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2019-05-12

anond:20190511125920

俺も似たような境遇

高校通信に転校、文系私大入学も即中退

ニート後に地元企業入社、そのまま暮らしてる。

給与高くないが休みがとても多く、不幸感なし。

ここまでの人生振り返ってみて思うのは

学校適応できない人種」ってのは

ある一定数は居るのではないか、ということ。

俺は学校行かなくなったとき

いじめられてるのか?」

「何が不満なんだ?」

中退した友人に感化されたか?」

と周囲の色んな人間から設問されたが

別にそんな主だった原因があったわけでもない。

俺には「学校」という水が合わなかった、

ということだけなんだよ。

それ以上でもなければ以下でもない。

現に職場では大きな問題も起こさず、

欠勤するような局面は一度も起きてない。

ただ「学校」というシステムが合わなかっただけ。

因数分解はおろか、掛け算すら怪しい奴が

灘高数学研究会に放り込まれたら精神

異常をきたして逃げ出すのではないか

学校というシチュエーション

馴染めなかったからといって人生終了、

というのは浅薄すぎる考えだ、と伝えたいね

適材適所という言葉があるように人間には

合う水・合わない水があるのだと思う。

行くに越した事ない、ってのは元増田同意だけど。

学校適応できなくても生きていける人間は多い。

無論、生存者バイアスが掛かってるし、

生きていけなかった奴はそもそも

観測範囲に入らないのかもしれんけど。

2019-05-07

anond:20190507021350

それはお前がその程度の浅薄な利用しかしてないからだろw

2019-03-27

anond:20190320002956

イヤイヤ、これ凄い気持ち分かるよ。

増田が「教養」とか「高学歴」ってワードを選んだから

角が立ってしまうけど他に形容できる言葉あんま浮かばんのよね。

穏当に言い換えるなら「地頭」や「聡明さ」になるのかもしれん。

この手のタイプの人は、なんというか日頃の一挙手一投足が浅薄浅慮・直情径行なんだよ。

「聞いたことを何でも鵜呑みにしたり、その場の感情に任せて後先考えずに判断しないでさ、

頭使ってじっくり考えるなり、その肌身離さず持ってるスマホ使って調べる努力くらいしましょうぜ。

ほんのちょっと、で良いからさ。」と肩をポンポン叩きながら子供に聞かせるように優しく諭したくなる。

実際にそんなこと言えば火が着いたようにヒステリックにキレ散らかされるので、

その言葉をグッと飲み込むのがまたバカにならないストレスになるんだ。

妻は容姿端麗で性格も良く一緒にいて楽しい

で、俺も男なのでこれも分かるのよねー。ここが凄く辛いところ。

大嫌い、今すぐ離婚したい、金輪際顔も見たくない、とかでは全然ないのよね。

もうちょっと理性的に動いてくれんかな。という極めて単純な話。

常にこちから折れて「ごめん、◯◯ちゃんはそう考えるんだね、それが正しいね、これからは気をつける」と言うしかなく

俺は相手を「年端も行かない子供なんだ」と思い込むことでやり過ごしてるが、詰まる所これは↑と変わらんのだよな。

いずれにせよ、矯正不可能かと思うので、こちらが折れるしかいね。御愁傷様。

2019-02-17

昼飯のスパゲティナポリタンを眺めながら、積年の疑問を考えていた。

それは「なぜナポリタンは赤いのだろうか」という問いである。

簡単に見えて、奥の深い問題だ。

「赤いから赤いのだ」などとトートロジーを並べて悦に入る浅薄人間もいるが、

それは思考停止に他ならず、知性の敗北以外なにものでもない。

赤方偏移」という現象がある。

宇宙空間において、地球から高速に遠ざかる天体ほどドップラー効果により、

そのスペクトル線が赤色の方に遷移するという現象である

まり本来ナポリタンが何色であろうとも、ナポリタンが我々から

高速で遠ざかっているとすれば、毒々しく赤く見えるはずなのだ

目の前のナポリタンは高速で動いているか否か?

それはナポリタンの反対側に回ってみることでわかる。

運動の逆方向から観察することで、スペクトルは青方遷移し、

青く見えるはずなのだ

逆に回ってみたところ、ナポリタンは赤かった。

よってこのナポリタンは高速移動をしていないと言える。

2019-01-02

anond:20190102193903

浅薄道徳観の中では、自己と戦って克服することも困難と言うし、他人を変えようとする不可能も困難というんだよね。

前者の困難は多くの物を産むし、逃げるべきでないと私は思う。後者に取り組むのは行き届かない教育からくる妄執

2018-12-10

ちあきなおみ喝采』の歌詞が嫌いだ

表題の通りだ。俺は昭和60年まれだが、この歌詞を尊んだ昭和人の感性がわからない(あえて術語をでかくするぞ)。

嫌いな理由を端的に述べると2つある。

まず、情景が飛び過ぎなのだ

そして、飛び飛びのシーンそれぞれが象徴的でゴテゴテと飾り立てられている点だ。

一番の歌詞

3つの空間がある。順に見て行くと、

A ステージで歌っている語り手に訃報が届く。

B 訃報の主が語り手を故郷? の駅で引きとめようとした3年前

C 故郷? での教会での葬儀の場面

ついでに二番の歌詞

D 教会白壁

E 故郷? 駅の待合室で、自分のヒットソング聴く

F 舞台でいつものヒットソングを歌う語り手

こう見ると、舞台立ては「都会のステージ――駅――教会――教会――駅――ステージ」と整っているように見えるが、実のところバラバラである

時の操作がめちゃくちゃなのだ

まずAが地味におかしい。

恋の歌歌う私に黒い縁取りの訃報が届くのだ。

冷静に考えるとステージ去ってから訃報を目にするのだろうけど、見かけ上ステージで歌っている語り手に郵便屋が届けたように書かれている。

それだけAの時点で時系列の運びが性急なのだ

そしてB。

Aがおかしいのにいきなり「あれは3年前」とか言い出す。

そしてC

いきなり時が戻り、そして故郷に帰って葬式に出ている。

空間バキバキになっていることが解るだろう。

そして良いシーンをこれでもかこれでもかと持ってくる。「ほれほれ良いシーンどんどん行くよー」的な過剰包装的な過度の装飾。


C-Dへの情景の経過はやや丁寧だ。昼下がりから夕方葬儀が行なわれたのだろう。

そしてE。

駅に戻ってきたのは解るのだが、対称となるべきBの位置と異なる。

B動き始めた汽車に一人飛び乗った:ホームでの出来事だろ

E暗い待合室

Eはラストへの布石になるし、一人になったことを示していて叮嚀な箇所もあるが、しかしどうも空間がずれている。


こんな感じで、情景が性急に飛びすぎな印象を強く受ける。

そして、それがさもありがたそうに語られ唄われる。今でも「昭和名曲」としてありがたがられる。でもそれは虚仮だと思う。

なんつーか、下品表現なんだけど、昭和にわか成金にわか教養人、にわか中流家庭に向けられた、安っぽい感動への舞台立てだなと思うのだ。

いかにも「名曲」のような装いをしているのだがその歌詞は人の死と愛を浅薄かつ性急にそろえただけのものだ。

こうした「インスタントな大作」感が気に食わないということだ。

このあともう少しすると、例えば米米CLUB浪漫飛行』みたいな具体性がほとんど何もない抽象的な歌詞流行る。

こうした傾向は、『喝采』に限らない具体的な情景描写稚拙さ、あるいは陳腐化の反動ではないかと思っている。

2018-11-26

正直なところを云うと吾輩は人間がイヤになったのだ。こんな研究でもしていなければ、ほかに頭の使い道のない人間世界浅薄、低級さに、たまらない程うんざりさせられてしまったのだ。

(略)心理遺伝なんていう三つ児にでもわかる位、簡単明瞭な原則をタッタ一つ証明するために、足が棒になって、脳味噌が石になる程の苦労を重ねなければならぬ。あらゆるタチの悪い因果因縁に、執念深く附纏われて、それこそ地獄の苦しみに堕おちながら、やっと真理の証明が出来たにしても、その報酬として何が残るか。妻子眷族けんぞくに取捲かれてシンミリした余生を送るどころか、その研究が世に出る時は、自分の一生涯の破滅の時だ。飛んでもない野郎だというので、踏んで蹴られて、唾液つばを吐きかけられる時だ。……ザマア見やがれとはこの事だ

