はてなキーワード: 通俗とは
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Auguste Comte
Flag of France (1794–1815, 1830–1958).svg フランス共和国、オクシタニー地域圏エロー県モンペリエ
イジドール・オーギュスト・マリー・フランソワ・グザヴィエ・コント(フランス語: Isidore Auguste Marie François Xavier Comte、1798年1月19日 - 1857年9月5日)は、フランスの社会学者、哲学者、数学者、総合科学者。1817年からアンリ・ド・サン=シモンの教えをうけ、助手を務めたこともあったが、1824年にけんか別れした。1841年から1847年までジョン・スチュアート・ミルと親交があった。「社会学」という名称を創始し、彼の影響を受けた英国のハーバート・スペンサーと並んで社会学の祖として知られる。『社会再組織に必要な科学的作業のプラン』、『実証哲学講義』、『通俗天文学の哲学的汎論』、『実証精神論』などの著作がある。生涯を在野の学者として過ごし、パリで死去した。
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「百田尚樹というブランド」を作り上げるのにかかった年月と、そのための努力、これは悔しいが素人では太刀打ちできないのだ、悔しいが
よく書店ではなくコンビニで売ってる、古代史や戦国時代に関する紙質の悪い雑学本の仕事をしている
その程度の本でも、Wikipediaは最後の裏取り程度にしか使わず、吉川弘文館だの中公公論社だの岩波書店だのから刊行されてる、それなりの実績がある大学教授が書いた専門書を参考に書いてる
実際、現代ではまともな歴史学者の資料に当たると「日本書紀のこの記述はウソ、当時の政治的な作為がうんぬん」「平家物語のこの記述は~」「太平記のこの記述は~」という調子で、いわゆる面白そうな話はほとんど全否定になる
逆に、マニア的に「じつはそうだったのか!」的な面白さもあるのだが、これはある程度の前提を理解したマニアでないと通じにくい
通俗歴史本の執筆という点では、誇張抜きに、俺の方が百田尚樹より真面目に仕事してると本気で思ってる
しかし、それでは売れないのだ
あのくだらん日本国紀は、「百田尚樹というブランド」の勝利なのである
そして実際、無名の歴史系の底辺ライターである俺は、『海賊と呼ばれた男』だの『永遠の0』ほどの小説は書けないし書いたこともない、負けなのは仕方ないと認める
が、たかが書店ではなくよくコンビニで売ってる雑学本でも、俺はWikipediaに頼らず、一定の実績ある歴史学者が書いた文献を参考に書くことを辞める気はない
読者に正確な事実を伝えたいなんてご大層なことではない
残念だがそれほど人気がない。
俺は英国在住のおっさん。年始にロンドンで見たが、そもそも上映している映画館が少ない。毎日上映している映画館はロンドンで2-3か所。860万人住んでいるのに。
月に数回上映がそのほかに数か所。以上。ザッツオール。公開後1月以上経過しているから減ったのだろう。
客の入りは5割くらいで、そのうち6割がイギリス人、4割は東洋人。中国人韓国人日本人。
イギリスのメディアが君の名はを絶賛した、という記事は俺も見た。口コミサイトの評価も見てみたが、非常に良い。
更には上映後のイギリス人の反応を観察してみたが、満足そうに見えた。
ゆえに入口でのハードルなのだろう。ただし内容について「感動」「ラブストーリー」というよりは「展開が早く引き込むストーリー性」「映像の綺麗さ」が評価されているように思う。
若者のラブストーリーである「君の名は」がイギリスでアジア圏のようなヒットにならない理由は以下のように推察している。
今でも完全にそうです。宮崎アニメのように家族で見に行くならともかく、ラブストーリーをアニメで見ようという発想は世間の若者に全くないように思うし、他人に知られたら恥ずかしいことと思われる。
なお本作では奥寺先輩が煙草を吸ったり、瀧が酒を飲んだりするので12歳規制がかかっている。
作品にのめり込めるか、一番重要なのはこの点だと思う。瀧が三葉が男性として女性として魅力的に描かれているか。
多くの日本人には、瀧はイケメン、三葉は高校時代は可愛く大人時代は美人、という設定に異論はないと思う。
欧米人から見ると、経験に基づく推測だが、瀧も三葉も体が薄っぺらすぎる。
瀧は本人のときでもかなり「中性的」に寄っている。欧米人からジャニーズは中性的な子供に見えるということと同じである。
(3人組のうち)高木くらい男くさいほうがいい。イギリス人は瀧に対してこう言いたくなるだろう。「もっと肉を食え、ラグビーで体を鍛えて、女性を守れる男になれ、髪形もベリーショートかリーゼントにしろ」(適当
三葉は単純に子供に見えていると思われる。もっとグラマラスな魅力が出てこないとラブストーリーの主人公という雰囲気が出てこない。シャイな性格もマイナスだ。瀧の三葉くらい気が強いほうがウケる(作品内でもそうだったが)。
イギリス人のラブストーリーは顔を0.3フィートくらいの距離まで近づけてロマンティックな言葉を囁きあう感じなので、瀧と三葉の恋愛動作は非常に幼く見える。こちらの高校生は結構オトナである。
山頂で出会うシーンもイギリス人なら、強くハグして、濃厚なキスをして、0.3フィートである(超適当)。名前を書きあっている場合ではない。出会って3秒でハグキス0.3フィートである。高校生にそういう描写が許されているのかは知らない。
ラストシーンでいったん声をかけずにすれ違ってしまうシーンには、階段の一番下から大きく手を振って「Hey!!!, I think I met you sometime and somewhere!!!」と大声を出さないのか不思議であろう。奥ゆかしさは理解されてもそこから生じる感動は理解されないと思う。実際に泣いている人は少ししかいなかった。クライマックスの「すきだ」も字幕だからね。手によくわからん文字が書いてあって字幕でI love you。ちょっとねえ。
日本人のおっさんである俺にとってどうだったかというと「超面白かった」。イギリス、日本、機内の計3回も見てしまった。最初に見たのは機内だったが、中年のおっさんがうるうるしているのを見てCAさんはドン引きしていたことであろう。少し気になるのは日本での作品への「評論」である。確かに整合性がおかしいところは多い。私は3年のずれに気づかないことよりも、この広い宇宙で隕石が1200年周期で同じ場所を直撃することのほうが超天文学的確率というか、分母が10の何乗になるのか、そのほうがずっとありえないと思いながら見ていた。変電所の爆破は中部電力に連絡が行ってしまったので町を救ったからお咎めなしになるものではあるまい。ああいう会社は融通をきかせるのが難しい。テッシ―の「髭剃れ」の話は収監されていたから?などとも思った。しかしながら、内容の整合性に難があってもそれ以上の魅力で引っ張ってくれれば私はそれでいいと思う。官僚や銀行員のような減点主義で映画を見てもつまらんでしょう、と個人的には思う。
