教育現場でもかなり秘密にされていることだが、文系の試験のうち主観式(文で書く奴)は、出題者の期待を読み取るのがすべてと思ってよい。ぶっちゃけて言うと、先生が読んで気持ち良いかどうか。私は体制に従順でなく、上の期待に沿うのが嫌なので、主観式はすべて不得手。点数が取れた試験は、答えが一つに定まる理系科目か、文系でも語句だけを記せば良い客観式だった。文章で書く奴はたいていだめ。上を怒らせるような独特なことを書いてしまうためである。あるいは上の期待を外してしまう。だから加点がされない。小論文試験はうまくいったことがない。このブログを読めば分かるように、独特すぎるから、不愉快極まりないのだろう。だがこちらとしては、今でも小論文試験は思想チェック試験だから憲法違反だと思っている。東大前期のときは、節を屈して、何ヶ月か、完全に上が期待するような頭にした。あれは相当苦痛だった。出題趣旨をつかみ、気持ちのよいキーワードを思い出すように努める。文系の試験は、何を書こうが、体制に都合の良いことを書かなければ点が出ない。あんなものが試験として通っているのは誰が見てもおかしい。
http://web.archive.org/web/20070328081129/http://d.hatena.ne.jp/leibniz0/
当時のエピソード記憶がすごい鮮明なんだね。 いちいち高校や予備校や大学や刑務所の先生のフルネームなんて普通覚えてられないよ。
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いや、読ませる。 そして読みやすい。 2ちゃんや別のところに断片的にコピペされていた前田随筆集も読ませるものがあったが、ブログのアーカイブも残っていたとは。 今となっては...
何事にも適正というものがある。たとえば酵素にしても温度が高いほど活発に働くが、ある温度以上にすると酵素を構成する蛋白質が変性して失活する。コンピュータ能力も同じことで...