私は専門外で良く分からないから教えてほしいのですが、「理」に従って意見を交わすという前提である限り、ヘーゲルの議論であなたが言うような「司会のいない多人数会議の地獄」にはならないような気がするのですが。例えば教授らの飲み会とか、一見好き勝手に物言い合っているようで、最終的にはお互い「理屈に合わないこと言ったら負け」という信頼感があるから、結構話が落ち着くところに落ち着いたりするでしょう。ハーバーマスの考える市民的公共性の「自由さ」というのは、そういう「ルールを前提にすればどのような意見を述べることも誰にでも許される」という意味であって、議論の前提となる場を破壊するような「自由」の話なんかはしてないと思うのですよ。少数者が、論の中身ではなく数によって不利になるとか、つまり少数者の喋る権利を奪う「自由」などない。それはそもそも自由ではない。
ですから、あなたの話だとヘーゲルが「公共性と自由主義の相性が悪い」と考える理由が、腑に落ちないのです。あなたの論の中核にかかわる部分だと思うので、そこの所をもう少し丁寧に説明していただけませんか?
横だけど、「教授らの飲み会」って同じ共同体に属して同じ文化を持ってる人たちの典型例でしょ。 ある程度共通の知識と経験があって、明日も顔合わせないといけないから決定的な決...
ここで想定する「教授ら」というのは、議論好きな文系の教授らのイメージで、彼らは決して決して「空気読む」ような真似はしませんよ。同じ研究室に所属しても専門領域も学問的手...
あんまり想定外という感じではないが……結局その議論は文系の教授たちの以外のメンバーを入れたら成立しないのでは? 話題を定めないって自分で書いてるけど、じゃあそういう場の...
横ツリーに並べて更に横からですが・・・ お互い「理屈に合わないこと言ったら負け」という信頼感 この信頼感、というかお互いに認識しあっているルールが、元増田の言っている「...