はてなキーワード: 市民的公共性とは
「赤ちゃん連れはOKか?」という質問に対する、スターバックスコーヒージャパンの公式のアンサーは以下で読めます。
https://st.benesse.ne.jp/ikuji/content/?id=14438
「スターバックスのミッションは、“人々の心を豊かで活力あるものにするために一人ひとりのお客さま、一杯のコーヒー、そしてひとつのコミュニティーから”です。お客さま一人ひとりに、スターバックスで豊かな時間を過ごしていただきたいと考えています。ですから、ぜひ、ママや赤ちゃんをはじめ多くのお客さまに、スターバックスで豊かな時間を過ごしていただきたいです!」
「スターバックスのブランドのコアは、“人々の心を豊かで活力のあるものにする”という考えです。スターバックスには、サービスマニュアルがありません。“お客さまがスターバックスで過ごす時間が、どのようにしたら豊かになるのか”。このブランドミッションを元に、一人ひとりのパートナー(従業員)が、自分なりのホスピタリティとは何かを考え、お客さまへのサービスにつなげています」
スターバックスのパートナーさんには、子育て中のママも少なくないとか。そのため、赤ちゃんが泣いてしまったら、あやしてくれることもあるんですね。
最近ではキッズスペース併設のスターバックスもできたりしています。
https://media.l-ma.co.jp/sns-baby-mamalife2525-1
ちょっと背伸び感のあるハイブランド、スターバックスリザーブロースタリー東京もキッズ向けスペシャルメニューやチェアなど用意しています。
https://enjoy-overseas-life.com/2021/03/28/starbucksreserveroastery-withkids/
https://chanto.jp.net/articles/-/27312
はっきりしているのは、スターバックスのブランドメッセージは決してキッズを排除しておらず、むしろ妊娠中のママや育児中のファミリーも等しくウェルカムしている、ということです。スターバックスは日本全国に1700店、アメリカ本国では13,000店以上を展開する「大衆向けのカフェ」です。一部の利用者がスタバという空間に「こうあるべき」という思い入れを持つのは構わないけど、運営企業の思惑をも無視して自分勝手な「べき論」を押しつけ、自分とは違う誰かの利用を苦々しく思うのは、カッコ悪いと思います。
そもそもカフェというのは、さまざまな立場や意見を持つ他者が集い、交雑する場所として始まりました。フランス革命はカフェでの議論から始まったし、ハーバーマスはカフェをヒントにして「市民的公共性」とか「公共圏」という概念を確立しました。たとえ言葉を交わすことはなくても、カフェのような場所は、自身にとっての「他者」のありようを目の当たりにできる良い機会だと考えてみてもいいのでは。
どうあっても自分にとって好ましからざる他者を排除した、均質で静謐な空間を求めたい人には、そういう人達向けの場所があるはずです。そういう場所が少ないとか値段が高いというなら、その人が求めている『均質で静謐な空間』にはそれだけの希少性や付加価値がある、ということでしょう。遠出して、あるいはエクストラチャージを払って、その排他的空間を利用すればいいのです。
ふわふわした夢を追いかけてこんな歳まで学部にすがりついてしまいました。
一般的に在学年限は8年までですが、自主退学して単位を引き継いで再入学すると年限が増えるというライフハックがあります。皆さんも試してみてくださいね。
いや、夢だったんですよ、大学教授が。「夢別名呪い」とはよく言ったもので。
現状卒業に必要な単位は9割程度しか取れておらず、本年が在学年限なので、4月から無職になる予定です。
ちなみに増田は高校も辞めてるので最終学歴中卒である。うける。
(この文章を書いている最中に複数の社会学者によるやらかしが発生しましたが、増田は冷ややかな目で眺めつつ、自分が好きなのは社会学じゃなくて100~50年前の社会学者が描いた原風景だったのかもなあと思いました。酸っぱいぶどうだろうとは思いますが)
というわけですので、どなたか増田のことを雇っていただけないでしょうか。
2年とすこし前までは豊田でノートパソコンの裏蓋をひたすらに開け続けるという仕事などをしておりました。光り輝くMADE IN TOKYOのラベルを豊田で貼り付けるのは最初ためらいを覚えましたがすぐ慣れました。
2年前からはキャバクラ(時給が良かったため)でボーイとして数店舗を渡り歩きました。パワハラ耐性はかなり高いです。駐車場に呼び出されてタイマン張らされる程度は日常のスパイス。
雇う側から見て心配になるのは、こいつに継続的な出社が可能なのかという点が真っ先に浮かぶと思われますが、多分大丈夫だと思います。豊田のバイトもキャバクラのバイトも当欠遅刻無しで3年ほどやれていました。
