はてなキーワード: ライトノベルとは
イラストレーターなんだが、客にAIイラストを出されて「こんなテイストでお願いします」と言われた。
仮にもプロのイラストレーターに対して、AIイラストの真似をしろと?
ブチ切れたんだが、反論してきやがった。
そもそもAIイラスト技術というのは、膨大なデータベースからAIが学習をして、命令に沿ったイラストを出力するものだ。
それはもちろん数多の絵師たちの創作物を無断で剽窃しているわけで、それが問題なのは分かっている。
商用利用に使ったのなら権利侵害になるのはわかるが、今回はイラストの方向性を具体的に指示するために用便的に使ったわけで、金銭の授受が発生したわけでもない。そこになんの問題があるの?
むしろ使い方としては正しい。
そもそも、イラストの世界では具体的にキャラ名を挙げて、これに似た感じに描いてくださいというのは日常的に行われているよね?
その対象が「特定のイラストレーターの特定のキャラクター」から「大勢のイラストレーターのデータから出力された平均値的なイラスト」に変わっただけで、本質は何も変わらないでしょ?
(これは例えばゼロ魔のタバサのようなキャラを注文する時に、参考資料として綾波レイを挙げるような行為。パクれという指示ではないが、具体的に方向性を指示する内容として、イラスト界隈ではほぼ100%行われているのは事実)
(今回はライトノベルの挿絵だけど、イラストレーターは仕事のたびに本一冊読んでなんていられないので、本文は読まずに描いている。なので具体的なビジュアルを大まかに指示してもらわないと仕事ができない)
AI絵を真似してトレースしろっていうなら侮辱だけど、キャラクターの方向性の参考資料として渡しただけだし、むしろこっちとしてはパクリと言われるリスクが減って望ましいくらいだ。
それが侮辱に当たるんだったら、今まであなたが受け入れてきた「参考資料」も、あなたに対する侮辱に当たるんじゃないの?
ってことらしい。
「じゃあ君は他のキャラクターを参考資料に挙げたら、それを丸パクリするつもりだったの?」
「だったらそんなイラストレーターに提供する参考資料としては、なおさらAIイラストを送るのが適切だったよ」
とか捨て台詞言ってきやがった。
書いてて腹立ってきたから寝るわ。
指輪物語(The Lord of the Rings):1954年。
小説、映画。それまで妖精として使われていたエルフ、ドワーフを亜人類として登場させたファンタジー小説の原点といえる作品。
ホビットの名称は権利関係のため他の作品では使われなくなった。
ダンジョンズ&ドラゴンズ(Dungeons & Dragons、D&D):1974年。
世界最初のRPG。テーブルトークという紙とサイコロを使い会話で遊ぶスタイル。人間、エルフ、ドワーフなどの種族、戦士、魔法使い、僧侶などの職業がある。
ロードス島戦記:1988年。ライトノベル。パソコンゲーム雑誌「コンプティーク」に掲載されたテーブルトークRPGのリプレイから派生した
日本のファンタジー長編小説。ディードリットはエルフのパブリックイメージと言えるキャラ。
ウィザードリィ(Wizardry):1981年。コンピュータRPG。3Dダンジョン探索型ゲームの原点。転送失敗や蘇生失敗でキャラが消えるペナルティがある。
ダンジョンマスター(Dungeon Master):1987年。コンピュータRPG。魔物を食べる要素が登場。パソコンゲーム雑誌「コンプティーク」でコミカライズが連載されていた。
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(6) undefined. https://www.amazon.co.jp.
何かあればすぐセックス、悩めばセックス、若いセックス、熟女セックス、セックスセックス。
思春期の少年かよ、そんなにセックス好きなら官能小説賞でも作ってろや。
夫婦生活もカップルも、セックスしてるのは一緒に居る時間の10分の1くらいにも満たないのに、なんで小説の方がセックスセックスなんだよ。
お前が感じている「面白さ」ってのは、文学としての「面白さ」じゃなくて、実は他人のセックスを覗き込む「面白さ」を「文学」だと勘違いしてるだけじゃないのか。
若いうちから賞を手に入れて、小説家としてのキャリアを進んだ人間が身内だけで評価してるから、もう文学じゃなくてただの貴族の暇つぶしなんよ。内容が光源氏で終わってるんよ。
文学賞とったら人生あがり、インタビュー受けるか旅行行くかしかやること無いから、大学生くらいで人生経験が止まっているのよな。
だからセックスとモラトリアムで文学が終わってんのよ。俺らはとっくに大人になってんの。
どの芸術分野にも、強すぎるが故に行うのが「無粋」として行われるものが存在する。
お笑いで言えば下ネタ。料理で言えば味の素、少し昔ならデミグラスソースなんかそうだ。
効果的で完成されたものは、芸術を画一化し進歩を止めてしまう。
ここ数年の「文学」はその無粋を行いすぎている。
第三者から見れば糞詰まんねぇ身内ネタを有難がっている。周りはとっくに飽きている。
銭湯に描かれた富士山のように、見ていて恥ずかしくなってくる。
大学の学部選んだ時に漠然とあった好奇心はもう全部使い切っているのに、未だに分からないことだらけで目眩がしてくる。
会社のやってることもなんだか他所と色々違うみたいだから転職してリセットした所で良くなるとは思えん。
ただただ金と時間を交換しているだけなのに、どんどん責任は重くなっていく。
テレビゲームのボムみたいな感じで「とにかく助けてください!」でどうにか出来る年齢じゃなくなってきた。
というか自分がそれをやられる側だ。
頼んできた側の勘違いで実際には簡単なことだった時、物凄いホッとする。
いざ自分がやられる川になったら、俺の時間を奪いやがってなんて気持ちが湧き上がるんじゃないかと思っていたけどそんなことはない。
もうとにかく一番怖いのはチーム全体で死にものぐるいで戦わないといけない怪物の発見報告がやってくることなんだ。
昔は後ろの方でビクビクしながら最前線のサポートだけしてればよかったのが、自分が突っ込んでてよく分からんまま口に手を突っ込んで一か八かでトドメをさせないかとアレコレやらされる。
