はてなキーワード: 文化祭とは
甲子園の応援に駆り出される吹奏楽部が話題だが、学校行事の設営や運営にかかわる放送部についてはあまり話題にならない。
そもそも放送部が部活動であるという事を知らない人も多いだろう。
学校によっては部活動ではなく生徒会の下部組織的な扱いだったりする事もあるが、一応はれっきとした文化部でありNHK放送コンテストをはじめとした大会の類もいくつか存在している。
俺が通っていた高校では放送部は吹奏楽部に次いで部員数が多い文化部であり、それなりに部費も貰っていて定期的にアナウンスや朗読部門で全国3位以内に入る人が出たりする程度には活発に活動していた。
他の文化部の例にもれず女性率が高い部活であり、男性勢は結構肩身が狭かった。
そんな放送部は運動会や文化祭、各種集会といった学校行事において音響設備の設置と運用、及び記録映像の撮影といった事も行っていた。
今はそうでもないのかもしれないが、俺が通っていた頃はマイクやカメラ、録音機材や編集機材など機材は高価で、放送部は文化部としてはかなりの金食い虫だった。
機材はそれなりに重かったが放送部の男性陣は俺も含め運動部崩れが多く、運ぶ作業はそこまで問題なかった。
踏むなと看板を立て、ケーブルを固定する養生テープにも踏むなと書き、逐一踏むなと口頭で注意しても絶対踏む奴が出てくる。
ケーブルの上に物を置く奴も出てくる。
ケーブルたわんで引っかかって転んたり、断線の原因になると言ってもまあ聞かない。
ちなみにケーブルの上に物を置く率が高かったのは吹奏楽部だった。
なんでこんなところにケーブル置くのかと文句まで言われた事もある。
「オメーのとこの顧問のリクエストで無理にスピーカー設置したからだよ!」と説明しても聞きやしねぇ。
結局本番ではそのスピーカー使わなかったし。
個人的に吹奏楽部は他の文化部を見下してくるというイメージがこびりついているのだが、その原因は母校の吹奏楽部の顧問と部員達のせいである。
運動部から文句が付く事はあまりなく、しいて言えば記録映像が全体的に暗かったと野球部からクレームが付いた事はあったがそれも事情(撮影日の天気が悪く、野球部の練習場に持っていける機材も最小限だったのでどうしようもなかったのだ)を説明したら納得してくれた。
この手のクレームも吹奏楽部から付く事の方が圧倒的に多く、コンテストで結果出してる訳でもないのにやたら偉そうな吹奏楽部に対するヘイトがガンガン貯まる環境だった。
おかげでテレビで吹奏楽部が文化部の代表ヅラしているのを見ると、未だに自然と舌打ちがでてしまう。
楽しかった思い出もそれなりにあるのだが、当時の事を思い出すとどうしても積もり積もった吹奏楽部に対するヘイトを思い出してしまう。
俺が現役だった頃は頻繁に放送部OB、OGが訪れて、発声練習やアナウンス、朗読の指導をしたり、機材の扱いについて教えたりしてくれていたのだが、今はOB、OGであっても生徒や保護者以外が学校に立ち入る事を原則禁止する様になった為、現状がどうなのか聞く機会がなくなってしまった。
ただ昔の様に高価な機材が無くとも撮影や録音はスマホでできる様になったし、編集もそれなりの性能のPCがあれば色々とできるのだろうと予想はできる。
俺が現役の頃の様にビデオテープの劣化を防ぐ為に編集回数を最小限にする、なんて事を心がける必要も無いのだろう。
その意味では放送部にとってMDって結構画期的な存在だったと今さら思う。
https://twitter.com/nijico/status/1558838940257632256
ファンがつどって本を売るイベントの多くはカテゴリー名「同人誌即売会」です。
売り手を「サークル」、買い手を「一般参加者」といいます。本を買うときは通常サークル側で「出場、ブースを出す」するか一般参加者側で「当日買いに行く」どっちかの方法で参加します。(サークルと一般あわせて全員が参加者であり、お店とお客ではないことにご留意ください)
まず同人誌即売会すべてがコミケではないのでご注意を。その行為は「準チョコレートスナック菓子すべてをタケノコの里と呼ぶ」ような行為。争いのもとです。
また参加にあたっては各運営のサイトをよ~~~~~~く隅々までよんで参加してくれ。
ルールをまもらないと、犯罪やトラブルに巻き込まれてもだれに責任をおしつけることもできないぞ。
真名:コミックマーケット。開催回数ごとにC●●●と数字をつけて特定して呼びます。「2022年の夏のコミックマーケット」=「こないだの夏コミ」=「コミックマーケット100」=「C100」です。秋コミはない。
年二回(盆暮れ)開催ですから次は2022冬コミのC101だね。
運営は「コミックマーケット準備会」の名でツイッターしてます。オールジャンルで2~3日間の連日開催です。
※連日開催でも基本的には総入れ替え制(日付が違うと同じ場所でも違う店に代わっている)なので日付をまちがえてはいけない。
東京都から指導が入っておりコロナ下では事前に入場整理券を買えて時間通りに到着してないと一般入場者も入れません。つまりコンサートチケットみたいなやつが必要です。
真名:「コミックシティ」。 ※誤用でシティもなにもかもひっくるめてコミケと呼ぶ若い人も多い。
大きいの(拡大開催)を「スーパーコミックシティ」「スパコミ」「超都市」などと呼びます。スパコミは連日開催(総入れ替え)。他は1日のみの開催期日のことが多いです。
他にもイベント冠名とかがいっぱいある。「スーパーコミックシティ星に願いを2022」とか。この場合「星に願いを」などと冠名のほうで呼ばれる場合があります。
あとものすごく複雑な経緯のすえに、3月のコミックシティだけは「春コミ」と略称するケースがある。(真コミケと紛らわしい)
コミケの1週間あとに大阪インテ会場でやるのが夏冬のスパコミ。
あと連休にあわせ年6回くらいやってます。10月(体育の日)3月(お彼岸)5月(ゴールデンウィーク)とかあるはずだ。
運営は「赤ブーブー通信社」略称「赤ブー」です。男性向けの「青ブーブー通信社」ってもうやめたんだっけ?
