はてなキーワード: キュレーターとは
なんか投資関係の記事がバズっているので、暗号資産クラスタについてぶっこんでいく。(この記事はfinancial adviceではありません)
日本ではまだ怪しい投機扱いされている暗号資産だが、アメリカでは既存金融にすでに取り込まれている。
仮にこの記事にブコメがついたとしたら、やっぱり投機投機書かれるだろう。そういう人はこの記事の対象ではないし、すでに三周は遅いので無視して良い。
さて、暗号資産というやつは、実はナスダックとの相関性がかなり高いことがわかっている。ので、投資すべきタイミングは米株と同じ考え方で良い。
レバレッジナスダック(いわゆるレバナス)は一度下がってしまうと、元の価格に戻ってきても評価額は減価してしまうが、暗号資産は元の価格に戻ってくる動きをしやすい。
身も蓋もないが、レバナスよりマシな商品と考えればあまり外れていない。
ので、もし現状のマクロ経済状態では米株投資すべきでないと考えるのなら、今は暗号資産投資をすべきではないし、逆に投資しても良いと考えるのなら検討しても良いだろう。
これ以外の暗号資産にお金を入れてはいけない。お兄さんとの約束だぞ。
慣れてる人はスマコン系の代替L1通貨とか、ORU/zkRUのL2系通貨にお金を入れてもまあ良いと思う。ただ、これは自分で一次情報を取れて、かつ本当に詳しいと自認できる人だけにしたほうが良い。
情報を追いたいのならumbrelやLNを追っかけているビットコイナー、またはMergeやDA、Shanghaiを追っかけてるイーサリアンをフォローしておこう。
ただしtoxicなビットコイナーはやめとけ。心が汚れる。あと「ビットコインも環境問題でPOSに…」とか言ってるイーサリアンもやめとけ。心が汚れる。
詳しくなった人はsolana/avax/cosmos(atom)などの代替チェーン情報を発信している人をフォローしても良い。ただし火傷に気をつけろ。
stepnとかiost, xym, xrp, 魔界アルトなんかの情報を追っかけてる人、あなたは向いてない。いますぐ暗号資産投資をやめろ。金を失う最短ルートを走っている。もう一度チャートを見直して冷静になれ。
aptosやsuiが天下を取る…と中身を理解しないまま思ってる人も情報の取り方を再考したほうが良い。あなたは賢いように見えて、大口投資家の出口だ。
NFTは消費として買っても良いと思えるものを買え。これはそういう業界だ。
投資としてNFTを扱いたいのなら、細心の注意を払って行え。今の市況では、難易度が高すぎる。キュレーターより厳しい世界だ。
情報をフォローしたいのなら、XCOPYやNOUNSに言及している人にしておけ。
WBTCはおすすめしない。カウンターパーティーリスクがある。
ETHは、PriorityFeeやMEVが貰えるようになるので多少利率が高まる。
課税イベントは起こさないほうが将来的な利益は高いだろう。なのでガチャガチャしないことをオススメする。
この記事の言っていることが正しいかどうかは、界隈のこの記事に対する反応を参考にすること。
ウィッシュリストがある程度あると、その中から辿れる「類似品」の幅が膨らんで好みのタイトルに出会える相乗効果が出るよね。
個人的にはウィッシュリストを増やす初手としてキュレーターがもっと活用されれば良いのにと思ってる。
https://store.steampowered.com/curator/6862052-Simulation-Management/
ただこの時、幅を広げたいならゲームジャンルよりもフレーバーやフェチで絞った方が意外な出会いがあって面白い。
マイナーで供給不足な要素だと発掘隊の必死さが違うしね(偏見)
https://store.steampowered.com/curator/24223269-Anthro-Furry-Tag/
『Pine』なんかはかなり好みのタイトルだったけれど、ここ経由でなけれなオープワールドの大型タイトルの影に隠れて見つけられなかったと思う。
原文
https://lb.ua/culture/2022/03/18/509953_cancel_russia_yak_instrument.html
ヴォロディミール・シェイコはウクライナ研究所(日本の国際交流基金にあたる)の長で、ウクライナの文化外交の責任者。訳者の感想は最後に。
