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2020-10-04

anond:20201004021025

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オーギュスト・コント

Auguste Comte

オーギュスト・コント

オーギュスト・コント

生誕 1798年1月19日

Flag of France (1794–1815, 1830–1958).svg フランス共和国オクシタニー地域圏エロー県モンペリエ

死没 1857年9月5日(59歳没)

時代 19世紀哲学

イジドール・オーギュスト・マリー・フランソワ・グザヴィエ・コントフランス語: Isidore Auguste Marie François Xavier Comte、1798年1月19日 - 1857年9月5日)は、フランス社会学者哲学者、数学者総合科学者。1817年からアンリ・ド・サンシモンの教えをうけ、助手を務めたこともあったが、1824年にけんか別れした。1841年から1847年までジョン・スチュアート・ミルと親交があった。「社会学」という名称を創始し、彼の影響を受けた英国ハーバート・スペンサーと並んで社会学の祖として知られる。『社会組織必要科学作業プラン』、『実証哲学講義』、『通俗天文学哲学的汎論』、『実証精神論』などの著作がある。生涯を在野の学者として過ごし、パリで死去した。

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2020-07-11

anond:20200711005458

面白い

なろう系は一度無教養オタク向け通俗小説レッテル貼られてしまたから、

情報更新されないまま、異世界転生してうんたらって話ばっかりなんでしょーと思っていたし、

世間一般にはそう思われたまんまだったけど、

実際に内部では常にトレンド更新されて、新陳代謝が行われてるんだなあ

2019-01-06

百田尚樹バカにするのはたやすい、しかし、

百田尚樹というブランド」を作り上げるのにかかった年月と、そのための努力、これは悔しいが素人では太刀打ちできないのだ、悔しいが

じつは俺は、歴史系の底辺ライターである

よく書店ではなくコンビニで売ってる、古代史や戦国時代に関する紙質の悪い雑学本の仕事をしている

その程度の本でも、Wikipedia最後の裏取り程度にしか使わず吉川弘文館だの中公公論社だの岩波書店だのから刊行されてる、それなりの実績がある大学教授が書いた専門書を参考に書いてる

だが、これは自己満足プライド問題しかない

実際、現代ではまともな歴史学者の資料に当たると「日本書紀のこの記述ウソ、当時の政治的作為がうんぬん」「平家物語のこの記述は~」「太平記のこの記述は~」という調子で、いわゆる面白そうな話はほとんど全否定になる

逆に、マニア的に「じつはそうだったのか!」的な面白さもあるのだが、これはある程度の前提を理解したマニアでないと通じにくい

通俗歴史本の執筆という点では、誇張抜きに、俺の方が百田尚樹より真面目に仕事してると本気で思ってる

しかし、それでは売れないのだ

あのくだらん日本国紀は、「百田尚樹というブランド」の勝利なのである

そして実際、無名歴史系の底辺ライターである俺は、『海賊と呼ばれた男』だの『永遠の0』ほどの小説は書けないし書いたこともない、負けなのは仕方ないと認める

が、たか書店ではなくよくコンビニで売ってる雑学本でも、俺はWikipediaに頼らず、一定の実績ある歴史学者が書いた文献を参考に書くことを辞める気はない

読者に正確な事実を伝えたいなんてご大層なことではない

単に職業人としてのプライド問題

2018-03-27

anond:20180327090622

やり始めたらやる気が出るからそのまま続けろ

やる気が出るまで待つの不毛。という趣旨見解を、心理学だったか教育学だったか通俗書で読んだ記憶があるが、

感情理由に後回しにせず、とにかく行動をするのが重要ってのは、たいていの場面で通用する法則なのだろうな。

2017-12-05

anond:20171204230752

実際に古典というのは浮世離れしたおっさんどもが書いたものばかりなので現実を生きてるおっさんが読んでも文章ツッコミいれまくりで感銘を受けるものはないだろう。

おっさん通俗小説歴史時代小説が読まれるのはそういうこと

2017-11-18

哲学」という言葉を使ってもいいところ

浅はかな知識でなんでも「哲学」とか言ってるのを見るのはうんざりなんだけど、

少なくても道徳が関わるところは、この言葉使ってもいい気がする。

通俗哲学という意味で。

哲学倫理学を含むからね。

ただ難解だったりすることを無闇に「哲学」って言うのはやめて欲しいな。

2017-07-14

謙信智あり、信玄胆あり、是(これ)古の戦なり。星移り、物変りぬ。

謙信智あり、信玄胆あり、是(これ)古の戦なり。星移り、物変りぬ。すばしツこきをのみ智謀といひ、づうづうしきをのみ胆略といふ。掏摸(すり)と追剝とは、最もよく通俗的に、この二つの表現せられたる者也。

2017-05-18

http://anond.hatelabo.jp/20170518030349

君の大学時代が掛け替えの無いものであることは良くわかった。

だが君自身自覚しているかもしれないが、君やICU特別ものであるかどうかとは別問題だ。

加えて言うと私が知り合ったICUOB言動に比べて君の文章は読み応えに欠けICU特有性を読み取ることは出来かねる。

その理由最初に述べた。

君の述べるところの所謂通俗性に対して批判であることが無条件により良い訳でも崇高な訳でもない。

勘違いして欲しくないのは既存価値基準が良いものだと言っているのではなく、姿勢説明だけでは全くもって口だけだと言うことだ。

そこで何が必要であるかは聡明を以て鳴るICUに期待させて頂くとする。

少なくとも君の文章を読む前は看板を信用出来ていた。

2017-01-22

イギリスでの「君の名は」(今更だがネタバレ注意

残念だがそれほど人気がない。

俺は英国在住のおっさん年始ロンドンで見たが、そもそも上映している映画館が少ない。毎日上映している映画館ロンドンで2-3か所。860万人住んでいるのに。

月に数回上映がそのほかに数か所。以上。ザッツオール。公開後1月以上経過しているから減ったのだろう。

客の入りは5割くらいで、そのうち6割がイギリス人、4割は東洋人。中国人韓国人日本人

イギリスメディア君の名はを絶賛した、という記事は俺も見た。口コミサイト評価も見てみたが、非常に良い。

更には上映後のイギリス人の反応を観察してみたが、満足そうに見えた。

ゆえに入口でのハードルなのだろう。ただし内容について「感動」「ラブストーリー」というよりは「展開が早く引き込むストーリー性」「映像の綺麗さ」が評価されているように思う。

若者ラブストーリーである君の名は」がイギリスアジア圏のようなヒットにならない理由は以下のように推察している。

欧米ではおおむね共通ではないかと思う。

アニメ子供オタクのもの

今でも完全にそうです。宮崎アニメのように家族で見に行くならともかく、ラブストーリーアニメで見ようという発想は世間若者に全くないように思うし、他人に知られたら恥ずかしいことと思われる。

なお本作では奥寺先輩が煙草を吸ったり、瀧が酒を飲んだりするので12規制がかかっている。

・瀧と三葉は欧米人から見て魅力的か

作品にのめり込めるか、一番重要なのはこの点だと思う。瀧が三葉が男性として女性として魅力的に描かれているか

多くの日本人には、瀧はイケメン、三葉は高校時代は可愛く大人時代美人、という設定に異論はないと思う。

欧米人から見ると、経験に基づく推測だが、瀧も三葉も体が薄っぺらすぎる。

瀧は本人のときでもかなり「中性的」に寄っている。欧米人からジャニーズ中性的子供に見えるということと同じである

(3人組のうち)高木くらい男くさいほうがいい。イギリス人は瀧に対してこう言いたくなるだろう。「もっと肉を食え、ラグビーで体を鍛えて、女性を守れる男になれ、髪形もベリーショートリーゼントしろ」(適当