オールジャンルではないです。赤ブーは女性向けジャンルメイン。
独自の制度として「プチオンリー」というのがあります。全然プチじゃない謎の包括イベントで、イベントインイベントです。
大事なことはジャンル者の中ではこのプチオンリーの名称がコミックシティの代名詞になってたりします。「シティに出ます」といわずに「プチオンリーに出ます」というわけ。
それもジャンルごとに凝った命名があって、アニメ名称そのままではないので一度、赤ブーのサイトにいって自分のジャンルはなんというプチオンリー名でやってるのか用語をよく確かめてください。
と言っても原作名とプチオンリー名の対応が一覧表で載っているわけではなく、そのプチオンリーがあったイベントだけ「プチオンリーのリスト」の形で載ってます。
じゃあマイナーな原作のファン作品をどうやって探せばいいかというと、「ケットコム http://ketto.com/ 」という同人イベント検索サイトでの横断検索が便利です。
なおシティへの一般参加はコミケほどは入場制限が厳しくないです。企業ブースが少なく転売者が少ないせいかもしれない。
東京で年に2回くらいやってるオリジナル系。つまり二次創作やアニメ系のファンブックは一切売ってないです。
逆にいえば本人のオリジナル設定・オリジナルキャラでさえあればよい。
たまには商業誌でオリジナルでBLやってる方の外伝とか打ち切られたやつの続編とか見ごたえあります。
最近はTRPGのシナリオやゲームブック、キャラシートとかも盛んなのかもですね。(見てきたかのように言う)
東京に住んでたら行くけど規模が小さめなので地方民には辛いやつ。
運営は上2つとは違うらしい。
運営者がスタジオYOU。地方でやってくれるのでアニメ漫画の好きな中高生が気軽に出られる。
手作りグッズやコスプレによる交流も盛んで学校を超えた地方全体の文化祭のような雰囲気。
感染対策状況や開催状況などについて増田は全然経験なくてわからない。つぶれてないといいなぁ
男性向けなどに多い。コミケのない時期に、赤ブーもプチオンリー開催してくれないようなジャンルがファンの集いをひらきたくて手弁当でやってるのが「オンリーイベント」。
つまり箱が小さいので知る人ぞ知る。ケットコムで同行の士を探してくれ。
それかコミケだの大規模イベントでジャンルの人をみつけてその人にコミケ会場ではなしかけて尋ねろ「次どのイベントでますか」と。
最近コロナだから自腹オンリー減ってる。シティのプチオンリーがやっぱり楽ちん。
上の各種イベントがコロナで直前中止になったら一斉にかけこむ。
正直、ピクシブと虎とブースへのリンク集的。あまりまとまってなくて見づらい。執念と疲れない目が必要。
ピクスクと、赤ブーオンラインが二大オンラインイベントサイト。
ピクスクはなんと1サークルだけでもオンラインオンリーイベントを開催できてしまうのだ。力量さえあればだが。
正直今回のC100の鬼行列はもうオンラインイベでいいじゃんとみてておもった。
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今のところの規模感は
俺がいて、同じ大学の男女がいて、近所の女子高生がいて、たまに男子高校生もいた。
基本的には単純で決まりきった業務で、でも自分たちでより良く工夫する余地はあって、
定期的に新メニューが出るから変化もあり、レジ・ご飯・焼き物・揚げ物などで役割分担があるのでチームワークも求められる。
業務でチームワークが求められれば自然とプライベートでも仲良くなり、バイト外でもたまに遊んだり。
ほどほどに肉体労働でほどほどに頭も使うってところもよかった。
最初は直営で、本社の社員がいて、知らぬ社会人と深く話したのは初めてだったかもしれない。
その後は個人が買ったのかフランチャイズ店舗となり、新店長は素晴らしい人ではなかったがそんなに悪い人でもなかった。
同僚の大学生と店長の罵り合いの喧嘩を間近で目撃したり、女子高校生と色恋話で盛り上がったりもした。(彼女はできなかった。)
うん十年後に定年退職したらまた弁当屋でバイトしてみようかなと今でも思う。
さみしいね
小説読んだよ、中学生が拗らせて書いたみたいなひどいやつ、文化祭のコピー本思い出した
マーケティング思考というかペルソナ設定の部分は指摘している人がいるので割愛する
ただ全体を通してブロガーとしての書き方から抜けられてないと思う、そもそもすごいブロガーだから文章力がすごいってことは全くなくて、散文の文章力は全然違うフィールドってことを認識した方がいい
同じ【運動】に見えて全く違う筋肉を使わなきゃいけない状況だってこと
幸い書くこと自体は苦ではないみたいだから書き物のオーソドックスなナレッジから勉強したらいいんじゃないかな、勉強したらPDCA回して書いてまた勉強しての繰り返し
あと小説家になりたいなら小説たくさんインプットした方がいいと個人的には思う、人は知っているものか想像したものしか書けない
多分あなたは小説をそんなに読んでないんじゃないかな(読んでたらごめんね、ただここで自分は読んでる!って言えるのは年間300冊以上とかの人)
流行りのものから文豪、純文学から大衆、SFやミステリ、サスペンスに歴史系、国内外問わず色んなもの読もうよ、紅楼夢とか読んだ?
まあでも読まなくても小説家になれるよ!っていう人もいる、それは恐らく小説以外の媒体で自分引き出しを豊かにしてるタイプだとは思うけど
模写から始めてもいいと思うよ、好きな作家のどこが好きなのか自分で分析して言語化して模倣して腹落ちさせる(当たり前だけど著作権には気を付けて欲しいな)
文章力は鍛えれば鍛えるほど伸びるよ、ただ方向性を定めてきちんと計画してコミットしないと遠回りになることがある、筋トレと一緒
なんかいろいろ書いたけど、頑張ろうね
近所の子供たちから、気持ち悪いと言われたり、草や泥で作ったものをご飯だと言って口の中に押し込まれたりしたこともある。
お金を持ってきたら一緒に遊んでやると言われて、親に理由を言ってお金が欲しいと言ったら、親が相手の子供に抗議してくれたが、親も気持ち悪いとか、チンパンジーの親子だとか言われて馬鹿にされた。
小学校に入った時から、自分は有名人で、「近づくと〇〇菌がうつる」と言われて、友達もできなかった。友達がいないので、一人で遊ぶしかないのだが、一人で遊んでいるとますます気持ち悪がられた。
近所のスーパーの駄菓子コーナーでお菓子を物色していると、同級生が親子で買い物に来たことがあった。その同級生が「あ、〇〇菌がいる」というと、その親に「汚いから〇〇が触ったお菓子とっちゃだめよ」と言われたこともある。
学校では、上履きを隠されたり、机の中のものを全部出されてトイレに捨てられたりしたこともあった。体操服の入った袋をとられて、校庭でサッカーボールのように蹴られて遊ばれたこともある。こともある、というかよくあった。
当然、両親も自分がいじめにあっていることは知っていて、学校に相談したりしてくれたが、全く解決できなかった。逆に、〇〇君は勉強をしっかりしていないので、家でしっかり勉強の面倒を見てあげてほしいとか親が責められたこともある。だって、いじめられてて学校が嫌なのに、勉強なんてするわけないよ。
そんな時、母親が2つ離れた市にある学習塾に通ってみるかと提案してくれた。小学校5年生になった時だ。離れた市なら知り合いもいないし、塾の先生に事情を話したら、市外の子でも大丈夫と言ってくれたそうだった。
小学校の授業は、今でも記憶にないくらい何を教えてもらっていたのか覚えていない。当時も学校に行きたくなかったので、授業も全く聞いていなかったと思う。自分は馬鹿だと思っていたので、塾なんて無理だと思っていたけど、子どもだし親に言われるがままにその塾に行ってみた。
最初に受けた算数の授業の内容、今でもよく覚えている。今でも衝撃的なその瞬間を覚えている。
勉強が分かる。楽しい。多分、自分の人生が変わった瞬間だったと思う。
それから、塾の勉強に一生懸命取り組むようになった。塾のテストで成績が上がると、先生はいっぱい褒めてくれた。うれしかった。
他の生徒も、自分のことを知らないのもあったのかもしれないけど、知らない子がいる程度の感じで、気持ち悪がったりすることはなかった。ただ、友達はできなかったけど。
小学校では相変わらずいじめを受けていたけど、塾に通うようになってから、前よりも辛く感じなくなっていた。
ただ、中学に入ってから、いじめがよりひどくなった。中学1年の時に、クラスの女子が、〇〇に痴漢をされたと触れ回ったことだ。当然、痴漢はしていないし、話したことも触ったこともない。
