はてなキーワード: 事物とは
あのさ専門知識についてお前本当に聞きたいの?クソ長くなるから嫌なんだけど無知って何でこんな傲慢なの
文系舐めてる奴いるよね
一言で言えば、専門職による高度な法的判断が義務付けられてる事物について、そんな小学生レベルのお前が今考えつくような雑判断なんかされてるわけなくね?法学部って六年通ってんだよ?そのあと法科大学院で学んで研修みたいなのやってテストを受けてるわけ世の検事裁判官って。そういうのを「俺に分かるように」「簡単に簡潔に無償で」説明する義理が誰にあんの
自分が言いたいのはこれだけだから、妄想と無知だけで性についてはめちゃくちゃな文句つけていいと思ってることを認めてくれれば何も言わない
低知能が低知能を呼ぶ魔のループ
自意識は気のせいとか性格(性質)は遺伝的な要素が強いとか以前に
1 行動のしかたに現れる、その人に固有の感情・意志の傾向。「ほがらかな―」「夫婦の―が合わない」
2 特定の事物にきわだってみられる傾向。「二つの問題は―が異なる」「趣味的―の濃い団体」
せいかく
一般にはその人特有の性質のうち比較的持続性をもつものをさす。英語のキャラクターcharacterの訳として用いられる場合には、語源であるギリシア語kharakterの「刻み込まれたもの」「彫りつけられたもの」の意味から由来するものとして、内面的な特性を示すが、一般にキャラクター・テストとはいわずパーソナリティー・テストというように、パーソナリティーpersonalityの訳として人格とともにほぼ同義に用いられている。
ある人が特定の場面で、ある行動をとる場合、同じような場面に出会っても、その人によってとる行動には違いがある。たとえば、道でそれほど親しくない知人に出会ったが、先方が気がついていないといった場合、ある人は黙って通り過ぎるし、別の人はこちらから声をかける、といった違いがある。このように、行動の個人差には単に環境的条件の差だけでなく、その人がだれであるかという主体的条件によって決まってくる面がある。性格は、このような他人との違いを説明しようとするとき用いられる概念である。
なので、「門松」というものが自分で勝手に想像しただけの、現実には全く存在しない事物に思えてきた。
ネットを調べれば、「門松」に関する情報はいくらでも得られるが、それは自分が「門松」という存在を信じているからそれが実在の証拠になると思っているだけで、他人には例えば空想のキャラクターのプロフィールのような、全く滑稽な妄想なのかもしれないと思うようになった。
(その情報はキャラクター同様、あたかも実在しているかのようにイキイキと描かれてはいるが、読むべきフレームがそもそも異なることだってあり得る(皆は、その情報を全くのホラ話として読んでるのかもしれない)。いくら情報を得たところで、そのフレームを私だけが知らない可能性があり、実は虚構なんだという気持ちが捨てられない。)
そんな自ら作り上げた神話を打破するには、実際に「門松」というもの(というか、「門松」が本当に私の妄想だけの存在だったら、この「門松」という文字面から皆は何を連想するのだろう)を見れば良いのだが、今年も結局みつからなかった。
それならやっぱり妄想なんだろうかと思うと、私が存在を信じるすべてのものが本当は実在しないんじゃないかと思えてきた。どうすればいいのだろう。
だからお外で、神話を打ち破るためには「門松」が必要なんだ!と新年早々叫びたいわけだが、この理路を外して叫ぶと、本当に妄想でおかしくなったかのように聞こえてしまう。雪も積もったし、もうダメかもしれない。
(追記)
しかし、インターネットには「門松」に関する記載がたくさんあるのを見ると、「門松」は実在する事物で無いにしても、少なくともこの世界という共同体では共通幻想として認知されていることに気づく。
そうか、私一人のとんでもない謎の妄想なんかではなく、みんな思い付くレベルの妄想なんだ!と思うことができ、それは私の心を癒す事実であるが、しかし、私はそれを実在するものだと思い込んでいたのだ!
これは恥ずかしいことだ。もしそうだとしたら(いやそうに違いないのだ。そうでなければ自分だけのとんでもない妄想になる。それは避けなければいけないレベルの出来事だ)、私は「門松」と同じように、また別な何かの事物をあたかも実在するかのように語っていた可能性がある。
それを相手は「そんなものあるわけないのに」と生暖かく見守っていたに違いないのだ。
陰で失笑されていたに違いないのだ。それなのに、「門松」の態様をあたかも実在するかのように、正月固有の事物であるかのように語ってしまった!ああ、年末の会話をもう一度やり直したい!
(追記2)
ただ、一縷の望みはこの文章を起点として、私の思う「門松」が実現されることである。
これまでは、たしかに「門松」という存在が妄想(それが私の妄想でもいい。共同体としての共通幻想であっても勿論いい)であったかもしれないが、これからは「門松」が私の思う形状で実現されれば、その妄想はもはや妄想でなくなる。
私の思う「門松」という存在が妄想起源だったとしても、それがこれから実在し始める「門松」とイコールであれば何の問題も無いのだ。そういう形でも私を悩ませる神話は解消される。
だから、正月は終わってしまったが、私が見たことのあると思っている「門松」をこれから現実的に作り出していこうと思った。そのためには、インターネットにある「門松」の情報も参考になるだろう。そう考えるだけでも、現実に「門松」が存在するような気がしてくるから不思議だ。
しかし、具現化するまでは気を抜いてはいけない。ゲシュタルト崩壊もあり、何を考えているのか、何を書いているのかわからなくなってきている。結局、私や共同体の意識を占める「門松」という存在はいったい何なんだろうか?
お答え申し上げます。
ブコメでもすでに指摘されているように、現在元増田さんには上司として必要な能力に欠けているというのが結論になるだろうと思います。
ですが、それだけだと具体的に何がどう欠けているのかがおわかりにならないだろうと思い、100字ではとてもしたためられないため、このようにトラバで記しましたので、しばしお付き合いください。
まず元増田さんは「会社で怒鳴ってしまう自分は間違っていないと思うのですがどうですか?」と質問をしているわけですが、第三者がその是非を判断する場合最低限必要になる情報があります。
部下はどんな人間なのか、周囲の部下の評価はどんなものか(元増田さんの部下の評価との間に乖離はないか)、部下に施した教育はどんな仕方なのか、部下に与えたタスクの難度はどの程度か、部下は勤続何年目なのか、貴方は勤続何年目なのか、部下と貴方の歳の差はどの程度なのか、貴方の部下に対する叱責的な態度は職場で問題視されているのかいないのか、等々、そういった物事の輪郭がわからなければ、貴方の怒鳴ってしまう態度の是非なんて、どうして判断出来るでしょうか?
元増田さんの相談の中にはそういった客観的に物事を判断する為に必要な情報がなく、仕事の出来ない部下を前にして自分が感じた事柄が極めて主観的に書き連ねられているだけです。
他人と自分の持ち合わせている情報量がどの程度違うのか、自分の脳内にある事物を伝える為に何と何と何が必要になるのかを思考する能力に欠けている、煎じ詰めれば「説明力」がない。
そのことがご相談を読むだけで伝わって来ます。この調子で上司として部下に指導をしているのなら受けるほうはさぞ想像力を働かせねばならず、大変だろうなとも。
元増田さんは表題から「怒鳴る」という強い言葉を使っていますね、今時分職場で上司が部下に怒鳴った時点でどの様なあらましがあってもアウトだろうというのが衆目の一致するところと思いますが、しかし文中では、
自分は会社でよく怒鳴る。怒鳴ると言っても大声を出して威圧するわけでなく、その人ができていないこととなぜできていないのかを詰めるような言い方をしている。
ただ冷静に詰めているようで自分の中では実際はピキッときており、完全に怒鳴りだと感じている。大声で叫びたくなる怒鳴りを無理矢理抑制して言っているため、これはきっとパワハラ・ロジハラにあたるなとも思う。
となっており、必ずしも大声を出している訳ではないようですが、普通大声を出していなければ怒鳴るとは表現いたしません。
にもかかわらず元増田さんは一貫して怒鳴るという表現を使い続けますので、これを読まされた側は「大声を出さないように抑えようとはしているが、どうしてもイラついてしまいそれでもところどころでは少々声のボリュームは上がってしまう」程度の感じかな?
通常人間はある単語を使うに際して、その単語が一般的に大多数の人間の想起する意味だろうという想定に基づいて使用されるものですが、元増田さんの単語の使い方は元増田さんだけの独特な感覚に基づいており、他人と共有出来ていません。
元増田さんの文章を読んだ人間に仮にアンケートをとっても、元増田さんのおっしゃる"怒鳴る"の内実に対して読者が抱いたイメージは千差万別になることでしょう。
元増田さんは言語感覚にも難があると言わざるを得ません。この点も上司として求められる能力に欠けた点です。
もう一点、元増田さんは己の感覚を「氷河期世代に特有の傾向」だろうと分析しておりますが、この事に根拠らしきものがどこにもありません。
なぜそう分析したのか?仮にこの分析が妥当だとして、この文中に持ち込まれた意味はなんなのか?