もう嫌だ。
趣味も完全に上手く行ってない。
もう全然楽しくねえ。
膝悪くしてからはスポーツは怖いだけで全然楽しめなくなって、足に負担賭けないようにビクビクしながら筋トレだけやってる。
ゲームも全体的に飽きてきて、大作のとにかく先が見えない感じはもうかったるいし、かといってインディーズのアイディア勝負もちょっと齧った所で昔やった何かと比べてすぐに飽きてしまう。
昔は存在価値の分からなかった「何だか良く分からないものに触ってあっという間に終わってしまうゲーム」の価値が分かるようになってきた。
とにかくアイディアだけサクっと味わえたらもうそれでいいんだって状態なんだ。
映画やドラマも展開は一通り見飽きてるせいで集中力が落ちて話が追えない。
ていうか自分が自分の思ったよりも頭が悪いらしくて難しい話をちゃんと分かろうと思ったら画面に齧りつかなきゃいけないってことを直視できない。
画面の中のテレビショーをちゃんと理解するために必死に画面に食い入ってそれだけやるって人生の使い方がなんだか凄く惨めでやりたくない。
映画館に行って集中して見てたはずでも話が分かってないことが多い。
見終わってから他人の感想を読んで自分が全然話を勘違いしてたことに気づいたりする。
なんだか惨めだ。
私生活も荒れてきて、たまに掃除や睡眠をしっかりやろうと思いつくことがあるけど、そのブームがいつの間にか去って気づくと汚い部屋で夜更かししていることが年の半分ぐらい。
体は膝以外もボロボロで、歯医者で歯石取ってもらってるのにいつも口の中がネバネバしてるような感じとか、ふとしたときに嗅いだ服の匂いの加齢臭みたいなのとか、そういうのもう全部辛くなってきた。
バイキングじゃ全然食べられないのに何でもない日にたくさん食べまくってしまい次の日は夜まで何も食べられずに過ごしたりするような、体のコントロールの効かなさがいろんな所に起きてる。
結婚式や葬式以外でしか合わない従兄弟が今何やってるのか時折気になって、そういやアイツらはこっちよりも大分器用に生きてた気がするなと嫌になる。
人間関係の健全なあり方みたいなのを身に着けられずに来たからとにかく人間と関わりたくない。
いい感じに見下しあえたら友達になれて、一方的にこっちが見下してたら関わりたくない相手、逆に相手から強烈に見下されていると感じたらそのときも逃げていく。
人間が他人と自分を比べるっていうのは当たり前なんだけど、そこにおいて尊重しあうっていうことが道徳的な正しさの上にしか存在してないような感覚がある。
もうなんか人生全部が辛い。
末期がんの患者がモルヒネがいい感じに効いてる時の穏やかな気持ちの中で「じゃあ自分の人生にどういう結論をつけていくか、頭の中だけでも整理してから終わらせたいなあ」と考えているような状態の中をもうずっとずっといつまでも生きてきた気がする。
そこから突然、なにかが変わって人生が好転しだす可能性を信じてた。
世の中じゃこういうのを「人生が始まってることに気づいてない」みたいに言うらしいな。
いつの間にか始まっていた人生がいつの間にか終わっているただそれだけなんだってことを納得しておけばいいっぽいのは分かってる。
生まれた家とか時代とかDNAとか子供時代の過ごし方とか就職先の選び方とか人間関係とかそういうのにたらればを持ち出すのは無意味だってことも分かってる。
少なくとも生まれてきた瞬間に決まるものについてタラレバを考えるのは無駄だ。
「魂の実在を信じているのか?異世界転生するライトノベルみたいに?」って話だ。
科学を進行しているので魂や輪廻転生は信じてませんって考えてるくせに、どこかで「もしかしたらこうだったかも知れない自分」を空想しているのが本当に無駄なんだ。
「生まれ変わったら今度はこういう風に生きよう」みたいなこと館上げるのは、タイムマシンで意識だけを過去に飛ばせる実験がどこかで成功したのを聞いてからにすればいい。
今の時代に生まれた自分たちの意識において、過去に飛ぶとかやりなおすとかは無関係なことなんだ。
空想の中でそれをやって、空想の中で満足するだけならまだしも、そうやって作戦を練ることで人生が好転する可能性を信じているならそれは科学を進行している人間として実に奇妙な状態になる。
なんたらの賭けの亜種として、もしもそんなことが起きる可能性があったならちょっとぐらいは準備しておくのもアリかもって範囲ならまあいんだろうが。
でもなんか自分含めて皆があーだこーだ考えすぎている気がしてならん。
今の自分じゃなかった可能性の今の自分を考慮して何の意味があるんだろう。
「もしも3月31日生まれじゃなくて4月2日生まれだったら学年一位だって取れたかも知れない」みたいに考える時、そもそもその2日違いの生まれの間に意識は全く別物へと変容していて、今の自分とは別の魂で動く別の人間だったはずなのに。
肉体より先に魂がこの世界にあると信じるならそれでもいいが、それならもういっそ割り切って「ハズレを引いたなりになんとかやっていくループ」として今の人生を生きればいいのに。
前世の記憶が引き継げたりしないルールっぽいのは明白じゃないか。
異世界に行った時に備えて現代知識の勉強をするために現代社会を生きるのは完全に無駄だ。
魂の実在を過剰に信じてたらればに執着して生きるってのはそういう生き方だ。
って頭で分かっているのにそういうのに縋ろうとしている自分に毎日出会う。
どうしようもなくなった人生に逆転のワンチャンスを与えてくれるなにかを信じて。
こうやって自分を説得しまくってもまだまだ魂の実在を信じて脳がタラレバを考える。
だってもうこんなどうしようもない人生を今から立て直そうとするのはしんどすぎるから。
本当にしんどいんだ。
時代遅れの大阪万博なんてやめたらいいのに――来年90歳、筒井康隆が見る世界、そして日本 #昭和98年https://news.yahoo.co.jp/articles/e73eadd19071c0f48ce1a13294ea96c8d1323de8
好きな人は知ってて言ってないだけだと思うけど、筒井康隆は炎上商法が得意なので新刊発売に合わせてこんなことになっている。
EXPO'70の頃は日本SF作家協会で盛り上がっていたんだよ。たしか誰か運営に関わってたような?
