「キュレーター」を含む日記 RSS

はてなキーワード: キュレーターとは

2024-06-10

anond:20240608104450

アーティストだけは常に「何が芸術であるのか」を、過去の積み重ねと、自分思想と技巧、現在社会経済バランスの中で問い続けている。

個人的には

「観客にその問いを読み解くためのリテラシーがあるのか」(観客のリテラシー課題

「高いリテラシーを求めるとするなら、横浜トリエンナーレのようなイベントでそれを行うのは妥当なのか」(主催者キュレーター課題

アート業界の潮流として、エンタメ化するのか社会経済哲学を扱いアカデミック化するのか」(業界課題

みたいな切り分けかなと思った。

2024-06-08

横浜トリエンナーレへの批判を読んで(後半)


(前半からの続きです。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093126


現代アートの不満


もっとも、現代アートは手放しで褒められるものでもないでしょう。多くの批判者が火のないところに煙を立てているとは言えないと思います作品の出来が悪いものも混じっていることは否めません。


大方の批判にもかかわらず、私は今回のトリエンナーレではそのような「的外れ」感のある作品ほとんどないか、かなり少なかったと感じています。これもキュレーションのよさでしょう。


思い返せば2020年トリエンナーレにあった「エビSEXをさせる方法を考える」という一連の展示はひどかった。テーマはとてもよかったのですが、日本(だったと思います)のクリエイターたちの作品はふざけているとしか言いようのないものでした。その課題は、「エコスフィア」(エビ水草の入っている閉じた水槽)の中でエビ酸素を吸って二酸化炭素を出し、水草二酸化炭素を吸って酸素を出す。この循環のバランスはうまく保たれているが、一つ問題があって、エビ生殖をしなくなる。そこでエビ生殖をさせる方法を考える、というものでした。多くの作品エビセクシーな格好をさせるとか、エビ秘宝館のようなものを作るとか、そういうものだったと記憶していますしかし、クリエイターたちはこの「エコスフィア」が地球生態系比喩であると気づかなかったのでしょうか? だとしたら愚かに過ぎるとしか言えません。それとも、気づいていてこのような作品を作ったのでしょうか? だとしたら二倍悪い。エビとは「私たち」に外ならないのだから、つまりクリエイターたちは女がセクシーな格好をして男を誘えばよいと言いたいのでしょうか? それはあまりにも「男尊女卑」に終始していると言わざるをえません。そこには問題意識が欠如しています。「教授課題テーマはよかったが、学生たちのレポートがだめだったという感じだ。」私は友人とそう語りあったことを覚えています


2020年といえば壁にブレインストーミングのように年号出来事を書いてゆく展示もありました。そこには作家メモも展示してあり、『荘子』の「胡蝶の夢」の故事引用してありましたが、「與」を「興」と書き誤っていたことを覚えています自分のことは棚に上げつつ、非本質的でささいな事をあげつらうようですが、「どうかわからないことで見栄をはらないでほしい」と思われてなりませんでした。


現代芸術作家たちの一部が「見栄をはろう」としていることは薄々感じられます人文学哲学歴史学経済学などに議論の蓄積がありとっくに通過してきた知見について、芸術家たちが何周も遅れて的外れなことを言っている光景は、あまりみっともいいものではありません。なぜそのようなことになっているかといえば、芸術家が「作品」だけではなく、その「意味」で評価されるようになっているからでしょうか。


かつて芸術家は貴族の注文にこたえて絵を描いていたそうです。今の作家自由作品を作れるはずなのに、ただ社会要請にこたえて作品を作ろうとして、中身のないステートメントを打ち出しているのは、痛々しくさえあります


しかし、これは決して「アーティストはよけいなことを考えるな」と言いたいわけではなく、むしろその逆で「もっと学問をしてほしい」ということです。しかもそれは「芸術家」としての意識以前に、「市民」として当たり前にもつべき意識であると思うのです。芸術家は作品だけで力のある面白い作品を作って、そしてそれとは別に最低限、当たり前に市民として的外れでない発言もしてほしいのです。


作品」と「意味


トリエンナーレと同時開催の展覧会Bank ART Life7「UrbanNesting: 再び都市に棲む」に足を運ぶと、新高島駅地下1階の会場の入口には巨大な土のダンゴがありました。これはかなり面白かったのですが、説明を見ると福島の土で作ったとありました。もちろん福島原発事故はまだ収束したと言えませんし、提示された問題は深刻です。しかし、その場では私も友人も何となく興が醒めてしまったのです。それはなぜでしょう? 何となく、「作品面白さにテーマが負けている」と感じました。私も「キラキラ」なアートを好む一員であり、私の中で「無意味」のもつ破壊的な力に「意味」が負けてしまったのかもしれません。あるいはその逆で、テーマの重さのために、作品が軽く見えてしまったのかもしれません。いずれにしても、私は作品のよい受け手になることができませんでした。


しか問題受け手だけにあるのではないと思います。「作品」と「意味」のバランスは難しいことであり、作り手の側でもうまく調整しなければならないものです。先程述べた通り、今回の展覧会にはピンボケ作品が少ないと感じました。しかし、今回の出品作のうち、どれくらいが「意味」(言葉による解説)なしに「作品」だけの魅力で勝負できるものだったかは疑問も残ります


今回の展示にあったBゼミの試みはよかった。「意味のないものを作る」とか「新しい楽器を作る」とか、芸術意味から解き放つような試みは今でも頼もしく思われます。どうもいまのアートは、意味付与された瞬間に弱くなってしまうような気がしています作品意味との関係性については、まだまだ考える余地がありそうに思います


私の身近に YOASOBI のアニソンが好きでないという人がいます。「アニソンというのはアニメ解釈であり、アニメへの讃歌であり、しかアニメ本編とはズレているか面白い。YOASOBI の歌はアニメストーリーをそのまま歌っている。だから面白くない」と言うのです。何となくわかる気もします。偉そうに勝手なことを言うならば、現代芸術世界にあるモノをそのまま出すのでなく、世界アートの形で表現するとどうなるのか、「意味」に傾きすぎず「作品」の力で見せてほしいと思います