元増田さんの中には何らかの必然性があるのでしょうが、読者にはさっぱり理解できません。
ですが、まあ想像することなら出来ます。あたっているかどうかはわかりませんが、おそらくこういうことでしょう?
『私(元増田さんのことです)は氷河期世代だということだけで、割に合わぬ苦労を重ねさせられて来た。仕事もまともに教えられたこともないし、わからないことがあれば全て独力で解決してきた、その中で嫌な思いもたくさんしたし、でもその御蔭でここまでやってこれた。
そんな自負を持って生きている自分の目から見れば、一体この目の前にいる仕事の出来ぬ部下のなんと甘えたことか?私の半分も苦労をしていないではないか?全くイライラして怒鳴らずにはいられないのも無理からぬことではないか?』
どうです?当たらずとも遠からずなのではないですか?
しかし、こんなことを元増田さんに寄って想像してあげるほど誰でも彼でも暇ではありませんし、これだってあっているかどうかもわかりません。
もし元増田さんが上述のようなことを主張したいのなら、こうやってきちんと言語化してくれなければ何も伝わりません。
元増田さんは自分の感情を言語化して他人に伝えるのが不得手である、これも言えそうです。
まとめます、3段落にわけてお伝えしてきましたが、言いたいことは一つです。
元増田さんは、他人とコミュニケーションを取るときには相手の立場に立った考え方をする必要がある、指導する立場であれば尚更そうである。ということを学ぶ機会に恵まれてこなかった、ということです。
いみじくもそれが元増田さんが日頃から指摘されている「元増田さんは出来ない人の気持ちがわからない」というクリシェの意味するところです。
このように問題は整理いたしましたので、この問題について元増田さんがどうなさるのかはどうぞご自身でお決めください。
転職なさるのか、今の職場を継続なさるのか、どちらでもお好きにして結構でしょう。
・氷河期世代で大変だった元増田さんへ「よく我武者羅に頑張って仕事を教える立場になりましたね、ご苦労なさったでしょう」
・自分の怒鳴りが問題かもしれないと危惧しながらも正当化したい元増田さんへ「元増田さんが苦労させられたのは過去のことなので、いまは上司としての自分にどう取り組めば最高の結果につながるかを考えてください」
・これから上司としての能力に欠けながらも仕事をしていく元増田さんへ「大変でしょうが今日まで頑張って来た貴方です、過ぎし日にそうしたようにまたゼロから上司としての能力を磨いてください、きっと出来るでしょう」
以上です、私の勝手な類推に依るところが大いにありますので、全く頓珍漢な回答と化している恐れも多分にありますが、その際はご容赦ください。
25歳にもなりろくな職にも就かずふらふらとしていたが、そんな私の生活にも終わりが来る時はある。もうしばらくしたら、25年間惰眠を貪った部屋と脛を齧った自分の親元を離れ、遠くで細々と働きながら暮らす。
何をするわけでもない間に老いた両親と離れて暮らすのはなんとも申し訳ないが、だからと言ってこれ以上世話になるのも気が引ける。私は「旅立ち」と言うには薄汚れた、遅い巣立ちの時を迎えたのだ。
しかしそんな両親にも懸念点がある。一見仲睦まじい両親だ。老いてなお息子を支えるために協力する姿は、子からすれば1番の理想と言っても過言ではない。
きっかけは些細だった。帰宅したら黒い女性用ボンテージランジェリー姿の父親がいるのだ。一瞬何がなんだかわからなかった。頭が真っ白、という表現以外思いつかないほどに混乱した。
別に何をするのも父親の人生、そもそも苦労をかけた身としては「やめろ」なんて言える訳はないし、言おうと思わない。しかし、この家は両親と私で住んでいる。母親は知ってるはずもない。知り得もしないものを、急に脳に叩き込まれた。私はどうしたらいいのかわからず、1回目は見なかったことにした。
もちろん、2回目もあった。その時は、少し小言を言った。たしか「何をしようと父親の自由だが、流石にびっくりしてしまう」とだけ言った気がする。本心だが、言った後に1人で考えている際、「そこじゃないだろ」と自分にツッコミを入れたのは言わずもがなだ。
そして今日、3回目があった。今回は前の2回とは勝手が違う。自分がシャワーを浴びる際、見慣れないボトルがあったので見たら「LOTION ANAL」と書いてあった。流石に笑ってしまった。
仏の顔も三度まで、今回ばかりは父親に話をした。父親がしまい忘れたローションをタオルでくるんで隠しながら、ゆったりしている母親を別室に押し込めた。我ながら今思うと阿呆らしいが、ここでミスをすれば人生が終了するかのようなプレッシャーを感じていた。それを取り出し、父親に見せた。父親は、気まずそうな顔をして動揺を隠しながら、平静を装っていた。「別に何をしようと勝手だし自分の好きなことをするのは構わないが、家で隠そうとしてるのに隠せないなら家でやるのをやめろ」と言った。そして父はどこかにそれを隠し、また座りながら煙草をふかした。
正直、気づかないフリをした方が良かったのかもしれない。または母親に隠さない方が良かったのかもしれない。全くわからない。何をしても、今までの「家族」として見ていた映像が瓦解するのでは、という感覚に苛まれる。我ながら、無理を通した。
確かに父親が何をするのも止められないが、父親の性具が転がっているのを見るのは息子としては最悪である。母親のナプキンを見てようわからんと思っていた頃よりも微妙な気持ちがある。父と母の性行為を想像するのに抵抗があるように、父親と母親と性事物が同時に視界に入るのは、頭がぐるぐるしてしまう。
【追記はじめ】
air77et1980 "俺らの方が先進的であるとすら言える"くっさ。きっも。こういうアホな文言さえなければ国語力増田さんっぽい書き味なんだけどなぁ。一応、リストに加えとくか
俺はくさくてきもいのはご存知の通りで別に言われたって気にはしないが
おまけ : これは俺は書いてない
【追記おわり】
「人格を持った多様な姿」じゃないと駄目ってどういうこと?