ライトノベル(ジュブナイル小説)だとか、メディアミックスだとか、日本に関してはこのおじさんあたりがスタートなんだよ。
トリスの絵だったんだよ。
忘れないでくれよ。
実在人物を名前そのままにガチガチに小説にして出版してそれをクラスメイトに読まれるって
まあ現実でも無くは無いだろうけど相当珍しいだろうし、自分がやられたら最悪な気分だろうけど。
って言うのもTwitter世代ではツイ廃みたいな、内心全部Twitterに書くような、ツイート数数十万みたいな子も居て
そういうのをしこたま読んでから本人と関わるって言うのは、本作の細野に通ずるところがある。
というのも自分も似たような恋愛をした事があって、自分には須藤や広尾のような都合の良い友人はいなかったので、いわゆる「飛ぶ」ような形で終わってるんだけど。
そして今もそれを後悔しているのを、思わぬ形で本作に引きずり出されたなぁ。
ネット上では細野の心情や行動は現実味が無い、無理がありすぎる等と書かれているけど個人的にはめちゃくちゃ共感出来た。
ライトノベルなのである程度若い人に向けた作品だと思うけど、twitterが名前変わってあんな事になり、そうじゃなくてもSNSがオワコン化しつつある中で、今の若い人が同じような経験をしているのだろうか。
SNS自体はインスタとか色々あるけど大量投稿するような感じでも無いし、今時Xになんでもかんでも1日100postするような高校生が居るとも思えないが、どうなんだろう。
anond:20231015151001 おっさんたち、昔どうしてSFもの・宇宙ものが流行ったか教えて
じゃあいま30代、そのときは60歳を超えてるであろうあなた方はどうやってこの質問に答えるのでしょうか。
ドラゴンクエストがその発火点であることは間違いないが、その手前の、ウィザードリィとウルティマが起源であるし、さらに遡ったらTRPGになります。もっとも少数派だったでしょうが。
ドラゴンクエストにより、家庭用ヴィデオゲームにおけるロールプレイングゲームが一般化し、その「ついでに」剣とファンタジーの冒険が一般化したんですよ。両者は不可分であるけど、RPGという新しいゲームを遊ぶことができるというのが強かったのです。
それまでにファンタジー世界の物語は知られてはいました。でも、メインはSFだったところに「知ってるひとは知っている」というスタンスでファンタジーという分野は生息していたのです。
SF :サイエンス・フィクション HM :ミステリ(昔は違った記憶があるけど思い出せない)
FT :ファンタジイ
書籍分類記号のFTは本棚にかぞえるほどしかありませんでした。
もちろん、グインサーガシリーズや指輪物語のように熱狂的に支持するひとがいたし、通ぶりたいひと(あるは本当に好きなひと)は「やっぱり指輪物語が~」なんていってた記憶があります。
「ネバーエンディング・ストーリー」や「ダーククリスタル」などヒットした映画もありました。だから、世界観に潜在的な知識はあったんですよね。あとはディズニーや昔話もそうですね。
ただ当時(昭和末期)まではSFが強かったのです。というのも、あらゆるジャンルに不思議な要素が紛れ込むとそれはSFということになっていたんですよね。
筒井康隆、星新一、小松左京といったSF御三家も、ボーダー上のジャンル不特定な微妙な作品をSFとして発表していたのです。
それは今後のRPGにも影響を与えるのです。というかオタク文化(から派生してエンタメ全般)全てにわたり垣根が曖昧になっていく「なんでもあり」になっていくのです。
「なんでもあり」はパロディや二次創作も強く影響を与えているわけですが。
そして、そもそものRPGの始祖であるウィザードリィにしてもTRPG「ダンジョンズ&ドラゴンズ」のパロディ要素が多々あるそうです(TRPGはやってないいので)。
ファミコンにより活性化し一般化したヴィデオゲーム。アーケードのゲームとPCからのゲームより、家庭用のデバイスでより洗練されたゲームを、そしてより多岐のジャンルへと裾野を広げた末に飛び出てきたのがドラゴンクエストなどの剣と魔法のファンタジー、さらに様々な要素を加えたファイナルファンタジーなどのRPGが一気に強いゲームジャンルになっていきます。
そこで培われたフォーマットを他のメディアでも更に発展させていくわけです。
そしてひとびとは剣と魔法って宇宙モノよりもこすりがいがある!という発見をします。
それがさらなる発展を生み出すのです。
ここらへんの発展先はライトノベル発が多いように思われますが、もうしわけないが観測してないところですので曖昧です。ウィザードリィやドラゴンクエストのノベル化が大きいような気もしますが曖昧です。ゲームには興味ありましたが派生文化には興味なかったのです。
と、ざっくりとした歴史観があるのですが。
これだと、海外でもファンタジーが流行った理由がもうひとつわからないんですよね。ドラゴンクエストは海外ではそんな流行らなかったそうだし。まあ、スーパーマリオブラザーズも十分ファンタジーな世界観ですからそんなおかしくもないんですがね。ゼルダの伝説は海外でもヒットしてますしファンタジーの知名度アップには貢献してそうです。でも決定打というには弱いような。
ということで
アスミカケル2話の感想……の前に、いくつか注意点とか色々。(第1話の感想にも追記しました)
【私の感想における注意点】
悪い言い方をすれば、何も考えずに脳死で書いてると言っても過言ではないです。
特に何が良いとか悪いとか考えず、ただ見て感じたものを書いてるだけなので、場合によっては褒めてるように見えたり、逆に貶してるように見えるかもしれませんが、どちらでもないです。
赤い色を赤いと言うようなレベルで稚拙な見たままの直観を出しているものと考えて頂ければ幸いです。この山は大きいなぁとか、そのレベルです。
たまに「あっこの川、深いッ!」みたいな多少の感情は乗るかもですが、基本フラットな自分にとって快不快を問わず感情が乗るのは良い作品だと思っています。よろしくお願いします。
上記の通り脳死で書いてるため、連想ゲーム的に他作品(他の漫画とかアニメとか)の内容やセリフなどを引用したりする事がありますが、比較のためではありません。
つい「この人の髪型ハンバーグみてーだなぁ……」みたいな事を言うかもしれませんが、その人やハンバーグを貶めたり、逆にそれを理由に名作と引っ付けて評価を上げるような意図とかも無いです。皆無にして絶無です。
そのような比較や同一視は両方の作者や作品に対して失礼であり、あくまで自分の中では全く別のものだけど連想してしまったに過ぎないので、あくまで個人の感想である事をご留意して頂けませば幸いです。
③同様に、何かしらキャラや演出などについての評価をする事もありますが、それ自体は特に作品や作者の評価ではないです。
もし仮に私が「このキャラ不快だなぁ」と言ったからといって、それが即ちその作品や作者が不快という事でもないです。不快なキャラを出すことで、相対的に他のキャラの株が上がる事もあります。