キネマ旬報のベスト10がどういう選考基準なのかHPを見てもよくわからなかったが、アジアで数千万人を引き付けた映画よりも、日本映画だけでも10個も上位があったら、それって大ニュースなのではないかと思う。売れる映画と良い映画は違うというのは一部分かるが、それよりはもっと簡単に説明できる言葉があるのではないか。スノビズム。大衆は見る目がない、ということだもの。
同業の監督や評論家の「売れる要素だけ詰め込んだ」とか「モチーフがありきたり」の批判に対しては、おっさんは長く生きているので、30年前の「ノルウェイの森」騒動を思い出す。「100%の純愛小説」と付けてクリスマスカラーで売り出した同書は「君の名は」と同様に爆発的に売れ、今ほど有名でなかった村上春樹をスターダムに押し上げると同時に、評論家から「誰でもかける薄っぺらい通俗小説」「ありきたりの三角関係」などの多くの批判が浴びせられ、その騒動で村上春樹は心を痛めて日本を離れた。彼の作風にも影響が出てしまった(軽妙さが失われた)と思っている。
高校のころ伊藤整が愛について書いた評論を読まされたことがある。
十年以上も前のことだし記憶もあいまいなのだが、内容は「西欧(キリスト教)でいう無償の愛とかいうやつは日本では無理www反論ある奴はクソブス女でも愛せるのか言ってみろ!おらっ!」みたいなものだったと思う。
高校生だった自分は「ああたしかにそうだ」とえらく納得し、愛というものを絵空事のように感じて、男女間にあるのはただ性欲と情だけなのだという彼の論旨を素直に受け容れた。
大学に天使のような女の子が居たのだ。彼女は今でいうスクールカーストの上位層だったのだが、誰とでもわけ隔て無く接し、卑劣な裏切り行為をした相手に対しても幸福を祈るというような少女だった。
いま思えば彼女はクリスチャンだったんじゃないかと思う(そういえば名前も聖書に出て来る女性風の名前だった)のだが、当時の自分には彼女が全く理解できず、上述した伊藤整の評論の内容を軽く非難めいた口調で説いたりしていた。
いま思えば赤面ものの行為なのだが、彼女はそれをニコニコしながら聞いていた。
そして最近、キング牧師が愛について説いた説教を読む機会があった。
これも一読しただけでうろ覚えなのだが、要約すると「『愛』と『好きになること』は別物である。神が私たちに『敵を好きになれ』と言わず『敵を愛せ』と言ったことに感謝すべきだ。私たちは、憎む敵を好きになることができなくても、彼のために祈ることはできる」という趣旨だったと思う。
これを読んで今まで持っていた伊藤整流の「愛」観が崩壊した。伊藤整は通俗的な「愛」のイメージで問題を論じていたのではないか。
xevra先生が、高齢メンヘラカップルのブログに、薬が合ってないのか、とブコメされておられるが、
ブログを読む限り、主治医への相談が必要で薬を変えなければいけないほどのうつ症状がある感じはしない(あのブログの精神的リスカは通常営業だ)し、
そもそもパーソナリティ障害自体は、神経や脳器質などの生化学的なものというより、他人に迷惑になるレベルで著しく性格が悪い人、というだけのことなので、
薬じゃあ治らないし、根気よくカウンセリングなどを続けたところで、あまり効果がない(何しろ著しく性格が悪い人を相手にカウンセリングしなきゃいけないから)ことが多い。
パーソナリティ障害には多くの種類があるが、これは、様々なベクトルの性格の悪さを、大まかにカテゴリー分けしているだけ、という側面もある。
実体験数が少なく、それに反して情報量が多い今時の若者には、多かれ少なかれパーソナリティ障害的な心の動きが見られる人もいて、それほど珍しいことでもない。
まだ若い人であれば、良い友達や良いパートナーときちんと付き合っていくことで、カウンセリング的な効果を得て、成長と共に
「他人に迷惑になるレベルで著しく性格が悪い人」から、「ちょっと個性的だけど面白い子だよ」ぐらいまで改善することも少なくない。
まぁ、当該の高齢メンヘラカップルは、もう既にどっちも高齢者で、今までの道のりで見つけられたであろう性格の改善ヒントをすべてスルーしてきたという実績に加えて、
道端に落ちてたメンヘラを拾って隙間を埋めてみたけど合わなかったから捨てました、みたいな、
いい年した人間ならとっくに卒業したような(おまけにそれをSNSで告白したり、サブイボ級のポエムタッチなブログで公表したりの)破壊的な行動を繰り返している輩どもなので、
パーソナリティ障害に係る各種の「生きづらさ」の改善は、期待できないだろう。
「うつ」は心の風邪だから休養がいちばん、という例えに倣うなら(これは本当によくできている例えだと思う。複合原因または原因不明、放置・反復が過ぎると死を招くところまで特徴をよく表してる)、
パーソナリティ障害は「子供の頃からの生活習慣ですっかり太った精神的デブ」みたいな感じだと思っている。これは自分が勝手に定義していることではあるが。
彼らのような、パーソナリティ障害に苦しんでいる人たちの持つ共通の原因は「肥大化した自意識」。他者の存在を受け入れずに生きてきた結果「自」のフィールドだけが肥大化している。心の内臓脂肪が理由。
これは、遺伝的な体質ももちろんあるけれど、どちらかと言うと、生育環境なども含む生活習慣由来の問題なので、投薬やおざなりのカウンセリングなどでは、根本を改善するのは難しい。
例えば、長年の運動不足で肥満症から糖尿を発症した人に対して、糖尿への投薬治療はできるけれど、運動不足由来の肥満を解消させて原因を改善させるのが本当に大変なのと同じような感じ。
そして「適度に食べ、適度に運動し、人生を楽しむ」習慣が身に付けば、収まってしまう(糖尿発症しちゃうと収まっちゃうと簡単には言えないけど…)ようなものでもある。
パーソナリティ障害で精神科を受診すると抗うつ剤を処方されることがあるが、肥満が理由の糖尿と、メンヘラ理由のうつは、似ていると思う。
そして、肥大した自意識=過剰な内臓脂肪、と例えると、他者=筋肉量、という感じである。
上の方に記した「良い友達や良いパートナーときちんと付き合っていく」というのが、「適度に食べ、適度に運動し、人生を楽しむ」にあたる部分で、とても大切なことだったりする。
職業カウンセラーでは、そこまで対象者に踏み込み、「適切な距離を取った他者」であり続けるのは、時間的にも精神的にも難しいのが現実。
一方で、メンヘラではない多くの人は、自分の近くにいる人と適切にコミットしたいと願うのがふつうだ。その方が人生を楽しみやすいし人間関係の安全性を確保しやすいから。
ましてや、近づいた意図が友情や恋愛などの「好意」に基づくものであれば、時間や労力を厭わずに、その相手との適切なコミュニケーション、コミットメントの方法を模索しようと試みる。