ロシアの侵略開始からわずか数日後、ウクライナの文化関係者および団体は、国際社会に対してロシアに対する「文化的制裁」を実行し、プーチン政権やロシア資本から直接的・間接的に支援されている人物・団体に対する協力の停止を呼びかけるアピールを出した。
ウクライナ研究所は、国内・海外のパートナー団体や専門家のネットワークの代表500人以上に対してアピールを送って拡散することを依頼し、それとは別に欧米の学術団体や大学に対しても書簡を送ってみた。この「文化的制裁」に対する公開書簡には3800人以上のジャーナリスト・人権活動家・教育関係者・文化人たちが署名していて、在外のウクライナ人たちも同様のアピールを拡散している。
ウクライナの主張に反論することはできないだろう―――ロシアによって仕掛けられた戦争は、明らかに国際法に違反しており、罪のない人々を数千人も理由なく殺害し、歴史的建造物を意図的に破壊しているのだから。この状況で侵略者と文化的に協力することは戦争犯罪を正当化することであり、ロシアによる印象操作のために新たな場所を提供することに他ならない。ウクライナ研究所は声明の中で、ロシアが数十年もの期間にわたって文化を政治的プロパガンダの手段として利用して国際的評価を高めることで、世界の注目を他国への戦争犯罪から逸らしたり、人文学において帝国と植民地のヒエラルキー体制を確立してきたことを指弾した。このロシアの行為に高名な学者、キュレーター、美術史家、財団理事、美術館、フェスティバル、フィルハーモニーたちは加担してきた。彼らは2014年以降もロシアの政府機関に進んで協力してカネの出所を無視して見なかったことにしてきたし、そんなロシアの芸術的プロジェクトを通じて広められた有害で非科学的な主張に対して反論することもなかった。その象徴的な事例が、ニューヨークのMoMA、ロンドンの王立芸術院、パリのグラン・パレで十月革命百周年の2017年に開かれた「ロシア芸術」の豪奢な展覧会だろう。ロシアから「最恵国待遇」を受けてコレクションを借り出したキュレーターたちは、ロシアがウクライナその他の国の芸術を盗み出してきたことを見なかったことにしたし、その全体主義的な芸術を無批判に美化することを止めようとしなかった。
ウクライナに爆弾が落ちた2022年2月24日、「素晴らしいヒューマニズムのロシア芸術」というメタファーはようやく消し飛んだ。それでも、文化をプーチンの政治や戦争責任と切り離して考えることができるという信じている数百万の海外の人々にとって、トルストイ、ドストエフスキー、ショスタコーヴィチあるいは「ロシア・アヴァンギャルド」は心の中で生き続けているようだ。
全世界とウクライナとの連帯は過去に類を見ないほど広がっており、世界の文化界は言葉と行動によってウクライナに大きな支援を送っている。しかし「ロシアに対するキャンセルカルチャー」に対して西側が示した反応は、ウクライナの文化外交に課題を投げかけた。
メトロポリタン歌劇場、カーネギーホール、バイエルン歌劇場などの多くの団体は、指揮者であるゲルギエフや歌手のネトレプコとの契約を打ち切って、ロシアのアーティストと協力しないことを公表した。カンヌ映画祭はロシアの代表団と政府関係者の参加を拒否した。それとは裏腹に、ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスはウクライナの戦争を「人道危機」とした上、ロシアについては何も言及しないという恥さらしの声明を発表した。私たちがコンタクトを取った人々の多くは、ウクライナの難民を支援することを口約束する程度で、ロシアとの協力を停止する呼びかけには大した反応を見せなかった。思っていた通り、ポーランドとリトアニアの団体が最も毅然とした態度をとって、ドイツペンクラブは「真の敵はプーシキンではなくプーチンだ」という声明を出し、フランス人たちは沈黙した。
そして、西側の文化学術団体はウクライナとロシアの「和解」や「異文化交流」を推進する事業を始めたようだ。注目すべきは、彼らがどうやら戦争が始まって4週間でのウクライナにとっての「和解」の必要性への無関心だろう。ロシア人を「プーチン政権の犠牲者」と位置付けることで、戦争の犠牲者となっているウクライナ人と同じ「犠牲者」として等しくとして扱うような形で、ウクライナ人、ロシア人、ベラルーシ人を一緒くたにした沢山の事業が始まった。
