はてなキーワード: 随筆とは
回答にばらつくであろうクイズばかりで正解に至らなかった。
イラッとしたので「知らん」で全て回答蘭埋めたら、
「混雑しております、しばらくしてから再度実施してください」みたいな文言が表示された。
30分経ってもダメだったので、面倒になり諦めた。
次回もスパムと間違えられることがあるのであれば、
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今日はこれ。
「ピザ」ってカタカナで書いてあったので、「ヒザ」とわざわざカタカナであわせたら
間違っていることにされた。表記ゆれというか、「ひらがな」「カタカナ」「漢字」全て正解にしてくれ。
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■2020年現在の二代目松本白鸚の息子は何代目の松本幸四郎?
十
■「上下を逆さまにしてはいけない」という意味を持つ四字熟語は何?
■肩甲骨の一部で上腕骨頭の上に飛び出している部分を「けんぽう」と言いますが、漢字で書くと?
肩峰
■令和2年に全国民に配られたマスクにつけられた、当時の首相名をもじった別称は?
アベノマスク
1問目、「十代目」と書いていたら×不正解になり、
菅首相の息子、東北新社社員の菅正剛氏が総務省幹部官僚を高額接待したとして国会で集中論議されている。追及する野党議員はかつての大蔵省官僚接待汚職事(いわゆるノーパンしゃぶしゃぶ)件以来だと糾弾する。週間文春記事には秋本芳徳・情報流通行政局長が菅正剛とみられる男性から賄賂を受け取り頭を下げられ見送られている姿の写真が掲載され、あろうことか録音された会話内容が公開された。これにより、秋本局長は虚偽答弁の疑いが強まりNHKにおいても全国ニュースで再三これが取り上げられている。また内閣広報官の山田真貴子氏も高額接待がなされた。山田真貴子氏といえば、NHKのニュース番組にて菅首相に日本学術会議の任命拒否問題について明確な説明を求めた件について、電話にて圧力をかけた疑いが報道されている。
私はある基礎科学分野に従事するいわゆる任期付き研究者である。基礎的な学問は社会にとって役に立たないとされ、安倍・菅政権下では徹底的に蔑ろにされてきた。大学では裁量にゆとりのある国交金を急速に減額させられており、競争力のない大学は弱体化の一途をたどり、就職支援学校となり下がった。大学の経営に竹中平蔵のような政権与党のお友達も浸み入ってきた。菅首相は国会にて大学研究者による"国会"ともよべる日本学術会議を既得権益と糾弾した。このように書くと、アンチ自民のように思われるが、私は世代的にはちょうど民主党政権下で行われた事業仕分けによって、危うく大幅予算削減にあいかけた日本学術振興会にて特別研究員として従事していたこともあり、その流れをくむ立憲民主や国民民主は支持できない。維新・ファーストは論外。いわゆる任期付き研究者の救済指針を明確にし、また露頭に迷う高学歴ワーキングプアを大量輩出した大学院重点化を失策として反省する旨を述べている日本共産党を支持する。党員ではない。国会中継はいつも見ている。支持政党を宣言できるのは現実・インターネット含めておそらくはてなアノニマスダイアリーだけであり、感謝申し上げたい。
以下は個人的な分析に基づくものである。ほぼ無根拠に等しく随筆に過ぎない点を詫びたい。また全くまとめるつもりもなくとりとめもなく書いている。
安倍・菅を支持せざるを得ない人とはどのような人たちか。(1) 政府系予算にてほぼ直接首をつながれ自民党を支持せざるを得ない人々、(2) アベノミクスによって益を得た大企業・あるいは傘下企業に就職した人々・あるいはその親族・配偶者、(3) カルト的に安倍・菅なるものを狂信する信者、である。
(1) には学校や役所など税金によって経営されている機関に勤める非正規雇用職員が多数含まれる。たとえば学校であれば常勤・非常勤講師、役所であれば派遣委託金も税金から。そして私のような大学に勤める任期付き教員、ここでは他にも触れられない多数の人たちもいる。
(2) 大学はもはや多数学生にとっては就職予備校に過ぎず、3年生になればインターンに参加するのはもはや常識と化している。学生が卒論や修論にかける時間など研究室に配属された全体の時間からすればほんの一部に過ぎない。実験やフィールドワークが重要な分野にとっては学生の研究活動・成果は重要な資源であり、全く無視することなどできない。リーマンショックにて極端に就職率が下がった時代に大学院に一時避難しその後企業の状況が良好となり一般就職した優秀な学生も多くいた。彼らが研究室・分野に残したレガシーは未だ活用されているし、彼らの中には今戻ってきても通用するであろう人もいまだ多数いると思っている。あれ以降、そのような時代は訪れていない。もしかしたら、新型コロナで不況になってしまった今、再び大学院は一時避難先となるかもしれないが。
アカデミックに身を置く私から見れば、安倍・菅はどうやら学問というか大学に対してコンプレックスというか憎しみに近いような感情を抱いている点はもはや間違いないだろうということが推察される(安倍氏はかつての家庭教師や大学時代の恩師からもダメ出しされている。)。非常に優秀な人たちが何だかよくわからないこと(基礎的な学問)にエネルギーを費やすことが無駄にしか見えないのかもしれない。こうした感情は多くの国民がシンパシーを感じているという点は見逃せない。日本学術会議の任命拒否問題はこれまで国会が定めてきた法の解釈に反するという一点が本質であるにも関わらず、問題は菅によってすり替えられた。つまり、学術会議の在り方に問題があると指摘し(既得権益だそうだ)、これになんと国民の半数以上がそうだと思っているとの世論調査が出た。(問題のすり替えという点が実にアンチアカデミックらしい思考だという皮肉も込めたい。)(ところで、全く非論理的あるいは違法ともいえる手段は安倍・菅政権で何度も取られてきた。安倍氏が自身の公職選挙法・政治資金規正法違反による逮捕を恐れ、当時の鑑定の守護神でもあった東京地検検事長黒川氏を違法に定年延長させようとしたのもそうだ。)
