内面を自由に表現した文章がエッセイと言われる。事象と心象が交わる所から生まれる文章が随筆でありエッセイだ。だから、エッセイは必ずしも他人向けある必要はなく、自分専用であってもいい。
メッセージがはっきりしていて、何か意見を言う文章は論述なので、反論することができる。エッセイは心象を綴った物であり、事実と違うことがあればそこに異を唱えることはできるけど、心象に対して反対することは難しい。視野が狭いとか、持っている情報が間違っているので、そこから導き出した心象が間違っているということは指摘できるだろうけど。
エッセイを読むときに、「この文章の言いたいことやメッセージは何だろう」とずっと疑問に思ってきたけど、読み方が違っていた。事象に対して書き手が何を思ったか。その心象であったり視点、考え方を味わうものだ。「知らなかったことを知る」という情報提供の文章ではないので、読み終わった後に残る物がなくてもかまわない。
例えば風景画を見てみる。そこには必ずしもメッセージが含まれているわけではなく、ただ綺麗な物を絵に切り取っている。メッセージを読み取ろうしても読み取れない。そこにメッセージは含まれていないから。綺麗な風景をただ味わう。写真とは違うので見える物すべてが描かれるわけではない。何を描いて何を描かなかったのか、画家の目を味わう。エッセイにも同じようなことが言えるのではないか。事象について、考え方や切り取り方、視点を味わう。それだけでいい。
お前は似非い
でもさ、優れたエッセイ、とりわけ作家が書いたエッセイはやはり何がしかの意味が発生する体裁にはしてるよね。 別に何かにかかってる必要性は「エッセイなら」求めないけど、そこ...