はてなキーワード: 無秩序とは
世界に広がる「“弱者の大義”に憤る人々」とどう向き合うか(望月 優大) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/gendai.ismedia.jp/articles/-/57359
ブコメには「良い記事だ」という評価もあるが、個人的には二週遅れくらいの言説だと思う(「多文化共生」が叫ばれていた二昔前くらいから変わっていないので)。
結論を見てみると、
映画を観てぜひ考えてみてほしい。
であるが、これは「一人一人が真剣に考えなければいけないと思います」という思考を丸投げする小学生の作文と変わらないと思う。
例えば、別の少数派であるLGBTだが、彼らは「(生物学的に)例外」だと思う。
もちろん、「(生物学的に)例外」だからと言って、差別して良い訳ではない。
(「万能マニュアル」を作ろうと思った時点で間違っていると思うのだが)
例えば、彼らを平等に扱うと言っても、トイレを男女の他にトランスジェンダー用に二つ追加で作るか?と言ったら、「そのコストは誰が負担するのか?」という話になると思う。
逆に、同性婚の婚姻届くらいであれば、社会的コストはそれほどでも無いと思う。
(もちろん、テクノロジーの進歩でトイレが容易に追加できるようになれば考慮に入れるべきだと思う)
この場合、問われるのは「(社会的コストや人権配慮も含めて)バランスの取れた常識的な対応」だと思う。
移民問題にしても、闇雲に移民を入れたら、社会がより無秩序化すると思う。
というか、現実は逆であって、ドイツでは実際事件が起きて社会が無秩序化しつつあったから、それに対する反発があったのだと思うが。
「どうやったら私たちは「向こう側」の人々と話し合うことができるだろう」と言うけれども、話し合った結果、内乱が起こる可能性もあるが、メディアはそれに対する責任は取れるのだろうか?
「では、日本も無制限に移民を入れますか?女性は夜道を歩けなくなるでしょうけど」と言ったら、急にNOを唱え出す人もいるし、制限的に入れる、と言っても、「例えば、クラスの半分が外国系になるが、それに対するコストも含めて承諾していますか?」という話にもなる。もっとも、承諾している、いないにかかわらず、現実的に日本の産業が(移民的な)外国人労働者抜きではやっていけない見通しなので、外国人労働者を受け入れる流れがほぼ決まっているのだろう。
ついでに言えば、メディアのフェイクニュースについてはメディア自身が黙りを決め込んでいるが、そういうメディアが人に誠実性を問えるのだろうか?
現実として、「ない袖は振れぬ」である訳だし、「(両立しないものを)両立させろ」という要求仕様にバグがあるとしか思えないのだが。
「問題提起」は結構だと思うが、メディア自身の認識が変わらない以上、実は何も考えていないのではないか。
自分の幸福を喜んでくれる人がいるのは幸せなことだというけれど、
わたしにとっては、自分の不幸を誰も悲しまない状態に持っていくインセンティブのほうが高い。
苦しみは喜びと相殺せず、
喜びもそれが消え去るときには苦しみに変わる。
私見だが、生きるという状態にはもともと傾斜がついているのだ。
坂を登れば喜びが増え、
坂を下れば苦しみが増える。
しかし、だれもが最後には坂の上で一人で立っている力を失って、
坂を転がり落ち、苦しみの底を踏み割って、
最後にようやく安寧を得ることが出来る。
生きるとは変化することだ。
そして、何もしなければ坂の下に向かって引く力によって、自動的に苦しみが増えていくことになる。
わかりやすいのが飢餓だ。何も食べなければ飢えに苦しむことになる。
いつか、ディックの小説に「キップル」という言葉が出てきた。からっぽのマッチ、ガムの包み紙、きのうの新聞、いつかそういう役に立たない無秩序からの使者が、人生をまるごと埋めてしまわないだろうかと危惧する男性の台詞があった。
あるいはこれを、エントロピーと呼びたがる人もいるかもしれない。何もせずとも増大していく無秩序を取り除いて、快い状態を保つのは骨が折れる仕事だ。取り去っても取り去っても、床の上には髪が落ち、埃が積もる。わたしたちは秩序を快いと感じる。しかしわたしたちの体や生活は、継続的な努力なしでは無秩序へ堕ちていく。
実のところわたしにディックのような想像力はないし、エントロピーの概念をきちんと理解しているともいえない。わたしに見えているのは、単に「ひとたび生を得たなら、何もしなければ苦しみは増える一方だ」ということだけだ。
生についている傾斜の角度は人それぞれだ。その勾配を決めているのは生まれや育ち、能力、容姿や親の金、生への適性といった要素のように見えるが、それでも傾斜が付いているということには変わらない。どの人間も平等に、「何もしなければ苦しむ」のだ。そのルールだけはどんな金持ちも器量好しも変わらない。
あなたがもし死にたがっている誰かを前にして「生きることは素晴らしい」と主張しようとするならば、自分と相手の間にある生の勾配の差には留意したほうがいいかもしれない。勾配が大きければ大きいほど、「ただ生を維持する」ための労力は増大する。
あるいは、人間の脳みそには現状を肯定する強いバイアスが掛かっている、ということにも注意を払ったほうがいいかもしれない。
わたしには、「苦しみがあるからこそ喜びがある」「苦労したからこそ今がある」という考えはまさにこのバイアスの産物のように思える。
連休明けの出勤のように、喜びもまたそれが失われるときには苦しみになる。苦労はその「今」が永続することを保証しない。いつ不運が巡ってきて、労苦を支払って手にしたものが水泡に帰さないとも限らない。わたしにはむしろ、「恍惚の一瞬には苦悩で支払いを」というディキンスンの詩のほうがしっくりくる。
我々は変化する。
その方向は我々が外から力を加えない限りにおいて、決まっている。
どんな人間も最後には苦しみの底に落ち、その底を突き破って死なねばならないと決まっているならば、わたしはわたしの苦しみが、せめて誰かを苦しめないようにしたい。
そこで話は冒頭に戻るのだ。
わたしの幸せを喜んでくれる誰かが多い状態というのは、裏を返せばわたしの不幸を悲しむ存在が多いということでもある。
要約を最下部に載せています。全文読んでない方は要約も見て下さい。
A)そもそも日本は古来から同性愛に寛容だが、欧米は同性愛者が迫害されてきた。社会構造が違うのに、欧米的な多様性を容認していく流れを見習うべきという論調が目立つ。
B)多様性に寛容になり様々な性的指向を認めていくと際限がなくなる。「常識」や「普通であること」を見失うと秩序が保てない。
C)多様性に肯定的な報道はそれを助長することになりかねない。
以上が主な主張だ。反論は下記。
a)日本はLGBTに寛容という点は、男色の文化があるし同意できる部分もあるが、杉田氏自身が示した朝日新聞の記事( https://digital.asahi.com/articles/ASL3K32F4L3KUBQU002.html )に「『周りの人の多くは性的少数者に偏見を持っていると思う』と回答したのは、性的少数者層の当事者の48%に上った。」「性的指向や性自認に関する言葉の嫌がらせを受けたことがあるのは、非当事者の10%に対し当事者は29%。」とある。これで、寛容といえるのだろうか。
b)際限がなくなる危惧は理解するが、現状では際限をなくしたい訳ではない。いままで「常識」や「普通であること」の外にいる人も包摂した社会にしたい。それまで中にいた人にとっては苦痛だろうが、心の中まで犯そうとは思っていない。男と男が手をつないでいて違和感を感じたとしても、その違和感自体は否定しない(違和感がないことは理想だが)。ただ、その人たちも同じ日本に暮らす仲間として受け入れ、そういうパートナーシップがあることを理解し、異性愛者と同様の社会制度を作って欲しい。
c)肯定的報道が際限のない多様性に拍車をかけているという因果関係を具体的に示していないので、報道云々の箇所は論拠を示して下さいとしか言えない。(そもそも、多様性は既に現に「ある」のに、どう広げるというのだ)
以上。
この文章が置かれている文脈では、議論が右往左往しているので掴みにくいが、概ね下記の主張だろう。
→親は自分の子供が同性愛者だと孫ができないのでショックを受ける
→親の無理解がクリアできれば、だいぶ「生きづらさ」は解決する
→そもそも社会は「生きづらい」のにリベラルなメディアは社会制度のせいにする
→しかし、LGBTは子供をつくらないのに税金を投入すべきか疑問だ
たしかに、少子化対策の枠でLGBT支援をするのは難がある。だが、全ての予算は「子供をつくる」ためにある訳ではない。「生産性」を広い意味で捉えたとしても、すべての税金の使いみちが「生産性」を追い求めるべきなのか。であるなら、クールジャパンファンドの赤字を、ぜひとも批判してほしい。
