の話などしていないので届く必要ももちろんないと思う。
↑お前がそう思うんならそうなんだろう。お前の中ではな。前置きのひとつめをよく見ろ。
id:nowa_s 安全な国とは思うし殺人や強盗の被害は身近にないけど、性犯罪なら多すぎる。/"日本で30年犯罪に遭ったことない"人すげーな。自分一人に限っても匿名電話で強姦の脅迫、体操服や自転車の盗難、複数回の痴漢とかある
id:nanakoso 殺人は死体が残って「実際に起きた数」を操作しづらいから国際比較の基準にされる。いじめや軽犯罪は警察、担当官らの胸先三寸で数字が変わる。追記:反論したい人は数字出して記事かいてよ。
↑これも前置きの2つめに乗っかれなかった人。日本で数字が操作されるなら諸外国ではもっとひどい操作をされているかもしれないという想像力すら働かず、自分の導きたい結論に都合よく世界ができていると思っちゃえる人。しかもその立証責任は他人に求めちゃう人。意見を述べる資格なし。
id:princo_matsuri 道路の治安はその限りではない
↑諸外国の交通秩序のほうが日本よりまともだと言いたげである。それは本当か?
id:yanosworkout 浅い。マクロ視点で治安がいいのは分かっているが、度々エントリで上がる性被害や弱者への暴力は一体何なんだろうって思う。
↑いやその話をしたいのはお前個人だろ。
id:iGCN 殺人の件数が少ないことを根拠にしているけど、エクストリーム自殺として処理されている暗数がそれなりにある気がする。
↑既出。略。
id:hotelsekininsya でも、都会で痴漢にあった女性ってすっごい多いんだよね?確か半数軽く超えてたはず
↑「でも」があるのでセーフ判定。「ところで」だったらなお良かった。
↑なんでこんなに自殺を殺人にカウントしたい人が多いんだこの国……
↑もう……
飽きた。まだこれでもブコメ全体の半分まで見きれてない。スカタンなブコメ書いたけど拾われなかった人たち、ごめん。
反響が大きくて驚いた。良くて「ヒマ人乙」くらいのブコメがふたつみっつついてすぐ埋もれる予定だったのに反応の質も量も意外だった。
しかしこれだけ注目されると、「論拠があやふやだけどいいや、書いちまえ!」って雑に書き飛ばした筆のすさびがきちんとツッコまれるので、さすがだなと思った。おっしゃる通りです、お恥ずかしい、という指摘がいくつもあった。どれとは言わないけどあなたが正しい。
昔からずっと変わらない考え方で、休まず通うべきというのがある。
皆勤賞に代表されるように、1日も休まず通い続けられるのを美徳とする所がある。
確かにそれ自体やろうとすると意外と難しい事なんだけど、そのせいで休みってとても取りにくいものになってしまってる。
そもそもは学校には休まず通うべきというとこから始まってるのだ。
一日休んだだけで取り残されてるような気分になったのをよく覚えてる。
そしてそれを過ぎるともはや取り返しがつかないかの如く学校に行きたくなくなる。
まあ義務教育課程では自発的に休むのはなかなか難しいだろうけど、何故か大学になった途端みんな自由になり過ぎて単位を平気で落とすようになったりもするのは不思議だ。
どうしても休みたい人は仮病を使って「申し訳ない…」とか言いながら休む。
最初の半年から一年消化しなければあとは有給で月一休みの予定を入れるくらい楽勝になる。
考えてみるべきだ。毎月一回は三日間休める日が出来る事を。週一しか休みが取れないなら2日休める日を設ける。
これはとてつもない可能性を持っている。3日休みがあればめちゃくちゃ色んな事ができる。
たまにためこんだ有給を連休にぶつけて長い休みに数珠つなぎにする人もいるが、そういうのはかなり計画的に進めないといけないのでイベント感が強すぎる。
誰もが来月の三連休はいつにしよう、という考え方を持ってもいいはずだ。
特に予定もないしテンポも悪いから有給はなんかあったときのために取っておく。
http://anond.hatelabo.jp/20160605200100
近ごろ若者(特に女性)が面白半分でウソ情報を添えて人物や場所の写真を公開するイタズラが気になる。
2年近く前になるが、大阪~神戸あたりで自動車のナンバープレートがハッキリと写った写真とともに
「最近夜道を歩く女性を連続強姦した男の車です。死者も出ている模様」
といったツイートが(少なくとも自分の周囲では)大変な話題になっていた。
当時、同じ親世代の大人たちは、バカバカしいと思いながらも気にかかっていた記憶がある。