その後3年間、机や教科書には痴漢魔と落書きされ、上級生がわざわざやってきて、痴漢魔への制裁といって、毎日頭をはたかれたり、後ろからいきなり蹴り倒されたりした。
今でも忘れられないのは、中学2年の時に、休み時間が終わると(その時はいじめられない図書館に逃げていた)自分の机の上に、何か液体が入った小瓶がおかれていて、その中身がどうやら精子だったことだ。
誰かがそういういじめをしようと計画したのだろう。いじめをしていた男子が女子の方にその瓶近づけると、女子たちは悲鳴を上げて逃げていた。最後には、その瓶の中身を机の上に出された。
拭くものがなかったので、落書きされた教科書やプリントで拭うと、周囲からまた悲鳴が上がって、本当につらかった。
それでも、塾には通い続けた。その時は親と相談して高校は県外の高校を受けることに決めていた。
またその時は、塾以外に打ち込むものもできていた。10歳年上のいとこがバドミントンをやっていて、社会人のバドミントンサークルに誘ってくれたのだ。
ただ、サークルで使っている体育館は、家から車で1時間半くらい離れたところにあった。毎週土曜日の夜に、父親が送り迎えしてくれた。
塾も市外で遠いところにあって、ほぼ毎日母親が車で送ってくれていた。
塾は高校の部もあったけど、県外に進学したので通えなくなって辞めたとき、両親と塾に挨拶に行った。
塾の先生はよかったな、と泣いてくれた。先生を見て両親も泣いた。
バドミントン部に入って、友達もできた。その友達とは、大人になった今でも付き合いがある。
高校3年間は、とても楽しかった。男子校だったが、クラスでちょっと悪そうで遊んでるような、中学だったらいじめをやってそうなタイプの奴でも、ものすごくいいやつで、そいつとそいつの彼女との色々な話を聞くのが楽しかった。
誰も外見とか性格とかで差別しなかったし、勉強も部活も文化祭や体育祭も全力で楽しめた。
大学に入ってからもバドミントンは続けたし、部活の関係でバイトを紹介してもらった。
大学でもバイト先でも、自分のことをいじめたり、気持ち悪がったりする人はいなかった。
ただ、女性に対しては、中学の時の痴漢騒ぎを引きずっていて、苦手だった。結局、高校・大学と恋愛とは無縁な学生生活だったけど、とても楽しく、充実したものだった。
大学は大学院まで行き化学系の研究室で研究を頑張った。大学院での研究大変だったけど、それでも乗り越えられたのは勉強の楽しみを教えてくれた塾のおかげだと今でも思っている。
その後、希望していた化学系のメーカーに就職することができた。
就職してからも、仕事のために勉強しなければいけないことが無限で、終わりがない。
でも、勉強はかならず答えを与えてくれる。やればやるだけ成果が出る。結果が出る。自分にとって勉強は最強の武器だと思っている。
そして、こんな自分にも出会いがあり、結婚することもできた。バドミントンは今でも続けていて、社会人のバドミントンサークルで出会ったのが奥さんだ。
奥さんには申し訳ないが、自分のような女性と縁のない人間が女性と出会えたのは、やはりしっかりした仕事についていることが信頼されたことが理由だと思っている。
勉強ばかりしてないで、たくさん遊べとという考え方の方が普通だし、その方が楽しくて幸せな人生を送れるのかもしれない。
それでも、勉強という、自分の中で揺るぎない武器があることが自信につながったし、今の幸せも勉強が与えてくれたものだと思っている。
あーそのヒット曲からこのバンド知ったの?俺は違うよ、そのバンド名出すとそのヒット曲の名前出すのやめてくれない?ってやつだね
気持ちはわかるけど、ウマ娘がなければ一生思い出さない記憶を思い出して、それはありがたくて懐かしくもあったな
ずーっと継続的に追いかけてるファンはそうでもないのかもしれないけど、何年かに一度、話題の時に競馬は触れるような感じだった俺からはそうだった
俺はエルコンドルパサー、グラスワンダー、セイウンスカイは知ってたけど、スペシャルウィークは知らなかった
ウマ娘でエルコンドルパサー見て、あー当時、凱旋門の話を兄貴が興奮して親に話してたよなーとか思い出してた
ライトファンだったから、馬名を聞くとレースよりも当時の人を思い出すんだよね
中学の時、高校の文化祭見に行った時に親にタイキシャトルどうだった?って聞いた思い出とか
中学のクラスで、明後日のフェブラリーステークス見ろよ!って言われた思い出とか
タイキシャトルの引退レースで岡部の追いが遅くて、って話してた友人とか
国語の先生が、マチカネフクキタル!こんな面白い名前の馬がいて、マチカネフクキタル!ってなんか授業中に言ってたわ、とか
ディープインパクトがハーツクライに負けた有馬の時当たった馬券を梅田のウィンズで引き換えてデート資金にしたこととか
【序文】
2020年末の例の炎上騒動あたりから過疎がはじまって、最近とくに面白くなくなってきた。
2022年のnote創作大賞が終わったあたりから、さらに過疎がひどい。
「ああつまらない、面白くない」と愚痴っても生産性がないので、私はここに考察したい。
note公式では「ユーザー数がうん百万人を突破!」みたいなことを宣伝してますが、ユーザー数がいくら増えたところで、
実際にログインする人、記事を書く人、ページを読んでくれてる人、が大事。(それぞれ専門単語があるんでしょうけど専門家に任せます)
それを考えたら、1日1人あたりのページ巡回数が明らかに減ってる。(公式では発表してないと思いますが)
代表的な方の記事を見ても、以前(2020年とか)と比較して、「スキ」の数が減少している。
つまり、活動ユーザー数が減っている。つまり、過疎が進行している証左。
むかし(とくに断りがない場合は2019年~2020年)はユーザー同士がキャッキャウフフしてて楽しかった。
ほんとうに「街」のようでした。
それが現在は企業アカウントが目立つようになって、おそらくnote社も企業アカウントに注力していて、
結果として一般ユーザーを見ていない=一般ユーザーはなんだか面白くない=なんだかわからないけど記事を書かない=ログインしない=過疎になっている、も一因。
以前より整備されてきれいなはずなのに、人がいない企業の看板だらけのゴーストタウン。(になりかけている)
コンテストを定期的にやっている。
企業が協賛して「仕事で感動したこと」とかの記事を一般ユーザーが書いて投稿して、優秀者にはプレゼントとか当たるやつ。
ふと思ったんだけど。
これって結局はステマじゃない?
noteユーザーのうん百万人がその企業名を目にして、読んで、何千人かは記事を書く。
そして、この広告=コンテストがnote社の収入源になってるはず。いくらでコンテストを開催できるのかは知りませんが。
ユーザーもうすうす感づいてるのか知りませんが、古株の常連さんはもうコンテストに投稿すらしてない。
コンテスト=ステマを思いついたのはnoteの大きな発明だったと思います。
そして過去最大のコンテストが2022年2月に開催されました。
結果は4月に発表。詳細はnoteを見てください。
noteユーザーの大半を占める素人勢はかすりも(かすった方もいらっしゃいますが)しなかった。
当然私もかすりもしなかった。
そこで現実を知ります。コンテストでキャッキャウフフやってたけど、いざ、プロも交えて真剣勝負したら、素人なんてかすりもしない。
「このままでいいの?」
・いい人→最初からそんなたいそれた気持ちで書いてない→そんな人は残って書き続ける→でもそんな人の書く記事は面白くない→面白くない記事だらけ
・よくない人→プロとの力量の差で呆然とする→noteでキャッキャウフフやってる場合じゃない→真剣にプロを目指す(公募にチャレンジ!)→noteから消える
これですよ、現状は。面白くない理由は。note創作大賞はパンドラの箱を開けた。
第一次世界大戦が2020年の炎上騒動なら、第二次世界大戦はnote創作大賞。
ねえ、そんな街、面白い?
スキなプロがいて、その人の記事を読みたい人は残るかもしれない。でも、私はとくに課金していないし、読みたい記事が減っている。ほぼない。
種種雑多な記事がどんどん更新されて「なんだかわからないけどこの人達キチ○イだな笑」が量産されたら楽しい。面白い。大好き。
時代とともに(横軸:時間)カオスが減って(縦軸:カオス)あとに残るは企業アカウントの硬いステマ記事と、プロの課金目隠し記事と、モブキャラのどーでもいい日記。
【7】「じゃあどうしたらいいのか?」
(1)以前のように記事の1行目だけ表示させる(タイムラインに題名しか載っていない=題名で読ませる変な記事が多い=1行だけでもお試しで読ませれば内容・力量がすぐにわかるのに)
(2)スキをなくす(または非表示にできる)(スキを気にしてカオスな記事が書けないでしょ?)