(仮に、仮にですよ。仮に本当にですね。そのバイトへの体力を。いやぁ、もう止めましょう、こんな話は。ボクは今、こうやって窮まっていることがね、全てなわけですよ。だからね、仮にとか、もしもとか、もう止めようじゃありませんか。)
こちらの希望としては、ライターや編集者などとして、フルタイムの正社員として働かせて頂きたいと考えています。もし仮に贅沢を許されるのであれば、社会学・(科学哲学含む)哲学・将棋・お酒・音楽特に日本語ラップといったテーマでも書かせて頂ければ何も不満はありません。
増田がこれらの職種を希望する理由は、それが私の能力をもっとも活かせそうだと考えるためです。下で改めて紹介いたしますが、大学の出席がピンチなときでも、つい書きたくなってしまう瞬間は多かったです。書くための生活の糧を書くことで得る、というのは一つの理想的構造ではないでしょうかl。
なお、日常的な英会話、ある程度専門的な英語の読解、ごく簡単なWebフロントエンド、簡単な作曲編曲、Adobe Photoshop・AfterEffects CS5での業務経験などのスキルを所持しております。
増田自身と希望条件の提示ばかりしていても仕方ないでしょう。まずは増田が増田に書いた増田のうち代表的な増田をざっと並べてみました。ポートフォリオってやつです。
https://anond.hatelabo.jp/20200419201827
https://anond.hatelabo.jp/20191103163514
https://anond.hatelabo.jp/20200822071725
https://anond.hatelabo.jp/20181005160437
フェミニズム寄りの社会学教授による、社会学の概念の誤った使用を批判した記事。
当時インターネット上ですでに批判は行われていたが、それもまた極端で誤ったものであったため、文献に当たり正確な批判を行った。
増田の長所として、「社会構築主義入門」「市民的公共性」あたりに顕著かと思いますが、難しいことをわかりやすく書く、というスキルが優れているのではないかと思います。あるいは将棋関係の記事のように、楽しいことをきちんと楽しさが伝わるように書ける、という点も挙げられるかもしれません。
その他の興味関心としては、バー巡りと日本語ラップあたりでしょうか。
近いうちに自主退学の予定ですが、当分は通じると思うので大学のメールアドレスを身分証代わりに連絡先としておいておきます。お気軽にお問い合わせください。
なお以下のメールアドレスにおけるやりとりは、絶対に両者の合意無く第三者に開示しません。増田に晒したりしません。
また、トラバブコメ等で「お前は増田にこんな文章書く前にこれやれ」「こっちに問い合わせてみたら」などのアドバイスを頂けたら幸いです。
(2021/2/7 15:00追記)
「書いたと主張する増田が本当にお前のものかわからない」というご意見を頂いたので、各増田の末尾にこの増田への誘導をつけました。
差別と表現規制の話題を,人工知能学会誌表紙,キズナアイ,宇崎ちゃんポスターと追っているが,フェミニスト側の立論の雑さが目立つようになってきた.フェミニストによると,これらの表現は
という.
この2点について,多くの規制反対論者が「エビデンスはあるのか」と問うてきたが,フェミニスト側は真面目に答えようとしてこなかった.ここでは,市民にエビデンスを提供することが期待されているであろう,社会学者たちがいかに知的不誠実な態度に終始してきたかを見ていきたい.
ここでいう「エビデンス」とは evidence based medicine (EBM; 根拠に基づいた医療) や evidence based policy making (EBPM; 根拠に基づいた制作決定) におけるエビデンスで, 単なる「根拠」「証拠」より強い意味を持つ.例えば,EBMにおいては下記のようなエビデンスレベルというものがあり,一口にエビデンスといっても質の強弱がある:
I | システマティック・レビュー/RCTのメタアナリシス |
II | 1つ以上のランダム化比較試験による |
III | 非ランダム化比較試験による |
IVa | 分析疫学的研究(コホート研究) |
IVb | 分析疫学的研究(症例対照研究、横断研究) |
V | 記述研究(症例報告やケース・シリーズ) |
VI | 患者データに基づかない、専門委員会や専門家個人の意見 |
もちろん,社会科学分野では完全なランダム化比較試験は難しいという事情はあるだろう.それでも,行動心理学の研究や,具体的な事例の紹介はできるはずだ.以下で指摘するのは,表現規制の議論において,社会学者たちが,質の高いエビデンスを提示せず,最も低い「VI 患者データに基づかない、専門委員会や専門家個人の意見」相当の論考しか提示してこなかったという怠慢である.