確かにこの文は違和感ある。ガイド内に散々登場してるいらすとやのアイコンには多様な人格なんて感じないのに
こんな文言が入ってしまった原因を紐解くために、ラディカルフェミニズムの用語「性的モノ化」について調べたので今回書いてみる
おそらくこの理論が半端に入ってしまったことが今回の問題の原因だ
sexual objectificationの訳語で性的対象化、性的客体化とも訳す
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E7%9A%84%E5%AF%BE%E8%B1%A1%E5%8C%96
性的じゃないモノ化も当然あって、上記wikiでは「企業が従業員を交換可能な機械として扱う」ことなども事例に上がっている
マッキノン・ドウォーキンなどラディカルフェミニズムの提唱者にとって、ポルノがなぜ悪いかというと不道徳・風紀を損なうからではなく
価値が肉体の魅力などのパーツに還元されてしまうことにあるとした
ヌスバウヌがこれを具体化して、下のような例を上げている
1.道具性 : ある対象をある目的のための手段あるいは道具として使う。
2.自律性の否定 : その対象が自律的であること、自己決定能力を持つことを否定する。
3.不活性 : 対象に自発的な行為者性(agency)や能動性(activity)を認めない。
4.代替可能性 : (a)同じタイプの別のもの、あるいは(b)別のタイプのもの、と交換可能であるとみなす。
5.毀損許容性 : 対象を境界をもった(身体的・心理的)統一性(boundary-integrity)を持たないものとみなし、したがって壊したり、侵入してもよいものとみなす。
6.所有可能性 : 他者によってなんらかのしかたで所有され、売買されうるものとみなす。
7.主観の否定 : 対象の主観的な経験や感情に配慮する必要がないと考える。
この理論がガイドライン「人格を持った多様な姿」という文の根底にあると考えられる
要はモノのように交換可能なパーツとして魅力を描くのでなく、被写体でしか得られない魅力を表現してほしいと言っているのだ
女性をアイキャッチに使うなと言う要望もこの理論から派生していて
実際は広告にはアイキャッチ自体は不可欠で(そうじゃなきゃみんなに見てはもらえないでしょう)
アイキャッチの内容に人格を無視したモノとしての価値しかないところが問題になっている
それゆえ、スポーツ選手などの有名人のスポーツしている姿などはアイキャッチにしても問題ない
この理論は本来人格を持った対象がモデルになった絵や写真の人格を剥奪する行為には適用できるけど
無から創造された絵にはそもそも剥奪する人格がないんだから適用できなさそうに思える
実際、いらすとやの絵には元々の人格がないし、それが代替可能だったり主観が否定されたりしても問題はなさそうだ
実は今回の問題はさっきまで議論していた性的モノ化とは別の議論で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E5%8A%B9%E6%9E%9C%E8%AB%96
府のガイドラインは萌え絵以外はずっとこれのことを言っていて、メディアに男女不平等な描写が盛りこまれていると
人々も釣られて男女不平等な行動をしてしまうのでよくない、という事を言っている
じゃあ素直に萌え絵禁止の条文にも「ふしだらで不道徳な姿を描写してはいけない」とか書けばよかったんだろうけど
男女不平等と違ってふしだら・不道徳はなぜそれが悪なのか理論立てが不明瞭なんで
しょうがなく既存の理論で構築に問題がなさそうな性的モノ化の理論を元に注意書きを付随させたんだろう
ただこの理論は非実在のキャラには使えないのだが、そこはあまり考えてなかったんではないか
とはいえ、中の人がいるVTuberみたいに人格が備わっている存在の場合、いらすとやの絵や文字だけのロゴのように人格のないものと扱うわけにもいかない
男女共同参画ちゃんみたいに元々人格がない存在にも人格を見出してしまうのが俺らオタの習性だ
https://togetter.com/li/1781336
であれば、そもそもの最初の議論に戻って「あくまで俺らはアイキャッチになった事物を交換可能なパーツとは考えていない」と表明し続けるのが正面突破の道だと思う
例えば宇崎ちゃんの献血ポスターは乳袋さえあれば顔やセリフは別のものに差し替えても効果は変わらなかっただろうか
そんなことはなく、あれは宇崎ちゃんだからファンが注目したんだ
碧志摩メグもキズナアイも戸定梨香も、それぞれ背景があってそのキャラは他とは交換できない魅力があるという声が多くなれば
また、隠された動機である「ふしだら・不道徳ではないか」という異議立てに関しては
それを隠した理由をもって堂々と反対を主張すればよいと思う
すなわち、「人をふしだらと断定するのは失礼なのではないか」という反論だ
この反論を避けたいためにガイドラインでは性的モノ化の理論を持ってきたと思われる
道徳・不道徳という価値判断は旧来からある価値観を保存しようという動きであり
本来男女共同参画という旧来の価値観を是正する方向の運動とは相性の悪いものである
何か悪いことが発生してから、歴史上で似たような事例を拾ってきて偉そうな顔してるだけに感じる。
逆に、歴史に無いことが発生した場合は、歴史にどう学ぶのだろう。「想定外」とは、歴史に対する過学習の結果ではないのだろうか。
また、歴史にある失敗が新たな成功の種を潰している(失敗の隣りにある成功を見えなくしている)ということもある。歴史が未来を妨げることもあるのだ。
それらのことも語ってこそ、正しく「賢者」は学べるのだと思う。
もっと言うなら、そういう一面的な視野に陥らないよう「賢者は何にでも学ぶ」のが正しい。
歴史の重要性は、その「何にでも」の一部分としての重要性でしかない。One of them 以上のものはない。
歴史だけを特出しして「賢者は歴史に学ぶ」という言い方は、まさに「愚者は経験に学ぶ」のと同じくらい、誤解のある言い方である。
(追記)
トラバの通り、この慣用句が誤解から生まれたのだとしても、それが人口に膾炙するうちは、その誤りを述べ続ける必要があると思う。
さらに上記に付け加えるなら、「歴史」は未来の事象に直接結び付かないし、その膨大な蓄積を学ばないといけない
(「歴史に学ぶ」っていうけど、あれだけ膨大な蓄積があれば、何かしらヒットするものがあっても当然。
しかし、そのごくたまにあるヒットに掛ける学習コストがもったいない。歴史はコスパで劣る)
という点で、むしろ、愚者の学習対象とされる「経験」にさえ劣る。
教訓を得たい事象が決まっているのであれば、歴史という膨大な蓄積を学び直すより、その事象に関わる人間の経験を付き合わせた方が、効率よく教訓が得られるだろう。
そうやって、過去の膨大な蓄積に悩まされるという点では、歴史は若い人間にとって、まさに「呪い」に他ならない。
古い歴史というものが、若い人の経験の邪魔をする。むしろ経験こそ、これからの未来に直接結び付くものなのに。
だから、「歴史を学ぶ意味がわからない」という意識が、子供たちから表現されることがあるのも当然だと言える。
それなのに社会は、歴史を「学ぶ」べきものだと押し付ける。趣味や娯楽でなく、教訓の素材として「学ぶ」べきだと押し付ける。
それだから、若者にとって歴史は、スレッドに昔から居るコテハンみたいに見えるのだ。
学ぶべき存在というよりも、理由もない謎のルールを押し付ける目障りな存在になってしまっているのだ。
(過去がそうだったから。って、その結果は合理的なの?倫理的なの?最善手なの?)
また、遺跡発掘のせいで都市開発が遅れていくように、歴史的事物は人々に存在のための負担を強いる。
それのみならず、現代人が生きるための資産(子育て支援の費用、新しい技術への投資 等)を、歴史的事物の維持管理費用として食い潰す。
だから、今生きる人間のために、残すべき歴史的事物を今より厳選していくべきではないのか。
古い建物だから、古い遺跡だからと何でも残そうとするのは、若者に与える予算を残すために辞めるべきではないのか。
歴史的事物の押し付けは結局、世代間抗争に繋がるのではないか。
まとめると、歴史は現代人が生きるための資産を食い潰し、代わりに理由のないルールを押し付け、それでいて、後だしジャンケンの道具にしかならない。
だから私たちはまず、歴史というものを、教訓事項を得る素材なんかではなく、例えば数学などと同じように、社会から遊離した学問のひとつとして遠目に眺めるようにし、
そして、例えばスポーツのような個人的な趣味や娯楽のひとつとして扱うところから始めるべきなのだ。
登場人物が翻弄されるその出来事の結末を、彼らにとって未来人である私はすべて知っている。
だから、彼らが知能と技術を尽くしたその行動の正否を、単なる一個人でしかない私が、100%正しく評価できる。
社会的に有意義な価値を持たない自分が、歴史的有名人の行動を逐一評価できるという感覚。
だから、私は小説の中でも歴史小説ばかりを好き好んで読み続けてしまうのだ。
また、近現代の小説ともなると、現在では当たり前に使われる科学技術(例えば、「えてきてる」だとか)に、登場人物が強い驚きを示すシーンも快い。
その人間を強く興奮させる驚きを、自分は既にいつとも知らず超越できているという感覚。
またそれは、自分が子育てを行っていた昔の、子供がテレビやら自転車やら色々なものに興味を示していた様子を想起させる。
歴史は、学問的履歴と違って、論理的に発展したわけでもないし、それが人間にとって最良に発展したわけでもない。
それなのに、「賢者は歴史に学ぶ」とか称して、歴史は自分が辞典かなんかのような学ぶべき規範だと勘違いしている。
歴史=暗記科目と思われているのも、ひとつひとつのイベントがアドホックで、共通項が見いだせない作りになっているからだ。
だから、歴史が多くの「賢者」に学ばれるためには、もっと一般化した形で表現されるべきだと思う。
つまり、歴史は暗記すべき物事に溢れた情報形態であることを止め、理想的には数学の公式のように、色々な時代にフィットできる教訓のような形を取るべきだと思う。
そういう一般化も目指さないで、「賢者は歴史に学ぶ」なんて述べる人間は「想定外」という言葉をどう思っているのか。
そりゃ、歴史的情報は暗記に閉口するほど豊富なので、どこかが現代の事物が似ていて、教訓が拾えたりすることもあるだろう。
しかし、何か悪い事項が発生したあとで、この教訓はこの歴史的事物からも読みとれる、だなんて言っても仕方がない。意味がない。
だから、歴史家には、未来に発生する事項に先行して、歴史的事物を一般化した教訓にまとめる努力が必要なのではないだろうか。
歴史家は、歴史における未知の事項を明らかにすることにだけ力を入れているように思うが、
個人的には、そういうのいいから、早く「まとめ」のフェーズに入って教訓化しろよ、早く教訓として歴史的情報を圧縮化しろよと思う。
つまり、歴史はあらゆる情報を網羅する情報の可能体であろうとする努力を辞め、その一部分でも「まとめ」として有意味な教訓を抽出してほしいと思うわけです。
いや、「まとめ」の部分は歴史以外の学問がやるべきってことなのか?