世の中にヤベー人間がいるからといって、即ち世の中がヤバい訳ではないように。その作中世界や世界の中の"もの"と作品との評価は全く異なるものであり、なんなら邪悪な人間しか出てこない邪悪な世界の作品でも面白い場合もあるかと思います。
世界最高のコントラバスと世界最高の尺八奏者と世界最高のDJがコラボしたところで、どうひっくり返っても「世界最高のジャズ」が生まれるなんて事はないように。要素同士の相性が良くなければ作品はチグハグになります。
演出とか構成とかストーリーとか諸々の要素が全て満点でも、それらが噛み合ってなければ作品として成り立たないように、あくまで要素と作品全体の評価は別物であると認識して頂ければ助かります。
④また、自分の目線はどちらかと言えば創作者目線気味で「自分が作者だったらこうするかなぁ……」みたいな事を考えがちな傾向がありますが、だからといって作者へのリスペクトが無いわけではないです。
そもそも自分は創作者というより鑑賞者なので、岡目八目で「ああすれば良いのに」「こうすれば良いのに」と言ったところで自分自身が実際にそれを出来るかどうかと言えば答えはNoです。
あくまで読者としての視点でしかないため、実際に締め切り(納期)通りに同等以上のものを仕上げれるわけではないですし、実際その作品と同じテーマを自分が表現するとしたら、それは作者の出す作品とは全く別物になると思います。
素人や読者の視点というのは独り善がりなものであり、あらゆる創作者には個性があるし個々の事情もある。その全てを重んじ、リスペクトしていきたいと自分は考えています。
【感想本文】
という事で、とりあえず電子版 週刊少年ジャンプの125pより、アスミカケル2話(Round.2 取り柄)の感想をじっくり書いていきます。
最初の2p。例によって獏じいちゃんの稽古相手をする主人公の二兎。即落ち2コマかよってレベルでやられる主人公コマ連続。しかし、デイサービスを利用してる物忘れ気味な祖父の稽古相手というのも……当人たる獏じいちゃんが普通に強いから良いけど、骨とか筋肉を痛めるだろうからと止めるのが一般的ではあるよなという脳内ツッコミが入る。
ただまあ現実問題、脳機能的にこそ要介護認定を受けるレベルだったとしても肉体が未だ頑強な武人だった場合、言うことを下手に聞かないと逆に暴れて怪我人が出そうなので、そういう意味ではライフワークなのであろう武術を続けさせるのは悪いとは言い切れないか?問題は第一話の時点で他害が出てる事なのだが、まあ恐らく正当防衛というか私人逮捕みたいな状態だったのだろうと解釈する。次。
一転、呆けた顔でデイサービスに向かう獏じいちゃんと、介護に興味を示す二兎。そして学校シーンでの前話での不良やジムの話。主人公が基本的に情報でも感情でも何でも抱え込むタイプなのが相変わらずである。次。
ヒロインの大牙さん現る。コロコロ表情とかが変わるので、こういう格闘技系のヒロインとしては異色ながら魅力があるのも不思議だ。逆に言うと人の印象が時々で違うリアルさがあるとも言えるか?まあひとまず、こういうヒロインでも誰でも何かしら才能を見初められる系の話はスポーツ系には割りと見られる傾向なように思う。
自分の知ってる作品で言えば「どがしかでん!」とか「タカヤ -閃武学園激闘伝-」あたりも基本、主人公がヒロインなり師範的な誰かに何かしらの才覚を見初められて別の世界に飛び込んでいく……というストーリーラインが出来てるように思う。Web小説界隈で言う「転生もの」とか「追放もの」的な言い方をするなら、「見初められもの」とでも言うのだろうか?
実際問題、「劣等生だけど実は最強」みたいな作品でもヒロインが主人公を褒めちぎったりするので、ティーンエイジャー向けの作品では異性に何かしら見初められたり惚れられたりというのは、一種のモチベーションとして成立するのだろうと思わなくもない。作品の閲覧継続にも繋がるのだろう。まあ何でもよい。次。
主人公がグラップラーだからといって開幕グラップリング勝負を挑むヒロインって正直どうなん?(正直すぎる感想)
まあ総合格闘技で組技ありきな以上、組技それ自体に抵抗は無いとしても……その、羞恥心とかですね。ちょっと変な人で済ませるな。
主人公が自分のコンプレックス理由に乗らないのは良いのか悪いのか……そして今回も示唆コマで終了。これが連続で来るので意外性とか意表を突く感じが本当に無い。もうここまでくると、この良くも悪くも丁寧に次のページ展開を示唆していくのは作風として以降スルーしていこう……次。
ヒロインが野望を示唆したり無駄なカリスマ性を発揮しつつ、ようやく主人公が「ちょっと変」から「変な人」に認識をシフトする……遅いよ! でも流されてジムまで来る主人公。
こういう「主人公を引っ張っていくタイプのヒロイン」というと、先程に書いた2作品以外では他に思いつくのがライトノベルの「アリソン」(時雨沢恵一/著)とか『涼宮ハルヒシリーズ』(谷川流/著)しかパッと思いつかないが、どれも初出2000代の作品。ヒロインが主人公を引っ張っていく準主人公というか進行役になるのは2000~2010年代の主流なのだろうか?
作者の生まれが1983年と、その年代の創作物に触れる機会が多そうなのを鑑みるに、まあこの当たりの流れを引き継いだ作品を作るのは不自然ではない。だからなのか、今回の作品は火ノ丸相撲のときと違ってヒロインの描写にかなり力を入れている感じはする。
まあ、どちらにせよティーンエイジャー向けの作品は主人公も同年代かつストーリーの軸も成長譚である事が多いため、こういった準主人公的な役割の人物もセットでないと話が進めにくいというのもあるのかもしれない。この場合、主人公の二兎は自らの精神的な弱点に向き合い、克己していく必要がある。まあ流されなくなるのに期待。
次……と言いたいところだが、一旦ここで〆。
※今後の展望……
ひとまず今は無限に思った感想を書き連ねていくだけですが、今後は集英社運営のWeb漫画投稿サイト「ジャンプルーキー!」での編集部バッジに倣って、それぞれの話毎に「画力」「構成力」「ストーリー」「演出力」「キャラ」「オリジナリティー」といった要素や、それに加えて(その話数時点での)総合的な感想・評価などを書いていければ良いなと考えています。
というのも自分は創作者志望なところがあり、色々な作品を細かく評価したり分析する視点を養っていこうと考えているからです。無論、養われたからといって実際に創作物を作っていかなければ実力はつかないので、あくまで客観的に創作を見る訓練という感じですが。
また、感想を書いている作品を文字だけで評価するのも難しいところがありますし、他の創作物から台詞等を引用する際にも同様に、画像を原作なりから引っ張ってこれそうなら出していこうと思っています。その際は「作品名(作者名・話数や副題、ページ数)から引用」といった部分を明確にしていこうとも考えています。
(引用する必然性、自分の文章と引用部分の区別や主従関係の明瞭化、引用物の出所を明示し修正等を加えない事など。著作権法に従った引用をしていきたく存じます)
他にも何かアップグレードできそうなところはしていきますが、まあ無理のない範囲でやっていこうと思います。それではまた明日以降に……!