国民には学問が何か役に立つものだとは信じている人はそれほど多くないのが実情である。そんな20年も30年も時間をかけなければ芽が出るかもわからないことに税金を費やすくらいなら苦しい自分たちを救ってほしいのである。これが実情。だからアベノミクスのおかげで就職できたお子さんを持つ親御さんや祖父母さんは安倍を支持せざるを得ないだろう。個人的には東日本大震災のような日本に深刻なダメージを与えた地震や津波といったことを研究しているような地質学・地震学・あるいは地球流体といった分野や、ここ毎年のように繰り返される豪雨や台風による被害を予見するための気象学といった分野に、ごく少数の研究者しかかかわっておらず、むしろ次から次へと研究室が畳まれている深刻な事態に誰も何も言わない(言えない)ということに、絶望以外の感情が持てないというのが率直なところである。あるNHK特番で東北を襲った過去の津波から教訓を得ようとする名誉教授の先生が自らフィールドワークで沿岸を歩いて地層を見ていると聞いたときは膝から崩れるような思いになった。(当然だが津波や地震の研究者がいないわけではないと思っている。)これらの分野は地学の1分野とされ、役に立たない理学の一分野とされている。国民の大多数がこんな見方だろう。これ程に基礎学問を蔑ろにする政権がイノベーションだの科学技術立国などのたまうのだから滑稽極まりない(ちなみに私はもっと無駄であろう分野の研究者である)。いずれにせよ、大学院博士課程で教育を受け学位をディフェンド(審査だから自分の主張を守るのだそうだ)することが一流企業に就職する最低ラインと正しく認識されているアメリカ合衆国・ヨーロッパ・中国や台湾には追いつくことは二度とないだろう。一生彼らが最先端で開発するスマートフォンなどの端末やウェブ技術を使い続ければよいと思う。自動車だけが最後の砦になるのだろう。それもいつ世界の最先端から取りこぼされるのか。
トランプ政権の4年で良心を失ったことを顧み、バイデンを選んだアメリカが心底羨ましい。強いネガティブを避けるためにバイデンが選ばれた、という向きも否定できないが。やはり自分たちでリベラル(自由と平等)を勝ち取るという気概は失われていないと感じた。そしてアメリカのリベラルには非常に豊富な経験がある。この点が日本とは大きく異なる。日本が自民党を拒むときは、いつも不況だった。バブル崩壊後・リーマンショック。そして新型コロナでも非常に怪しいわけだが。このような積極的でない背景による政権交代しかなく、自分でドライブする準備が出来ていない野党が突然与党になってもなかなかしんどいのである。民主党政権はうまくいったとは言えない。国民も自分たちでリベラル的なものを獲得してやろう、という気概は持てないのである。何より、経済的・精神的にゆとりが持てず、いつ派遣先から切られるかもしれない恐怖と不安、巨大な大企業に庇護されているという虚栄ともいえる安心感が強く、社会全体を根幹から支えようとか社会的弱者や虐げられてきた人たちに目を向けようとか、つまり社会福祉や学問・教育に社会として注力して、たとえ遠回りであっても国全体の再生を目指そう、という気にはなれないのである。自分には介護対象の親や祖父母がいるから、とか女性であるとか、小さな子どもがいるとか、それらと家庭の経済状況を計りにかけている人もいなくはないだろうが。なにせ、かくゆう私も任期付きでいつ首を切られるかわからない立場である。そんな者が来年度予算の財源を握る政権与党を支持しないで大丈夫なのか、と思われそうだが、全くの事実。実は私も政権与党に首根っこをつかまれている人間の一人に過ぎない。だが、ここは増田。私がどこの誰かなど特定することもできない。だから、これから数十年先の日本が絶望的状況でしかないと言っているのだ。目を覚ませ、国民よ。
留学先で女性を妊娠させて見捨ててしまう話なので、近頃は評判が非常によろしくない。そのくせ、この文体のせいで美しいと感じてしまう自分がいて、実はこれ、レトリックや文体によって騙されることに注意しろっていう警告なんじゃないかって気もする。「自分のおすすめ編」にも書くつもりなんだけど、ナボコフ「ロリータ」もそういう自己正当化がとにかくうまい。
余談だが、鴎外自身は東洋人だったこともあり、留学先では写真を撮らせてくれと頼まれたことがあったという。それに対して、構わないけどもあなたの写真も逆に撮らせてくれ、と言って、相手も満足させつつ日本人としての尊厳も守ったことがあって、これは割と好きなエピソードの一つ。まあ、漱石よりは世渡りがうまいよな。
古風な文体で挫折しかかるも何とか読破。これよりは幼馴染系の「たけくらべ」のほうが好きだったなあ。増田では古文がいるかどうかで議論になったことがあったらしいが、古文がすらすら読めるほうがこういう趣味というか楽しみが増える気もするし、純粋に実用面だけでいえば法律用語や古い公文書を読む必要がまだあるんじゃないのかな。