三葉は単純に子供に見えていると思われる。もっとグラマラスな魅力が出てこないとラブストーリー主人公という雰囲気が出てこない。シャイ性格マイナスだ。瀧の三葉くらい気が強いほうがウケる作品内でもそうだったが)。

イギリス人ラブストーリーは顔を0.3フィートくらいの距離まで近づけてロマンティックな言葉を囁きあう感じなので、瀧と三葉の恋愛動作は非常に幼く見える。こちらの高校生結構オトナである

山頂で出会うシーンもイギリス人なら、強くハグして、濃厚なキスをして、0.3フィートである(超適当)。名前を書きあっている場合ではない。出会って3秒でハグキス0.3フィートである高校生にそういう描写が許されているのかは知らない。

ラストシーンでいったん声をかけずにすれ違ってしまうシーンには、階段の一番下から大きく手を振って「Hey!!!, I think I met you sometime and somewhere!!!」と大声を出さないのか不思議であろう。奥ゆかしさは理解されてもそこから生じる感動は理解されないと思う。実際に泣いている人は少ししかいなかった。クライマックスの「すきだ」も字幕からね。手によくわからん文字が書いてあって字幕I love youちょっとねえ。

日本人おっさんである俺にとってどうだったかというと「超面白かった」。イギリス日本、機内の計3回も見てしまった。最初に見たのは機内だったが、中年おっさんうるうるしているのを見てCAさんはドン引きしていたことであろう。少し気になるのは日本での作品への「評論である。確かに整合性おかしいところは多い。私は3年のずれに気づかないことよりも、この広い宇宙隕石1200年周期で同じ場所を直撃することのほうが超天文学的確率というか、分母が10の何乗になるのか、そのほうがずっとありえないと思いながら見ていた。変電所の爆破は中部電力に連絡が行ってしまったので町を救ったからお咎めなしになるものではあるまい。ああい会社は融通をきかせるのが難しい。テッシ―の「髭剃れ」の話は収監されていたから?などとも思った。しかしながら、内容の整合性に難があってもそれ以上の魅力で引っ張ってくれれば私はそれでいいと思う。官僚銀行員のような減点主義映画を見てもつまらんでしょう、と個人的には思う。

キネマ旬報ベスト10がどういう選考基準なのかHPを見てもよくわからなかったが、アジアで数千万人を引き付けた映画よりも、日本映画だけでも10個も上位があったら、それって大ニュースなのではないかと思う。売れる映画と良い映画は違うというのは一部分かるが、それよりはもっと簡単説明できる言葉があるのではないかスノビズム大衆は見る目がない、ということだもの

同業の監督評論家の「売れる要素だけ詰め込んだ」とか「モチーフがありきたり」の批判に対しては、おっさんは長く生きているので、30年前の「ノルウェイの森騒動を思い出す。「100%純愛小説」と付けてクリスマスカラーで売り出した同書は「君の名は」と同様に爆発的に売れ、今ほど有名でなかった村上春樹スターダムに押し上げると同時に、評論家から「誰でもかける薄っぺら通俗小説」「ありきたりの三角関係」などの多くの批判が浴びせられ、その騒動村上春樹は心を痛めて日本を離れた。彼の作風にも影響が出てしまった(軽妙さが失われた)と思っている。

俗流日本論にはなってしまうが、やはり日本嫉妬文化根深い、と日本を離れて思う。

海監督が村上春樹級なのかは知らないが、売れれば批判する人たちがいるのは世の常なので、どうか気にせず頑張ってください。

2016-10-10

堕落的または安易もの通俗的なものポルノと呼ぶ風潮は

例のオーストラリア障碍者の人がTED発言したことがありますけど

あれ以前にもはてななんかでsukebeningenがやたら言ってたのを思い出すんですけど

このあたりのまとまった資料なんかあります

2016-09-23

愛とは何か

1.

高校のころ伊藤整愛について書いた評論を読まされたことがある。

十年以上も前のことだし記憶あいまいなのだが、内容は「西欧キリスト教)でいう無償の愛とかいうやつは日本では無理www反論ある奴はクソブス女でも愛せるのか言ってみろ!おらっ!」みたいなものだったと思う。

高校生だった自分は「ああたしかにそうだ」とえらく納得し、愛というもの絵空事のように感じて、男女間にあるのはただ性欲と情だけなのだという彼の論旨を素直に受け容れた。

2.

しか大学に入ってこの考えにほころびが生じてきた。

大学天使のような女の子が居たのだ。彼女は今でいうスクールカーストの上位層だったのだが、誰とでもわけ隔て無く接し、卑劣裏切り行為をした相手に対しても幸福を祈るというような少女だった。

いま思えば彼女クリスチャンだったんじゃないかと思う(そういえば名前聖書に出て来る女性風の名前だった)のだが、当時の自分には彼女が全く理解できず、上述した伊藤整評論の内容を軽く非難めいた口調で説いたりしていた。

いま思えば赤面もの行為なのだが、彼女はそれをニコニコしながら聞いていた。

3.

そして最近キング牧師愛について説いた説教を読む機会があった。

これも一読しただけでうろ覚えなのだが、要約すると「『愛』と『好きになること』は別物である。神が私たちに『敵を好きになれ』と言わず『敵を愛せ』と言ったことに感謝すべきだ。私たちは、憎む敵を好きになることができなくても、彼のために祈ることはできる」という趣旨だったと思う。

これを読んで今まで持っていた伊藤整流の「愛」観が崩壊した。伊藤整通俗的な「愛」のイメージ問題を論じていたのではないか

4.

がっくりして人生を振り返ってみると、自分はどうも愛と無縁な生活を送ってきてしまったらしい。

大学天使のようだった彼女はいま何をしているのだろう。きっと愛に満ちた生活を送っているに違いない。

2016-06-30

メンヘラは、病気じゃないから薬じゃ治らない

xevra先生が、高齢メンヘラカップルブログに、薬が合ってないのか、とブコメされておられるが、

ブログを読む限り、主治医への相談必要で薬を変えなければいけないほどのうつ症状がある感じはしない(あのブログ精神リスカは通常営業だ)し、

そもそもパーソナリティ障害自体は、神経や脳器質などの生化学的なものというより、他人迷惑になるレベルで著しく性格が悪い人、というだけのことなので、

薬じゃあ治らないし、根気よくカウンセリングなどを続けたところで、あまり効果がない(何しろ著しく性格が悪い人を相手カウンセリングしなきゃいけないから)ことが多い。

パーソナリティ障害には多くの種類があるが、これは、様々なベクトル性格の悪さを、大まかにカテゴリー分けしているだけ、という側面もある。

実体験数が少なく、それに反して情報量が多い今時の若者には、多かれ少なかれパーソナリティ障害的な心の動きが見られる人もいて、それほど珍しいことでもない。

まだ若い人であれば、良い友達や良いパートナーときちんと付き合っていくことで、カウンセリング的な効果を得て、成長と共に

他人迷惑になるレベルで著しく性格が悪い人」から、「ちょっと個性的だけど面白い子だよ」ぐらいまで改善することも少なくない。

まぁ、当該の高齢メンヘラカップルは、もう既にどっちも高齢者で、今までの道のりで見つけられたであろう性格改善ヒントをすべてスルーしてきたという実績に加えて、

道端に落ちてたメンヘラを拾って隙間を埋めてみたけど合わなかったから捨てました、みたいな、

いい年した人間ならとっくに卒業したような(おまけにそれをSNS告白したり、サブイボ級のポエムタッチブログ公表したりの)破壊的な行動を繰り返している輩どもなので、

パーソナリティ障害に係る各種の「生きづらさ」の改善は、期待できないだろう。

「うつ」心の風邪から休養がいちばん、という例えに倣うなら(これは本当によくできている例えだと思う。複合原因または原因不明放置・反復が過ぎると死を招くところまで特徴をよく表してる)、