芸術性重視はともかく、「文章表現そのものの持つ可能性を追求した」なんて前提はそもそも無いぞ もちろん文章表現の芸術性も基準ではあるが
そもそも純文学は日本文学独自の概念なので海外の作品は含まれない
近代文学が発展していく中で、わかりやすく大衆化していくことを拒んだ作家たちの歴史、の先に位置する作品群を純文学と呼んでいる
ただ純文学の流れの中でSFみたいなジャンル小説の手法を取り込んでいったこともあって、じゃあそれは純文学なの?違うの?ってのも論争を呼んできた
結局は批評家の共通認識や出版レーベルによってカテゴライズされてる現状
「文章表現そのものの持つ可能性を追求した芸術作品」みたいな定義だっけ?
だとすると俺が読んだことがある純文学は「アルジャーノンに花束を」と「虎よ虎よ」だけかなあ。
え?じゃあ純文学ってなんだ?
恋愛ドラマや戦争映画でサブテーマに人種差別が入ってきてるような感じ?
純喫茶は「純」=「酒の力に頼らずソフドリと飯と雰囲気だけで勝負してますよ」って意味だっけ?
じゃあ純文学も「純」=「内容に頼らずに文学性だけで勝負してますよ」じゃないとアウトなんか?
チョット調べたら「こころ」や「よだかの星」も純文学らしいね。
でもどっちも「"潔癖症的な自己憐憫&自己否定"vs"自己満足的な懺悔&自己破壊"のタッグマッチ」がメインテーマであって、文学としての表現力はそれを盛り上げるための裏方業務って感じじゃね?
裏方凄いなーって所で盛り上がるときがあるのは分かるよ。
サマフェスのスピーカーの仕組みがバズるとか、競馬の名実況で思い出トークが始まるとか、でもそれってやっぱりサブジャンル的な楽しみ方だと思うんだよなあ。
それとも「SF」や「歴史小説」や「架空戦記」みたいに単なる舞台設定の一種なのか?
いやそもそもの考え方が違う気がしてきた。
小説って作品のジャンルを何によって定義するのかが他のコンテンツよりも自由すぎるんだな。
あとテレビゲームの「アクションアドベンチャー」とか「MMOFPSRPG」みたいな合体型のジャンル表現が発達してない。
分類する人間が漠然と一番濃度の高い要素で定義してるだけなんだな。
そうなると「純文学」って言われる作品の傾向がなんか見えてきたわ。
「他にメインジャンルになれるような要素が強いものがなく、かつ純文学のカラーが強い」って場合に「純文学」の棚に分類されていくってことなんじゃねえか?
「文章表現そのものの持つ可能性を追求した芸術作品」であることは「純文学」の必要条件でしかなく、「文章表現そのものの持つ可能性を追求した芸術作品」だったら全部「純文学」になるわけじゃない。
逆に「純文学」と呼ばれている作品はすべて「文章表現そのものの持つ可能性を追求した芸術作品」であるってことか。
すげー地味なオチだな。
しかしアレだな、こうなると「純文学」ってジャンルに区分されるってのは「それ以外の要素が特定のジャンルに含まれるには弱いね」を意味しているってことだな。
「恋愛小説」や「ライトノベル」っていうジャンルに区分けされるのと「純文学」ジャンルに入れられるのどっちが作者的に満足が行くのだろうかってのは永遠の謎だなあ。
「アルジャーノンに花束を」にしたって文章によって主人公の知能状態を表現しているのは凄いんだが、それを通して描かれる差別問題、知性の絶対性に対する問題定義の方もちゃんと読み込んでやらんとアカンやろとは思うんよな。
絵画の世界だと手段そのものが目的になっていることは結構あると思うが、文学の世界でそうなってる作品ってあんま多くなさそうなんだよな。
結局求めているのは自分が切り取りたい世界観に合わせたより適切なレンズやフィルターであって、それが凄いねって褒められたとして作者的には「いやそれを通して見せたかったものの方の感想言えよ」なのかも知れねえなあ。
メイルゲームを知らない人に、辞典的な通り一遍の説明ではなくその魅力を説明するために書いてみた文章なんだが、
知らない人にわかりやすいか、興味を持ってもらえそうか、みなの意見を聞いてみたい。
メイルゲーム(PBM)とは90年代にアナログゲーマーの間で人気になった、郵便を使った物語形式の大人数参加RPGの一種である。最盛期には1ゲームで5000人以上の参加者を集めた。
メイルゲームは主催が用意した世界にプレイヤーが自分の分身になるキャラクターを登録するところまではインターネット上のオンラインMMOに似ているが、メイルゲームでは当然リアルタイムではなく、プレイヤーは1か月に一回の締め切りまでに自分のキャラクターの行動を所定の行動計画書に記述して運営会社に送ると、運営会社のゲームマスターたちは各PCの行動同士を突き合わせ、行動結果を判定して、ゲーム中でのPCの実際の行動と生じた事件を小説形式(リアクションと呼ばれる)にして各プレイヤーに返送する。
これを一般的に12回(12ターン)繰り返して1年で一つのストーリーが終了するのが一般的だった。
メイルゲームの(MMOと比較した)特徴としては以下の点があげられよう。
①時間は拘束されないが期間が拘束される。
1ターンは通常1か月で、プレイヤーは行動結果小説を受け取ってから2週間のうちに情報を集めて仲間と行動計画を相談し、締め切りまでにPCの行動を決めなければならず、かなり忙しい。とはいえ、イベントでもない限り時間配分は融通が利き、拘束されることはない。行動提出した後は、今度はマスター陣が2週間のうちにPCの行動判定をして、小説化して、発送する。その間、プレイヤーは特にすることはないのでのんびり待つことになる。
しかし、一度参加するとゲームを中断しない限り1年間はゲームに時間を取られることになる。
②キャラクターの取れる行動にシステム的な制限がない
MMOであれば、PCがゲーム中で取れる行動はある程度決まっている。自由度が高いゲームでもキャラクターは事前にシステムに実装されている行動しかとることはできない。
しかし、メイルゲームでは「状況や能力が許す限りで、行動用紙に書ける内容であれば」大抵の行動はとることができる。チームを組んで複雑な行動をしようとすることも、新興宗教を立ち上げようとすることも、敵の親玉を口八丁で騙して罠にかけようとすることも、地球を担保に異星人からロボット兵器の購入を試みることもできる。
ただし、その行動が成功するかはマスター陣の判定次第。行動内容が目的達成にはに不十分と見なされれば失敗するし、多くのプレイヤーの行動が相互に影響を与え合うため、時に誰も想定しなかった結果になることも多い。
このように、問題解決において他のプレイヤーとの根回しや行動の創造性がかなり影響する。
③情報が分散して提示される
返送される小説はそのPCか、同じグループの視点から知りえることしか書いていない。同じ場所にいて同じ事件に遭遇しても、そこに書かれる情報は大きく異なる場合もある(あるバージョンでは突然起きた正体不明な事件が、別のバージョンではその内幕が詳細に書かれているなど)。
プレイヤーは自分の受け取った情報を他のプレイヤーに伏せておくこともできる。が、その場合、プレイヤー同士の情報交換に参加することが難しくなる。どれだけレアな情報であっても、全体からは局地的な一事件の情報でしかない。なので、ゲーム全体の動向を知ろうと思えば情報交換に参加する必要があり、自分が受け取った情報をどこまで・誰に公開するかが重要な駆け引きになる。