なお、エッセイ後半の多様性容認のくだりをみるに、彼女が指す「LGBT」支援とは、カップルに関することだけではなく、学校においてトランスセクシャル向けのトイレや制服を作ることも含まれていると思わる。性的マイノリティが暮らしやすく、「自分らしい」生き方ができる社会を整備することは充分に税金の効果はあると思うが、そうした整備にも税金を使うことが躊躇われるようだ。
それは同性愛者だったということであり、「これでいいんだ」と思えたなら、素晴らしいことではないか。
同性愛になるか異性愛になるかは、人にどうこう言われて変わるものではない。
杉田氏は『成長するにつれ男性と恋愛して、普通に結婚していった』と述べてる。つまり、異性と恋愛せず結婚しない同性愛者は「普通ではない」というのだ。
一方、エッセイの最後で『「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していく』とも書いてある。
『「普通であること」を見失っていく』の主語が社会と捉えるにせよ、その発端は「普通でない」同性愛者である。
杉田氏は、同性愛者に対して「あなたの存在は秩序を崩壊させる」と言っているのだ。
これが差別以外のなんなのか。
文科省は通知を出していて「好きな性別のトイレを使っていい」という指針にはなっていない。
トイレは多目的トイレや職員用トイレ、更衣は保健室や多目的トイレを利用することを推奨している。
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/28/04/__icsFiles/afieldfile/2016/04/01/1369211_01.pdf
私はLGBT当事者ではない。同性とセックスすることはあるが、あくまで性欲に紐づくものであって、愛に紐づくものではない。なので、基本的にはストレートだと自認している。
従来の「ふつう」以外も認めて欲しい。そして、「ふつう」以外の人も包摂する社会制度を再設計したい。
もちろん、いままでの「ふつう」を崩すとどこまで崩すのか、と不安になる気持ちは理解できる。
私は、他人に深刻な不利益をもたらさない限りで、かつ、従来の根本的枠組(人の定義etc.)の延長で、最大限の多様性を許容する社会制度。
また、「同性を好きになったり、同性とセックスするヤツは気持ち悪い」と思うのを止めたい訳ではない。思うのは無意識化だから仕方がないことだ。
それを個人的な感情にも関わらず「ふつう」という、さも一般化した言葉に置き換えるのをやめて欲しい。
杉田氏や反LGBTの人も含めた、すべての人が最大限の幸福を得られる社会になってほしいと心から願っている。
・LGBTで各新聞をキーワード検索したところ、朝日新聞・毎日新聞の記事数が多い傾向があった。この2紙はリベラル系でありLGBTの権利を認めて支援する動きを報道することが好きなようだが、違和感がある。背後には権利を守ることに加えて、LGBTへの差別をなくし、その生きづらさを解消してあげよう、そして多様な生き方を認めてあげようという考え方が伺える。
・しかし、LGBTだからといって実際に差別されているか疑問だ。私は自分の友人が同性愛者でも気にしないし、職場でも仕事さえできれば問題ない。多くの日本人も同様ではないか。
・キリスト教・イスラム教の社会は、教義によって迫害されたり命に関わる問題にもなっていた。一方で、日本には同性愛者を「非国民だ!」という風潮はないし、迫害の歴史もない。むしろ寛容な社会だった。欧米と日本では社会構造が違うのに、日本のマスメディアは欧米を見習うべきという論調が目立つ。
・LGBTの当事者から聞くと、親に理解してもらえないことの方が社会的な差別よりつらいという。親は自分の子供が自分と同じように結婚して、子供をもうけてくれると信じているから、それができない同性愛者だと分かるとショックを受ける。LGBTの両親が受け入れてくれれば、日本はかなり生きやすい社会になるのではないか。しかし、これは制度を変えれば解決できるものではない。
・リベラルなメディアは「生きづらさ」を社会制度のせいにする。しかし、そもそも世の中は生きづらく、理不尽である。これを自分の力で乗り越える力をつけさせることが教育の目的のはずだ。「生きづらさ」を行政が解決するのが悪いことではないが、動くには税金が必要である。
・例えば、子育て支援や子供ができなカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分がある。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものなのか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がない。そこに税金を投入することが果たしていいことなのか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要項を発表するたびにもてはやすマスコミがいるから、政治家が人気とり政策になると勘違いしてしまうのです。
・ここまでLGBTという表現を使ってきたがLGBと、Tは分けるべきだ。トランスジェンダーは「性同一性障害」とい障害であり、自分の脳が認識している性と自分の体が一致しないというのは辛いだろう。政治家として、医療行為を充実させることは考えていいことかもしれない。
・私は中高一貫の女子校出身だ。女子校では、同性の同級生や先輩が疑似恋愛の対象となるが、それは一過性で、成長するにつれ男性と恋愛して、普通に結婚していった。しかし、マスメディアが「多様性の時代だから同性を好きになってもいい」と報道したら、普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねない。
・朝日新聞の調査でLGBTが281人、自分が男女いずれでもないと感じるXジェンダーが508人、性自認や性的指向が定まっていないQ(uestioning)が、214人いた。合わせて1003人にもなる。LGBTと世間が騒ぐから「男か女かわかりません」という高校生が出てくる。また、思春期だから、社会の枠組みへの抵抗もあるだろう。(記事:https://digital.asahi.com/articles/ASL3K32F4L3KUBQU002.html)
・多様な性に対応するために、自分の認識している性にあわせて自由に制服が選択できることに肯定的な報道をよく目にする。例えば朝日の記事で「多様性、選べる制服」。また、オバマ政権下では公立学校において、自分の認識した性に応じて更衣室を使えるように通達を出した。果たして、それはいいことなのか。Tに適用されたら、LやGにも適用される可能性だってある。自分の好きな性別のトイレに誰もが入れるようになったら、世の中は大混乱する。(記事:https://withnews.jp/article/f0180330006qq000000000000000G00110601qq000017068A)
・最近はLGBTに加えて、QやIやPなど訳が分からない。なぜ、男と女の2つではいけないのか。パスポートの性別欄に男でも女でもない「X」と記載できる国がある。タイでは18種類の性別があるというし、Facebookでは58種類の性別が用意されている。冗談のようなことが本当に起きているのだ。
・様々な性的指向も認めたら、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚や親子婚、はたまた、ペット婚、機械と結婚させろという声が出てくるかもしれない。どんどん例外を認めると、歯止めが効かなくなる。
・「LGBT」を取り上げる報道は、こうした傾向を助長させることにもなりかねない。朝日新聞が「LGBT」は、冷静に批判してしかるべきではないかと思う。「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していく。私は日本をそうした社会にしたくない。
元増田です。いやあ、さすがにはてなの人々はよくわかっていますね。正しい論点を突いたブコメがきちんとトップに来る。難しくなるからあえて触れなかったところですが、ちょっと舐めすぎていたようです。
b:id:rascalrascal:20180708 会社法を出したとたんに会計用語を使わない意味がなくなっているよね。正しい命題は「BSで内部留保が積みあがるほど利益がでるなら、PLの段階でもっと従業員に配るべき」で、その是非を検討すべきじゃないの?