パーソナリティ障害は「子供の頃から生活習慣ですっかり太った精神デブ」みたいな感じだと思っている。これは自分勝手定義していることではあるが。

彼らのような、パーソナリティ障害に苦しんでいる人たちの持つ共通の原因は「肥大化した自意識」。他者存在を受け入れずに生きてきた結果「自」のフィールドけが肥大化している。心の内臓脂肪理由

これは、遺伝的な体質ももちろんあるけれど、どちらかと言うと、生育環境なども含む生活習慣由来の問題なので、投薬やおざなりカウンセリングなどでは、根本改善するのは難しい。

例えば、長年の運動不足肥満から糖尿を発症した人に対して、糖尿への投薬治療はできるけれど、運動不足由来の肥満を解消させて原因を改善させるのが本当に大変なのと同じような感じ。

そして「適度に食べ、適度に運動し、人生を楽しむ」習慣が身に付けば、収まってしまう(糖尿発症ちゃうと収まっちゃう簡単には言えないけど…)ようなものでもある。

パーソナリティ障害精神科受診すると抗うつ剤を処方されることがあるが、肥満理由の糖尿と、メンヘラ理由うつは、似ていると思う。

そして、肥大した自意識=過剰な内臓脂肪、と例えると、他者筋肉量、という感じである

上の方に記した「良い友達や良いパートナーときちんと付き合っていく」というのが、「適度に食べ、適度に運動し、人生を楽しむ」にあたる部分で、とても大切なことだったりする。

職業カウンセラーでは、そこまで対象者踏み込み、「適切な距離を取った他者」であり続けるのは、時間的にも精神的にも難しいのが現実

一方で、メンヘラではない多くの人は、自分の近くにいる人と適切にコミットしたいと願うのがふつうだ。その方が人生を楽しみやすいし人間関係安全性を確保しやすいから。

ましてや、近づいた意図友情恋愛などの「好意」に基づくものであれば、時間や労力を厭わずに、その相手との適切なコミュニケーションコミットメント方法模索しようと試みる。

メンヘラ傾向があったが色々あって落ち着いた人」というのは、このような友情愛情という機会を、きちんととらえることができた人。

若いうちのメンヘラは恋すれば治る、みたいな側面もあって、良い人と巡り合えば、ケロッと、それこそ憑き物が落ちたかのように普通になっていたりする。

一方で、当該の高齢メンヘラブログを読むと、今まで、改善可能性を感じる「他者」と向き合わうべきタイミングで常に逃避行動を取って生きてきたのだろうということが分かる。

な、著しく性格が悪いだろう。

ちなみに、他者と向き合わなくても、結婚だって離婚だって浮気だってセックスだって、するのは簡単。というか、むしろ他者ときちんと向き合わない方がどれも簡単だったりする。

相手のこと考えずにいる方が、照れや逡巡や羞恥心プライドなんかの、恋愛セックスにまつわる精神的なハードルは超えやすいから。

ただし、他者ときちんと向き合った付き合いの上で行う、結婚生活セックスは、向き合わないまま行う結婚セックスの何千倍も多幸感が強い。まぁ当然の話だが。

「彼ら・彼女ら」が、あれだけ行動的で、発信意欲が強くても、ちーとも幸せそうに見えないのは、これが理由

パズルの合わないパーツを、手前勝手に合わせようとして癇癪起こしてる子供と一緒。

他者と向き合わず精神的な成長を否定して、というのは、大昔は「ピーターパンシンドローム」なんつって流行ったんだ。

まぁあれはあれで、この文章と同様に偏狭な側面が強いものではあったが(なんで男性限定したんだろうなあれ、時代性だろうか)。

まぁ、そんな通俗心理本が出る程度には、一山幾らの、凡庸特に特徴も魅力もないような、特に珍しくもないような、ただの性格の悪さでしかないんだよな。

2015-11-23

漫画ワンピース」はスペオペである

いや、どう考えても宇宙じゃないだろ!?っていうツッコミが速攻で来ると思うのだけれど、舞台構造スペースオペラスペオペであるという話で、狭い意味でとらえずに広い心をもって少し話を聞いてほしい。

周囲の友人には以前からこの説を披露しているのだけれども、なかなか賛同を得られないので増田で書く。



そもそもスペオペとは?

ジャンル定義論になると すげーややこしい議論に発展してしまうし、そこまで詳しくないのでざっくりと説明するとスペースオペラ1960年代ごろから定着した小説スタイルで、名前の通り舞台宇宙なのが特徴。

人類ワープ技術や超光速航法を得て宇宙に版図を広げ、恒星交流どころか銀河渡り、異星人とも親交を深めたり、ときには争ったりもする。未開の惑星に不時着してそこで未知の怪物出会ったり、宇宙船の中で殺人事件が起きて容疑者の異星人たちの特徴から犯人を捜しあてたり、など様々な内容の小説がある。


SFスペオペの違いは?

こう説明すると、SFサイエンスフィクション)とスペースオペラってどう違うの?と疑問に思うかもしれない。

そこには明確な違いは無いのけど、敢えて線引きするならスペースオペラ通俗的なんだよね。舞台こそ宇宙船惑星が出てくるけれど、科学的な考証なんてそんなに重要じゃあない。とりあえずレーザー銃を撃って、悪い奴を倒して、美人を助けて物語は終了!めでたしめでたし、っていうのが大事

それというのも、スペースオペラは背景が宇宙になっただけの西部劇、と言われるくらいで なにせ低俗的な雑誌に連載されていたから、SFファンからするとちょっと下に見られている。

西部劇というとイメージしにくいから、言い換えると宇宙舞台にした水戸黄門と思ってもらっても良い。諸国を漫遊するんじゃなくて、惑星渡り歩いて悪事を働く敵を成敗していく定番パターンの要素はさして変わらない。


スペオペ西部劇であり、冒険小説でもある

前段のスペースオペラ西部劇、って見方は間違いではないけれど、もう一つの要素としては冒険小説エッセンスを取り入れたのが大きい、というのが個人的意見


冒険小説って言うのは歴史が深く、中世騎士物語とか英雄譚とかが源流のジャンルで、主人公が様々な苦難を経て色々なところを冒険する、というもの

とある東の国では怖ろしい牙を持った30フィートを超える獰猛な虎と闘い

とある南の国では毒矢を操る部族と捕まりそうになるが隙をついて逃げ

とある海の国はいかだを組み合わせた住居で一生陸に上がることのない一族出会

などなど。


とりあえず妙なところを旅して、変なことが起きて主人公翻弄されるものの、結果的に知恵と勇気危機脱出する、というのが基本パターン。もちろん実際に旅をして書いた書物もあるものの、読者がそこに行って確かめことなんてない時代から適当に書いたものほとんど。


なにより、このジャンル大航海時代以降になって一気に花開いた。

史実でも南米や、さらには南太平洋諸島には独特の風習を持った部族文化遺産、また珍しい動物がたくさんいたので小説の題材としてはやりやすかった。

見上げるほど大きな猛獣との遭遇したり、人を食べるという部族に捕えられしまい大ピンチに!とか。

18世紀に発表されたガリバー旅行記も含め、19世紀くらいまではこのジャンルは盛り上がったのだけれども、20世紀にもなると下火になってしまう。


なぜなら、もうその頃には人類未踏秘境というのもなくなってしまたから。

不思議動物ジャングルの奥地に住む謎の部族も調べ尽くして、冒険ロマンは地上には残っていない。


そこで宇宙なわけ。



スペオペの魅力とその特徴

スペースオペラは作者が惑星ごとに好きなように自然環境を作れるのが大きな利点で、重力が少ししかない衛星があったり、昼が一ヶ月続く惑星も設定できたり、生態系でも、異星人でも、文化風習宗教法律など様々な要素を自由に設定できる。