2018-11-10

anond:20181110090024

漫画作ってる人はみんな大人だと思うが

大人にもなって真剣文学にのめりこむ人(私のことだけど)も大差ないと思います

小林秀雄も「学問をしてるやつがこの世の中で最も馬鹿だ」と言い切っていました

漫画子供世界の軽薄なもので、その世界も作る人も浅薄ものだという刷り込み存在するのは事実ですが、見つめ直すことも悪くないんではと思います

2018-10-21

ウミウ「生きるのに疲れたう」

ウミウウミウだう」

ウミウ「まず初めに、おことわりしておくう

ウミウ「この日記は、その辺にいる適当大学生が『けものフレンズ』に出てくるウミウの口調を借りて愚痴日記だう」

ウミウ「一応、ウミウデザイナーかい職業副業でやってるう」

ウミウ「てことで、まあその辺のことを踏まえながら読んで欲しいう」

ウミウ「で、ウミウは何を言いたかったんだう」

ウミウ「……」

ウミウ「…………」

ウミウ「……そうだう、生きるのがつらいってことう」

ウミウウミウ最近、生きるのがつらいう」

ウミウ大事なことだから二回言ったう」

ウミウウミウがこうなったのは、たぶん高校卒業間際の冬のことだったと思うう」

ウミウ「その頃、ウミウの家庭事情ボロボロだったう」

ウミウ「母はアルコールニコチンに溺れ、父は神経過敏で物音一つにも激怒し、モノに八つ当たりしてたう」

ウミウ「それを力で押さえつけてしまってはご飯も食べさせてもらえなくなるう。住む場所もなくなるう」

ウミウウミウは無力だったう」

ウミウ「そんな中、ウミウの唯一の救いだった高校というモノが卒業を間近にしたのだう」

ウミウウミウ高校は良かったう。絵を描ける人がいたう。文章を書ける人がいたう。音楽を作れる人がいたう。いろんな学問で全国トップレベルの人がいたう。いろんな趣味を極めてる人がいたう」

ウミウ「彼らはみんな、ウミウにいろんな刺激を与えてくれたう」

ウミウウミウは、そんな日常が大好きだったう。そんな日常があったから、人生に生きる意味があると思っていたう」

ウミウ「でも、高校3年生も終わりに差し掛かりつつあった頃、だんだんと授業も減り、周囲はみんな受験モードへと切り替わっていって」

ウミウウミウは、行き場をなくしたう」

ウミウ「つらかったう。ハッキリ言って、地獄だったう」

ウミウ「一番落ち着けるはずの我が家が一番落ち着けない、というのは案外つらいものう」

ウミウ「その頃、ウミウ毎日首を吊ることだけを考えてたう」

ウミウ「毎晩、家のベランダから空を見上げて、コーヒーを飲みながら死後の世界について考えていたう」

ウミウ宗教科学ウミウを救ってくれるのか、考えたこともあったう」

ウミウウミウ浅薄知識片手に、ウミウはいろんな文献を漁って、いろんな人に話を聞いたう」

ウミウ「でも、ウミウは救われなかったう」

ウミウ「どうしてこの世界は生まれたのか? どうしてウミウは生まれたのか? どうしてウミウはこんな境遇にあるのか?」

ウミウ「その答えを出してくれるものは何一つなかったう」

ウミウ「当然受験には失敗したう。だって勉強なんて全くしてなかったう」

ウミウ「そうやって悶々としてるときウミウは『けものフレンズ』というアニメ出会ったう」

ウミウウミウは感動したう」

ウミウ「こんなクソッタレ世界のどこかにも、ジャパリパークみたいな世界がある」

ウミウウミウはそう思えたんだう」

ウミウ「それが、ウミウの唯一の希望だったんだう」

ウミウそれからウミウはいろいろと頑張ったう。この世界には何か答えがあるはずだ、そう思って」

ウミウ「生の意味を知るために生物系の大学を目指したう。将来どうやって生きるか考えて、一番自分に合ってると思ったデザイナーのまねごとを始めたう」

ウミウ「あと、少しだけけものフレンズ二次創作をやったりもしたうね」

ウミウ勉強仕事の両立は、案外大変だったう。けど、つらくはなかったう」

ウミウ「何かに打ち込める、何かを目標にできる、人から必要とされる」

ウミウ「それがとっても嬉しかったんだう」

ウミウ「そうこうして、ウミウ大学浪人生活は終わったう」

ウミウ「どうにか第一志望の大学には受かって、ウミウは期待に胸を膨らませたう」

ウミウ大学ではどんなすごい人がいるんだろう? どんな風に自分は成長できるんだろう? どんなことが学べるんだろう?」

ウミウ「そう思っていたう」

ウミウ「だけど、大学に入って、1ヶ月が経ち、2ヶ月が経ち」

ウミウウミウは、ある種の絶望感を味わったう」

ウミウ「誰一人、『ついていきたい』と思える人がいなかったんだう」

ウミウ「もちろん、人間として素晴らしい人はたくさんいるう。とっても精力的に活動している同級生研究サークル活動に没頭して成果を出している先輩たち、世界的に有名な教授陣」

ウミウ「彼らは、ウミウとは大違いですごい人種だう」

ウミウ「だけど、ウミウが求めていたのはそういう人たちじゃなかったんだう」

ウミウウミウは、圧倒的な実力で凡人を殴るような天才世界生命意識や……そういうふわっとしたものたちを大真面目に考えて頭を狂わせるような奇才」

ウミウ「そういう人を、求めていたんだう」

ウミウ「でも、そういう人種はいなかったう」

ウミウ大学というのは日本における最高学府だう。そんな素晴らしい機関の中にだったら、きっとそういう人もいるんだ、答えを貰えるんだ、いや貰えなくても論じ合えるんだ……と思っていたのに」

ウミウウミウは悲しかったう」

ウミウ「せっかく浪人間中頑張って勉強して入った大学がこんなんだったんだと」

ウミウ「だからウミウは思ったう」

ウミウ自分が全力で頑張っていれば、きっといつか答えは見つかるって」

ウミウ「そう思ったんだう」

ウミウ「頑張っていれば、いつか何かが起こるだろうって」

ウミウ「そう思って、ウミウはがんばったう」

ウミウウミウは今までの仕事のほかに、いくつかバイトをかけもちしたう。サークルは4つ入って、ほぼ毎日大学に寝泊まりするような状態になったう。同人活動ももっと本格的に始めていって、夏コミにも出たう。講義も真面目に受けて、まあまあいい感じの成績を取ることも出来たう」

ウミウ「そしたらある日、ウミウは手のしびれを感じたう」

ウミウ最初は血の流れが悪いだけかな?と思ったう。だけど痺れはなかなか取れなくて、ウミウ病院に行ったう」

ウミウウミウは、神経系病気頸椎ヘルニアを患っていたんだう」

ウミウ「このまま頑張ってたら、いつか半身不随になるぞって、お医者さんに言われたう」

ウミウウミウは怖くなったう」

ウミウ「結局、バイトほとんど全部やめたし、サークルは1つを残して全部やめたう。しかも、ちょうどその頃は大学夏休み間中で、講義もなかったう」

ウミウ「てことで、ウミウはヒマになったう。そしたら、そこに生まれたのはただの虚無だったう」

ウミウ「また、何も拠り所がなくなった……そう思ったう」

ウミウ「だけど、ウミウにはまだ希望があったんだう」

ウミウウミウは、けものフレンズ同人活動をやっていて、その中で1つ出来た、少し大きめのグループがあって」

ウミウ「そこはすごいんだう。たくさんのクリエイターがいて、たくさんの賢い人がいて」

ウミウウミウ心機一転、そこで頑張ろうって思ったう。もちろんもうムチャは出来ないから、出来る範囲で、だう」

ウミウウミウは……まあがんばった、んだと思うう。一応、なんとなーくリーダーっぽい感じのポジションに収まったりもしたう」

ウミウ「そしてある日、ウミウはそこのみんなに聞いたんだう」

ウミウ「『フレンズにはどんな死生観があると思う?』って。『何か、そういうものを訴えかけた創作物が作れないかな?』って」

ウミウ「さあ、どんな答えが返ってくるんだろう、どんな議論が出来るんだろう……ウミウは楽しみに思ったう」

ウミウ「だけど、返ってきた答えはみんな、『けものフレンズはそういうのじゃない』『求められているものは違う』『グロとか暗い展開とか無理』みたいな答えばっかりだったう」