こうして、23年もの長期にわたってプーチン政権が継続してきたことや、ウクライナでの起きている戦争や、ロシア社会の政治的受動性、あるいは市民の抵抗が失敗し敗北してきたことにに対して全てのロシア人の責任をなかったことにしたいのだろう。他にも図々しい連中はいる。フリードマンとカーンというロシアのオリガルヒによって資金提供を受けたことにより度し難い妥協的施設となったバビ・ヤールのホロコースト・メモリアル・センターの芸術監督イリヤ・フルジャノフスキーはプーチンの犯罪と戦うことを要求する書簡に署名した。これがウクライナ世論の怒りに火をつけたことは言うまでもないが、逆にブリュッセル、ワシントン、ベルリンでは歓迎されたようだ。
これは偶然そうなったわけではない。西側はウクライナとロシアの関係を完全に誤解してるし、ウクライナには独自の文化もアイデンティティもない軽視すべき存在だという考え方を持っているのだから。よって、国際社会にはロシアによる戦争が新たな植民地主義であることや、ウクライナが脱植民地を目指して何世紀にもわたって独立運動を繰り広げてきたということを理解してもらう必要がある。ロシアの帝国主義とウクライナの独立は絶対に両立しない。ウクライナは武器で遊んでいるのではなく自らの独立をかけて戦っているのである。だからこそ、軍事だけではなく文化も同様に重要な最前線なのだ。
ウクライナがロシアへのボイコットを呼びかけていることへの見下した反応や、侵略者とその犠牲者を「和解」させようとする一際魅力的な欲望は、西側が持つ植民地主義的な考え方を強く反映している。この考え方の根底にあるのはロシアが中心でウクライナが辺境であるという先入観で作られた世界観だ。これは権威あるロシアの文化は周辺の人々の生死よりも重要なことで、ロシアの言うことは聞くべきだが、周辺の人々の言うことに価値はないという考え方だろう。そのようなパラダイムの解体なくして「和解」や「対話」もあるべきではない。
ロシアとの和解は遠い遠い未来に始まる―――まずはロシアがドンバスとクリミアを含むウクライナの領土から完全に撤退し、国際法廷で戦争犯罪が裁かれ、ウクライナに賠償金を支払わなければならない。プーチン政権は打倒しなければならないし、その後に生まれる民主的な政府、市民社会、メディアはウクライナへの犯罪を認めて謝罪しなければならない。そのようなロシア社会の自己批判と深い反省があって、ようやくその時になって始まるのである。
もちろん、こんなバラ色のシナリオが待ち受けていることは分かっているが、だからといってウクライナが今日にでも妥協しなければならないということでもない。ロシアとの「和解」を急ぐことは危険なことだ。それは旧来の考え方に基づいたロシアによるウクライナの再植民地化が開始されることを意味している。要するに、ウクライナを再び文化的辺境へと押し戻し、ロシアが「スラブ」「ポスト・ソビエト」「ユーラシア」の中心であり続けるということだ。世界はロシアの帝国主義や植民地主義の知識人とさらに深く和解することを望むだろう。そうすれば、ウクライナは自分たちの意見を反映した和解のあり方を作るチャンスを失ってしまう。
「戦後のロシアをどうするか」は、ポストコロニアル研究には重い宿題となる。ロシアは脱植民地化の苦痛という歴史を経験しなかった不幸なほど時代遅れの国だが、なぜかは分からないが西側はそのことをよく理解していないらしい。この戦争はそんな西側の目を覚ます機会となるだろう。新しい視点、コミュニケーションや共存の新しい在り方を作っていく機会なのだ。それは理論だけではなく、より重要なのは法的、経済的、人道的な政策として具体化されるべきで、ウクライナはその創造者の一人とならなければいけない。
これが現在のウクライナの文化外交が目指すべき到達点だ。これは長期的な目標になるだろう。ロシアとの戦争という状況下においての文化外交は、対話や和解を促進するべきではなく、ロシアの文化的・言語的な支配という脅威に対して抑止力として機能することで、私たちのアイデンティティを守らなければならない。
訳は下訳を作って機械翻訳とも照らし合わせて作りましたが、あいにく初学者なので文責は持ちません。