宇崎ちゃん事件の発端となったのは弁護士の発言であったが,しばらくして,牟田氏による下記の論考が出た:
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68185
女性差別撤廃条約(1979年国連採択、85年日本批准)はジェンダーに基づくステレオタイプへの対処を求めており、日本政府への勧告でもメディアでの根強いステレオタイプの是正を重ねて求めている。
たとえば第4回日本レポート審議総括所見(2009年)では、勧告の項目「ステレオタイプ」に、「女性の過度な性的描写は、女性を性的対象としてみるステレオタイプな認識を強化し、少女の自尊心の低下をもたらす」と警告している。
上のエビデンスレベルに照らすと,条約や所見は最も低いVIに該当するであろう.もちろん,所見を作成する上で何らかの質の高いエビデンスが参照されている可能性はある.残念ながら,そのようなエビデンスがフェミニスト側から提示されることは現在までない.
と,有害性は明らかであるとする.自治体のガイドラインは炎上しないためのHow toであり,これに抵触したからといって即時に性差別にあたるわけではない.例えば,日弁連のポスターですら,形式的にはガイドラインに抵触することが指摘されている:
https://togetter.com/li/1425795
こういう立論の雑さが「お気持ち」と揶揄される一因になっているのではないか.
キズナアイ事件の発端となったのは千田氏による下記の論考である:
https://news.yahoo.co.jp/byline/sendayuki/20181003-00099158/
「相槌」がなぜダメなのかと思うかもしれないが、社会学では「権力」は相互作用の場面からもつくられていくと考えられている。コミュニケーションの場において、どのような言葉が交わされ、どのように会話が達成されるのか。コミュニケーションは当然、社会システムのなかで行われ、そしてまたその社会システムを再生産するのだ。
このNHKのサイトで「キズナアイ」に割り振られた役割は、基本的に相槌である。それは、従来「女性」に与えられてきた役割である。ある意味で、性別役割分業を再生産していると言えるのだ。
「性別役割分業を再生産」というのが上の「1. 現実の性差別・性犯罪を助長する,あるいは直接女性を加害する有害性を持ち」にあたるだろうが,この点に対してエビデンスは示されることはなかった.問題になっているキズナアイのイラストのように,ポルノとは言い難い軽度の性表現がどの程度人の行動に影響を与えるのか,質の高いエビデンスを示してほしい.
https://twitter.com/chitaponta/status/1047386005139906560
ズナアイは可愛いし、別に愛でてくれていいし、ノーベル賞のサイトから引き上げてくれとか要求もしてなくて、今後、同様の企画を作るときは、少し考えてくれと言っているに過ぎないんだけれど、「誰も傷つけていない」「考えすぎ」というのは少し違うと思う。思春期の自分は、やっぱり傷ついたから。
自分が年をとると快適で、性的対象として見られることがときに女性をいかに傷つけるか、想像もつかないことは理解できる。自分の趣味にケチつけられたら、腹も立つだろう。
ここでも,氏の言う加害がどの程度普遍的に通常人に成立しうるのか,なおかつ公共空間から排除すべき加害性なのか,提示されることはなかった.もちろんこれが社会運動なら,こういった「共感」に訴えるだけで事足りるだろうが,当該分野の専門家としての発言が「共感」に終わるだけでは,なんというか残念.
千田氏自身は,法規制を求めているわけではなく「市民的公共性」から自主規制を求める立場であるとする.なるほど,権力の介入を避け,市民の議論によって線引がなされるべきというのは同意できる.その上で,学者として,市民の議論の補助となるエビデンスを提示してもらいたい.
今年の4月,フェミニストから称賛された上野氏の祝辞があった.
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html
上野氏は祝辞という限られた環境ながら,種々の研究を紹介し,数字を引用し,現在の社会にある男女差別を提示してみせた.統計の扱い方には色々と難があるし,私とて上野氏の思想で同意できるものの方が少ない.しかし,ここで注目したいのは,エビデンスを提示しようとする上野氏の姿勢と,表現規制でエビデンスから逃げ回る社会学者たちの姿勢とのコントラストである.