冷静に考えれば、本当に死者が出るほどの連続レイプ事件が起きれば、
少なくとも何らかの形で報道されるだろう。
だが、情報の受け手が10代女性が中心だったせいもあり、客観的な視点なんて度外視で情報は広まっていた。
その噂が収束しつつあった頃、これも噂に過ぎないが、この写真は彼氏と喧嘩別れした女の子が
腹いせに「こいつにヤリ捨てされた」といったセリフとともに写真ツイートを公開したところ、
事情を良く分からないフォロワーの口コミに尾ひれが付いて拡散していった、という話を聞いた。
(最初は非公開ツイートだったが、誰かが無断アップロードしたらしい)
結局のところはマナーの問題でしかないが、性的な盗撮画像と違って
肖像権やプライバシーに関する情報はあまり重んじられていないのが現状だ。
ことに若年層は何気なしに誰かを社会的に抹殺できてしまうようなイタズラをすることもある。
どーして影も形も今日残っていないんだろう。
世が世なら大傑作ともてはやされて再放送、再々放送が繰り返され、ドラマスペシャルの年越しグレンラガンで年を越しても良いはずだ。
何故だ。なぜ残っていない?テキサスに本拠地を構えるRooster TeethでRWBYの監督だった故Monty Ohmもグレンラガンの「死してなお生き続ける、螺旋のような人の業」について深く影響を受けた的なインタビュー回答をしてたぞ。
では溶けたのか? グレンラガン以降のアニメは螺旋の遺伝子が刻まれ、溶け込みもはや取り上げるまでの事がなくなったのか?
謎だ。
TVシリーズをかじりついて視聴し劇場版の紅蓮篇、螺巌篇も公開と同時に行った僕も何故今日だれも話題として扱わないのか謎でならない。
…シュタインズ・ゲートって(以下繰り返し)
増田です。
みなさん、ここのところの増田で妙に脱糞が多くなってると思いませんか?
「まあ夏だから冷たいものの食べ過ぎで腹を壊したんだろう」とか
「まあ夏だし朝下剤ダイエットでもやってるんだろう」とか
そう考えていらっしゃるかもしれません。
違います。ここ最近の脱糞記事はほとんどが粉飾脱糞、不正脱糞です。
事のはじまりは今年の五月でした。
部長増田が朝礼で「最近の増田たちは脱糞が足りない! いかん! 私の若いころはだな〜」と自分がいかに山手線で糞を堂々と漏らしていたかという自慢話からはじまり最後に「これからの増田にはチャレンジ精神がひつようだ! そうだ! チャレンジだ! これからはチャレンジおもらしをどんどんしていけ!!」
この、おそらく軽い気持ちであげたであろう部長増田の鶴の一声が、今回の悲劇のひきがねとなったのです。
部長増田は明言したわけではありませんでしたが、社内の空気的には我々に「脱糞ノルマ」を課したも同然だったからです。
「脱糞を増やせといってもそうそう簡単におもらしなんてできないし……」
「それだ」
しかし我々は見知らぬ土地で急な便意を催した時に通りすがったコンビニの設備に賭けるおもいで可能性にすがったのです。
こうして7月までに前月比二・五倍のペースで脱糞記事が量産されていきました。そのほとんどは実糞を伴わないクソ記事でした。
部長増田はわれわれの「チャレンジ」を褒め、金一封を与えてくれました。われわれもなんとなくいい気分になりました。
最初は良心の呵責に苦しんでいましたが、そのうち慣れました。部長増田も脱糞記事が増えて喜ぶ、われわれもボーナスが出て喜ぶ、読者も脱糞記事が読めて喜ぶ。
三糞一両得とはこのことです。
におわない糞を誰が糞だと認めてくれるというのでしょう。
いつのまにか、われわれは糞以下の記事を量産してしまっていたのです。
私が増田の不正を告発しようと思ったのは、娘の一言がきっかけでした。
それはわたしが家族旅行先のディズニーランドで漏らして恥をかいたけれど優しい娘のフォローにより救われたという内容のほっこり系の記事で、タイトルは「プーさんのハニーハントでうんこプーさんしてしまった」でした。
「ほんとうにディズニーランド行けるんだったら、おとうさんがいくら漏らしても気にしないんだけどな……」
そうです、そもそも私たちは家族旅行なんていってなかったのです。
わたしは娘になんということをしてしまったのでしょう。
わたしが犯してしまった糞飾、糞正はもはや取り返しがつきません。
しかし、これからの増田たちには同じあやまちを繰り返してほしくない。
そういう思いで、今回筆をとらせてもいらいました。
増田たちよ!立ち上がれ!糞を漏らしても魂は売るな!!