ウクライナ研究所はそのブリティッシュ・カウンシルに範をとった機関として2017年に設立されました。ヴォロディミール・シェイコはブリティッシュ・カウンシルで働いた経歴のある人物ですが、日本語wikipediaで所長として示されている指揮者の人とは同姓同名の別人です。
lb.uaはそこそこウクライナでは有名なニュースサイトで、元々は週刊誌のweb版です。
で、このコラムは前半はアリキタリで面白くないんですが、後半からの西側批判は面白い部分かなと思います。特に文化界にありがちな既存のヒエラルキーを温存した形の「和解」を強要しようという流れを戒めているわけですな。
最近流行りのネオナチ問題に絡んでウクライナの右翼問題に言及しておきますと。
途中のバビ・ヤールについてですが、このメモリアルセンターは地元ウクライナのユダヤ人たちによって反対運動が起きたほど国内では評判の悪い施設です。要するにロシアによる情報操作の一環として「ウクライナが反ユダヤ主義的な国であるかのような展示」をするのではないかと考えられていたようで、ウクライナの情報機関SBUが「その証拠は今のところ存在しない」という文書を出すに至り、センターがその御墨付をWebページに掲載しているほどです。フルジャノフスキーもセルフプロモーション目的のクズ扱いされてました。まあドンバスで内戦やらせてる奴の身内連中が集まってきて虐殺を記念するセンターを作ろうなんてグロテスクな話ですわな。
それと、元からウクライナのユダヤ人というのはロシアはもちろんのことイスラエルを中心とした西側のユダヤ人社会とも折り合いが悪く、この反対運動の先頭に立っていたYosyf Ziselsなんかは西側でネオナチ扱いされているほど評判が悪いようです。なぜかといえば、このYosyf Ziselsを始めとしたウクライナのユダヤ人というのはソ連時代に反体制派の経歴を持つことも多く、独立以降はウクライナ人意識が強烈だったりするんで、平気でWW2時代の「ナチス協力者」を擁護しちゃったりするんですな。まあ自分たちユダヤ人が建国した国という意味ではイスラエルに負けてへんぞ!みたいな意識があるんでしょうな。
なのでウクライナ右翼の金主の一人であるコロモイスキーがユダヤ系だったりするのは、それほどおかしなことではありません。
よってウクライナの極右というのは、西側のネオナチよりも、日本の「任侠右翼」と類似しています。靖国神社とか橿原神宮に集まってる右翼のお兄ちゃんが数年後に民団の役員やってるのとかと同じで、思想的背景にはほとんど意味ありません。欧米の学者やジャーナリストは「犯罪的組織の公然部門としての右翼団体」みたいなものが理解できないので頓珍漢な「サッカーフーリガン起源説」を唱えるのですが、そんなものにコロモイスキーが金主になるわけもないし、戦闘力が高い説明がつかないでしょう。要するに軍事的経験のある右翼のアニキが愚連隊を抱えて作ったお国のための組織という説明で日本人ならすぐ分かると思うのですが、これが西側の人には理解できないようです。
鈴木智彦さんがちょっと笑い話みたいな形で織田絆誠のPMC構想をウクライナと絡めて話していましたが、ウクライナの極右グループは実際にチェチェンやグルジアで得た戦闘経験を元に国家機関までのし上がったわけで、割と笑い話にもできません。まあ日本の暴力団と同じで、なんだかんだお上には絶対に逆らえない性質があるので、ナチスの紋章がどうだとかは暴走族が旭日旗振り回してるのと同じだし、奇妙な儀式とかやってるのはヤクザの盃事みたいなものだと思って受け流せばよいと思います。
というわけで反乱の懸念もないどころか、国家親衛隊は普通の大隊の方がヤバい奴多いと思ってるんですよ。なんせ2014年には自腹でも戦争したいって連中が集まってたわけで、金目当てだの兄貴分に言われて参加しただのの方が理由としてはいくらかマシでしょう。ただまあ、いつか武装解除した時には犯罪者を野に放つようなものなので、単純に治安が悪化することを懸念してなくもないです。
キュレーターとは,現代美術の文脈において展覧会の企画・運営等を総合的に指揮する人のことである。どんな作品を取り扱うのか,どんなタイトルの展覧会にするのか,展示の順はどうするのか,ライティングは?解説は?チラシに掲載するキャッチフレーズは?等々。