そして一つの話が終了すれば主人公たちはそのままで、次の星でまた新しい物語を構築できる。それぞれの星で不思議出会いがあり、軋轢があり、その問題主人公たちが苦難を乗り越えて解決していき、そしてまた次の星へ。


ここまで説明してみると分かると思うのだけど、ワンピースの「島」も似たような構造にあるんだよね。

グランドラインに浮かぶ島々には様々な国々があり、翼の生えた種族が居たり、動物のような容貌の人々がいたり、奇妙な動植物があったり、冒険小説のような要素が満載で、それでいて一つの物語を解決すると次の島へ旅立ちそこで新たな出会いが……というパターン惑星を旅するスペースオペラとも共通の面が大きいと気がつくはず。

舞台こそ地上ではあるけれども「島」という設定は「惑星」に近く、もうこれはスペースオペラ物と言っても過言ではないだろう。



っていう話をすると

『いや、でも宇宙じゃないじゃん!』

と友人たちに一蹴されてしまうだけれども……。


賛同してくれる人が少しでもいるといいな。



元ネタのような記事

そろそろスペオペなラノベがくるんじゃない? - WINDBIRD

この記事を読んで書きはじめてみたものの、書いてみたら全然違うところに話が進んでしまった。




補足1

あらかじめ補足しておくと

ひょっこりひょうたん島』も『キノの旅』もスペオペである派です。


補足2

ネルフェアリーヴァースは宇宙に行く話なので、厳密にはワンピースは地上に限った物語ではないけど。

2015-07-01

クソッタレ絶歌」とかいう本を読んだけど、つまらなかった。

 1

 6月11日に、「絶歌」は発売された。その直後、この本の刊行を報道で知った遺族のうちの一人が、遺憾であるコメントを発表した。

 以来、今日に至るまで、様々な人々が—— 専門家知識人芸能人ライタークリエイターetc——、この本についてコメントをしたり、記事を発表している。

 少しだけ、どこかで見たような光景だな、と俺は思った。

 原発だ。

 震災以来、原発というのは、賛成だろうと反対だろうと、何かしらの意見を持たなければならないような問題になった。「どうでもいい」「どっちでもいい」というような態度は許されない。誰しもが原発に対して、真剣に考えなければならない(あるいは、そのフリをしなくてはならない)、そんな風潮が蔓延している。

 そんな光景に、どこか似ている、と俺は思った。この本の出版に関して、肯定的だろうと否定的だろうと、有名人(というかライタークリエイター芸能人)は、何かしらコメントをしなくてはならない。そんな雰囲気が漂っているような気がした。

 また、ネットでもあちこちで、この本のことが言及されている。その内容(というか質)も、原発に関するもの似ている。有意義ものあるけれど、ほとんどが似たり寄ったりな退屈な意見で、特にAmazonレビューに関しては、まぁ、平均的な人間の平均的な意見が読める、という以上の価値はない。

 なんというかまさに「脱法ハーブ握手会風営法放射能ダサいダンスダウンロードって言ったら負け」状態だ。

 2

 俺がこの本を読んだ理由は、端的に言えば好奇心だ。この本が発売されると知ったとき純粋に読みたいと思った。ただの好奇心

 この際だから、書いてしまおう。俺は小説を書いている。ほとんどの人は知らないと思うが、Amazonで販売出できるKDP(Kindle Direct Publishing)で発表もしている。つまり創作をする人間として、この本に興味を持った。

 この本の元になった事件は、説明するまでもなく、後のフィクションに多大な影響を与えている。俺が知っている範囲だけでも、舞城王太郎佐藤友哉あたりは確実に影響を受けているだろうし(舞城の『阿修羅ガール』に出てくる鬼畜殺人鬼グルグル魔人を知っているか?)、奥浩哉GANTZ』に出てくる西なんかは、もうまんまだ。他にも探せばたくさん出てくるだろう。

 創作をする人間として、そんな風に後のフィクションに、作家たちに影響を与えた事件当事者が書いた手記に興味を持つことは、そんなに不思議ではない、と思う。だから手に取った。ただ、これは弁解だ、言い訳だ。下世話な好奇心で読んだ、と言われても反論は出来ない。

(これは余談だが、先述したとおり、この本は6月11日に発売された。ニュースになったのも、その二三日前だったと思う。しかし、振り返って見ると、五月の終わりに、この事件モデルにした窪美澄さよならニルヴァーナ」が出ているし、そのちょっと前には、34歳になったとある小説家事件現場巡礼(?)するという内容の佐藤友哉ドグマ34」がすばる4月号に掲載されいてる。偶然か? さらに余談だが去年放映されていた、金城一紀脚本ドラマボーダー」の第三話は、殺人を犯した元少年が手記を出版しようとして遺族に殺されてしまう、といった内容だった。まぁ、偶然だろう)

 3

 事件当時、俺はまだ小学生だった。けれど、この事件のことは、やはり印象に残っている。

 俺は子供のころ、モデルガンが好きで、アクション映画などの銃撃戦のシーンを見てはひとり興奮していた。シュワルツェネッガーバンバン人間を撃ち殺しているのを観ながら熱狂している俺を見て、母親心配していた。俺も子供心に「自分は人が死ぬことになにも思わないのか」などと普通のことを普通に思っていた。平均的だ。

 そしてこの事件以降、子供によるセンセーショナル事件は、たびたび起こる。「キレる17歳」などいうキャッチコピーがつき、まるで急に少年犯罪が増えたかのように報道された。

 フィクションも影響を受ける。バスジャック事件を題材にした青山真治映画ユリイカ」などだ。

 開き直るわけではないが、俺は上記の作品たちが好きだ。だから作者に興味があるし、その作者に影響を与えた題材、事件にも興味がある。センセーショナル事件は、良くも悪くも、フィクションに影響を与えているのだ。

 ただ、報道のされ方、ニュースの選ばれ方のせいなのか、はたまた「事実小説より奇なり」なのか、現実では悲惨ニュースが相次ぐ。自然災害は仕方がないにしても、凡人には理解できない理由で、または理解できないほど身勝手理由で、色々な事件が起こる。無差別殺人闇サイト児童虐待世紀末を過ぎても、この手のニュースには事欠かない。

「近頃はありきたりのリアリズムに追いつかれそうにも見える」

 これは、とある賞の選評の一部だ。とある作品に向けられた言葉ではあるが、なんだかフィクションがひどくしらけてしまときに、この言葉がふと思い浮かぶ。

 所詮、作り物の物語では現実には勝てないのだろうか、と。

 我ながらバカなことを書いているな、とは思う。でも、俺は嫌なのだ。俺はフィクションが好きで、物語が好きで、小説が好きなのだ。だから、読むし、書いている。書いては直して、また書いている。

 この本が出たときも、似たようなことを思った。批判が溢れ出ているのに、蓋を開ければベストセラーだ。売れているからって、優れたものじゃないってことは判っている。それは音楽映画も本も同じだ。

 4

 そして、この本を読んでみた。内心ドキドキしていた。偉そうな事を言っておきながら、日本犯罪史上稀に見る(仰々しい枕詞だ)事件を起こした、当事者の手記。正直、影響を受けてしまったらどうしようか、とも思った。俺は本を読む以上、どんな本でも最大限影響を受けるつもりで読んでいる(そうでなければ読む意味なんてない)。ただ、この本だけは、少し怖かった。

 しかし、どうだろう。前半はネット揶揄されている通り、自己陶酔しきった糞ポエムだった。ガラガラライブハウス演奏しているクソみたいなバンド歌詞でも、これよりはほんの少しマシだろう。ただ、文章自体は上手いな、とも思った。読ませる文章だ。特に、後半の面会に来た弟のやり取りの場面では、ちょっとぐっと来た。少しだけ泣きそうにもなった。