これを書いた増田だが、ただ殴り書いただけなのにちょっと反響があってしまって責任を感じている。
http://anond.hatelabo.jp/20150513013343
だから今回はちゃんと俺の言いたいことが伝わるようにまとめてみたよ!
あ、タイトルは注目を集めるためにつけただけで、本気でそう思っているわけではなので悪しからず。
本気ではないが、半ばそう思っているけれど。
俺はナルシストだ。
そして品がない。
育ちも悪いしコミュ障だし、人の気持ちもわからんしデリカシーも無い。
見る度に、チックが別れた女房と息子に会いに行くシーンと、インデペンデンス号が墜落するシーンと、ハリーの自爆間際の走馬灯とで3回泣く。
俺の読書体験を要約すると、『スレイヤーズ』にハマって呪文詠唱覚えたり『星の王子さま』に感動したり『それから』を読んで代助のガキっぽさに読んでるこっちが真っ赤になったり『キノの旅』を読んで1巻目のプロローグとエピローグ暗記したり『猫の地球儀』に号泣したり『世界の中心で愛を叫ぶ』に号泣した後で本屋に平積みされてる『ジョン・レノンにだまさされるな』をワクワクしながら手にとって20ページほど読んでそっと棚に戻したり『いちご同盟』に号泣したり『バトルロワイヤル』に号泣したり『殺×愛-きるらぶ-』に号泣したり『天使の卵』に号泣したり『アルジャーノンに花束を』に号泣したり『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んでわけもわからず激怒したり『ゼロの使い魔』読んでルイズに恋に落ちたり『フルメタル・パニック!』に号泣したり『とらドラ!』に号泣したり『永遠の0』に号泣したり『生贄のジレンマ』に号泣したり、まあだいたい号泣している。
こうして振り返ってみると読んでる本に脈絡ないなと思う。
ふらっと本屋で20ページぐらい立ち読みして、面白いなと思った本を買って読むからだろう。
あとは気分で話題になってるのを読んだりする。
テレビで『風立ちぬ』やったらしいから原作読んでみようか、とか。
夏目漱石とか太宰治とか川端康成とか谷崎潤一郎とか、国語の教科書に載ってるような文豪の作品も気が向いたら読んでみたりする。
ゲーテとかシェイクスピアとかカフカとかも、読んでみたことはある。
その中で、この人の書いたものは全部読まなきゃダメだ!って思わせてくれたのは秋山瑞人だけなんだよな。
『イリヤの空、UFOの夏』を読むと、
「ぼくは笑わない」
榎本の瞳の中に、どこか臆病な光が滲む。
「なぜそう言い切れる」
何度読んでもここで泣く。
これこそが文学だと思う。
さて、自己紹介もすんだところで俺の陳腐なブンガクロンの話でもしようか。
俺がむかっ腹が立って仕方がないのは「読書を教養を蓄えるための苦行と考えている人間」これに尽きる。
読書は面白いからするのであって、苦しむためにするわけじゃない。
ミステリが好きな奴は犯人探しにうんうん頭を悩ませるのが好きなんだろ?