ウミウウミウがっかりしたう」

ウミウウミウは……ウミウは、いったいどうすればいいんだう」

ウミウウミウは、どうすれば答えを得られるんだう?」

ウミウ「『けものフレンズはそうじゃない』? けものフレンズはそんな浅薄コンテンツじゃないと思うう。少なくとも、そこを議論しなきゃ深みのあるモノなんて出来ないと思うう」

ウミウ「『求められているものは違う』? ユーザーニーズ分析なんて仕事で腐るほどやってるう。二次創作って、そういうニッチなところを攻められるものなんじゃないんだう?」

ウミウ「『グロとか暗い展開とか無理』……。まあ、死生観を語らせる上で、フレンズの1人や2人死ぬのは仕方ないだろうし、暗い展開になるのは致し方ないう」

ウミウ「だけど、そこから目を逸らして何が生まれるんだう?」

ウミウ普段お前たちが食べている食べ物動物死体だう。お前たちが着ている服も動物死体だう。お前たちが生きている環境には、動物の死がごまんとあるう」

ウミウ「けど、動物は何も語らないう。ただ静かにまれ、静かに死んでいくのみだう」

ウミウ「それが、言葉を発し、意識を持って動き回るようになった。それがあの世界の意味であり、意義であって」

ウミウ「当然、フレンズたちもそこは疑問に思ってしかるべきだと思うんだう」

ウミウ「なのに、そこからみんな目を逸らす。なんでだう?」

ウミウ「……ウミウは、どこに行けばいいんだう。ウミウは、どこを拠り所にすればいいんだう?」

ウミウウミウは、今月か来月くらいでそのグループを抜けることにしたう。ウミウがそこにいることへ、意義を見出せなくなったんだう」

ウミウウミウはお道化を演じることに疲れたんだう」

ウミウウミウは本格的にひとりぼっちだう。何もすがるものはなく、何も生きる意味はなく」

ウミウ「ただ、そこにウミウがいるだけだう」

ウミウウミウはもう、疲れたう」

ウミウ「たぶん、少し前だったら『ジャパリパークに行きたい』って切に願いながら、きっとどこかにある桃源郷を夢見て首を吊っていたんだと思うう」

ウミウ「だけど、それすら出来ないほどウミウ世界絶望したんだう」

ウミウ最近ウミウは、ジャパリパーク動物から人間に対する壮大な仕返しにしか思えなくなってきたんだう」

ウミウ「ヒトの汚さ、狡さ、私利私欲

ウミウ動物は、きっとジャパリパークを通して、そういったものを際立たせて。人を絶望させているんだう」

ウミウ「もちろん、それは正当なことだう。人は今まで、どれだけの動物を苦しめてきたんだう?」

ウミウウミウは、希望を失ったんだう」

ウミウウミウには、もう何もない……いや、少なくとも心はからっぽだう」

ウミウ「きっと、ウミウは恵まれてるんだう。こうやって、生きる意味について考えられるほどには」

ウミウ「だけど、心はからっぽになってしまったう」

ウミウウミウはどうやって生きればいいんだう?」

ウミウウミウは……もう、疲れたう」

ウミウ「ふと空を見上げたら、お月様がこっちを見て嗤ってるう」

ウミウ「悔しいほどに、綺麗だう」

2018-10-19

横山由季子「ブロックバスター展は善か、悪か」を批判する

 美術手帖で連載中の「シリーズ:これから美術館を考える」の第6回、横山由季子(金沢21世紀美術館学芸員)による「シリーズ:これからの美術館を考える(6) ブロックバスター展は善か、悪か|MAGAZINE | 美術手帖」。一読して何が言いたいのか理解し難かったが、それもそのはず、書いている本人が考えがまとまらないと言っているのだった。

まとまらない考え、逡巡をそのまま書いてしまいましたが、現状を共有することで、今後の共催展、ブロックバスター展について考えるきっかけになれば幸いです。

https://twitter.com/blanche1002/status/1051094298815430659

 「考えまとめてから話せ、バカ」で済む話ではあるけど、一部好意的に受け止められている様子もあり、少しこだわってみたい。

 まず、かなり気に食わないことの一つに、ブロックバスター展について「善か、悪か」と問うている点がある。「善悪」というのは倫理道徳的価値判断であり、展覧会評価をするにあたってはなじまない言葉である。「是非」でよかったはずだ。にもかかわらず、横山は敢えて「善悪」という強い言葉を用いた。その理由は推測することも可能だが、不要から止めておく。ただ、私自身は「善か、悪か」という問いに答える気にはならないし、また応じて「ブロックバスター展は悪だ」と言っている人がいたら異様だと思う。些末な問題ではある。しかし、筆者の立ち位置や考え方が無意識に出ているように見受けられる所、注意を要する点である

 次。筆者はタイトルで「ブロックバスター展は」と議論対象提示する。そして文中で「ブロックバスター展」の定義を明確に行う。ここまではまったく素晴らしい。だが、なぜか横山は文中でブロックバスター展以外についても語り出してしまう。こんなわずか短い文章にもかかわらず、その対象を固定することすらできない。大丈夫なのか、この人?

 実際に対象になっているのはブロックバスター展と共催展である。前者も後者の一部だが、このうち60~70万人ほどを動員したものを指すと定義している。もちろんそれ以上動員した場合も含まれるのだろう。また、共催展以外でこの規模の動員は不可能と考えられる。すなわち、60万人以上の動員を記録した展覧会ブロックバスター展だと言っていい。明確だ。

共催展のなかでも、とりわけ規模が大きく大量動員が見込まれものは「ブロックバスター展」と呼ばれる。ブロックバスター展の基準について100万人以上の動員としている記述もあるが、近年ではさすがにそこまでの来場者を集めた例はないので、ここでは60〜70万人規模の展覧会ととらえることにしたい。広報会議メディア担当者と話していても、60万人あたりがひとつ分水嶺になっているような感覚がある。

 共催展一般共通するものであるならば、わざわざ分ける必要はない。だが、60万を越える規模になると、単に量の違いではなく、質の差が出るようだ。「60万人あたりがひとつ分水嶺になっているような感覚」というのはそういうことだろう。ならば、「ブロックバスター展」と呼び分けることに意味が出るわけだ。

 しかし、結局筆者が俎上に乗せるのは共催展一般であって、ブロックバスター特有問題についての指摘はわずしかない。筆者は読者にブロックバスター展のみに絞って考えて欲しいのか、それを含めた共催展一般について考えて欲しいのか不明である。というよりも、筆者自身の中で、その程度のことすら整理できていないのではないかと思われる。

 そんな筆者横山が共催展やブロックバスター展の「現状」についてどのように認識しているか批判的に捉えているか文章引用しつつ細かく見ていこう。

ブロックバスター展はその華やかな話題性によって、普段美術館に足を運ばないような人が展覧会を訪れるきっかけをつくり、美術裾野を広げているという側面もある。そのいっぽうで、やはり集客のために打ち出される広報の数々は「イベント」としての側面を強調するものであり、一過性の消費で終わってしまうのではないかという危惧がつきまとう。

 一過性の消費の何が悪いのかさっぱり分からん人生は短い割に、世界はあまりにも豊かだ。誰しもが、美術とがっぷり四つに組んでいる暇があるわけではない。すべてのことに入れ込むことはできないわけだ。学芸員成るほど美術真剣に取り組んでる横山も、例えば音楽とか、芝居とか、映画とか、ほかのジャンルに関しては一過性の消費で済ませていたりするわけでしょ? 美術に対してそういう態度をとる人たちを批判する権利なんかないわな。

そして現場学芸員は、採算性と学術性を両立させるという大きな矛盾に直面することになる。

 ブロックバスター展やそれに準ずる共催展に足を運ぶ人の多くは、作品を見に来ているのね。有名作に心踊り、傑作に胸を打たれに来てる。学術性とか、正直無くても構わないとすら思っている。

最近ではメディア側も展覧会事業にこれまでになく採算性を求める傾向にあり、10万人を動員する小規模の企画を年に何本も実施するよりも、大量動員が見込めるブロックバスター展を1本開いたほうが、労力的にも資金的にも報われるという事情もあるだろう。

 共催展の数を減らして、ブロックバスター展に集約していると読めるけど、事実なのか?

