そう、人間の(というか生物の)進化の過程って決して「改善の積み重ね」ではないんだよね。
月経に限らず、不合理な身体のシステムなんて山ほどある。たとえば人間は直立歩行を獲得したのと引き換えに痰を体外に排出する仕組みを失ったし、ほかにも無意味に回りくどくて効率の悪いことすごくたくさんやってる。
突然変異はランダムに起こるし自然淘汰・適者生存のプロセスにしたって長期的な視野に立って行われているわけじゃなくて、その場その場の環境に合わせて行き当たりばったりな選択が行われているだけ。
生き物の仕組みなんてその程度のものですよ。
特定の人を排除したい意図がある場合はわかりにくい言葉は有効だと思う。
例えば英語が苦手な世代や層に議論に入って欲しくない議論そのものを知られたくない時とか
ともあれ、ハイヒールは滅ぼさねばならない。
↑ これの筆者である。私がこのエントリを書くにあたって意識したのは、共産主義、ファシズム、ラディカル・フェミニズムだ。そこにミソジニーの味を加えてみた。
ついでに、最近話題のポリコレも組みこんだ。その点ではリベラル思想も汲んでいる。
文章はいい加減だし、今日の日本において実現可能性はゼロだと思うが、この主張自体はマジメに唱えているつもりである。
たとえば、労働問題について考えてみよう。
「過労死するほど働く自由」と「過労死するほど働かない自由」の両方を労働者に与えれば、それで十分だろうか?
私はそうは思わない。読者諸君も、一部のリバタリアンを除けば、「過労死するほど働く自由」を認めないはずだ。
「過労死するほど働く自由」なんていうものは、たとえそれを望む労働者がいるのだとしても、決して認めてはならない。政府が長時間労働を厳しく規制し、それを抑圧することが必要だ。
人が趣味や遊びをやりすぎて死ぬというのは愚行権の範囲で、一応は自由だと言えるかもしれない。しかし労働問題においては、そういう権利を適用するべきではない。
長時間労働は、それをやる自由とやらない自由の両方を認めてしまった場合、ブラックな労働環境の中で強制的にやらされて苦しむ人が続出するのが明らかである。
女性が労働するときのハイヒール・化粧についても、これと同様のことが言える。
明治時代の日本でも、あるいはどこかの後進国でもいいが、近代化の過程では必ず「上からの改革」がある。
「旧弊に従う自由も、旧弊に従わない自由も、どっちも認めましょう」という生半可な方法では、おそらく近代化を達成できない。国民はややもすると旧弊に従おうとするからだ。だから政府が強権的に指導し、旧弊を排除することで、国民はようやく新時代に適応できる。
たとえば女性差別がひどい国では、政府が女子教育の権利を提唱しても、おそらく多くの国民はそれに従おうとしない。
権利を与えるだけでは、都市部のごく一部の家庭が娘を学校に通わせるにとどまるだろう。貧困層や田舎にまで女子教育を普及させるには、政府が国民に権利を与えるだけでは不十分であって、その権利を行使することを国民に義務付けなければならない。
「おらが村では女子教育なんてやらない」とか、「うちの家庭は伝統的な女性にふさわしい育て方をしたい」とか、そういう保守的な反発をするのは男性だけではない。母親や祖母も「女はかくあるべし」と考えている。「女子を学校に行かせる余裕なんてない。家の手伝いをさせたい」と思っている毒親もいるだろう。
そして女子児童は、当人がまだ子供であるため、自分がどういう価値観に従うべきかを判断できずにいる。
ここにおいて「多様な価値観を尊重せよ」などという主張は有害だ。政府は旧弊にまみれた価値観をきっぱりと否定しなくてはならない。
当然ながら現代の日本で、後進国が近代化するときのような強権的なやり方は適さない。とはいえ、政府や会社のお偉いさんが主導しなければ何も改善しないというケースが多いのも事実だろう。
たとえば就活の会社説明会で服装自由と言われたら、参加者は皆がスーツを着てきたという笑い話がある。こういう未開社会のごとき状況を改善するためには、「必ず私服を着ろ。スーツを着るな」という強権的な命令が必要だ。
上から改革をおこなって、下々の者は全員一斉に従う。――今日でもこれが最も現実的な手段なのだ。
私はなにも女性からハイヒール・化粧の権利を奪おうというのではない。会社や官庁ではそれを禁止しろと言っているだけである。
前回に書いたとおり、ハイヒールも化粧も、やりたい人だけがプライベートな時間に楽しめばよい。(短髪はすぐに伸ばせないけれども、それならカツラをつけて好きなヘアスタイルにすればよい)
私がこのように主張するのは、リベラル思想の影響を受けたからだ。
もし本物の極左ファシストであれば、プライベートな時間にもどんどん介入し、ハイヒール・化粧を完全に禁止するであろう。しかし、私はそこまで厳しい統制には反対である。
近年、女性蔑視の"萌え絵"等が問題になっているのをよく見る。