重厚な哲学書みたいなのが好きな奴は、難しい話を読むのが好きだから読んでるんだろ?
読書が好きな奴にとっちゃ、当たり前だよな。
まさか、スタバでMac広げるノリで、ファッション感覚で分かりもしない純文学読んでる奴なんていないよな?
世の中には少しはそんな奴いるんだろうけど、こんな所でまで文学にあーだこーだ言う物好きの中には居ないだろう。
だからこの文章を読んでる人は、俺の嫌いな人間じゃないはずなんだ。
で、なんで読書が苦行と結びつくかと言うと、いわゆる「タメになる名作」って奴が歴史の洗礼を受けて生き残った、古い小説になることが多いからだ。
古い小説には、現代に生きてる人間にとって見慣れない表現が多く使われている。
当時の人にとって「ぐいぐい読ませる美しい名文」の集まりが、読書経験の少ない人には、まるでお経かなんかみたいに見えてしまっているわけだ。
だから「教養の無い人間にとっての、教養のための読書」は苦行になる。
そして、少し本を読んでるってくらいの俺にとっても、やっぱり明治の文豪の書いた文章は、血の通ったものには見えないんだ。
俺の思考、心、俺自身を構成する言葉の一部とは思えないんだよね。
なぜならライトノベルは、俺の心を作っている言葉、そのもので書かれた物語だからだ。
俺の体の中にある思考や心を、本という形で取り出した物だからだ。
文学かじってるような奴らは、『不朽の名作』なんて小っ恥ずかしい妄想を本気で信じてやがる。
断言してやるが、そんなもんはこの世に1作品足りとも存在していない。
全て名作は朽ちていくんだよ。
それは、作品に込められたメッセージが古くなるのではなくて、俺達が読めなくなるんだよ。
俺達には手が届かない。
だからどんな名作だって、その名作の本当の味を味わうことはできないんだ。
ショパンがその手で響かせていたピアノの音色を、俺達が耳にすることはできないように。
失われてもはや取り戻せない。
だけど、俺達はその片鱗だけでも、味わうことができる。
きっと完全ではないが、味わえる。
だって、人の心には百年でも千年でも、最も深い所に変化はないからだ。
そう信じるに足る何かがある。
眩いだろう。
なんか胸がときめくだろう。
ナルシスティックな気分になるだろう。
何十年かしたら、今読まれているラノベは苦労なしに読めない物語になっていくのだろう。
教養のための本になっていくのだろう。
それでいいんだよ。
そしたらまた別の何かが読まれるさ。
そうして俺達は滅びていく。
俺達の感動は、俺達の号泣は、俺達のナルシスティックな情動は、受験生を一喜一憂させる国語の試験の点数に押しつぶされて消える。
俺達が滅びた後で、意識高い系のインテリ気取りが20世紀末から21世紀初頭にかけての文学として、読み解くのに苦労するものとして、ラノベを語るのだろう。
それがちっとむかつくってだけだ。
内田 ぼくの師匠の多田宏先生のさらに師匠に中村天風という方がいらっしゃるんですが、その先生の教えの中に「取り越し苦労をするな」というのがあるんです。
取り越し苦労というのは、未来が予測可能であるということが前提になってますよね。こうなって、こうなったらどうしよう……と起こり得る可能性を羅列的に列挙して、その中の最悪の状況を想定して、そのときの困惑や苦悩を先取りする。でも、まだこれから何が起こるのかもわからない時に取り越し苦労をしてしまう人間というのは、失敗を宿命づけられているんですよ。だって、人生って必ず予測もしなかったことが起こるわけですから(笑)。もっと未来の未知性に対して敬意や畏怖の念を抱かないと。
未来に向かって開かれているというのは、未来の可能性を列挙して安心したり不安がったりするということではなくて、一瞬後には何が起こるかわからないという覚悟を持つことだと思うんです。ですから、「取り越し苦労をするな」というのは、楽観的になりなさい、ということでは全然なくて、「何が起こるかわからない」のだから、全方位的にリラックスして構えていないと対応できないよ、ということなんですね。