あくまでも組織としては採算性が優先されることになる

 当たり前なのでは。

ここで、そこまでの費用をかけてまで、海外作品を借りてくる必要があるのかという問いが生じるだろう。国内美術館にも豊かなコレクションがあり、それだけでも十分に展覧会は成り立つ。実際に、近年では国内の所蔵品を中心に見ごたえのある展覧会が多く企画されている。

 ブロックバスター展や美術館展など、学術性の低い展覧会批判する人って、だいたい欧米によく行っていて、そこで十分に作品を見ている人なんだよね。だから、そういった展覧会が名作や有名作を持ってきているということ自体意味を見いだせないわけだ。でも例えば、今後10年間、海外所蔵の作品を見ることを一切禁じるって言われたら、我慢できるの? できないでしょ。できないなら「国内美術館にも豊かなコレクションがあり」とか言って欲しくないよね。子供仕事で忙しい人、貧乏人、障害者、老人。誰しもが気軽に海外に行けるわけではない。そういうところにブロックバスター展の意味の一つがあると思うんだよな。弱者に優しいという点を鑑みれば、筆者の問いかけに「ブロックバスター展は善である」と答えることも可能かもしれない。

共催展の広報において差し迫った課題は、いかにして若者展覧会に足を運んでもらうかということである。とりわけブロックバスター展を支えているのは、バブル期以降の大型展に足を運んできた50代以上の世代であり、メディア側も確実な集客を見込んで、この年齢層に的を絞った広報戦略を立てることが多い。しかしながら、このような目先の集客ばかりを求める広報が続くようであれば、美術館展覧会未来はそう長くはないであろう。

 若者じゃないから分からないけど、どっちかというとやはりブロックバスター展の方が若者リーチしていて、それより規模の小さい共催展に問題がある気がするけどなあ。今なら例えばフェルメール展とルーベンス展。

近代美術の延長線上に現代美術位置づけ、両者を結びつける作業は、やはり美術館が担うべきものである。そして、村上隆草間彌生などの知名度と人気を誇るごく一部の作家を除いて、メディア現代美術展に出資することは考えにくい。美術館が主導して近代美術現代美術をつなぐ展覧会企画したり、現代美術一般へと浸透させる持続的なプログラムを行うための体制づくりや予算が求められる。

 これはブロックバスター展や共催展の問題じゃないよね。美術館学芸員が怠けていたからこういう状況になったんじゃないの? 「国内美術館にも豊かなコレクションがあり、それだけでも十分に展覧会は成り立つ」んでしょ。美術館主催粛々とやってればいいのでは。

数十万人の来場者を想定したブロックバスター展の場合、あまり大胆な切り口を提示することは難しく、個展であれば年代主題ごとに画業をたどるようなオーソドックス構成となりがちだ。先行研究調査をふまえた新たな視点を、カタログ論文作品解説のなかで示すことはできても、展覧会構成全体に反映するにはいくつものハードルがある。とりわけオルセー美術館ルーヴル美術館からまとめて作品を借りる場合は、これらの美術館学芸員が監修を務めることが多く、そのことによって企画自由度が低くなるという側面もあるだろう。

 そういう学術性は不要なんだって。単にいい作品を持ってくればいいの。学術性を発揮したいのであれば美術館主催の展示でやればいい。それでは自分能力が十分に生かされないと感じるなら本場の美術館就職してください。あと、日本学芸員よりオルセーやルーヴルの学芸員の方が信用できるから、その場合は口出さなくていいよ。

オルセー美術館には各所蔵作家の膨大な資料が集められており(ルノワールだけでざっと50箱以上はあり、フランス語だけでなく、英語イタリア語ドイツ語スペイン語、そして日本語や中国語韓国語資料網羅されている)、それを日々リアルタイム更新していくドキュメンタリストたちがいる。学芸員は彼らの協力を得て調査研究に勤しみ、その成果が展覧会に反映される。この蓄積こそが、オルセー美術館の、さらには今日における世界的なフランス近代美術の人気の礎なのである。これは一朝一夕に実現されるものではなく、長期的な視点に基づいた、たゆまぬ歴史化の作業の賜物といえよう。

 日本フランス絵画についてオルセーと張り合う必要なんかないよ。自国美術研究環境が貧弱なこと(いろいろ話を聞くに相応の事実だろう)については悲しむべきことだけど、西洋美術基本的に横のものを縦にしてればいい。もちろん立派な研究をなしとげれば敬意を表するが、俺達のブロックバスター展を研究発表の場として利用してくれるな。

 私はブロックバスター展やそれに準ずる規模の共催展を楽しんでいるのだ。それを学芸員風情の浅薄な考えや安っぽい使命感によってぶち壊さないで欲しい。日本に居ながらにして傑作や有名作を鑑賞することができる。これだけでブロックバスター展は素晴らしいものなんだ。ということを学芸員玄人気取りに理解してもらいたいのだが、なかなか難しいのかもしれない。

2018-10-18

「これって変じゃない?」にツッコミを!“女らしさ・男らしさ”の呪縛から子ども解放するために親ができること

https://woman-type.jp/wt/feature/13170

以前、息子が見つけてきて「これ、変だよね」と言った消防少年団ポスターには、男の子ホースを持って前面に立ち、女の子が後ろで救急箱を持って控えていました。男性はメインの業務や力仕事を担い、女性は補助的な仕事ケアワークを担うという思い込みは、いまだに根強く残っています

ものには適材適所っつーものがある。

消防という人の命がかかった場面で「単に外形的な数的平等のために」大きな水圧で暴れる重いホース女性にも持たせてさしあげる配慮をすべきかというと、私には疑問に思える。そういうときってホースは男が持ったほうがいいんじゃあるまいか体重や筋力が平均的に男女同等ならいくらでもホースを持ってもらえばよいが、そうではないだろう。

というか、消火作業ホース)も被災者の救護(救急箱)も、業務重要度はイーブンだろうと思う。ホースがメインで救急箱がサブというのは序列恣意的で、息子さんをよく調教されているようだけれど、男女平等にこだわりすぎて職業平等を教えることをどこかに置き忘れてしまっているのではないか

大学学園祭を訪れたとき男子学生がおそろいのピンクTシャツを着ている様子を見て、しみじみと時代は変わっているなと感じました。娘が一時期、ピンクなどのパステルカラーばかりを欲しがるので、親として複雑な気持ちになったものですが、今の大学生は「ピンク女の子の色」という意識さえ持っていない。偏見固定観念に縛られることなく、男性ピンクを着ることが当たり前と感じる世代が生まれているのです。

とにかくピンク女性の結びつきを断ち切りたくてしょうがないようす。

男子学生が揃いのピンクTシャツを着ていたからといって「男性ピンクを着ることが当たり前と感じる世代が生まれている」と判断するのはそそっかしすぎるだろう。学祭ということはサークルユニフォームだろうから、その色を個人個人が好きで着ているとは限らず、女子もいるサークル女子が決めたものをいやいや着させられているかもしれないのでは。

娘さんがパステルカラーを着たがることに「複雑な気持ちにな」るのは本当に親としてどうかと思う。娘さんが自由意志パステルカラーを好んでいるのかもしれないのに、それを「社会蔓延するステレオタイプに毒された結果」としか見られないのは、ひどい視野狭窄に思える。

子供選択の自由を奪い、感性自分の都合のいいように方向づけしようとしているという意味では「女の子からピンクを着なさい」と押し付ける親も「パステルカラーなんか好んじゃいけません」と教える親も大差ないだろう。

例えばドラマを観ていると、なぜか悪役は男性さらわれたり、狙われたりするのは女性ばかりです。我が家では、そんなステレオタイプドラマを見ると、息子が「また女の人が逃げてる!」と突っ込みます

現実犯罪者数は男性女性10であるのだから、人をさらったり狙ったりする役は男性のほうが自然だし、粗暴犯が力の弱い女性を狙うのも自然選択だし、そして、ここだいじだと思うんですけど、強者弱者を狙うからこそ「卑劣卑怯な手口」というプロットが成立するのであって、女が力づくで男をさらドラマなんかがあったらそれこそ「何かおかしい」どころではなく、噴飯ものでしょう!