もしそうであったとしても、「賢者」が学ぶべきなのは、そっちの学問だよな。
現代に生きる我らが得るべきなのは、歴史的素材に関する知識じゃなく、現代に使える教訓なのだから。
文学賞 | 締切 | 400字詰め原稿用紙 | 賞金 | 応募総数 | 発表 | 条件 |
---|---|---|---|---|---|---|
北日本文学賞 | 8月31日 | 30枚 | 100万円 | 1100強 | 1月1日の新聞紙上 | 特になし |
埼玉文学賞 | 8月31日 | 50枚 | 50万円 | ? | 11月上旬の埼玉新聞紙上 | 県外者の場合は、埼玉の事物、風土、人間、歴史など埼玉との関わりをテーマにした作品であること。過去の受賞作はウェブで見られる |
南日本文学賞 | 年末年始 | 50~60枚 | 30万円 | 100強 | 3月上旬新聞紙上 | 鹿児島県在住者、あるいは出身者 |
北日本児童文学賞 | 5月末日 | 30枚 | 50万/10万 | 400強 | 11月の新聞紙上、およびwebun | 特になし |
文学賞 | 締切 | 400字詰め原稿用紙 | 賞金 | 応募総数 | 発表 | 条件 |
---|---|---|---|---|---|---|
内田百閒文学賞 | 5月末日 | 20~50枚 | 100万/20万 | 400弱 | 11月下旬 | 岡山が舞台となる作品や、岡山県出身の人物・自然・文化・風土・物産などを題材とした作品 |
やまなし文学賞 | 11末日? | 80~120枚 | 100万/30万 | 300強 | 3月上旬、山梨日日新聞紙上、及び同紙電子版に掲載、受賞作は単行本として刊行 | 特になし |
伊豆文学賞 | 10月1日 | 30~80枚 | 100万/20万/5万 | 260前後 | 4月上旬、入賞作品を収録した優秀作品集を作成 | 伊豆をはじめとする静岡県内の自然、地名、行事、人物、歴史などを題材(テーマ)にした小説、随筆、紀行文。掌編部門有 |
新潟日報文学賞 | 9月1日 | 30枚 | 30万 | ? | 11月1日 | 応募資格は新潟県内在住者と新潟県出身者に限る |
文学賞 | 締切 | 400字詰め原稿用紙 | 賞金 | 応募総数 | 発表 | 条件 |
---|---|---|---|---|---|---|
太宰治賞 | 12月10日 | 50枚~300枚 | 100万 | 1440前後 | 5月初旬、受賞作品、優秀作品、最終候補作品は、選評とともに「太宰治賞2020」(2020年6月刊行予定)に収録 | 特になし |
坊っちゃん文学賞 | 9月30日 | 4000文字 | 50万/10万 | 9300強 | ? | ショートショートの賞にリニューアル |
舟橋聖一顕彰青年文学賞 | 9月18日 | 50枚 | 30万 | ? | 2月頃? | 満18歳から満30歳までの青年 |
阿波しらさぎ文学賞 | 6月10日 | 15枚 | 30万/10万/5万 | 460強 | 8月、徳島新聞紙上および徳島新聞電子版に掲載。受賞作は発表後、文芸誌「徳島文學」に転載 | 特になし |
ちよだ文学賞 | 4月30日 | 30枚 | 100万 | 420強 | 10月、市役所にて販売 | 特になし |
めんどくさくなってきたのでここまで、適宜追加予定。湯河原のやつはNONに掲載されるみたい。あと、探すと結構ミステリの賞が多い。
文学賞 | 締切 | 400字詰め原稿用紙 | 賞金 | 応募総数 | 発表 | 条件 |
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仙台短編文学賞 | 11月上旬 | 25~35枚 | 30万/5万 | 400弱 | 公式ホームページならびに河北新報紙上、小説すばる」に掲載 | 仙台・宮城・東北となんらかの関連がある作品 |
この表を利用することによってトラブルは一切責任を負いかねます。
誤りがあるかもしれないため、必ず公式サイトを確認してください。
すごい間違っている。
マクガフィンとはドラゴンボールでいうとドラゴンボールのような存在だ。
ドラゴンボールとはなにか?
七個集めれば願いが叶うもの。
それを集めて願いを叶える。
マクガフィンとはこのように最低限度の説明で物語を転がす存在でなければならない。
その神様がなぜそんな物を作れるかと言えばその神様ナメック星というところから来た異星人で……、
「えっ?異星人?神様の話じゃないの?」
具体的にはジャンプを捨ててファミコンで遊ぶことになるわけだ。
ドラゴンボールとは何かということをしっかりと説明してもらっていて
むしろ、その世界観に魅力を感じているのだがそれとこれとは別の話だ。
多分増田が物語を作ったらひたすら設定語りが始まるタイプの物語になるのではないかな。
まあそういうもののほうが受ける世の中なのかもしれないが、
今のペースで保存を続けていけば、いくら公共団体たる規模の大きい施設を以てしても、早晩限界を迎えるだろう。
そもそも、歴史的事物の保存にはどんな価値があるのかを見直さないといけない。
どのラインを越えれば、「歴史的価値がある」と呼ぶべきなのか。
どのラインからは、今生きる自分たちの利益を犠牲にしても、その保存に費用をかけるべき価値があるのかということを。
私的なコレクションとは違い、なんでもかんでも集めればいいというわけではないのだ。
そして今はデジタル化ができる。事物をそのまま管理保存する必要なんてないはずだ。
私は歴史というものに嫌悪を抱き、過去を存在しないものとする「5分前仮説」を好む。
それは、過去を失いさえすれば、過去に受けた他人への恩を全て帳消しにできるから。
私はクソコラが嫌いだ。
ネットに数多存在するクソコラを見て笑えていたのは過去の話だ。
笑えなくなったのは私が間接的に「される側」になったためであり、この記事にはそれに関した懺悔の思いも含まれている。
この記事はいわゆる「お気持ち」であり、二次創作への個人的な価値観もあり、また、製作側であるが故に匿名にせざるを得ない情けなさをないまぜにした長ったらしい愚痴である。
=====
インターネットには実写、イラスト問わず無数のクソコラが転がっている。
まだましなものは人物を雑に切り抜いて別の背景に合成したり、当事者から許可の降りているコラージュだ。(ぼっさんなどが最たる例だと思う)
故に、私がここで明確に「嫌い」とするクソコラは全ではなく、「製作者側の許可はなく、二次創作の範疇であり、且つなんらかの二次的影響を波及させるもの」である。
正直、公式の画像を使用している時点で本当に二次創作の範疇であると言えるのかは微妙であるが、製作側が直接注意をしないのであれば黙認の範囲なのだと思う。
以下記事内でクソコラというワードが出た場合は、このように対象を限定したものであるということである。
また、大きめの主語となるため特定などに意味はないとは思うが、大なり小なりフェイク部分を混ぜることをご容赦願いたい。
(このような稚拙で一方的な狡く読みづらい文章を読む物好きがいればの話であるが)
そのキャラクターは作品内では比較的人気は高くなく、しかし嫌われているわけではない。
性格や設定にある程度の尖りはあれど、それは創作キャラクターにおいては大して異様な特徴ではない。しかし、その少々尖った部分がそのキャラクターに深みを与え、個として際立たせているポイントでもある。
このようなキャラクターなど無数にいると思う。むしろ、こちらの方が基本的には多いはずだ。
今まで見てきた犠牲者達のパターンはいくつかある。例を挙げると、
・画像の頭部を切り抜かれ、実写や全く異なる体型の別キャラクターの頭部にすげ替えられる
・二次創作で誇張されがちな尖ったキャラクター性をより強調して変態性へ改変する
しょうもな……
問題はこれらのクソコラの犠牲者達が、前述の通り「作品内では比較的人気ではない」部分にある。
もしこのクソコラの対象がその作品で最も人気のあるキャラクターで行われていたとき、不快感を顕わにする人々は多くいるし、それを声明する。
しかし、往々にして比較的人気のないキャラクターの数少ないファンたちは、これらのクソコラを楽しむ「実はそのキャラクター自体はどうでもいい大勢の人々」を前に閉口することがままある。
「言っても仕方ない」、「水を差したくない」、「自分が見なければいい」くらいの気持ちであると思う。
私もそうしたいと思っている。
少し前に、二次創作におけるキャラクター改変を糾弾する文章が投稿され、話題になった。
私は該当の記事の(過激な言動はともかく)内容については同意できる部分が多かった側だ。
二次創作をするにあたり、元のキャラクター性を捻じ曲げる行為は、それが必要でなければすべきではない……というべきか、「二次創作である意味が無い」というべきか……
特定のキャラクター性を捻じ曲げたり、極端に誇張したりした作品群が広く認知されたとき、ファン間においてあまりにもあんまりだと思える状況が起こる。
『(該当キャラクター)って、〇〇(クソコラによって付与された改変)だよね』
このキャラ改変が単独の同人作家によるものであれば、作家性がついて回るためある程度「二次創作である」という感覚が視覚的にも制限を与えてくれる。
しかし、クソコラは“公式の画像を使用している”という部分があり、故に“誰が作っても視覚的な作家性が希薄になる”のだ。
どういうことか?