(3)くだらないコンテストをやる(企業協賛してなくていいから、note社員が自腹でもいいんじゃない?高校の文化祭みたいで楽しいでしょ)
(4)ダークサイドnoteをつくる(note1がいまのnoteなら、note2をつくって、もっとカオスなやばい人を集める)
個人的に1>2>3>4かな。
今週末にやること。
(1)mixiがなぜ過疎ったのか考察する(二の舞いになるよー)
(2)noteのアクティブ数(滞在時間)がどの時期から減ったのか考察する(データはあるので真剣に考察して打ち手を考えよう。今のようにユーザー数だけ追ってたら焼き畑です。日本の人口は限られてます)
(3)社員はユーザーに向けてもっと発信する(そろそろなんか言ってもいいんじゃない?「知らないあいだに大きくなって」みたいな他人事だと、心あるユーザー離れますよ)
【跋文】
ここまで読んでお分かりのとおり、私はnoteがスキだ。毎日ログインしている。でもつまらない。
このままだとある日突然、ぷつっと、ログインしなくなるでしょう。
そろそろ臨界点だと思ったので、警鐘を鳴らしたくて、この場を選んだ。
こんな記事noteに書いても読まれないし。運営に黙殺されるし。
つまんなかったは嘘。ふっつーに面白かった。
ただふっつーすぎて読めるけど味がしない。
読んでてなんの栄養素も摂取できてないなと思って文化祭で読むのやめた。
まーあれですよ。男にも受ける少女マンガですよ。
俺は君に届けぐらいしかしらんけど。君に届けを読んでる気分だった。
高校生にもなって既存の人間関係が希薄で世間知らずな女主人公(根暗だったり田舎からの転校生だったり)がイケメンや地味女や一般的で普通の範囲の意地が悪い女性とあっさり仲良くなって素朴な感性が素敵だねって受け入れられていく系のぬるま湯なあの心地いいお話。
最初期にイケメンのヒーローと美人才女をイージーにゲットしておいおいコイツ無敵の勝ち組かよって思った。それが悪いほうに働いてなくて二人ともいいキャラでなじんで面白くはあったけど、コイツらに好かれている時点で落ち目もなにもないだろうなと感じた。
だから物語も文化祭までヒーローの過去の確執をちょいみせしつつもなんか面白さを見つける波長が合わせられなかった。イケメンヒーローのもう終わったっぽい過去に惹かれなかったし。
そんな俺の目から起伏がない漫画で、でも読ませられるっていうのは漫画力が高いのかもしれない。
でもこの先、面白くなったとしてもたぶん潮が満潮になったよーって感じの面白さだと思う。俺は高波や津波が欲しい。
こういう漫画の面白さは確かにあるんだけど、3,4作品に触れるともういいやってなるからこれが初めて触れるこれ系の作品な人は普通に楽しめるんじゃないかな。まともに漫画をちゃんと楽しもうとする人も作品ごとの差異でちゃんと楽しめるんだと思う。俺は別にいいやってなっただけで。
でそんな少女漫画寄りの作風だったせいですっげー邪魔だったのが"なんでこれアフタヌーンでやってんの?"って感想だった。
アフタ系が好きででもこの作品をずっと今までスルーしてきていざ読むとやっぱそれほどアフタっぽくなくて。アフタっぽさってなんだと言われたらわからんけども。いやあるか?アフタっぽさ。んーでもアフタでもいいけどアフタじゃなくてもよくない?みたいな作品だった。それがずっとよぎってた。
それとおじと演劇の人の初登場とか序盤にちょいちょい女性性寄りの男性を差し込まれてうげーってなってしまってそこで一歩引いてしまったかも。おじのキャラは好きなんだけどね。そういう作者かーって色眼鏡かけて警戒してしまった。まあそんな警戒するほどでもなかったけど。演劇の人はそれ無関係で好きじゃないキャラでした。
んー。似た語感で避けてたあせとせっけんを読んだほうがよかったかな?
平成2年生まれ。現在31歳。既婚。首都圏のはずれ育ち。胸はG65。
“女”として経験したさまざまな“忌まわしい経験”の中から“乳絡み”の部分だけを抜き出し、できるだけ素直に記録していこうと思う。
思い出すがままに書くので無駄が多くまとまりがない。よっぽど暇でない限り読まないことを推奨する。
・小4で生理が始まった。そのころから乳房が膨らみだし、乳首が浮くようになってきたので胸の部分が二重になったキャミソールを着用し始める。
近所の友達(上は中1までいる男女混合のグループ)で集まって川遊びをしていたら、Tシャツの下に着ていたそのキャミの形が透けてしまったようで、
最も年長の男子から「おいお前もうブラジャーしてるん?」と大声で囃されて恥ずかしくなりその日以降、川遊びはしなくなった。
・小6ですでにBカップ程度に成長していたので体育のときなどに男子たちがこそこそと「揺れてるw」ときゃっきゃしているのは当たり前のようになっていた。
いやらしい目で視姦しているというより、本当にきゃっきゃって感じで、私の胸をその場のちょっとした笑いのネタにしている。侮辱されていると感じたし悔しかった。
女子の友達が「最低」と言ってにらんだりしてくれたが、私はむしろその場にいることすらいやだし話題にすらしてほしくなかったから少しありがた迷惑だと思った。
でも今思い返せば、あんなふうに守ってくれてありがとうって感じる。
・児童クラブからの帰り道、サラリーマン風のおっさんに「おっぱい大きいね」といわれる。触られたりはしなかったけど本当に怖かった。
変質者に遭うのは初めてではないけど、めっちゃ普通そうな優しそうなおじさんに白昼堂々威風堂々とそんなことを言われて混乱した。
・中学生になる。ブラジャーはすでに大人のものをつけていた。確かCカップかな。
電車通学が始まる。痴漢に遭う。これに関しては胸が大きいからではなく制服姿だったことが大きいと思う。
これは高校卒業(中退)までずっと続くことになる。友達と乗る車両を合わせてかたまることで自己防衛していた。まあそれでも防げないこともたくさんあるけど。
これまでの人生で少なくとも20回以上は電車内痴漢にあっていると思う。
何かのイベントでものすごい混んでいた時、乗車口ですれ違いざまに思い切り胸をわしづかみにされたこともある。あれは泣いた。
・体育祭で腕を組む振付のあるダンスをすることになり、隣の男子に「おい押し当てんなよ~」と冗談をいわれる。
「誰がてめぇに押し当てるかよ」と思いつつも「そんなことするわけないじゃーん」と笑って対応。そういうやりとりが多く、笑ってごまかすうちに「エロキャラ」
みたいになってしまう。私の最も印象に残っている体育祭の思い出はコレだ。くそ。
男女半々で常にウェ~イって感じのグループが頻繁に誰がかわいいとかかっこいいとか話しているのが耳に入り、
誰が一番胸がでかいかとかどんな下着かというのをそのグループの女子が吹聴しているのも聞いた。
そのグループの男子がこそこそ私をみて「〇〇(私の苗字)・オブ・ジョイトイ」と言って笑っているのも聞いた。