そしてですね、いわゆる2時間ドラマでは犯人が女であることもとても多くて(断崖で泣きながら犯行動機を語る中山忍が好きだ)、現実との比較としてはむしろこっちほうこそ不自然で不平等に思えるのだけれど、それはOKということなのかしら。

例えばアメリカドラマでは、大統領CIAエージェントのような仕事女性が就いていることもめずらしくありません。最近ハリウッド映画では、コンピュータが得意な女の子が大活躍したり、男性の後ろに隠れずに、真っ向から敵と戦う女性ヒロインが登場したりしています

もー、そもそもドラマの配役をもってジェンダーステレオタイプうんぬんを語ることじたいがスカタンしか言いようがない。

エンタメに登場する女性は、その役柄がどれだけ威勢のいいものであろうと「画面の彩りやバランス」のために配置されていて、フェミニストであるならば本来そこにこそ疑問を感じるべきだと思うんだがそこは無視っていうね。フェミニスト旗手のように崇められているエマ・ワトソンにしたって、今の地位を築いたのはハーマイオニーグレンジャーという「冷静な優等生というジェンダーステレオタイプな役」がウケたからなのですよ。

男性の後ろに隠れずに、真っ向から敵と戦う女性ヒロインが登場したりしてい」ることをまるで近年のフェミニズムの手柄のように語っているけれど、ワンダーウーマンの例を引くまでもなく戦う女性を描いたエンタメはむかぁぁぁぁぁぁぁしからあるし、それは必ずしも実社会での女性地位の向上や男女平等意識の浸透を意味しているわけではない。女性でも「暴力」で敵と戦うのはスカッとするよねというだけの話で、現実ワンダーウーマンプリキュアのような立場を担わされたら大半の女性は「迷惑」と感じるのではあるまいか

これ以上くどくど書いてもしょうがいからまとめるけど、この治部れんげとかいう浅い浅いフェミニストは、言ってることのすべてが「表面的な数合わせだけの悪平等」の域を一歩も出ておらず、耳を傾けるに足る主張はない。それだけならまだいいのだけれど、この人、明らかに浅薄でズレた平等意識のもとでお子様の洗脳をなさっておいでで、まあこの人の子供がどんな人間に育とうと知ったこっちゃないのですが、ちょっと気の毒に思いましたまる

2018-10-11

限界を超えろ」っていうマッチョイズム全開の浅薄格言あるじゃん

あれけっこう大事なことだよな

2018-10-01

anond:20181001161109

ミロのヴィーナスとかヴィーナス誕生とかもけしからんよな。

芸術ジャンルでパッと出て来たのがこれだったので、自らの浅薄さを恥じる)

2018-09-26

anond:20180920192140

独身者防衛機制と既婚者の悲哀が巨大な渦を巻き「新しいライフスタイル」などという浅薄な幻影が形成されているのダ。

2018-09-16

浅薄な愛を見事に描いた最高傑作「高嶺の花」

うっす、うっすの愛情オンパレード

石原さとみの唇と、峯田和伸の鼻の穴だけは、認めざるを得ないがな。

2018-08-20

anond:20180820101034

個別ブコメは措くけれども、

別に女性俳優目当てで映画見に行ったって良いのに、それを腐すようなコメントがあるのに驚いた。

あまつさえそういう傾向がある、ってデータで出ているのに、その傾向をすら否定しようとしている人がいる。

あたらめて問うけど俳優目当てで映画見に行って、何が悪いんですか?

女性の方が映画を(集団で)みに行く傾向がある、というのは悪いことなんですか?

それでいいじゃん。

この辺り、はてなの女は堂々としていればいいのに、何かこそこそと「俳優目当ての女性なんて見たことない」「女でも監督で選ぶ人いますが?」みたいなかんじで女の中に線引きをしようとしている。

それ一番やっちゃいけないことなんじゃないの?

俳優目当てで映画見に行く人も多いけれども、そうじゃない人もいます、色んな人が色んな目的映画見ていますが現況はこういう状態でこういうスタイル映画が多いです(が何か問題が?)」で、良いじゃん。

あるいは「女の方が映画見に行って金払うとるんだから少し男は黙っとれ、笑」くらいでもいいだろう。

俳優目当てで見に行っている女性等閑視するはてな女性姿勢ダメでしょ、と言う話。

この辺り、実際に会って話す女性学や社会学の人々と比して、はてなフェミ界隈の浅薄さを感じるわ。

クソサブカル選民思想に囚われてんじゃねーよ。

2018-08-18

anond:20180817125018

こういう増田初心者に優しくないトラバやめろよな

一応解説しとくぜ

助六ってのはそのまま助六寿司のことだ

なんでそれがゲーム趣味って話題とつながるかというと、

増田ゲーム日記ってカテゴリがあって、そこで日記かいてるやつがいるんだよ

カテゴリー 「ゲーム日記」 - はてな匿名ダイアリー

毎日プレイしてるゲームのこととか仕事のこととかいろいろ日記に書いてる

そいつ毎日3食なに食ったかってのも一緒に書いてるんだけど、昼飯がほぼ毎日助六だったことがあったんだよ

そんで増田助六といえばゲーム日記ってなったってわけだ

どっちかというと増田ゲーム趣味といえばゲーム日記ゲーム日記といえば助六という流れだな

助六ブコメの「はやや~」ってのはゲーム日記書いてるやつがよく日記に書いてる口癖な

昨日の昼飯も助六だったみたいだぞ→[ゲーム日記]8月17日

まとめると、

ゲーム趣味の人を馬鹿にする→ゲーム日記の人を馬鹿にする→ゲーム日記の人が毎日食べてる助六否定されてる!?ふざけんな!

と無理やり論理飛躍させて反論してるネタというわけだな

ただ、一見とんでもないこの論理飛躍も、実はゲーム日記書き手へのリスペクトがこもっているんだ

ここから穿ち過ぎと言われるかもしれないから話半分で聞いてくれ

ゲーム日記を書いてる人は増田はてなでちょいと有名なあの人なんだが、

あの人のブコメも、元記事からかなり論理飛躍した内容になってることが多々あるんだ

まりゲーム日記書き手ブコメの書き方の癖へのリスペクトオマージュを込めた上での論理飛躍トラバになってるんじゃないか

わかりづらさの奥にある意味考察するとそこまでたどり着くこともできる、深いトラバなのではないか

・・・なんて読み方もできるかもしれない

余談だが、助六オタク的にいうとまどマギさやかを指すこともある

こちらの語源はどこぞの寿司屋がまどマギキャラ名前勝手寿司の詰め合わせをチラシにのっけてたんだけど、

そのなかでさやかけがなくて、本来さやかがあるべき位置にすけろくがあったからっていうワケ

勉強になったかなっ



追記

1年後の今になって追記するが、一部心無い、というか増田にわかブコメトラバ散見される

自作自演だ!承認欲求強すぎ目立ちたがり屋ーみたいなやつ

しかし彼の文体を何度か読んだ人間なら、これが彼によるものではないことは確定的に明らかであり、ただの増田ちょっと詳しいだけの暇人だってわかるはずなんだ。

ブコメに彼がいない?それだけで決めつけることのなんと浅薄なことよ。

ゲーム日記を10000回音読して出直してきてほしい。

2018-07-26

たまたま数学けが、誰が使っても同じ答えが出せるように設計されているのであって、

国語教育とは、おおむねの人が理解でき共有できること を目指しているのだから比較対象にするのはナンセンスである

美術音楽書道に点数がつけられるのか?は、つけられる。ある技術習得度合いは、十分な技量を持った教員なら判断ができるからである。(例えば対戦ゲームが上手い人は相手がどのくらい上手いかは、自分経験と照らし合わせて相対的に量れるだろう。体育は数値化が可能だったか数学と同じ扱いなのであって、数字が出るものが上、なのではない)

