はてなキーワード: 夏休みとは
内定が出ないです。就活中です。始めるのも遅かった(今年の1月からです。あーあ)。だから反省した。反省して真面目に就活したつもりだったのにそれすら全然足りなかったみたいだ。
死にたいです。私は甘い人生観で甘い考えで生きてきた甘えんぼなので出来れば殺されて死にたいです。なぜなら自分で死ぬとなるといざって時に「もしかしたら次受けたら今度こそ受かるかも」とか自分への期待とかくだらないことまた思っちゃうからです。そんなことないのにね。バカじゃん。
何十社と落ちた。次こそ通ろうとその度その度頑張って準備して時には気合い入れるために新しくシャツを新調したりして、エージェントに何度も見てもらって、それでも次こそは次にはと続くばかりだったよ。
私が一通一通のお祈りメールで毎度喉が枯れるほど泣いてるのにこれを送った奴は鼻でもほじりながら送ったんだろうな。悔しいよ。でも仕方ないよ私が悪い。何も無いからさ。スキルも頭も学歴もサークル長の経験もカンボジアに学校建てたこともないもん。本当に何も持ってなかったんです。
自己アピールにさ、何書くかっていうやつですよね。自分の今までの人生の虚無っぷり
突きつけられました。就活生で自己アピールしんどかった人はエージェントとか就活サイトのアドバイスとかで「1つくらいなんかやった事あるでしょう」ってよく言われたと思い出しませんか?あれ本当の本当に無い人間がいるってことわからない人多すぎるよね。「今の今までカレカノいなかったとか本当!?嘘だよね!?」って言われてるみたい。この場合の嘘扱いされる存在。土俵にすら上がれない人間が就活にもいるはずです。現に私がそうなのだから。エージェント名乗るならそこら辺もちゃんと考慮して助けてみせろ。これも甘えです。どうせみんな企業紹介してそこに学生送ると報酬が発生するからやってんだろ。ケッ。この世の人間がちゃんと相手を考えてアドバイスしてくれてると思うのは甘えですよ。老人や妊婦さんや体の不自由な方ではない他人相手にする親切というものはこの世に無い。
それでも必死こいて自己アピールを書きますし言います。3Dできます絵がかけますプログラミングも練習してますバイト頑張りましたぜんぶ子供の遊びなんだよ。少なくとも企業はそう思ってますよ。そんなのわかってますよバカバカしいこと書いてるなって思いますよ。でもせめて、せめてそれに挑戦しようと思った気持ちとか、実際にやりとげた根性とかを誰かしらがすくい上げて評価対象にしてくれると信じて提示してるんです。
というか上記のことやれるならそういう仕事すりゃいいじゃんて思うよね。でもね無理なんですよ。これらは作品として提出できるほどすごいもんじゃないんです。専門学校でちゃんと学んだわけじゃない。その仕事がしたいから独学ですごい作品を作ったって訳じゃない。そういう方は本当すごいと思います。でも私はそういう方じゃない。本気でやってきたわけじゃない。ポートフォリオも作れない。だから受けられない。シンプルですね。私が真面目に打ち込まなかったからダメだっただけです。本当に私が悪い。
なら狙うのは総合職とかですよね。でも他に何も無いのでそういうことしか自己アピール出来ない。そんな自己アピールされても万が一そこへの気持ちを汲み取ってくれる聖人のような人事が居ない限り無理です。中途半端なんです。そりゃ落ちます。私でも落とします。落ちる理由はわかってるんですね。
何も無いから死にたいんです。就職してからの方が大変だぞと言われますけれど、その就職してからの困難に晒されていない人間は一般的にはこの世にいらない人間なんです。そもそもこんな就活ごときで死にたいとか馬鹿か?馬鹿ですよ。こんなんで死にたい人間が就職して生きていけるわけないですね。だから今のうちに死んでしまいたい。お父様やお母様に迷惑をかける前に死んでしまいましょう。
お父様は学部卒業後の私にはびた一文払わないそうなので院には行けません。お母様は私が卒業したら離婚したいそうです。
思えば全部私が悪かった。小学校の頃からずっと就活のために何か作ったりし続ければ良かった。中学生からスキルを見につければよかった。高校生の夏休みも大学生活もぜんぶ就活のための自己アピール作りしようって意識すればよかった。今までの人生を全て就活のために使えばよかったんですね。もう遅い。
何もありません。就職しなくても道はあるよなんてそんなものありません。道がある人は自分は才能があるんだと思って驕っていいです。ニートだが?って言う人もニートになれる環境や家の金や才能があったんです。私には何も無いのでどこにもいてはいけません。
夏休みのキッズ目当てだとしたら3DSなんて見向きもしない、Switchの妖怪を買うかどうかが関の山だろ。こんなオワコンに今更手を出すキッズがいると思えないが……。
一度きりしか無い夏なんて言ってる奴ら多いんだけど、その一度きりしか無い夏にコロナ感染して後遺症残してたら笑えないって話。
いずれ後遺症がなくなったとしても、後遺症を引きずって生きるとか愚者の極みでは。
小池のおばちゃんに限らず、とにかく政治家に噛み付いている人を見ると、こいつの視界の狭さは笑っちゃうなって感じ。
今が良ければ良いって感覚で生きている人に限って、後悔して自滅するし挙げ句に『自分がこうなったのは社会のせい』と責任転嫁しててねぇ・・・。
そういうの一切なしで不満を述べずに、引き起こした問題を自己責任で受け止められるならやればいいが、そんな覚悟をもてるような人間は現代社会に存在しない。
早く夏休み来ないかな。大学生の夏休みだー。夏休み夏休み夏休み夏休み夏休み夏休み夏休み夏休み夏休み夏休み夏休み夏休み夏休み夏休み夏休み夏休み夏休み夏休み夏休み夏休み夏休み夏休み。あれ終わらないよ。でもいっか。楽しいし。このまま遊び続けよーっと。ランラランララン。
母の話によると父はタバコの吸い殻をダンボールにためていたらしい。なぜ父はそんなことをしていたのかは分からないし、なぜ母もそれを危険視しなかったのかはわからないが、とにかくそのせいで燃えた。
僕の昔住んでいた田舎の実家はそうやってなくなった。次に見た時には簡単に整地されており、何を入れているかはわからないが小さな物置だけが建てられていてぽつんと建っていた。整地するためにお金が足りないということで僕も30万円を母に渡していた。
その後、父と母と、一緒に住んでいた次男は一時的に市営住宅のようなところに住んだ。向かいの家ではうさぎが放し飼いにされていた。しかしボロすぎて辛かったらしく、最終的に家を買った。今もそこに住んでいる。その家は2階建てで部屋もたくさんある広々とした家だが、前の住人が物置で首を吊って亡くなったため1千万円弱で購入できたらしい。
父はぶっ壊れていた。
僕が小さい頃の記憶を思い出してみると、父と一緒にファミコンの難しいステージを試行錯誤しながら一緒に攻略したり、将棋で対戦したりしていた。父の仕事場が家から歩いていける距離にあったため、小さな僕はたまに仕事場まで歩いていき、父が仕事が終わった時に一緒に原付きに乗せてもらって家まで帰ったりしたこともあった。
しかし父は脳に異常があった。その関係で度々入院したり、手術を行ったりしていた。何度も仕事を辞め、何度も新しい仕事をしていた。
そのためうちは母がメインで働いている。働きに出ている母のかわりに家事はおじいちゃんがメインで行っていた。食事、洗濯や、子どもが病気になった時に病院に連れて行ったり、雪で学校へ行けそうにない時は車で送って行ったり。
父は特に前頭葉に異常があり、理性を保てずふとした拍子に豹変することがあった。僕らがゲームをしていたら急に部屋に入ってきて怒り出したり、部屋で普通に過ごしていただけなのにちょっとした発言で急に説教をはじめたりしだした。
一時期はおじいちゃんが目の敵にされていて、おじいちゃんのやることなすこと全てに文句をつけて自分のやり方を強要したり嫌がらせをしたりしていた。ある日次男は父に「殺いたる!」と言われながら追いかけ回されてトイレに閉じこもって避難したりしていたこともある。僕もある日「ボケてるんじゃないの?」と父にいったらそれは禁句だったらしく、急に後ろから思い切り殴られ、しばらくの間耳が内出血した状態で過ごしていたことがあった。
あとは理性が効かないためパチンコにもハマっていた。生活費をほとんど持ち出してしまったこともあるらしい。そのため家族は色々と対策をしていたようだ。とにかく数え上げればきりがない。家族みんなが何度もひどい目にあっていた。いつ何で発狂するかわからない父と過ごす毎日は地獄だった。僕は本当に父のことが大嫌いだった。
中学、高校の頃は僕も思春期を迎え、なぜ僕だけそんな境遇なのかと自分の人生を呪った。特に僕は人と接するのが不得意だったこともあり、なぜみんな日々学校であんなに楽しそうにすごしているのに僕は何もうまくいかないのだろうかと感じていた。そして僕はきっと父親のせいでこんな風になってしまったのだろうから全てが父のせいだと思っていた。
高校で1日が終わったあと、僕は毎日夕方遅くまで部室でだらだらとすごしていた。やることがあったわけではないが家で父と顔を合わせたくなかったからなんとかむりやり時間を潰していた。そうして父がご飯を食べ終えて2階の自分の部屋に閉じこもるあたりの時刻に帰宅するようになっていた。たしかそのあたりでは父に話しかけられても全て無視するようになっていたと思う。正直、早く父がこの世から消えてほしいと思っていた。
進学は田舎から遠い関東の大学を目指した。高校での人間関係は何一つうまくいかないし、家に帰っても狂った父親が家にいることが耐えられなかった。とにかく全てを捨てて新たな地で心機一転新しい生活をはじめたかった。
結局僕は関東の大学に合格し、そっちで一人暮らしをはじめた。自分以外誰もいない家。好きなことを好きなだけでき、誰からも急に理不尽な文句を言われることが決してない、人生ではじめての心から落ち着ける空間だった。
外での人間関係が決して完璧にうまくいくわけではなく苦悩も多くしていたが、それでも大学のサークルに入ってみんなと普段から活動し、その中でいつも遊べる友達も出来てそれなりに充実はしていた。
そんな4年間を過ごし色々なことを経験する中で、僕の心も徐々に溶けていった。