今日のクラシックにおける自主企画の演奏会は,多くの場合「プレイヤーがやりたい演目をやる」ということになっている。もちろんそこにコンセプトやテーマがあったりする場合もあるのだが,美術作品とお客さんをキュレーターという専門家が架橋している美術市場と異なり,クラシック市場にはキュレーションを専門に勉強している人がいない。現状コンサートのマネジメントは演奏家がやっているわけだが,あまりに画一化しすぎているのではないか。クラシック音楽にも,お客さんと作品をキュレーションで架橋する発想があってもいいのではないか。そのあたりのことが気になってのツイートだった。
ということで,このnoteではこの件についてもう少しだけ深堀してみようと思う。久々の投稿ですが,お付き合いください。
目次
1.現状は相変わらず「上手い人一強」の世界
5.まとめ
1.現状は相変わらず「上手い人一強」の世界
繰り返しになるが,現状のクラシック系自主企画コンサートは「演奏家がやりたい演目を披露する場」として機能している。これ自体が悪いわけではないし,演奏家の独りよがりだと批判するつもりもない。もちろん演奏家は選曲やプログラムノートに苦心しているし,そこには確かに工夫の痕跡がある。
でもね,正直クラシックのコンサートの演目って似たり寄ったりじゃないですか。
コンサートに「一度も聞いたことのない楽曲」が含まれていることは稀だし,大体定番曲が並んでたまに新曲初演があるくらい。クラシックのサックスなんかはまさにそうだ。クラシック音楽が「過去の音楽を再現する」文化である以上,演目の重複は避けられない。まぁこれは仕方のないことではある。
ただそうすると,当然誰しもが「同じ曲を聴くなら上手い人の演奏聴きたいよね」と思うようになる。つまり,技術で劣る演奏家の演奏会に行く理由がなくなってしまうのである。
このnoteでも何度も言っていることだが,クラシック音楽は特に「文化的に醸成された良さや美しさの基準」が強烈に機能するジャンルで,「この人あんま上手くないけど個性的で好き!」とか「この若手は下手だけどトッププロにはない魅力があるなぁ」みたいな評価が生じにくい。また,特にクラシックサックスのように難しい近現代曲が必須のレパートリーになっているジャンルは,必須とされる技術レベルが結構高い。例えば音色がめちゃくちゃ魅力的だったとしても「指が回らない人は使えない」「スラップタンギングできない人はコンクールの一次予選の課題曲が吹けない」みたいな悲しい評価が下される。
結果的に,クラシック演奏家市場では「楽器の上手さ」が保障されているプレイヤーにしか人が集まらない状況が生まれやすいのである。これは,ブルーハーツと東京事変がどちらもCDになって成功できるポピュラー音楽とは事情が全く違う。ブルーハーツみたいなパンクロックって,演奏したり作曲したりするのに必要な西洋音楽的技術が結構低いんですよ。川谷絵音や東京事変やKing Gnuの曲とは複雑さが全然違うわけです。それでもブルーハーツとかモンゴル800とかが世間に認められてCDを出しているという事実は,「ポップスはクラシックに比べて多角的に評価されている」ということの証左だろう。個人的にはとても健全だと思う。一方のクラシック演奏家市場は,「楽器の上手さ」がほぼ唯一の評価の観点として強烈に幅を利かせているのである。
「プロの世界なんてそんなもんだよ」というかもしれない。でも,僕はこの「楽器の上手さというパラメーターが最強の世界」が気にくわないんですよね。
例えばこれが「クラシック演奏家育成」をテーマとするソーシャルゲームだったら,と思って考えてみてほしい。
このゲームでは,プレイヤーが最初のガチャで引いたキャラを「一流のクラシック演奏家」に育て上げることが目標とされている。当然キャラクターには「楽器の上手さ」というパラメーター以外にも「音楽史についての知識」とか「自身の活動への俯瞰的視座」とか「個性的な音色」とかのパラメータもあるわけで,キャラによっては「音楽史についての知識」が先天的に強い,みたいなやつもいる。当然プレイヤーもその辺をコツコツ育てたりするわけだ。なのに,「音大卒業」というチュートリアルイベント以降,ゲームで勝っているのは「楽器の上手さ」のパラメータに全振りしてキャラ育成をしたプレイヤーのみ。もっといろんな勝ち方があるとおもってたよ…最初のキャラガチャで「音楽史についての知識」が強いキャラを引いた人はどうしたらいいの…運営しっかりしてくれよ…