「舞姫」の話の続きだけど、古典文学にもやっぱりクズエピソードは結構あり、じゃあどれを教えてどれを教えないかは割と難しい。
僧侶が山間で美しい妖怪と出会う話。文庫のちくま日本文学全集で読んだ。全集と銘打っているけど、このシリーズは日本の近現代文学作家のベスト盤みたいな感じで、チョイスはいいのだけれどときどき抄、つまりダイジェスト版みたいなのが紛れていて、コンプリートしようとは思わなかった。
話としては幻想的ですごく好き。幻想譚が好きな自分がどうして泉鏡花にどっぷりはまるまでいかなかったのかが不思議なほどだ。当時は、著名な作品をどんどん消化しようと思って乱読していたからかもしれない。そういう意味でも、課題図書を読破することが自己目的化した読書には幾分害がある。
とても好き。小説が読めなくなったときには、文豪の書いたこうした随筆というか、風景描写の豊かな文章を読むことで、自分のリズムを整えたくなる。外出の難しい昨今、こうして空想の世界でだけでも豊かな自然のなかで過ごしたいものだ。五感が刺激される文章というのはなかなかない。
我輩を吾輩に修正。
ここ最近は漱石の評判はあまりよろしくないと聞く。所詮は当時の欧米の文学の輸入に過ぎないとか、結局は男社会の文学だとか。言われてみれば確かにその通りなのだけれども、日本の近代文学の開拓者にそこまで求めちゃうのも酷でしょうと思わないでもないし、この作品からたったの十年で「明暗」にまでたどり着いたのだから、やっぱりすごい人ではないかと思う。五十になる前に亡くなったのが惜しまれる。
で、肝心の内容だが。基本的におっさんがおっさんの家をたまり場にしてわいわいやる日常ものなので、当時の人にしか面白くないギャグを除けば、普通に笑える。最終回は突然後ろ向きになるが、もしかしたら漱石の本分はユーモアにあるのかもしれない。
余談だが漱石の留学時代の日記に付き合いのお茶会について「行カネバナラヌ。厭ダナー」とのコメントを残している。
素直に面白かった。若干のプロパガンダっぽさがなくはないが、読んだ当時は差別する側のねちっこさや意地の悪さが良く書けているように思われた。とはいえ、昨今は善意から来る差別についても考える時代であり、問題はより複雑になった。
被差別部落問題については気になっているのだがなかなか追えていない。日本史について読んでさまざまな地域の実例について断片的にかじった程度だ。それでも、地域によって温度差やあったり、差別対象が全く異なっていたりすることがわかり、どこかで日本全体の実情について知りたく思っている。
女中の布団の残り香を嗅いで悶々とする話だってことは覚えているんだけれども、読んだときにはあまり印象に残らなかった。なぜだろう。自分が読んできた近代文学は、基本的にダメな奴がダメなままうだうだする話ばかりだったからかもしれない。その多くの一つとして処理してしまったか。
で、自分が好きなのは飢え死にするほど悲惨じゃないくらいのダメさであり、親戚のちょっと困ったおじさんくらいのダメさなんだろうと思う。
読んだことがない。ただ、ドナルド・キーンの「百代の過客〈続〉 日記に見る日本人」によればこんなことを書き残しているそうだ。「僕ハ是レカラ日記ハ僕ノ身ニ大事件ガ起ツタ時ノミ記ケルコトニ仕様ト思ツタガ、矢張夫レハ駄目な様デアル。日記ヲ記ケ慣レタ身ニハ日記ヲ一日惰ルコトハ一日ヲ全生涯カラ控除シタ様子ナ気ガスル。夫レ故是レカラ再ビ毎日ノ日記ヲ始メ様ト思フ」(意訳。日記書かないとその日が無かったみたいで落ち着かない)。ここでツイッターに常駐している自分としては大いに共感したのである。そのうち読もう。
読んだはずだが記憶にない。「暗夜行路」で娼婦の胸をもみながら「豊年だ! 豊年だ!」と叫ぶよくわからないシーンがあったが、そこばかり記憶に残っている。これを読んだ当時は、この小説のように自分がどれほど理想を抱いていたとしても、モテないからいつかソープランドに行くのだろうな、とぼんやり思ったことを覚えている。
ちなみに、自分が初めて関係を持った女性は貧乳だった。だがそれがいい。
お父さんとうまくいっていない人は子供の才能をつぶす話である「清兵衛と瓢箪」が刺さるんじゃないかな。あとは少女誘拐犯視点の「児を盗む話」もよかった。
大学時代知り合った文学少女から薦められて読んだはずなのだが、覚えているのは「阿房列車」の何編かだけだ。それと、いつも金に困っていて給料を前借りしていて、そのことのまつわるドタバタを描いた作品や日記もあって、そうした印象ばかり残っている。
関係ないけど就職活動中に、この文学少女から二次関数を教えてくれと言われ、片想いしていた自分はそのためだけに都内にまで足を延ばしたことがある。いいように使われていたなあ、自分。あいつには二度と会いたくないが、元気にしているかどうかだけは気になる。
めんどくさいファンがいることで有名な作家。全集には第三稿や第四原稿が収録されており、比較するのも楽しい。俺は〇〇は好きだが〇〇が好きだと言ってるやつは嫌いだ、の○○に入れたくなる作家の一人。○○には「ライ麦畑で捕まえて」「村上春樹」「新世紀エヴァンゲリオン」「東京事変」などが入る(註:この四つのものとその愛好家に対する歪んだ愛情から来る発言です。僕も全部好きです。すみません)。サブカル系にはこれがモチーフになっているものが数多くあり、その点では「不思議の国のアリス」と並ぶ。
思想に偏りはあるが、独特の言語感覚や観察眼は今でもすごく好きだ。余談だが新書の「童貞としての宮沢賢治」は面白い。