色んな失敗をした。失敗をする中でなぜ僕はこうもうまく行かないんだろう? と考えた。一生このままで生きていかなければならないのだろうかと思った。そんな人生に何の意味があるのだろうかと思った。何もないのであれば死んだほうが良いのではないかとも思った。何かある度にすぐ父のせいだ、と思った。しかし、父のせいにすることは何の意味もないことにある日気づいた。たとえ本当に父のせいだったとしても、この先幸せになりたいのであれば、僕自信が変わっていくしかないのではないかということに、運良くたまたま気づくことが出来た。
それに気づいてからは父のことが頭によぎることがなくなった。自分にとって重要なことは、今後自分がどうしていくか、ということだけとなった。過去は何も関係ない。ただひたすら未来を描いて進むことだけが重要なこと。ひたすら考えて、考えて、考えるようになった。
そうやって過ごしているうちに、いつの間にか父のことを許していた。正確には、父に対しての興味を一切失った自分がいた。
僕は性格的に、一つのことに極端に集中してしまう傾向がある。大切な物は愛おしい。しかし自分に全く関わらないものには興味が無い。ちゃんと考えて話している人の言葉は気になる。しかし思考停止で人を傷つけるだけの言葉には全く興味が無い。嫌悪ではない。そんな人は世の中にたくさんいることが当たり前だからどうでもよすぎて興味が持てない。だから父のことも興味が持てない。しかし形はどうあれ、許すことも興味を失うことも同列だったため、僕の中で父のことは全てが解決した。
僕は自分の普段の生活のことばかりを優先して考えていて、あまり実家にも帰らなかった。たまに帰った時やたまたま母から電話が来た時に話をするのだが、父は窃盗もするようになっていた。窃盗と言っても数千円を盗むくらいだったらしいが。
とはいえ特に意外性はなかったし、その後どうなったのかなども興味はなかった。しかし一緒に住んでいる母としては大問題だった。家族が盗みを繰り返すのを放置してはおけない。
結局そのあたりから、母は自分が不在の時は時々父を介護施設に入れるようになった。もちろんはたから見れば早くそうしとけばよかったじゃん、みたいな話だろうと思う。事実母も父と離れる時間が増えることで精神的にはかなり楽になっていたのではないかと思う。
しかし、施設の費用はそんな安いものではない。時々だけとはいえそれなりの費用がかかる。家のローンに加え、介護費用。そのころ母はもう60近かったがとにかく定年まで働かねばと嘆いていた。
そしてなんだかんだで月日が過ぎ、父はどこかの溝に落ちて負傷してしまったらしく、自分で体を動かせなくなってしまった。完全な要介護者となった。
僕はといえば、そんな話を聞いても全く興味が持てず、帰省したときにも特に会いに行こうとは思えなかった。というかそういった発想すら出てこなかった。もう僕の中では全てが終わったことだったため、このままもう二度と会わなくても別にいいと思っていた。会ったほうがいいんじゃないかと兄弟に言われたりすることもあったが断っていた。
それから数年が経った2019年の年末ちょっと前に母から連絡が来た。父がもうそろそろ長くないとの話だった。丁度正月前後に亡くなるかもしれないということだったため、喪服などを購入して準備をした。
しかし、年末近くになり、再度連絡が来た。どうも結局峠を超えて今のところ問題ないということだった。
年末になり、実家へ帰省した。正月はだいたいいつも帰省し、子どもたちを妹の子どもたちと遊ばせたりしている。
さすがに状況が状況だったため、自然と父のところへ行く流れとなった。僕は別に行かなくてもいいと思っていたが、妻が子どもたちと父を合わせてあげたいという事を言っていたため、それもまあ子どもたちにとって何かの意味があるだろうと思い、特に拒否もせず行くことにした。
母と僕の兄弟とその家族でそれぞれ数台の車に乗り、大人数でぞろぞろと介護施設へ行った。
部屋に入るとベッドに横たわっている父がいた。父はもう当然自分では動けない状態で、しゃべることもできないため、うー、うー、とずっと唸ったりしていた。目が合うような気もするが特に変わった反応もなく、何を考えているのかは分からないし、そもそも何かを考えることが出来ているのかもわからない。結構多い人数で来たためぐるっとみんなでベッドを囲み、ぎゅうぎゅう詰めとなる。みんなで父の様子を見て、きっと大勢来ているから父もびっくりしているだろう、とか、喜んでいるときの声だわ、みたいな話をしていた。
父はたしか僕の子たちを見たことがなかっただろうと思うので、子どもをそれぞれ抱きかかえて父の目線の先に連れて行った。特に反応もなく、自分の孫だと分かっているのだろうか、分かっていないのだろうかもよく分からなかった。
そんなこんなでそこで少し過ごし、写真を撮ったりして帰ることになった。
最後に大人たちがうちの子に「早く元気になってね」と言ってあげて、と促した。7歳の長男と5歳の次男がそれぞれ父に、まだ幼い可愛らしい声で「早くおもちゃ買ってね」「早く元気になってね」と一生懸命伝えた。すると突然、父が今までと違うかなり大きな声であー、あー、と言った。みんなびっくりしていた。一応子どもたちの言葉は伝わったのだろうか。詳しくはわからないがそれっぽかった。
それから半年ほど経った。コロナが流行し、緊急事態宣言が発令されて終了した頃。2020年6月29日、朝起きたら妹からLINEで父が3時頃に亡くなったという連絡が来ていた。月曜日。
妹に電話してみたところ、コロナのこともあるし別に来なくてもいいよ、ということを母が言っているとのことだったため、僕は葬儀には行かないことにした。僕も正直葬儀には興味が無いし、それよりも子どもたちに学校に行かせたり普段の生活をおくらせてあげたかった。
しかし妻が不安になって再度母に連絡をとってみたところ、そんなことは言っていないらしく、来いと言われた。一体なんなんだ。
とはいえコロナのこともあるし、妻もちょっと体調的にウロウロできる状況ではないため、僕一人だけ行くことにした。
葬儀は7/1。朝からだったため前日に仕事を終えたあと実家に帰った。弟や甥っ子たちも実家に来ていた。大切な父……というわけでもなかったため、みんな普通に過ごしており明日が告別式ということも忘れそうだった。
次の日、起きて甥っ子たちはフォートナイトをしたり、みんなでだらだらと朝ごはんを食べたりしていた。そうこうしているうちに時間になり、葬儀場へ向かう。
葬儀場は宿泊できる部屋があり、実家にいなかったメンバーはそこにいた。しばらくすると大阪のおじちゃんとおばちゃんがきた。それぞれ父の兄弟で、夏休みや冬休みには僕の兄弟と同じくらいの子どもたちをつれて実家に遊びに来ていた。大勢でマリオカートをして遊んだりしていた。おじちゃんにはいつも海につれていってもらっていたし、おばちゃんは逆に夏休みに大阪に泊まらせてもらっていたため二人とも馴染み深い。
おじちゃんによると、父は子どもの頃に事故で頭をうったという。当時は額あたりの怪我の治療は前頭葉があるため、簡単にはいじれず、医師にも難しかったという。誰もしっかりとした治療はできなかったらしい。その後父は元気にスポーツをしたりしていたらしいが、大人になって障害が出始めたのはもしかしたらそのあたりが原因だったのかも、という話をしてくれた。とはいえ母も僕の夜泣きが原因だったのでは、と言っていたりするので何が原因かはよくわからず、おじちゃんの話も懐疑的だった。
しばらくして葬儀が始まった。みんなが部屋に集まる。何もよくわからない状態だったが言われるがままに並んで椅子に座った。部屋が暗くなる。導師さんが念仏を唱え、みんなで繰り返す。
その後も式が進行し、導師さんが話を始めたりした。誰なのかもよくわからないし、何を話していたかももう忘れてしまった。
導師さんの話が終わると、今度は親族代表ということでおじちゃんが話をすることになった。おじちゃんは前に出てきたのだが、マイクと全然違うところで話をし始めた。式場のスタッフを見るとあわてておじちゃんのところに駆け寄ってマイクのところに連れて行こうとするところだった。おじちゃんはいわれるがままにマイクのところまで行ったのだが、なぜかマイクを背にしてマイクがない状態で話し始めたので再度スタッフが誘導したのがおかしかった。
おじちゃんはおじぎをしたあと、先程のように事故の話をし始めた。頭をうち、前頭葉があるため治療もできず、でもスポーツをしたりしていた、ということ。
そのあと、父が大勢の人に迷惑をかけるようになってしまったこと、そして、その父のことを母が最後まで面倒を見てくれたことを話した。すると突然、何か急にこみ上げてきたものがあったらしくウッと声を止めて泣き始めた。それを見て母も泣いた。なんとなく空気が変わった。
元々そんな雰囲気はなかったためびっくりした。僕はもらい泣きもしなかったし悲しくもなかった。ただ、みんな何かしらそれぞれ思うところがあるのだなと思った。おじちゃんからすれば身内がとんでもない状態になってしまって、父が元々赤の他人である母にひどい仕打ちをたくさんしてしまったことに申し訳ないという気持ちが非常に大きいのだろう。
母は実際にひどいめにたくさんあい、この年までずっと働き詰めで大変な思いを今もしている。しかし、お見合い結婚だったとはいえ、楽しく幸せな時期も経験し、僕らがまだ生きて経験したことのない年数を父と一緒に過ごしてきた。詳しいことはわからないが、そこには本人にしかわからない無数の思いがあるのだろう。自分と妻も一緒に生きてきているが、子どもたちはそこであった多くのことを何も知らない。当たり前のことなのだが、不思議なことだ。
そして、ここにそれぞれの思いを抱えた色々な人が集まったことも不思議に感じた。みんな何を思ってここにいるのか。僕には分からないが、何かを思っている。
その後告別式は終わり、父の棺にみんなで草花を詰めた。父の顔は処理を施されてつやつやしており、蝋人形のようだった。
その後棺を閉じ、それを男たちで車へ運んだ。そしてみんながそれぞれの車で焼却場の方へ向かう。
焼却場は僕が今まで行ったことがあるような汚い場所ではなく、きれいな施設だった。コロナの影響で焼却場には15人だけが入れるということらしい。父に近い15人が部屋に入る。部屋の中にある等間隔に並んだ足のマークの上にそれぞれが立った。