しかし、芸術に「意味」をこめるなというつもりではありません。批判者の中には、芸術家は被災地創作で消費するのではなく、実際に活動をすることで被災地に貢献すべきだというような意見を言う人があったような気がします。もちろんそのような活動はしないよりもしたほうがよいのですが、それはあくまで「市民」としてのはたらきであって、「芸術家」としてのはたらきではないでしょう。芸術家には芸術家にできることがあり、それは創作であるということを否定するつもりはありません。しかし、だからこそ「作品」と「意味」にはもっとよい関係があるのではないかと思います。その答えが何かということは、残念ながら即座に提示できないので、偉そうに勝手なことを言うだけになってしまうのですが……。


批判いたことのついでに言えば、今回のトリエンナーレ批判する意見の中には、電気を使ったインスタレーション環境問題を訴える作品を同じ空間に並べることの違和感を語る人がいたように記憶しています。その違和感理解できますが、それとは別に芸術資本関係という問題も感じました。入り口の協賛企業の一覧を見たとき、たいへん違和感がありました。資本主義への警鐘をならす作品(全てではないにしろ)が、大資本資金で展示できるとは! 大企業はそのようなお金を出すほうがよいと思いますけれど、その一方で企業がそれを「みかじめ料」として批判されなくなるべきではもちろんないでしょう。作品意味もつときには、その作品のおかれる「場」までもが、自らの意味暴露するようになるのかもしれない。初っ端からそんなことを考えさせられるなかなか面白い「展示」でした。


むすび


咎め立てばかりしてしまったようですが、最後によかったところをいくつか述べたいと思います。友人は、今回のキュレーター解説文(紹介文)がよかったと言っていました。友人によると今や「この作品はこう見るべきだ、ここが素晴らしいのだと天から決めつけて、自分に酔ったような解説」を見ることも多いなかで、今回の解説文は「キュレーター自身作品をどう見るか、真摯に考えて書かれていたので好感が持てる」というのです。また、「キュレーションにも工夫が多かったような気がする。例えば商業主義マルボロ広告の下にインドの貧しい生活を描いた版画を配置するなど、『対比』を意識したものがいくつかあったように感じた」とも言っていました。キュレーターの仕掛けた「作品」と「意味」の関係性のバランス果たして十分達成されたかどうか、それはよくわかりませんが、キュレーター真剣構成しており、私たちに問いかけるものがあったのは確かだと思います


要するに、初めに述べた通り「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということです。言いたいことはこれに尽きます


魅力のある作品も少なくありませんでした。友人は勅使河原蒼風ファンになり、富山妙子画集を買いました。私は土肥美穂の buttaiが気に入りました。同時開催のBankART Life7では、みなとみらい駅の腕木信号オブジェや、Bank ART Stationにあった送風機で立ち上がる足などの機械仕掛け作品が好きでした。


つらつらと思いつくまま書くうちに、思いがけなく長文になってしまいました。次回のトリエンナーレにも期待しつつ、このあたりで終わりにします。


横浜トリエンナーレへの批判を読んで(前半)


文字数制限にかかるようなので、前後に分けて挙げます。)


前置き


第8回横浜トリエンナーレ野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのとき感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています


今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやか感想を述べたに過ぎない」と述懐しています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。魯迅感想短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想もつならば、それで満足です。


人は物事に触れて感想を持つものだと思いますSNS批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というもの自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。


野草』と「文の国」


今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います


今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成るものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的もの追憶的なもの観念的なもの象徴的なもの風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特雰囲気をもった作品集です。


これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります


そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味キュレーター解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレット文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」


しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論余地がありえますが、言葉芸術距離がそう遠いものでないことは確かです。


さらテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきますキュレーター中国出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文文字芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。


作品との対話


いっぽう、日本一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭ものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたか展覧会からあなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。


では、「芸術アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から芸術アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいもの芸術なのか?」とか「言語表現芸術無関係か?」といった問題ゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。


鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります批判ひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要展覧会であったと言えるのでしょう。


友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉時代なのでしょう。考えずして何が現代芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日ちょっと芸術に触れてみよう、子ども芸術に触れさせてみよう、デート美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」


しかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。


私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います


過去トリエンナーレ


ここで、ちょっと過去トリエンナーレを振り返りたいと思います


私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています


2014年の第5回「華氏451芸術世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家芸術家がいか体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治であるという意識が出てきていたためかもしれません。


2017年の第6回「島と星座ガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権さなかにあって、政治右傾化懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)


2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続


きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います


いわゆる「政治性」


今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術政治であることの何が問題なのかとか、政治生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーター中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。


しかに、今回の展覧会ではヨーロッパ戦争に関連する展示や国粋主義者移民反対デモ映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつ世界見立てて、このような出来事遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます


そのデモ映像ひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別デモが行われていますヘイトクライム危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。


思い返せば2014年2017年はかなり「政治的」な展示があったと思いますしかし今回、キュレーター日本問題ひとつも指摘しませんでした。日本美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれ事件もそう遠い昔のことではありません。日本美術表現自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっと自由表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパ安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります


しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品なかに普遍性見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。


ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会なかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅木版画という簡易で複製可能芸術を通じて、民衆文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争撮影した写真が展示されていたのは、芸術政治問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います


(後編へ続きます。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093350


2024-04-16

カオスラウンジは今

2011年炎上

東日本大震災のあったこの年、カオスラウンジメンバーである梅ラボ

画像掲示板ふたばで作られた「キメこな」を丸パクリしたことが発覚

リーダー黒瀬陽平が「ネット画像は好き勝手に使わせてもらう」と明言したこと

pixivを巻き込んだ大炎上となったことで一躍有名となった。

 

当時のカオスラウンジ

アート業界から村上隆オタク業界からpixiv言論業界から東浩紀という

三業からの強力なバックアップを受けた一大プロジェクトであった。

 

しかし、この炎上が原因となり、村上pixivカスラジとの関係を断ち

以降は東浩紀率いるゲンロンのバックアップの下で活動していくことになる。

 