私は専門外で良く分からないから教えてほしいのですが、「理」に従って意見を交わすという前提である限り、ヘーゲルの議論であなたが言うような「司会のいない多人数会議の地獄」にはならないような気がするのですが。例えば教授らの飲み会とか、一見好き勝手に物言い合っているようで、最終的にはお互い「理屈に合わないこと言ったら負け」という信頼感があるから、結構話が落ち着くところに落ち着いたりするでしょう。ハーバーマスの考える市民的公共性の「自由さ」というのは、そういう「ルールを前提にすればどのような意見を述べることも誰にでも許される」という意味であって、議論の前提となる場を破壊するような「自由」の話なんかはしてないと思うのですよ。少数者が、論の中身ではなく数によって不利になるとか、つまり少数者の喋る権利を奪う「自由」などない。それはそもそも自由ではない。
ですから、あなたの話だとヘーゲルが「公共性と自由主義の相性が悪い」と考える理由が、腑に落ちないのです。あなたの論の中核にかかわる部分だと思うので、そこの所をもう少し丁寧に説明していただけませんか?
辞書的に言えば「市民的公共性とは、ハーバーマスが『公共性の構造転換』(1962)の中で提唱した概念。ホルクハイマーらの『人間の理性が頑張っても幸せにならないんじゃないの? だってナチスとか出てきたし』という悲観に対するカウンターとして提出された。ハーバーマスにとっての公共性は人間が自由平等連帯で幸せになっていくためのベースとして存在している」といった感じ。
~性というのはいかにもベースとして弱そうだが、ドイツ語のÖffentlichkeitは「Public sphere=公共圏」と訳すこともできるというかこっちのほうが適切だと最近は言われている。なので以下では基本的に公共圏で統一する。
それはハーバーマス自身もよくわかっていないようである。その証拠に大学図書館には「公共圏ってたぶんこういうのだと思います(こういうものだったらいいな)」という本が溢れている。たぶん最大公約数的には「まあみんなで議論する場は必要だよね」というあたりで理解されている。
しかし、この「みんなで議論する場」というものが曲者である。人類の大半の歴史上、「みんなで議論する場=公共圏」には男性だったり社会的強者だったりという入場パスが必要だった(今でもそうかもしれない)。しかしそれは今日の価値観から見れば明らかに間違っていたわけで、その間違い(入場パス)と長い間仲良しだった概念を自由で幸せな社会のベースに据えていいのかという問題がある。
ハーバーマスは彼が理想とする市民的公共圏がどういうものであるかは、少なくとも『公共性の構造転換』の中では(たぶんそして今日に至るまで)ふわっとしたことしか言っていないのだが、どういうものでないかはこれ以上ないほどに詳しく論じている。一見いかにも学者らしい無駄っぽく思えるが、「こっちに行ってはいけない」というガイドブックでもなにもないよりはましである。たぶん。
本稿では、「昔の(入場パスつきの)公共圏にはこのような批判がありました」とハーバーマスが論じている部分を検討し、その批判が千田氏の立場にブッ刺さっていることを確認する。その結論として、千田氏の「市民的公共性」という用語の用法がいかに不適当ないしド適当であるかを示す。
以下ではハーバーマス(細谷貞雄・山田正行訳)『公共性の構造転換』の第四章 第一四節「公共性の弁証法によせて――ヘーゲルとマルクス」に基づいて議論を行う。
ヘーゲルは入場パスと公共圏の関係を真っ先に疑った人であった。とはいえヘーゲルも最初からブチ切れたりはしない。「公論(公共圏における論議、もしくは公共圏そのもの)っていいよね、合理的だし」というところから話を始める。でもその合理性って自由主義がベースになきゃ成立しないよね?(みんなが自由に意見を言えることが前提なので)、でもその自由主義って本当に公共圏とそこまで相性いいだろうか?とヘーゲルは問う。考えてみればこの矛盾は明らかである。司会のいない多人数の会議を考えてみればよい。地獄である。間違いなくそこに自由はある。なのに(だから?)地獄である。