でも、悩んでいる人というのは、ほぼ百%が取り越し苦労で苦しんでいる。こうなったらどうしよう、こうなったらえらいことになる……って最悪のシナリオを事細かに想定して、どんどん細部まで描き込んでゆく。自分のことをリアリストだと思っている人ほど取り越し苦労しがちですよね。
でも、先ほども言いましたけれど、最悪のことを考えて、あらかじめいろいろな策をきちきちと講じておくと、そういうふうに最悪の場面に備えて対策を講じていた自分の努力に「報いてあげたい」と思うようになるんです。せっかく最悪の事態に備えたのに、最悪の事態が到来しないんじゃ、取り越し苦労した甲斐がない。だから、取り越し苦労する人は、その最悪の事態の到来を願うようになるんです。
春日 そうそう。鬱病の人の特徴の一つが、まさにその「取り越し苦労」なんですよ。それからもう一つ、彼らが一番つらいのが「もはや取り返しがつかない」ってこと(笑)。
内田 なるほど。
春日 未来を先取りして失敗して、「もう取り返しがつかない」って言っているわけです。
内田 未来も過去もないんだ。現在がリピートしているわけですね。でも、過去って取り返しがつくものでしょ。だって、新しい経験をしただけで、過去の意味なんて一気に全部変わっちゃうんだから。すべての行為は文脈依存的ですからね、新しい行為によって、経験の文脈が変われば経験の解釈も自ずと変わってくる。あとになって、すでに経験したことの意味が「ああ、あれはこういうことだったのか」と解釈が一変することなんてしょっちゅうじゃないですか。
過去は可変的であり、未来は未知である。だから、過去についても、未来についても、確定的なことは何も言えないというのが時間の中を生きる人間の健全な姿でしょう。過去はもう取り返しがつかないし、未来はすでに先取りされて変更の余地がないというのじゃ、出口なしですから、もうどこにも行き場がない。
春日 鬱病にかぎらず、どうも見ていると患者さんが感情的に一番つらいのが、もはや取り返しがつかない、という気持ちみたいですね。彼らには、内田先生のおっしゃるような「過去を変える」という柔軟性は持てないわけです。それで、ああもう駄目だということで悔やんで、自分を追い詰めてしまう人は非常に多いんです。
内田 取り返しがつかないこともたしかにありますけど、日常的な経験のほとんどは取り返しがつくんですよ。取り返しがつくというのは「リセット」ということではなくて、文脈を変えることによって、過去の意味が変わってくる、ということなんです。
悲劇の条件には二つあって、ひとつは“I must go”、ひとつは“It is too late”だと中学生のときに習ったことがありますけれど、これは未来も過去も「変更の余地がない」ということですよね。現在に繋縛されていること、それが悲劇の条件なんです。
苦しんでいる人の原因のかなりはこの「未来が予見可能だ」という思い込みにあるとぼくは思います。未来なんて予見不可能なんです。それがわかっている人には、思いがけなく遺産が転がり込んでくることもあるわけですが(笑)。予見できると思い込んでいる人が思い描く未来って、たいていチープなんです。
春日 楽観性の欠如みたいなところもあるわけでしょ。
内田 「一寸先は闇」って言いますけど、それは逆に言えば、「一寸先はバラ色」かもしれないという不確定性のことでしょう。でも、未来予測するリアリストは、選択的にネガティブな事態を予測しがちですよね。たしかに最悪の事態に備えるというのはそれなりに合理的なことなんですけれど、未来の不確定性を低く見積もった上で、最悪の事態の到来を無意識的に待望するという二点を割り引くと、やっぱり先のことなんてあんまり考え過ぎない方が正解という結論になると思うんです。
健全な肉体に狂気は宿る ──生きづらさの正体
より。
