2018-07-26

たまたま数学けが、誰が使っても同じ答えが出せるように設計されているのであって、

国語教育とは、おおむねの人が理解でき共有できること を目指しているのだから比較対象にするのはナンセンスである

美術音楽書道に点数がつけられるのか?は、つけられる。ある技術習得度合いは、十分な技量を持った教員なら判断ができるからである。(例えば対戦ゲームが上手い人は相手がどのくらい上手いかは、自分経験と照らし合わせて相対的に量れるだろう。体育は数値化が可能だったか数学と同じ扱いなのであって、数字が出るものが上、なのではない)

また学校の成績と製作物自体価値とは何ら関係ない。

国語教科のルールの中でどれだけ点数が取れるかはルール理解して適切に処理しているかどうか、だけで決まり

なんとそれは女性の脳の方が言語処理に優位で、一般的男子は成績が取りにくい。

ゆえに、自分が成績を取りにくいから劣った教科、劣ったシステムと見なされやすいのである

(弁護士は男の方が多い~云々は、女性は難しそうだから勉強すること自体を諦めがちになり、社会的にも男性の肉体をしていた方が信頼されやすいためで、フラット勝負したら全員女性の脳を持つ者が有利に就くだろうし、そもそも将来的にはAIに取って代わられる)

国語教育感情を扱っているから下、なのではない。感情言語化する技術は大変高度であり、さらにそれを大勢が共有し理解させる形で出力できるのは、為政者必須の技巧である。(だから巫女が王だったんだね)

昨今は文や絵の作成物への支持率定量化されるようになった。

お金感情を数値化したものだ、という直観はあったが、作品への評価=値段、という考え方を嫌うのは浅薄だ。しかし、それも感情である

感情への感情の支払い方として最も適切なのは作品に対しては作品を返すことである

ところが日本教育は、国語美術音楽といった表現行為を、下に置いてきた。あるいはダンススポーツ数学歴史社会科心理宗教民俗、すべて下に見る価値観が育まれてきた。

なぜか英語だけは上に見られるのである

英語に対抗できる言語プログラミングだけだ。それも母語の音声で記述できることが望ましい。

(というかそれをやってるのが赤ちゃん母親の歌や絵本なんだけど、それを男のプライドとやらで殊更下に見る。性的な自立に必要だという名目だが、果たしてそれは有効機能しているのだろうか?)

何が言いたいかというと、教育現場はもっと感情の発露、身体自由を重視せよ、ということである

軍隊式は、失敗したのだ。

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