 でもこれは(ここまで書いておいてなんだが)、所謂ただのお涙頂戴話だ。当たり前の反応というか、けして面白かったというわけではない。

 そう、端的に言って「つまらなかった」というのが、この本を読んでの感想だ。

 一部で神格化カリスマと化している「殺人鬼」だが、彼はつまらない、ただの普通の人だったのだ。多くのフィクションに影響を与え、ひとたび本を出版すれば大いに話題になる「あの人」は、普通人間だった。

 前半のあの糞ポエムが、それを象徴している気がした。あの稚拙で過剰な修飾表現は恐らくわざとで、そうやって過剰に飾らなければならないほど、内容は、実は普通なのだ。

 これについてはロマンポルシェロマン優光さんが書いた記事に頷ける箇所があった。

“この本には特にそういうところがないのだ。(性的偏向については代入される対象おかしいだけで数式は同じなので、対象がいくら理解できなくても根本的に理解できないというわけではない。) 普通の人が普通に想像したような話が続くだけである。 ”

 http://bucchinews.com/subcul/5203.html

 普通理由普通の狂い方をした。どこまでいっても普通だ。

 5

 少し前になるが、日曜の午前にやっている「ワイドナショー」という番組で、店の商品に爪楊枝を刺す場面をYouTube投稿した少年ニュースをやっていた。

 それを観た松本人志が、「全然おもしろくない。声も張ってないし」とコメントしていた。他の出演者は「そこですか?w」といった感じだったが、俺は、松ちゃんはこういうコメントをどんどんしていったほうが良い、と思った。

 つまり、つまらないものは、つまらないというべきなのだ。そして、松本人志のようなおもしろい人は、こういうくだらないことをする人間に向かって「全然笑えない。おもしろくない」ともっというべきなのだ

 同じ番組で、松ちゃんは、この本は読まない、といっていた。遺族の方がここまで言うのなら、と。立派な態度だと思う。下世話な好奇心で読むヤツに比べたら、遥かにマシな態度だ。

 でも、俺は松ちゃんに読んでほしい。この本を読んで、おもしろくない、と言ってほしい。

「俺に影響受けてるのかもしれへんけど、お前の本、つまんなかったで」と言ってほしいのだ。

 舞城でもユヤタンでも乙一でも、こんな本より、俺の小説のほうがおもしろいぜって言ってほしい。なにがベストセラーだ!っていってほしい。

 だから、俺は敢えて言う。

 俺の小説のほうがおもしろいぜ。

 自分に取っての本当のことを書いたのかもしれないが、ハッキリ言ってフィクションのほうがおもしろいぜ。普通理由普通の狂い方をした普通人間なんかより、グルグル魔人のほうが狂ってるぜ。なんせウンコパン三世〜♫ デレッデレ〜♫ なのだ

 だから俺は、この本を批判するならおもしろい人たちに、「つまらない!」って言葉こそ、声高に叫んで欲しい。

 6

 最後に、舞城王太郎小説の一部を引用して終わる。

 

“結局のところ、人生で起こるすべての本当のことは、陳腐薄っぺら通俗なのだ。そうじゃないことは小説の中にしかない。だから小説の中で、つまんないなあと思うとき、わりとそれが人生の本当のことを書いているってのがあって、だから小説って難しい”(舞城王太郎/パッキャラ魔道

 まったくその通りだ。

 そんで、つまんない本のことで、

 いちいち騒ぐのはやめようぜ。

 もっとおもしろい本を読もうぜ。

 もっとおもしろい本の話をしようぜ。

 ありきたりなリアリズムに、負けてたまるかっての。

 おわり。

2015-06-25

[]右脳芸術的左脳論理的

理屈っぽい人物左脳優位、芸術肌の人物右脳優位といった説があるが、そのほとんどは科学的な知見からかけ離れた通俗心理学に類するものである批判されることが多い。

2015-05-26

http://anond.hatelabo.jp/20150526004413

Lie@LieLie1998

キモくて金のないおばさんも弱者だ」に対して「そんなのは後回しだ。まずはおっさんを助けるべき」なんて意見が飛び交う時点で「キモくて金のないおばさんも同情されない社会的弱者である」ことの証明になってるよね。それに少なくともここで「キモくて金のないおっさんなんか切り捨てろ。まずは女性を助けよう」なんていってるフェミはいるのかな?ここのコメントを見る限り、フェミ側のほうがまだマトモに思えるが。

KY雑記@kyslog

LieLie1998 コメント欄でなくてまとめられてる人の大前提して、シングルマザー支援の実現が結果的キモくて金のないおっさんを更に税金で痛めつけてて、事実上奴隷制になってて、実は反福祉じゃないのという北欧での事例研究文脈として共有してるんですよ。キモくて金のないおばさんは救済対象で、そこそこ恵まれててさらにいい男にこだわる論壇フェミニスト攻撃対象になってるという話

Lie@LieLie1998

kyslog シングルマザー支援によって痛めつけられるのはキモくて金のないおばさんも一緒だよね。シングルマザー支援の実現がなぜ「キモくて金のないおばさんは救済対象である」ということにつながるのかがわからない。

KY雑記@kyslog

まとめられてる人たちって、論壇フェミニストを指して「勉強のできるブス」という言葉を使うんですよ。出生動向基本調査から、そういう女性自分より上の収入男性を好む。しか自身収入も高いので選択肢が少ないし、アホな美人女性と競合する。で、我慢できずにいい男の2番手を目指す。経済負担シングルマザー支援回避しようとする。なので論壇フェミニストが主攻撃対象になる。

KY雑記@kyslog

LieLie1998 もう一つの傾向として、出生動向基本調査から男性のほうが相手に求めるものが少ない=女性のほうが男性を選ぶ。このためキモさ、金のなさが同じなら女性のほうが子を儲ける機会に恵まれる。ノルウェー統計によると、女性の無子率はシングルマザー支援開始前後10%超で安定しているのに対し、男性の無子率は支援開始後に15%から30%まで上昇。このあたりの統計が前提ですね。

KY雑記@kyslog

LieLie1998 この状況はノルウェーのほうでも「イケメン金持ちによる事実上一夫多妻制を、キモくて金のない独身男女(男のほうがより多い)を奴隷化することで成り立たせている」という批判があって、まとめられている人は耳目を集めんとして刺激的で通俗的な言葉表現していろんな人が集まっているという構造なわけです。

Lie@LieLie1998

kyslog シングルマザー支援10%超の女の人、30%の男性奴隷になってるってことだよね。支援が無ければ男性は15%程度で済んでいたと。このデータからどういう風に「キモくて金の無いおばさんはシングルマザー支援で痛めつけられてるということはない」という結論が導けるんだろう?支援恩恵を受けてない10%の女の人は奪われるだけだよね。

KY雑記@kyslog

LieLie1998 定量的男性のほうが圧倒的に影響を受けやすいということですね。もともとの議論はそこまで含んだものなんですが、ずっと書いている通りまとめ主がそういうしっかりした部分を抜いて一番炎上しそうな部分だけ掻い摘んでいるのでくだらない車輪の再発明をしている最中だということです

Lie@LieLie1998

キモくて金のないおっさん気持ち悪がられ人生が上手くいかない」ことを問題視してるのか、「シングルマザー支援によって男性はその負担を負うことになる」ことを問題視してるのか、どっちなん?っていう。後者場合ならば、シングルマザーでない人は全員その負担をしてるわけだからおっさん奴隷化するが、おばさんはそうならない」と言うのはおかしいよね。

KY雑記@kyslog

LieLie1998 量的問題質的問題すり替えなくてもいいんじゃないでしょうか。男性30%女性15%で男性のほうが2倍不幸になっている、しかしこの2倍という違いは問題にされないね、の最後の部分だけが取り上げられてまとめられてしまったわけですから