また学校の成績と製作物自体価値とは何ら関係ない。

国語教科のルールの中でどれだけ点数が取れるかはルール理解して適切に処理しているかどうか、だけで決まり

なんとそれは女性の脳の方が言語処理に優位で、一般的男子は成績が取りにくい。

ゆえに、自分が成績を取りにくいから劣った教科、劣ったシステムと見なされやすいのである

(弁護士は男の方が多い~云々は、女性は難しそうだから勉強すること自体を諦めがちになり、社会的にも男性の肉体をしていた方が信頼されやすいためで、フラット勝負したら全員女性の脳を持つ者が有利に就くだろうし、そもそも将来的にはAIに取って代わられる)

国語教育感情を扱っているから下、なのではない。感情言語化する技術は大変高度であり、さらにそれを大勢が共有し理解させる形で出力できるのは、為政者必須の技巧である。(だから巫女が王だったんだね)

昨今は文や絵の作成物への支持率定量化されるようになった。

お金感情を数値化したものだ、という直観はあったが、作品への評価=値段、という考え方を嫌うのは浅薄だ。しかし、それも感情である

感情への感情の支払い方として最も適切なのは作品に対しては作品を返すことである

ところが日本教育は、国語美術音楽といった表現行為を、下に置いてきた。あるいはダンススポーツ数学歴史社会科心理宗教民俗、すべて下に見る価値観が育まれてきた。

なぜか英語だけは上に見られるのである

英語に対抗できる言語プログラミングだけだ。それも母語の音声で記述できることが望ましい。

(というかそれをやってるのが赤ちゃん母親の歌や絵本なんだけど、それを男のプライドとやらで殊更下に見る。性的な自立に必要だという名目だが、果たしてそれは有効機能しているのだろうか?)

何が言いたいかというと、教育現場はもっと感情の発露、身体自由を重視せよ、ということである

軍隊式は、失敗したのだ。

2018-05-06

一億円の純資産を手に入れる方法 その6

精神世界をばかにしない

精神世界について論じた本がたくさんある。それらの多くは読むに値しない浅薄ものである。想い続ければ叶う。清く正しく生きていれば成功するなどなど。嘘である適当なことを書いているだけである

しかし中には本物もある。本当に成功している人々はただ効率的仕事をと考えているだけではなかった。実務的であると同時に精神的な活動も重視していた。

普通に真面目に仕事学習一所懸命にやっているだけでは見えない世界があった。何事も一所懸命にやりさえすればうまくいく成功するというのが嘘である。そのようにいい続けている人々を見ていればわかる。彼らは成功しているようには見えない。

物事には正しいやり方と誤ったやり方があるのだ。一所懸命にやって報われるのは正しい方法であった場合のみである。誤ったやり方に拘泥して、それを一所懸命やったところで無駄足になるだけである。この厳しい現実を忘れてはならない。

その気づくことすらできなかった世界を教えてくれる精神世界系の本は少なからずあった。たしかに偽物も多いわけであるが、本物もあった。そしてある種の考え方は人の命・健康を守ってもくれる。逆にある種の考え方は人の健康を損ね、命を縮めもする。人を害する考え方があるという事実、恐ろしい話である

一見常識とはかけ離れた事柄といっても良いものの中に潜在意識がある。この潜在意識というもの、本物である。効き目抜群の手法が、潜在意識を論じた本の中に書かれてある。これがなければ、今の僕はなかった。

(次)一億円の純資産を手に入れる方法 その7「人間本質について学ぶべきこと」

https://anond.hatelabo.jp/20180508223804

(前)一億円の純資産を手に入れる方法 その5「本という最高レベル投資対象のこと」

https://anond.hatelabo.jp/20180505234756

2018-03-12

anond:20180312213603

7つ上ナオンとイイ仲になったとして、大学に進学すると(東工大でもない限り)同級生美女出会う。上級生の美女出会う。卒業まで次からから後輩の美女が入ってくる。彼女らとどういう関係を目指すかは予め決めておくことを勧める。

条件のよいナオンを見つけて乗り換えることは悪ではない。途中で方針転換することも悪ではない。しかし、三十路女をリリースすることは悪であると心得よ。のらりくらりとやってるうちに7つ上ナオンアラサーになってしまうことは常に留意するべし。

数多くのナオンと遊びたいのかどうかのか。7つ上ナオンと生涯を共にする覚悟ができるのかどうなのか。よくわからないなら7つ上ナオンにコナ掛けるのはよした方がよい。言っておくが、三十路女の呪力はやれるかもという浅薄希望を遥かに凌ぐ。命のやり取りになることも珍しくはないのだ。

一方で居酒屋で管を巻くオジサンは必ず「若い内はできるだけ多くの女を知れ」と半ば悔しそうにアドバイスしてくることも知っていなければならない。もっとも、森見登美彦という高名な俗人から伝え聞いたところによれば、とっかえひっかえの超絶技巧は八面六臂の桃色遊戯の達人にのみ許された茨の道らしい。

もし7つ上ナオンとイイ仲なったなら、飛行機を使っても毎月会いに行かねばならない。だが、愛の価値経済的ものさしでは計れない程に大きいことは保証しよう。

若者よ、大いに悩まれたい。

2018-02-19

エクソシストを観ての感想

エクソシストを観た。ただグロテスクなだけでなく、練られた表現であることが感じられる。

なぜ悪魔リーガンに取り憑いたのか?理由説明は皆無である

おぞましく忌まわしい悪霊が誰彼区別なく憑依する、それは恐ろしいことだ、と思いきや、続編でその理由が語られるという。いわく、リーガンは大いなる善なる者であるために、悪魔パズス攻撃したのだという。

だとしたら、倒すべき悪と善なる者の戦いであり、黒白明確に分かたれた両陣営の対決であり、結果的勧善懲悪浅薄ものがたりである

単純な世界観であり、大衆対象にしたただの娯楽作品といえる。アメリカの単純な世界観はこういうところにも現れているのかもしれない。

人生を豊かにする思想洞察を含んだ物語ではない。繰り返し観る価値はない。

2018-02-17

はてブ女性専用車両に対する知見に頭がクラクラした

ふだん差別人権にうるさいはてブ民が、女性専用車両には賛成一辺倒で頭がクラクラした。

かに乗り込んでくる運動家はマトモじゃない。なんせ一刻一秒を争うサラリーマン様の通勤車両を12分も遅延させたんだ。よりによってなんで俺らがこんな目に……殺意を覚えるのも無理はない。

しかし、彼ら運動家否定できる倫理的根拠を、はたして我々は持っているのだろうか?

実のところ、今回の運動家に対して寄せられた批判を見るにつけ、賛成派は大した説得力を持っていないのではないかと改めて確信させられた。

以下は、ハフィントンポスト記事に対してスターを集めていた上位2つ。

http://b.hatena.ne.jp/entry/www.huffingtonpost.jp/2018/02/15/woc-chiyoda_a_23363098/

1.これが女性専用車でなくプロレスラー専用車だったら絶対やらないだろう。所詮その程度の連中だよ。

そりゃ、プロレスラー専用車なら今回の事件が起きる確率は低いだろう。なぜならば、有無を言わさず力で排除される可能性が目に見えているからだ。しかし、これは明らかな論点のすり替えである。具体的には、運動家の主張の是非ではなく、「力の強弱にアタリをつけ、威圧行動を取っているのでないか」という行為道徳性が疑問とされている。

そもそも、この運動代替の効かない公共機関における、特定属性を押しやる「専用車」それ自体問題になっているのであって、なにも「女性専用であることが問題となっているわけではない。今回のような示威行動が起きる確率は低くなるとはいえ、プロレスラー専用車でもやはり大きく問題になり、運動家は出てくるだろう。その場合、どのようにケチをつけるのだろう。今度は「殺人犯専用車だったら絶対やらないだろう。所詮その程度の連中だよ」とでも言うのだろうか?