Twitterに蔓延する漫画の数コマの改変コラ画像がよい例である。
その改変コラ画像は、誰が作ったものであるか、パッと見て判別できるだろうか?
少なくとも私にはできない。
そしてできないからこそ、製作者以外の人間が別所で使用し拡散するし、更にその作家性は限りなくゼロに近づいていく。
作家性がほぼ失われた二次創作であるコラ画像が高い認知を得たとき、それは一定の概念となって読者やプレイヤーの認識に擦り込まれてしまう。
これが最大の問題だと私は思っている。
決して筋肉質ではないキャラクターがムキムキマッチョとされたり
……
そのキャラクターを好きな者、製作に関わった私からしたら、かなり“““嫌”””なのだ。
もし私がこの吐き出しを行う切っ掛けになったキャラクターのクソコラが、「1人1回くらい」のものであれば何も感じなかったと思う。
ここまで汚物を垂れ流しているのも、そのキャラクターのクソコラを年単位で作り続けている者たちが存在するからだ。
真っ当に作ったキャラクターが、そのクソコラによって「変態キャラ」にされているからだ。
この感覚はおそらく、「そのキャラクターを純粋に好む人」「製作側になった人」にしかわからないのだと思う。
実際、そうしたクソコラを笑って楽しんでいた人物が、己の最も好きなキャラクターにその歯牙がかかった途端に不快感を顕わにしたのを見ている。
そこにあるのは自覚のない悪意だけだ。
それはかつて、クソコラとは言えないが若輩の私は知り合いの創作キャラクターを改変して遊び、当事者に苦言を呈されたことがあるからだ。
そのときは戯れのつもりであった。そのときも申し訳なかったという気持ちはあった。
が、いざ、しかも全く面識のない人間の手によって「される側」に立ったとき、愚かにもようやくその苦しみを理解してしまった。
ここ数年、私はそのことについてより深く反省し、恥ずかしかったと思い、思い出す度に身悶えするような懺悔の思いに苛まれている。
おそらく当該人物はもう気にしていないとは思うが、かといって許されたわけでもないと私は独り悔やんでいる。
これは自己嫌悪と、自己投影による己かわいさの苦しみによって引き起こされている嫌悪感の吐露だ。
よりにもよって商業方面での製作側になったため、そのキャラクターの全権を持っているわけではなく、個人的に釘を刺すことも出来ず、Twitterで愚痴るのも都合が悪く、こうして匿名に甘んじている。
コラージュをやめろとは言わない。言えない。
ただ願わくば、本来のキャラクターが尊重された上で二次創作が行われるようにならんことを。
[追記4/18]
記号については私が変えればいいだけのことに思えたので消した。
誰かに何かを強要している文章ではないし、反応に対して何か返すことはしないと思っていたが、私の文章の拙さ故に明らかに読み違えられていそうなことに関してだけ補足。
「人気キャラクターはクソコラされない」のではなく、「人気キャラクターのクソコラに対してはキャラクターを好む人間の母数が多いため不快感を口に出す方もそれなりに現れる上、人気キャラクターであるが故にクソコラによる二次創作の認識は拡がっても同時にそれが公式ではないという感覚も伝わりやすい」ため、私が嫌悪している(記事内における)クソコラ群とは少しばかり性質が異なると考えている。
私がここでクソコラと呼んでいるのは、あくまで「人気が無い故に歯止めの利かなくなっているコラ画像」であって、すべてのクソコラではありません。
[追記ここまで]
以上のお話によって、郷田三郎と、明智小五郎との交渉、又は三郎の犯罪嗜好癖などについて、読者に呑み込んで頂いた上、さて、本題に戻って、東栄館という新築の下宿屋で、郷田三郎がどんな楽しみを発見したかという点に、お話を進めることに致しましょう。
三郎が東栄館の建築が出来上るのを待ち兼ねて、いの一番にそこへ引移ったのは、彼が明智と交際を結んだ時分から、一年以上もたっていました。随したがってあの「犯罪」の真似事にも、もう一向興味がなくなり、といって、外ほかにそれに代る様な事柄もなく、彼は毎日毎日の退屈な長々しい時間を、過し兼ねていました。東栄館に移った当座は、それでも、新しい友達が出来たりして、いくらか気がまぎれていましたけれど、人間というものは何と退屈極きわまる生物なのでしょう。どこへ行って見ても、同じ様な思想を同じ様な表情で、同じ様な言葉で、繰り返し繰り返し、発表し合っているに過ぎないのです。折角せっかく下宿屋を替えて、新しい人達に接して見ても、一週間たつかたたない内に、彼は又しても底知れぬ倦怠けんたいの中に沈み込んで了うのでした。
そうして、東栄館に移って十日ばかりたったある日のことです。退屈の余り、彼はふと妙な事を考えつきました。
彼の部屋には、――それは二階にあったのですが――安っぽい床とこの間まの傍に、一間の押入がついていて、その内部は、鴨居かもいと敷居との丁度中程に、押入れ一杯の巌丈がんじょうな棚があって、上下二段に分れているのです。彼はその下段の方に数個の行李こうりを納め、上段には蒲団をのせることにしていましたが、一々そこから蒲団を取出して、部屋の真中へ敷く代りに、始終棚の上に寝台ベッドの様に蒲団を重ねて置いて、眠くなったらそこへ上って寝ることにしたらどうだろう。彼はそんなことを考えたのです。これが今迄いままでの下宿屋であったら、仮令たとえ押入れの中に同じような棚があっても、壁がひどく汚れていたり、天井に蜘蛛くもの巣が張っていたりして、一寸その中へ寝る気にはならなかったのでしょうが、ここの押入れは、新築早々のことですから、非常に綺麗きれいで、天井も真白なれば、黄色く塗った滑かな壁にも、しみ一つ出来てはいませんし、そして全体の感じが、棚の作り方にもよるのでしょうが、何となく船の中の寝台に似ていて、妙に、一度そこへ寝て見たい様な誘惑を感じさえするのです。
そこで、彼は早速さっそくその晩から押入れの中へ寝ることを始めました。この下宿は、部屋毎に内部から戸締りの出来る様になっていて、女中などが無断で這入はいって来る様なこともなく、彼は安心してこの奇行を続けることが出来るのでした。さてそこへ寝て見ますと、予期以上に感じがいいのです。四枚の蒲団を積み重ね、その上にフワリと寝転んで、目の上二尺ばかりの所に迫っている天井を眺める心持は、一寸異様な味あじわいのあるものです。襖ふすまをピッシャリ締め切って、その隙間から洩れて来る糸の様な電気の光を見ていますと、何だかこう自分が探偵小説の中の人物にでもなった様な気がして、愉快ですし、又それを細目に開けて、そこから、自分自身の部屋を、泥棒が他人の部屋をでも覗く様な気持で、色々の激情的な場面を想像しながら、眺めるのも、興味がありました。時によると、彼は昼間から押入に這入り込んで、一間と三尺の長方形の箱の様な中で、大好物の煙草をプカリプカリとふかしながら、取りとめもない妄想に耽ることもありました。そんな時には、締切った襖の隙間から、押入れの中で火事でも始ったのではないかと思われる程、夥しい白煙が洩れているのでした。
ところが、この奇行を二三日続ける間に、彼は又しても、妙なことに気がついたのです。飽きっぽい彼は、三日目あたりになると、もう押入れの寝台ベッドには興味がなくなって、所在なさに、そこの壁や、寝ながら手の届く天井板に、落書きなどしていましたが、ふと気がつくと、丁度頭の上の一枚の天井板が、釘を打ち忘れたのか、なんだかフカフカと動く様なのです。どうしたのだろうと思って、手で突っぱって持上げて見ますと、なんなく上の方へ外はずれることは外れるのですが、妙なことには、その手を離すと、釘づけにした箇所は一つもないのに、まるでバネ仕掛けの様に、元々通りになって了います。どうやら、何者かが上から圧おさえつけている様な手ごたえなのです。
はてな、ひょっとしたら、丁度この天井板の上に、何か生物が、例えば大きな青大将あおだいしょうか何かがいるのではあるまいかと、三郎は俄にわかに気味が悪くなって来ましたが、そのまま逃げ出すのも残念なものですから、なおも手で押し試みて見ますと、ズッシリと、重い手ごたえを感じるばかりでなく、天井板を動かす度に、その上で何だかゴロゴロと鈍い音がするではありませんか。愈々いよいよ変です。そこで彼は思切って、力まかせにその天井板をはね除のけて見ますと、すると、その途端、ガラガラという音がして、上から何かが落ちて来ました。彼は咄嗟とっさの場合ハッと片傍かたわきへ飛びのいたからよかったものの、若もしそうでなかったら、その物体に打たれて大怪我おおけがをしている所でした。
「ナアンダ、つまらない」
ところが、その落ちて来た品物を見ますと、何か変ったものでもあればよいがと、少からず期待していた彼は、余りのことに呆あきれて了いました。それは、漬物石つけものいしを小さくした様な、ただの石塊いしころに過ぎないのでした。よく考えて見れば、別に不思議でも何でもありません。電燈工夫が天井裏へもぐる通路にと、天井板を一枚丈け態わざと外して、そこから鼠ねずみなどが押入れに這入はいらぬ様に石塊で重しがしてあったのです。
それは如何いかにも飛んだ喜劇でした。でも、その喜劇が機縁となって、郷田三郎は、あるすばらしい楽みを発見することになったのです。