Lie@LieLie1998

kyslog 数が少ない弱者の集合は無視していいかどうかの話だよねそれ。俺は集合の大きさがどうであろうが同じ負担を強いられてるのなら同等に扱われるべきと考えるが。つーか、「少数派よりも多数派に注目しろ」という考えこそが救われない弱者を生むような気がするがw

KY雑記@kyslog

LieLie1998 もう一度いいますが、これは恋愛少子化対策の話です。んで少子化対策をカネで解決しようとすると、子を産む選択権のない男性のほうが定性的に不利になり、福祉によって男性内の格差拡大が量的に観測されるというのが主問題で、フェミニズムに絡んでるのは単にその主張が男性内の格差拡大を増幅させるからだ、と言う程度の話ですよ。

Lie@LieLie1998

kyslog 子を産む選択権は男女共に平等でしょ。女が子供産みたいと思ったらいつでも子供産めるの?って話。産めないよね。よって「子を産む選択権のないから男性は不利」という結論にはならないだろう。

KY雑記@kyslog

LieLie1998 女性が既婚男性不倫して男性の妻にバレずに自分で子を産むことはできるが、男性が既婚女性不倫して女性の夫にバレずに産んで貰って引き取るのは困難ですし、実際シングルマザーシングルファザーの数の違いに出てます。そこは単なる現実ですよ。

Lie@LieLie1998

kyslog 「既婚者と不倫して自分の子供を産むことができる」のが子を産む選択権なのかwそういう意味なら確かに男に子を産む選択権は無いな。この権利がないことでなぜ不利になるのか全くわからんがw

KY雑記@kyslog

LieLie1998 選択権を持つ女性が好みのイケメン金持ちに集中し、キモくて金のない男は重税をイケメン金持ちに貢いで野垂れ死ぬという事例がノルウェー観測されていますね、これは現地でも事実上奴隷化人権的にどうなのという議論がありますね、と言う話になってまとめの最上段に続くわけです。

Lie@LieLie1998

少子化対策シングルマザー支援男性奴隷化させてる!」「じゃあ少子化対策シングルマザー支援を無くせばいいよね?」これに対する返答が全く無いという。

KY雑記@kyslog

LieLie1998 男女平等反対、格差拡大賛成、少子化賛成のどれかを選べと言われて諸手を挙げて賛成する人なんかいないと思いますが。格差拡大賛成に諸手を挙げて賛成している人に対して、気を付けなよと言っているだけなんですけど……

Lie@LieLie1998

kyslog 「Aが原因で弱者が虐げられてる!」と言うから「じゃあAを無くせばいいんでないの?」と聞いてるだけなんですけど…YesかNoで答えられる問いなんですけど…

KY雑記@kyslog

LieLie1998 「弱者Aを救済するために弱者Bが虐げられてる」「弱者Bを救済するために弱者Cが虐げられてる」「弱者Cを救済するために弱者Aが虐げられてる」という関係になっているときに、それぞの個別の案に諸手を挙げて賛成する人がいますか?安易yesかnoか迫る行為自体弱者を痛めつけることに無自覚精神性の発露でしょう、という批判なんですが。

Lie@LieLie1998

kyslog いや1つの案についてしか話してないけど…。「少子化対策には賛成ですか?反対ですか?」別に少子化対策が行われることを問題視してないのならそもそも男性奴隷化だの怒る必要無いよね。これが問題なら対策をやめれば解決するだけの話。

KY雑記@kyslog

LieLie1998 「キャリアを望む女性男性を養う」という選択が取られないなら、少数の深刻に不幸なシンママキモくて金のないおっさんと多少の男女格差を甘受して、そうなりたくないなら自主的適当なところで妥協して結婚するようなバランスにして、雪崩を打って不幸な人を量産することは避けてくれ、としか言いようが無いですね。

2015-04-09

歴史修正主義という言葉危険

そもそも歴史修正主義という言葉はもともとは歴史学において、歴史を叙述し直すことを主眼とした、歴史学における試みの一つを表す。

一般には、伝統的な歴史解釈に対し、別の可能性(仮説)や、可読性(読み方)を提示する試みをいう。


まりただ単純に新たな資料から考えなおしてみることを指しておりそこにイデオロギー的な意味等は含まれていない。


有名なものとしては以下の様な物が歴史修正主義立場から新たな観点として持ち込まれた。


聖徳太子実在たか

鎌倉時代の始まりは1192年か

羽柴秀吉 本能寺の変黒幕

孝明天皇暗殺

※ちなみにwikipedia参照である


鎌倉時代の始まりについてはニュース記事などになっていたりするので知っている方も多いと思う。

いい国(1192年)つくろう鎌倉幕府という覚え方をした方が多いと思うが現在では1185年の成立説が優勢になっており

中学高校教育での教科書などでも1185年に改定されている場合が多い。(らしい


というように主に歴史学において使われる言葉ということになる。


ところがこの言葉がある時期を境に別の意味を持つように成る

ホロコースト存在していなかったという言説を声高に掲げる勢力が台頭してきた際に、彼らは自らのことを「歴史修正主義者」と名乗った。

まり、正しく歴史認識しているのは我々であり正しい形に修正するというような意味合いで彼らは使ったわけだ。


そしてこれらに反発した人たちが当然出てくる。

そして彼らもまた、ホロコーストのように広く知られた事実否定する「歴史修正主義者」たちを悪し様に言うようになった。


歴史修正主義者は頭がオカシイ


といったような内容を発言する人もいる。

しかしながら私はこの歴史修正主義という言葉のものが非常に危険フレーズだと思っている。

通俗的な意味としてwikipediaには以下の様な意味記述されている。


ある特定歴史家が、反対者の歴史観に対して、否定的な印象を広く一般に植え付けるためのレッテルとして用いることがある。

この用法による「歴史修正主義」とは、「客観的歴史学の成果を無視し、都合の良い過去は誇張や捏造したり、悪い過去過小評価や抹消したりして、

自らのイデオロギーに従うように過去修正するもの」であったり、「既に修正された歴史観の再修正をするもの」という意味で使用される。


特定イデオロギーを持つグループが反対グループに対して使用される。

まり左翼ネトウヨに対して


慰安婦存在しない等というのは捏造だ。歴史修正主義者はこれだから


というような否定的レッテル貼りに使われる。

ただ、現状のイメージとして、左派慰安婦否定論等を使う右派ネトウヨ)に対して使っているイメージが非常に強い。

特に安部総理に対して使っている記事はてなブックマークコメントでもで散見される。

Twitterなどでの論説を見るとレイシズムなどと歴史修正主義を結びつける人がいたり、非常に安易かつ混同した使い方をする人がいる。

もちろん、慰安婦存在した資料をしっかり示したり、きちんとした言葉反論するのであればそれは非常に健全であるし、どんどんして良いことでは有ると思う。

しかしながらこの言葉安易に使いすぎると非常にまずい状態になってしまう可能性があるのではないかと思うのだ。


特定グループ内で共有されている歴史的に正しいとして考えられている事と正反対意見を述べるグループに容易に

歴史修正主義者という非常に「ネガティブ」な意味合いを持つ言葉レッテルを貼るという行為がもし広まった場合議論が成立しなくなってしまう。

歴史学基本的に異なる説がいくつも存在しており、その中で多数派であったりするもの教科書などに採用される。

だが、そこには明確な証拠や、非常に練った方法歴史調査推定しているのだ。

ただ、その場で相手を悪し様に歴史修正主義等と批判したりすることが容易に行われた場合どうなるのか? 当然反対意見がのべづらくなってしまう。

なにせ歴史修正主義という言葉バックボーンにいつの間にかレイシストという意味がはびこってしまっっており、反対意見を述べたに過ぎないのにレイシスト等と罵られる事と同義になってしまうのだ。


もし、南京事件存在しないという論が日本国内多数派になった時どうするのだ?