知り合いにいつもぬいぐるみのキーホルダーを持ち歩いてかわいがっていた男がいたが、それで本人が落ち着くのならいいと思う。不安の多い世の中で、人が何か具体的に触れるものにすがるってどういうことなんだろう、って、ってことをこの作品を思い出すといつも考える。どこで読んだか思い出せなかったが、これもちくま文庫の全集でだった。
狭いコミュニティの中でこじれていく人間関係の話ではあるけれども、新潮文庫の場合は表題作よりも他の話のほうが気に入った。印象に残っているのは十二人の旅芸人が夜逃げする「時間」と、ナポレオンがヨーロッパの征服に乗り出したのはタムシのせいだったという「ナポレオンと田虫」。
実はこの作品は読めていない。谷崎作品は割と好きで、「痴人の愛」「刺青・秘密」「猫と庄造と二人のおんな」「細雪」は読んだ。「痴人の愛」という美少女を育てようと思ったら逆に飼育される話は自分の人生観に多大な影響を与えたし(例の文学少女に気持ちをもてあそばれても怒らなくなってしまったのもこれが遠因だろう)、「細雪」はただ文章のリズムにぷかぷかと浮くだけで心底気持ちがいい。ついでに、戦時中の生活が爆弾が実際に降ってくるまでは震災やコロナでただよう自粛の雰囲気とそっくりだったこととよくわかる。
ところで、最近久しぶりに谷崎作品を読もうと思ったら、ヒロインの名前が母と同じだったのですっかり萎えてしまった。というか、ここ最近趣味が「健全」になり始めていて、谷崎作品に魅力を感じられなくなっている。感覚がどんどん保守的になっていく。これはいかん。
高校生の頃に読んだのは確かに記憶に残っているのだけれど、高校生に川端康成のエロティシズムが理解できたかどうかはよくわからない。たぶんわかっていない。せいぜい伊豆の踊子の裸の少女を読んで、ロリコンを発症させたことくらいだろう。
太宰はいいぞ。自分は愛される値打ちがあるんだろうか、というテーマを本人の育った境遇やパーソナリティの偏りや性的虐待の疑惑に求める説は多いが、そういう心理は普遍的なものでもあり、だから多感な時期に読むとわかったつもりになる。芸術に何歳までに読むべきという賞味期限は原則としてないが、これもできるだけ若いうちに読んでおくといい。太宰の理解者ぶるつもりはないが。
もっとも、本ばかり読んで他の活動をないがしろにしていいものだとは全く思わない。あまりにもドマイナーな本を読んでマウンティングするくらいならバンジージャンプでもやったほうが話の種にもなるし人間的な厚みも出るというものだ。たぶん。
天才的。男性のあらゆる種類のコンプレックスとその拗らせ方を書かせたら彼の右に出るものは少なかろう。ただ、大学を卒業してから突然読めなくなってしまった作家でもある。息苦しくなるまで端正に磨きこまれた文章のせいかもしれない。
極限状況下でのカニバリズムをテーマにした小説なんだけれども、途中から戯曲になって、「食べちまう葬式ってえのは、あっかなあ」などとやけにのんびりした台詞が出てくるなんともユニークな小説。ただし、これは単なるブラックジョークではない。物語は序章、戯曲の第一部、第二部と別れているのだけれども、その構成にきちんとした意味がある。
人類全体の原罪を問うようなラストは必見。あなたは、本当に人を食べたことがないと言えますか?
祖父母の家から貰ってきた作品で、愛蔵版らしくカバーに入っていた。カフカにはまっていた時期だから楽しんだ。カフカの父親の影から逃れられない主人公とは別の種類の渦巻にとらわれてしまった主人公がだらだら、ぐだぐだしてしまうのだが、カフカが男性によって抑圧されているとしたら、こちらは女性に飲み込まれている文章だ。
未読。不条理な陸軍の中で、最強の記憶力を頼りにサバイブする話だと聞いて面白そうだと思い購入したのだが、ずっと積んだままだ。これに限らず、自分は戦争ものの小説・漫画をあまり読んでない。戦争に関しては文学よりも歴史書からアプローチすることが多い。
これは自分の悪癖だが、戦争ものになると庶民よりも知識人にばかり感情移入してしまう。
大江健三郎は初期の作品をいくつかと、「燃え上がる緑の木」三部作を読んだきりで、どういう態度を取ればいいのかよくわかっていない作家の一人だ。狭い人間関係の中のいじめだとかそうした描写に病的に関心のあった時期に読んだせいで適切な評価ができていない。
「燃え上がる緑の木」は新興宗教や原子力発電といった(結果的には)非常に予言的であった作品であったが、癖が強くカトリックの宗教教育を受けた自分であっても世界観に入り込むのに時間がかかった。「1Q84」よりもきつい。面白いが。
大学時代の友人に薦められて読んだ。「この家の主人は病気です」と、飢えて自分を食ってしまったタコの詩ばかりを覚えている。覚えているのはこれだけだが、この二つが読めたからいいか、と考えている。大体、詩集ってのはピンとくる表現がひとつでもあれば当たりなのだ。そして、それはあらゆる書物にも当てはまることである。
祖父が学生時代に送ってくれたのだけれども、ぱらぱらとしか読んでいない。
子供向けのものだった気もするし、近々原文にチャレンジするべきか。自助論(西国立志編)なんかと合わせて、自己啓発書の歴史を知る意味でも興味深いかもしれない。
読もうと思って読めていないけれども、これまたドナルド・キーンの本で面白い記述を見つけた。「墨汁一滴」の中に、つまらない俳句を乱造しているやつの作品にはどうせ碌なもんなんてありゃしないんだから、そういう連中は糸瓜でも作ってるほうがマシだ、という趣旨のくだりがあるそうだ。創作する上でのこういう厳しさは、いい。
「ローマ字日記」しか読んだことがない。たぶん日本で最初にフィストファックが描写された文学かもしれない。春画はどうか知らないけど。