「メンヘラ傾向があったが色々あって落ち着いた人」というのは、このような友情や愛情という機会を、きちんととらえることができた人。
若いうちのメンヘラは恋すれば治る、みたいな側面もあって、良い人と巡り合えば、ケロッと、それこそ憑き物が落ちたかのように普通になっていたりする。
一方で、当該の高齢メンヘラのブログを読むと、今まで、改善の可能性を感じる「他者」と向き合わうべきタイミングで常に逃避行動を取って生きてきたのだろうということが分かる。
な、著しく性格が悪いだろう。
ちなみに、他者と向き合わなくても、結婚だって離婚だって浮気だってセックスだって、するのは簡単。というか、むしろ他者ときちんと向き合わない方がどれも簡単だったりする。
相手のこと考えずにいる方が、照れや逡巡や羞恥心やプライドなんかの、恋愛やセックスにまつわる精神的なハードルは超えやすいから。
ただし、他者ときちんと向き合った付き合いの上で行う、結婚生活やセックスは、向き合わないまま行う結婚やセックスの何千倍も多幸感が強い。まぁ当然の話だが。
「彼ら・彼女ら」が、あれだけ行動的で、発信意欲が強くても、ちーとも幸せそうに見えないのは、これが理由。
パズルの合わないパーツを、手前勝手に合わせようとして癇癪起こしてる子供と一緒。
他者と向き合わず精神的な成長を否定して、というのは、大昔は「ピーターパンシンドローム」なんつって流行ったんだ。
まぁあれはあれで、この文章と同様に偏狭な側面が強いものではあったが(なんで男性に限定したんだろうなあれ、時代性だろうか)。
まぁ、そんな通俗心理本が出る程度には、一山幾らの、凡庸で特に特徴も魅力もないような、特に珍しくもないような、ただの性格の悪さでしかないんだよな。
いや、どう考えても宇宙じゃないだろ!?っていうツッコミが速攻で来ると思うのだけれど、舞台の構造がスペースオペラ(スペオペ)であるという話で、狭い意味でとらえずに広い心をもって少し話を聞いてほしい。
周囲の友人には以前からこの説を披露しているのだけれども、なかなか賛同を得られないので増田で書く。
ジャンルの定義論になると すげーややこしい議論に発展してしまうし、そこまで詳しくないのでざっくりと説明するとスペースオペラは1960年代ごろから定着した小説のスタイルで、名前の通り舞台が宇宙なのが特徴。
人類はワープ技術や超光速航法を得て宇宙に版図を広げ、恒星間交流どころか銀河を渡り、異星人とも親交を深めたり、ときには争ったりもする。未開の惑星に不時着してそこで未知の怪物と出会ったり、宇宙船の中で殺人事件が起きて容疑者の異星人たちの特徴から犯人を捜しあてたり、など様々な内容の小説がある。
こう説明すると、SF(サイエンスフィクション)とスペースオペラってどう違うの?と疑問に思うかもしれない。
そこには明確な違いは無いのけど、敢えて線引きするならスペースオペラは通俗的なんだよね。舞台こそ宇宙船や惑星が出てくるけれど、科学的な考証なんてそんなに重要じゃあない。とりあえずレーザー銃を撃って、悪い奴を倒して、美人を助けて物語は終了!めでたしめでたし、っていうのが大事。
それというのも、スペースオペラは背景が宇宙になっただけの西部劇、と言われるくらいで なにせ低俗的な雑誌に連載されていたから、SFファンからするとちょっと下に見られている。
西部劇というとイメージしにくいから、言い換えると宇宙を舞台にした水戸黄門と思ってもらっても良い。諸国を漫遊するんじゃなくて、惑星を渡り歩いて悪事を働く敵を成敗していく定番パターンの要素はさして変わらない。
前段のスペースオペラは西部劇、って見方は間違いではないけれど、もう一つの要素としては冒険小説のエッセンスを取り入れたのが大きい、というのが個人的な意見。
冒険小説って言うのは歴史が深く、中世の騎士物語とか英雄譚とかが源流のジャンルで、主人公が様々な苦難を経て色々なところを冒険する、というもの。
とある東の国では怖ろしい牙を持った30フィートを超える獰猛な虎と闘い
とある南の国では毒矢を操る部族と捕まりそうになるが隙をついて逃げ
とある海の国ではいかだを組み合わせた住居で一生陸に上がることのない一族と出会う
などなど。
とりあえず妙なところを旅して、変なことが起きて主人公は翻弄されるものの、結果的に知恵と勇気で危機を脱出する、というのが基本パターン。もちろん実際に旅をして書いた書物もあるものの、読者がそこに行って確かめることなんてない時代だから、適当に書いたものがほとんど。
なにより、このジャンルは大航海時代以降になって一気に花開いた。
史実でも南米や、さらには南太平洋諸島には独特の風習を持った部族や文化遺産、また珍しい動物がたくさんいたので小説の題材としてはやりやすかった。
見上げるほど大きな猛獣との遭遇したり、人を食べるという部族に捕えられしまい大ピンチに!とか。
18世紀に発表されたガリバー旅行記も含め、19世紀くらいまではこのジャンルは盛り上がったのだけれども、20世紀にもなると下火になってしまう。
なぜなら、もうその頃には人類未踏の秘境というのもなくなってしまったから。
不思議な動物もジャングルの奥地に住む謎の部族も調べ尽くして、冒険のロマンは地上には残っていない。
そこで宇宙なわけ。
スペースオペラは作者が惑星ごとに好きなように自然環境を作れるのが大きな利点で、重力が少ししかない衛星があったり、昼が一ヶ月続く惑星も設定できたり、生態系でも、異星人でも、文化や風習、宗教や法律など様々な要素を自由に設定できる。
そして一つの話が終了すれば主人公たちはそのままで、次の星でまた新しい物語を構築できる。それぞれの星で不思議な出会いがあり、軋轢があり、その問題を主人公たちが苦難を乗り越えて解決していき、そしてまた次の星へ。
ここまで説明してみると分かると思うのだけど、ワンピースの「島」も似たような構造にあるんだよね。
グランドラインに浮かぶ島々には様々な国々があり、翼の生えた種族が居たり、動物のような容貌の人々がいたり、奇妙な動植物があったり、冒険小説のような要素が満載で、それでいて一つの物語を解決すると次の島へ旅立ちそこで新たな出会いが……というパターンは惑星を旅するスペースオペラとも共通の面が大きいと気がつくはず。
舞台こそ地上ではあるけれども「島」という設定は「惑星」に近く、もうこれはスペースオペラ物と言っても過言ではないだろう。
『いや、でも宇宙じゃないじゃん!』
と友人たちに一蹴されてしまうだけれども……。
賛同してくれる人が少しでもいるといいな。
そろそろスペオペなラノベがくるんじゃない? - WINDBIRD
この記事を読んで書きはじめてみたものの、書いてみたら全然違うところに話が進んでしまった。
あらかじめ補足しておくと
『ひょっこりひょうたん島』も『キノの旅』もスペオペである派です。
1
6月11日に、「絶歌」は発売された。その直後、この本の刊行を報道で知った遺族のうちの一人が、遺憾であるとコメントを発表した。