まともなゲームの運営なら「これだと勝ち筋がひとつしかないゲームになってしまうな。よし,他のパラメータを育成した人が勝てるようなイベントを投下するか!」などといった対応がなされるはずだ。しかし,このゲームにおいて運営がそのような神対応をすることはない。いつになったら修正はいるの?まだなの??もう勝てそうにないし…リセマラするかゲームやめるかどっちかだな…。
…まぁでも現実世界にはゲームの運営はいないし当然リセマラもできない。だれもゲームバランスの調整をしてくれないのだ。結果的に,「楽器の上手さ」が一定値を超えていない人は今後も仕事がないし,今仕事がある人でさえもそれを上回るパラメータをもった若手が現れた瞬間に仕事を取られる世界になっている。多様性とは程遠い市場が出来上がってしまっているのである。
そこで,「せめて僕の周りにいる音楽家には幸せになってほしい(そして一生楽しい飲み会に付き合ってほしい)」と考えている僕は,「演奏会のプログラミングやプログラムノート等に拘りまくってお客さんの聴取経験を素敵なものにデザインできれば,技術でトッププロに勝てない演奏家にもファンがつくのでは?これってつまりキュレーションでは?」と考えた。
「モナリザ」みたいな超有名絵画を目当てに美術館に行く場合を除き,僕たちは「特定の絵」を見にいくというより「その展覧会でデザインされている体験」に価値を感じて美術館に足を運ぶ。例えば僕は以前「ベルギー奇想展」という展覧会にいったのだが,一つ一つの絵のクオリティというよりも,複数の絵の鑑賞を通して得られたその展覧会全体の印象のようなものに興味を覚えた。「作品の価値」ではなく「作品群を総体として経験することの価値」に感動したのである。まさにキュレーションの賜物だったのだろう。
また,「ベルギー奇想展」というタイトルやチラシに載せられていたペストマスクみたいなデザインのキャラクターにも強烈に惹かれた。頻繁に美術館にいくタイプではない僕でさえ,「行ってみたい」と思えたのである。そして,この辺のこと全てを把握し,「美術館での体験」をデザインする人がキュレーターなのである(と僕は思っているんですがあってますかね。もしかしたら広報にはそこまでコミットしないキュレーターもいるのかもしれない)。
一方,クラシック音楽の演奏会はどうだろうか。そこに「体験のデザイン」という発想が見て取れる場合は少ない。もちろん選曲や曲順にこだわりが詰め込まれていることはわかっている。それでも,普段美術館に行かない僕に足を運ばせたような,「作品群を総体として経験することの価値」を際立たせるようなコンサートってなかなかないんじゃないかな。少なくとも,多くのプレイヤーは,「コンテンツは演奏(楽曲)のクオリティ,そのほかはあくまで付属品」だと考えているし,むしろ演奏のクオリティのみでガチンコ勝負することが美徳だとされている感さえある。でも先ほども指摘したように,この土俵で戦って勝てるのは「楽器の上手さ」というパラメータが抜きん出ている人だけだ。
キュレーターは自分で作品を作れない。その代わりに,個別の作品の羅列に「作品群を総体として経験することの価値」を付与する。演奏家も,キュレーターのように体験をデザインすることができれば,お客さんを呼べるのではないか,というのが冒頭で引用したツイートの意図だった。つまり,「楽器の上手さ」以外のパラメータを活かせる場はありますよ,ということだ。
具体的には,音楽史や楽曲分析に関わるパラメータを磨いてきた人は,それを用いてMCや曲目解説,選曲で魅せることができるだろう。その場合,チラシやSNS広報のあり方も抜本的に考え直さなければならない。このへんについては別途記事を書こうかな。とにかく,僕は「楽器の上手さ」のパラメータが高い上位5%の演奏家しか生き残れない現状を打破する手段として,キュレーションの発想を生かさない手はない,と考えている。
とはいっても,「そんなことできねーよ」という声も聞こえてきそうだ。キュレーションそれ自体を仕事にする人がいるんだから,「作品に対する俯瞰的視座をもって聴取体験をデザインする」とかめちゃくちゃ高度じゃん。自分たちは演奏家なんだよ,演奏以外やりたくねぇ!