また、仮に「力の強弱にアタリをつけ、威圧行動を取っている」としても、それは運動価値毀損するものではない。声を通せる場で声を通すことが重要からだ。

2.女性専用車必要性裏付けられる悲しい話。

この言説は本当に悪質で、「Aを利用している人間不安に駆られる状況こそ、Aが必要証拠である」と言っているに過ぎない。つまり、利用している人間不安に駆られていなければ(満足していれば)、Aの必要性証明されているし、不安に駆られていれば(満足していなければ)、なおさらAの必要性証明されている、というわけ。一切の批判を許さないので、イデオロギーに近い。これは「共産主義に異議が唱えられ、圧力を受けている。同志の生活が脅かされている。これこそまさに共産主義必要であることの証拠なのだ」という議論を考えてみれば分かる。どう思いますか?

賢いリベラルの集うはてブですら、こんなブコメスターを集めてるのだから、まったくもって酷い有様だ。

ただ、浅薄ロジックはさておき、問題意識理解できる。以上の2つはともに、女性専用車両とは「弱い者のための暴力からの隠れ家」であるとの認識に立っているからだ。ここでは、関係性は暴力の関係として解釈されている。ゆえに「より強い暴力を誇示できるプロレスラー」に、“ただの暴力”は萎縮するだろうし、「異邦者の闖入」という暴力が起きることこそが、暴力からの隠れ家の必要性裏付けている、というわけだ。

この「弱い者にとって『暴力からの隠れ家』が必要なのではないか」という問題意識自体は真っ当だと思う。3つ目にスターを集めていた「痴漢被害によるPTSD抱えてる人でも乗れる交通機関必要」というのは、優先席と同じで傾聴されていい。しかし、これを認めると、1つの帰結にたどり着く。

なぜ、女性けが「暴力からの隠れ家」の恩恵あやかるのだろうか?暴力に怯える人間なら、誰であろうと招かれてしかるべきだ。

まり女性は「暴力に支配された弱い者」なのか?そして、一般成人男性排除することは、一般成人男性それ自体潜在的な暴力の行使であることを前提としているのではないか

なお、女性専用車両に対し、「女性が『暴力に支配された弱い者』であることを認めるのか」というフェミニズム的な指摘は、欧米でも盛んに巻き起こっている。

例えば、英メディア紙The GuardianTelegraphでは、女性記者が率直に「女性専用車両は負けを認めることだ」と述べている。彼女によれば、「女性専用車両の導入は、性的暴行所与とする(normalise)ものであり、あたかも原因が私達にあるかのように、状況平等志向から女性を取り除く(remove from the equation)ことが解決策だ、と世界に向けて言っているようなものだ」とのこと。そこでは日本が、メキシコタイイランインドブラジルと同格の“人権後進国”として引き合いに出され、イギリスは導入することでそんな国、つまり欧米流行りのディストピアドラマ「The Handmaid's Tale」の世界のような、女性をモノのように扱う国と同じ方向には向かうべきではない、といったようなことが語られている。

  • Women-only train carriages: Keeping women 'safe' by separating them from men is Handmaid's Tale territory

http://www.telegraph.co.uk/women/life/women-only-train-carriages-keeping-women-safe-separating-men

女性トイレレディースデイはどうなのか」という賛成派の反論についても、女性専用車両正当化には繋がらないことを提示したいがキリがないのでヤメておく。とりあえず、リソースの適切な配分(特定属性けが特定の扱いを受け、それ以外の属性が不平等負担を強いられるべきではない)、代替選択肢存在(「イヤならそこを使わなければいい」が可能か)、その施策が成り立つ前提の倫理的妥当性(女性専用車両なら「女性潜在的な暴力被害者であり、男性潜在的な暴力行使である」という前提)において、質が異なる問題ですよ、とだけ。ちなみに、スウェーデンでは、属性によって分けるトイレから「個室トイレ」に向かっていっているらしい。

はてブの皆さん、差別人権にうるさい皆さん、本当にこれでいいんですか?皆さんの大好きな世界標準から馬鹿にされてますけどいいんですか?「日本人男性世界標準以下の性欲アニマルから仕方ない」で開き直っていいんですか?

余談だがロケットニュースでは、ニュースタイトルが「【キモイ】今朝の東京メトロ千代田線の遅延理由が「頭おかしすぎる」と話題 / 男性複数人があえて女性車両に乗り込み……」となっている。この記事にも「然り!」のブコメが沢山ついていた。

https://rocketnews24.com/2018/02/16/1021546/

キモイ」「イケテナイ」「ダサイ」「カッコワルイ」。こんな調子で、本当にいいんですか?ネット最後良心だと思っていたはてブがこんな調子では、私は一体どこへ行けばいいんだ。


追記:

はてブにも良心があって安心しました。捨てたもんじゃないですね。ひとまず、Twitterブコメで寄せられた、いくつかの重要質問に答えます。

  

手段が低コストであることが、その手段正統性付与するわけではありません。あくまでもその手段で影響を受ける人間利害関係によって調整されるべきです。これは極端な例ですが、麻薬犯罪を無くすために犯罪者中毒者はその場で殺害、あるいは火事を鎮火させるために周囲の家を片っ端から打ち壊し。ともに「ラク解決手段」ですが、 適切ではないのは明らかですね。

マシなものがないのではなく、マシなもの鉄道会社選択されないから、そう思うだけです。これは上の「低コストで予防できるんだからいいじゃん」とも関係しています。ただ、監視カメラ警備員の配置、満員電車の解消、あるいはより良いシステムの構築に向けた過度的なものなら悪くはないですね。

これは確かに一理あるのですが、この話をしだすと論点がズレるか、あるいは論点先取になっています(女性専用車両痴漢対策だ。痴漢こそが対策されるべき問題である。よって女性専用車両必要である)。かつて、盗聴法の成立時に「法の是非を問うより、盗聴されるような行為をするヤツをまずは問題しろよ」という議論があったのにも似ています。もちろん、諸悪の根源痴漢です。しかし、ここでは対策方法がもたらす帰結(あるいは、そもそもその対策方法妥当か)が問題になっているのです。

また、「痴漢を撲滅することの難しさが女性専用車両を生んだ」というのは「犯罪者を撲滅することの難しさが、(犯罪者の多くはAという属性を持つので)Aという属性お断りの○○を生んだ」と言っているのと同じですが、これに何も疑問を覚えないのでしょうか?それでも特定属性を「潜在的犯罪者」として括りたいのであれば、もう私からは何も言えません。入れ墨外人温泉入浴問題と同じですね。どうぞ、ファシズムに突き進んでください。

その存在を「暴力からの隠れ家」として否定していないことには注意してください。

もちろん、特定の状況下における「合理的区別」は合法でしょうし、鉄道会社営業自由一定度は認められてしかるべきでしょう。すでに社会的認知されていることをもって、女性専用車両存在を「公知の事実」とする判例も出ています。しかし、ここで私が問題にしているのは、法律ではなく、倫理です(「まず痴漢倫理問題しろよ」という方は、上記の3を参照してください。「いや、それでも合法から正しいんだ」という方に対しては、これ以上私からは何も言えません)。

ちなみに、「障害者専用車両みたいなもの」という意見は、はてブ民が大好きな欧米リベラルフェミニズムから相当な反発を食らいそうですね。深くは立ち入りませんが、この例えを安易に使うならせめて「骨折患者専用の障害者専用車両」に限定した方がいいかと思います。

アファーマティブアクションがいい例ですね。非対称性権力勾配の是正措置自体は、それが段階的な解消を狙いとした施策であればアリでしょう。

ただし、代替手段のない公共サービス鉄道、それも日本通勤電車で、はたして導入されるべきなのか。また、そもそも車内における男性女性関係において、暴力的非対称性一般的存在しているのかにも注目する必要があります。この存在を認めると「女性庇護されるべき対象」となりますが、ここから先はカトリーヌ・ドヌーヴ議論にも通じるものがあるかも知れませんね。