以来、今日に至るまで、様々な人々が—— 専門家、知識人、芸能人、ライター、クリエイター、etc——、この本についてコメントをしたり、記事を発表している。
少しだけ、どこかで見たような光景だな、と俺は思った。
原発だ。
震災以来、原発というのは、賛成だろうと反対だろうと、何かしらの意見を持たなければならないような問題になった。「どうでもいい」「どっちでもいい」というような態度は許されない。誰しもが原発に対して、真剣に考えなければならない(あるいは、そのフリをしなくてはならない)、そんな風潮が蔓延している。
そんな光景に、どこか似ている、と俺は思った。この本の出版に関して、肯定的だろうと否定的だろうと、有名人(というかライターやクリエイター、芸能人)は、何かしらコメントをしなくてはならない。そんな雰囲気が漂っているような気がした。
また、ネットでもあちこちで、この本のことが言及されている。その内容(というか質)も、原発に関するもの似ている。有意義なものあるけれど、ほとんどが似たり寄ったりな退屈な意見で、特にAmazonのレビューに関しては、まぁ、平均的な人間の平均的な意見が読める、という以上の価値はない。
なんというかまさに「脱法ハーブ、握手会、風営法、放射能、ダサい、ダンス、ダウンロードって言ったら負け」状態だ。
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俺がこの本を読んだ理由は、端的に言えば好奇心だ。この本が発売されると知ったとき、純粋に読みたいと思った。ただの好奇心。
この際だから、書いてしまおう。俺は小説を書いている。ほとんどの人は知らないと思うが、Amazonで販売出できるKDP(Kindle Direct Publishing)で発表もしている。つまり、創作をする人間として、この本に興味を持った。
この本の元になった事件は、説明するまでもなく、後のフィクションに多大な影響を与えている。俺が知っている範囲だけでも、舞城王太郎や佐藤友哉あたりは確実に影響を受けているだろうし(舞城の『阿修羅ガール』に出てくる鬼畜殺人鬼グルグル魔人を知っているか?)、奥浩哉『GANTZ』に出てくる西なんかは、もうまんまだ。他にも探せばたくさん出てくるだろう。
創作をする人間として、そんな風に後のフィクションに、作家たちに影響を与えた事件の当事者が書いた手記に興味を持つことは、そんなに不思議ではない、と思う。だから手に取った。ただ、これは弁解だ、言い訳だ。下世話な好奇心で読んだ、と言われても反論は出来ない。
(これは余談だが、先述したとおり、この本は6月11日に発売された。ニュースになったのも、その二三日前だったと思う。しかし、振り返って見ると、五月の終わりに、この事件をモデルにした窪美澄「さよなら、ニルヴァーナ」が出ているし、そのちょっと前には、34歳になったとある小説家が事件現場を巡礼(?)するという内容の佐藤友哉「ドグマ34」がすばる4月号に掲載されいてる。偶然か? さらに余談だが去年放映されていた、金城一紀脚本のドラマ「ボーダー」の第三話は、殺人を犯した元少年が手記を出版しようとして遺族に殺されてしまう、といった内容だった。まぁ、偶然だろう)
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事件当時、俺はまだ小学生だった。けれど、この事件のことは、やはり印象に残っている。
俺は子供のころ、モデルガンが好きで、アクション映画などの銃撃戦のシーンを見てはひとり興奮していた。シュワルツェネッガーがバンバン人間を撃ち殺しているのを観ながら熱狂している俺を見て、母親も心配していた。俺も子供心に「自分は人が死ぬことになにも思わないのか」などと普通のことを普通に思っていた。平均的だ。
そしてこの事件以降、子供によるセンセーショナルな事件は、たびたび起こる。「キレる17歳」などいうキャッチコピーがつき、まるで急に少年犯罪が増えたかのように報道された。
フィクションも影響を受ける。バスジャック事件を題材にした青山真治の映画「ユリイカ」などだ。
開き直るわけではないが、俺は上記の作品たちが好きだ。だから作者に興味があるし、その作者に影響を与えた題材、事件にも興味がある。センセーショナルな事件は、良くも悪くも、フィクションに影響を与えているのだ。
ただ、報道のされ方、ニュースの選ばれ方のせいなのか、はたまた「事実は小説より奇なり」なのか、現実では悲惨なニュースが相次ぐ。自然災害は仕方がないにしても、凡人には理解できない理由で、または理解できないほど身勝手な理由で、色々な事件が起こる。無差別殺人、闇サイト、児童虐待。世紀末を過ぎても、この手のニュースには事欠かない。
「近頃はありきたりのリアリズムに追いつかれそうにも見える」
これは、とある賞の選評の一部だ。とある一作品に向けられた言葉ではあるが、なんだかフィクションがひどくしらけてしまうときに、この言葉がふと思い浮かぶ。
我ながらバカなことを書いているな、とは思う。でも、俺は嫌なのだ。俺はフィクションが好きで、物語が好きで、小説が好きなのだ。だから、読むし、書いている。書いては直して、また書いている。
この本が出たときも、似たようなことを思った。批判が溢れ出ているのに、蓋を開ければベストセラーだ。売れているからって、優れたものじゃないってことは判っている。それは音楽も映画も本も同じだ。
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そして、この本を読んでみた。内心ドキドキしていた。偉そうな事を言っておきながら、日本の犯罪史上稀に見る(仰々しい枕詞だ)事件を起こした、当事者の手記。正直、影響を受けてしまったらどうしようか、とも思った。俺は本を読む以上、どんな本でも最大限影響を受けるつもりで読んでいる(そうでなければ読む意味なんてない)。ただ、この本だけは、少し怖かった。
しかし、どうだろう。前半はネットで揶揄されている通り、自己陶酔しきった糞ポエムだった。ガラガラのライブハウスで演奏しているクソみたいなバンドの歌詞でも、これよりはほんの少しマシだろう。ただ、文章自体は上手いな、とも思った。読ませる文章だ。特に、後半の面会に来た弟のやり取りの場面では、ちょっとぐっと来た。少しだけ泣きそうにもなった。
でもこれは(ここまで書いておいてなんだが)、所謂ただのお涙頂戴話だ。当たり前の反応というか、けして面白かったというわけではない。
そう、端的に言って「つまらなかった」というのが、この本を読んでの感想だ。
一部で神格化、カリスマと化している「殺人鬼」だが、彼はつまらない、ただの普通の人だったのだ。多くのフィクションに影響を与え、ひとたび本を出版すれば大いに話題になる「あの人」は、普通の人間だった。
前半のあの糞ポエムが、それを象徴している気がした。あの稚拙で過剰な修飾表現は恐らくわざとで、そうやって過剰に飾らなければならないほど、内容は、実は普通なのだ。