死んでくれと思ったけど「そういうのやめて」ってシリアスに言うとノリが悪いとか自意識過剰と言われそうだったから何も抗議はしなかった。
むしろそういうことにマジ切れしている女友達をどこかダサいとかうっとうしいとすら感じてしまっていた。
・プールの授業はほとんど「生理です」で欠席を通した。どうなるか目に見えてるもんね。
・中2くらいから少し太ったこともありさらに急速に胸が成長。白っぽい簡素な下着をつけることという校則があったけど、
白くてレースもついていないようなブラは私のサイズではほとんどなかった。
このころから“聞かせる変態”“見てますよ変態”のようなものに頻繁に遭遇するようになる。
すれ違いざまなどに「でかっ」と聞こえよがしに言ったり、胸をジーっと見た後顔を見てにやあっと笑ったりする男の人のことだ。
触られてるわけではないし、思い違いかもしれないし、そう思うと誰かにこの経験を打ち明けようという気持ちすらわかなかった。
・中3。スカウトもどきの変態に出会う。おしゃれ眼鏡をかけたBrutusを愛読してそうな男性に芸能事務所のものですが、と声を掛けられ、
バカな私は真に受けて一緒にカラオケに入ってしまった。途中から変な話になってトイレ行くふりして逃げた。
「胸っていうのはホルモンで大きくなるんだよね。貴方は背は低いから生理が始まるの早かったでしょ。早熟な証だよ。
それでね、気持ちいいことをすると、胸が大きくなるっていうのが科学的に証明されているんだけど、早熟なあなたはきっと、気持ちいことを
ひとりでやっているんじゃないかな?それは恥ずかしいことじゃないよ。おっぱいが大きいのは恥ずかしいことじゃない。
早熟なのも、気持ちいいことが好きなのも恥ずかしいことじゃない。おっぱいは気持ちいいことをすると大きくなるんだよ、
もっと触ってって主張するために大きくなるんだよ……」思い出すだけで気持ち悪すぎてはきそうになる。
・高校。おしゃれに目覚める。いわゆる青文字系雑誌のテイストが好きだった。これまでの経験からボディコンシャスなファッションは好きになれなかった。
しかし巨乳と青文字系は相当に相性が悪く、何を着ても思ったのと違う感じになる。
・このころから本格的に自分の胸が忌まわしく思えてくる。肩は凝るしセクハラはうけるし洋服は似合わないし。
更衣室で女友達がうらやましいと言ってくれるときだけ半分嬉しくて、でもやっぱり半分は「どうせ太ってるって言いたいんでしょ」と卑屈になっていた。
コスプレ好きの友達に胸を締め付けるさらしのようなものを借りるが苦しすぎて日常遣いは断念。
痩せりゃ胸は減るだろうと最低BMI15台までダイエット。生理とまる。胸はE→Cまでサイズダウン。
そして私はここから数年間摂食障害に苦しむことになるがそれはまた別の話。
・摂食障害等により学校生活に支障をきたし始めたため、高校は2年時にドロップアウト。
・19歳で高卒認定をとり、21歳から看護学校へ通い始める。このころは摂食障害も少し落ち着き、BMIは19まで回復。胸はG65に。
(おっぱいとは関係ないけどこのころ飲み会で知り合った男性に「女の子はこれくらいふっくらしている方がいいよ」と言われてファッ?!?!?!となる)
実習ではおじいさんやおっさんの患者にセクハラ発言されまくる。体位変換や移乗、おむつ交換でどうしても患者の肩や膝にわがパイオツがあたってしまうのだが、
「わざとやってくれてるの?」とか「いいねぇ(にやぁ)」はもはや日常。
・ブラック看護学校だったのもあり、ただ実習をこなすことだけに必死で、そういったことに対して怒る気力がなかった。
今思い出すと腹立ちで眠れなくなるけど。
スタッフIDとかテープとかのちょっとしたツールを首から下げたりするんだけど、使いやすくするために紐を長めにして斜めかけにする人も多かった。
私もそれをやったけど、研修医に「パイスラですね」と言われエプロンタイプのツールバッグ?にチェンジした。あいつ死んでくれ。
・25歳で初めて彼氏ができる。告白されたり飲み会でいい感じになった男性はそれまでもいたけど、嫌な経験しすぎて男性不信気味だったため付き合うまでいかなかった。
彼氏は顔もかっこよくないし超ド級のぽっちゃりさんで私より給料も低いけど、とにかくぜんぜん体形とかの話をしなくて、それが私にとって一番安心できる要素だった。
摂食障害も治ったりぶり返したりだったから、そういうところには敏感になっていた。
・性行為も胸を見せるのも彼氏が初めてだった。そのときはじめて彼氏は私の身体に対してものを言った。
「すごい…きれい、おっきいね」と喜んでいたけど、それはぜんぜんいやじゃなかった。
彼氏のことが好きで、彼氏に自分の体をほめてもらって、喜んでもらえてすごくうれしかった。
喜んでほしいからコスプレとかもぜんぜんやったし、いわゆるパ〇ズリとかもやった。こんなのなにが気持ちいいんだ?とは思ったけど、
・ある日、なんのきなしに自分の勤める病院のことをググってみた。すると〇〇病院という名のスレが爆サイという掲示板サイトにあった。
「〇科の爆乳ナースエロい」「夜這いしてくれる」「押し付けてくれる」みたいなことが書かれていた。
私は看護師としては一応のプライドを持って患者さんに良い看護を提供しようと努力していた。こんなこと書かれるいわれはなかった。
怖かったし、怒りで体が沸騰しそうだった。
現場でのセクハラは師長さんとかに相談すれば担当をはずしてくれたりするし、誰が何を私にしたか、私にはわかる。
でもネットの書き込みは患者なのかスタッフなのかすらわからない。
・結局、怖いので退職して別の病院に移った。患者もスタッフも女性ばかりの科。産婦人科。すごく気楽。助産師じゃないから地位は低くなったけど。
そしてこの科ではおっぱいは1ミリメートルもエロいものではない。臓器の一種でしかない。
乳首や乳房を触るのもエロい行為ではない。おっぱいはなんでもないことのように、それでいてとても大切に扱われる。最高だ。
・例の彼氏と結婚した。結婚式は神前式にした。単に白無垢が好きなのと、ウェディングドレスは胸の強調されたデザインが多くて、胸にいい思い出のない私は着たくなかったから。
・体育祭の思い出、文化祭の思い出、カラオケの思い出、看護学校の思い出、川遊びの思い出、児童クラブ、バイト、プール、遊園地、電車、就職……
31年生きてきてたくさんの思い出があるけど、そのどの場面にも裏面みたいなのがあって……。
楽しかった表面を思い出すと常にその裏面(セクハラや痴漢、いやな視線、いやな言葉等々)も思い出されて、
そして全てが裏面に蹂躙されている思い出もあって。
おっぱいは自分の好きなパーツでもあるけど同時に災いを呼び込む呪物みたいでもあって。
えくぼみたいになってくれたらいいのにとか都合の良いこと思ったりっもする。