このことの地獄性は会議室を超えて社会とか国家とかのスケールになるとより増す。例えば少数者差別を考えてみればよい。これはみんなに「自由に」議論させてるだけではそもそも議題にすら上がらないだろう。そうして公論はきらきらした合理性の賜物から「多数者の主観的私念」という水準へと転落する。公論は「自然に生じた不平等を止揚するどころか、むしろこれらを技能、財産、さらには知的倫理的教養の不平等まで深めていく」。入場パスを持っていない人はより不利な位置に、持っていても少数派の人もまたより不利な位置に、公論によって追いやられる。
まあとはいえ人間も頑張るもので、法治国家とか市民社会とかを作って頑張って公論して私念から理性に支配権を移そうとするのだが、ヘーゲルいわく土台が腐っているのに頑張っても泥縄だそうである。そうした頑張りはむしろ国家に主観的私念を入り込ませる結果になるとヘーゲルは言う。じゃあどうすりゃええのよって言えばヘーゲルは最初から開き直って身分制国家を作れとか言ってそれに対しマルクスがいや社会主義でしょとか言って最後にハーバーマスがいや公共圏を作んなきゃダメだよとか言うのだが、そのあたりは略する。
ともかくにもハーバーマスが描く市民的公共圏というものは、こうした批判をスルーしては論じることができない。ここで重要なのは、ハーバーマスが公共圏をどのようなもの「ではない」と考えていたかということである。以上見てきたようなヘーゲルの理論は最終的に乗り越えられる(ということになっているが詳しいことはやはり不明)のだが、であるからこそ少なくともヘーゲルが批判したそのままのことをやるのがまずいというのはわかっている。
まさにヘーゲルが批判した地獄の公論をインターネット上に出現させようとしているのである。
私自身は「表現の自由」は国家から規制されるべきものではない、とは思う。でもそう思うからこそ、国家から規制されるまえに、「市民的公共性」を発達させないといけないと思うんですよ。
あと表現って、さまざまな他者への配慮のなかでこそ磨かれていくものだと思う。フリーハンドの表現なんてない。https://twitter.com/chitaponta/status/1047451777220501504
市民的公共性の話って、ハーバーマスのつもりだったんですが…。https://twitter.com/chitaponta/status/1047789073471946752
市民的公共性は対話によるものですから、そのことを話し合うことが大切だと思います。
いままさに起きていることが、市民的公共性なのではないでしょうか?https://twitter.com/chitaponta/status/1047810256976269312
まず第一に、専門用語を「」で括って注釈なしに使うのはおよそハーバーマスの「市民的公共性」的態度ではないといえる。なぜならこれこそヘーゲルが批判した「自然に生じた不平等を(略)知的倫理的教養の不平等まで深め」る態度にほかならないからである。
そして第二に、ハーバーマスの議論は上のような「話し合えばそれが公共性」というような安易な理解を拒絶するものであるということを千田氏はまったく理解していない(か理解していても無視している)。上で見たヘーゲルによる公共圏批判からもわかるように、ハーバーマスの議論は「公共圏にはあれやこれやそれや…の批判があるけど、でも、それでも公共圏がなければ人間は幸せにはなれないんだ」というひねくれたものであり、単に「話し合いが重要だよね」と言っているのとは違う。仮に結論は一緒だとしてもやはりそれは違う。その違うものを一緒くたにして、専門外の人に「話し合い=市民的公共性」という理解(そんな人のいい理解をしている人はほとんどいないようだが仮に字面だけ虚心に読んだとして)を植え付けることが、ほんとうにハーバーマス的であるといえるだろうか?