東浩紀との関係

当時、東浩紀は「福島チェルノブイリのようにダークツーリズムで客を集めよう」との考えから

カスラジとともに福島での活動を行っていた。

特に有名なのが2013年の「福島第一原発麻雀計画である

https://togetter.com/li/609484

 

また、2015年には「ゲンロン カオス*ラウンジ芸術校」を開設。

ゲンロンの美術部門としての活動を行った。

表現不自由展」で有名になったあいちトリエンナーレ2019には

この新芸術校の出身者が複数人出展している。

 

パワハラ不倫裁判

2020年、当時カオスラウンジ社員女性黒瀬セクハラパワハラ告発告訴

カスラジは当初公式にて事実を認め謝罪したが

後に「調査した結果そのような事実はなかった」として女性側を逆告訴した。

 

2022年に「セクハラはあったがパワハラはなかった」と判決が下ったが、女性側は控訴している。

被告黒瀬ら3名は告発以降表向きは沈黙していたが

判決後にTwitter更新を再開し、活動を再開した。

 

なお、黒瀬は本件の責任を取りカスラジを退任。後任は藤代嘘となった。

2011年炎上当事者である梅ラボは、本件には無関係被告にもなっていない。

本人曰く「黒瀬らと被害女性との話し合いの仲介をしていたが、裁判を避けられなかった」として

女性告訴があった日にカオスラウンジ離脱している。

  

ゲンロンは本件を受けてカオスラウンジとの契約を解除した。

同時に「契約違反があった」としてカオスラウンジ提訴しているが、違反の内容や裁判の結果は明らかになっていない。

 

近年

訴訟以降、黒瀬は公に活動していなかったが

2013年8月キュレーターとして「お分かりでしょうけれど、私は画家であることをやめていません。」展を開催した。

カオスラウンジとしての活動ではないが、参加アーティストはほぼカオスラウンジと同じであった。

参加者によれば、会場は第1から第3まであり、第3会場に入るには「個人情報所属を提出した上」での「抽選制」とのこと。

2024-03-29

anond:20240329155826

キュレーション機能ほしい

自由キュレーターできるシステム作って、フォローするとそのキュレーターの勧める結果が優先表示されるの

でも袖の下の温床になるな それじゃGoogleが儲からん やる動機がない…

2024-02-03

anond:20240203013602

インターネットだってredditみたいにヤバいやつをミュートしたりキュレーター話題管理できるようなところじゃないとキチガイ共鳴して終わるよな

リアルの場だって空気読まずにおかしいことする奴は阻害されるからそういうことをする人がいないのに

2023-10-25

ギズモードの「フタが開けられないNASA」原文比較すると別物

人気トップになってるGizmodo記事が原文と全然違うというので比べてみた。

原文(機械翻訳

NASA小惑星サンプルコンテナを開くのに苦労している

科学者たちはキャニスターの外から岩やほこりを集めましたが、サンプルの大部分は内部で立ち往生しています

約1ヶ月前、小惑星からの手付かずのサンプルは、タイトカプセルの中に閉じ込められたまま地球に着陸した。サンプルキャニスターは、宇宙旅行中に小惑星の主要な塊を安全に保つように設計されましたが、現在NASAジョンソン宇宙センター(JSC)のチームは、宇宙の岩にたどり着くためにそれを開くのに苦労しています

過去1週間、OSIRIS-RExミッションキュレーションチームは、小惑星からサンプルをつかむために使用された宇宙船の関節アームの端にある丸いサンプラーヘッドであるTAGSAMヘッドを開くのに苦労していました。TAGSAMヘッド(タッチアンドゴーサンプル取得メカニズム)は、小惑星サンプルの大部分がある場所であり、したがって、汚染を防ぐために窒素の流れの下で特殊グローブボックスを介してチームのメンバーによって慎重に処理されています

「何度も除去を試みた後、チームはTAGSAMヘッドの35個のファスナーのうち2つがOSIRIS-RExグローブボックスでの使用承認された現在ツールで取り外すことができないことを発見しました」とNASA金曜日ブログ記事に書きました。「チームは、サンプルを安全で手付かずのままに保ちながら、頭の中の材料抽出するための新しいアプローチの開発と実施に取り組んでいます。」

サンプルキャニスターのアルミニウム蓋が最初に取り外されたときミッションチームはキャニスターのアビオニクスデッキに黒いほこりと破片を見つけました。10月11日NASAはTAGSAMヘッドの外側から収集されたサンプルを初めて見たものを明らかにし、まだサンプルキャニスターを開けていないと付け加えた。「唯一の問題は大きな問題であり、TAGSAMに入る前に予想していたよりもはるかに多くのサンプルを見つけたことです」と、NASAのJSCのキュレーターであるフランシスマッカビンはライブイベントで語った。

結局のところ、それほど良くない問題もあります。これまでのところ、キュレーションチームは、TAGSAMヘッドのマイラーラップを押さえながら、ピンセットまたはスクープでキャニスターの内側から材料の一部を取り除くことができました。今後数週間、チームは残りのサンプルを抽出する新しい方法を考え出そうとします。

「頭から残りの材料抽出するための提案された解決策のためのツールは、グローブボックスの中に収まることができなければならず、コレクション科学的完全性を損なうものではなく、いかなる手順もクリーンルーム基準と一致していなければならない」とNASAブログ記事に書いた。

しかし、NASAによると、これまでに抽出された小惑星サンプルは、小惑星から60グラムの破片を集めるというミッション目標を超えている。現在までに、宇宙機関は2.48オンス(70.3グラム)の岩とほこりを回収しました。ミッションの背後にあるチームはまた、サンプルの分析で有利なスタートを切り、豊富炭素と水の分子発見しました。科学者たちは、生命構成要素がこれらの古代宇宙岩に乗って宇宙ヒッチハイクするという理論を支持するため、小惑星サンプルに埋め込まれ有機物証拠を見つけることを望んでいました。