かわいいパーツだけど、そのせいで嫌な目にあったりはしない。ただの体の一部分。そんな風になればいいのに。
ここまで書いて疲れちゃった。寝よう。ほな……
文化祭とかになった時だけ張り切るけど、普段の行動から信用ないのでリーダーシップ取れず
卒業式ではなぜか1人だけ盛り上がって号泣してクラスのみんなドン引き。
みたいな過去がありそう。
マジでつまんねえよな。
「くっだらねーよな青春ごっこなんて」とわざと聞こえるように言っておいて、怒られたら「え?言論弾圧ですかぁ~~」とか抜かすような気持ち悪さだ。チー牛みたいなオタクくんたちだって雑なりにアリバイ工作してベランダで黙々とモンハンして時間を潰して表向きはヘラヘラしているぐらいのことは出来る。お前だけが大人になれなれてないんだよ。体育祭でオタクと不良はサボってゲーセンに行ってる時、お前は誘ってくれる友達も居ないから校庭で退屈そうにヤジを飛ばしてるんだ。それを友達にも一緒にやろうぜといったけど「いやお前、冷めるわ。空気読めって」と注意されて不貞腐れてるんだ。マジでドン引きされてたよお前らみたいな奴ら。
そういった感覚がまるで分からないから相手からハッキリ拒絶されるまで纏わりつくんだ。そもそもお前って昔から金魚のフンだったよな。なんか口先だけリーダーっぽく仕切って見せることもあっても、結局誰もお前の意見なんて聞いてなかった。だって聞いたら大抵はお前の考えなしに巻き込まれてつまんねえことになるんだもの。そもそも人と関わるために必要なものが全部足りてないんだよ。自分の優先順位が高すぎるし、他人の気持ちを想像することも出来ない。思い込みで突っ走ってすぐに被害者ぶってはキレ散らかす。でも大抵の場合はお前こそが加害者だったよな。
黙って自分の楽しめる所に行ってこいってことだよ。わざわざ不貞腐れた顔を見せつけようとグルグル歩き回って構ってちゃんしてんじゃねえよ。結局お前はいつまで経っても赤ちゃんなんだよ。自分のバブバブオギャーオギャーに他人が反応してくれることにだけ存在意義を感じてるんだ。それもこれもお前が人に何かを与える側になった経験がないからだよ。何かを貰うってことしか社会における付き合い方を知らないまま身体だけデカくなっちゃったんだ。学校のテストも仕事の役割も人から与えてもらってきただけ。貰った積み木で遊んでそれを褒めて貰っていただけで、結局お前が他人の側に何かを与えたことは一度もないんだ。だからお前はいつだって自分は他人に構ってもらう側なんだって思い込んでる。それも他人を自分の両親と勘違いしたままで。自分が話題の中心じゃないと許せないんだろ?だからわざわざnot for meを言いに来て、それから自分の話を始めるんだ。そうして構ってもらいたがる。いい加減成長しろよ。いきなり大人になれってことじゃなくて、せめて赤ちゃんから幼児にまで成長してくれよ。
俺は理解できねえ
まずここがわからない。
最初に断っておくがこれは「漫画なんだから全部フィクションだろwwww」で終わる話じゃない。
「作中のキャストが実際に体験したことを映像化した部分が何割含まれているか」という話であり、逆の言い方をすれば「両親や同級生も全部俳優で、中学生の主人公とオッサンの主人公は別の俳優がやっている」という解釈が正しい可能性も考慮するということだ。
ありがちなパターンで「4コマ漫画になっているページは映画」だと考えると母親の病院を爆破したのが現実になってしまう。
逆に「4コマじゃないページは映画」だと考えてもいいがこれだと現実部分がコリジョンを起こし始める。
全てのページが映画であり映画の中で映画を何回も作るという『カメラを止めるな』方式なのだと考えるとハッキリするが、その場合この話は「作中のキャストにとってもフィクション」となるのだろうか?
この入れ子構造は作中で何度もループがされており、主人公が文化祭でクソ映画を上映したことだけが真実だったり、逆に文化祭でクソ映画を上映することはなくいきなり泣かせる映画だけ上映していた可能性もあるのだ。
難しい。
とっかかりがない。
それこそ「あの世界には本当に吸血鬼がいて、主人公は吸血鬼を爆破して去っていった」という仮説さえもオッズこそ凄いことになってしまうが完全に死んでいないのではとさえ思えてくる。
「大きな嘘は作中に1つまで」という映画論もあるし、また「作中に1つだけ論理破綻を残して受けての考察を深める」という意味不明な理屈もある。
後者の理屈は往々にして映画か解説者のどちらかの頭が破綻しているのを必死になって誤魔化そうとする場合に使われがちだ。
たいていこの「1つだけ論理破綻が残されている」の理屈を安易に振り回す考察者はのちにスタッフインタビューが出てきたときに大恥をかいて「でも映画を見ただけだと読み取れなかったんだからしょうがないじゃん」と慌てふためくものである←最初から無理に決めつけて格好つけなければいいだけだったのに……という話であることは伝わってるよね?
さて今回もそこに気をつけていきたいのだが、気をつけようとすると一気に手詰まりに近くなる。
いや答えは見えてる。
「映画の完成にはファンタジーが1つ必要であり、吸血鬼というファンタジーを入れても映画は完成しなかった。爆発というファンタジーを入れて映画が完成した。つまり吸血鬼はファンタジーだった」
これでいいはずなんだ。
いいはずなんだが、誘導されている気がしてならない。
のちにタツキが編集者とインタビューをするときに畳をひっくり返されて顔を真赤にさせられる気がしてならないほどに誘導させられている。
だがそれを恐れて別の考察を始めさせようという悪意さえ感じる。
これがまず思いつく。
前作ルックバックを知っていれば思わずコレに飛びつきそうになる。
でも本当にそうなのか?
カメラは作り手が切り取りたいように世界を切り取ってくることが殊更に強調されていく作品の中で、カメラが切り取ってきたものをそのまま受け取って良いのか?
素直に受け取れという作品で良いのか?
「映画ってマジで面白いよな。映画好きの美少女吸血鬼とかいたら最高じゃね?ついでに失恋するときは相手が病死したら文学的で二重にいいね」とかそういう話でしかないのを必死に意味を見出している我々をタツキが掌に乗っけって笑ってるんじゃないのか?
「爆発オチは最低なのか」という映画にも思えるし「俳優って役作ってるだけなんだよな」って話なのかも知れないし、答えを一つに絞れるのか本当に?
分からねえ。
難しいぞ。
で?お前らこれが理解できたんだよな?
理解できてるからなんか偉そうに「いやー素晴らしい作品だった。これはこういう作品だったわけだが、なるほどなるほどだね」ってコメントしてるんだよな?
俺はもう「分かんねえ……むっず……ところでチッスはしてるけどエッチもしてるんすか?」ぐらいしか言えることねえぞ?