次に、父が入った棺が焼却する空間に納められた。スタッフがボタン類をアルコール消毒したあと、閉じるボタンを押した。機械により扉が閉じられる。
そしてどのボタンを押すと焼却が始まるかの説明を受け、準備が出来たら押すように説明があった。しかし誰も反応しないため僕が母に押しなよと促した。しかし、どうも嫌だったらしく、いやいやという手振りをしたので僕が押した。
その後は1,2時間ほど時間がかかるということで休憩の時間となった。密をさけるため、どの部屋も人数制限があり適当にバラけることとなった。弁当が用意されていたためそれを食べて過ごした。
しばらくするとスタッフから声がかかったためみんなで部屋に集まった。中央には棺の台を収めるスペースがあり、今は空いている。そのそばに長い箸がたくさんあり、それぞれがその箸を手にした。
しばらくして台が運ばれてきた。まだ熱く、気をつけるよう注意があった。その上には骨が置かれている。葬儀は何度か経験したことがあるため特に新たになにか思うということはなかった。そういえば昔妻が飼っていたうさぎを看取ったのだが、その時に焼却されて出てきた骨を見た時はとても悲しくて泣きそうになった。
スタッフに説明されながら、足から順に骨を入れ物に詰めていく。みんなで行ったり来たりしながらそれぞれ骨を詰めていった。思ったよりもポロポロともろい。頭の方になると、大きすぎるため箸で割って詰めていく。頭には手術の跡の金具がついていたりした。それも母が詰めていた。
そして一通り詰め終わり、葬儀の全ての工程が終わりとなった。皆それぞれ準備をし、帰宅した。僕も一度実家に帰って着替えをして荷物を整理し、車で帰路についた。
僕は仕事もあったし、あまり車で長距離移動をするのは事故で死ぬ可能性もあるし好きではない。そのためとにかく早く全てを終わらせたいと思っていた。なんとか生きて帰ってくることができたが、かなり疲れ果てていた。とにかくいつ始まるのか分からなかった大変な出来事が一つ終わり安堵した。
父が亡くなったが、母は元々次男と一緒に住んでいる。近くには妹の家族もおり、しょっちゅう甥っ子や姪っ子たちと遊んだりしている。三男もわりと話が好きで母によく電話をかけているらしい。僕は離れていて長期休み以外は音沙汰も無いが、それでも母はみんなのおかげで楽しく暮らしているように見えるため特に心配はしていない。
父がいなくなったことで母は父の介護費用を払う必要がなくなった。だいぶ生活も楽になるのではないかと思う。僕は本当に良かったなと思っている。
昔「家、ついて行ってイイですか?」という番組を見ている時に、一人の若い女性の家に行く回があった。
その女性の家には父親がいるのだが、要介護のため自分では動けない。女性はその父親の介護をしていた。自分では動けないため、あらゆる事を補助してあげなければならない。朝起きてから、昼食、夕食、風呂、トイレ、あらゆることだ。もちろん生活のため仕事もしている。ヘルパーさんがいたのかもしれないが、それでも何もなく普通の生活をしている僕らには想像できないレベルの大変な毎日であることは間違いない。
女性はまだ若く、色々なことがしたい年頃だろう。彼氏を作ってデートをしたり、友達とショッピングに行ったり。インドア派であればゲームをしたり、ゲームのキャラにハマって腐女子をしたり、好きなアイドルのライブにも行ったりしていたのかもしれない。しかし、全て介護のためできない。ただひたすら介護をしなければならない。夢もあったのかもしれない。でももう諦めてしまったのかもしれない。
父のため仕方がない、と思いながらも、女性が毎日どれだけ苦しいかを想像をするだけでも苦しくなる。
その父はどう思うだろうか。自分の娘が自分の介護のために全てを犠牲にし、尽くしてくれている。ありがたいと思うだろうか? 僕だったら死にたいと思う。一生懸命育てた自分の娘。小さな頃から育てながら思うことは、この子が楽しいことも辛いことも含め色んな事を経験し、苦悩しながらもそれでもたくさんの素晴らしいことを経験しながら歩んでいき、やりたいことをやって自分の未来を掴んで幸せになってくれればいいなということ。どんな未来でも自分が進みたい方向に進んでいってほしい。
しかしその全ての未来を自分の手で摘み取ってしまう事になったとしたら。耐えられる自信はない。すぐに死に、失いかけていた大切な未来を与えてあげたいと思う。若い娘がそのような境遇にさらされて多くの時間を失ってしまうことは世界にとっても大きな損失だ。
でも、死ぬということは難しい。自分で死ぬ覚悟ができるものかどうかは全くわからない。さらに介護されている状態で自分で死ぬこと自体がそもそもできない場合もあるだろう。
この世には安楽死が必要だと思う。死にたくても死ねない人を助ける制度が必要。綺麗事だけでは救われない人達がいる。その人達が救われる世界になってくれればいいと思う。しかしどうすればそういう世界にできるのかは壮大すぎて僕にはわからない。とにかく僕にはこうやって苦しむ人達がいるということを文字にして発することしか出来ない。
とにかく、その一つとして父が死んで本当に良かったと思う。
高校2年生のある秋の日の放課後、夏休みに国際交流をした生徒による報告会が開かれていた。
私はそれまで、ヨーロッパの国々に何カ国か、そして2週間ほどサンフランシスコの初心者向けの英語教室に通っていたことはあったが、国際交流には参加したことがなかった。勉強をしなければならないとか、部活の予定があるとかの言い訳を考え、どこかで参加してみたいと思いながらも、なんとなく避けていたからだ。そうした思いがあったから、どんな形でもいいから国際交流に関わりたいと思い、同級生の報告会を見に行った。その他にも自分の高校に留学してきたアフリカやアジアからの生徒の発表会なども見に行き、ついに翌年の春、ヨーロッパのある国との国際交流に参加することが決まったが、あの厄災のせいでそれも叶わぬ夢となった。
中学2年生の時に、ろくに英語も話せないのに2週間もアメリカにホームステイをしたのが考えられないほど、高校生の私は臆病になってしまっていたのだろうか。高校生もまだ若いとはいえ、中学生の無知で、無責任な身軽さ、そして活力は素晴らしいものだと改めて思う。
先々週と昨日。車で日帰り、両方とも隣県。
訪れた場所は人はいるがまったく密ではなく、飲食店にも一回ずつ入ったががら空きの店でピーク時は避けて食事した。
夏休みも出掛けられると良いが。
まずは第1位!『クチャ食い』
あー、分かった分かった!かみ合わせがーとか、慢性鼻炎のせいとか、口の筋肉とかあーあー、いいからそういうの!!
今は2020年だから!歯医者いって、耳鼻科いって、ガムでも噛んで筋肉鍛えてくれ!
そこまでするの?そこまでするほど不快なんです!退場!!もう用はないでーす!
いい加減にしろよ手前。
公共施設で「カタカタカタカタ」鳴らすゴミ・・・ヒト・・・クズのことでーす!!
お前が産まれてくるのは現世ではなくゴミ山なのでゴミに帰ってくださーい!
ただただ煩いでーす!!注意しても逆に切れる率、高・確・率!?(死んでね♪)
反省する気全くない猿は家から出てこないでくださーい!(自力で死んでね♪)
マジでお前の服は腐ってまーす!頼むから毎日洗ってしっかり乾燥させてくださーい!!
とにかく臭いとしか言いようがないでーす!足臭いやつは足のあいだを洗うのサボんな56すぞー!!
近距離で仁王ならともかく50センチ半径でも臭いのはガチで公害なので電車に乗らないでくださーい!
4位!回数は少ないがイラっと来る率隆『どっすん座り』
はーい疲れてるのは分かりまーす!でも物を書いてるのが分かるのにテーブルが振動するような勢いで座んなずれただろうが56すぞー!
もう1回いうけど56すぞー!はっはっは!!舐めとんのかー!
ソファでも電車の座席でもお前が勢いよく座った時の運動エネルギーは熱に変わって隣の席は揺れずに済むんですか?
違いまーす!揺れまーす!!揺れまーす!揺れまーす!最後に1つ、揺れまーーーす!!
馬鹿なお前は想像力が足りないので横の人たちがどう振動を受けるのか分かりませーん!
物理苦手なんですかー!可哀想でーす!想像力ないの可哀想でーす!!
激。不。愉。快。でーす!20代ならクソガキ卒業しましょうねー!
10代のクソガキ時代にピョン!って尻から勢い付けて座る夏休みの間隔のまま歳だけ食ったんですねー!
親のしつけレベルが低スぺだったんですねー!ヤンマママンコから産まれたんですねー!
ガキの可愛さ無くなって憎たらしいだけなのでキモいからガキプレイするのやめて大人になってくださーい!
邪・魔。
ただ、ただ、邪魔。
法律に違反しないギリギリで集団による物理的に他人に損害を与えられる最も有力な方法の1つ。
道はみんなのものって知らないの?60年生きてまだ分かんないなら産まれ直して小学校入り直せ。
横に広がるな。横に広がるな。横に広がらなくていい。横に広がるな。横に広がらなくていいっつってんだろ。
1列になれっつってるんじゃない。なぜ2列になれないか聞いてるんだ。
馬鹿は横陣しか教わらなかったのか、覚えられなかったのか。この戦、負けたな。
7位!『肘つき・犬食い・スマホ食い』
あのな。
例え牛丼屋でもさあ。
犬食い、すんなよ。
肘ついて食うなよ。
まさか肘ついて食うのが悪っぽい、とか思ってんの?
シャツを外にはみ出してるのを着こなし()で粋がってる高校生かお前は。まさか高校時代同じ事してました?アーイタタタ・・・
姿勢よく食う方が美しく男らしいに決まってんだろ。
頼むから男じゃなくて猿に改名してくださーい!猿は吉野家に入らないでくださーい!すきやは使わないんですきや行ってくださーい!!
スマホ見るのは百歩譲って、口の中の物のみ込み終わってるのにスマホ操作して一向に食べようとしない。
うっぜええええええ!1万円やるからどっか別の松屋にいけ!邪魔なんだよ存在が!!
飯屋は飯食って腹満たして出るところだろうが。お前スマホ見る分の席代はら円の?総額でたぶん10億円超えてるぞ。早く破産しろ。
anond:20200722191856を消したのはなんで?
あ、内容あったから貼っておくね
元増田だけど、なんかちょっと荒れちゃったのであれー?と思った。
妬みか?いや、妬みというよりはなんか思ってたんと違う部分が目立つ書き方しちゃったからかな?