堕落と言いつつもある種の誠実さについて語った本だった気がするが、それよりも新潮文庫で同時に収録されていた、天智天皇と天武天皇の家系にまつわる謎についてのほうが印象に残っている。
white_rose なんだろうこの創作臭は……笑
efus トラバで指摘されてるけどアンチ側の批判ポイントを網羅しすぎててさすがに釣り臭い。こんな屏風の虎みたいなツイフェミがマジで実在してたらもう草生やしながら土下座するしかない。
元増田へのトラバ・はてぶに限らず、釣り/嘘/創作認定してる人をよく見かけるのだけど、いったいそれに何の意味があるのだろうとよく思う。
極端なこと言ってしまえば、仮にフィクションだったとして何の問題があるのだろう。
そもそもはてなだろうとTwitterだろうと、ネット上に転がっている散文・随筆・お気持ち文章の真実性なんて自分はわりと気にしていない。
多くの場合、「そういうこともあるのだろうな」と信じすぎもせず疑いすぎもせず読んでいる。
皆も「これは本当かもしれませんし嘘かもしれません」っていう暗黙の了解のもと楽しんでるんだろうと思ってたけど違ったのか。
「保育園落ちた日本死ね」だってあれが世に出た当初に100%事実だったかどうかなんて本人以外にわかりようがないでしょう。
それでも、あの文章がめちゃくちゃバズってその年の流行語大賞にまでノミネートされたのは、「事実かどうかはさておきこういうことってあるかもな」「わかるわかる」って多くの人の共感を呼んだからなんじゃないの。
「真偽はひとまず脇に置きつつ」ということをあそこでは受け入れられるのに元増田みたいに考えてる人がこの社会に一人はいるのかもしれないということを、なぜ了解できずに釣りだの嘘だの勝手に認定して話を終わらせようとしてしまうのか。もちろん個人の感想としては自由だが。
こういう人が世の中に一人でも存在していたら何か都合が悪いの?といらぬ邪推をしてしまう。
なお、「真実か創作かっていろんな側面から推理したり想像で判定したりする楽しみ方もあるんだよ!」という人がいたらそれはなるほどたしかにと思う。
自分はここに4年から6年まで通っていた。妹は四谷大塚に行った。理由が値段なのかそれ以外なのかわからん。
通ってる途中でsapixが分離独立して、そっちについて行った生徒もいたけど残った生徒としてはsapixなんてパチモンだよみたいな反発があったかな。
国語の教材がよくて、授業で扱った小説や随筆が面白くて次の日に本屋に買いに行くことがよくあった。大江健三郎とか中勘助とかイザヤベンダサンとかを毎週ランダムに読む機会をもらえて感謝している。
講師はバイトもいたのかもしれないが、中年のいわゆるフルタイムの講師もいて講義は良かったと思う。
希望校には受かった。
最寄り駅まで帰りは講師が引率してくれてみんなで帰ったこととか、進学した後も友達と長い付き合いになったこととか、小学校は楽しくなかったけど塾の思い出はたくさんあるな。
これらの記事の中には、一人称を私にしたため性別が特定できなくなっているものがあるが、書いたのは僕だ。僕は男で異性愛者だが、BLの漫画を読むことだってある。個人を特定されないよう細部をわずかに変更したが、基本的には事実に基づいている。
タイトル | 執筆時点のブクマ数 | 投稿日 | 投稿曜日 | 投稿時刻 |
旅とは、とても面倒くさいものだ。 もちろん、ふと思い出す旅の風景はとて.. | 19 | 2020/09/15 | 火 | 07:42 |
近頃夕飯にゴーヤをいただくことが増えた。それから、モズク酢やメカブも.. | 18 | 2020/09/16 | 水 | 08:04 |
婚活帰りにBL漫画を買う | 21 | 2020/09/17 | 木 | 07:59 |
中村明日美子のBL読んでると女装したくなる | 1 | 2020/09/17 | 金 | 07:08 |
今年の夏は、田舎でもないのにアマガエルが鳴いていた。 私の住んでいるマ.. | 4 | 2020/09/20 | 日 | 08:01 |
以上。
本記事では、自分が今までまとめてきた服飾史についての記事のリンクをまとめる。また、それぞれの記事のブックマーク数を、各々の記事の内容や傾向、投稿時刻などと比較し、どのような記事が増田ではよりバズりやすいかについて考察する。
導入で述べたように、ブルマーに関する記事についての傾向を調べる。また、項目の一つとして、どの程度IMRAD形式に従っていたかについても調査する。
IMRADとは論文を書くときの基本的な文章の構成方法だ。Introduction, Methods, Results And Discussionの略称で、おおよそ次なような構成に従っている。
もちろん、これはまったくの趣味で書いた文章であるので、ところどころ自分語りが挿入されるなど、厳密にIMRADの形式には従っていないし、結果と考察も一つにまとめられている。そこで、どの程度厳密にIMRAD形式の通りに文章を書いたかを三ツ星でランク付けする。例えば、導入部が省略されているときには、星を一つ減らす。自分語りが長いと感じた場合も、星を一つ減らす。
また、ブルマーとは関係なく書いた随筆についても後ほどその結果を掲載する。
タイトル | 執筆時点のブクマ数 | 投稿日 | 投稿曜日 | 投稿時刻 | IMRAD度 |
---|---|---|---|---|---|
日本人のブルマーとイギリス人のブルマー | 382 | 2020/06/28 | 月 | 07:56 | ★★ |