この命題を理解するにはしっかりと会計を勉強する必要がありますが、ここでは会計の概念を使わないで解説してみましょう。最初に結論を書いておくと、
ってところです。
前の記事でも書いたとおり、会社がお客から受け取った売り上げから、仕入れ先に原料の代金を支払い、従業員に給料を支払い、営業に必要な諸経費を支払い、銀行には利息を支払い、政府には税金を支払った後の、株主の最後の取り分が新たな利益として未来の内部留保に回ります。ここで支払われる従業員への給料を上げろ、という主張は共産主義でもなんでもなく、極めて真っ当です。会社が生み出したお金が株主の財産になる前に、もっと従業員へ分配しろという話だからです。結果として株主の取り分が減ったり、あるいは株主が損をしたとしても、労働者の知ったことではありません。正当な給与を要求するのはもちろん、正当でなくてももらえるものはもらうべきです。「赤字上等。サビ残なんてとんでもない。」それが労働者としてのあるべき姿勢でしょう。もっとも、現実には会社が潰れたり、お客から受け取る売り上げが減ったりすれば従業員も損をするので、一定の妥協はつきものでしょうが。
「ここ数年の企業業績は好調なんだから労働者にも払えるはずだ。もっと分配しろ。」至極真っ当な主張です。共産党がこのような真っ当な主張をせずに、内部留保論のような悪質な印象操作に走るのは理解に苦しみますが、真っ当なことを言うと効果的なアジテーション(扇動)にならないからでしょう。彼らは彼らの支持者のことをよくわかっています。
ただし、残念なお知らせが一つあります。既存の内部留保も、これから生まれる内部留保も、株主の持ち物であることに変わりはありません。内部留保の源泉が株主の投資だからです。労働者への分配を高めた結果株主が儲からなくなれば、株主は日本に投資をしなくなってしまうでしょう。前回、労働者に配るお金を作るために工場を処分して、結果として従業員は職を失う、という滑稽な例をあげましたが、これはしばしば現実に起きています。労働者にお金を配った結果、建っていたかもしれない工場が建たなくなり、生まれていたかもしれない雇用が生まれなかった、という形で、ですが。
労働者に全く分配しないとなると労働者は疲弊し、ひいては国が疲弊します。一方で、前回も言ったとおり、内部留保は株主の持ち物であるという前提で経済は回っています。無秩序に配ることはできません。どのような会社にどの程度分配させるのが現在と未来の日本国民全体にとって最良なのか、政策立案者の視点で考えてみると簡単な選択ではありません。少なくとも、僕にはちょっとわかりません。
例の事件に関する感想blogがいくつもあがっていて「殺すほどのことでも殺されるほどのことでもなかった」「理不尽すぎて納得できない」っていう声があって個人的には違和感はげしい。
いやいやいやいや。殺すし殺されるよ。「この程度の発言はたしかに君は傷つくかもしれんけれど殺すほどじゃないだろ?」って。それ決めるのは殺す決意をした側でしょ。どんな言葉が許せない弱点なのだか、エスパーじゃない人類には他人の内心はわからないんだよ。それでもなお「殺すほどの発言じゃなかった」と言い張りたいのならば、それは多数が少数の完成を多数決で封じ込めてるだけのことだよ。なにがいじめかといえばその構図がまさにいじめでしょう。
不倒城では「どんな人間も、「こういう発言があったから」という理由で殺傷されてはいけませんし、そんな必然性もありません。」っていうけれど、それって法の、もう少し言えば秩序の話だ。不倒城さんの記事は日ごろ楽しんで読んでるし、大好きだけど、この件で法の話をするのはいかにも筋が悪いし、不誠実だ。
まず第一に、死んだhagexさんが死んだ瞬間、秩序は助けてくれたのかといえば助けてくれてなかった。虚空から次元警察が現れてナイフを掴み止めてくれたかといえば否だ。ってことは「発言で殺傷されてはいけない」というのは、法側の出した空手形であって、結局言うだけ行って助けてくれなかったわけだ。「どんな発言をしても殺傷されませんよー」というのは事実じゃないし、それを盲信するとトイレで刺されて死ぬ。つまりそれを喧伝するのって不誠実だ。
第二に、先生側が(内面わからんけれど推察するに)苦しんでいたときに、秩序は別段先生を救済しなかったでしょ。このとき、先生が前
善だとか悪だとかは問題じゃないんだよ。とにかく、苦しんでいてある種の助けを望んでいたときに、社会と秩序は救済しなかった。そして先生は、社会と秩序から脱退することを選んだ。犯行後先生が自首したっていう事実から、殺傷行為がこの社会に於いて犯罪であってつまりは反秩序行為であることを先生は理解していた。そのうえで行為に及んだってのは、「この社会や秩序に見切りをつけた」ってことであって、つまりここでも秩序は力不足を露呈している。
秩序ってのは要するに僕らの都合だ。社会を形成する上で反社会的な行為が多発すると問題があるので抑圧してる形態が秩序だ。法はその規範だ。
別に俺は先生を擁護しているわけでもないし、犯罪を奨励しているわけではない。俺個人は殺人事件を起こさないように起こされないように生きているし、この社会の秩序に参加してて、秩序側の人間だ。でも、だからといって、自分の所属しているこの秩序を唯一のものだとか正義の体現だって言い張るつもりはない。参加者である俺達の都合にすぎないものを正義だの善だのっていうことばですり替えるのが不誠実だっていう主張がこの記事だ。