ゲームで必要な最低限の共有情報はプレイヤーに毎月送られる冊子に書かれているけれど、それも「真実」が書かれているとは限らない。真実を知るにはやはりいくつものバージョンを収集して突き合わせるしかない。
特に参加者が多く情報戦重視の遊演体のゲームでは、1ターンに200バージョンを超える種類のリアクション小説が発行されていた。このため、2週間の「プレイ期間」には速報同人誌が発行され、情報収集やプレイヤー同士の作戦会議のためのプレイヤー主催のイベントが盛んに行われていた。
④全体を貫くシナリオとタイムリミットがある
MMOはゲーム内ではシステムアップデートでもない限り大きな変化はないが、メイルゲームでは12ターンの間に解決せねばならない問題が設定されていて、さらにそれが最初は隠されていることが多い。そうした課題は一人では解決不可能で、多くのPCの協力が必要になる。プレイヤーたちは期間内に、自分たちそれぞれの課題を解決したり足を引っ張り合いながら、隠れた課題を見つけ出して集団で解決することを求められる。
例えば90年の「蓬莱学園の冒険!」では、巨大学園都市に新入学したPCたちが、最終ターンで「地球空洞世界」の危機と学園独立騒動を解決して終わる。
わずか12ターンの間にゲーム構造が変わってしまうほど状況の変化が速いことも、情報収集が必要になる原因である。
この「シナリオ」は予定調和的なものではなく、隠された大まかな仕掛けのようなもの。プレイヤーの行動次第でどんなストーリーになるかは全く変わってしまう。
なので、もしプレイヤーがこの問題解決に失敗するとバッドエンドも普通に発生する。93年の「夜桜忍法帖」では人類がほぼ絶滅し阪神タイガースが世界制覇、95年の「鋼鉄の虹」では対立し戦うプレイヤーの所属国が両国とも第三国に攻め込まれ滅亡した。
⑤PCのゲーム内社会への影響力が大きい
数千のPCが相互作用するゲーム世界は一つの社会である。MMOでもプレイヤー同士の相互作用はあるが、メイルゲームはそれに比べても相互作用の強さや範囲はかなり大きい。
さらに、NPCがいる。メイルゲームのNPCは「むらびと」や「モンスター」ではない。ゲーム上の重要キャラクターも操作するのがプレイヤーかゲームマスターかが違うだけで、PCの動向を観察し、時に主体的にPCに関わろうとしたり、PCの影響で行動を変えたりする。
このため、自分の考えたアクションによってゲーム状況に大きな影響を与え、重要な情報を得たPCは、数千人のプレイヤーに知られた「有名キャラクター」に成り上がることもよくある。中には総集編の表紙の中央を飾るほどの出世を遂げたPCもいた。
MMOだと(ブロントさんのような「話題になるプレイヤー」はいても)ゲーム世界の行く末に影響を与えるほどのPCはまず出てこない。
Twitterもない当時ではこのレベルで自己実現欲求・承認欲求を煽る娯楽はなかなか無かった。
もっとも、その地位や影響力は一時的なもので、1~2回的を外した行動を取ってしまうと失われる流動的なものにすぎない。しかし、それが余計に競争心や射幸心を煽ることになった。
こうした「メイルゲーム」のプレイ感覚は、今なら成田良悟のライトノベル小説(「バッカーノ!」「デュラララ!!」など)を読むとわかりやすい。実際、「バッカーノ!」は遊演体のメイルゲーム「こうもり城へようこそ!」のサブストーリーの一つを元ネタにしている。
ホビーデータや遊演体でもこうもり城以降は③④⑤をそれほど重視していないとか、ネット88ははじめは小説型リアクションじゃないってのはわかっているんだが、まあ許してほしい。
かつての携帯小説のように、ただ一時代にライトノベルと呼ばれる小説群があったというだけ。
似たような小説は別の呼ばれ方か別のジャンルで今後も生まれ続ける。
そもそも昔はライトノベルなんてものはなかった。しかし、今カテゴライズするならライトノベルと呼べる小説は昔からあった。ライトノベルと呼ばれていなかっただけだ。
これからの時代、紙の本という形は減っていく運命だ。本屋も減っているし、原材料は高くなっているし、日本人は貧乏になっているし、手軽に買えるものじゃなくなった。全然ライトじゃない。
でも電子書籍なら出版は簡単。フォーマットは割と自由。なんなら40ページくらいの短編を出版してもいい。そっちの方がよほどライトだ。
そして本は売れなくなったが小説投稿サイトのユーザーは増え続けている。投稿される小説の内容はライトノベル寄りのものが多いが、小説投稿サイトの小説はライトノベルとは呼ばれない。小説投稿サイトは連載形式で、書籍とは違うと認識している人が多いからだろう。
近頃平野君と神宮寺君の、というか脱退ジャニーズ関連のニュースが世間を騒がせている。
ジャニーズが卒業・脱退・解散する、というニュースを聞くたびに、私は手越のことを思い出して苦しくなる。
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なんでこのタイミングで書き起こそうと思ったかというと、前述のキンプリの騒動をはたから見る中で、そろそろ一度振り返ってみてみてもいいんじゃないかと思ったからだ。
というか、オルタネートを書いた加藤さんではないけれど、あの出来事から3年という長い月日がたって感情的ならずに思出せるようになって、でもこれ以上離れてしまったらきっと気持ちも記憶も色あせてしまうから、「今」が最初で最後のタイミングなんじゃないかと思った。
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何を話すかといわれると難しいが、結局のところ手越のことをどう思っているかというお気持ちと思い出をたどるための文章である。
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どこから話そうか迷ったが、時系列順で話すのが一番いいのかもしれない。
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なんか女子が騒いでるなあという感じで、当時の関心ごとといえばサッカー観戦、ポケモン、イナズマイレブン、受験勉強、ライトノベル、あとはおままごととかだろうか。
でもVS嵐も、イッテQも、地獄先生ぬ~べ~も、鉄腕ダッシュも見ていたし、キスマイの光のシグナル(ドラえもんの主題歌だった)も大好きだった。
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彼女は歌がうまくて、カラオケが好きで、そして増田担だった。彼女とカラオケに行くと、親友は必ずNEWSの歌を入れる。
当時4+FANの合いの手のリズムがわからなくて苦戦したのをいまだに覚えている。
友達が歌う曲をどうせなら一緒に歌えるようになりたいと思うのがカラオケ好きの性である。
親友に頼んでNEWSのCDを貸してもらい、聞いてみたのが多分2017年。
まずNEWSの歌にはまった。