OSIRIS-RExミッション2016年9月打ち上げられ、2018年12月小惑星ベンヌに到達した。2年近くの観測の後、宇宙船はベンヌに着陸し、2020年10月に表面からサンプルをつかんだ。OSIRIS-REx9月24日にユタ砂漠小惑星サンプルを降ろした。

ミッション最近(うまくいけば一時的な)障害に見舞われたかもしれませんが、小惑星サンプルからの初期の発見は非常に有望であることが証明されているので、うまくいけば、宇宙岩の残りの部分はすぐにそのキャニスターから抜け出すことができます

https://gizmodo.com/nasa-struggling-open-asteroid-sample-container-1850951047

日本版

NASA宇宙から持ち帰ったサンプル入り箱のフタが開かない

宇宙探査機オサイレスレックスが、小惑星ベンヌサンプルを回収。サンプル入りカプセル地球に投下したのが9月カプセルは無事回収され、その画像も公開されていました。すべて順調と思われていたミッションですが…。

なんと開かないんですって、カプセルのフタが。

くっ、開かない!

打ち上げも飛行もサンプル採取カプセル回収もうまくいったのに、開きません。カプセルのフタが開きません。中には、大事なだいじな小惑星サンプルが入っているというのに!

NASAブログによれば、カプセル開封のため試行錯誤はしてみたものの、フタの留め具35個のうち2つがどうしても取り外せないそう。

地球サンプルなので、力自慢がこじ開けたり、包丁の背でガンガン叩いたり、絶対開くと評判のシリコンのシートを使うわけにはいかないようです。ジャムのフタとは違います

地球サンプルだけに制限多すぎ

オサイレスレックスカプセルミッションにおいて使用許可されたツールでは、どうにもこうにも開きません。今後、大事サンプルと周辺への安全確認しながら、新たな開封方法を探るとのことですが。

が、この新たな開封方法カプセル内部の素材の取り出し方法)は、開封ミッションが行なわれているグローブボックス内でできる方法じゃないとダメ採取サンプルの科学安全性も保証されないとダメそもそも研究室クリーンルーム基準も満たしていないとダメ

さて、どうしましょう。

https://www.gizmodo.jp/2023/10/nasa-struggling-open-asteroid-sample-container-jpn.html



こうして比べるとざっくり要約+ほぼ個人の感想みたいなオリジナル記事になっていると分かる。

お堅い科学ニュースでも笑えるストーリーに仕立てて太字強調や「!」マークで装飾すれば人気記事を作れる。

勉強になるなあ。

2023-10-10

anond:20231006185908

倉敷大原美術館はすごかった。尖りまくったセンスがビンビンにあるキュレーターが公の金に紐ついてないパトロンの金で好き勝手にやり、新鮮で今俺がいいと思う物を買うってのをやりまくった結果後世の人間の度肝を抜くハイレベルコレクションが出来上がってしまうことがあるんだと初めて知ったし、公の金では絶対にできない所業なんだろうなーと思っておもしろかった

2023-09-04

anond:20230904112650

pack……パック

pinch……ピンチ

curator……キュレーター

gender……ジェンダー

socks……ソックス

いうほどか?

2023-09-01

怒れるフェミニスト観察日記

https://twitter.com/dokinbi/status/1695632225549865351?t=gDZaNRHPzigAaQa2N0cQow&s=19

北海道近代美術館

「揺さぶる絵ー変貌する日本画イメージ」展(9/16-11/12)出品作紹介④

フェイスパックの裏側に現れたのは真実の顔か、それとも…。機知皮肉古典絵画へのオマージュが複雑に絡み合あう画面の解読は、さながら知的ゲームのようです。

田中武《裏側(十六恥漢図シリーズ)》豊橋市美術博物館

フェミニストの反応

うちの娘が通ってた画塾の先生が、女の子日本美大芸術系大学行かずに海外行った方がいいと言っていた理由が、よくわかる。日本女性蔑視搾取されないためだ。


田中武氏が恥漢図で描いた「食欲、色欲金銭欲などの煩悩欲望を露わにした現代人」、全員女性

artid.jp/tanaka_works_c…

あいちトリエンナーレで、アーティストキュレータージェンダー平等を目指したのは、このような女性蔑視を「知的ゲーム」などと礼賛しないようにだと思います


北海道近代美術館に苦情のメールを送りました。メールを見ないと、美術館の人も、先進的だと思いあがっている自分たちガラパゴス業界感性が、実は市民感覚より劣っているということがわからないと思う。本来は、彼らが社会の発展をリードするべき存在なのですが、


インセルAIに描かせた絵かと思った

ミソジニー原動力にこんなん16枚も描くとか女への執着やばすぎ、作者は危険人物としてマークした方がいい


安定の九州ミソジニー男…

作者は福岡まれで在住だって、やっぱりね!

九州男児から見た女性の姿」展に変えると良さそう

2023-08-06

anond:20230806152814

アメリカ著作権法のちがいにより

図書館電子書籍を貸し出しできる

個人自分が買った電子書籍を日数をきめて友人・家族に貸し出しすることができる

なお日本はできません。

このシステムの整備や改善やってるのがアメリカ司書だとしたら?

そう、専門性妥当性はある

日本司書は和綴じや和紙による補修というわりと美術品あつかい司書やらせてる

絵にしろ彫刻しろ日本刀だの戦艦しろ日本で「美術品」「博物館収蔵品」になるってのはすなわち国しか金を出さない死蔵品に棚上げされました、だーれも興味をもってません、という意味なんだよね

ゲームで再発見してようやく注目が得られる

じゃあ日本にもいるはずの本来キュレーターはなにをやってるの

そう、ゲームをつくっているのです

今日も何十万人の人が孔明やオジマンディアスをフレンドから借りて周回してる

これがキュレーター仕事です

2023-07-12

山下達郎切断処理したファンの話

まず山下達郎ファンは大きく二極化しているんよな。

一つはオールディーズ(戦後1980年頃まで)音楽の深い造詣とそれに裏打ちされた初期の作品ファン

いわゆるオールディーズ音楽マニア人達

(ちなみにシティポップとして巷でよく聴かれる作品は初期に集中している)

オールディーズキュレーターとしての達郎に全幅の信頼を置いている。

ただ中期以後の達郎のサウンドは好みでないため、新譜ほとんど聴かない。

当然ジャニーズ提供楽曲基本的に興味ない。むしろジャニーズ苦手。

こんな調子からいちいち細かいことにうるさい、面倒な客でもある。

もう一つは狭義のファン(信者)。

毎年「クリスマスイブなんちゃらエディション」が出る度に買うような、達郎にとっての太客。

サウンド云々は特に拘らず、直近の作品まで全部買って聴く

多分今回達郎氏が「私の音楽必要としていない人達」として切断処理し、これに「がっかり」と声を上げている「ファン」は前者が多いのでは?

