たまたま数学だけが、誰が使っても同じ答えが出せるように設計されているのであって、
国語教育とは、おおむねの人が理解でき共有できること を目指しているのだから、比較対象にするのはナンセンスである。
美術や音楽、書道に点数がつけられるのか?は、つけられる。ある技術の習得度合いは、十分な技量を持った教員なら判断ができるからである。(例えば対戦ゲームが上手い人は相手がどのくらい上手いかは、自分の経験と照らし合わせて相対的に量れるだろう。体育は数値化が可能だったから数学と同じ扱いなのであって、数字が出るものが上、なのではない)
国語教科のルールの中でどれだけ点数が取れるかはルールを理解して適切に処理しているかどうか、だけで決まり、
なんとそれは女性の脳の方が言語処理に優位で、一般的に男子は成績が取りにくい。
ゆえに、自分が成績を取りにくいから劣った教科、劣ったシステムと見なされやすいのである。
(弁護士は男の方が多い~云々は、女性は難しそうだから勉強すること自体を諦めがちになり、社会的にも男性の肉体をしていた方が信頼されやすいためで、フラットに勝負したら全員女性の脳を持つ者が有利に就くだろうし、そもそも将来的にはAIに取って代わられる)
国語教育は感情を扱っているから下、なのではない。感情を言語化する技術は大変高度であり、さらにそれを大勢が共有し理解させる形で出力できるのは、為政者に必須の技巧である。(だから巫女が王だったんだね)
お金は感情を数値化したものだ、という直観はあったが、作品への評価=値段、という考え方を嫌うのは浅薄だ。しかし、それも感情である。
感情への感情の支払い方として最も適切なのは、作品に対しては作品を返すことである。
ところが日本の教育は、国語、美術、音楽といった表現行為を、下に置いてきた。あるいはダンス、スポーツ、数学、歴史、社会科、心理、宗教、民俗、すべて下に見る価値観が育まれてきた。
英語に対抗できる言語はプログラミングだけだ。それも母語の音声で記述できることが望ましい。
(というかそれをやってるのが赤ちゃんと母親の歌や絵本なんだけど、それを男のプライドとやらで殊更下に見る。性的な自立に必要だという名目だが、果たしてそれは有効に機能しているのだろうか?)
何が言いたいかというと、教育現場はもっと感情の発露、身体の自由を重視せよ、ということである。
軍隊式は、失敗したのだ。