ドイツ人のブルマーとソ連人のブルマー、となりのトトロのパンツ(1) | 37 | 2020/07/27 | 月 | 07:44 | ★★★ |
イタリアと南米と中国のブルマー(修正版)、その1 | 2 | 2020/08/25 | 火 | 07:45 | ★★★ |
チアリーダーのブルマー、テニスのアンダースコート | 51 | 2020/09/01 | 火 | 08:02 | ★★ |
フィギュアスケートの見せパン、新体操のレオタード、陸上のブルマー | 488 | 2020/09/07 | 月 | 07:52 | ★ |
競泳水着と全裸水泳、海女さんのふんどし | 27 | 2020/09/08 | 火 | 07:55 | ★ |
ビーチバレーのユニフォーム、極小ビキニ強制の歴史 | 272 | 2020/09/14 | 月 | 07:38 | ★★ |
バレエのチュチュ、スカートの中のフリルとパンツ | 40 | 2020/09/17 | 金 | 07:50 | ★★ |
気が済んだので、またブルマーについて書くとはあまり思わないが、書くとしたらほどほどに私事やユーモアを入れてくつろげる文章にしたい。ブルマーについてだけではなく、日常で感じる素朴な疑問についても調査し、読んだら疑問が解消されてすっきりするものを目指したい。
また、具体的にどんな文章がバズるかは、どんな文章が読みやすいことと表裏一体だと考えられるので、こうした知見も仕事やブログの記事に役に立てていきたい。また、自分語りをするときであっても、読者にどう配慮すれば読みやすくなるかも、考え続けたく思う。
内面を自由に表現した文章がエッセイと言われる。事象と心象が交わる所から生まれる文章が随筆でありエッセイだ。だから、エッセイは必ずしも他人向けある必要はなく、自分専用であってもいい。
メッセージがはっきりしていて、何か意見を言う文章は論述なので、反論することができる。エッセイは心象を綴った物であり、事実と違うことがあればそこに異を唱えることはできるけど、心象に対して反対することは難しい。視野が狭いとか、持っている情報が間違っているので、そこから導き出した心象が間違っているということは指摘できるだろうけど。
エッセイを読むときに、「この文章の言いたいことやメッセージは何だろう」とずっと疑問に思ってきたけど、読み方が違っていた。事象に対して書き手が何を思ったか。その心象であったり視点、考え方を味わうものだ。「知らなかったことを知る」という情報提供の文章ではないので、読み終わった後に残る物がなくてもかまわない。
例えば風景画を見てみる。そこには必ずしもメッセージが含まれているわけではなく、ただ綺麗な物を絵に切り取っている。メッセージを読み取ろうしても読み取れない。そこにメッセージは含まれていないから。綺麗な風景をただ味わう。写真とは違うので見える物すべてが描かれるわけではない。何を描いて何を描かなかったのか、画家の目を味わう。エッセイにも同じようなことが言えるのではないか。事象について、考え方や切り取り方、視点を味わう。それだけでいい。
筑摩書房版の堀辰雄全集第4巻には「Ein Zwei Drei」という随筆が収められている。中村眞一郎と福永武彦に関する思い出を堀辰雄が昭和21年に書いた話だ(発表当初は「若い人達」というタイトルだったらしい)。
堀辰雄に私淑していた2人は軽井沢まで堀を訪ねて来た折、自転車に乗る練習をして自転車をボコボコにしてしまうのだが、それは奥さん(堀多恵子)の自転車だったという話だ。
当時この2人は10代後半か20代だったはずだが、それまで自転車に乗れなかったわけだ。昭和初期の人は子供の頃に自転車の練習をしなかったのか。
ちなみに、堀辰雄全集の編集者は中村眞一郎と福永武彦の二人だ。どんな話をしながらこの一編を全集に入れたことだろうか。
或る夏、軽井沢で二人揃って自転車の稽古をはじめたことがある。僕の家に遊びに来ていても、自転車があいていると、どっちか一人はかならず庭でその稽古をはじめる。中村はそんなスポルティフな事はぶきっちょそうなので、福永のほうがうまくなるかと思っていたら、反対に中村の猛練習が功を奏して、先きに乗れるようになってしまった。それを見ると、福永はそれっきり自転車は断念したようだった。––そのとき一番ひどい目に逢ったのは、僕の妻の自転車だったろう。二人のおかげで、すっかりハンドルが曲がり、ペダルが踏みにくくなってしまったと言って、こぼしていた。(まあ、けちはことはいうな。)
金とか将来とかそういうものを一切気にしなくていいとなったら俺もなにかちょっとしたものが生み出せる気がする
小説かもしれんし随筆かもしれん 絵かもしれんし音楽かもしれん とにかく何かだ
リアルな労働とか介護とかそういう問題が近くにあることが致命的に俺の創造性を削いでる気がするんだ
多分俺みたいなヤツは無数にいる
そりゃ働きながらすごい作品を生み出せるヤツとか、働くことを捨ててすごい作品によって生計を立てる方向に踏み切れるヤツはすごいよ もちろん作品を生み出せることもすごいけど、気力とか思い切りとかそういう部分もでかい
ただこの気力とか思い切りっていうのは芸術と直接関係はないだろう 1日働いたら気力を使い果たしてしまって家では寝るばかり、って人に夏目漱石なみの文才があるかもしれない 堅実に将来のことを考えて工学部に入って、絵なんて中学の美術で描いたのが最後って人も絵を本気でやってたらゴッホくらいの独創性を発揮してたかもしれない
芸術の才能に加えて覚悟とかバイタリティがないと芸術分野で才能を花開かせることはできない社会なわけですが、それってもったいなくねえか?