今度は劣勢になった側が歴史修正主義者、つまりレイシストと言われるようになるのだ。

そうなってしまった場合どんなに資料証拠を突きつけても覆すことが非常に難しくなる。


「正しくない歴史を主張するもの差別主義者であり、キチガイなのだから当然だろう?」


こんな使い方を考えなしにのべつ幕なしに使っていれば自分の首を締めることにもなりかねないだろう。

もし反対の意見を述べるのであれば安易レッテル貼りを行うのではなくきっちりと資料発言等を引用して反論することを強くおすすめする。

便利だからってアホみたいに使っちゃ駄目よ。


以上。

2015-01-13

http://anond.hatelabo.jp/20150113112905

しかし、「通俗的に理解していたブラックホールの知識」だって

子供向けの科学まんがとか、海外SF古典とか、新聞の片隅に載ったコラムとか、

そういう何かを鵜呑みにしたものからね。

もちろん、インターステラーの内容を信じてブラックホール突撃するということにでもなれば、

「おいおいちゃんと検証したのか」と引き止めなきゃいけないが、

映画を楽しむ範囲内において「物理学者が監修してます」を信じるくらいはいいだろ。

それを批判するなら「インターステラーを楽しみたいならブラックホールの影響を自分計算すべき」という話になる。

非知性派のインターステラー

インターステラーの評判は上々らしいけど増田検索すると以下のように否定的感想しか見つからない。三つ目のリンクにはトラバ反論を試みている人がいてその人の文章を読んで少し恐ろしい気持ちになったのでその気持ちを整理してみる。

http://anond.hatelabo.jp/20141127233759

http://anond.hatelabo.jp/20141203194100

http://anond.hatelabo.jp/20150107180239

上記の増田二つ目増田からリンクされている映画レビューを読めばインターステラーがどんな映画であるかはわかると思う。こういう映画を許容して楽しむかどうかはここでは問わない。(私自身は許容できない派だが)ここでは映画の内容ではなくて、三つ目の増田トラバの話しをしたいと思っている。

トラバ増田はまともな知識など何も持っていないにも関わらず、映画自体が持つ矛盾を包み隠すようにストーリーをうまく解釈している。(記憶の混乱、無意識ねつ造でもあるかもしれない)

恐ろしいと感じたのは以下の文章

自分が今まで通俗的に理解していたブラックホールの知識と、

物理学者が監修して描かれる新しいブラックホール像、

どちらを信用するかと言ったら後者だし、

ある程度の違和感も「演出」として理解する

この増田自分が「通俗的に理解していた」知識より「物理学者が監修」した映画を信じるのだと言う。「ある程度の違和感も『演出』として理解する」=フィクションである認識しているにも関わらず映画の内容を鵜呑みにする宣言がなされているわけだ。権威主義なのかどうかはわからないが、結局のところ信じたいから信じるという知性の放棄が行われている。EM菌や過剰な原発恐怖、小保方擁護オスプレイ忌避などに携わる人たちの内面の一端を見たような気がした。

自分とは違う考えをし、自分には理解のできない結論を出す人々が存在することは当然である健全でもあるが、このような非知性派の人々がマジョリティであるならば自分生活環境が脅かされていくような不安を感じてしまうのである

(民主主義システムにおいては数は力であるし、社会空気同調圧力を生み出すものとしても数の力は強い。)

(インターステラーについての各種記事感想レビューを読んでみるとここで取り上げた増田のような思考回路を持った人間が多いように見えてしまったので彼らをマジョリティとして扱った。ここに飛躍があることは否定しない)

2015-01-09

http://anond.hatelabo.jp/20150109112306

そのりくつはおかしい。

それに比べれば、非処女美少女ではないという理屈のほうがよほど通俗的だ。

2015-01-08

http://anond.hatelabo.jp/20150108001306

自分が今まで通俗的に理解していたブラックホールの知識と、

物理学者が監修して描かれる新しいブラックホール像、

どちらを信用するかと言ったら後者だし、

ある程度の違和感も「演出」として理解する。

そんなところで映画をつまらなく感じるのはもったいないし。

はいちど観ただけなので確かに記憶違い、理解不足があるけれど、

あなた映画理解もかなり曖昧なように思える。

どうしても科学考証が気になるというなら、こういう本が出ているようなので読んでみては。

http://www.amazon.co.jp/dp/0393351378

2015-01-02

Natural Color Phantasm Vol.09 『夏祭虚構原風景から

■その1。

 毎回言ってるんだけど、今回こそはゲームレビューをやりたいと思って……選んだのは『夏祭』。タイトル通り、ゲーム自体は、三日間の夏祭を描いたものからプレイ時間は短い。たった三日間で、キャラクタ描写しきれるのか? と思っていたのだが、演出手法として、イベントごとに回想シーンを頻繁に挿入することで、要点はきちんと押さえている。ただ、毎回毎回、お約束のように回想シーンが入るので、それが少々うざったくもあるけど……。 最近ストーリー型のゲームにしては珍しく、二時間ドラマのようなスタイルで作られている。なので、このゲームは、大作型作品ではない。ここを勘違いすると食い足りないような印象だけが残るだろう。

 筆者も、まんがで最近流行している、虚構の現風景を描いたエコロジスト的な作品の流れにあると勝手勘違いして、今回のサブタイトルをつけたのだけど、実際にプレイしてみると、特に自然描写などに重点を置いているという訳ではない。おそらく、あくまドラマチックな演出舞台として、この設定を選んだだけなのだろう。なので、今回のサブタイトルは嘘っぱちだ。サブタイトルは、レイアウトの都合上、原稿を書き始める前に決めてしまうので、こういうこともある。

 しかし、こう書くといかにも薄っぺらゲームのように思う人もいるかも知れないが、別にそういうゲームではないし、特筆すべき所もある。ヒロインである[橘みやの]のシナリオなのだが……気の弱い幼なじみという基本設定自体通俗的なものだ。しかし、中盤から後半にかけて、そのスタンスが表面的なものであったことに、主人公は気づく。早い話が、三角関係から来る、すれ違いと嫉妬地獄絵図が展開されるのだ。

 ただ、『たとえばこんなラヴソング』や『週末婚』のような、サイコスリラーばりの鬼気迫る展開をする訳ではない。三角関係当事者たちは、あくま良識の持ち主であり、自己の欲望を優先できない弱い人たちである。この葛藤文学的執拗さで書くと、『WhiteAlbum』のように、美少女ゲームには異例の悲劇性を帯びるのだけど、このゲームあくまで、テレビドラマ的な構造作品なので、予定調和的な結末へと向かっていくし、ここで、虚構の現風景を想起させるような物語設定の仕掛けが効いてくる……少女まんが的な、感傷情緒感覚に訴える設定が、毒性を中和しているのだ。

 とはいえ、この予定調和少女まんが的なユートピアと捉えるのも、違うような気がする。それはむしろ、恋の熱情ではなく、愛情に起因する、穏やかな信頼によって支えられる……『とらいあんぐるハート』『とらいあんぐるハート2』で描かれるような、疑似共同体に向けられるべき評で、ボーイ・ミーツ・ガールな恋を描いた『夏祭』にそれを当てはめるには、少々違和感があるだろう。

■その2。

 まあ、[少女まんが的]という言葉が何を指すのかは、かなり曖昧だし、それはむしろ、白泉男児である相方領域だったりするのだが、結局のところ、『夏祭』は、スタンダード過ぎるのだ。それは決して悪いことではなく、むしろ美点なのだけど、価値観多様化し、結果として、家族や友人といった単位での崩壊を招いている状況の中では、かつては正常とされていたものも、異常とされてしまう。

 そして、マッチョイズムからも、フェミニズムからも取り残された人々は、[癒し]と[萌え]の過剰な摂取と、虚構原風景への逃避を計るのだ。筆者はそういう思考には否定的だが、これはこれで、スタンダード価値観を欲する動きなので、そういう嗜好の全てを否定する訳には行かないのだ。