秩序が都合だ、という話は、法が社会契約だってのと一緒だ。法は、社会的な弱者を含めて万民に対して利益を提供していて、それを守る側が得だから参加してねというものだ。自由参加だと社会が崩壊しかねないので強制参加になっているけれど、その歪みが例えば少年法という形であらわれている。俺は日本国民として、自由意志で法の側に参加しているつもりなので(その決断なく惰性で秩序側にいるのはすごく怠惰で危険だと思っているので)、あたかもその参加が善であり正義であり、そこから外れるひとを悪だとするような論調は嫌いだ。そういう論は秩序とか法への参加意識を鈍らせると思うからだ。
だから一方で、俺達の運用しているこの秩序に心底絶望してしまった人が、そこから脱退を決意することは十分に有り得ると思う。強制参加だから脱退できないだろう? っていわれても、現実はご覧の通り。秩序のもたらすデメリットと逸脱のデメリットを比べても、それでもなお耐え難ければ、人はそこから離脱するしか無い。そんなの歴史見れば山ほど事例が転がってるでしょう。先生の件で言えば、今回の事件は、あれは先生なりの自力自己救済だった。秩序が救済してくれないなら自分でやるしか無い。
もちろんそれは、俺達の秩序側からすれば大変、筆舌に尽くしたがたいほど不都合だ。だから、否定するし弾圧もする。でもそこですり替えするのは不誠実だと思うんだよ。俺達の秩序はなるほど大人数で考えて洗練されてきたので、かなり良い出来だと思う。けれど、ミクロのレベルで完璧かっていったらそんな保証無い。冤罪事件で30年間投獄された人がいたとして、俺はその人に対して「俺達の秩序に参加したほうが君の人生はハッピーだよ」と胸を張って言うことはできない。
この世界は、無秩序なのが本来の姿で、気に入らないことを行ったやつや言ったやつは、すぐさま殺されて転がるのが自然な姿だよ。それだと困る多数派が自分たちの方を作ってグループ化したのが現在だけど、別段、それは神の定めた法じゃない(宗教ではそういうことにしてるみたいだけど)。そういう都合の問題を、普遍的な真実のように語る傲慢だけはやめてやれないものか。
暴力はひとえに生命への攻撃であり、それを抑止する報復という機構が正しく機能してこそ人類社会は適切な緊張感が支配する健全なものになるのであります。
やり返さないことは美徳ではありません。あなたは報復に足る力を持ちながら彼に一方的な冒涜を許し、無秩序な暴力を野放しにしているのであります。
無秩序な暴力はやがて弱きものをも襲うでしょう。あなたはお若いようだから、ご息女はいないかもしれない。だが想像していただきたい。あなたが逃走を許したその小さな狂気が、やがてあなたの大切な者を傷つけることを。
あなたの知らないところで、世間は少しずつ鋭利になってきておるようであります。それを抑止できるのは力を持つものだけ。あなたにはその力が具わっているとみた。
強き者よ、どうか良識的であっていただきたい。世界を正しく保つ任を引き受けていただきたいのです。
あなたに与えられた強靭な肉体と勇気は、神があなたに与えたもうた傲慢に対するカウンター。それを正しく知れば、あなたの責務について了解してもらえるものと信じております。
願わくばほんの少しの報復を。正義の礫を。殺すぞの一言で結構でございます。かの無礼な肩に投げかけて下さいまし。
世間のおぞましきを見る強いあなたに伏してお願い申し上げます。
ネズミと呼ばれた男
ここもちろぐ
生産性志向のSEが、IT業界での奮闘記や仕事や生活で学んだことをはきだします。
2018-05-15
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こんにちは。もちです。本日は、みずほ銀行のプロジェクトで2か月限定支援に行った時のことを話したいと思います。
あの頃は、ちょうどポケモンGOがリリースされた時期でした。 プロジェクトのお昼休みに、わくわくしながらアプリを立ち上げて、メンバーの方と遊んだものです。
そんな次期システムが、いよいよ、2018年6月9日から徐々に移行開始されるそうです。
みずほ銀、9日からシステム移行 「世界最大級のプロジェクト」 ATMやネットバンクに臨時休止日 (1/2)
みずほ銀行とみずほ信託銀行は、入出金や口座管理などを担う勘定系システムを統合した次期システムへの移行作業を9日から始める。4000億円超の資金を投じて進めてきた世界最大級のプロジェクトが、最後のヤマ場を迎える。
www.itmedia.co.jp www.itmedia.co.jp
移行が発表されてから、「あの頃が懐かしい」と感じたため、せっかく浮かんだいろいろな想いを残そうと思って記事にしました。
ここもちろぐ
ここもちろぐ
みずほ銀行のプロジェクトで2か月限定支援に行った時の話、まなび編です。 ▼前記事の問題編はコチラ www.cocoamocchi.com 古参メンバーの仕事を奪う デキる古参メンバーはとにかく忙しいです!! 新規参入者でもやり方さえ一度知れば、できそうな仕事もありそうだということで、積極的に仕事を奪いにいきました。 たとえば…
2018-05-17 22:53
www.cocoamocchi.com
毎朝エレベータに長蛇の列
人気アトラクションかな?と思わせるほどの大行列でタイミングが悪いと10分以上待たされました。
テストフェーズがちょうど一個上の段階に進んだためか、チーム内のスマホは鍵付きロッカーでしっかりと管理されるようになりました。
インターネットが使えない
security-265130_640 これが一番厄介でした!!!
新入社員であれば、まずはググり力を鍛えろ!と先輩に教わるも方もいるのではないでしょうか。
わたしみたいなIT業界で働く方々は特にインターネットで調べまくる生き物です!
