自分の幸福を喜んでくれる人がいるのは幸せなことだというけれど、
わたしにとっては、自分の不幸を誰も悲しまない状態に持っていくインセンティブのほうが高い。
苦しみは喜びと相殺せず、
喜びもそれが消え去るときには苦しみに変わる。
私見だが、生きるという状態にはもともと傾斜がついているのだ。
坂を登れば喜びが増え、
坂を下れば苦しみが増える。
しかし、だれもが最後には坂の上で一人で立っている力を失って、
坂を転がり落ち、苦しみの底を踏み割って、
最後にようやく安寧を得ることが出来る。
生きるとは変化することだ。
そして、何もしなければ坂の下に向かって引く力によって、自動的に苦しみが増えていくことになる。
わかりやすいのが飢餓だ。何も食べなければ飢えに苦しむことになる。
いつか、ディックの小説に「キップル」という言葉が出てきた。からっぽのマッチ、ガムの包み紙、きのうの新聞、いつかそういう役に立たない無秩序からの使者が、人生をまるごと埋めてしまわないだろうかと危惧する男性の台詞があった。
あるいはこれを、エントロピーと呼びたがる人もいるかもしれない。何もせずとも増大していく無秩序を取り除いて、快い状態を保つのは骨が折れる仕事だ。取り去っても取り去っても、床の上には髪が落ち、埃が積もる。わたしたちは秩序を快いと感じる。しかしわたしたちの体や生活は、継続的な努力なしでは無秩序へ堕ちていく。
実のところわたしにディックのような想像力はないし、エントロピーの概念をきちんと理解しているともいえない。わたしに見えているのは、単に「ひとたび生を得たなら、何もしなければ苦しみは増える一方だ」ということだけだ。
生についている傾斜の角度は人それぞれだ。その勾配を決めているのは生まれや育ち、能力、容姿や親の金、生への適性といった要素のように見えるが、それでも傾斜が付いているということには変わらない。どの人間も平等に、「何もしなければ苦しむ」のだ。そのルールだけはどんな金持ちも器量好しも変わらない。
あなたがもし死にたがっている誰かを前にして「生きることは素晴らしい」と主張しようとするならば、自分と相手の間にある生の勾配の差には留意したほうがいいかもしれない。勾配が大きければ大きいほど、「ただ生を維持する」ための労力は増大する。
あるいは、人間の脳みそには現状を肯定する強いバイアスが掛かっている、ということにも注意を払ったほうがいいかもしれない。
わたしには、「苦しみがあるからこそ喜びがある」「苦労したからこそ今がある」という考えはまさにこのバイアスの産物のように思える。
連休明けの出勤のように、喜びもまたそれが失われるときには苦しみになる。苦労はその「今」が永続することを保証しない。いつ不運が巡ってきて、労苦を支払って手にしたものが水泡に帰さないとも限らない。わたしにはむしろ、「恍惚の一瞬には苦悩で支払いを」というディキンスンの詩のほうがしっくりくる。
我々は変化する。
その方向は我々が外から力を加えない限りにおいて、決まっている。
どんな人間も最後には苦しみの底に落ち、その底を突き破って死なねばならないと決まっているならば、わたしはわたしの苦しみが、せめて誰かを苦しめないようにしたい。
そこで話は冒頭に戻るのだ。
わたしの幸せを喜んでくれる誰かが多い状態というのは、裏を返せばわたしの不幸を悲しむ存在が多いということでもある。
得たすべては自分で得た物では無い。 なにかっつーと『自分が努力して得た』方向に持っていきたがる。 そちらの言うところ傾斜がゼロの人間ほど。 神経学の研究を見ても、心理学の...
気にかけてほしくない増田さんが、増田に書くだろうか(いや、ない。) なので、増田さんは 🏌️♀️心にもない事をいってるでしょ!ツンデレちゃん! 😺だいじょうぶ、みんな...
2行しか読んでないけど 自分以外の何人かの人の選択を喜ぶより、自分以外の全ての人の選択を自分の思い通りにしたい、という思想には共感できない。
そんなこと言ったらはてなブロガーに毎回ブチ切れないといけないな