そのときのリベラル側の主張は、「女性蔑視の表現は政治的に正しくない。プライベートでその表現を楽しむ自由を制限するつもりはないけれども、公共の場所ではちゃんとポリコレに配慮せよ」というものであった。
私はこれに賛成だ。そしてそうである以上、ハイヒール・化粧もまた、公共空間から追放せねばならないと思う。それらのものは非常に女性蔑視的であるからだ。
もっとも、ハイヒール・化粧は女性たちが好んで選択しているという場合が多いだろう。
「女性の主体性を尊重しましょう」――これがリベラルにとっての錦の御旗なのだ。
しかし、私は世のリベラルほど無邪気になってその御旗を掲げることはできない。前回に書いたことの繰り返しになるが、女性がハイヒールや化粧を好んで選択することは、被差別者がなぜか自分の受けている差別を肯定するという現象だからである。
被差別者が望むならば差別を受ける自由はあるのか? 被差別者であればその差別を正当化してよいか? これはきわめて難しい話である。ただ一つ言えるのは、ここにポリコレ的な問題意識を持たないリベラルは、よっぽど鈍感か、よっぽど不誠実ということだ。
(この意味では、リベラルを気取っているフェミニストなんかより、ラディカル・フェミニズムの方が先鋭的になって突っ走っている分だけ、かえって正しい認識を持っている。)
私は歴史に詳しくないため、このさきは与太話しか書けないが、昔の中国には纏足という習俗があった。
そしてこれはあまり知られていないことだが、お上が纏足を強制していたわけではない。とりわけ清朝は漢民族のこのバカらしい習俗を忌避し、それを禁止する傾向にあった。にも関わらず人々は好んで纏足を選択し、競うようにその美しさを賞賛していたという。
女真族(満州族)の建てた清朝が纏足禁止令を出しても止めようがなく、結局、義和団の乱以後の近代国家への動きの中で反対運動が起こり、まずは都市部で罰則との関係で下火になった。しかし隠れて行われ、中国全土で見られなくなるのは第二次世界大戦後のこととなる。最終的に絶えた理由として、文化大革命で反革命的行為と見なされたこともある。このため、現在でも70歳以上の老人に一部見受けられる。
当時、女性が嫁に行くと、嫁ぎ先では何よりもまず最初に、花嫁の足を調べた。大きな足、つまり纏足をしていない普通の足は、婚家の面目をつぶすものだ。姑は、花嫁衣装の裾をめくって、足を見る。足が十二、三センチ以上あったら、姑は裾を投げつけるようにして侮蔑をあらわし、大股で部屋から出て行ってしまう。婚礼に招かれた客は、その場にとり残された花嫁に意地の悪い視線を投げかけ、足を無遠慮に眺めて、聞こえよがしに侮蔑の言葉を口にする。母親のなかには、幼い娘の苦痛を見るにしのびなくて纏足を解いてしまう者もいる。だが、成長した娘は、嫁入り先で屈辱を味わい世間の非難をあびると、母親が心を鬼にしてくれなかったことを責めるのである。
この引用で注目するべきは、姑や母親たちが纏足を推進していたということだ。
そして子供のときは纏足を痛がっていた娘自身も、親に纏足してもらえてよかったと考えていることだ。
さらに言うと、纏足は、男性中心の社会から女性たちが悪弊を強制されていたという観点だけで語ることはできない。それは女性自身が願望するところの"オシャレ"でもあった。
「纏足は、女性の誇りだった」「女性は肉体で動くから、痛みに耐えれば、高貴でよりよい人間になる」「母から娘への 女性になるための教え」「痛みを通して、身体を使って、女性は成功する」「足をより小さく、洗練して優美にすることで、女性は大きな誇りを感じた」
http://coconutpalm.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/--10---0239.html
西洋で女性を苦しめたコルセットにしても、きっと纏足と同様、女性自身が望んでやりたがるオシャレという側面があったはずだ。
これはまさしく、現代日本の女性が「ハイヒール・化粧はめんどくさい。強制されるのは嫌だ」と考えていながら、一方ではそれをやりたい願望を持っていて、結局それが手放せなくなってしまい自家撞着するのと同じ心理だ。
ハイヒール・化粧をやるかどうかに関して、「女性の主体性を尊重しましょう」とか「強制にならないかぎり両方自由です」ということを言っているリベラルは、あまりに鈍感かあまりに不誠実か、そのどちらかのために、この観点を見落としている。
無論、健康面やそれにかかる手間を考えれば、纏足やコルセットよりもハイヒール・化粧は随分とマシである。ただ、それは差別が過酷なものから軽いものになったというだけだ。進歩はしているけれども、まだ差別を克服できていない。
だから我々はさらなる進歩のため、おしゃれをしたいという女性の願望を抑圧しなければならない。ハイヒール・化粧を好んで選んでしまう女性性(女性らしさ)は、政治的に正しくないのである。逆にそれを憎悪するミソジニーこそが政治的に正しいのだ。女がオシャレをやめることで初めて男女平等を達成できると私が主張するのは、この洞察に基づくものである。