なのに使えないので厄介でした。
・・・とはいっても、わたしの場合は、こっそり休憩スペースにスマホを持ち出して調べてました。
他には、書籍にもお世話になりました。
ここで 「ネットが当たり前だと思うな、腕を磨こう」という教訓を得ました。
印刷用紙が真っ赤で読みづらすぎ
持ち出し抑止のために、プリンタ用紙が赤くなっておりました。
(特に持ち物チェックがあるわけではないので、悪意のある人なら持ち出せたかと思います。)
印刷してみるとまあ~わかりづらい。 気持ち的にもなんか落ち着かない。
でも一定の効果はきっとあったのだろう。。
ただでさえ生産性の低い環境なのに、働き方もやっぱり残業ばかりされている方だらけでした。
特に既存メンバーの古参者は大量に仕事を抱えているので、いつもヘトヘトです。
他の人へのレビューも、当然荒い。
また最終退館者名簿を見ると、お客さまサイドも負けずと毎日23時台まで残っているようでした。
※ちなみに
ごめんなさい、わたしは最長でも21時には帰りました!寝不足すぎると生産性がダダ下がり逆効果なので苦笑。
単体開発 バグ改修
私の場合、残念ながら新規開発部分は残ってなく、仕様取り込みやバグ改修をちょこっとやったくらいです。
開発ではなく、ほとんど仕様整理やJP1いじっている時間が多かったです。
命名規則がつらい
短い単語をアルファベット1文字で表現する文化があったため、それらをつなげて作成されるDBのテーブル名やカラム名が新規参入者にとってはしぬほど分かり辛かったです。
1箇所の修正で5個もケースはないし、誰も見ないのではないかなというくらい、ゆるふわなテスト結果が置いてあったりと、とてもじゃないけどもお金を扱うシステムだとは思いませんでした。
これ、結合テスト以降、バグ爆発するのでは?という印象だった。
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階層がとにかく深く、無秩序に置かれた何千のフォルダ群はまさにジャングル。
既存の古参メンバーであったとしても、過去の単体テスト仕様書の在り処を探すだけで10分以上かかっていました。
IDEなど開発に使用するツールも、各チーム持っている情報が異なっていて、結局、既存メンバーの持っているものを丸ごとコピーして使ってました。
個々の期限がタイトにも関わらず、申請日時を厳守しなければならないのはつらかったです。
この申請は、数チームで1つのエクセルファイルにまとめて申請します。
プログラムファイル1つ1つのパスを記載していくのですが、 誰かが1ファイル既述を誤るだけで、
どこぞやのチームのせいで2連続申請ミスされたこともあり、こちらとしてはたまったものではありませんでした。
もしかしたら、誰かが休みたいがために、わざとミスしてるのではと疑いたくなるくらい大変でした。
まあ、とはいっても緊急リリースみたいな1~2日でできる裏技も時に使うことができたため、そこまでではなかったのかもしれません。
プロジェクトマネジメント
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うちの会社だけかもしれないけど、メンバーの離脱が、作業指示を出しているチームリーダーまでなかなか届かない印象でした。
「来週からこの作業お願いするね」と言っていた矢先に、彼らがいなくなることを知らされる。
これは、どこの炎上プロジェクトもですが、各タスクの期限だけ決まっていて、工数は考慮されていない事案です。
この事案は仕方ない場面もありますので、メンバー側がリーダーやプロマネに少々寄り添って、自分で仕事を考えていればOKです。
親切なプロジェクトじゃないのは分かっていることなので、他責にせず、ざっくりと工数を伝え、助けていきましょう。
新規参入者の実力が怪しい
少し言語知っている程度(for、if文はできるけど・・)で意思疎通の難しいプログラマーが国籍問わず、たくさんおりました。
猫の手も借りたいくらい忙しいプロジェクトだったので、自分で主体的に仕事を考え、動き、古参メンバーを助ける必要があります。
しかし、
進捗が良くないことをごまかす
など、この中のどれか1つ該当ではなく、複数持ちのプロジェクトキラーが何人かいました。
他の人も急に想定外の残業フォローをしなければならなくなるし、本人は無駄に悩み続ける時間増えるし、誰も幸せにならない感じでした。
まとめ
特に銀行のプロジェクトは、生産性の低い現場やずたぼろな構成管理など、環境的問題も多いことがわかりました。
同時に他責にせず、主体的に行動すれば、新規参入者でもそれなりに活躍できることもわかりました。
しかし、わたしの場合、2か月限定が配属前から決まっていたこともあり、
心までしんどくならずになんとか戦えたことが大きいかもしれません。
もし炎上案件に出会っても、 心や身体をやられるようなことがあれば即刻辞退をおすすめします。
残業による残業という負のスパイラルが、もし嫌なら、早く抜け出すほうがこれからの人生豊かです!
断言できます!!
全くそのとおりです。
研究により、同性のみが集団となる(軍隊や男子校・女子校のような閉鎖的空間)では同性愛だった人が、その場所から離れたら異性愛になるということも極当たり前にあります。
そのあたりが法律に関連してくるのですが「ホモを排斥しろ」というのは特定の人物を示しており、それは法律概論とは大きくはずれた行動になってきます。
では「ホモセックスを禁止しろ」「同性での恋愛感情を禁止しろ」ということができるかどうかですが、これは近代法の観点からとうてい認められることではありません。内心の自由を侵害するからです。
そこで法律が出てくるのですが、すでに「強姦罪」や「傷害罪」はありますので仮に男性同性愛が男性が(女性同士も)相手方に危害を加えたのであれば罰則の対象になります。
逆に「ホモは排斥しろ」という理論で「人」そのものを排斥するという近代以前の行為になりますと、魔女狩り同様に無秩序な社会状態を発生させることになります。
少なくとも同性愛は違法ではなく、当面の社会秩序の維持を阻害するものではないというところで差別されない立場になるべきという単純な話をしているのですが、なかなかうまく伝わりませんね。
事態は急速に発展している。日本の革新勢力同志は、日本を取り巻く諸国と平和を実現するとの公約に忠実に精力的な活動を続けている。日本においては森友学園関連で、革命勢力の同志は大いに前進した。それは、最終的勝利への第一歩である。
他方、進歩的な外国と日本の革新勢力との間でいずれは実現すべき革命の実現を早めるため、日本の同志は、日本に国民連合政府を打ち立てて、日本の共和化にあたることになった。天皇制傀儡ファシスト政権が、このような企ては非現実的だと言ったところで無駄である。この計画が実現しつつある現実を見よと言いたい。
現在のエセ政権は現在革新勢力が置かれているこの無秩序を解決できないということが、最終的に判明したときこそ、革新勢力の同志が国外から日本社会に呼び込まれ、日本周辺諸国でとったのと同様の行動を展開してくれるだろう。
日本国民の幸福のみを願う諸国の日本国民に対する完全な保護を、今はただちに革新勢力の同志がもたらすことができなくても、それは、革新勢力の同志の誤りによるものではない。
日本国民の消極的な態度には、いらだたしいと言わざるをえない。彼らは、革新勢力に味方しないて、単にみずからを運命の手に委ねているかのごとくである。
なんで満員電車根絶を訴えないの?
えー、なんで増田諸君みたいな頭のいいインテリ集団が根本的解決策の話をしないの??
経費?ならラッシュの温床になってる企業側に金出させればいいじゃん
なんで東京は会社が鉄道使いまくってんのにJRに金を出さないの?
3時間くらい自由にずらせるようにすれば集中しなくなるし満員の車両に乗らなくても遅刻にはならんでしょ
予定より早くついても勤務時間変わらないし
なんでやらないんですか?
海外で痴漢問題がないのは誰も満員のところに乗らないからだし、
増田民は頭いいんでしょ?
な ん で ?
今こそ海外の満員電車事情と女性専用車両について解説するときじゃないんですか?
な ん で し な い?