みんな高等遊民みたいな暮らしができたらあらゆる分野でもっとすげえ作品がバンバン出てきてるんじゃねえかと俺は思う
だからまずそれを証明するため、勤め人として摩耗していくばっかりの俺を掬い上げ、高等遊民にするべきである
頼みましたよ 俺をここで腐らせてんのは人類史における巨大な損失だ
(追記)
ああーんてめえら喧嘩売ってんのか? こんクソどもがよ
じゃねーーー てめえには言語読解の才能がないようですね 俺が今!芸術をやってないのがおかしいんだつってんだろカス ザ・カス
俺はさ、物心ついてからこのかた将来の心配をし続ける暮らしをしてきてるわけ 頭のどっかで常に「現実」を意識してんだよ
https://www.pbs.org/newshour/economy/making-sense/analysis-how-poverty-can-drive-down-intelligence
例えばこんな記事がある あんたらバカだから英語なんて読めねえか?日本語すら読めないんだからそうもなるか
かわいそうに…本当にかわいそうで仕方がないから日本語の記事も貼ってやろう 俺も英語なんて読めねえしな
https://www.afpbb.com/articles/-/2964902
プレッシャーによって心の中に大きな不安が生まれ、心的資源がいま直面する問題の方へ引き付けられる。つまり、日常生活で注意を必要とする他の物事に集中することができなくなることを示している
わかるか 貧困は知性を低下させんの 貧困ってほどじゃなくても将来への不安ってもんはつきものでしょうが だったら創造性にもなんらかの影響があるの! ないなんて言わせねえぞ
本当に一切金のことなんて考えずに生きてる奴がどれだけいるかって話 ニートだってなあ 将来に関してマジで本当に一切何も考えてないわけねえだろ 具体性はなくても不安に苛まれてんの あと金稼いでないことで引け目を感じて自己効力感が下がったりもしてるかもな 奴らとて社会から解放されてるわけじゃないんだよ そういうところに引っ張られて本来持ち合わせていた輝かんばかりの創造性というものが色褪せてしまっているのではないかっつー話をしてるんじゃい 頭の中の現実が才能を損なうんだよ
で、俺はなあ 俺は 俺はよう なりてえんだ なんの不安もない高等遊民にさあ そこなんだあ要は
そりゃそうなっても何も生み出せないかもしれねえよ でもな 可能性ってものがあるならかけてみたいじゃないですか
「明日から働かなくていいんだな、ああ、頭の中の霧が晴れたようだ、素晴らしい活力だ、海に行こう、海に行って日暮れまで絵を描こう」 ってことになるかもしれないでしょ!!???? つうかさあ芸術なんて評価の数で決まるんじゃないんだ ゴッホとか漱石とか言ったけどさ 有名さなんてどうでもいいよ 俺が、俺のやりたいことを それを思うがままにやるということじゃないですか それが芸術なんじゃないのか そうじゃないならそれでいいよ それなら俺は芸術にはこだわらん そんなん拝金主義のカスじゃないですか
だからねえ 俺を高等遊民に しろってことなんだ そうしたら 俺は ……嬉しい
でね
じゃねえんだよ だったらてめえ海にでも潜れ 水圧(Water Pressure)を感じろ 海底でプレッシャーから生まれたキモい小説を書き続けろ
あのね、そういう人もいるかもしれないよ でも俺は違うの あったかい布団で10日間何も考えずにヌクヌクするうちに創作意欲が生まれてくる そんなタイプである可能性の方が高いんだ 絶対そうなんですよね そして俺以外にも絶対そのタイプはいる
プレッシャーなんてかけようと思えばいくらでもかけられんだよ 実名で「3年以内に芥川賞とれなかったら目でピーナッツ噛みながら逆立ちで日本一周します 神に誓って絶対やります」とでもなんでも書いて自分を追い込めばいいの! 俺はそんなもんいらんって話をしてんだ
文句あっか かかってこい 荒川の河川敷で決闘だ 俺は行かないぞ 蚊に刺されてすごすご帰れ
正字正かな遣いクラスタの用いる言葉がバーチャルすぎて半笑いになる。
本人は格好つけている、あるいは意義があってそうしていると思っているのだろうが、例えるなら日本語の文法がおかしい人が一生懸命頑張ってるみたいに見える。
A時代(明治と大正末だとだいぶ違う。昭和戦前が一番イメージしやすいだろう。江戸時代でも鎌倉時代でもいい)で異なるし、
B書かれる媒体(新聞なのか随筆なのか、個人の日記なのか)で異なる
今でもそうでしょう。
1999年頃の、ギリギリまだ怪しい雑誌に怪しいライターがひしめいていた時代のあの文章。思い出して欲しい。
ちょっとカタカナ混ぜたり、トカ? ゲーム批評のガップ獅子丸みたいな文章。今だいぶ雰囲気変わったでしょう。
逆にいうと、今風の? 切込隊長やよっぴ〜みたいな文章も、ネットで見られる時代の象徴的な文章としてのちに振り返られるかもしれない。
20年でだいぶ違う。
そして、これらの文章はビジネス文章や国会の答弁、ニコニコ動画のコメントなんかとはまた質的にことなる。
当然、歴史のどこかの時期にもこうした現象は発生していて、ほとんどの正字正かな遣いクラスタはその事態に対応できていない。いつどこの文章か定めていない。
自分の、なんとなく知っている文字や用語だけを用いてネットに書き込んでいる。
本人たちは別に自分で用語を選んでいるんだからいいだろ、という認識のようだ。それは別に選択だからいい。正字正かな遣いクラスタをやるのはなんらも問題ではない。
だが、その用語の選択はとても格好が悪い、あるいは選択のセンスが低いということだ。何回も言うけど、任意で日本語のあるバージョンを選択すること自体は別に問題ではない。選び方のセンスがダメ。全くダメ。
新しいジャンルならセンスも何もないのだが、日本語の表現なんていういつもいろんな人間が手を染めてきた分野だから、やってることの格好の悪さが際立つということだ。
例えるなら小学校高学年くらいの時に50音にそれぞれ謎の記号をつけて、オリジナル暗号を書いていた人はいるのではないだろうか。
正字正かな遣いクラスタのやっていることはこれに近い。大人のオリジナル暗号やってるみたいな。
周りの人は「大人」だから読めるし付き合ってやってる。これくらいの格好の悪さ。格好の悪さの格調が低い。