それから、私が「逆差別だ」とは一言も言っていないことには注意してください。あくまでも、ここで私が問題にしたいのは、賛成派とされるはてブ民のくだらなさ、何よりも“潜在的な何か”を理由にした排除の論理は、新たな権力構造を生むだけではないか、ということです(女子トイレなどとの比較は、別のホテントリにお任せします)。

しっかりと読んでいただければ分かるかと思いますが、私は「暴力からの隠れ家」として特別枠が設けられることには、否定的ではありませんし、優先席も公正な資源配分観点から注目すべきだとは思っています(廃止すべきだ、という議論を完全に否定ではできませんが)。

これはシンプルな代案ですが、「ケア車両」はどうでしょう。暴力に怯える人は誰でも入ればいいじゃないですか。その代わりその車両には、監視員監視カメラガンガンに配置する(もちろん通常車両なおざりにして良いワケではありません)。監視の目が行き届くよう、乗車の人数制限も設ける。

これである程度は、無関係人間による車両乗車への抑止力が働くでしょう。それでも「傍若無人なオッサン」が闖入してくる可能性はありますが、実のところ彼を排除する合理的理由はどこにもないでしょう。

女性専用車両よりもコストがかかる」というツッコミがあるかもしれませんし、「じゃあ早速オマエが鉄道会社に直訴してこいよ(笑)」という揶揄もあるかもしれません。しかし、コストがかる&直訴されて突っ返される可能性が高いからといって、この歪な構造、そして痴漢犯罪が「女性専用車両(あるいはケア車両)」を免罪符にして放置されていいことにはならないのです。

いろんな意見があるかと思いますが、これについては私のスタンス勘違いされるのも野暮なので、ハッキリ言っておきます。対抗して男性専用車両を作るのは、個人的にはトラブルを増やすだけだと思っています(総量を男女比に応じて適切配分するのはアリかもしれませんが、はたしてそんな前近代的ディストピアの到来を望みますか?それで賛成派の皆さんがいうところの「非対称性」は解消されますか?)。そもそもトイレ風呂と違って、ジェンダープライバシーが密接に関わり合うようなものでもありません。

しか男性専用車両を望む男性の皆さん、男性専用車両があるなかで一般車両に乗ってしまい、冤罪に遭った時のことを想像してみてください。もう、どうなるか分かりますよね。ちなみに、同じことが女性にもすでに起きています。こういうの、警察(「なんで一般車両に乗ったの?」)と鉄道会社(「専用車両を用意したじゃないですか」)が笑うだけなんですよ。男や女に対する排除の論理ではなく、上で挙げた「ケア車両」のような“包摂”の論理対策を考えませんか、と私は思うんです。そもそも鉄道会社が誰かをケアする義務を負うのか、という根本的な問題はありますが。

これは、以前Twitter流行った「『告発を無力化する話法』として無力化する話法」ですね。特定集団が抱えている痛み・苦しみが、特定属性排除を許すわけではありません。もちろん、何度も述べているように被害者の痛みに寄り添うことは大切だと思います。ただ、そうであるならば「痛み・苦しみを抱える人」は、男女関係なく包摂されるべきではないですか?もしかして、その有無・大小を性差しかも外見上の特徴)で見分けるのですか?

2018-02-14

独立研究者 森田真生は山師

しかしたら数年前に決着のついてる話かもしれないが森田真生の話をする。

一応どういう人か簡単説明しておく。Wikipediaや本人のHPによれば「独立研究者」という肩書

大学等の研究機関に属さずに数学テーマとした研究をしている在野の研究者

著作もいくつかあり、中でも「数学する身体」という本は小林秀雄賞をとっているらしい。

また「数学演奏会」なるイベントを定期的に開いているとのこと。

僕はこの人の著作を読んだこともないし、「数学演奏会」に行ったこともないので正直あまり知らない。

ただ僕が簡単アクセスできるこの人の情報から判断するにこの人は胡散臭い

多分この人が話題になったのは結構前の事だと思うが、今更書くのは僕が注意を向けたのが最近の事だからだ。

前々から書店に陳列される著作を通じて存在は知っていたが読んだことは無かった。

本の見た目からして一般向けの啓蒙書という感じなのでスルーしていた。

しか最近知り合いがこの人の名を挙げたので気になって調べてみたら思ったよりも浅薄で、

数学の専門知識の無い人をおかしな方向に誘導しているように見えたので、注意喚起意味を込めてこの文章を書くことにした。

森田問題点は単純で「数学知識があまり無いのに、まるで数学を知っているかのように語っている」というのに尽きる。

これだけだと説得力もないし、内容も不明瞭なので森田数学知識があまり無いと判断する根拠を記す。

何をもって知識が無いと判断するかは難しいところだが大きく、森田の語る内容が表層的という点からそう判断した。

森田はTEDで講演している。是非見てほしい。(他にもいくつかYouTube森田動画があがっている。)

森田のTEDでの講演

https://www.youtube.com/watch?v=Hx6ZNEWydCU

浅すぎないだろうか。この内容を話すのに数学の専門知識必要な部分は一つもない。

一貫して根拠のないフワッとした話ばかりで最終的には岡潔を引いて「数学とは自分内面出会うことだ」などと言うが、

説明あやふや哲学的にもお粗末なものだ。

かにトーク性質からしてあまりテクニカルな話はできない。

ただ専門知識仮定しなくても実りある話はできる。

次のフィールズメダリストのVillaniによるTEDでの講演を見てほしい。

https://www.ted.com/talks/cedric_villani_what_s_so_sexy_about_math?language=ja

この講演は本当に凄い。専門的なバックグラウンドもつ話を一般人向けの話にうまく落とし込んでいる。

Villaniが例外的に上手い部分はあるとはいえ、一般人向けにある程度深い数学の話をするのが不可能ではないことが分かる。

森田が誰にでもできる程度の講演しかしないのはその程度の知識しかいからだと思っている。

森田研究者というが論文特に書いていないため、知識の程度はわからない。

検索で引っかかる唯一の森田による大学数学レベル記述は「哲学者のための圏論入門」というタイトルpdfだが、

内容としては圏論哲学系の人に紹介するものなので、その目的からしても当然のことだが入門的内容のまとめに過ぎず、

ここから知識の程度を測るのは難しい。これをあえて書いたのはこのpdf存在森田知識証左になると考える人いるかもしれないため。

これくらいは数学科卒なら大抵書ける。

また森田の話に出てくる数学者はグロタンディーク岡潔マクレーンチューリングウィッテングロモフ等といった

ビッグネームばかりでしかも分野もばらけているというのも不思議だ。

何らかの研究対象があればその分野で一流の研究者名前が挙がっていいはずだと思うのだが。

他にも本人のTwitterなどを多少見たが、特定の分野に対する造詣は感じられないし、一般啓蒙書的な数学理解を超えるものは見られない。

森田知識がない分には一向に構わないが、無い知識数学を語らないでほしい。

数学を語るのが数学者だけの特権と言うつもりは全くないが、専門知識を語るのは難しいことだということを強調したい。

数学書を理解するのは一定の訓練で出来るようになるが、その内容をテキストから離れた自分文脈に組み込んで話すのはずっと難しい。

しかしそれが出来なくては一般人のレベルに専門知識を落とし込むことは出来ない。森田はこのレベルには達していない。

数学について語るのではなく、自身数学観について語るのは構わないが、それならばビッグネーム名前を借りるべきでは無く、

徹頭徹尾自分言葉で語るべきだろう。権威の名を出して森田数学観を語れば、一般人にはそれが独自見解と気づくのは難しいのではないか

僕には森田数学観とこれまで数学者によって積み上げられてきた数学は大きく異なると思う。

数学に関心を持つ人が森田数学観に感化されて、数学を学ぶ機会を逃してしまうとすればそれは不幸なことだ。

2018-02-04

anond:20180203213633

「贅沢な生活楽しい」って誰が言った? そんな浅薄生き方しかしていな奴の軽い言葉に騙されるなよ。「趣味を持て?」ってアドバイスも糞。人間は四苦からは逃れられない。自分の確固たる生きざま、信念、哲学を持てよ。年収5000万円の先輩からアドバイス

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