同じくとつぜん理由のない多幸感みたいなのがやってくる。週に数回とか。多いときは日に一度とか。
とはいえ、自分の場合は、周囲の環境、人の有無、その他いっさい関係なく無秩序にやってくる。子供のころからずっとそうで、気がつくとひとりでにやにや笑っている子供だったらしい。ぐるぐる回転しているものや渦巻き、ピタゴラスイッチ的なものを見たときにも似たような感覚になる。あとはあれか、叩いて音が出るもの。それと、同じ言葉を繰り返して発音してるときも。こうなるともう居ても立ってもいられなくなってくるので、わりと苦労した。おっさんになってからはだいぶ減少した。現在ならなんかの病名が確実についてるやつだと思う。あれを我慢しているほかの人たちはすごいなあと思ってたんだけど、ほかの人にはそういうのあんまりないらしいと知ったのは、かなり大人になってからのことだったと思う。
アスペは「自分が知っていることや経験していることでも相手はまだ経験していないし知らない可能性も低くはない」という事が理解できない。
だから健常者とアスペが会話するときは健常者の側がアスペに合わせてくれて、アスペが「自分が知っていることは相手も知っている」と思い込んで話を振ってきたら「俺はそれを知らない」と返してくれるので結果として会話が進められる。
だけどアスペ同士が会話すると、片方のアスペが相手の知らない知識を語ると相手は「何でコイツは俺がそれを知らないことを知らないんだ?」と混乱してしまう。そして会話はカオスの乱流が渦巻く無秩序極まる混迷の濁流の様相を為し、普く森羅万象みな原始の泥濘へと回帰しそこには一筋の知性の光脈すら失墜し掌中に握りしめた石礫を互いの頭蓋へと陥没せしめんと振翳す二匹の猿による闘争へと発展するのである。
文章トレーニングのための新機軸の練習方法を思いついた。まだ思いつきの域を出ていないとは思うが、それはどんなものかと言えば思いついた単語を片っ端から書くというものである。あるいは頭文字が共通している単語を書きまくるというものである。赤ちゃん、あんこ、アンダンテ、アスキー、とかみたいにね。つまりそうやって適当な単語を書きまくっている内に――つまり無秩序に単語を書きまくっている内に――秩序のある文章を書きたいという純粋な欲求が生まれてくることを狙った文章練習法なのである。訳分からんことを敢えて書きまくっていると勝手に訳の分かることを人間は書きたくなるのではないかと俺は思っているのである。どこかの作家が言っていたが「誰にでもできることから始めることで、より高度な行為が可能になる」ということなのだ。思いついた単語を書き並べることは(殆ど)誰にだってできることである。だから、まずは誰にでもできることを行うのが肝要なのだ。俺はそう思う。
例えば、今ここまで文章を書いたところで俺のモチベーションは随分と下がってきているのだけど、あんことかアンダンテとか有馬記念とかみたいな単語を並べることは当然できる。だからモチベーションアップを図ることができるのだ。多分。知らんけど。
ここまで書いたところで更にモチベーションが低下してきた。それでもまだ例の文章練習法に頼る必要は無さそうである。このままとりあえず書き続けてみよう。それで、モチベーションが底をついたところで実際に例の文章練習法を試してみるのが良いかもしれない。とは言え一応文章を書き続けることが(今のところ)できているので、そう、今のところその文章練習法に頼る必要は無い。やったぜ。
そろそろモチベーションが再び尽きかけてきた。いや、まだだ。まだ何とかなりそうだ。独り言のように何とかなりそう何とかなりそうと呟ける内はまだ何とかなるのだ。しかしそろそろ難しくなって来た感がある。というのもさっきから同じことの繰り返ししか書けていないからである。「そろそろモチベーションが尽きかけてきた」→「何とかなる何とかなる」的な。しかし先程の論法に従って言い換えてみれば次のようになるのかもしれない。「同じことを繰り返し書くことは誰にでもできる。だから、そうやって誰にでもできることをやっている内に、再びモチベーションが生まれてくる」と。そういうことなのかもしれない。書くことに迷ったらあんことかアンダンテとかアルゼンチンとかそういうことを書かずに、今まで書いたことを書写していくのがいいのかもしれない。その方が文章の推敲にも役立ちそうな気がする。今にして思えば。
例えば、今からこの直前の段落を俺は複写しようと思う。「そろそろモチベーションが再び尽きかけてきた。いや、まだだ。まだ何とかなりそうだ。しかしそろそろ難しくなって来た感がある。というのもさっきから同じことの繰り返ししか書けていないからである。」
やはり同じことの繰り返しとは言え、何かを書いている分には脳の方でも「こいつ何か書いてんな」と反応している感がある。つまり、脳は割と鈍感なのかもしれない。同じことの繰り返しであれ複写であれ何であれ、ともかく何かを書いていれば「こいつ何か書いてんな」と脳は認識し、結果的に「何かを書く練習」になるのかもしれない。つまりは文章技術一般を鍛えるための練習になるのかもしれない。人間の脳なんて基本的に騙し騙されなのだ。適当な文章を何度も何度も複写していれば、まるで新たな文章を五千文字書いているかのように脳は錯覚してくれるのだ。多分。知らんけど。実際知らんけど。そもそも練習になっとるのかどうか知らんけど。結局は脳の判断云々よりも人間が如何に新しいものを書こうとするかに文章の価値の根本が存在しているのだとすれば、今俺が「脳は結構鈍感で勘違いする」とか言ってる傍からオリジナルな文章を書きまくっているその意味もはっきりしてくるのかもしれない。しれない。よく分からないけど、多分そうなのかもしれない。
というか今これだけ色々と文章を書けているのはひょっとしたら昼間に飲んだコーヒーに含まれるカフェインの効能なのかもしれない。それだけのことなのかもしれない。しれない。よく分からない。でもそうかもしれない。何か結局同じことを繰り返し繰り返し書いてるだけにはなっていやしませんかね自分。
あいうえお、あんこ、アンダンテ、秋、憧れ、有馬記念、阿久津主税八段(将棋棋士)。
以上の文章で文字数は千八百文字程度である。こんなに書いたのに、普段目標としている千文字の文章を二つ分弱書き終えた程度の文字数しか稼げていないことに愕然としている。やはり繰り返すしか無いのかもしれない。あるいはあ行の単語やか行の単語を並べていくしかないのかもしれない。
ところで自分が何故このような文章練習法を思いついたかと言えば、それは安眠法の記事を読んだからなのだ。その安眠法は「連想式安眠法」と言って、先程述べていたような頭文字を限定した単語を幾つも幾つも思い浮かぶ限りで頭の中で唱えていくという安眠法なのだが、これが中々人の脳の中にあるざわめきを抑える効果を持っているようで、つまりは実際安眠に役立つのである。で、俺もその安眠法のファンになってしまったのだが、しかし何度も何度も頭文字の共通する単語を頭の中で唱え続けていると、今度は秩序だった文章を頭の中で唱えたい欲求が生まれてきたのである。この文章練習法は以上の体験を元に考案されている。どうだろう。結構この文章練習法良くないだろうか。実際相当文字数を稼げていると思うのだけど、でもやっぱりこれも昼間飲んだコーヒーが純粋に作用しているだけなのかもしれない。だってそんな簡単に文章を大量に生産できるわけがないと思うのだ。今まで俺は文章をたくさん生み出すことが中々できないから焦ったり悩んだりしていたわけであって、それがこんな簡単な方法によって改善するとしたらおかしいではないか、と心の一方では思っているのである。だから、どちらかと言えば自分自身の考案した練習法が功を奏したのではなく、昼間飲んだカフェインの所為と言ってしまう方が安心するのである。変な話だけど。