第三に、「思う」根拠が示されてない。少なくともハーバーマスは「国家の規制を前もって回避するために市民的公共圏を発達させるべきである」というような具体的な議論はしていないはずである。であるとすればこれは千田氏のオリジナルのアイディアが含まれているはずであるのだが、それがまったく説明されていないのと、先に述べたようにそもそも専門家間ですら扱い方に差がある「市民的公共性」という単語のせいで、最初のツイートの二文目は全く意味不明なものと化している。原理的に誰にも意味が伝わらないはずのもので炎上しているのはお気の毒というほかないが、であるからこそ千田氏は「市民的公共性」の意味と「思う」理由をしっかりと説明してほしいと思う。
(2021/2/7追記)書きました anond:20210207093448
市民的公共性なる概念で…https://togetter.com/li/1273256?page=3
そのブクマhttp://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1273256
なんというか「市民的公共性って何だよ!」と吹き上がっている人、まず検索しような。中には「そんな義務教育で習わない人の話を」とか切れてる奴もいて吹いた。twitterに何を求めてんのか分からんが、端的に言って地獄絵図。別にこの千田某という教授がどんな人かは知らんけど、大学教授の私的なつぶやきに対して「一言一句中卒に分かるように喋れ」って、何アホなこと抜かしとんねんとしか思わんな。そもそも子供が分かってもない話に無理に口突っ込んで大人に逆ギレしてる図がアンタやろって話。だいたい理性的に話ができている人が一人もいない。だって千田は市民的公共性「で」表現「を」規制する、なんて一言も言ってないやろ? 素直に読む限り、これは「表現規制」よりも「市民的公共性」が「必要だ」という話なわけだが、そういう捉え方をしてる人が一人も見あたらない。まあ、これは、タイトル自体で完全にミスリードしてるまとめの人の力量の問題でもあるだろうが。
別にキズナアイの話でもこの話でも、千田さんの言ってることは別におかしくないよ。まさに「一般には見えない物事の構図(モデル)」を捉えるところに学者の値打ちがあるわけだから「誰もそんなこと思ってない/考えすぎ乙」というのは何の反論にもならない。100万人の批判があっても、それが他の学説よりもより多くのことを説明できるモデルであればそのモデルの学問的価値は揺らがない。こういう事例見ても、まあ文系学問というのはホント尊重されてないなーと思う。気の毒な話だ。
千田の言ってることをごくかみ砕いて言えば、「政府が性器描いたらあかんとか乳首はセーフとか、でもこの雑誌ではアウトとか、そういうことするのおかしいでしょ。それより、自分らで考えて『あんたこないだ描いた画なあ、あれカワイイけどちょっとエロいから子供には見せたくないわ』『何言うてんの、あんなん健康なお色気やん。セーフやん。』『いやいや、これこれこういう理由でイヤな思いをする人もいるんやで』『そうかなあ。でもあれがああいう表現になるんは理由のあることなんやで、つまりな…』『なるほどなあ、そしたらせめてこういう風にしたら、お互いうまくいくんちゃうかなあ』『ふむふむ、それも一理あるな。その方が売れるかもやし版元といっぺん相談してみるわー』」みたいなことでしょ。こないだキズナアイにもの申したのも、そういう「言論」の一貫としてでしょ。政府機関による規制でなく、合理的な言論の交換によってあるべき姿が生み出される公共空間を創出する、ってのはこういうことで、これは「規制」とは真逆な発想なんよ。まあ、コミュニケーション力の低さを自慢げに振りかざす連中の暴れるtwitterや、それを更に恣意的にまとめてあおるtogetterが盛んな状況では、百年経ってもこうなりえないのは目に見えているから、千田の見通しが現実的ではないという点については一応同意するけれども、それが理想だよねという意味では、オレは千田に一抹の同情を感じるね。
(追記)
みなさんご意見ありがとうねー。「言及」でついてるツリーの内容はおおむねTogetterと同様にすとろーまんな内容でこれはまあ想定内だったんだけど、ブクマのコメントがどれも、賛意も批判も「なるほどなあ」とか「せやな」というところが突かれていて、とても読んでいて楽しかったです。ブクマの皆さんとはもう少し長文でやりとりしたいですね。
二点だけコメント
1つめ。メディアに載った学者のコメントを「権力」視するのは違うんじゃないか、と思いました。学者だろうが一般人だろうが、問題はコメントの質だと僕は思います。学者を名乗る愚者(そういう方は、たいていの場合ご自分の専門外について恥ずかしげもなく肩書きつけてコメントしておられるケースが多いですが)のコメントなんて世の中にあふれているし、増田の名もなきコメントが世の中を動かすことだってあるでしょう。むしろ「学者のコメントであればそれは権威だ」という思い込みこそが、メディアに対するリテラシーを欠き、存在しないところに無意味に権力を構築する考え方ではないかと思うのです。
2つめ。PCは「価値観の計画経済」だ、価値観の自由競争(市場)という概念を理解せよ、と独自な概念を推しておられる某氏。よくわからないのですが、千田氏はPCをかざして表現を弾圧する「主体」ですか? あくまである「見方」に基づいて「議論」をしているだけでは。それはあなたのいう「価値観の自由競争」そのものではないでしょうか? 多くの方へのブックマークを拝見しましたが、千田氏のような意見を言論封殺だと「決めつけ」て、自由な言論の交換を拒んでおられるのはあなたの方に見えました。根拠ある合理的な批判を「弾圧だ!」と切って捨てるのは、それ自体が「言論封殺」的で、とてもじゃないけど「価値観の自由な競争」を標榜される方の態度ではないと思いますよ。