他人に金銭的に依存して、ラクできてラッキー、だから結婚最高ってことじゃないよ。
指摘してる人がいるように、扶養側の愛情にだけ依存した人生設計は危うすぎるよね。
離婚できる自由、自立を担保するのは、自分の稼げる能力だけだと思うし、
社会の中で生産的な人間でいることの方が本人も楽しいし、視野も広がる、人間的成長もあると思う。だからずーーっと頑張って働いてたんだよね。
正社員もできないなら自分なんて無価値だ…って追い込んでた時期も長かった。
なので鬱になって寝れなくなってついに働けなくなって、そしたら死にたい死にたいって希死念慮がとれなくて半年くらい薬飲んでた。
(みんながってことじゃないよ、自分は取り立てて一芸もないし、そんな自分は正社員くらい頑張んなきゃってこと)
自分が結婚したいと思ったのは、好きな人とずっと一緒に平和に暮らすって人生がしたかったから。
旦那と離婚の危機に陥ったこともあったし、そんときは結果として野垂れ死のうがなんだろーが離婚しようと思ってた。
金づるとして好きでもない人と結婚し続けるような心を殺す人生嫌だし、そんな自分の性根が惨めになる。
離婚してその結果また働いて病んでそれで詰むなら、それまで。それが自分の選んだ選択だから。生きる能力のない自分が悪い。
まあはちゃめちゃ話し合って、腹割ってぶつかりあって、時間はかかったけどお互い理解しあって、
色々あって今は離婚とか全然思ってないけど、それは信頼関係があるから。
子供ができようができまいが、飽きるとか浮気とか、夫が病気で働けなくなるとか、そういう人生で起きそうな色んなこと、
信頼関係があるから大丈夫って思えるくらい、お互いに価値観とか思考回路を親よりもだれよりも知ってるし、
生きていく上で、愛情に基づいた信頼関係が一番大事って夫婦で共有してるから平和なんだと思うよ。
のんきにハッピーライフしてるのは、そういう人が人生にいるって安心感があるからだよ。
だってコロナで夫が3ヶ月くらい在宅してて、そんときが人生で一番楽しかったよ。
夫が近くにいると嬉しいし、なんかかまっちゃうし、かまわれると旦那もなんだかんだ笑ってるし、それをみると私も笑えてくるし、
ねーそういう人生って楽しくない?好きな人と結婚して、信頼関係があるっていいことだよ。
ついでに経済的な不安もないし、だれか言ってたみたいに夏休みの小学生みたいだし。毎日ハッピーってこと。
エリート&バリキャリの家庭に育って、働いて自立すること社会と接すること大事!ってインストールして生きてきたし、
自分もそんな親やまわりをカッコいいなって素直に尊敬して、なりたいなあ~って頑張ってきたけど、
悲しいことにそこまでそういうことに向いてなかったのよね、たぶん。
そんな自分って駄目だなあ、生産性の人生がいつか苦になるって思ってたけど、
いざそういやって暮らしてみると全然そんなこと無かったな~~ってこと。
(むしろ働いていても、できないことばっかりに目が向いて自分に価値なんて感じられなかったし、それは何十年働いても多分一緒)
社会と接しない暮らし、自分、向いてましたわ、むしろ今までが一番ハッピーですわ、ハハ、みたいな驚きがあってさ。
まあ、そんなこととかも言いたかったなあ、とみんなのコメント読んでから思ったわ。
ほーんと、働きたいひとだけ働けばいい社会が来るといいよね。
働くの向いてないひとは、働かなくてよくてさ、女も男も関係なくさ。
匿名でしか書けないことだが、私は小さい頃からR-18作品を見たり書いたりしてきた。
我が家には子どもが自由に使用していいパソコンがあり、私は時間があればネットサーフィンを楽しんでいた。母も父も特に使い方などを教えはしなかった。ネットリテラシーに欠けまくった私は検索して出てきた記事にあるリンクに片っ端から飛んでいた。そうすると怪しいエロサイトに辿り着いたりする。その衝撃的な内容に驚く間もなく、身体が疼いて興奮してしまった。性に目覚めたての小学生(この頃9歳〜10歳である)の執念は凄まじく、夏休みには一日15時間くらいひたすら二次系のエロ画像まとめサイトを延々巡っていたこともある。自慰をすることもなく(膣が勝手に収縮する感覚はあった)、ただ興奮しながら見るだけだ。もっとマシな夏休みの使い道があっただろうに…。
エロを見ることに対する罪悪感はまるでなかったが、いけないことだとは分かっていた。コンビニに置いてあるエロ本に近づいた時、「子どもは見ちゃダメよ」と側にいた母から言われたし、何よりサイトが「18歳以上ですか?」と警告してくる。それでもバレなきゃいいだろうと開き直っていた。
そして私は12歳の時に色々あって腐女子になった。ひたすらパソコンでカップリングを検索し、残されていた個人サイト(全盛期は過ぎ去っていた)をたくさん巡った。そこでも平気で所謂「裏」「背後注意」と表記されている作品を当然のように見ていた。何度「18歳以上ですか?」と聞かれてもyesと入力し続けた。
やがてpixivの存在を知った。ユーザー登録しなければ見られない作品が多かったので、悩んだ末にアカウントを作成することにした。
そこで私は年齢が20歳になるように誕生日を登録した。こうしなければR-18作品を見られないことを知っていたからだった。初めてそこで罪悪感と薄暗い後ろめたさが生まれた。
ROM専でいれば良かったものを、私には制作意欲が生まれてしまった。推しカプの作品を作りたくなったのである。絵で作りたいものを表現するのは難しかったので、先ず文章を書くことにした。pixivの作品投稿のページに直でチマチマと1000文字〜3000文字?の小説を書き込んだ。タイピングが遅すぎて半日くらいかかった覚えがある。とにかく無事に嗜好を詰め込んだ作品は完成し、その日中に投稿した。
12歳のクソガキが書いたその小説は思っていたより評価された。運が良かったとしか言いようがない。書いた推しカプは旬ジャンルで波に乗っており、私はそこに女体化と妊娠要素を乗っけていた。(人を選ぶ要素のある作品は一定のニーズにより評価されやすい気がする)ブクマは最終的に300程頂いたと思う。ありがたい話である。
勿論文章は下手くそ極まりなかった。めちゃくちゃ改行するしポエムのような心理描写が並べられているだけの小説だった。語彙もなく背景描写もなく、今でも内容を思い出す度恥ずかしくなる。今あのクオリティーで出せば3ブクマとつかないだろう。
あの頭の悪い文章たちをちゃんと読者は成人済の書いたものだと信じていたのだろうか?未だに誰かにはバレていたんじゃないかと思っている。
それでも作品を評価されたことが嬉しかったし、もっと書きたいと意欲的になった。時間が有り余っていた私はどんどん書いた。三日おきに投稿していた時もあった。ちゃんねる風にも手を出したり新しくはまったジャンルの小説も書き始めた。
好き勝手書いた作品に点数もブクマもコメントも頂けて、二次創作は順調に幸せだった。
しかし成人を騙れど中身は思春期真っ盛りの子どもである。イタイ時期が私にもあった。(これは現在進行形かもしれない)特にキャプションにそのテンションは如実に現れていた。腐女子特有のキャラ語りの気持ち悪い文章だとか、中学生イキリオタのノリだとか、ひたすらポエムを並べたりだとか…その辺だ。ここにも到底書けない。恥ずかしい限りである。
ちなみに当時の名前は“キルリマ”と読ませる当て字だった。好きな厨二臭い漢字を入れて下されば幸いである。
自分を何故か居酒屋の娘だと設定し、フォロワーとメッセージ上で交流したこともある。本当にチョイスの意味がわからない。高校の頃の苦手科目を聞かれて焦ったこともある。中学一年生には何も分からなかった。
結局最初に作ったアカウントは、「あ、やり直したいな」というある日の思いつきで消去した。使用歴は半年ほどである。
そしてすぐに作り直したアカウントは今日まで続いている。そこからは比較的真面目に書き始めた。依然性癖は変わらなかったが、文章はちょっとだけマシになった。
そして新アカウントでとうとうエロを書いてしまった。ギリギリ中学一年生だった。しかも内容は強姦である。馬鹿じゃないのと思う。その時にエロを書くのは難しいと知った。キャラに喘がせながら喋らせるのは難しいし(『ぁ』とか『、』などの適切な量が未だに分からない」の性器の比喩表現も一歩間違えたらギャグになる。あと単純に文章力が低いので艶やかな文体に出来ないのだ。出来上がったのはただの拙い成人向け小説であり、エロい文章ではなかった。
それでもこりずにいくつか書いた。挿入なしのプレイものばっかり書いた。意味がわからない。しかしネタに走ったわけではなく、大真面目に書いていた。
中学校三年間で書き上げて、今でも削除せずに支部に残してある小説は40程ある。評価数はブレブレでブクマだけで言っても1桁から4桁までまちまちだ。正直字書きとしてのレベルが分からないが、凡才だったことには変わりない。私の作品は「特殊属性(女体化、妊娠、過去捏造シリアス、嫌われ、ちゃんねる系)」がついていないと評価されない傾向にある。純粋な文章力はたかが知れていた。
最古の小説は6年前のものだ。それを怖いもの見たさで読み返しては勝手にダメージを食らっている。
高校に上がってから部活で忙しくなり、小説は書けなくなった。支部のアカウントはROM垢と化した。Twitterにも成人向けと騙ったROM専アカウントがあり、私は日々両方で二次創作を漁るだけになった。
途中うっかりnmmnにハマり、検索避けが備わった件のサイトでいくつか軽い小説を書いた。そこでも年齢を偽った。18歳以上じゃないとフォローできない方が多かっただけでなく、単純にエロを書いてしまったからでもある。内容は複数人ものだったと思う。未だにまともなセックスを書いたことがない。
そして今年の春に18歳を迎えた。4月1日になった瞬間に今まで我慢していた成人向け同人誌と目一杯買った。エロ同人もAVも買った。購入だけは18歳まで出来なかった。(だからどうしたということではあるが)
ここまで長々と自分の創作記録を書いてきたが、実は自分のしたことに今は全く罪悪感を持てていない。後ろめたさは確かにあるが、皆やってるんじゃないかと思い込んでいるのだ。
ちゃんと18歳まで一つのエロを見ることもなく過ごした人を心から尊敬する。とびっきりの自制心をもって制御できる方だと思う。いや、単に私の心が弱すぎるのか。それとも性欲が強いのか。
一つ思うことは、上に書いた支部のアカウントが特定されないか、ということである。別に晒されても燃えても仕方のないアカウントだが、上の情報だけで特定できたらすごいな〜と思う。
もう書くことないしここみることもないです
仕事をやめてから寮も出て友達と2人、都内の端っこの方でルームシェアを始めた。これは小学校の同級生で、今も一緒に暮らしてる。
彼女は大卒で、就職を機に上京するというので私から話を持ちかけた。家電代浮くし、部屋探しやライフライン周りの手続き全部やるし、ってことで。
ぼんやりニートをして、中々バイトが決まらなくてめっちゃ苦労した記憶がある。給料はそんな良くないけど暮らしていければいいなー、っていうのでクリーニング屋さんでバイトを始めた。