基本的に俺という人間は人生において空回りばかりをしており、自分の考案した方法が功を奏したことなど数える程も存在していないのだ。あるいは一つとして存在していないのだ、実数は分からんけど俺本人の印象としては一つも存在していないと言いたいくらいなのだ。だから、実際物事が功を奏したとはどうしても思いにくい、そう、「自分の手柄とは思いにくい症候群」が現れているのである。難儀なもんですね全く。ところでキーボードを叩き過ぎて段々指先が痛くなってきた。キーボードを叩くという実にヤワな運動が指先の神経を破壊したりするものなのかどうか俺には分からない。もしそんな事実が存在するのであれば全国の小説家は廃業しなければならなくなってしまう。だって彼らは日常的に三千文字とか四千文字の文章を書きまくっているわけだから、つまりもしそんなペンだことかと同じキーボードだこ的な職業病が存在するのだとすれば全国の作家及びキーボードを日常的に使用する全ての職種の人々は皆等しく指先の神経破損症候群的な持病を抱えることになってしまうのであり、しかし世の中で生きていてもそんな持病の存在について耳にすることは殆ど無いことから、あるいはそんな持病は存在しないんじゃないかと思ったりもする。とは言え、俺のキーボードをタイプする力は常人よりもやや強いのかもしれない。若干指先がひりひりし、指の第二関節が少しばかり痛む程度には俺のタイプチカラは強いのかもしれない。そもそも俺は小指を使わずにタイピングを行う自己流の要矯正タイピング法に慣れ親しみすぎており、つまり他の人々よりも指の負担がやや多くなっている可能性があるのである。小指が本来受け取るはずであった負担を四本の指に分配してしまっている可能性があるのである。そう考えると俺だけがこの指先神経破損症候群的な症状に罹患してしまうとしても強ち想像力の枠外とは言いにくいのではなかろうか。
こんなところでようやく文字数が三千文字を超えていった。とは言えまだ三千文字しか書いていないのかという感覚も存在している。あるいは俺の考えた文章練習法のお陰ではなくカフェインの所為なのではないかという疑惑も依然として根強く存在し続けている。
しかし今ふと思ったのだけれど、やはり効果的な練習法の条件の一つには、人間の心理的なハードルや技術的なハードルを落とすことが含まれるのかもしれない。あるいは技術的なハードルや心理的なハードルを下げることを含む必要があるのかもしれない。だって幾ら効果的な練習法が存在したところで、それが技術的ハードルおよび心理的ハードルをゴインゴインと引き上げてしまったら元の木阿弥で誰も挑戦しなくなってしまうことになるではないか。俺今正しいことを言ってる感覚がある。そう、「誰にでもできることから始めよう」作戦は実に正しいのである。例えば、カメラに習熟したいならシャッターを押しまくれば良い。シャッターを押すだけなら大概の人間にはできるからだ。バカチョンカメラとも言うではないか。誰でもちょんと押しさえすればカメラは大抵風景を切り取ってくれるものである。多分。もっと専門的でテクニカルな要素を持ったカメラ撮影があるのかもしれないけれど。
ホラ見ろそんな注釈自分で付け始めることないのに自分からハードル高くしにいってんじゃねーかと思う。「もっと専門的でテクニカルな要素を持ったカメラ撮影があるのかもしれない」とか言い出しちゃうタイプの人間なのだ俺は。つまり自分で心理的技術的なハードルをゴインゴインと上げてしまうタイプの人間なのだ。俺は。そう考えるとやはり誰にでもできることをやることは、全くもって善なる練習法なのではないだろうか。だって俺がこういう性格しちゃってるもんだから、尚更その「バカチョンカメラ」式練習法が輝かしいものに感じられるのだ。つまり、自分が書いた文章を最初から書写したりとか、あるいは頭文字が「あ」で始まる単語を書きまくるとか、そういう「誰でもできること」がやっぱり大切なんではなかろうか。そんな気がどんどんとしてきた。ホラ、だって今文章が目茶苦茶量産体制に入ってるのは、さっき自分で心理的技術的ハードルを落としたからではなかろうか? そう考える傍から「いやいやカフェインの所為でしょそれ」的な思念が浮かんできてしまうのだが、これは良くないことなのかもしれない。しれない。分からない。小麦粉か何かだ。古いねこのネタ。正直昔このネタ聞いてもあんまり面白いとは思わなかった。恐らくこのネタを楽しいと思うにはそれまでラーメンズが演じてきた演目に対する知識が必要になるのではなかろうか。なかろうか。俺、さっきから「なかろうか」とか「かもしれない」的なことを書きまくってるけど、それは俺の中にある自分が書くものに対する不安の念の現れなのかもしれない。現れなのではなかろうか。しれない。かもしれない。分からない。小麦粉か何かだ。
ようやく四千五百文字を超えた。というか文章を書き始めてからこの辺りで既に四十分近くの時間が経過している。あっという間だ。今俺はライティング・ハイ的な状態になっているのだ。それがカフェインの所為なのか、あるいは俺の編み出した練習法により心理的技術的なハードルが下がった所為なのかは分からないが(その真偽は恐らく明日以降カフェインを摂取しない自分が自ずから証明してくれるであろう)、いや分からんね。そもそも自分が何を書こうとしてるのか分からんから必然的に「分からん」とか「知らない」とか「小麦粉か何かだ」的な記述が増えてきてしまうのです。
ところでアレですよ、最近「なろう小説」というものが流行ってますよね。流行ってるんです。ええ。流行ってますとも。多分。知らんけど。
この「なろう小説」の特徴としては、大体物語の冒頭で主人公が死んで転生するところから始まる。そして転生後の世界で主人公は稀有な才能を持った偉人として君臨することになる。そういう筋書きが殆どなのだ。この呼称はどのように生まれたかと言えば(アノニマスダイアリーに生息する御仁達には説明不要かもしれないが)この小説のジャンルは「小説家になろう」という小説系の投稿サイトで幅を利かせたジャンルなので、「なろう系小説」とか「なろう小説」といった呼称をされているのだ。説明すればするほど醜悪極まりない作法によって書かれた小説ジャンルだと思うが、中には面白い作品もあって、個人的には「異世界料理道」なるタイトルの作品を推しておきたい。これはもう既に商業デビューを果たした作品であり、商業デビューするだけのことはあって世界観の組み立てやストーリーテリングが非常に上手い小説なのだ。二百話近くあるエピソードの半分以上を読んでしまったくらいだ。
で、俺が言いたいのはそういう稀有な面白さを持った小説に対する賛辞ではなくて、その「なろう系小説」を書いている人間の文章生産能力に対する賛辞なのだ。俺はプロになる為には一日最低三千文字から四千文字の文章を生産する能力を持たなければならないと思っているが、いわゆる「なろう系」の小説を書く人間の中には一日に一万文字とか二万文字を平気で書き上げる人間がゴロゴロしていると言うのだから驚きである。一日二万文字と言えば、速筆で知られたかの西尾維新氏が、それくらいの文章生産能力の持ち主だったかもしれない。しかし俺だってカフェインのブーストと心理的技術的ハードルを下げる効果的な練習法さえあればそれぐらいの量の文章を書くことなんてお茶の子さいさいだぜと言いたくなってくる。実際そろそろ五千文字は突破して六千文字に迫るか追い抜くかをしているところだと思うが、あ、そろそろキツくなってきたかもしれない。いやしかし「キツい」キツいと繰り返している内はまだ大丈夫だと先程言ったばかりである。これもまた繰り返している。繰り返し。繰り返し、リピート、リピート。繰り返すことが人間の心理的なハードルや技術的なハードルを下げ、人間に効果的な文章のトレーニングを提供することになるのだ。多分。でも一応今日はこの辺にしておこう。
というのも、どうもこの世界で生きて行く上で自身と他者の認識の違いから歯車が噛み合わない会話になるからだ。
ここに書く事は自身の思考整理の為であって誰の為にもならないだろう。
この世界で生きて行く上で欠かせない「他者との相互理解」をする基盤が自分にはないと感じている。
それは他者への思いやりや心理的同調ではなく、生まれ育つ上で基礎として積み上げられている部分。価値観。
私が基盤にしているものが他者の基盤とは思っていないのだが、あまりに違うのかよく会話が噛み合わなくなり困る。
この世の金の回り方、その金が元で生きてる現状についての価値観だ。
私自身が考える金銭的価値観とは、物・時間・空間全てに価値がありそれを動かす事で金銭が発生する事。
…まぁ、正直簿記についての知識がある人間には常識だと思うのだが。
例えとしてお店に入るとしよう。
おそらく大抵の人は「商品」と答えるのではないだろうか?