これについてはロマンポルシェのロマン優光さんが書いた記事に頷ける箇所があった。
“この本には特にそういうところがないのだ。(性的偏向については代入される対象がおかしいだけで数式は同じなので、対象がいくら理解できなくても根本的に理解できないというわけではない。) 普通の人が普通に想像したような話が続くだけである。 ”
http://bucchinews.com/subcul/5203.html
5
少し前になるが、日曜の午前にやっている「ワイドナショー」という番組で、店の商品に爪楊枝を刺す場面をYouTubeに投稿した少年のニュースをやっていた。
それを観た松本人志が、「全然おもしろくない。声も張ってないし」とコメントしていた。他の出演者は「そこですか?w」といった感じだったが、俺は、松ちゃんはこういうコメントをどんどんしていったほうが良い、と思った。
つまり、つまらないものは、つまらないというべきなのだ。そして、松本人志のようなおもしろい人は、こういうくだらないことをする人間に向かって「全然笑えない。おもしろくない」ともっというべきなのだ。
同じ番組で、松ちゃんは、この本は読まない、といっていた。遺族の方がここまで言うのなら、と。立派な態度だと思う。下世話な好奇心で読むヤツに比べたら、遥かにマシな態度だ。
でも、俺は松ちゃんに読んでほしい。この本を読んで、おもしろくない、と言ってほしい。
「俺に影響受けてるのかもしれへんけど、お前の本、つまんなかったで」と言ってほしいのだ。
舞城でもユヤタンでも乙一でも、こんな本より、俺の小説のほうがおもしろいぜって言ってほしい。なにがベストセラーだ!っていってほしい。
だから、俺は敢えて言う。
自分に取っての本当のことを書いたのかもしれないが、ハッキリ言ってフィクションのほうがおもしろいぜ。普通の理由で普通の狂い方をした普通の人間なんかより、グルグル魔人のほうが狂ってるぜ。なんせウンコパン三世〜♫ デレッデレ〜♫ なのだ。
だから俺は、この本を批判するならおもしろい人たちに、「つまらない!」って言葉こそ、声高に叫んで欲しい。
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“結局のところ、人生で起こるすべての本当のことは、陳腐で薄っぺらで通俗的なのだ。そうじゃないことは小説の中にしかない。だから小説の中で、つまんないなあと思うとき、わりとそれが人生の本当のことを書いているってのがあって、だから小説って難しい”(舞城王太郎/パッキャラ魔道)
まったくその通りだ。
そんで、つまんない本のことで、
いちいち騒ぐのはやめようぜ。
おわり。
「キモくて金のないおばさんも弱者だ」に対して「そんなのは後回しだ。まずはおっさんを助けるべき」なんて意見が飛び交う時点で「キモくて金のないおばさんも同情されない社会的弱者である」ことの証明になってるよね。それに少なくともここで「キモくて金のないおっさんなんか切り捨てろ。まずは女性を助けよう」なんていってるフェミはいるのかな?ここのコメントを見る限り、フェミ側のほうがまだマトモに思えるが。
≫LieLie1998 コメント欄でなくてまとめられてる人の大前提して、シングルマザー支援の実現が結果的にキモくて金のないおっさんを更に税金で痛めつけてて、事実上の奴隷制になってて、実は反福祉じゃないのという北欧での事例研究を文脈として共有してるんですよ。キモくて金のないおばさんは救済対象で、そこそこ恵まれててさらにいい男にこだわる論壇フェミニストが攻撃対象になってるという話
≫kyslog シングルマザー支援によって痛めつけられるのはキモくて金のないおばさんも一緒だよね。シングルマザー支援の実現がなぜ「キモくて金のないおばさんは救済対象である」ということにつながるのかがわからない。
まとめられてる人たちって、論壇フェミニストを指して「勉強のできるブス」という言葉を使うんですよ。出生動向基本調査から、そういう女性も自分より上の収入の男性を好む。しかし自身の収入も高いので選択肢が少ないし、アホな美人女性と競合する。で、我慢できずにいい男の2番手を目指す。経済負担をシングルマザー支援で回避しようとする。なので論壇フェミニストが主攻撃対象になる。
≫LieLie1998 もう一つの傾向として、出生動向基本調査から、男性のほうが相手に求めるものが少ない=女性のほうが男性を選ぶ。このためキモさ、金のなさが同じなら女性のほうが子を儲ける機会に恵まれる。ノルウェーの統計によると、女性の無子率はシングルマザー支援開始前後で10%超で安定しているのに対し、男性の無子率は支援開始後に15%から30%まで上昇。このあたりの統計が前提ですね。
≫LieLie1998 この状況はノルウェーのほうでも「イケメン金持ちによる事実上の一夫多妻制を、キモくて金のない独身男女(男のほうがより多い)を奴隷化することで成り立たせている」という批判があって、まとめられている人は耳目を集めんとして刺激的で通俗的な言葉で表現していろんな人が集まっているという構造なわけです。
≫kyslog シングルマザー支援で10%超の女の人、30%の男性は奴隷になってるってことだよね。支援が無ければ男性は15%程度で済んでいたと。このデータからどういう風に「キモくて金の無いおばさんはシングルマザー支援で痛めつけられてるということはない」という結論が導けるんだろう?支援の恩恵を受けてない10%の女の人は奪われるだけだよね。
≫LieLie1998 定量的に男性のほうが圧倒的に影響を受けやすいということですね。もともとの議論はそこまで含んだものなんですが、ずっと書いている通りまとめ主がそういうしっかりした部分を抜いて一番炎上しそうな部分だけ掻い摘んでいるのでくだらない車輪の再発明をしている最中だということです
「キモくて金のないおっさんが気持ち悪がられ人生が上手くいかない」ことを問題視してるのか、「シングルマザー支援によって男性はその負担を負うことになる」ことを問題視してるのか、どっちなん?っていう。後者の場合ならば、シングルマザーでない人は全員その負担をしてるわけだから「おっさんは奴隷化するが、おばさんはそうならない」と言うのはおかしいよね。
≫LieLie1998 量的問題を質的問題にすり替えなくてもいいんじゃないでしょうか。男性30%女性15%で男性のほうが2倍不幸になっている、しかしこの2倍という違いは問題にされないね、の最後の部分だけが取り上げられてまとめられてしまったわけですから。
≫kyslog 数が少ない弱者の集合は無視していいかどうかの話だよねそれ。俺は集合の大きさがどうであろうが同じ負担を強いられてるのなら同等に扱われるべきと考えるが。つーか、「少数派よりも多数派に注目しろ」という考えこそが救われない弱者を生むような気がするがw