彼は暫しばらくの間、自分の頭の上に開いている、洞穴ほらあなの入口とでも云った感じのする、その天井の穴を眺めていましたが、ふと、持前もちまえの好奇心から、一体天井裏というものはどんな風になっているのだろうと、恐る恐る、その穴に首を入れて、四方あたりを見廻しました。それは丁度朝の事で、屋根の上にはもう陽が照りつけていると見え、方々の隙間から沢山の細い光線が、まるで大小無数の探照燈を照してでもいる様に、屋根裏の空洞へさし込んでいて、そこは存外明るいのです。
先まず目につくのは、縦に、長々と横よこたえられた、太い、曲りくねった、大蛇の様な棟木むなぎです。明るいといっても屋根裏のことで、そう遠くまでは見通しが利かないのと、それに、細長い下宿屋の建物ですから、実際長い棟木でもあったのですが、それが向うの方は霞んで見える程、遠く遠く連つらなっている様に思われます。そして、その棟木と直角に、これは大蛇の肋骨あばらに当る沢山の梁はりが両側へ、屋根の傾斜に沿ってニョキニョキと突き出ています。それ丈けでも随分雄大な景色ですが、その上、天井を支える為に、梁から無数の細い棒が下っていて、それが、まるで鐘乳洞しょうにゅうどうの内部を見る様な感じを起させます。
「これは素敵だ」
一応屋根裏を見廻してから、三郎は思わずそう呟つぶやくのでした。病的な彼は、世間普通の興味にはひきつけられないで、常人には下らなく見える様な、こうした事物に、却かえって、云い知れぬ魅力を覚えるのです。
その日から、彼の「屋根裏の散歩」が始まりました。夜となく昼となく、暇さえあれば、彼は泥坊猫の様に跫音あしおとを盗んで、棟木や梁の上を伝い歩くのです。幸さいわいなことには、建てたばかりの家ですから、屋根裏につき物の蜘蛛の巣もなければ、煤すすや埃ほこりもまだ少しも溜っていず、鼠の汚したあとさえありません。それ故ゆえ着物や手足の汚くなる心配はないのです。彼はシャツ一枚になって、思うがままに屋根裏を跳梁ちょうりょうしました。時候も丁度春のことで、屋根裏だからといって、さして暑くも寒くもないのです。
三
東栄館の建物は、下宿屋などにはよくある、中央まんなかに庭を囲んで、そのまわりに、桝型ますがたに、部屋が並んでいる様な作り方でしたから、随って屋根裏も、ずっとその形に続いていて、行止ゆきどまりというものがありません。彼の部屋の天井裏から出発して、グルッと一廻りしますと、又元の彼の部屋の上まで帰って来る様になっています。
下の部屋部屋には、さも厳重に壁で仕切りが出来ていて、その出入口には締りをする為の金具まで取りつけているのに、一度天井裏に上って見ますと、これは又何という開放的な有様でしょう。誰の部屋の上を歩き廻ろうと、自由自在なのです。若し、その気があれば、三郎の部屋のと同じ様な、石塊の重しのしてある箇所が所々にあるのですから、そこから他人の部屋へ忍込んで、窃盗を働くことも出来ます。廊下を通って、それをするのは、今も云う様に、桝型の建物の各方面に人目があるばかりでなく、いつ何時なんどき他の止宿人ししゅくにんや女中などが通り合わさないとも限りませんから、非常に危険ですけれど、天井裏の通路からでは、絶対にその危険がありません。
それから又、ここでは、他人の秘密を隙見することも、勝手次第なのです。新築と云っても、下宿屋の安普請やすぶしんのことですから、天井には到る所に隙間があります。――部屋の中にいては気が附きませんけれど、暗い屋根裏から見ますと、その隙間が意外に大きいのに一驚いっきょうを喫きっします――稀には、節穴さえもあるのです。
この、屋根裏という屈指の舞台を発見しますと、郷田三郎の頭には、いつのまにか忘れて了っていた、あの犯罪嗜好癖が又ムラムラと湧き上って来るのでした。この舞台でならば、あの当時試みたそれよりも、もっともっと刺戟の強い、「犯罪の真似事」が出来るに相違ない。そう思うと、彼はもう嬉しくて耐たまらないのです。どうしてまあ、こんな手近な所に、こんな面白い興味があるのを、今日まで気附かないでいたのでしょう。魔物の様に暗闇の世界を歩き廻って、二十人に近い東栄館の二階中の止宿人の秘密を、次から次へと隙見して行く、そのこと丈けでも、三郎はもう十分愉快なのです。そして、久方振りで、生き甲斐を感じさえするのです。
彼は又、この「屋根裏の散歩」を、いやが上にも興深くするために、先ず、身支度からして、さも本物の犯罪人らしく装うことを忘れませんでした。ピッタリ身についた、濃い茶色の毛織のシャツ、同じズボン下――なろうことなら、昔活動写真で見た、女賊プロテアの様に、真黒なシャツを着たかったのですけれど、生憎あいにくそんなものは持合せていないので、まあ我慢することにして――足袋たびを穿はき、手袋をはめ――天井裏は、皆荒削あらけずりの木材ばかりで、指紋の残る心配などは殆どないのですが――そして手にはピストルが……欲しくても、それもないので、懐中電燈を持つことにしました。
夜更けなど、昼とは違って、洩れて来る光線の量が極く僅かなので、一寸先も見分けられぬ闇の中を、少しも物音を立てない様に注意しながら、その姿で、ソロリソロリと、棟木の上を伝っていますと、何かこう、自分が蛇にでもなって、太い木の幹を這い廻っている様な気持がして、我ながら妙に凄くなって来ます。でも、その凄さが、何の因果か、彼にはゾクゾクする程嬉しいのです。
こうして、数日、彼は有頂天になって、「屋根裏の散歩」を続けました。その間には、予期にたがわず、色々と彼を喜ばせる様な出来事があって、それを記しるす丈けでも、十分一篇の小説が出来上る程ですが、この物語の本題には直接関係のない事柄ですから、残念ながら、端折はしょって、ごく簡単に二三の例をお話するに止とどめましょう。
天井からの隙見というものが、どれ程異様な興味のあるものだかは、実際やって見た人でなければ、恐らく想像も出来ますまい。仮令、その下に別段事件が起っていなくても、誰も見ているものがないと信じて、その本性をさらけ出した人間というものを観察すること丈けで、十分面白いのです。よく注意して見ますと、ある人々は、その側に他人のいるときと、ひとりきりの時とでは、立居ふるまいは勿論もちろん、その顔の相好そうごうまでが、まるで変るものだということを発見して、彼は少なからず驚きました。それに、平常ふだん、横から同じ水平線で見るのと違って、真上から見下すのですから、この、目の角度の相違によって、あたり前の座敷が、随分異様な景色に感じられます。人間は頭のてっぺんや両肩が、本箱、机、箪笥たんす、火鉢などは、その上方の面丈けが、主として目に映ります。そして、壁というものは、殆ど見えないで、その代りに、凡ての品物のバックには、畳が一杯に拡っているのです。
何事がなくても、こうした興味がある上に、そこには、往々おうおうにして、滑稽こっけいな、悲惨な、或は物凄い光景が、展開されています。平常過激な反資本主義の議論を吐いている会社員が、誰も見ていない所では、貰もらったばかりの昇給の辞令を、折鞄おりかばんから出したり、しまったり、幾度も幾度も、飽かず打眺うちながめて喜んでいる光景、ゾロリとしたお召めしの着物を不断着ふだんぎにして、果敢はかない豪奢振ごうしゃぶりを示している、ある相場師が、いざ床とこにつく時には、その、昼間はさも無雑作むぞうさに着こなしていた着物を、女の様に、丁寧に畳んで、床の下へ敷くばかりか、しみでもついたのと見えて、それを丹念に口で嘗なめて――お召などの小さな汚れは、口で嘗めとるのが一番いいのだといいます――一種のクリーニングをやっている光景、何々大学の野球の選手だというニキビ面の青年が、運動家にも似合わない臆病さを以て、女中への附文つけぶみを、食べて了った夕飯のお膳の上へ、のせて見たり、思い返して、引込めて見たり、又のせて見たり、モジモジと同じことを繰返している光景、中には、大胆にも、淫売婦(?)を引入れて、茲ここに書くことを憚はばかる様な、すさまじい狂態を演じている光景さえも、誰憚らず、見たい丈け見ることが出来るのです。
三郎は又、止宿人と止宿人との、感情の葛藤かっとうを研究することに、興味を持ちました。同じ人間が、相手によって、様々に態度を換えて行く有様、今の先まで、笑顔で話し合っていた相手を、隣の部屋へ来ては、まるで不倶戴天ふぐたいてんの仇あだででもある様に罵ののしっている者もあれば、蝙蝠こうもりの様に、どちらへ行っても、都合のいいお座なりを云って、蔭でペロリと舌を出している者もあります。そして、それが女の止宿人――東栄館の二階には一人の女画学生がいたのです――になると一層興味があります。「恋の三角関係」どころではありません。五角六角と、複雑した関係が、手に取る様に見えるばかりか、競争者達の誰れも知らない、本人の真意が、局外者の「屋根裏の散歩者」に丈け、ハッキリと分るではありませんか。お伽噺とぎばなしに隠かくれ蓑みのというものがありますが、天井裏の三郎は、云わばその隠れ蓑を着ているも同然なのです。
若しその上、他人の部屋の天井板をはがして、そこへ忍び込み、色々ないたずらをやることが出来たら、一層面白かったでしょうが、三郎には、その勇気がありませんでした。そこには、三間に一箇所位の割合で、三郎の部屋のと同様に、石塊いしころで重しをした抜け道があるのですから、忍び込むのは造作もありませんけれど、いつ部屋の主が帰って来るか知れませんし、そうでなくとも、窓は皆、透明なガラス障子しょうじになっていますから、外から見つけられる危険もあり、それに、天井板をめくって押入れの中へ下り、襖をあけて部屋に這入り、又押入れの棚へよじ上って、元の屋根裏へ帰る、その間には、どうかして物音を立てないとは限りません。それを廊下や隣室から気附かれたら、もうおしまいなのです。