やっぱはてなーって頭いいんだな
どうしてこんなことになったんだろう。ここ数年で何度も思ったことだ。
これは奇妙な巡り合わせで出会った私にそっくりの友人が大学卒業時に書いた文章の書き出しである。この鏡合わせの彼が書いた文章を何度も自分事のように反芻してきた私は今年大学院を出る。修了という立場に際して、私も少し自分語りをしてみようと思う。他人の自分語りなど興味の無いという方もたくさんいるだろうから、そういう方はこの時点で引き返してほしい。思うままに書き殴っているので読みづらいし長いと思うが、それに我慢できる人だけ読んでもらえればと思う。
・生い立ち
私はごく普通の環境で育ったと思っている。地方在住で金持ちでも貧乏でもない家で、両親は優しくて、友達もいた。小中学生のころの自分は一言でいうと優等生気質だった。学校の勉強はそこまで苦にしなかったし、危ないこともしなかった。先生の言うことには従っていたし、学級委員を務めたりするタイプの人間だった。強いて言えば両親が少し頑固だったくらいだ。
小学校では初めに陸上クラブに入った。運動は苦手かつ嫌いだったし、何よりブラスバンドのようなクラブがありそちらに入りたかった。父が無理にでも私を陸上クラブに入れたのは運動の楽しさを知ってほしかったのだと思っている。運動神経のいい父にしてみれば運動は娯楽だったのかもしれないが、運動神経が壊滅的な私にとっては純粋な身体能力を問われる陸上は苦しかった。そのため5年生からはブラスバンドをやらせてくれと懇願した。タダで許してくれるはずもないので中学では運動部に入ると交換条件を付けた。5年生から始めたトランペットは本当に楽しくて練習した。6年生の途中からは1stトランペットを担うこともできた。
中学では周りの部員が吹奏楽部に行くのを横目に約束通り運動部に入った。誤解のないように言っておくと別に部活動自体は楽しかった。ただ音楽室から聞こえてくる音を聞くたびに自分もこの中にいたらどうだったろうと思うことは度々あった。中学では同学年内でいじめもあって、被害者ではなかったものの学年中を巻き込みつつも教師が黙殺しているそれに優等生気取りの私は心を痛めたものだった。その頃の私はもっぱら公正世界仮説(当時この言葉は知らなかったが)の敬虔な信者であり、親や先生にほめられている優等生の自分はいつか報われるし、逆にいじめなんぞ加担している人間はその人間性からどこかで破綻すると思っていた。
高校は少し離れた進学校に入った。近隣の学校に行く人が多かったが、いじめの件もあり彼らと距離を置きたい気持ちも大きかった。流石にレベルの高い授業でもあったが、モラルや教養を持った人が多く非常に楽しい生活を送った。高校の部活は軽音部と兼任しようかなと考えていたが、他方の顧問が専任を希望するような言い方をしたので諦めた。別に悪い人ではないと思うが、他人に機嫌を取らせるタイプの人間だった。高校では成績をぐんぐん落とした。周囲のレベルの高さもそうだが、私には2点の欠陥が見え始めていた。1つは努力。中学生まであまり勉学に苦労しなかった私は勉強に労力をかける癖がなかったし。加えて苦手な運動は一向にできなかったし、好きな人にアプローチしても付き合えなかったし、理論武装して親に頼み込んだことも結局許されなかったり、努力してできた経験と言えば自転車の補助輪を外すときくらいのものであったように思う。努力の数と成功体験の数なんて鶏と卵かもしれないが、努力をした経験もおそらく人よりは少なく、努力が実った経験はもっと少ない人間だったように思う。もう1つは先天的能力の限界である。これまでの自分は「丁寧に教えてもらえば理解ができる」という能力を有していたと思っている。中学生までの自分が苦労しなかったのもこれが原因だと思っている。しかし高校3年生になると少しそれに陰りが見えているのを人知れず自覚していた。周囲の人間には見えていないようで、親や先生は褒めてくれるし、同級生からも勉強ができるという認識をされていた。
3年生になると嫌でも受験を考えなければならなくなる。私はどこに行って何をするのだろう。勉強は好きではない。高校では文芸部の本に部外から投稿してすごく評判が良かったし、文化祭の劇の脚本や演出を担当して最優秀賞を取れた。そのあたりの活動は楽しかったしクリエイティブなことがしたいかな、あと音楽。それとなく親に専門学校の打診してみたけど、4年制大学に行けといわれた。「いい大学に行けばいい企業に行けるからね」と言われてきていたし、親心としてはそんなもんだよねと理解した。自分としてもレールを外れることに恐怖はあったし、レールに従うことで周りと同じように大学に行って、就職して、結婚して子供を作って、今の家族のような生活が送れるならそれでいいと思っていたのでじゃあ普通に大学に行くねとなった。
問題になるのは何がやりたいかである。私がやりたいことって何だったんだろう。結局見つからなかった。そこで親がアドバイスをくれた。
「まだやりたいことが見つかっていないなら、ここに行けばいいんじゃない?」
親が指し示した大学は、入学時に専攻を決めなくてよいという特殊な制度をもつ大学だった。みなさん名前ぐらいはご存じの都内の大学である。幸か不幸か、私にはそこを目指せるだけの能力はあった。
1浪しなんとか2年目で合格して大学1年目。はじめに学んだ格言がある。
「大学では勉強、サークル、恋愛、バイトのうち2つしかできない」
勉強は好きではないので、サークルとバイトをやるんだろう、恋愛もあるのかななどと入学後の私は胸を躍らせていた。憧れのバンドサークルにも入った。周りは経験者なので食らいつこうと頑張った。大学から帰って仮眠を取り深夜の安いパック料金で明け方までスタジオで個人練、シャワーを浴びて大学へ。その生活をしていたら資金がショートした。親にバイト禁止されていたため練習や交流のためのお金が足りず、実力もつかず人脈もできずにフェードアウトした。
大学の授業はひどく不親切であった。大学のレベルも相まって何をやっているのか理解できなかった。高校の時に疑問を持っていた内容が解決されるかと期待していたが、それらは大体1,2回目の講義で解決してしまうものか、もしくは深くがっつり専攻しないと理解できないようなもののどちらかで、学ぶモチベーションにはつながらなかった。教える側も教科書も「説明してはいる」「書いてはある」という感じで、高校までのようにわかりやすくとはいかなかったから、「丁寧に教えてもらえば理解できる」タイプの私では太刀打ちできなかった。つまらないし時間の無駄に思えて次第に講義も休みがちになった。
それでも、とりあえず大学を出れば何とかなると思っていた。ここで耐えている自分はきっと報われると思っていた。好きなものが大学で見つかればいいし、そうでなかったら高校までの勉強ができるから教師になればいい。これが1年目の私であった。
・崩壊
初めてショックを受けたのは成人式のことだった。新成人代表として何人かの陽キャ集団が壇上にあがった。式の前後に彼らと会ったがある人はバツが悪そうに私から目をそらし、ある人は肩を組んで話しかけてきた。どちらもいい気はしなかった。彼らはいじめの関係者である。なんで彼らの方が人生を謳歌しているんだろうか。その時にふと思った。「結局彼らは世渡りがうまかったんだ」と。くだらない正義なんて捨ててその場で空気を読んで得なほうに回るっていうのが正解で、黙殺していた奴らもそうだったんだ、なんて自分は愚かだったのかと。そう考えてみると社会に明確な悪役はいなくて、したがって明確な正義も存在しない。正義と道徳に立脚した自尊心のなんと脆いことかと思い知らされた。
そして、もう一つ。親や教師というのもまた所詮人間だとこの年になって気づいた。この中の何人かが数年のうちに教師になって、親になる。はっきり言って話の通じない人だっているが、そんな人も年さえ取ればいつかは親や教師になりうる。だから、黙殺した教師も、話の出来ない親もおかしくはない。じゃあ私が優等生してきた、私が正しさの根拠としてきたものは何だったんだろう。優等生であることを数字で示してくれるものは成績くらいしかない。世渡りが下手で運動などの技能も持たず、それでも私が公正世界仮説を信じてこれたのは、案外「勉強ができること」に依存していたのかもしれない。勉強しかできないやつだけど勉強ができるから何とかなる、そんな風に自分の無能さを騙して生きていたのかもしれない。