アルバムを4つくらい借りたのでそりゃ一曲くらい好きな曲もできるし、テゴマスは当時から歌がうまかった。
歌番組の時に親友からアナウンスがあったので、時間が合えば見ていた。
当時日テレっ子だった私は、イッテQで手越を、everyで小山さんを知っていた。
気づけば親友からはテレビドラマやバラエティの番組情報のアナウンスも入るようになり、私はNEWSをしっかり好きになっていた。
親が厳しかったためにファンクラブは入れず、ライブも行けなかったが、私は私なりの最大風速でNEWSのことが好きだった。
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それから2020年まで、のんびりと、自分なりの距離感ではあったが「好き」を貫いていた。
2020年2月、NEWS LIVE TOUR 2020 STORYの当落発表があった。
2017年のNEVERLAND、2018年EPCOTIA、2019年のWORLDISTA、最後に2020年STORY。
4つのライブの頭文字をつなげると「NEWS」になるこの4作品は、通称「4部作」と言われるもので、NEWSにとっても、ファンにとっても思い入れの深い、大事な大事なライブだった。
「STORY(アルバム)」にはファンの将来の夢が収録された楽曲や、メンバーからファンに向けてつづられた思いのこもった楽曲、9人時代からの気持ちに言及するような楽曲、インタビューなどがふんだんに盛り込まれていた。
チームNEWS全員にとって本当に大切なアルバムで、私たちはSTORYのライブの成功を心から願っていたし、心から信じていた。
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様々なイベントの中止が決まっていった。
「来月にはこのパンデミックが収まる」と信じて駆けずり回ってくれた方がどれだけいたのだろう。
大きな会場を抑えてファンのために準備してくれていた。
ライブ直前のラジオ内で行われたマジカルバナナ的なゲームでは、「準備万端といえば?」「「「「STORY!!!」」」」と4人で口をそろえて言ってくれていた。
河川敷をランニング中、桜の舞う中で聞いたその言葉を今でも覚えている。
しかし準備万端だったはずのライブは一公演一公演丁寧に中止を重ねていき、結局全公演中止になってしまった。
実はあの当時、ファンの間でうっすら「STORYが終わったらNEWSは解散or 何かしら節目を迎えるのでは?」という空気があった。
実際どうだったのかは本人たちに聞かないとわからない。
それでも、STORYに込められた気持ちはそれだけ大きかったのだ。
「この作品が最後なのかもしれない。そんなことはあってほしくないけれど、もしそうであれば、悲しいけれどきっとどうにか受け入れることができると思う。」
時が来れば必ず報われると思っていた努力が、世界規模の不幸によってぶち壊されてしまう気持ちは痛いほどわかる。
この辺は一回全員back number 『水平線』と 「入学から、この世界だった僕たちへ。」を聞いてきてほしい。
当時高校生だった私も何度も泣いた。
当時仲の悪かった母親に背中をさすられながら、夜中に号泣したこともある。
高校生活の中で最も大事な思い出になるはずだった最後の合宿が、文化祭が、体育祭が、すべてがなくなってしまうやるせなさに、どれだけ頑張っても結局行われなかったそれらにたいして、声をあげて泣くことしかできなかった。
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彼らは底抜けに明るかった。
少なくとも明るくあろうとしてくれた。
まあ彼らに救われたことに関して詳しく書こうとすると長くなるので割愛するが、ジャニーズWESTと出会ったことで私のジャニーズの世界は大きく広がっていた。
NEWSはびっくりするぐらいジャニーズ内での縦のつながりがない。
気がする。
あったらごめん。
小山さんと手越からちらほら後輩の名前が挙がっていたくらいで、残りの二人に関しては正直ほとんど思い出せない。
加藤さんは正門君と如恵留くんがまあ居るか?と思ったが、名前が出始めたのはコロナ後かもしれない。
少なくともグループ全体でかかわりの深い後輩グループみたいなのはなかったと思う。
NEWSしか見ていなかった時代、全員顔と名前が一致していたのは正直NEWSと嵐とTOKIOだけだった。
ジャニーズWESTはそこが大きく違った。
関西での縦の結びつきは、とんでもなく強かった。
WESTと仲のいいだれだれが出ているなら、時間もあるし見てみよう、という感覚で、芋づる式に「顔と名前とざっくり性格くらいまでなら把握している」程度のジャニーズが増えていった。
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とまあそんな時期、手越が飲んでた。
外で、女の子呼びつけて。
「ねーわ」って思った。
でもまあ手越だし。
そういうやつだし。
そりゃ謹慎くらいするべきやろうけど。
文春では退所報道とかもあった。
正直なところ不安も大きかった。
Johnny’s world HAPPY LIVE with YOUが発表され、NEWSが3人で出演すると知ったときは動揺した。
見るのが怖かった。
それでもNEWSが好きだったから、あとこれは余談だけど、同じ日の出演者がジャニーズWEST(推し)とHey! Say! JUMP(当時好きだった女の子の推し)だったのでその日の配信チケットを買わない選択肢はどちらにしろ無かった。
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泣いた。
それはもうボロボロ泣いた。
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「クローバー」:NEWSからファンへのメッセージソング、4人それぞれが自分のパートの歌詞を書いた。手越のソロパート前半は歌わず、後半は3人で向かい合って歌った。
「weeeek」:6人時代からずっと歌っているライブの定番曲であり、代表曲。
「UR not alone」:4人の代表曲。ライブの最後やアンコールで必ずうたわれる名曲。ラスラビの手越のソロパートはこちらも歌唱ナシ
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手越のソロパート部分を歌わないという選択をした三人を見て、三人は手越の帰る場所を守ってくれているのだと思った。
ほかの2グループがアイドルらしいきらびやかな衣装で華やかな曲を歌っていて、言い方を変えれば自分たちのファン以外の子たちにも楽しんでもらえるような、それでいて自分たちのファンにも愛を届けられるような、そんなバランスの取れたセトリを組んできたのに対して、NEWSははなからNEWSのファンと、それから手越のことしか見ていなかった。
状況が複雑な中、語ることを選ばなかったのかもしれない。
当然だろう。
でもそれと同じくらい、手越さんが一番輝くステージで、ライブという空間で、歌を歌うことで、私たちに、彼に、語りかけようとしてくれたんじゃないかと思う。