それは間違ってはいない。ただ、それだけでは足りない。
この中には商品の原材料、人件費、機材費、家賃、光熱費、維持費、その他雑費が含まれている。
よく耳にする「値引き」や「サービス」というものは上記の様々な費用の収益を減らすものだ。
店側が不人気や期限が近い等で値引きする分には問題はない。それは店側が収益を減らしてでもコストを回収するための手立てなのだから。
だが、最近は客側から無理な「値引き」や「サービス」の強要が目立つ。
最近目にしたものは3ヶ月前に発売したばかりのゲームの値下げ要望だ。
何を言っているんだ貴様。
ゲームの定価が高いという点だが、これは何と比べて高いのか。
の問題だろう。
その商品は同ハード機のソフト平均定価内の価格だ。これが適正価格なのだ。
更に発売してまだ3ヶ月……まだまだ開発費用・宣伝費用等の回収も終わってない期間だ。
それを値下げする事など出来るわけもない。
私自身は長年オタクをやってきて、先輩オタクから様々な価値観を学んできた。
その教えの中に「気に入った作品は定価で購入する事。出来る限り発売日初週に購入する事」がある。
定価で購入する意味がわからない人も居るだろう……最近はレンタルコミック市場も大きくなり、昨今では中古コミックの売り場面積も狭まってきた事を鑑みても定価購入<中古購入<レンタルコミックになってきているのではないだろうか。きちんと統計を取ったわけでもないので私の想像でしかないが……。
発売日初週に購入する意味は出版社側の今後の方針に関わる…要は作品の今後が左右されるからだ。
最近の若いオタクたちは古いオタクたちからこのような事を学ぶ機会が減ってしまい、ローカルルールやローカルマナーがどんどん失われて無秩序になりつつある。
乱文で申し訳ない。
ところで読んでくれているあなたは自分が何で出来ているか知っているだろうか?
成分の話ではない。この世の回りの話だ。
商品が売れたので売上金を貰った、これで食料が買える。
この流れがあなたを作り上げている。
あなたがそうなのかはわからないが、もしかして働いている際に「お金が貰えるから」「生活の為に仕方ない」と考えているのではないか?
だがシンプル故にみんな忘れている。
と考えると多少は世の中が生きやすくなる。
給料をもらう過程で避けられない他者とのやり取りで嫌な事もあるだろう。
嫌な時は目の前に、電話越しにいる相手を「よく喋る給料」だと思うのだ。給料だと思えば少し寛容になれるのではないだろうか。
ここで一先ず終わろうと思う。
ここまで読んでくれたあなた、ありがとうございます。
リバタリアニズムが自由最高ヒャッハーみたいな種類の思想だというのは、左翼や右翼やちょっと聞きかじった程度の半端な理解の人間による印象操作なんだよ。
ちゃんと調べて、まともな学者の書いた本を読めば、究極に理性的な思想だということがわかってくるはず。
北斗の拳みたいな世紀末状態がリバタリアニズムの終着、みたいな認識が2ちゃんやらの日本のネット上では書かれている事がよくあるけども、とんだ見当違いだよ。
じゃあどっちかというとアナーキズムか、というとそれも違う。アナーキズムだって、反支配ではあるが無秩序を望む思想じゃないし、むしろ調和をめざす非暴力の思想だ。
一部のアナーキストが、支配から脱するための暴力革命やテロリズムを認めているにすぎない。
話を戻して、リバタリアニズムは自由放任と表現されるけど、それがややこしくしている。その単語が表すイメージとは次元が違う。
きちっとした法治を是とするのは当然として、その場その場の属人的な裁量ではなく洗練された最小限のルールで世の中を究極にシステマティックかつシンプルにしようという考え方。
そうして、自由放任にしても大丈夫、人がどう動こうと失敗しようと必ず救いがあるし報いがある、だから寛容になれる、そういう環境をつくる、という意味での自由放任だ。
そのための最適なルールを、常識に囚われず考え続けることに余念のない人たちがリバタリアン。
もともとはリベラルと呼ばれた考え方だけあって、個人、人権を尊重しようとする考えはしっかり根底にある。
だから他人の自由を侵害することにも特に敏感で、それこそが右翼や左翼との違いでもある。
リバタリアニズム的な思考に基づく発言とか政策を切り取ってみると、傲慢や強欲を感じられる事もあるかもしれない。
でもそれは、国家よりもまず個人の幸福を尊重するからであることがほとんどだ。
長期的視野や全体的視野に立ってみると、国家に従属して集団の幸福を実現するより、技術的進歩に従って個人レベルの連携でもうまく機能する社会システムにシフトしていったほうが健全だし盤石だし平和的だろうという考えがあるから。
そういう感じで、一見突飛な意見も、より良い未来を導くビジョンに繋がっている。
そうではない、「怠惰な弱者は自己責任だから救済する必要がない」だとか「再配分は自発的な寄付、トリクルダウンで現状でも賄える」みたいな事を言う人は、
確かに昔のリバタリアンと呼ばれた人にはそういう人も多かったようだけれども(今でもいないとは言わないが)、もはや現代のリバタリアンはそんな強者の論理を振りかざす人たちとは違ってきていて、より柔軟で現実的になっている。
でもネットでリバタリアニズムを調べて出て来るのは、そういう古臭く悪印象な強者の論理ばかりなので、ほとんどの人がそこで学習が止まっている。
リバタリアンとされたミルトン・フリードマンだって、まじめに再配分を考えていて、負の所得税のような今で言うベーシックインカムに繋がる政策を考案したその人であるし。
彼のマネタリズムのようなリバタリアン的政策は、あの時代では失敗したけれども、現代そして未来のあらゆるものがデータとして数値・属性で可視化されるようになった世界では、
金融政策ではないにしろさまざまな分野でリバタリアン的な「裁量よりルール」が有効に働くようになってくるだろう。
リバタリアンと分類されて馬鹿にされる人たちの多くは、一般の人の想像が及ばないくらいの精細な未来の人類のビジョンを持っているように感じられる。
その人の専門分野、技術的知識によってその推測は本人的には裏打ちされているんだけど、他人からみると理解されない。
「いま」を生きる大衆目線で見ると愚か者の暴論にしか見えず、袋叩きにあうしかないんだけども。それでリバタリアニズム自体もなめられている。