≫LieLie1998 もう一度いいますが、これは恋愛・少子化対策の話です。んで少子化対策をカネで解決しようとすると、子を産む選択権のない男性のほうが定性的に不利になり、福祉によって男性内の格差拡大が量的に観測されるというのが主問題で、フェミニズムに絡んでるのは単にその主張が男性内の格差拡大を増幅させるからだ、と言う程度の話ですよ。
≫kyslog 子を産む選択権は男女共に平等でしょ。女が子供産みたいと思ったらいつでも子供産めるの?って話。産めないよね。よって「子を産む選択権のないから男性は不利」という結論にはならないだろう。
≫LieLie1998 女性が既婚男性と不倫して男性の妻にバレずに自分で子を産むことはできるが、男性が既婚女性と不倫して女性の夫にバレずに産んで貰って引き取るのは困難ですし、実際シングルマザーとシングルファザーの数の違いに出てます。そこは単なる現実ですよ。
≫kyslog 「既婚者と不倫して自分の子供を産むことができる」のが子を産む選択権なのかwそういう意味なら確かに男に子を産む選択権は無いな。この権利がないことでなぜ不利になるのか全くわからんがw
≫LieLie1998 選択権を持つ女性が好みのイケメン金持ちに集中し、キモくて金のない男は重税をイケメン金持ちに貢いで野垂れ死ぬという事例がノルウェーで観測されていますね、これは現地でも事実上の奴隷化で人権的にどうなのという議論がありますね、と言う話になってまとめの最上段に続くわけです。
「少子化対策、シングルマザー支援が男性を奴隷化させてる!」「じゃあ少子化対策やシングルマザー支援を無くせばいいよね?」これに対する返答が全く無いという。
≫LieLie1998 男女平等反対、格差拡大賛成、少子化賛成のどれかを選べと言われて諸手を挙げて賛成する人なんかいないと思いますが。格差拡大賛成に諸手を挙げて賛成している人に対して、気を付けなよと言っているだけなんですけど……
≫kyslog 「Aが原因で弱者が虐げられてる!」と言うから「じゃあAを無くせばいいんでないの?」と聞いてるだけなんですけど…YesかNoで答えられる問いなんですけど…
≫LieLie1998 「弱者Aを救済するために弱者Bが虐げられてる」「弱者Bを救済するために弱者Cが虐げられてる」「弱者Cを救済するために弱者Aが虐げられてる」という関係になっているときに、それぞの個別の案に諸手を挙げて賛成する人がいますか?安易にyesかnoか迫る行為自体が弱者を痛めつけることに無自覚な精神性の発露でしょう、という批判なんですが。
≫kyslog いや1つの案についてしか話してないけど…。「少子化対策には賛成ですか?反対ですか?」別に少子化対策が行われることを問題視してないのならそもそも男性の奴隷化だの怒る必要無いよね。これが問題なら対策をやめれば解決するだけの話。
≫LieLie1998 「キャリアを望む女性が男性を養う」という選択が取られないなら、少数の深刻に不幸なシンママとキモくて金のないおっさんと多少の男女格差を甘受して、そうなりたくないなら自主的に適当なところで妥協して結婚するようなバランスにして、雪崩を打って不幸な人を量産することは避けてくれ、としか言いようが無いですね。
そもそも歴史修正主義という言葉はもともとは歴史学において、歴史を叙述し直すことを主眼とした、歴史学における試みの一つを表す。
一般には、伝統的な歴史解釈に対し、別の可能性(仮説)や、可読性(読み方)を提示する試みをいう。
つまりただ単純に新たな資料から考えなおしてみることを指しておりそこにイデオロギー的な意味等は含まれていない。
有名なものとしては以下の様な物が歴史修正主義の立場から新たな観点として持ち込まれた。
鎌倉時代の始まりについてはニュース記事などになっていたりするので知っている方も多いと思う。
いい国(1192年)つくろう鎌倉幕府という覚え方をした方が多いと思うが現在では1185年の成立説が優勢になっており
中学や高校教育での教科書などでも1185年に改定されている場合が多い。(らしい
というように主に歴史学において使われる言葉ということになる。
ホロコーストは存在していなかったという言説を声高に掲げる勢力が台頭してきた際に、彼らは自らのことを「歴史修正主義者」と名乗った。
つまり、正しく歴史を認識しているのは我々であり正しい形に修正するというような意味合いで彼らは使ったわけだ。
そしてこれらに反発した人たちが当然出てくる。
そして彼らもまた、ホロコーストのように広く知られた事実を否定する「歴史修正主義者」たちを悪し様に言うようになった。
といったような内容を発言する人もいる。
しかしながら私はこの歴史修正主義という言葉そのものが非常に危険なフレーズだと思っている。
通俗的な意味としてwikipediaには以下の様な意味で記述されている。
ある特定の歴史家が、反対者の歴史観に対して、否定的な印象を広く一般に植え付けるためのレッテルとして用いることがある。
この用法による「歴史修正主義」とは、「客観的な歴史学の成果を無視し、都合の良い過去は誇張や捏造したり、悪い過去は過小評価や抹消したりして、
自らのイデオロギーに従うように過去を修正するもの」であったり、「既に修正された歴史観の再修正をするもの」という意味で使用される。
特定のイデオロギーを持つグループが反対グループに対して使用される。
「慰安婦が存在しない等というのは捏造だ。歴史修正主義者はこれだから」
ただ、現状のイメージとして、左派が慰安婦否定論等を使う右派(ネトウヨ)に対して使っているイメージが非常に強い。
特に安部総理に対して使っている記事やはてなブックマークのコメントでもで散見される。
Twitterなどでの論説を見るとレイシズムなどと歴史修正主義を結びつける人がいたり、非常に安易かつ混同した使い方をする人がいる。
もちろん、慰安婦が存在した資料をしっかり示したり、きちんとした言葉で反論するのであればそれは非常に健全であるし、どんどんして良いことでは有ると思う。
しかしながらこの言葉を安易に使いすぎると非常にまずい状態になってしまう可能性があるのではないかと思うのだ。
特定のグループ内で共有されている歴史的に正しいとして考えられている事と正反対の意見を述べるグループに容易に
歴史修正主義者という非常に「ネガティブ」な意味合いを持つ言葉でレッテルを貼るという行為がもし広まった場合、議論が成立しなくなってしまう。
歴史学は基本的に異なる説がいくつも存在しており、その中で多数派であったりするものが教科書などに採用される。
だが、そこには明確な証拠や、非常に練った方法で歴史を調査・推定しているのだ。
ただ、その場で相手を悪し様に歴史修正主義等と批判したりすることが容易に行われた場合どうなるのか? 当然反対意見がのべづらくなってしまう。
なにせ歴史修正主義という言葉のバックボーンにいつの間にかレイシストという意味がはびこってしまっっており、反対意見を述べたに過ぎないのにレイシスト等と罵られる事と同義になってしまうのだ。
もし、南京事件が存在しないという論が日本国内で多数派になった時どうするのだ?