なお、議論はここにおいて、私が冒頭に書いた長時間労働の問題につなげることができる。「過労死するほど働く自由」を是認しようとする資本家・知識人は、プロレタリアの敵である。我々はこれを打倒しなくてはならない。
この理論を適用すれば、女がオシャレをする自由を是認しているリベラルと一部のフェミニストこそ、女性差別の温存を図っている連中だと言えるだろう。
twitterをなにげなく読んでいたら、たまたま的確な言葉を見つけた。
リベラリズムの本質的価値-自由、平等など-は、どこにあるのか? 逆説めくが、リベラリズム自体はその本質的価値を原理主義の激しい攻撃から救えるほど強くはない。 リベラリズムがその重要な遺産を生き延びさせるためには、ラディカルな左派の同志愛による助けが必要となるだろう。
「スラヴォイ・ジジェクbot @SlavojZizek1949」より
https://twitter.com/SlavojZizek1949/status/864981669509332995
前回のエントリは、穏健なリベラリストから散々顰蹙を浴びた。それは投稿前に分かっていたことだ。
大いに支持する。
仲間内でやってる分には勝手にすればいいけど、それ以外でカタカナ使いまくるやつは本当にアホ。
小池都知事なんか政治家のくせに変なカタカナ使いまくってて酷かったなー。
最近は誰かに指摘されたらしく気をつけてるみたいだけど。
新橋で独り飲み。
高校野球部のお子さんを持つお父さんと楽しく歓談。
お互いの共通の話題での会話がメインになってしまったので、共通の話題じゃない話もしたかったなあ。
でも、共通のキーワードを探ることも、楽しみのひとつじゃない?
次はがんばろう。
別に不順とかなくちゃんと生理が来たにもかかわらず、2回もパンツを汚してしまった
スカートはギリセーフだったのがせめてもの救いだけど、2回目は自宅だったから油断して「やべー新しいパンツ持ってこなきゃ!」とかいって
トイレットペーパーで股間おさえながら取りにいったけどやっぱり失敗して血が垂れて、今まで床拭いてた
いい年して自分が情けない
「言うこと聞かない嫁にどうにか炊き上がり時刻を早めさせたい」
「冷めたご飯を食べたい」
ゴールはどっちなのかな?
もし後者でいいなら、朝ごはん用に炊いたご飯を取り分けて置いとけば済む気がするけど。
ちょっとこわくなるだろうけど18時に炊けたご飯を20時に食うのとたいして変わらんよ。
嫁はんは炊きたてを食えるし。
晩炊いた飯は朝用に取り分けて冷ましとく。
色々と反論が出るのは想像の範囲内だけど、これは増田を全面的に支持する。
反論を全て読んだ訳じゃ無いけど、ほとんどの反論は間違ってるね。
増田の要求は決して大き過ぎないし、相手が専業主婦ならなおさら。
専業主婦って事は食事を作るのは仕事だろ?仕事にも関わらずその程度の要求を実行出来ないのだから、その奥さんに全面的に非がある。
「自分(多くの人)が嫌じゃ無い事」=「だれもが嫌じゃ無い」という思い込みが強いというか、例外的な増田の趣向を軽んじているんだよ。
そういう人っているじゃん?「みんな好き」=「それを好きじゃ無い人はおかしい」みたいな思考。
そいういう人と一緒にいると苦労するよ。
離婚した方がいいと思うよ。
なんにも答えてない。
答えてないあたり自民党っぽい。
「自民党は責任とらなくてもいいが、民進党は責任を取るべき。」
それはダブスタってもんだ。
気持ち悪くて気持ち悪くて全員死んで欲しくてたまらない。無茶苦茶なことを言うが、男全員死ね。
男に生まれただけで偉いとでも思ってんのか?男は女の身体を無許可で触れるもんだとでも思ってんのか?男は臭うから電車は完全に男と女分けて欲しい。
かつて、異性に関する悩みを吐露した時に炎上したことがある。当時の炎上で何が辛かったかを、今になってある程度整理できた。その辛さは大まかに以下の3つに集約される。
・悩みや不満を頭ごなしに否定される
・その悩みが、客観的には嘲笑や批判の対象であることがわかる。そしてそういった恥ずかしい投稿をしてしまう自分のメタ認知能力の低さに絶望する
特に3つ目がネック。執筆時には単に相談相手がおらず不満の捌け口として投稿したブログ記事だったが、それによりいつのまにか後ろ指を指されていて、まるで周囲から置いてけぼりを食らったような気持ちになったのをよく覚えている。
金を回そうと思うんなら、官製ワープア層をそのままにしたり生活保護やら子ども手当やらを地味に削って正規公務員の給与だけあげるのは間違いだろ。
入っただけ使いそうなところに重点的に回して、貯蓄に回しそうなところは後回しにすべき。
朝、これを書いた増田だけど、思い出したので一応書いておく
Giorgio Moroder - 74 Is the New 24