さて、ある夜更けのことでした。三郎は、一巡ひとまわり「散歩」を済ませて、自分の部屋へ帰る為に、梁から梁を伝っていましたが、彼の部屋とは、庭を隔てて、丁度向い側になっている棟の、一方の隅の天井に、ふと、これまで気のつかなかった、幽かすかな隙間を発見しました。径二寸ばかりの雲形をして、糸よりも細い光線が洩れているのです。なんだろうと思って、彼はソッと懐中電燈を点ともして、検しらべて見ますと、それは可也かなり大きな木の節で、半分以上まわりの板から離れているのですが、あとの半分で、やっとつながり、危く節穴になるのを免れたものでした。一寸爪の先でこじさえすれば、何なく離れて了い相なのです。そこで、三郎は外ほかの隙間から下を見て、部屋の主が已すでに寝ていることを確めた上、音のしない様に注意しながら、長い間かかって、とうとうそれをはがして了いました。都合のいいことには、はがした後の節穴が、杯さかずき形に下側が狭くなっていますので、その木の節を元々通りつめてさえ置けば、下へ落ちる様なことはなく、そこにこんな大きな覗き穴があるのを、誰にも気附かれずに済むのです。
これはうまい工合ぐあいだと思いながら、その節穴から下を覗いて見ますと、外の隙間の様に、縦には長くても、幅はせいぜい一分ぶ内外の不自由なのと違って、下側の狭い方でも直径一寸以上はあるのですから、部屋の全景が、楽々と見渡せます。そこで三郎は思わず道草を食って、その部屋を眺めたことですが、それは偶然にも、東栄館の止宿人の内で、三郎の一番虫の好かぬ、遠藤えんどうという歯科医学校卒業生で、目下はどっかの歯医者の助手を勤めている男の部屋でした。その遠藤が、いやにのっぺりした虫唾むしずの走る様な顔を、一層のっぺりさせて、すぐ目の下に寝ているのでした。馬鹿に几帳面きちょうめんな男と見えて、部屋の中は、他のどの止宿人のそれにもまして、キチンと整頓せいとんしています。机の上の文房具の位置、本箱の中の書物の並べ方、蒲団の敷き方、枕許まくらもとに置き並べた、舶来物でもあるのか、見なれぬ形の目醒めざまし時計、漆器しっきの巻煙草まきたばこ入れ、色硝子いろがらすの灰皿、何いずれを見ても、それらの品物の主人公が、世にも綺麗きれい好きな、重箱の隅を楊子ようじでほじくる様な神経家であることを証拠立てています。又遠藤自身の寝姿も、実に行儀がいいのです。ただ、それらの光景にそぐわぬのは、彼が大きな口を開あいて、雷の様に鼾いびきをかいていることでした。
三郎は、何か汚いものでも見る様に、眉をしかめて、遠藤の寝顔を眺めました。彼の顔は、綺麗といえば綺麗です。成程彼自身で吹聴ふいちょうする通り、女などには好かれる顔かも知れません。併し、何という間延びな、長々とした顔の造作でしょう。濃い頭髪、顔全体が長い割には、変に狭い富士額ふじびたい、短い眉、細い目、始終笑っている様な目尻の皺しわ、長い鼻、そして異様に大ぶりな口。三郎はこの口がどうにも気に入らないのでした。鼻の下の所から段を為なして、上顎うわあごと下顎とが、オンモリと前方へせり出し、その部分一杯に、青白い顔と妙な対照を示して、大きな紫色の唇が開いています。そして、肥厚性鼻炎ひこうせいびえんででもあるのか、始終鼻を詰つまらせ、その大きな口をポカンと開けて呼吸をしているのです。寝ていて、鼾をかくのも、やっぱり鼻の病気のせいなのでしょう。
三郎は、いつでもこの遠藤の顔を見さえすれば、何だかこう背中がムズムズして来て、彼ののっぺりした頬っぺたを、いきなり殴なぐりつけてやり度たい様な気持になるのでした。
四
そうして、遠藤の寝顔を見ている内に、三郎はふと妙なことを考えました。それは、その節穴から唾つばをはけば、丁度遠藤の大きく開いた口の中へ、うまく這入りはしないかということでした。なぜなら、彼の口は、まるで誂あつらえでもした様に、節穴の真下の所にあったからです。三郎は物好きにも、股引ももひきの下に穿いていた、猿股さるまたの紐を抜出して、それを節穴の上に垂直に垂らし、片目を紐にくっつけて、丁度銃の照準でも定める様に、試して見ますと、不思議な偶然です。紐と節穴と、遠藤の口とが、全く一点に見えるのです。つまり節穴から唾を吐けば、必ず彼の口へ落ちるに相違ないことが分ったのです。
併し、まさかほんとうに唾を吐きかける訳にも行きませんので、三郎は、節穴を元の通りに埋うずめて置いて、立去ろうとしましたが、其時そのとき、不意に、チラリとある恐しい考えが、彼の頭に閃きました。彼は思わず、屋根裏の暗闇の中で、真青になって、ブルブルと震えました。それは実に、何の恨うらみもない遠藤を殺害するという考えだったのです。
彼は遠藤に対して何の恨みもないばかりか、まだ知り合いになってから、半月もたってはいないのでした。それも、偶然二人の引越しが同じ日だったものですから、それを縁に、二三度部屋を訪ね合ったばかりで別に深い交渉がある訳ではないのです。では、何故なにゆえその遠藤を、殺そうなどと考えたかといいますと、今も云う様に、彼の容貌や言動が、殴りつけたい程虫が好かぬということも、多少は手伝っていましたけれど、三郎のこの考かんがえの主たる動機は、相手の人物にあるのではなくて、ただ殺人行為そのものの興味にあったのです。先からお話して来た通り、三郎の精神状態は非常に変態的で、犯罪嗜好癖ともいうべき病気を持ってい、その犯罪の中でも彼が最も魅力を感じたのは殺人罪なのですから、こうした考えの起るのも決して偶然ではないのです。ただ今までは、仮令屡々しばしば殺意を生ずることがあっても、罪の発覚を恐れて、一度も実行しようなどと思ったことがないばかりなのです。
ところが、今遠藤の場合は、全然疑うたがいを受けないで、発覚の憂うれいなしに、殺人が行われ相そうに思われます。我身に危険さえなければ、仮令相手が見ず知らずの人間であろうと、三郎はそんなことを顧慮こりょするのではありません。寧むしろ、その殺人行為が、残虐であればある程、彼の異常な慾望は、一層満足させられるのでした。それでは、何故遠藤に限って、殺人罪が発覚しない――少くとも三郎がそう信じていたか――といいますと、それには、次の様な事情があったのです。
東栄館へ引越して四五日たった時分でした。三郎は懇意こんいになったばかりの、ある同宿者と、近所のカフェへ出掛けたことがあります。その時同じカフェに遠藤も来ていて、三人が一つテーブルへ寄って酒を――尤もっとも酒の嫌いな三郎はコーヒーでしたけれど――飲んだりして、三人とも大分いい心持になって、連立つれだって下宿へ帰ったのですが、少しの酒に酔っぱらった遠藤は、「まあ僕の部屋へ来て下さい」と無理に二人を、彼の部屋へ引ぱり込みました。遠藤は独ひとりではしゃいで、夜が更けているのも構わず、女中を呼んでお茶を入れさせたりして、カフェから持越しの惚気話のろけばなしを繰返すのでした。――三郎が彼を嫌い出したのは、その晩からです――その時、遠藤は、真赤に充血した脣くちびるをペロペロと嘗め廻しながら
コードレビューをずっとやっていると、伸びるタイプかそうでないかが提出してくるコードで分かるようになってくる。
ざっくり
を見る。
コードフォーマットで頻繁に同じような指摘を受けるタイプは明らかにエディタやコンソールといったツールが使えていない。
人間が作業の精度を上げるのではなく、100%の精度で作業してくれるツールにやらせれば良い。
些末なミスはツールが拾ってくれる方が高速で、正確で、なにより心理的負荷が低い。
リファクタリング機能やコードフィックスの提案を有するツールなら学習のペースも上がる。
コードフォーマットで消耗しているようでは、本来重要なはずの作業や学習に時間が取れないのは自明だろう。
命名を軽視する者は、作業の対象となっているコードがどんな責務を負うか、自身の書いたコードの内容すらも完全には理解していない傾向が強い。
(ここではあえてクラスやメソッドという表現を避けるが)扱うコードが何をするもので、何に依存し、どこから呼ばれるか。
どういったエラーが出うるか、エラーは今のレイヤで対処しておくべきものか、他のレイヤの責務か。
命名にはそういった情報が反映される。英語が苦手?プログラミングで使う語彙なんて極めて少ない。高校生ぐらいのレベルの英語ができれば十分だろう。
むしろ、先人が少ない語彙でどうやって事物を表現してきたかを学ぶべきである。
求められるのは正確さと一貫性であり、誰もボキャブラリーなんぞ求めていない。少ない語彙で正確に表現できるぐらいに対象のコードを整理しろ。
個を見れば
増田は個を見ているのか。じゃあ、
> 関係性萌えは理解できるけど個人を推す感情は理解できない。例えその関係性の片割れであったとしても個人としてはどうでもいいというか何を思えばいいのかよく分からないんだよな。
↑ コレは関係ということでいいか? とりあえず無関係ということで進める
『増田という個は "他の誰がいなくとも増田という個に変わりがない"、増田という個は世界の主人だ』、これは理解出来そう?