小説とは嘘である。だから今日という日にここに小説を書くというのは理にかなった行為であると思う。だから今日はここに存分に書いてやる。書きまくってやる。小説だから嘘なのであり実在の人物などには関係がないのである。勘違いしないように。ちなみに筆者は太宰治の『人間失格』を読んだことはないのだが、きっとこういう話なのだろう。
もはや死んでしまいたいと男は思った。
だが死ねなかった。死ねるはずもなかった。あらゆることに下手な嘘をつき、死にたいという自分の気持ちにすら嘘をつくようになった。ただ問題を先送りし、問題をさらに悪いものにするしか能がない男にそこまでする甲斐性も度胸もあるはずがなかった。男はもはや生きているのか死んでいるのかよくわからない生活をするようになった。今もそうしている。
男がこうなってしまったのは大学4年のときにさかのぼる。彼は初めて留年したのだ。
中学受験も成功し、そのままエスカレーターで高校も入学、大学受験も某有名国立大学に入学と順風満帆な人生だった。ところが大学3年に入ってからその人生がきしみはじめた。前期のあるテストで今までにないほどに手も足も出なかったのだ。その出来事は男のプライドを大いに傷つけ、その傷ついたプライドを修復しようとするあまり大いに肥大させた。「授業に出なくても大丈夫だ」とよくわからない妄想をするようになったのだ。後期は惨敗だった。
留年という事実に耐え切れなくなった肥大したプライドは男を逃避行動に誘った。挫折を経ず、反抗もすることもなかった男は見た目以上に子供だった。外に出ることをやめてしまった。インターネットで肥大したプライドを慰めることしかできなくなった。いわゆる引きこもりでニートになってしまった。事あるごとにつっかかり、事あるごとに自分を卑下し罵倒した。いや、自分を罵倒する癖は以前からあった。
男は過去にあった忌まわしい記憶をいつまでも覚えており、些細なことでそれを思い出し、後悔するという妙な癖があった。その記憶は自分に好意があった女の子を泣かせたとか、自分が重要な役の学芸会に少しの熱で休みそのことを先生に怒られたとか、他人から見たらなぜそんなことで思い悩まなければならないのか不思議で仕方がない代物ばかりである。だが男はそんな自分が許せなかった。そんな癖が自分だけでありおかしいことに気がついたときにはたまりにたまり、もはや取り返しがつかないほどのトラウマ状態になってしまっていた。それを思い出したときは数分間自分を罵倒し続ける時間が続き、何もできなくなってしまうほどになっていた。
言うまでもなくその癖は引きこもりになっている間にさらに悪化した。些細なことに対してでさえ自分を許せない男が引きこもりになった自分を許せるわけもなかった。授業に出ないこと、ネットに依存していること、ろくに外に出ないこと、ただだらだら寝ていること、まるで掃除をしないこと、自分に嘘をついていること、それらすべてが自分を罵倒する理由となった。もはや何をすることもできなくなっていた。4年の前期は1単位も取れなかった。
さすがに心配になった指導教官がカウンセリングを男に薦めた。だが男は自分を騙すほどの嘘つきになっていた。カウンセラーの前でひたすら自分の好きなことをしゃべるばかりでまったく役にはたたなかった。後期も単位はなかった。
男は引越しをすることにした。自分が引きこもりになった原因をネット依存だけに転嫁しようと思い立ち、インターネットができない環境に自分をおくことにした。だがもはや遅かった。男の癖はインターネットがあろうがなかろうが関係ないほどにその心を犯していた。ネットがなくなり依存するものがなくなった男はただ寝続けるようになった。
彼が反抗することを知っていればどれだけよかったであろうか。それでストレスを発散でき多少なりとも心の均衡が取れれば多少の改善は期待できただろう。だが彼は反抗することを知らなかった。限りなく彼は子供だった。ただ寝続け、そんな自分を罵倒することを繰り返した。その1年、彼は人をやめた。
彼は研究が好きだった。あらゆる物の分析が好きだった。ひたすらひとつのことに没頭できれば幸せであった。そんな男の夢は研究者、エンジニアになることだった。だがもはや彼がエンジニアになることはないであろう。勉強ができない、向上できないエンジニアに価値はない。夢は閉ざされた。