さてどうすればいいのか。私案。
ネットに書く時には様々な制約がある。異体字や縦書き、横書きの制約。「つんぼ」とか差別的な意味合いが深まった表現とどう対峙するか。
俺だったら明治〜大正時代の行政文書、あるいは室町時代の日記あたりで挑戦してみたい。
相当原典にあたり言葉に詳しくならないとならない。「正字正かな」を用いると言うことはそういうことが必要だと思う。
要するに、正字正かな遣いクラスタは、言語や用語にこだわっているように見えて、実態のところ非常に個人的で恣意的な操作をしている。
このアンバランスが最高に格好悪いということ。
私はゲーマーである。最近では据え置きゲームをプレイする時間が無い為専らソシャゲ専門である。ただし、昨今売り上げトップクラスのゲームぐらいにしか手は出せていない。
私は本をたまに読む。現代の流行作家も好きだが、芥川龍之介氏や泉鏡花氏、太宰治氏の美しい文体に夢中になったり、吉川英治氏の宮本武蔵を読み、力だけの強さではなく精神の強さの高みに至るにはと考えさせられ、武者小路実篤氏の晩年の随筆を拝見し人間の老いとそれでも書くという意思を貫いた氏に敬服したりといった具合の文学研究者には程遠いレベルの本好きである。
それを踏まえた上で、昨今見聞きした件での所感を綴ろうと思う。
「文豪とアルケミスト」とはDMMゲームスより配信されているユーザー100万人突破、DMMランキング11位(本日19:00現在)Game-iの平均ランキング322位(売上予想131万円)の人気のある女性向けソーシャルゲームがある。世界観担当をイシイジロウ氏(代表作は2008年の「428~封鎖された渋谷で~」今後「新サクラ大戦」にも参加されるらしい)プロデューサーを谷口晃平氏が担当し、金沢で製作されている。
さて、この「文豪とアルケミスト」のゲーム内では文豪が実名でキャラクター化しており、ゲームの中のイラストの美男子達が芥川龍之介氏や太宰治氏を名乗っている。いや、それはいい。ご遺族にご挨拶して許可を事前に取っているのならそれは全然構わないと思う。そしてその文豪達を強くする為に召装という物が必要になってくる。それら召装には文豪の私生活や遊んでる風景などが描かれる。また文豪の衣装を変えられる権利も手に入れられる。もちろん無料ではない。世に言うガチャである。
さて、このガチャで2019/2/21に配信された「猫町ノ幻燈」でとある問題が発生した。召装イラスト内に於ける萩原朔太郎の着用しているお面が個人クリエーターである和兎庵氏(以下クリエーター様)がデザインし販売している猫面とデザインが同一であるという点である。
発見したのは某匿名掲示板で文豪とアルケミストを見守っていた方々と、皮肉にも文豪とアルケミストに対して疑問符を抱いていた人達であり、すぐにまとめがtogetterにて作られた
この事はすぐにクリエイター様の所に伝わり、早速問い合わせをし、弁護士にも依頼したという。これを受けてユーザーの中にもそれなりの人数の問い合わせをした人も居たと思われる。
しかし、その返信は「順次詳細確認中」という味気の無いものだったらしい。ユーザーの中にも不満を漏らす者が出てくる。
まずこの時点で普通のゲーム運営ではありえない。「調査中」と宣言して召装を取り下げるなりの処置を、文豪とアルケミスト運営はせずに、召装ガチャを売り続けたのである。その態度に不満が出るのだが、その声は悉く封殺されたのである。
何故か。
Twitterで「文アル」と検索するとサジェストに「文アル リンチ」と出てくる。
これはいついかなる場合でも運営に対して不満を漏らすユーザーを他の文アルユーザーがネットリンチをしているという事である。
主な手口としては不満を漏らすユーザーのツイートを引用RTしながら「何が悪いかわからない」「クレーマー」「要介護者」と言った罵倒を繰り返す。そして不満を漏らしたユーザーがアカウントを消去したり鍵を掛けるまで嫌がらせを続けるのである。
この嫌がらせは残念な事に 盗作されてしまったクリエーター氏にまで及んでしまった。
しかし数回にも及ぶ問い合わせにも文豪とアルケミスト運営はユーザーはおろかクリエイター氏本人にも誠意ある返信をしなかった。
その結果、クリエーター氏は裁判所を話し合いの舞台とせざるを得なくなる。 協議の為に3回も裁判所を訪れなければいけなくなった側の身を考えると他ゲームユーザーでも胃が痛くなる。
そして昨日2019/5/10
それを見てクリエーター氏も普通のユーザー諸氏も一ゲーマーの私も驚いた。
それはもう同じプラットフォームのカオスサーガの謝罪文よりも酷い文章だった。
文豪とアルケミスト運営は、文豪ゲーの名に賭けて弁護士に謝罪文の作成を依頼せずにスタッフに謝罪文を作成させたのだろうか。
むしろこれで謝っていると思える方が凄い。
そして現在のところイシイジロウ氏 も谷口晃平氏もこの件に関して全く触れていない。
この件に関して思う事は、「これが罷り通るようになったらゲーム業界本格的に終わる」だ。
この「文豪とアルケミスト」運営は過去にも様々な盗用をやらかしてきたらしい。その度に熱狂的なユーザーに庇護されてきた。
その一方で純粋に文学が好き、真っ当な倫理観を持ったユーザーは「文豪とアルケミスト」に拒否感を抱き、離れていった。離れないにせよ課金を控えるというソシャゲに取っては致命的な行動に出ざるを得なかった。
残るのはトンチキな理論でアクロバティックな擁護をする あまり運営に取って有益ではないユーザーだけ。
その結果が「ユーザーが100万人いってるらしいのにゲーム名を聞いたら眉を顰められる、課金もほとんどされないゲーム」の誕生である。
ここまで言っておいて何だが別に「文豪とアルケミスト」にさっさとサービス終了してくれとは言わない。
何故ならこの運営、スタッフ、狂信的ユーザーを箱庭のように永遠に「文豪とアルケミスト」の中に閉じ込めておいてもらいたいからだ。
この運営や狂信的ユーザーの倫理感で他のゲームや娯楽コンテンツが汚染される事が、ただただ恐ろしい。
でも付け加えるならば盗作盗用は二度とせずに、自分の好きな国内外の作家は出てほしくないし、出来れば今出ている好きな作家は取り下げてもらいたいなぁと思う。