…まぁもちろん気持ちはわかるんですが,今の僕が「楽器の上手さ」のパラメータで勝てない人にできるアドバイスは,①プレイヤー兼キュレーターになれ,もしくは②プレイヤー兼クリエイターになれ,くらいしか思いつかないのが現状だ。すいません。
クラシックの演奏家って特殊な立場なんですよね。CDやスピーカーがなかった昔のヨーロッパなら,演奏家はまさに一家に一台欲しい人材だったはずだ。演奏家がいないと音楽を聴くことすらできなかったのである。そのような時代背景とパトロンがいてこそ演奏家という仕事は成立していた。でも現代ではbluetoothスピーカーとAppleMusicがあればいくらでも自宅で音楽を聴けてしまう。馬車や人力車が自家用車にとって変わられたように,そして今後タクシー運転手が自動運転にとって変わられるように,中途半端な演奏家はオーディオ機器および音源の中の一流プレイヤーにとって変わられるだろう。個人的には,オーディオ機器や音楽サブスクリプションサービスの発達は,演奏家という職種に対する破壊的イノベーションだと思っている。
だからこそ,演奏家は「他者の作品の再現」以外の価値を作らなければならないのだ。
こういうと,「演奏家だって生演奏という価値を生み出している!!」という反論が聞こえてきそうだ。もちろんわかってます。僕はクラシック音楽愛好家なので,生演奏に魅力を感じています。でも「生演奏は素晴らしいのでサブスクで聴かずに演奏会に来てください!」という売り方をしたとしても,多くの人は,「わざわざホールまでいって中の上くらいの生演奏を聴くより,自宅のスピーカーでトッププロの演奏を聴く方が楽だよな…」と考えるのではないだろうか。コンサートホールまで往復2時間かかるし,演奏会って夜ご飯の時間に丸かぶりだし,拍手するタイミングとかマナーとかよくわからないし…だったら家で聞けばいいや,「楽器の上手さ」ならこのCDの中の人の方が上でしょ?…これが一般人の残酷な本音のような気がする。だからこそ,「作品群の連続体験をデザインする」というキュレーターとしてのスキルを磨いてはどうか,という提案をしているというわけだ。
また,オリジナル作品を作れる演奏家も強いと思う。むしろこっちの方がわかりやすく価値を提示でき,周りと差別化できるような気もする。「他者の作品の再現」や「生演奏」以外の価値を生み出す上で手っ取り早いのは作品を作ってしまうことだ。もちろん,他の作曲専業の人々と張り合うような作品を作るのは難しいしむしろ得策ではないので,毎回演奏するアンコースピースだけ作るとか,曲間に即興演奏を入れるとか,そんなことから始めてもいいかもしれない。
ちなみに,「自分の作品を持った方がいい」と言っているクラシックサックス演奏家出身の僕自身が作品を作っていないのはなんか説得力がないと思ったので,最近気が向いた時に曲を作っています。
キュレーターの質が低いの間違いではないだろうか
ネットでなんでも検索できるから本なんて買う必要ないっていう人もいるけど、
ネットの集合知ってノイズが多すぎて玉石混交の中から玉を拾うのがとてもむずかしい。
クックパッドでいえば料理苦手だからクックパッドに頼ってるのに料理苦手な人には有用なレシピとゴミレシピの区別がつかない。
なので調理師や料理研究家として一定の知名度や実績のある人が著者の出版されてるレシピ本に戻った。
これってWikipediaでも知恵袋でもネットの集合知メディアはなんでもそうだよね。
素人も参加できるゆえにノイズが多すぎて素人には扱えないものになっている。
マジレスすると、限られた予算をどこに向けるかという点であまり良いお金の使い方と思えないということ。
地方の官公庁のアート部門とときどき仕事をしていて感じた実感なんだけど、
その地方由来という縛りをもうけると美術的にはあまり一般受けする展示にならない。
要はその地方で作品に触れて将来作家になるような人を育てるような展示にならない。
予算を投じるなら、長期的に見て文化的に豊かな人が育って文化的に豊かな街になるような使い方がいいと思っている。
才気あふれる作家が地方に移り住む場合は尖りすぎてて一般人の鑑賞に堪えない作品になりがち。
郷土史や博物学的に、この地方にはこういうことがありましたというアーカイブ目的と割り切るならいいけど
そうじゃないならそこに住んでいる人たちに影響を与えるような作品を、作家の出身地に関わらず展示するのがいいと思ってる。