今度は劣勢になった側が歴史修正主義者、つまりレイシストと言われるようになるのだ。
そうなってしまった場合どんなに資料や証拠を突きつけても覆すことが非常に難しくなる。
「正しくない歴史を主張するものは差別主義者であり、キチガイなのだから当然だろう?」
こんな使い方を考えなしにのべつ幕なしに使っていれば自分の首を締めることにもなりかねないだろう。
もし反対の意見を述べるのであれば安易なレッテル貼りを行うのではなくきっちりと資料や発言等を引用して反論することを強くおすすめする。
便利だからってアホみたいに使っちゃ駄目よ。
以上。
しかし、「通俗的に理解していたブラックホールの知識」だって、
子供向けの科学まんがとか、海外SFの古典とか、新聞の片隅に載ったコラムとか、
もちろん、インターステラーの内容を信じてブラックホールへ突撃するということにでもなれば、
「おいおいちゃんと検証したのか」と引き止めなきゃいけないが、
インターステラーの評判は上々らしいけど増田で検索すると以下のように否定的な感想しか見つからない。三つ目のリンクにはトラバで反論を試みている人がいてその人の文章を読んで少し恐ろしい気持ちになったのでその気持ちを整理してみる。
http://anond.hatelabo.jp/20141127233759
http://anond.hatelabo.jp/20141203194100
http://anond.hatelabo.jp/20150107180239
上記の増田と二つ目の増田からリンクされている映画レビューを読めばインターステラーがどんな映画であるかはわかると思う。こういう映画を許容して楽しむかどうかはここでは問わない。(私自身は許容できない派だが)ここでは映画の内容ではなくて、三つ目の増田のトラバの話しをしたいと思っている。
トラバの増田はまともな知識など何も持っていないにも関わらず、映画自体が持つ矛盾を包み隠すようにストーリーをうまく解釈している。(記憶の混乱、無意識のねつ造でもあるかもしれない)
恐ろしいと感じたのは以下の文章だ
どちらを信用するかと言ったら後者だし、
この増田は自分が「通俗的に理解していた」知識より「物理学者が監修」した映画を信じるのだと言う。「ある程度の違和感も『演出』として理解する」=フィクションである と認識しているにも関わらず映画の内容を鵜呑みにする宣言がなされているわけだ。権威主義なのかどうかはわからないが、結局のところ信じたいから信じるという知性の放棄が行われている。EM菌や過剰な原発恐怖、小保方擁護、オスプレイ忌避などに携わる人たちの内面の一端を見たような気がした。
自分とは違う考えをし、自分には理解のできない結論を出す人々が存在することは当然であるし健全でもあるが、このような非知性派の人々がマジョリティであるならば自分の生活環境が脅かされていくような不安を感じてしまうのである。
(民主主義のシステムにおいては数は力であるし、社会の空気や同調圧力を生み出すものとしても数の力は強い。)
(インターステラーについての各種記事や感想、レビューを読んでみるとここで取り上げた増田のような思考回路を持った人間が多いように見えてしまったので彼らをマジョリティとして扱った。ここに飛躍があることは否定しない)
■その1。
毎回言ってるんだけど、今回こそはゲームレビューをやりたいと思って……選んだのは『夏祭』。タイトル通り、ゲーム自体は、三日間の夏祭を描いたものだから、プレイ時間は短い。たった三日間で、キャラクタを描写しきれるのか? と思っていたのだが、演出手法として、イベントごとに回想シーンを頻繁に挿入することで、要点はきちんと押さえている。ただ、毎回毎回、お約束のように回想シーンが入るので、それが少々うざったくもあるけど……。 最近のストーリー型のゲームにしては珍しく、二時間ドラマのようなスタイルで作られている。なので、このゲームは、大作型の作品ではない。ここを勘違いすると食い足りないような印象だけが残るだろう。
筆者も、まんがで最近流行している、虚構の現風景を描いたエコロジスト的な作品の流れにあると勝手に勘違いして、今回のサブタイトルをつけたのだけど、実際にプレイしてみると、特に自然描写などに重点を置いているという訳ではない。おそらく、あくまでドラマチックな演出の舞台として、この設定を選んだだけなのだろう。なので、今回のサブタイトルは嘘っぱちだ。サブタイトルは、レイアウトの都合上、原稿を書き始める前に決めてしまうので、こういうこともある。
しかし、こう書くといかにも薄っぺらなゲームのように思う人もいるかも知れないが、別にそういうゲームではないし、特筆すべき所もある。ヒロインである[橘みやの]のシナリオなのだが……気の弱い幼なじみという基本設定自体は通俗的なものだ。しかし、中盤から後半にかけて、そのスタンスが表面的なものであったことに、主人公は気づく。早い話が、三角関係から来る、すれ違いと嫉妬の地獄絵図が展開されるのだ。
ただ、『たとえばこんなラヴソング』や『週末婚』のような、サイコスリラーばりの鬼気迫る展開をする訳ではない。三角関係の当事者たちは、あくまで良識の持ち主であり、自己の欲望を優先できない弱い人たちである。この葛藤を文学的な執拗さで書くと、『WhiteAlbum』のように、美少女ゲームには異例の悲劇性を帯びるのだけど、このゲームはあくまで、テレビドラマ的な構造の作品なので、予定調和的な結末へと向かっていくし、ここで、虚構の現風景を想起させるような物語設定の仕掛けが効いてくる……少女まんが的な、感傷と情緒の感覚に訴える設定が、毒性を中和しているのだ。
とはいえ、この予定調和を少女まんが的なユートピアと捉えるのも、違うような気がする。それはむしろ、恋の熱情ではなく、愛情に起因する、穏やかな信頼によって支えられる……『とらいあんぐるハート』『とらいあんぐるハート2』で描かれるような、疑似共同体に向けられるべき評で、ボーイ・ミーツ・ガールな恋を描いた『夏祭』にそれを当てはめるには、少々違和感があるだろう。
■その2。
まあ、[少女まんが的]という言葉が何を指すのかは、かなり曖昧だし、それはむしろ、白泉男児である相方の領域だったりするのだが、結局のところ、『夏祭』は、スタンダード過ぎるのだ。それは決して悪いことではなく、むしろ美点なのだけど、価値観が多様化し、結果として、家族や友人といった単位での崩壊を招いている状況の中では、かつては正常とされていたものも、異常とされてしまう。
そして、マッチョイズムからも、フェミニズムからも取り残された人々は、[癒し]と[萌え]の過剰な摂取と、虚構の原風景への逃避を計るのだ。筆者はそういう思考には否定的だが、これはこれで、スタンダードな価値観を欲する動きなので、そういう嗜好の全てを否定する訳には行かないのだ。