忠誠心は低いか最近の達郎は聴かないけど、「歌謡」の殻を破って洗練されたものを作ったかつての実績からダサいことはしないというブランドイメージ(これが多分パブリックイメージでもある)は今でもうっすらあって、そのブランドイメージが壊れ、更に自分らはファンでないと切断処理されて動揺しているのだと思う。

ただこれは達郎および狭義のファンからしたら「課金もしないでこんな時だけファン名乗ってんじゃねぇ」となる。

達郎にしても、切断処理することで相対的信者優遇できる。課金もしないでケチばかりつけてくる面倒くさい客もどきよりは、文句わず課金してくれる有難い信者をより優遇するのは至極当然であるし、気をよくした信者も益々推し活に励むことになる。

これだけ聞くと、いわゆる「マニアジャンルを潰す」的なもの想像する人も多いかもしれないが、達郎の場合古参マニア」と綺麗に分類できないところが興味深い。

というのも、達郎の信者の多くが古参からである

それもそのはず、達郎は基本的にサブスク反対であり、必然的顧客層はCDプレイヤーLPプレイヤーを持っているような年配者となる。たまにいる1020代ファンは両親が古参という場合も多いし、たまたまYouTubeで知って聴き始めた若者そもそもCDプレイヤーLPプレイヤーを持っていないので狭義のファンにはならない。またYouTubeでリコメンドされる達郎曲はそもそも初期中心なので、最近の曲まで辿り着かない。

なのでごちゃごちゃ文句言う層はむしろライト層であり、信者はむしろちゃごちゃ言う人がふるい落とされて残った後の純度の高い古参なのだ

そして達郎は元からお金落とさな自称ファン新規さんは元々相手にしておらず、今回のことも自分矛盾咎めず鷹揚にお金を出してくれる信者以外は客じゃないという、従来の姿勢再確認しただけなのだ

サブスク時代は誰もが潜在的顧客なので、そもそも客の定義が達郎と世間とで異なっている。

別にアーティストが客を選ぶのは自由だけど、自分らを客だと思っていた世間は客じゃないと拒絶されたら驚くよね。

達郎自身が自他共に認める相当面倒臭い(よく言えばこだわりの職人気質)人だけど、昔はむしろ面倒臭い客を歓迎すらしていた。

からその時代を知る人ほど今回の切断処理に驚いているのだと思う。

よく今回のことは職人気質が出たせいと擁護されるが、むしろ職人ゆえの緻密さが失われた結果だと思う。

こんな雑になったのはメンターでもあった大滝詠一氏の死の影響が大きいのではないか

面倒臭い達郎に輪をかけて面倒臭い話を振ってくる人がいなくなり、周りはイエスマンしかいない状況だと、思考や振る舞いが雑になるのは仕方ない。

あとは歳だよね。70だもの

から切断処理された俺たちは達郎はジャニーズの人になったのだと諦めて、タッキーのTOBEでも応援しようぜ。

正直音楽的にはこっちの方が期待できる。

anond:20230710020252

2023-06-10

過激でも水着撮影児童ポルノではない】今度から表現不自由展は潰しまくっていい

そんな構成要件はない

okumuraosaka

@okumuraosaka

水着児童ポルノ説 ホントにそう理解してるのか

引用ツイート

山口貴士 aka無駄に感じが悪いヤマベン

@otakulawyer

22時間

あいちトリエンナーレ2019の「表現不自由展・その後」の5人いる実行委員キュレーター)のひとりだった人がこんなこと言っていることにびっくり。この人の表現の自由=サヨク表現の自由なんだな。 twitter.com/arai_hiroyuki/…

午後6:27 · 2023年6月9日

https://twitter.com/okumuraosaka/status/1667101051068239873?s=20

正体がバレバレ

山口貴士 aka無駄に感じが悪いヤマベン

@otakulawyer

あいちトリエンナーレ2019の「表現不自由展・その後」の5人いる実行委員キュレーター)のひとりだった人がこんなこと言っていることにびっくり。この人の表現の自由=サヨク表現の自由なんだな。

引用ツイート

アライ=ヒロユキ ARAI Hiroyuki

@arai_hiroyuki

6月9日

埼玉県しらこばと水上公園で開催予定の近代麻雀水着祭が紛糾している。女子中学生の出演の是非が問われているため。未成年水着撮影会性的搾取典型例で、高校生であっても児童ポルノ禁止法に抵触する。

午後5:58 · 2023年6月9日

英田朋(゚Д゚)@23春甲乙乙甲乙乙 3-m-1-pf-vaccinated .exe

@ZQ8HcnJ2sfK8t5x

·

21時間

今後あいちトリエンナーレに開催許可を与えずあいちリカエナハーレのみに開催許可を与え続ける事にしよう(゚∀゚)←

ヘラクレス妄言

@poirot_mustache

21時間

実行委員なら圧力に屈して制限した側なので

間違ってないのでは?

mazavozi

@mazavozi

17時間

表現不自由展そのものは、左右関係なくタブー無しというコンセプトとしては賛成なのだが…

表現の自由!と叫ぶ同じ口で、表現規制する。こういう奴らには反吐が出る💢

見物の念仏

@nenbtunotetsu

15時間

>表現の自由=サヨク表現の自由

ホントにそうで、この方、「表現不自由展」が中止になった際の記者会見で、展示内容について「日本の歴史政治体制における負の問題主題とした検閲作品が多くを占めます日本社会での検閲は、ほとんどがこのモチーフ問題から起きます」と言ってました。

https://twitter.com/otakulawyer/status/1667093715599659009?s=20

2023-06-04

岸辺露伴、カネ返せーーー!!!