もう少し付け足すならこんな感じ↓
「地獄とは他人のことだ」
「人間の本質はあらかじめ決められておらず、実存が先行した存在である。だからこそ、人間は自ら世界を意味づけ行為を選び取り、自分自身で意味を生み出さなければならない」
「人間はだれしも自分のおかれた状況に条件づけられ、拘束されているが、同時にあくまでも自由な存在である。したがって、どんな局面においても人はその状況の限界内で自由に行動を選択しなければならないし、自由に選択した以上は自分の行動に責任を負わねばならない。」
疎外とは外的条件によって自分の主人でなくなること
例えばマルクスは、疎外という言葉を、外的条件によって自分の主人でなくなること、事物の奴隷になることの意味に使っている。
マルクスでは、資本主義制度の下での労働です。初期のサルトルはごらんのとおり、「まなざし」なのです。
したがって、マルクスの場合は疎外の克服のためには社会変革が必要となるのですが、
初期のサルトルの場合は、意識の変革、意識の努力が求められる。
それにしてもサルトルはなぜまなざしを向けられることを他有化と考えるのか。
考えの筋道はこうです。
私はまなざしを世界に向けることによって世界の意味を構成し、所有していた。
ところが他人のまなざしが出現すると、今度は他人が私の世界を構成し、所有し、私の世界は盗まれる。
そればかりか、他人が私にまなざしを向けると、私についての評価が相手に委ねられ、自分が自分のものではなくなってしまう、と。
私がこうした他有化を蒙(こうむ)るのは当然のことです。
そこでサルトルはこれを「自由の受難」と呼び、「人間の条件」と考えている。
ここまでは大丈夫そう?
長文が読みたくない場合は『増田という個は "他の誰がいなくとも増田という個に変わりがない"、増田という個は世界の主人だ』だけわかればいいよ
他の教科だとなかなかこうはならない。
小学校1年生の漢字を覚えていなければ小学校2年生の漢字を覚えられないということにはならない。
奈良時代の学習を完璧に理解していないと平安時代の学習がうまくいかないということもない。
同じ理系科目である理科(物理化学生物地学)も、たとえば小学校の学習ができなくても中学校で、中学校の学習ができなくても高校で、得意になれるくらいには、カリキュラムは独立している。
小学校1年生の学習を理解しないまま、小学校2年生の学習に進むことはできない。
学習したつもりでも、実は理解しきれていない箇所があれば、必ず後に響く。
もちろん他の教科も初めから順番に学んだ方が当然わかりやすいし、それに越したことはない。
ただ数学のそれとは取り返しのつかなさが違う。
一方、他の教科は、推奨レベルやお勧め解放順、必要ポイントの差はあるけれども、基本的にはどこからでも取っていけるスキル表だ。
この数学の積み重ね性を表す顕著な例として、たとえば、高校3年(2年かも?)で習う微分(導関数)の定義を考えてみる。
f'という記号が導入されて、limなんちゃらかんちゃらで、f'(x)は定義される。
そうしたら教師が、例えばf(x)に具体的な関数x^3を当てはめると、ここがこうなって、3x^2になるんですと。
この「具体的な関数」って言葉、面白いよなあとつくづく思ってしまう。
中学の頃には、関数を理解するため、xに「具体的な数」たとえば10を入れて考えてみましょうとか言っていたはずなのに。
具体的ってなんだ?
コトバンクで調べると、「はっきりとした実体を備えているさま。個々の事物に即しているさま。」だという。
小学校で初めに数を習う時、我々は指を折ったり、タイルを数えたり、林檎を想像したりした。
そうだ、それこそが真に具体物だ。
したがって我々は、導関数の定義を「具体的に」理解しようとする際、まずf(x)に具体的な関数x^3を当てはめ、そのx^3を理解するためにxに具体的な数10を当てはめ、さらにその10を理解するために林檎10個を思い浮かべ……
とはならない。
関数のことを理解する時、我々は数のことはもう既に具体的だと思って接している。
同じように、導関数の理解に臨もうという段階では、個々の関数のことはもう具体的だと思えるようになっている。
そう思えるようになるほど、個々の数や関数に対する様々な操作を、手癖レベルで熟達し、理解している。
そうして、その新たに手に入れた具体物を土台にして次の抽象が受け入れられるようになる。
横からですが、黒人なりLGBTなり恐い犬なり何であれ、嫌う自由を認めて欲しい、と言われると
「内心で思うのは自由」「それを公に主張することは対象の人・事物の自由を奪うことにつながるので要注意」という話になるのだが、
「そういう人・事物と距離をおきたいのに今の社会では叶わず、実質的に自由を阻害されている。この事態を解消したい」となると、
「同じ思いの人達と連帯してポピュリズムに訴えて、『同じバスや電車に乗らなくて済むように法改正せよ』(例)と働きかけるのがよい」
「もしくは自分の意識改革をしてしまうのが手っ取り早い(彼らを嫌っている自分の内心の方を変えてしまう……見た目は我慢と同じだが)」
多分、元増田の思いとしてはそこまで過激な話ではなく、「嫌いと言っただけで鬼の首でも取ったかのように総叩きにされるのはおかしいのではないか」
くらいの疑問が出発点だと推測するが、個人的にはこういう何が差別であるという話は価値観の一時的な流行だと思っている。
何かの正当性に基づいた正当的な攻撃というよりも、流行の言説にそぐわない発言をすると流行の御旗のもとに殴られるという現象であって、
そういうものだと受け入れるしかないし、納得がいかないならやっぱり増田なりなんなりで同じ思いの人達に声を届け問題意識を共有しつつ、
いまは匿名で増田なりで自分の意見を表明することは、よっぽどの内容でない限り自由に(=実害を被ること無く)実行できるが、
皆の「嫌い」の想いを綺麗にまとめ上げることが出来れば、
それに対する抗弁をネット上で表明するだけで思想犯として収獄されるよう流行を変えることも不可能ではないはず。
皆が自由に好悪・気持ちを表明しつつ、それ自体が他者への攻撃とはならないように……というのは確かに美しいのだが、
何が攻撃であるかの区別・評価をつけること自体が十分に攻撃的なので、仕組みづくりとしては表明が全方向的に「攻撃にならない」ようにする他なく、