さらに拠り所の勉学さえ崩れ落ちた。留年が確定したのだ。受験でも足を引っ張った物理がとことん苦手で何も理解できなかった。2年目は学費の負担を減らすべくバイトをさせてもらった。サークル活動は事実上全部やめ、バイトと勉強の日々が始まった。バイト先は学生が割と多かったため、みんなと仲良くなれた半面、繁忙期が重なった。私は試験前はむしろシフトが増加し、結果的に致命的な必修単位だけ落としてしまった。2留である。親に電話して事情を説明した。単位くらい取れとストレートに怒られるかと思った。代わってあげる優しさを評価しつつもやりすぎだと注意されるかもとも思った。
人にやさしく優等生してきた自分の生き方への批判と自分が仲良くしている人たちへの非難のダブルパンチで頭に血が上った。怒りで何も言葉が出ずに何秒か無言の後電話を切って、壁を殴った。
数日すると気分が落ち込んできた。親はそれを「単位を落としたから」と解釈したようであるが、全く違う。私は他の人が当たり前のようにサークルやバイト、恋愛を掛け持ちして進級している中で、バイトしながら進級できなかった。私は当たり前のことすら満足にできない無能であると、薄々感じていた自分の無能が隠せなくなってしまったのである。
3年目は再びバイトを禁止した。クラスでの試験対策の仕事もやり、その科目の勉強をしなければいけない状況を作った。サークルとしては冒頭の彼の紹介で新しいサークルに入った。サークルでできた友人とは本当に仲が良く、勉強を助けてもらったり、サークル関係なしに遊んだり大学での生活の基盤になった。助けてもらえる人も増え、自分で学習するようになり、この年の上半期では単位の取得ができた。しかし、私が感じていたことは決してポジティブなことではなかった。私がこの年の経験でわかったことは「お前はやればできるが、環境のサポートがあって自分で勉強してもちゃんとできるのは2単位」ということである。私は2年で70単位以上取得する想定のカリキュラムを、半年で2単位しか取れない脳みそでやっている。無能すぎてもはや卒業が無理なのではないかと思った。
公正世界仮説、評価軸としてきた大人たちへの信頼、自身の実力への評価の3つが音を立てて崩れて、この時私は確かに一度死んでしまった。このことに気づく前の自分に戻れなくなってしまった。中学のいじめがらみで「死にたいけど死ぬ勇気もない」って言ったときに「死ぬのなんて勇気って言わねえ」って怒鳴りつけてくれた友人がいた。
・専攻決定
4年目にして2年生。この年は諸々の事情でクラスから孤立した。喧嘩別れのようなものである。私としても仲良くする気はなかったので1人でどこまでできるかやってみようと思った。結果は惨敗だった。単位取得こそぎりぎりできたものの私はこの大学では人に寄生しないとやっていけないと気づかされた。
そして、4年前に選択を先延ばしにしたツケの返済期限が来ていた。専攻の決定である。結局4年間でやりたいことは見つからなかった。勉強は面白くないし、勉強以外の何かを思い切って始める余裕もなかった。教員になろうかとも思ったが、それもかなわないと思った。教職は卒業単位には含まれないため、追加でいくつも講義を取る必要がある。通常のカリキュラムすらまともにできない私にそれは無理だろう。ちなみに私と同じく成績の芳しくなかった冒頭の彼は教職を志して単位を取得しに行ったが、弊学では満足に教職まで取り切れなかった。教職を目指した世界線の私もきっとこんなものだろうと思ってしまった。
理系科目はわからなかったので、唯一興味がわいた心理学を専攻しようと思った。しかし、成績が足りなくて進むことが絶望的だった。ここで初めて間違いに気が付いた。この大学のシステムは何をやりたいか不明瞭な人間を救済するシステムではなく、やりたいことや才能が複数ある人間に選択肢を与えるシステムなのだと。私などがこの大学には来てはいけなかったんだと激しく後悔した。
このシステムでは通常、成績が足りなければ次の年に再挑戦することができる。しかし、私は4年目であったがために在学年限が迫っており、この年で専攻を決定しなければならなかった。そのため、当時人気の低かった化学を選んだ。化学は苦手で高校化学すらわからないが「とりあえず大学を出れば何とかなる」のであれば、と苦渋の選択をした。
5年目、3年生。1限からの授業と週3回の実験があり、9時-18時のような生活になる。実験には予習とレポートがあるため、実際の拘束時間はこれより長い。何とか4月を乗り切ったところで、レポートを1つ残してしまった。GWに入ってレポートをやらなければと思って毎日机に向かおうとした。いや、向かったこともあった。だが、ペンを持っても何も書けない。そのまま時間が過ぎてごはん時になり席を外してご飯を食べる。そんな日が続いてGWの最終日、床にへたり込んで泣いた。書かなきゃいけないと思いつつも1文字も書けなかった。
3年生の必修は実験だけだったので、他の単位を犠牲にしてでも取ろうと考えた。1時間だけ講義を休んで...その1時間を何も書けずに終えた。これを繰り返してほぼ全ての講義を欠席した。次第にいろいろおかしくなっていった。頭痛もちでもないのに頭が痛みだした。文字が読めなくなり、教科書はおろかネットニュースくらいの簡単な文章でも字が滑るようになった。1日にできることがゴミ出しと洗濯くらいになり、起きて寝る以外に食事、入浴、ソシャゲの周回くらいしかしてない生活になった。
溜まりに溜まったレポートは夏休み前に呼び出しを食らったことで、無理やり夏休みを使って消化した。歯を食いしばりながら全部消化したことは覚えているが、歯を食いしばればできたことがなぜここまでできなかったのかこの時は疑問だった。
4年生になり、大学院へ進学することになったが、大学院の手続きと入試勉強、足りなかった単位の試験勉強などでタスクが溜まった瞬間、この症状は再発した。友人の勧めを受けて学生相談所に通うことになった。
学生相談所のカウンセラーはいい人だった。いろいろお話をして気持ちは和らいだ。専門的なこととしてはWAISの検査を受けた。結果は処理速度だけが異様にへこんでいる格好になった。別に数値は低くないので大丈夫と言われたが、「問題の有無は環境によって決まりませんか?能力の高い人が集まる環境ではそれなりの能力が要求されますよね?」という質問には満足のいく回答は得られなかった。
親にも何度か愚痴を言ったことがある。そのたびに「あなたは世間一般には優秀だから大丈夫」と返されるのである。何が大丈夫なんだろうか。”今の環境”が辛いと言っているのに”世間一般”という別の集団を持ち出して何の救いになるんだろうか。これ自体も言ってみたことがあるが「なんでそんなこと言うの」と言わんばかりの困惑した顔をするだけだったのでやめた。別に親以外でも同様のことを言う人はいる。世間一般の評価が邪魔をして、まともに助けを求めることすらままならない。内部の人間から見て無能で、外部の人間から見て有能な私は、共感を得られる対象がとても限られていて苦しかった。大学ブランドという呪いにかけられて苦しかった。
やりたいことをやれていればよかったのだろうか。サークルで作曲を体験させてもらう機会があった。でも続かなかった。結局忙しいとかいろいろ言ってインプットから逃げている自分がいる。クリエイターにはなれなかっただろうなと思った。好きなことも頑張れない自分に「自分が勉学を頑張れなかったのは勉強が嫌いだからじゃない、努力が嫌いなんだ」という事実を突きつけられてまた悲しくなった。あれほどに信じてきた公正世界仮説は「お前が苦しいのはお前が間違ってきたからだ」と自分に牙をむき始めていた。
・進学と私
大学院へ進学することにした私だが、実は私は望んでいなかった。学部生時代に夜遅くまで研究に勤しむ先輩たちを見ていて「私にこれは無理だ」と実感していたからである。研究への熱意はおろか、化学への意欲も知識もないのである。ただでさえ病む人が多く出る大学院という環境にこんな人間が行くのは自殺行為に他ならない。そのため、私は就職を強く希望した。しかし、親にそれを伝えると「今のお前に就職はできない」と言われた。就活を終えた今だから言えるが、これは正しかったように思う。議論は「就職はできないから進学しろ」「院でやっていけないから就職させろ」の平行線で、就職も進学もろくにできない無能をぼこぼこにリンチするだけで生産性はなく、結局「とりあえず進学はするがいつでも辞めてよい」という落としどころになった。
私は院試に落ちるのが最適解だと思った。学力もないので真面目に受けても受からないだろう。院試を受けたけど落ちましたというのが親にも研究室にも一番角が立たない。しかし、筆記試験が思ったより点数が低かったのか通ってしまった。面接をすっぽかすことも考えたが、会場に研究室の先生方がいるかもしれないことを考えると気が引けた。面接では辞退の意思を伝えるつもりだった。面接官と私だけの秘密である。私は院試を受けて落ちたのだと周りに言えばよい。