映画岸辺露伴ルーブルへ行く。

すっごく楽しみにしていたんですよ。レビューも良いし。それがもう退屈でイライラして途中で帰りたくてしょうがなかった。疲れた。。。本当にこれを撮りたかったのだろうか?

荒木先生脚本タッチしているんだろうか?

テレビで見たときは、原作の難解さが映像でうまく解釈されて見ながら夢中になれた。しか映画はなんだか間延びして薄められたスープみたいだ。

ミロのヴィーナスに顔をつけたみたいな?

すばらしい芸術に付け足された思いつきが合わなすぎる。

(以下、ネタバレありです)




80年代風のポップで強い女性が、静かに病んだ女性に変えられている。マンガ原稿伊藤潤二風。ピンクダークと合わないよ!

岸辺露伴のお婆さんがキリっとした印象から、食べ方が汚い気持ち悪いキャラに。

回想シーンが長すぎる。じっとりねっとりエロさを引き出す。昔のVシネみたいだ。眠くてしょうがない。

泉京香のカワイイ暴力も丸くなっている。露伴先生も単なる俺様男になっている。狂気が足りない。

ルーブルにわざわざ日本人キュレーターがいて日本アゲする意味がわからない。ありがちな事に女性役回りが低く男性は高くシナリオが改変されている。

地下の忘れられた倉庫インパクト薄っぺらい。セットがちゃちい。

そして黒の絵。完全に伊藤潤二じゃないか岸辺露伴を見に来たのに!

昔話、このストーリー動機もじっとり系に改変されている。

どうしてこうなった?全体的にどこもかしこも改変されて別物じゃないか

ドラマで感じられた濃密さ、作品への愛が感じられない。

役者さん、ひとつひとつのセット、日本旅館、そういうもの素敵だなと思うんだよ。

いや、岸辺露伴に期待している、エキセントリックキチガイパーティーが見られなかったのが残念なんだ。そういうのが見たいんだ。くしゃがらの驚きの気持ち悪さ、マナー神の薄気味悪さ、、、狂気を味わいたかったんだ。

なのになんだこの、フラストレーションは。久しぶりにカネ返せって思ったよ。

2023-06-01

世の中には「オリジナルコンテンツを作るコンテンツクリエイター」と「既存情報をまとめて紹介するキュレーター的な役割の人」がいる

後者は単にまとめるだけが仕事なので基本誰でも出来るし、オリジナリティがあまりない

差がつくのはまとめかたのわかりやすさや面白さ、いち早く新しい情報に飛びつけるかどうか、等々

情報自体は誰でもアクセスできるのでネタの奪い合いになる

滝沢ガレソみたいなのはこういうタイプ

とはいえ前者のほうがオリジナリティが高いかと言えば必ずしもそうではなくて

全く新しいものを作るなんてことはそうそうできないので、大体みんなネタを奪い合ってそこにちょっと手を加えてオリジナリティを出してるだけ

キュレーターとは違ってオリジナリティありきの人たちなので、パクるとすごい叩かれる

そして両者に共通するのが走り続けなければならないということ

消費者というのはとてつもなく冷酷で、少しでも活動が滞るとすぐにそっぽを向いてどこかに行ってしま

要するに変わりはどこにでもいるのである

結局どちらも虚しい

2023-05-07

anond:20230507131516

インターネットで「キュレーションサービス必要性認識されていて、

いろいろ立ち上がったと思うけど、なんで決定打に欠けるんだろうな、と不思議だったけど、

そもそも無料アクセスできる質の低い情報いくらキュレーションしてもダメ。ガベージインガベージアウト

能力の高いキュレーターは、そもそもそんな安い謝礼で名前貸の仕事しない。

・金で買われたレビューや、アフィまとめサイトみたいなサクラビジネス蔓延しすぎて

キュレーション口コミ自体が低品質で信用できない

といったところで無料ゴミチラシの山にみんな埋もれてしまっている状態だね。

2023-05-02

anond:20230501005512

google RSSリーダーが無くなったのが痛かった

デスクトップpcだけじゃなくスマホでも使ってたし、結局代替になったのが誰か他のキュレーターが探してきたニュースフィードを読むようなサービスで、RSSの方が好きなニュースも嫌いなニュースも選べてずっと良かったなって今でも思ってる

2023-03-23

anond:20230323112134

レビュワー価値が上がる

評価レビューAIが量産

レビュワー価値が下がる(情報の真贋の判定が不可能になる)

顔出しなど信頼性の高いレビュワーキュレーター価値が上がる

有名キュレーターによるステマが横行

 

ここまで見えた

2023-03-19

anond:20230315183353

タイトルを見て、もしかしたら何かしらみんなの死角に入りがちな指摘が含まれているのかな? どうせよくある言葉遊びの難癖でしかいかな?

と思って開いたらやっぱりよくある言葉遊びの難癖だった。

最近、多くの人と同じようにチャットボット自然言語処理AI技術が近い将来においてなにものであり得るかということを考えている。

まずは乳母である永遠にアホをあやしてくれる。

そして「肩の上のオウム」だ。ディスコミュニケーションを糊塗してくれる。

そして今思ったのが、秘書オウムの延長線上の「執事である

時間使って読むほどの価値がない文章コンテンツを主人の目に触れる前に握り潰してくれるフィルター。あるいは主人の気に入りそうなものだけ選んで持ってくるキュレーター

たぶんAI的には朝飯前っていうかごく基本的な利用法と言えるだろう。ありがちすぎるものや突飛すぎるものを弾くとか、タイトルで気を持たせないよう内容に即してリネームするとか、面白さの期待値の目安で星をつけておいてくれるとかいうのは。