 『夏祭』は、目から鱗が落ちるようなゲームではない。だけども、プレイした後の安心感は、[癒し][萌え][虚構原風景]といった要素によるものでもない。娯楽作品に不可欠なバランス感覚をちゃんと備えており、背骨が通っているのが、この安心感の正体なのだと思う。

 ただ、スタンダード故に、これはどうか?という箇所もある。Hシーンだ。作画文章共に描写力がなまじ高い分、不自然な印象が強調されてしまう……主人公テクニックが上手すぎるのだ(笑)。変な話ではあるが、若い男女のボーイ・ミーツ・ガール的な恋を描くというテーマは、文章力の高いHシーンとは、相反してしまう所がある。早い話が、初々しい恋のドキドキ感……言ってしまえば[童貞魂]を描く作品でのセックスは、ポルノグラフィに求められる実用性とは、いまいち結びつきにくいのも事実なのだ

 だとすると、先月取り上げた『Kanon』の、意識的回避することができてしまうHシーンの方が、作品テーマ親和性は高いのかも知れない。肉体関係抜きでも、精神的な絆を結ぶことはできるし、トゥルーエンドも見られるというのは、美少女まんが雑誌編集者だったくせに、Hシーンのない作品を平気で載せていた筆者にも、かなり衝撃的だった。ただ、それを認めてしまうのは、美少女ゲーム存在意義を問われてしまうということなので、簡単に納得はできないんだけどね……。

 ……しかし、これは「むほっ、これは嬉しい不意打ち……これに比べたら山岡さんのはカスや!」と、『美味しんぼ』の京極さん風に叫んでしまうのに近い(笑)。そして、「おいおい、お前さっきまで士郎のメシを美味そうに食っていたじゃねえかよ」と、自分に突っ込んでしまうのだが……って、話がズレた。

 『夏祭』の場合シナリオごとの構成にばらつきが激しいという難点はあるのだけども

、Hシーンの扱いは、物語にきちんとリンクしていたので、個人的には安心している。しかし、美少女ゲームにとって、セックスをどう扱うかは今後、重要課題になるのではないかと思う。それはそれで、本末転倒な気もするが、美少女まんがではもう、その問題を語ることができなくなってしまった以上……そう、H以外の要素に市場が寛容である間に、思考を突き詰めていかなければならないのだ。市場下り坂になれば、H以外の余計な要素は真っ先に排除されるのが、ポルノ業界の常なのだから

■来月は1999年度の総括。

 という訳で、次回は『へっぽこ通信』のへっぽこくん氏をゲストに招いて、恒例(?)の1999年度総括ですー。それにしても、この手の原稿ばっか書いているくせに、ファンサイトの類は全く知らなくて、軽い気持ちでサーフしてみたんですが、筆者の原稿など簡単に吹き飛ばすほど強力な、美少女ゲーム論が山のようにあるのね……もっと突き詰めないとな……。

 余談ですが、『恋愛シミュレーションツクール』を買いました。いかんせんエンジン部分が弱く、実際にゲームを作るには、ちょっと苦しいんですが、恋愛ゲーム構造を解析するという意味では面白いソフトでした。

2014-10-25

いつか本を書きたい

私は、いままで大量の本を読んできた。

この次は、本を書く側に回りたい。

いつか本を書きたい。

いまやっている仕事を極めて、それをテーマにして本を書いてもいいかもしれない。

あるいは、もう少し通俗的な本でもいいかもしれない。

自分が生きた証として、本を一冊以上書きたい。

2014-10-09

「読解力」の終焉と新時代の幕開け

近頃盛んに聞くのが「読解力」という言葉である。いわく、今の時代読解力は大事だよと。

翻ってネットでは相手の読解力を非難する声が多く聞かれる。これに不自然さを感じる向きも多いであろう。

そもそも以前から「読解力VS文章力」とも言うべき対立は存在した。「お前の文章下手すぎ。日本語でおk

「いやお前の読解力がなさすぎ。日本人か?」などという実にくだらない争いがちょっと油断すると勃発するのが近年のネット社会である

しかし、私に言わせればそんな対立など時代遅れも甚だしい。時代に取り残された過去遺物である

私見では読解力という言葉は近年ますます意味をなさなくなっているのではないかと思うのである

それは読解力を測定しようとすると文章力問題が切っても切り離せないからというのもあるが、そもそも読解できるのは

文章の前提知識の有無に大きく依存する。しかるに、万人にフェアな読解力の測定など土台困難というものだ。

そうなのだ所詮は、読解力などというもの通俗的な用語にすぎないのだ。そもそも、読解力よりも一般化した概念

である「頭の良さ」というのも甚だ曖昧概念であることが、昨今の知能研究で具体的に明らかになりつつある。

世間でいわれる頭の良さとは、常識的シチュエーション常識的な反応を返せるか、そのことを言っているに過ぎない。

数学の難しい問題を解く」といった常識外のシチュエーションなど関係ない。数学のできる奴なんかよりは、

算数暗算ができる奴のほうが余程「すごーい」と女の子から賞賛される。それが悲しい現実なのだ

所詮はそういう常識的観点から頭の良さが判定されているにすぎない。これを「ファッション知性」という。

読解力も同じことで、「ファッション読解力」が世間では試されているにすぎない。いや世間だけではない。

学問世界での読解力も、また学問世界での常識というものがあり、それを満たしているか判断される。

決して学問という高尚な世界から、読解力も高尚に測定されるというわけではない。これを常識相対性ということができる。

しかし、幸いなことに、文化相対主義なんて古めかしい理論を引っ張ってくるまでもなく、

常識相対的だというのは我々の新たな常識となりつつある。これも時代の流れというものだろうか。

LINEを始めとする新時代コミュニケーションツールは、我々の情報環境に新たな複雑さを付け加えた。

結果、若い世代人間ほど複雑に入り組んだ人間関係の中で、うまく常識を使い分けてやっていく術を

身につけている、という奇妙な逆転現象が生じ始めている。新世界において読解力は所詮それぞれの

コミュニティに応じた空気を読めるかという能力に過ぎないことが理解されるようになった。

新世界では、自分所属しているコミュニティ空気を一通り理解できるだけでなく、所属コミュニティ

がどんどん流動していくので、その都度新たに加入したコミュニティ空気を読めることが求められる。

流動性のない「棲み分けから流動性ある「棲み分け」へ。我々日本人生活環境は、

いよいよ多民族国家アメリカにおける多文化共生に近づきつつある。

2014-03-29

http://anond.hatelabo.jp/20140313180236

うちの母親がむかしこ系統だった。ただ本人自体も鬱傾向で恋愛全然出来ないみたいなこと言ってたか化粧品と服はあんまりそうでもなかったけど。

還暦近くになってから逆に洗剤なんかは民生品に戻してる気がする。

ただ趣味料理なので食べ物は大地で肉と野菜を買って自炊してた。まあ重点を置くなら髪だのアパレルだのじゃなくて食べ物かなとは思う。

皿もこの前まったくの無色のロイヤルコペンハーゲンを買ってきたといって見せてくれた。自分もああいうの好きだけど。

ただ一枚4000円の有機コットンのバスタオルなんかは髪巻いてるギャルブランド品と同じで完全に見栄だけの無駄機能で逆算してしまえばいいものもある程度はある。皿も結局そうだなとは思う。

あと男性だけどモヤシキモヲタの私の視点から言うと、

体育会系である程度スポーツして闘争心と山っ気があるみたいな通俗的な男性イメージを維持するのはあれは"清楚な女性"のまったくの鏡像で

意外と意識して金と体力をかけないとできない。

スポーツや体育系系ってすごい金と手間がかかる。

グッズを買い集めてる奴もある程度いるけど、結局家でアニメエロゲーで満足してる方が遥かに金と手間がかからない。

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