めっちゃみんな優しくてびっくりした。おばちゃん3人と、年の近いお姉さんが1人。駅前にあるクリーニング屋なので今でもたまにあったりする。
その中にめちゃお上品な人が居て、何かと本当に気にかけてくれる。お菓子持ってきたよ~!とか、これお土産!お友達と食べて!とか。未だに道端で会うと「マックごちそうさせて!笑」とか言ってくれる。
常連のクレーマーとかいうよく分からん人に当たって苦労もあったけど凄く良い環境だった。労働時間も5時間ぐらいで短い代わりにたくさん出勤させてくれて稼がせてくれた。
多分おばちゃんたちからすると「有給使って休めるラッキー」くらいだったのかも。就活とかも大丈夫?とか、旦那の会社紹介しようか?って本当優しい人たちばかりに恵まれたいい環境だったなあ。
お盆休みも2週間くらいあった。初めて夏休みが出来た……って思ったくらい。大体半年ちょっと、クリーニング屋で働いてる間にそろそろ就活しよう!と思った。
バイト始めてからは仕事を覚えるので手一杯で、就活するような余裕が無かった。なので、落ち着いてきた秋ぐらい。生活の安定しないフリーターだと友達も不安だろうし、と思ってたまたま母親の紹介してくれた就職エージェント的な人に会った。
ふとフォロワーが「縁切り行けば?」と言ってくれたのを思い出してその日のうちに縁切りに行った。
行った縁切りは於岩稲荷陽運寺。お岩さんの階段で有名なとこ?らしい。縁切りと縁結び、両方あるってネットで見てこれは今の私に最適じゃ~んと思った。
そこで今までの悪縁全部切って、今月中に就職したいです!あと櫻井孝宏みたいな(声の)彼氏欲しいです!!ってお願いした。(櫻井孝宏の声に人生狂わされたオタクなので)
その効果があったのか分からないけど、縁切りに行った3日後に内定が出た。それが去年の10月末のことで、友達も自分のことみたいに喜んでくれた。
今までしたことなかったけど、決まった次の日が土曜日だったのでピザとか頼んじゃって、お酒冷やして、ハロプロのライブみて騒いだ。今までで一番うまい酒だった。
転職先はインフラ系IT企業。警備員だったときの基本給が14万だったので、多分17万くらいだろうな~と思って雇用契約書みたら21万って書いててひっくり返った。ドッヒャー!
研修中にCCNA取得して、12月中はなかなか常駐先が決まらず、月末頃にやっと決まった。その間は本社で研修のお手伝いとか電話番とかしてた。この時ぐらいにマッチングアプリで彼氏と出会ってお付き合いに至る。
なお、櫻井孝宏みたいな声ではぜんっぜんない。ただ、名前が「ささき たかひろ」という。名前に寄せろって言ってないんだけど~!?wwwwwwみんなもお岩さんにお願いするときは絶対ちゃんと細かく指定したほうが良い。
私のようなニアミスを起こす人が出ないことを祈ります。ただ彼氏お酒は苦手、タバコは吸わない、ギャンブルもしないっていう良い人なんでオッケーです。
年明けからは常夜勤、土日祝休みの超ホワイトな現場で働き始めた。最初は何が何だかよく分からん~ってなってたけど先輩は優しかったし、「僕もよく分かってないこと多いです」って言ってくれた。本当にこの言葉に助けられた……
初めての夜勤で最初は辛かったけど警備員時代の体力で普通に乗り切れた。仕事も慣れてきたら楽しいし、現場におじさんが多いのもあってお菓子とかよく貰った。優しくて厳しい人たちだった。
夜勤のうちは本当に良かった。満員電車に乗ることも無く、コロナが流行りだしてからも通勤があったけど人がさらに減ってラッキーぐらいに思ってた。でもコロナのせいで、夜勤で出来る仕事がなくなって日勤に移動になった。
それと同時に、現場の人は変わらないが場所だけ移転となった。今まで通っていた場所までは1時間だったのが、通勤に1時間半かかるようになった。
夜勤は広いフロアに20人しか居なかった。日勤は常にたくさんの人で溢れかえっていた。常にどこかピリピリした空気が漂っていて、人多いな~、嫌な感じだな~くらいだった。
通勤の時も満員ほどではないけどほぼ満席、それでも毎日座ることは出来てた。日勤になってから、徐々に徐々に、自分でも気付かないうちにストレスが溜まってたのかもしれない。
日勤に移動したところで仕事はほぼ無く、暇な時間を過ごすことが多かった。何もやることも、出来ることもなかった。
この頃からなんとなく自分の体調がおかしいことに気付いてた。なんとなく落ち込んで、イライラしてしまう。生理前だからだろ、って勝手に解釈して片付けてた。
食事を摂らなくなって、早朝覚醒が多くなったのはこのへんからだと思う。
これが、5月20日頃の話。
私の心と体のバランスが完全に取れなくなったのは緊急事態宣言解除後からだったと思う。
今までにないくらいの満員電車、職場の人の多さ。思い返してみると6月中はずっとピリピリして彼氏に当たり散らしてた。先月までの私は口を開けば愚痴ばかりの女で、何をきっかけに怒るか分からない。そういうヤバい人だった。
コロナの中での通勤、3密を避けられない満員電車、新しい場所の現場、常にピリついた雰囲気、人の多さ。これが私のストレス源になってたんだと思う。
6月10日の夜。
気が付いたら自宅のベランダ、3階から飛び降りていた。幸いなことに怪我は打撲と切り傷しかなかった。痛くて涙が出て、その時に「もしかして私は限界なのでは?」と思った。もしかしなくても限界である。気付けバカ、と過去の自分に言いたい。
痛い……って思いながら階段登って家に帰った。次の日、寝て起きて普通に出勤した。今思えば普通に病院行けって感じだけど、とにかく私は出勤しなきゃと思った。
そこで初めて飛び降りたことは伏せて「気持ちの具合が悪い」的な感じで先輩に相談すると「早めに医者には行くほうがいい」と言われる。先輩も前の会社をメンタル病んで辞めた人だった。
日勤はやることが殆ど無かったし、そういう日は先輩に時々相談したり、LINEの自殺相談チャットとか、自殺相談の電話とかを週に2、3回してた。
6月10日の週や、その前の週は「私は何もしてないのに周りは仕事をしている」。というので落ち込んでた。勝手に周りと比較して、勝手に会社の中で泣きそうだった。
15日以降は通勤の電車の中で泣きそうになった。「この人達は今から出勤して働くんだ、なのに私は今日出勤しても何もやることない。その上通勤するだけでもう泣きそう、なんてダメなんだろう」って思った。
確か出勤したのは17、19の2日間だけ。あとは休んだ。休んでしまう罪悪感で押し潰されそうだった。夜中、車や大雨の音が怖くて怖くてたまらなかった。
22日はコロナの抗体検査を受けるように、と言われて抗体検査の会場に会社の人たちと向かった。昼からだったので午前休を取って、会場に行った。
自宅で玄関を開けるだけで手が震えて、最寄り駅に行くまでの間で泣きそうになった。すれ違う人が怖かった。行かなきゃ、使命感みたいな義務感で向かった。
その会場がよくなかったのかもしれない。今まで行ったことがない場所で、たくさん人が居た。検査結果はオール陰性で、これから会社に行こう、って向かう駅の改札前で具合が悪くなった。
突然目の前が真っ暗になるって感じかもしれない。フラフラして、しゃがみこんだ。すぐに駅員さんが椅子持ってきてくれて、先輩がポカリ買ってきてくれた。
流石に改札前じゃ目立つ、って思って駅のホームの椅子に座って、半泣きで先輩に色々話した。
先輩が教えてくれたのは「いい意味で休んでも大丈夫。休んでも今みんな暇だから代わりにやってくれる人はたくさんいるし、みんなやりたがる。だから一度休んだほうがいい」。
その先輩は色々限界な人だったらしく、一時期生活保護貰って生活してたこともある、生きてたらなんとでもなる、と言ってくれた。出会って半年くらいの小娘にここまでいろんなことを教えてくれるいい人だった。
やっと自分が限界なのを悟って休職に踏み切った。心療内科に電話して、予約を取って、人生二度目の医者にかかった。
最初に看護師さんとカウンセリングをした。その時今ここに書いてあるようなことを喋った。生育歴、というらしい。
カウンセラーさんには「うーん、親離れが出来てないのかも?」と言われてめちゃくちゃ衝撃を受けた。
私は今までの人生、母親の言うことは絶対だと思って生きてきた。何なら今もそう思ってる節はあるかもしれない。
お母さんが言うから女子より男子の多い学校に行って、お母さんが言うからAOで入れる学費の安い専門に入って、お母さんが言うから仕事を社員寮のある場所にして、お母さんが言うから前の会社を辞めた。
私は無意識にそういう話し方をしていたらしくて、自分でも無意識のうちに、母親の言うことにずっと従ってたらしい。あまりの衝撃に呆然とした。待合室でぼんやりしてた。
他にもいくつか心理テストみたいなものも行った。自分の思ってるものに近いものに丸をつけましょう、みたいなやつ。
その後の診察でお医者さんに言われたのが、「まあ、いわゆるうつ病ですね」だった。自分でも「ですよね」って思った。多分、ホッとした。
心理テストの結果で点数が出るらしい。その数値は「平均的なうつ病」らしい。平均的なうつ病、有る種のパワーワードだなと言うのが率直な感想だった。
そして、休むことに対する罪悪感が大きい、と告げれば「うつ病の一種に過剰な罪責感って項目があるのね。だから病気のせいだよ」と言われた。それと同時に、「多分あなたの場合はお母さんからの言葉があるのかも」と言われハッとした。
「休むことはサボり」という価値観は、母親に植え付けられたものだった。職場にいるのに仕事をしない=サボってる状態、と無意識に解釈してたのかもしれない。それで疲れていたのもあったのかも。
元々うつ病の素質(警備員時代)があったこと、環境の変化がストレスに繋がりやすいタイプなこと。今回は後者がきっかけで表に出てきたんだろうね、と丁寧に図を使って色々説明してくれて、休職の診断書を書いてくれた。
私に言い渡されたのは3ヶ月間の自宅療養だ。
会社の人とオンラインでの面談なんかを済ませ、なんだかんだ休職して1ヶ月近くが経過する。
一緒に住んでる友達は「お父さんがうつで休んでた事あるし、私は私で生きてるから大丈夫。今はめっちゃ休んだらいいぞ」と言われた。理解の有る友達で一生大事にしたい。
最初の1週間は何したらいいんだ…?って凄い焦ってたし、休むことに対する罪悪感が大きかった。
でも、彼氏や友達、お医者さんにも「休むことは権利として存在してる。そうじゃなかったら公休以外の有給や祝日は存在しない」と言われた。
そしてお医者さんには「休まなきゃ人間は病む」と言われた。医者が言うならそうなんだな!って思える単純な脳みそで良かった。
薬のおかげもあってか、死にたいとか思うことは無くなった。段々夜も眠れるようになった。外に出るのが苦にならなくなった。休んでも良いんだと思えるようになった。
何より説得力があったのは「警備員時代に休めなかった分休むと思えばいいんじゃない?」という彼氏の言葉だ。月3、4休みの1年半。3ヶ月休んでも多分足りないんだよな~!