ひとつのアイデアとしては、地元作家にフォーカスするのではなく、地元キュレーターにフォーカスした方が面白い展示になりそう。
裕福な旦那と結婚して子育てがひと段落した後はNPOやったり博物館のキュレーターやったり、そっちの方が楽しそうだし社会的意義もある。
そんな事出来るのごく一部じゃん。
それにそういう人の大半は元々裕福な実家を持ってて自分の金でやってるだけじゃん。ただの庶民が玉の輿に乗ったってそんな自由に旦那の金使えねえよ。
んでそんな裕福な実家持ってるなら、男に生まれたって楽しくて社会的意義がある仕事出来るじゃん。
男でもゴリゴリの出世主義者は結構いるから、その女がそう言う奴だってこと。
男でもそういう評価がついてしまうと周りから擁立されることは少なく、部長どまりになる人が多い。
その女だって今より一つ上のポジションには行けるかもしれないが、それ以上は難しい。(たまに君子豹変できる人もいるけど)
悲しいのは男気を持った女(?)は人生の早い時期に潔く身を引いてビジネス界に残らないこと。
裕福な旦那と結婚して子育てがひと段落した後はNPOやったり博物館のキュレーターやったり、そっちの方が楽しそうだし社会的意義もある。
雇用機会均等法でビジネス経験を積んだ女性が多く出て、いろんな分野で活躍するのはいいことだと思う。
女だからを振りかざす奴は、東大出を振りかざす奴と似たようなもの。
踏み台にされないように、身を隠していることが一番。
キュレーターいないのかねえ
https://www.dokudamiyoshiko.com/entry/20191107/1573129979
そもそもジャンプなんて漫画家からすれば、一流の雑誌なんだし、フェミ関連抜きにしても冷酷無比な打ち切りシステムとかあるわけで、その辺踏まえても舐めているとしか言えないよね。
こう言うのを見てもフェミはとことん他人を利用する事しか考えていないんだなとつくづく思うよ。
これは作家のしんどさを多少でも知っているオタク所か読者からすれば、切れるのも当たり前としか言えない。
https://togetter.com/li/1428059
凄いな。
この人文化論が専門らしいけど、とても専門家とは思えない発言に驚いている。
ポスターを否定したら、浮世絵とかもそれこそ芸術ではないと言う風になってしまうんだが、判っているのだろうか?
広告のデザインなんて、普通にこの辺の感性を求められるものだし、広告のデザインで後々芸術として認められたものも多々あるわけだからね。
しかし、何ていうか、文化の専門の人間がこの手の文化を全否定しているのは草。
それと例のあいトリの中間試合と言うべき騒動が、またあったらしいね。
https://togetter.com/li/1427403
JAPAN UNLIMITEDのイタリア人キュレーターMarcello Farabegoli氏について岩渕潤子氏が紹介/NHKでは『「展示作品の中に日本を侮辱する意図のものは一つもない」と述べていた(以下略)』というマルチェロ・ファラベゴリ氏のコメントも
https://togetter.com/li/1427157
こっちのあいトリや会田誠氏方面でも面白コメントしているみたいだし、何かもう凄いとしか言いようがないよね。
確かに外務省の不手際もあるけど、海外でこの手の日本批判するのに公認ロゴマークを利用したら、この手の事態になるのは予測できるはずなのに。
その辺は最高にダサいと思う。
「もっと!孕ませ!炎のおっぱい超エロ♡アプリ学園!」の巨大看板の「エロワード」を批判した弁護士がセクハラ被害を受けてしまう。中には議員や大学教授の姿も……。
https://togetter.com/li/1428024
またお前か。
宇崎ちゃんの次はこれと言い、もはや炎上芸がこの弁護士の特技なのかね…。
エロワードばかり探しているんじゃないよやAV大好きドスケベ弁護士を真空パックで孕ませはまさに真理で草。
しかしフェミ曰くオタクの街である秋葉原に出している広告をわざわざ見に行って、噛みついている事から見ても以下にフェミの言うゾーニングとやらが意味がないものであるかが良く判るよね。
こいつら当時もとらのあなに突撃して、児童ポルノだの好き勝手言っていたし、その後撮影禁止になっても盗撮してまでわざわざ晒したりもしていたんだからな。
単に嫌いなものに難癖つけて叩きたいだけと言う事が良く判る。