私は手越の部分の空席をあえて作るその演出を「3人は手越が返ってくると考えている、これはその表明である。何も案ずることはない。もう少ししたらまた4人のNEWSになる」と受け取った。
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違った。ダメだった。彼は帰ってこなかった。
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3人での配信ライブが行われた次の日、「18時半に手越に関する重大ニュースがある。おそらく退所報道である」という情報がリークされた。
昨日の配信ライブで得た確信なんてものはいつの間にか崩れ去っていた。
どうしてもその事実を受け入れたくなくて、夕方17時に布団に入った。
ただの現実逃避だ。
知るタイミングを遅らせたからと言って事実が変わるわけではないのに。
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朝起きて、ニュースを見た。
不思議とこの日の朝からの記憶はあいまいで、もしかしたら無意識で封じ込めてしまっているのかもしれない。
泣いた気がする。
気がするだけだ。
3人の側があれだけお前の居場所を作って待っていてくれたのに、なんて不義理なんだ。
あれだけ一生懸命準備してきたものを放りだして「今」退所しなきゃいけない理由があるのか。
事務所じゃできないことって何なんだ。
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でも結局彼がわからない。
今書いている恨みつらみが、どの時点で私の中に生まれた感情なのかも正直わからない。
「やめたくなかった」「まだ続けたかった」という発言も散見されていた時、「じゃあやめなきゃよかったじゃん」「今ならまだ間に合うから、戻らせてくださいって頭下げて戻ってきてよ」と思っていた。
それと同時に、私たちを、四部作を、3人を、すべてを放りだして知らない人たちと知らないところへ行ってしまったことに激しく怒っていた。
暴露にもならないような浅い内容の暴露本を出したことにはぶちぎれていた。
それでも、彼が好きな気持ちもまだあった。
心のどこかで彼を信じていた。
彼を嫌いになることで、彼がいた時代の楽しかった思い出たちまで嫌いになるのは嫌だった。
気持ちの整理がつかなくても手越は勝手にズンドコ進んでいっちゃうし、NEWSの3人も少しずつ動き始めていた。
少しずつ「3人のNEWS」が当たり前になっていって、人数が少なくなっていった自虐もたまに挟まるようになっていって。
あといつの間にかNEWSがKinKi Kidsに次いで上から二番目になっていたことにびっくりした。
ずっと中堅くらいの意識だった。
そういえばもう嵐もTOKIOもV6もSMAPもタキツバもいねえや。
あとたまに忘れちゃうけど、エイトのほうが一年デビュー遅いですよ、これは増田さんへ。
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脱退後のインタビューで、「多くの人は、アイドルや事務所という“魔法”にかかっている」と手越が話していた。
違う。
多分違うと思う。
“ただの手越祐也”ではなく、“ジャニーズ事務所のNEWSのアイドル手越祐也”だったから、私たちはあなたの素行を、すべてひっくるめて、「アイドルの個性」と思って愛することができた。
むろん愛すべきところがたくさんある人だ。
花が開いたようにパッと明るく咲く笑顔が大好きだった。
周りを巻き込んで笑わせてしまうような、自分の信じているものに対する絶対の自信からくるあの笑顔が大好きだった。
人の心に直接刺さるような、それでいて華やかで、のびやかで、何にも縛られないような歌声も好きだった。
いつだかジャニーズみんなでTOKIOの『宙船』を歌ったとき、一人きりで上ハモを担当していた。
あの時の誇り高さは、あれだけの大人数でも埋もれない美しい歌声は、きっと一生忘れない。
運動能力の高さと、周りの空気を作り上げてどんな難題だってこなしてしまうところは、天性のアイドルだと思っていた。
彼以上に「アイドル」という言葉が似合う人間はいないんじゃないかとすら思っていた。
どこにも行かないとは思っていなかった。
それでも、あなたの安住の地が、優しいあなたの探してた場所が、僕らの愛したここであればいいと思っていた。
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今でも正解がわからない。
「NEWSにいたころの手越が大好きだ」「2020年以降のことに関しては絶対に許せない、許さない」という、相容れない感情がいつまでもぐるぐる渦巻いている。
カラオケでSUMMER TIMEのMVなんか見ちゃうとやばい。
あのMV全員ビジュ良いけどその中でも手越さん可愛すぎないか?
気づいた人がいるかどうかはわからないけれど、私いままでこの文章の中で二回だけ「手越さん」呼びをした。
この段落での一回と、3人での配信ライブの内容に言及したときの「でもそれと同じくらい、手越さんが一番輝くステージで、ライブという空間で、歌を歌うことで、私たちに、彼に、語りかけようとしてくれたんじゃないかと思う」という文章の中。
この三年間、私は手越を恨み続けてきた。
コロナ前までは「手越さん」と呼ぶことも少なくなかったが、退所後はかたくなに「手越」と呼び続けてきた。
ちなみに残りのメンバーはずっと「小山さん」「増田さん」「加藤さん」「山P」「錦戸君」呼びだし、ほかのグループの人のことも呼び捨てをすることはめったにない。
これはささやかな反抗だった。
私は、「私はあなたを許さない」という気持ちを込めて「手越」と呼んできた。それでも、彼のことを愛おしいと思うときには思わず「手越さん」と呼んでしまうのだ。
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結局私は彼に対するこの矛盾した気持ちを抱えたまま生きていくしかないのだ。
退所前後の一連の行動は許していない。
きっと一生許せないけれど、彼が健康で、幸せでいてくれるといいなと思う。
今の彼のことを応援しているファンのことを盲目だとも思わない。
彼にはそれだけの魅力もある、訴求力がある。
あの奔放さを、考えなしな一面を、どうしようもない自我の強さを、許すことができるのであれば私だって今の彼の活動を応援したい。
もう一度あの伸びあがる歌声を聞きに行きたいし、はちゃめちゃさで成り立ってしまう天才的なバラエティ感覚を享受したい。
でもだめだ。
許せないのだ。
何一つ。
愛していたからこそ。
信じていたからこそ許せないのだ。
それでも愛しているのだ。
・
結局この話に結論なんてない。
せっかくなのではてなに挙げてみるが、誰かに届くかどうかなんて考えてない。
ただ、こういう折り合いのつけ方をした人間もいる。
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