今は買い物に出るぐらいは出来る。ただ、人が多いとパニック状態になってしまうのでオフピークや、パニクったら一人になれる場所に行く、とかで対策してる。
外で店員さんと話すのとかはちょっとまだ不安なことが多いけど一時期よりは随分マシになった。
当面の課題は電車に乗れるようになる、あとは選択肢が多すぎるとパニックになるのを克服する。この2つかな、と思う。
徐々にだけど良くなってきたので無理せず今はやりたいことをやって行こうと思う。
最後にこんなアホ長文読んでいただいてありがとうございます。何かの役に立てば幸いです。
大したことは書いてないけど「へーこういう女もいるんだな」って思ってください。
休職中ずっと増田読み漁って色々な考えに触れたので、この記事も誰かの役に立てばいいな、と思います。
クソ長い自語り、家庭環境諸々から書いてみる。ちょっとフェイク入れてるし人名は全部仮名です。
私について
北海道から上京してきた20代前半、上京してきて多分4年。学歴は専門卒、高校は工業出身。今年始めて彼氏が出来た陰キャ。
きしょいオタク、文章書くのは割と好き。漫画とアニメとソシャゲ全部好き。乙女系コンテンツに入り浸る典型的な女ヲタ。
母(7人兄弟の次女:中卒)、弟2人の母子家庭。弟は今21(医療系の大学)、20(専門学校)。父親は小5の時に離婚した。
記憶にないけど死んだ妹がいる(私の1つ下だと思う、親に未だに聞けてない)
両親も親戚もみんなオタク。父親はラムちゃんとアイマス、プロレス。母親は最近イケメンシリーズ、ボイフレ、アンジェと遥か、アトラスゲー。
弟2人はFPSとかモンハン。兄弟二人ともゲーマーガチ。世界ランク上位に入るレベル。一番下は格ゲーとボドゲに目覚めた。
実家は村に近い山奥のドドドドド田舎。同級生に農家と酪農やってる子がいっぱいいる。
育ての親は母親の妹(3女:以下さっちゃん)。母親は働きに出てた。多分パートだったのかな?分からん。
保育園に入ったのが5歳くらいだったんでそれまでは母方の祖母の家に預けられて育った。
イマジナリーフレンドが4人いた(らしい)、よく見えないお友達と遊んで親戚をビビらせた。ごめん。
ちなみにお婆ちゃんは私の見えないお友達を存在しているもの扱いしてたらしい。とんでもねえばあちゃんだ……
物心ついたときには父方の祖母と両親、弟2人と一軒家に引っ越してた。
保育園に入った時にはもう住んでた。この頃から父方のおばあちゃんは長男の弟かわいいで私に対して興味なかった。つーか嫌いだったのかも。
母親は土日関係ないサービス業なので、土日の食事は祖母。弟たちの分はあっても私の分は無いとかザラだった。今思えば普通に虐待。
ただご飯が無くてもゲームと本があれば全然平気だったのでお母さんは私がご飯を食べてないのを知らなかった。
後に私がさっちゃんに「お母さん(これは父方の祖母を指す、実母はママ)がごはんくれない」と遊びに来た時に漏らしたらしい。
当然ながら怒り狂う母とさっちゃん。父方の祖母は「お腹へったって言わないからいらないと思った」としれっとした顔で言ったのを見て目眩がしたらしい。そらそう……。
あとはさっちゃんが当時、父方の祖母の作ったご飯を食べてあまりの味の薄さに「これを毎日食べてて、ごはんも用意してもらえない日がある、食べた気しないんじゃ……」って思ったら私が不憫すぎて車で泣いたと聞いた。
確かに味は薄かった。天ぷらだけはめちゃくちゃ美味しかったな。今狂ったように辛いものとしょっぱいものを食べてるのはその時も反動かもしれない。
全学年2クラス、2年ごとにクラス替えだった。2クラスしかないんで全員顔見知り状態。
入学してからは超絶人見知りを発揮。保育園の頃に仲良くしてくれた子たちとだけ交流してた。毎日連絡帳に口数が少ないとか書かれてた。
家が近所のゆみちゃんと一緒に登下校してた。お互い何も言わなくても一緒に帰る仲だった。今は看護師やってるらしい。
教室でずっと本読んでた。徐々に色んな子と喋れるようになる。ぼっちに話しかけてくれたみほちゃん、ありがとう……
あとは算数が出来なくて宿題解けない……って泣いた記憶がある。ちなみに時計が読めなかった。
3年生ぐらいから普通に社交的になったと思う。クラスの委員長とか誰もやらないなら…でやり始める。この時ちゃお読んでた。
この頃、休み時間は教室以外にも図書室で本を読む女になってた。
同時期ぐらいに父親が仕事をクビになってニートで引きこもりになった。今で言うFXかな?やってたらしい。けど、あんま才能無かったのかも。
ただ、父親なりに色々と私も含めてかわいがってくれてたと思う。漫画とか全部父親が買ってくれてた。
高学年に上がってからは弟2人も一緒に学校に行くようになってたので、周りの親からの評価がめっちゃ高かった。
勉強ができて、運動もできて(足が速いだけ)、面倒見もいい女の子。
実際、3年からは毎回クラスで委員長だったし、同じクラスになったことない子も下の兄弟が同級生同士で仲良し~とかあった。
ちなみにこの頃はちゃおと少年A、ジャンプ、母方の祖母の家でガンガンとGファンタジー読んでた。
ただ両親がしょっちゅう家で喧嘩してた。祖母の部屋は1階、私達の部屋は2階。
多分祖母は病んでたのか、深夜に父親の部屋の前で名前を呼んでいるのを見た。めちゃくちゃ怖くて夜中トイレ行けなくなった。
祖母の私と弟への差別は益々酷くなっていて、私の家で友達と遊んでる時に「ごはんの準備しろ」「洗濯干してこい」とか言うようになる。
弟がなにか手伝おうものなら「あんたは長男だからしなくていい」って言ったの聞いてなんで?と思ったけど、弟に手伝わせるのも可哀想だなと思って大丈夫って言ってた。
小5の夏、庭で土いじりしてる祖母に「倉庫からスコップ持ってきて(でかいやつ)」と言われてめんどくさいな~って思いながら取りに行った。
祖母に渡すために後ろに立った時、(あ、これ今殴れるな……殺してもいいんじゃない?)って思った。今思えばこの時には既に私ももう心を病んでいたのかもしれん。
その後、親が離婚して一軒家から団地に引っ越した。離婚後父親には一度も会ったことない。ただ、車で事故って半身不随になったのは聞いた。
これは高校に入ってから母親に聞いたけど、あの頃の祖母は枕の下に包丁を入れて寝てたらしい。こえーよ。病むっていうかキチだと思う。
母親はいつ祖母に殺されるか分からなくて毎日不眠の状態で仕事に行ってたらしい。それでも授業参観も運動会も学芸会も絶対全部来てくれた。
田舎あるある。小学校から生徒が全員持ち上がりなので知らない子はいない。お母さんがパソコン買ってくれたのもこの時じゃなかろうか。
半年間は平和だった。でも、中1の秋頃から毎日登下校をともにした仲良しのゆみちゃんがいじめを受け始める。
ゆみちゃんが堀北真希に似てる超絶美少女で、当時仲の良い男の子に数合わせでいいから、という理由で野球部に所属していた。私はゆみちゃんに「1人じゃ不安だから……」と頼まれて野球部に入った。
まあよくある、男の集団に女がいるの気に入らないムキーッみたいなのが原因だったんだと思う。いじめてたのは女バスと女バドの5、6人。
私はゆみちゃんがいじめを受けてるのも知ってた上で普通に仲良くしてた。ゆみちゃんの家も母子家庭で、当時は母親が家に彼氏を連れ込んで家に居にくいからってよく私の家で過ごしてた。
彼女の凄いところは毎日学校に行ってたところだと思う。私に泣きながら「リスカが止まらない」と相談してくれたこと、リスカ跡は今でも忘れない。
結局、ゆみちゃんは2年に上がるタイミングで転校した。その結果どうなったか。
私がいじめを受け始める。いやなんでだよ。私は当時160cm80kgのデブだぞ。何が気に食わねえんだよ。と思ったけどいじめる相手が居なくなったから仲良かった私になった。
ただ、いじめられてることに気付いたのがゆみちゃんが転校してから2ヶ月後くらいだった。私は超鈍かった。周りは気付いてるけど自分だけ気付いてなかった。
なんでか自分のノートがないとか、教科書がないとか、下駄箱の上靴がないとか。そういう事が起こってから気付いた。
当時から仲良かった子に「あの頃めっちゃ陰口言われてたし、あんたと話したら次お前をいじめるとか言われたことあるで」って言われた。
そういえば当時はいじめを題材にしたドラマ流行ってたし、あれはいじめのお手本になってたなと思う。本当によくない。
中2の夏ぐらいだったかな。衣替えするかしないか、とかだった気もするから9月ぐらいかも。半年くらい我慢して学校に通ってた。
私は学校に行くのやめた。というか、行けなくなった、のほうが正しいかもしれない。制服を見ると気持ち悪くなって泣きそうになった。
休みたかったけど、母親は私が生理痛で辛い、と言えば痛み止め飲んででも学校に行け、サボるなと言う人だった。休むことはサボりだと言う人だった。
それでも母親には迷惑かけたくない、という一心で吐きそうになりながら学校に行くフリをしながらおばあちゃんの家に行った。
おばあちゃんは何も言わなかったし、おばあちゃんちの犬と遊ぶのが好きだった。おばあちゃんの膝が悪いから代わりに散歩に行ったのも覚えてる。
ただ、学校の担任から「1週間ほど無断欠席が続いてるが大丈夫か」という連絡が家に入りバレてめちゃくちゃ怒られる。怒られた時に初めていじめられてると言えた。
母親はその日のうちに学校に電話をして、学校側もいじめを知ってたけど本人が言わないから、とかそういう理由で何もしてなかったらしい。
後日、私は学校に行っていじめてきた女たちから「形だけのごめんなさい」を受ける。クソ無意味。謝られたからと言って事実は消えないわけだし。