ネット上のコミュニティというか人の輪は焼き畑移動を繰り返してきた。

賑わいがないと面白いことは起きない。でも賑わいはいずれ「バカほど退出しない」原則に基づいて腐海と化す。

もうクズモブの群れを泳いで面白ものを探さなくてもよくなるのかもしれない。

また、ふつうの人びとのリアクションを得るためには大量のクズモブに群がられることに耐えなければならないという変な苦行もいらなくなるだろう。

インターネットリアルで誰にも相手にされないクソリプマン下駄を履かせてきた。そのボーナス期間が終わる。

■便利な道具は環境自体作用する。しかも個々の環境に。山中の老親と都会の息子を別世界の住人に。

単語に反応する人間レベルが誰の目にも歴然となる

2023-03-07

anond:20230307173148

こんな愚かな人はいないと思うが、

もし仮に万が一、自分たちジャニーズタレントを愛でることが「性的消費」だと思っていない人がいたとしたら問題だわな。

その性的消費は、少年への性的虐待を孕んだキュレーターによって供給されていたという自覚がなかったりしたらね。

普通自覚してて、だからこそファン告発者を叩くんだろうけど(自身の後ろめたさから)。

2023-01-20

沖縄コラボを支持する夢アノン

宮原ジェフリーいちろう🍠

@ichiro_jeffrey

39歳キュレーターライター。たまに船乗り日比ハーフさつまいもが好き。3ヶ月に1度、雑誌月刊ART collectors'」に展覧会レビュー寄稿してるよ。著書『沖縄泡沫候補バトルロイヤル』(ボーダーインク沖縄タイムス+プラス #エキスパートEye コメンテーター #海邦2階派

ジャーナリスト代代木(dài dài mù)jeffrey.tokyo

009年11月からTwitterを利用しています

2,322 フォロー

3,860 フォロワー

宮原ジェフリーいちろう🍠

@ichiro_jeffrey

ひろゆき」とか「NHK党」とか「暇空茜」とか、挙句は「煉獄コロアキ」みたいな存在をまともに取り上げて向き合わなければならない時代の不幸。

午後6:41 · 2023年1月19日

<<

https://twitter.com/ichiro_jeffrey/status/1616008037445300224

言いたいことははっきり書こうよ。

2023-01-07

新聞の末路

毎日新聞記者の、コラボネタは報じる価値が低いということでマスコミ各社一致している、SNSは偏っているという旨の発言に触れて思ったこと。

「紙の新聞の余命は15年」との観測記事とあわせて眺めるに、たいへん趣深い。

https://togetter.com/li/2036314

https://news.yahoo.co.jp/byline/kamematsutaro/20230101-00330946

ここからは本当の末期だというわかりやすメルクマールだ。闘病中と聞いていた知人がガリガリの別人みたいな相貌に変わっていたらいよいよかと思う、そんな感じ。

そもそも緘口令が出ているかのように黙殺したり、年はじめで各社一斉に同工のフォーマットで報じるその一糸乱れぬ斉一ぶりは異様だ。そういうのが当たり前になっていること自体が。

もっとコラボの悪行を報じろよとか暇空氏にも味方してやれよとかいう話ではない。

まらない私闘にすぎないとかよくあることだとか言うなら、そのつまらないことがかくも多くの人間の関心を集めているということ自体が常には無い変事だろう。取り上げる切り口なんていくらでもあり得る。ネットでいま〇〇が話題だそうです式のお手軽ヤドリギ記事は大好きだったはずだ。

ひたすら「特落ち」を恐れ、また「抜け駆け」はせず、まるでお役所みたいに決めごとで動くジャーナリズム。どうかしてるぜ。という指摘はかつて上杉隆らが行った。その後の体たらくは誰もが知る通りだが。

有限な紙幅にニュースバリューの高い順に取り上げられてるだけで他意はないと言えばもっともらしいが、滑稽なまでに「一糸乱れぬ」動きの言い訳にはなっていない。

そもそも情報の重大性」と「紙面への取り上げやすさ」は全く別である

例えば紛争地域リアルタイムでの実情などは、重大さは最大級であり、一次情報の取得コストも大きい。つまり取り上げやすさは最小。

一方「小学生田植え体験しました」みたいないわゆるヒマネタは、誰一人関心はないが業務上極めて扱いやすい「定型文の穴埋めで作れる記事」であり「予め予定が立つニュースである重要度ほぼゼロ、取り上げやすMAX

お上プレスリリースと違い、スペースの都合で没にするのも自在

大都市圏居住者は、あるいは実際には見たことがないかも知れない。地方紙社会面地方局夕方ニュースにおいて、田植え体験高校生SDGsの取り組みの模様が永遠に垂れ流されるのを。ニュースバリューとは。

知られた話だが、新聞社は調査報道機関ではない。納品された情報を整理して受け流す、聞こえよく言えばキュレーターである

形の揃った野菜を出荷するみたいに「いつもの定番ネタ」は業務ルーティンにするっと乗りやすい。

まだ世評・解釈の定まっていない新奇な話、いびつキュウリははじかれやすい。ニュースバリューとは。

しかしそういう型にはまった本邦マスコミ報道のありかたはひとえに害でしかなかったのかと言えば、そんなこともない。主な利点はスタビリティということにある。おつむの軽い「熱血記者」は悪いやつらにうまく利用されるのが関の山だ。世間大新聞の腰の重さをむしろ信頼してきた。

そもそも良い報道とは? ジャーナリズムとは本来どうあるべきか? といった問いにみんなが納得する答えはあるか。ジャーナリズムが共有すべき、一番ベーシック価値とは何か。

