2021-07-17

私が歴史小説を好んで読むのは「神の視点」を持つことができるから

登場人物翻弄されるその出来事の結末を、彼らにとって未来である私はすべて知っている。

から、彼らが知能と技術を尽くしたその行動の正否を、単なる一個人しかない私が、100%正しく評価できる。

この感覚がたまらなく快い。

社会的有意義価値を持たない自分が、歴史的有名人の行動を逐一評価できるという感覚

から、私は小説の中でも歴史小説ばかりを好き好んで読み続けてしまうのだ。

また、近現代小説ともなると、現在では当たり前に使われる科学技術(例えば、「えてきてる」だとか)に、登場人物が強い驚きを示すシーンも快い。

その人間を強く興奮させる驚きを、自分は既にいつとも知らず超越できているという感覚

またそれは、自分子育てを行っていた昔の、子供テレビやら自転車やら色々なものに興味を示していた様子を想起させる。

でも、歴史というもの自体は大嫌いだ。

歴史は、学問履歴と違って、論理的に発展したわけでもないし、それが人間にとって最良に発展したわけでもない。

それなのに、「賢者歴史に学ぶ」とか称して、歴史自分辞典かなんかのような学ぶべき規範だと勘違いしている。

歴史なんて、アドホックパターンの羅列でしかないだろう。

歴史=暗記科目と思われているのも、ひとつひとつイベントアドホックで、共通項が見いだせない作りになっているからだ。

から歴史が多くの「賢者」に学ばれるためには、もっと一般化した形で表現されるべきだと思う。

まり歴史は暗記すべき物事に溢れた情報形態であることを止め、理想的には数学公式のように、色々な時代フィットできる教訓のような形を取るべきだと思う。

そういう一般化も目指さないで、「賢者歴史に学ぶ」なんて述べる人間は「想定外」という言葉をどう思っているのか。

そりゃ、歴史的情報は暗記に閉口するほど豊富なので、どこかが現代事物が似ていて、教訓が拾えたりすることもあるだろう。

しかし、何か悪い事項が発生したあとで、この教訓はこの歴史的事物からも読みとれる、だなんて言っても仕方がない。意味がない。

から歴史家には、未来に発生する事項に先行して、歴史的事物一般化した教訓にまとめる努力必要なのではないだろうか。

歴史家は、歴史における未知の事項を明らかにすることにだけ力を入れているように思うが、

個人的には、そういうのいいから、早く「まとめ」のフェーズに入って教訓化しろよ、早く教訓として歴史的情報圧縮しろよと思う。

まり歴史はあらゆる情報網羅する情報可能体であろうとする努力を辞め、その一部分でも「まとめ」として有意味な教訓を抽出してほしいと思うわけです。

いや、「まとめ」の部分は歴史以外の学問がやるべきってことなのか?

もしそうであったとしても、「賢者」が学ぶべきなのは、そっちの学問だよな。

現代に生きる我らが得るべきなのは歴史的素材に関する知識じゃなく、現代に使える教訓なのだから

というわけで、歴史学問総体として嫌いだが、部分的イベントとしては快いと思うわけです。

そして、その「まとめ」の一形態歴史小説だと思うので、そういう意味でも、歴史小説を好んで読み続けるのです。

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