どのみち私は学校に行っても教室に入れなかったし、教室に入れないなら授業も受けられない。だったら行く意味が無いな、と思って家に引きこもるようになる。
家に引きこもってる間も勉強は出来た。そう、みんな大好きTwitterです。当時高校生だったり大学生だったフォロワーたちが勉強を教えてくれた。スカイプ使って。
ネットが私の居場所だった。勉強ってどこでも出来るんだ、って思った。
そのフォロワーたちもいじめを経験した人たちで、私の学校に行けない、けど勉強はしたい、という気持ちに寄り添ってくれて教えてくれた。本当に頭が上がらない。
なので、テストがある日だけ学校に行った。テストは出席番号順で座るし、いじめっ子たちと真逆の席なのでその時だけは制服着て教室に入った。
クラスメイトたちは「久しぶり!」とか「テスト範囲大丈夫?」とか声かけてくれる子も結構居た。あの子達の勇気は今思うと凄い。
修学旅行は行ってない。何されるかわからないし。代わりに学校で先生とマンツーマンで勉強した。凄い有意義な時間の使い方だったなと思う。
卒業までテスト期間だけ登校する生徒をやった。家の近い子がテスト範囲のプリントを持ってきてくれたし、フォロワーたちが勉強を教えてくれる日々が続いた。
高校は女で嫌な思いをしたので男子の比率が高いし、比較的家から近い方(といってもバスで1時間)の工業を選んだ。仮に落ちたら通信制の高校へ行く気でいた。
卒業式も出ていない。式が終わった次の日が高校の合格発表で、無事に工業に受かったという報告と卒業証書とアルバムをそこでもらった。アルバムはその日のうちに捨てたけどな。
ぶっちゃけ担任がクソゴミだった。生徒の机を蹴って見せしめみたいに怒鳴り散らすタイプ。体罰も普通にあったし、クラスメイトの男子は教室内でデカデカと万引を自慢するようなクラスだった。
担任はそれに対してもっとバレないようにやれとか、スリのほうが良いとか、教育者としてありえんことを言ってるのにドン引きして学校に行く気が失せた。
ラッキーなことに全日制の単位制だったので単位さえあれば進級できた。単位の計算をして、単位分だけ出席した。常にギリギリ単位の女で普通科の先生に「お前は出席点が足りない」と言われまくった。
後々、クラスの男子に教科の単位を聞かれた。私と同じように単位分しか出席しない人が増えたらしい。毎日の出席率は最悪だったと思う。まあ工業だしな。
担任は露骨にわたしを毛嫌いしてたし、私も嫌いだったのでお互い様だろと思ってた。高校でちゃんと授業に出たのは専門科目だけ。これだけは教科書読んでもどうにもならん。あとは実習。
他は中学の時と同じようにフォロワーを頼ったり、ネットで検索したら大体答えの出し方があったので家で勉強してた。親は私が家に居ても何も言わなくなった。
学祭とか体育祭は出たことがない。強いて言うなら修学旅行が東京だったので行った。お世話になったフォロワーたちに会いに行くという理由で。クラスの女子は私含め7人で、うち1人は中学が一緒。
その子と出席番号が前後だったジャニヲタのまなみちゃんと仲が良かった。ちなみにまなみちゃんは「まなみね、山田涼介くんのお嫁さんになるの!」と平然と教室でも言ってた強い女である。マジで強い。
ここまで書いてて思うけど本当に協調性のきの字もない女だな……。ちなみに進路相談も凄い適当で、適当にAOで専門行くわ、と一方的に言って終わり。AO入試なんて軽い面談と書類審査のみ。私は高3の夏休み中に進路が決まった。
この頃にハマってたのは黒子のバスケで私はほぼ毎日夢小説を書いて過ごしてた。あと支部でBLも書いてた。当時黄黒を読んでた人はもしかしたら私の黄黒も読んだかもしれない。読んでくれた人が居たらありがとう。
適当に単位取って適当に卒業した。これが私の高校時代の思い出である。
専門学校は今までと比べたら楽しかった。ここでいろんな資格も取ったし、クラスメイトも普通に接してくれてた。唯一毎日学校に行けた時期だったと思う。ただ行事だけはゴミ。
ここで就活頑張っとけばよかったんだよな~~~と思う。就活サボって適当に警備会社に入社した。そしてこの後、地獄を見る。
前置きすると私より辛い人もいるとかそういうのはどうでもいい。私は私の辛いを話してるので。
上京してから半年、横浜で警備員をやってた。この半年はまだ良かった。残りの1年半は川崎で地獄を見る。
警備は万年人手不足で月の休みは多くて4日、私が限界を迎える頃は3日だった。勤務時間は朝6時半~16時半の早番と13時半~23時半の遅番。あとは9時~22時までの中番。
入社時の条件は月8休みと言われてたのにマジで騙されたと思ってる。入社して半年は確かに8日間の休みがあった。でもその後から毎月3、4日の休み。
休みの前日は絶対に夜間警備が入るため、帰宅は朝5時。当然、遅番か中番が終わった後に続勤。休みは実質半日しかない。寝て起きたら仕事に行く。
休めるわけねーだろバーーーーーーーーーーーーカ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
そりゃあ毎日寝ても寝ても眠いし、突然気分が落ち込むし、情緒があまりにも不安定にもなる。思えばもうこの時にはうつだったんじゃなかろうか。
心がしんどい……となり始めた頃、母親に「しごとつらい」といえば「社会なんてそんなもんだよ笑」と返ってきた。そして根拠のない「大丈夫!」「なんとかなるよ!」という返事。
私もそうだよね、なんとかなるよね、頑張るね、って返してた。これは絶対に良くなかったと思う。
そしてある日、体のほうが出社を拒否した。会社に行こうと思うのに涙が止まらない。手が震える。こりゃ今日出勤出来ねーわ、と思って職場に電話を掛ければ「いや来てもらわなきゃ困る」。あっはい……。
無理に決まってんだろ、そう思いながら電話を切って母親に電話した。泣きながら電話した母は、「偉い人に電話しなさい」と教えてくれて、私は本社に連絡を入れた。
元々寮で暮らしてたこともあり、総務のとよく話をする事があったのでまずは総務に事情を説明、そのまま直で警務部長から「休んで下さい」と言われた。
その時に初めてメンタル系の医者に行ったけど、まるで私がメンタル系にかかるの常習みたいな態度を取られるしいかに自分が凄い医者なのかを言われた。あのクソジジイ一生許さねえ。
私は某私立女子校の卒業生である。身元を特定されたくないので、入学・卒業年度はフェイクにした。
これを書いたのは、学校自体にそれほど恨みはないが、中学校の口コミを集めるサイトで誹謗中傷判定されているのか自分の体験談が載せられないことに違和感を覚え、とりあえずどこかに載せたいと思ったからだ。
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北の大地に建つ某私立女子校(以下、S校)が私の通っていた中学校である。これだけで候補がだいぶ絞られただろうと思う。
S校には、各地から生徒を集めるため、寮が付属しており、2010年頃、私は関東の親元を離れて入学・入寮した。
入学式の日は今まで訪れたこともなかった土地での親元を離れた生活に心を躍らせていた。この先6年間、新しくできるはずの友達と一緒に楽しい寮生活を送る自分を想像していた。
しかし、私のその期待は叶えられなかった。というのも、入学してから1週間が経過すると、たちまちいじめが始まったからである。
いじめっ子は入学してわずかな期間でスクールカーストの上層に地位を築き上げた“かわいい子”(以下、H)とその取り巻きである。
Hは外国の血が混ざっているとかで目鼻立ちがくっきりしており、明るい色のくるくるした地毛が愛らしい子だった。そのかわいさとハキハキと物を言う性格から成るカリスマ性を発揮し、あっという間にクラスの内外で忠実な部下をこしらえた。
いじめの理由は大したことではなくて、要約すると「気に入らないから」。気に入ってもらえなかった原因はさっぱり分からない。
(Hとは入学式の前にあるガイダンスで知り合ってはいたが、「綺麗な髪だね」「これ地毛だよ」「そうなんだ」と会話したのち、すぐに別れた。綺麗な髪だねという言葉が彼女の気に障っていたのだろうか)
Hもその取り巻きも中1女子だったので殴る蹴るなどの暴行はなく、主にシカト・ハブ・掃除の押しつけ・呼び出しての暴言が主だった。
同じ寮生のみならず、自宅から通う生徒(以下、自宅生)にもHの影響力が及んでいたようで、友達は一切できなかった。
教室でも廊下でも校庭でも教師の目がないところでは常に陰口をたたかれていた(らしい)。
小テストの点数が良ければカンニングだと根も葉もない噂を立てられ、点数が悪いときは知的障害者だと笑われた。よく分からん噂で教員に説教されるよりも、バカだ、知恵遅れだと言われるほうが楽だったので、テストは時間いっぱい寝るようになった。もともと授業態度が良い方ではなかったのでなんら不自然ではなかったと思う。
彼女らの寮則破りはすべて私の責任になって、しょっちゅう先輩や寮母に怒られていた。生徒間では私に友達がいないことはほとんど周知の事実だったのに、部屋のお菓子パーティーの声がうるさいとか片付けがなってないとか怒られた。
在室時は部屋の前にスリッパを並べるのが規則なのだが、毎日、知らぬ間にスリッパが廊下の端と端に飛び散っていた。寮則違反なので怒られる。
乾燥室に干した衣類はぜんぶ床に落とされ、足跡が残されていた。何度だって洗濯する。1回100円、中1には痛い出費だった。
洗濯機を回している時に目を離すと止められるので、洗濯中は見張る必要があった。トイレに行った一瞬で止められたときは相手の気合の入れように驚いた。
