新幹線問題についてFacebookで見つけた批判にとても共感を覚えたので紹介します。
https://www.facebook.com/naoto.hori/posts/574178189324382
まずこの発端なった社会起業家とか言われて有名な人の発言だけど、「公共圏は、我々が当事者意識と寛容によって生み出すもの」という言い方からは寛容性が感じられないし、「そういう人は新幹線自由席じゃなく、車で移動すべきだ」というように、〝べき論〟からも寛容性は生まれない。
僕は思うけど、ぼくらはどうしようもなくて、感情もコントロールできず、うっかり喧嘩もするし、そうこうしてるうちに戦争が起きるかもしんないし、そんなんだから機嫌によっては些細なことで腹も立つし、閉塞感を感じることで免罪符を得て、ダラダラ過ごし誰かの批判を呟く毎日の残念な生き物なんですっ、という残念さを前提にテーブルにつかないと有効な議論にならないと感じる。
いつも多様性を認めろという主張には、多様性がなかった。「みんなちがって、みんないい」という言葉の真意は、僕たちが思う以上に深い。多様性について話すときは、多様性と向き合う、つまり現実を直視するというしんどい作業ということを認知しないと、議論が上滑りすると感じる。
私見ですが、新幹線問題の議論が全く異なる他者を認めない排除する全体主義の元で行われていることに恐怖を覚えてこのポストをされたのではないかと思います。
つまり社会起業家の方が「寛容さ」を根拠として、「寛容でない」人物を公共の場から排除しようと発言すること、議論の俎上に加わっていく人々も彼の始めた他者を排除するゼロサム・ゲームに違和感を抱かないこと、それがとても怖いことなのです。