『夏祭』は、目から鱗が落ちるようなゲームではない。だけども、プレイした後の安心感は、[癒し][萌え][虚構の原風景]といった要素によるものでもない。娯楽作品に不可欠なバランス感覚をちゃんと備えており、背骨が通っているのが、この安心感の正体なのだと思う。
ただ、スタンダード故に、これはどうか?という箇所もある。Hシーンだ。作画・文章共に描写力がなまじ高い分、不自然な印象が強調されてしまう……主人公のテクニックが上手すぎるのだ(笑)。変な話ではあるが、若い男女のボーイ・ミーツ・ガール的な恋を描くというテーマは、文章力の高いHシーンとは、相反してしまう所がある。早い話が、初々しい恋のドキドキ感……言ってしまえば[童貞魂]を描く作品でのセックスは、ポルノグラフィに求められる実用性とは、いまいち結びつきにくいのも事実なのだ。
だとすると、先月取り上げた『Kanon』の、意識的に回避することができてしまうHシーンの方が、作品のテーマと親和性は高いのかも知れない。肉体関係抜きでも、精神的な絆を結ぶことはできるし、トゥルーエンドも見られるというのは、美少女まんが雑誌の編集者だったくせに、Hシーンのない作品を平気で載せていた筆者にも、かなり衝撃的だった。ただ、それを認めてしまうのは、美少女ゲームの存在意義を問われてしまうということなので、簡単に納得はできないんだけどね……。
……しかし、これは「むほっ、これは嬉しい不意打ち……これに比べたら山岡さんのはカスや!」と、『美味しんぼ』の京極さん風に叫んでしまうのに近い(笑)。そして、「おいおい、お前さっきまで士郎のメシを美味そうに食っていたじゃねえかよ」と、自分に突っ込んでしまうのだが……って、話がズレた。
『夏祭』の場合、シナリオごとの構成にばらつきが激しいという難点はあるのだけども
、Hシーンの扱いは、物語にきちんとリンクしていたので、個人的には安心している。しかし、美少女ゲームにとって、セックスをどう扱うかは今後、重要な課題になるのではないかと思う。それはそれで、本末転倒な気もするが、美少女まんがではもう、その問題を語ることができなくなってしまった以上……そう、H以外の要素に市場が寛容である間に、思考を突き詰めていかなければならないのだ。市場が下り坂になれば、H以外の余計な要素は真っ先に排除されるのが、ポルノ業界の常なのだから。
■来月は1999年度の総括。
という訳で、次回は『へっぽこ通信』のへっぽこくん氏をゲストに招いて、恒例(?)の1999年度総括ですー。それにしても、この手の原稿ばっか書いているくせに、ファンサイトの類は全く知らなくて、軽い気持ちでサーフしてみたんですが、筆者の原稿など簡単に吹き飛ばすほど強力な、美少女ゲーム論が山のようにあるのね……もっと突き詰めないとな……。
余談ですが、『恋愛シミュレーションツクール』を買いました。いかんせんエンジン部分が弱く、実際にゲームを作るには、ちょっと苦しいんですが、恋愛ゲームの構造を解析するという意味では面白いソフトでした。
近頃盛んに聞くのが「読解力」という言葉である。いわく、今の時代読解力は大事だよと。
翻ってネットでは相手の読解力を非難する声が多く聞かれる。これに不自然さを感じる向きも多いであろう。
そもそも以前から「読解力VS文章力」とも言うべき対立は存在した。「お前の文章下手すぎ。日本語でおk」
「いやお前の読解力がなさすぎ。日本人か?」などという実にくだらない争いがちょっと油断すると勃発するのが近年のネット社会である。
しかし、私に言わせればそんな対立など時代遅れも甚だしい。時代に取り残された過去の遺物である。
私見では読解力という言葉は近年ますます意味をなさなくなっているのではないかと思うのである。
それは読解力を測定しようとすると文章力の問題が切っても切り離せないからというのもあるが、そもそも読解できるのは
文章の前提知識の有無に大きく依存する。しかるに、万人にフェアな読解力の測定など土台困難というものだ。
そうなのだ。所詮は、読解力などというものは通俗的な用語にすぎないのだ。そもそも、読解力よりも一般化した概念
である「頭の良さ」というのも甚だ曖昧な概念であることが、昨今の知能研究で具体的に明らかになりつつある。
世間でいわれる頭の良さとは、常識的シチュエーションで常識的な反応を返せるか、そのことを言っているに過ぎない。
「数学の難しい問題を解く」といった常識外のシチュエーションなど関係ない。数学のできる奴なんかよりは、
算数の暗算ができる奴のほうが余程「すごーい」と女の子から賞賛される。それが悲しい現実なのだ。
所詮はそういう常識的な観点から頭の良さが判定されているにすぎない。これを「ファッション知性」という。
読解力も同じことで、「ファッション読解力」が世間では試されているにすぎない。いや世間だけではない。
学問の世界での読解力も、また学問の世界での常識というものがあり、それを満たしているかで判断される。
決して学問という高尚な世界だから、読解力も高尚に測定されるというわけではない。これを常識の相対性ということができる。
しかし、幸いなことに、文化相対主義なんて古めかしい理論を引っ張ってくるまでもなく、
常識は相対的だというのは我々の新たな常識となりつつある。これも時代の流れというものだろうか。
LINEを始めとする新時代のコミュニケーションツールは、我々の情報環境に新たな複雑さを付け加えた。
結果、若い世代の人間ほど複雑に入り組んだ人間関係の中で、うまく常識を使い分けてやっていく術を
身につけている、という奇妙な逆転現象が生じ始めている。新世界において読解力は所詮それぞれの
コミュニティに応じた空気を読めるかという能力に過ぎないことが理解されるようになった。
新世界では、自分の所属しているコミュニティの空気を一通り理解できるだけでなく、所属コミュニティ
がどんどん流動していくので、その都度新たに加入したコミュニティの空気を読めることが求められる。
うちの母親がむかしこの系統だった。ただ本人自体も鬱傾向で恋愛は全然出来ないみたいなこと言ってたから化粧品と服はあんまりそうでもなかったけど。
還暦近くになってから逆に洗剤なんかは民生品に戻してる気がする。
ただ趣味が料理なので食べ物は大地で肉と野菜を買って自炊してた。まあ重点を置くなら髪だのアパレルだのじゃなくて食べ物かなとは思う。
皿もこの前まったくの無色のロイヤルコペンハーゲンを買ってきたといって見せてくれた。自分もああいうの好きだけど。
ただ一枚4000円の有機コットンのバスタオルなんかは髪巻いてるギャルのブランド品と同じで完全に見栄だけの無駄。機能で逆算してしまえばいいものもある程度はある。皿も結局そうだなとは思う。
体育会系である程度スポーツして闘争心と山っ気があるみたいな通俗的な男性イメージを維持するのはあれは"清楚な女性"のまったくの鏡像で
意外と意識して金と体力をかけないとできない。
スポーツや体育系系ってすごい金と手間がかかる。