週末の昼は寮の洗面所に呼び出され、4~5人に囲まれて1時間から、長いときは3時間くらいひたすら悪口を聞かされることが多かった。負けず嫌いだったのでいじめっ子たちの前では絶対に泣くまいと歯を食いしばって聞いていた。慣れると聞き流すようになった。
避難訓練の際、自分のスリッパが見つからず、裸足で外に出る羽目になった。「ガラス片が落ちていたら危ないでしょ? ケガしたいの?」と寮母に怒られた。スリッパは洗面所のゴミ箱から見つかった。汚くなっていたので買い替えた。
一番ダメージが大きかったのは、いじめが始まる前までは口をきいてくれていた子たちが、Hの「増田と喋ったらハブるよ」の一言で口をきいてくれなくなったことだ(寮生活を始めたばかりの13歳の女の子たちにとって同級生からハブられることは何よりの脅威だった)。
いじめが始まる直前まで仲良くしてくれていた子に「増田のことは嫌いじゃないし、増田は何も悪くないと思うけど、私もいじめられたくないから……ごめんね」と言われたときは、さすがに堪えて、1日中ベッドのなかで泣き続けた。(断っておくが私のケースでは、こうして私から離れた子、私と話さなくなった子は何も悪くないと思っているし、今も彼女らを責める気はない)
泣き続けるかたわらで、いじめっ子のひとりが同室の子と楽しそうに喋っているのが心底ムカついた。単純に、死ね、と思った。
両親は私がいじめられていることを知ると、高い入学費や学費を払ったのにもかかわらず、すぐに「いつでも戻ってきていいんだよ」とか「退学したくなったら言いなさい、退学手続の準備はできてるから」とか「がんばって通い続ける必要はまったくない」とか「退学していじめを避けることは逃げでもないし格好悪いことでもない」と何度も何度も私に言い聞かせて、自分たちが味方であること、逃げ道があることを教えてくれた。
逃げ場を提示するという両親のサポートのおかげで私はいじめを乗り越えることができたのだと思う。
※決していじめは乗り越えるものではない。むしろ逃げるほうが最善・最適である。周囲に何と言われようといじめられている子供がいじめを乗り越えようと努力する必要はないし、何より周囲は彼・彼女にいじめを乗り越えさせようとするべきではない。
表立ったいじめは中学2年生の夏頃まで続いたが、寮生ほど影響力を及ぼしづらい自宅生の子たちが喋りかけてくれるようになったのをかわぎりに、いじめっ子集団以外からのハブりやシカトはなくなった。中2の夏休みが終わった後にようやく友人がひとりできた。
相変わらず掃除の押しつけやパシリ、悪口・陰口は続いていたが、私自身も慣れてしまったのでほとんど気にしないで学校生活を送っていた。
中学3年生になった頃にはいじめっ子集団を除いた同級生とはおおむね仲良くしていた。
スクールカーストのトップグループとはいえ、彼女たちを嫌う生徒も出てきたからだ。そういう子たちは彼女らの前で嫌悪感をあらわにはしなかったが、それまで避けていた私との交流を持つようになった。
そうして心に余裕が出てくると、2学年下の中1の間にも同じようないじめが起きていることに気づいた。話を聞くと、1年前(私が中2の時)も新1年生の間でいじめは起きていたらしい。さらに毎年、1年生は誰かしらひとりがいじめられると聞いた。
いじめられているのは、少し太っていて、自室のベッドに引きこもり、お風呂に行かなくなってしまった女の子(以下、K)だった。
わが寮では、「いじめられる側にも非がある」という考えが徹底していた。
『いじめられっ子にはいじめられるような理由があるのだから、いじめられたくなければ自ら改善しなければならない。改善の努力がないならいじめられても仕方がない』
こう考えることで、私たちは後輩間のいじめを黙認し、いじめを止められない自分たちを擁護していた。
実際、Kちゃんは「汚い」「くさい」って言われているのに風呂に入らないんだから、まあ仕方ないよね、とかなんとか話した記憶がある。
風呂では当然、全員が裸になる。私も経験があったが、風呂場では普段見えないところの悪口を言われる。私も体毛が濃いことをさんざんバカにされた。勝手な憶測だが、Kもおそらく風呂場で太っていることを笑われたのだと思う。それで風呂に入れなくなってしまったのだろう。彼女は何も悪くなかった。
さて、入学式から2ヶ月経つと、Kは夕食の場にも出てこなくなった。その頃合いから上級生の間では彼女が退学する時期を予想するのが流行りだった。
「去年の▼▼ちゃんは夏休みが終わったら帰ってこなかったんだよね」
「いや、夏休み前にやめそう」
「Kちゃんが電話で『やめたい』って言ってるの聞いた子がいるから、私も夏休み前だと思う」
みんなで休日にお菓子を食べてカードゲームをしながら、その話題で盛り上がっていた。
私も、「増田はどう思う?」と聞かれて、「1回親元帰ったらもう学校には戻らないんじゃない」と答えていた。
賭ける? という言葉もチラホラ出てきた。お菓子を賭けて遊ぶのだ、いじめられている子がいつ耐えきれなくなって退学するかを。
後輩間のいじめを止めようともせず、いじめられる人に非があるという考えに迎合している時点で手遅れだが、賭けへの参加は固辞した。
結局、Kは夏休み開始と同時に退寮・退学した。親御さんも来て片付けをし、最後、寮の玄関で寮母に「ありがとうございました」と頭を下げていた。
食堂の窓から退寮する彼女を見かけた。入学時は小太りだけど小綺麗な女の子だったのに、たった半年も経たずにずんぐりと太り、髪もボサボサで、みすぼらしくなっていた。
弁当箱を洗いながら、2学年下のKと同室だった後輩の「やっと部屋の空気が綺麗になる」という言葉を聞いていた。
ちなみに私の代では、中2になってから同時進行でいじめられるようになった他の子が2人ほど中途退学した。
入学時の人数が最多だった私たちの代は、卒業までの間に減った生徒数も最多だった。
2年間をいじめで無駄にしたものの、私は卒業まで在籍し続けた。
だが、付属の高校へエスカレーターで進学する気にはなれなかったし、それ以上在籍する価値がある学校じゃないという親のアドバイスもあり、外部へ進学した。
そして、高校2年になる直前くらいに、かつて仲良くしていた自宅生の子から久しぶりに遊ばないかという誘いを受けた。
私が3年間過ごした寮は卒業生なら無料で宿泊できることを知っていたから、快諾した。卒業生の先輩が泊まっていたのを見たこともある。
念のために、電話で寮に問い合わせ、確かに泊まれることも確認した。
いざ荷物を持って寮まで行ってみると、問い合わせたときとは別の寮母(当然顔見知り)が、
「増田さんはね、中学しか卒業してないから、ウチの卒業生扱いはできないのよ」
と言ったのだ。
おもしろすぎて笑った。いや、中学卒業してるんですけど。今あんたも言ったけど、中学の卒業生なんですけど。
あースッキリ。
あ~父親が亡くなって遺産が入ったから、預金が一桁アップした件か。
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何故なら、母がぜ~んぶ使っちゃったから(笑
それでも尚、父に財産と言えるものがあったのは、母が先に亡くなり、母はその母親(私にとっては祖母)からの遺産を受け継いでいたから。
その一部を相続した某親族がすぐに売り払い、そこにマンションが建った、と言えばかなりの広さを想像してもらえるだろう。
夏休みに近所の子が単なる林だと思って迷い込むような土地の一部を、母も相続した。
そしてそれをいつの間にか換金していた。
その中には未だ換金出来ていないものもある。でも私は呑気なので、まあその内、と思っている。
通帳に数字になって記されていた金額は、正直想像を超えた金額だった。
これが、私の口座の預金額を一桁アップさせた原因だ。
ついこの間、趣味の小銭貯金の壺がいっぱいになったので、預金しにいった。
すると、窓口の女の子が言うのだ。
「定期預金にされませんか? 万が一キャッシュカードを紛失して悪用されたら、全部引き出されてしまいますよ」
それもそーだ、と承諾したら、別の窓口に案内された。
そこで対応してくれたのは、窓口の女の子ではない全くの別人。我が息子程ではないがそこそこ若いお兄ちゃん。
「〇円単位だと利率が上がります。そこの電光掲示板の利率より……交渉で10倍になります」
はいぃぃぃぃぃ!?
ちなみに普通の定期預金だと、その時0.01%だった。普通口座なら0.001と、もう一個0が増える。
当分使う予定もないし、預けておくか。
「0.1%になりました!」
……はいぃぃぃぃぃ?
その時私は思ったんだ。お金持ちはこういう優遇がある所為で、もっとお金持ちになるんだ。
と、こう書くと私自身がめっちゃお金持ちになったように読まれてしまうが、本人に自覚はない。
芸能人とかが自殺した後とか、夏休み明け前とか「〇〇なあなたに〜」的な感じで、死なないでくれってニュースや記事流れるじゃん。
アレほんとにクソだわ
だいたいあの手の記事では「悲しむ人がいるから〜」とか書いたり、「周りに悲しむ人がいなくても変わりに私が〜」とか偉そうな医者やライターがほざいてるけど、100%嘘じゃん。
単純計算で毎日50人以上が死んでるわけじゃん。でもそいつら毎日悲しんでないじゃん。そいつらが悲しむにしてもニュースになった奴とかじゃん。
ニュースになるようなやつは限られてて、いじめとか可哀想なストーリーがある奴か、なんか才能がある奴か、タイミングが良かった子供か、だいたいそんな感じでしょ。
俺みたいな単に無能で生きる価値が無いから死のうと思ってる中年は死んだ所で100%悲しまれない訳。