男はようやくエンジニアになることをあきらめ、学校を中退し就職することにしようと考えるようになった。だが考えるのが遅すぎた。その年、世界は大恐慌に見舞われた。それはいまだかつてないほどの大恐慌だった。部品を作り、それを組み立て、海外に輸出するという商業体系に依存している日本はその恐慌をまともに受けてしまっていて、働き口などなかった。
男は再び迷っている。まだ退学届けを出していなかったので大学に戻ることはできる。だが戻ったところで勉強できる保証などない。いや、できるわけがない。だがこのまま就職活動していてもこの大不況のときに2留で中退などという男を雇ってくれるなどという酔狂な企業も期待できない。たとえ来年景気が回復しても、彼はおそらく新たなトラウマでもう就職活動などできなくなっているだろう。
だが彼が死ねるわけがないのだ。自殺できるものは勇気があるのだろう。死ぬ勇気が。彼にはない。遺された親族のことを考えるとそんな気も失せてしまう。それはただ死なないでいい理由を探しているだけの逃避なのだが。これから彼は親が死ぬまで一生依存していくしかないのかもしれない。いやきっとそうなるのだろう。
嘘つきで親不孝。男は人間として失格であった。
もう一度言うがこれはフィクションだから現実の世界とは関係ない、ただの物語である。
ちなみに筆者はこの世のあらゆることは面白さに満ちていると考えてるので何があろうと絶対自殺することはできないと思います。
これから書くことは全部自分で見たことや、同じ教師などの友人から聞いた話で一般化はできない。だけど、雑誌やテレビで流れるような誇張なしの、生の中学生の姿である。
今の中学生は早熟で歪。飽食ゆえに身体だけは成長が早く、精神が及ばないのにネットなどで性の知識はすぐに手に入れてしまう。昔のように少しずつ知っていくわけでもなく異性に興味が出た瞬間にチンコとマンコをずっこんばっこんさせて「気持ちE!!」なことを植えつけられてしまう。さらにファッション雑誌や少女漫画雑誌が恋愛を煽る。これによって今の中学校がどうなっているかと言うと、史上最悪のエロエロお猿さん教室と化している。
まずカップル率が昔とはかなり事情が違う。ちょっと前までは中一で付き合う奴はまずいない、中二、中三で数えるほどのカップルがいれば多い方だ。しかし、今は中一の時点ですでに何組かのカップルができ、中二で三分の一、中三で約半数が交際経験ありで、交際人数が既に複数なのが平気でいる。カップルは平気で休み時間や放課後、学校内でイチャイチャする。皆さんも見てみればわかると思うが中学から下校してくる生徒には普通に手を繋いで歩いている男女が何組もいる。もちろん真っ直ぐ帰るわけもなく寄るとこ寄ってやることやってる。
教室内でキスをする奴もいれば男子がおっぱいを揉みだして「何やってんのお前w」と周りに注目され、更衣室で抱き合い、保健室で仲良くベッドインし、掃除中見当たらない生徒を探したら用具入れの中でいちゃついている。
生徒の会話に耳を傾けると平気で猥談が聞こえてくる。男子ならエロ動画サイトの名前が飛び交い、イケメンが「この前ナンパしてヤッたらそいつ××の彼女でw」なんて話が聞こえ、女子は「○○って細いけど脱いだら腹筋割れてんだよ」「△△のチンコってカリが大きくて気持ちいいんだw」なんて話している。
性教育だのケータイ規制だの言われているがもはや取り返しのつかない事態になっている。教師が「セックスするな」とも言っても聞かないだろうし、これだけ性情報が溢れていてセックスをエンジョイしている大人が見えているのに「何でしちゃいけないの?」という感じみたいだ。
ちなみにもちろん、女子は若い男性教師だって狙うし、男子は女性教師にしつこくメルアドを聞く。最近、教師の淫行が取り沙汰されるがこういう生徒間でやりまくっていて教師も異性として見られている背景があるのである。