権力監視すること」とか言ったって国家権力ばかりが権力じゃない。

事実ありのままに」とか「客観的に、公平公正に」みたいなことは実現不能だ。

実現不能お題目を掲げることは建前と実態乖離常態化させ固定してしまう。

そもそも電波法に縛られるTV局は別として、新聞社に中立義務はない。

思うにやっぱり「果敢さ」しかねぇんじゃねぇの? なんとか月衣塑子みたいな薄っぺらい熱血妄動に陥らないようバランスを取りつつの

こんにち新聞相手にされなくなる一方で、文春のスキャンダリズム一定の信頼を得ているのを見よ。

政権与党ガツガツ果敢に切り込む新聞があったり、むしろ野党ガンガン行く社があったり、それぞれの角度から検証可能な形で情報提供する。

それらが合わさりデコボコを埋め合って、民主主義社会のいわば媒質であるところの公論の場ができる。

そもそもマスコミ存在目的とはその社会に生きる人々の共有する「場」を提供することなのだ。一億人が同じ情報に容易に触れ得るということによって。情報の水の中に個人は油滴のように浮かんでいるのだ。

オールドメディアネットにお株を奪われたのは、速報性とか取材力かいうことではなく、その「共通の場を提供する機能である。つまり本質の部分。

マスメディア全盛の時代にも、それ以外の情報伝達経路、例えば万古よりの「噂話」が命脈を失ないはしなかった。

でも文字通りマスに同時に届けられるという点で、すなわち前述の「場を作る機能」において、新聞TV会社特権的立ち位置にあった。

今はそういう時代ではない。

それなのに「なんだかんだ言ってもぼくらプロ新聞記者取材力、信用にはSNSなんかはまだまだ太刀打ちできないでしょ」とふんぞり返る記者様の図。まさに悲喜劇

王国が滅びようとしてる現実に向き合えない落日のお貴族様の姿だよ。

追記

「そんなに新聞様に取り上げてほしかったらしかじかの体裁をとれ」というコメントが付いている。

から暇空のこともっと取り上げて欲しいという話はしてないんだけどな。

「取り上げてやるかどうかの基準はこうだ」と硬直的な決め事を振りかざすのは、換言すれば咀嚼力のなさを自慢するひ弱なお公家さん仕草であり、マスコミ生命力低下のあらわれであると言っている

監査結果が出てお上お墨付きが出る前に報道で触れるべきではないとか、自分が何言ってるかわかってるのか

2022-12-16

パパ活アプリで実父に買われる悲劇

笠井美樹(仮名20歳)は、関東地方美大に通う現役大学生だ。

専攻は西洋美術史で、将来は学芸員ギャラリーキュレーターを目指している。

美樹の両親は、5年前に離婚をした。

父の浮気が原因だったため、離婚から数年は養育費が振り込まれていたのだが、

高校2年生の秋頃に、それまであった振り込みがピタリと止まった。

大学学費は非常に高く、また学芸員を目指すコース海外での美術研修材料費などの出費も多いため、

普通バイトでは学業との両立が難しい。

このため、美樹はパパ活生計を立てる道を選んだ。

ある日、いつもと同じようにパパ活アプリを開くと、一人の男性からメッセージが入っていた。

「泊まり10万円、半日場合は5万円払う」という内容だった。

決して高くはないが、安すぎる訳でもない。

順当な価格だったため、怪しむこともせずに美樹はすぐに、アプリから承諾の返信をした。

美樹は男性から指定されたカフェで、相手が来るのを待った。

約束時間から5分ほど過ぎた頃、カフェ入り口が開き、一人の男性が店に入ってきた。

美樹は、男性の正体を確かめるべく、相手の顔を凝視した。

美樹は驚きのあまり、全身の血の気が引いていくのがわかったという。

相手男性も、美樹を見て全身をこわばらせて絶句している。

待ち合わせの場所に現れたのは、5年前に家を出ていった実父、賢治(仮名・51歳)だった。

美樹が実父に会ったのは、母との離婚以来だった。

父は浮気相手再婚をし、2人の子供がいるという話を母から聞いていた。

父は大手企業で、それなりの役職に就いている。

このため「父親さえいれば、母も私も普通暮らしができたはずだ」と、悲しく惨めな気持ちで日々、父のことを恨んで生きてきた。

一生会わないだろうと思っていた父と、こんな形で再会するなんて。

美樹は震えを抑えきれず、大粒の涙がポタポタと、カフェテーブルに落ちた。

https://forzastyle.com/articles/-/65987

2022-11-07

anond:20221107141344

Twitterでは、キュレーションの正確性、公平性、公正性について、高い基準を維持することを目指しています

 

モーメントでは、さまざまな内容の魅力的なオリジナルコンテンツを取り上げます。モーメントに掲載するツイート動画の選定では、内容や画像/動画に加え、投稿者プロフィール画像ユーザー名も検討対象となります

 

公平性: 議論を呼びそうな話題に関するツイートを選定する際には、データに基づいて決定を行い、すでにTwitterで大きな反応を呼んでいるツイートを見つけます。公の議論に関するトピック場合可能な限り多様な視点提示するように務めますキュレーターは、Twitterでのありのままの会話を客観的に映し出すことを目指し、公平性を期すためのトレーニング継続的に受けています

 

正確性: キュレーション目的は、正確な情報提示する質の高いツイートを紹介することにありますキュレーションチームは、ソーシャルメディア検証方法に関して定期的にトレーニングを受けています。また、ほとんどのモーメントは、レビュープロセスを経てから取り上げられます

 

誤情報の訂正: 万が一、取り上げた情報が誤りだったことが判明した場合には、モーメントに目に見える形で訂正を加え、その旨をツイートで発表します。ただし、稀に当該モーメントを削除し、関連する国のTwitterアカウントを使用して、誤情報撤回する旨をツイートする場合があります

 

基準: ニュース性の高い会話を紹介するために必要場合を除いて、冒涜暴力、裸体など、センシティブであるとみなされるコンテンツは選定の対象から外されます。また違法行為描写したり、助長したりするようなコンテンツ採用しません。センシティブであると受け取られる可能性のあるコンテンツがモーメントに含まれ場合、警告を表示します。

 

確認したけど、これをそう捉えるのはかなり難癖のような

 

そもそもハフポストバズフィードが多いか問題だと言われても、同程度に質の高い右派メディアそもそも存在しないのだから偏るのは仕方ないのでは

ネットギーク保守速報、Dappi、月刊Hanadaの記事キュレーションされるべきというなら、そう主張してほしい

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん