はてなキーワード: ウトウトとは
プログラミングスクールが話題になっていたので体験談を書いてみた。スクールの中身と就職先がメイン。技術的な話はあまりしてないし長いけどよかったら読んでみて欲しい。細かいところは濁してるよ。
数年前の話。
20代半ばでフリーターをしてたんだけど正社員になるべくプログラミングスクールに通った。そのスクールは授業料が無料。代わりに斡旋してもらった企業には(法的拘束力はないけど)就職しなきゃいけないというルールだった。
スクールの開校初日はよく覚えてる。簡素な小部屋に同期生30人程が集められた。やたら顔のいい講師が自己紹介をしてくれたが、ホントは営業職らしい。意味がわからん。講師から最終月にグループ課題があるので同期生とは今から仲良くしてくださいねと言われ、前後左右に座る男女と自己紹介をした。理由は色々だったけどみんなエンジニアになりたいらしい。1人からは並々ならぬ熱意を感じる。熱血クンと呼ぼう。
挙手したのは自分だけ。あれ?思ってたより少ないな。てか熱血クン手上げてないし。このクラス大丈夫かな?
嫌な予感がしつつも早速授業が始まった。映像授業を見終わったら演習課題を解いて講師に見せるという流れだった。内容はHTMLの基礎。映像があまりに遅くて退屈なので授業内容が要約されたPDF(たぶん復習用)を読んで演習課題を解いた。講師に確認してもらう最中ふと横を見ると熱血クンはウトウトしていた。大丈夫だろうか。
授業内容も演習課題もめちゃくちゃ簡単でProgateの方が難しいレベル。進めていると熱血クンが質問してきたので教えてあげる。講師に質問したら分からないと言われたらしい。自分は講師の存在意義が分からないよ。HTMLタグの閉じ忘れを指摘すると熱血クンは大喜び。ホッコリ。
1週間後、熱血クンは来なくなった。
2ヶ月目。何故か同期生がみんな仲良くなっていたが自分は馴染めず挨拶をする程度に留めておいた。毎週飲み会が開かれたが少しでも多く勉強したかったので断っていると、ある日講師から呼び出しをくらう。
「増田さん、飲み会行かないんですか?プログラマーにはコミュ力も必要ですよ。」
家でアプリ開発したいんですが……。とは言えず飲み会には1度だけ参加した。同期生は概ね人が良く楽しかったが2次会3次会はパスして1時間で帰宅。
翌日は半分くらいの生徒が遅刻してきた。
課題についていけない5人くらいが来なくなった。
3ヶ月目。グループ課題が始まる。グループ毎にCTOを決めるのだが、この時点で達成してるハズの課題が自分以外終わっておらず必然的に自分がCTOになった。目立ちたくないのに。
課題はよくあるポートフォリオサイトを作るというものだった。要件定義や画面設計などを1人で終わらせチームメンバーに役割を割り振るところで問題発生。ある女メンバーが責任を負いたがらない。余程自信があるのか常に生脚を露出していたので生脚と呼ぼう。
生脚「難しそうだから無理!٩(×_×)۶」
一体何ならしてくれるんだ?話を聞いてみると、どうやらチームメンバーのEXILEみたいな男と同じ作業がしたいようだ。こいつはEXILEと呼ぼう。EXILEに生脚は技術的に不安があるから一緒に開発して欲しいと頼んだところ快諾してくれた。ありがとうEXILE。イケメンは中身もイケメンなんだなぁ。
そんなこんなで開発が始まった。自分は全体の半分くらいの機能を開発しつつチームメンバーのサポートを受け持った。講師が変わり技術的な質問ができるようになったので多くを学べるよう必死に開発した。最終日には成果発表のプレゼンがあり技術的な説明をさせてもらった。
生脚はEXILEに告白してフラれたらしい。途中から来なくなった。
開発が終わり、ついに就活フェーズに入った。スクールの用意した就活アドバイザーが色々教えてくれる。面接でよく聞かれる質問とかそういうやつ。どんな企業に斡旋されるのか聞いてみたところ開発時の講師が生徒を評価してスクール側で勝手に割り当てるのだそう。なにそれこわい。
募集が来てる企業一覧から自薦することもできた。200社くらいから募集があり自社開発は4社。受託が8社。残りの188社はSESか社内SEだった。SESは闇深と聞いていたので自社開発と受託をメインで自薦してみたが書類選考で通ったのは3社だけ。正社員経験がないとダメらしい。通った3社とスクールが割り当てた4社の計7社で面接してもらえることになった。この中に自分の未来を預けるのか。
自社開発や受託企業の面接はどれも厳しいものだった。スクールでは教わらないレベルの内容を問われ、アーキテクチャについて考えを問われ、はたまたOSS開発の経験まで問われた。どうやらスクールは自分のことを高く評価してくれたようだが自分には壁が厚すぎた。スクールでのプレゼン経験を糧に伸び代アピールを頑張ったのだが落ちた。全て落ちた。技術不足で申し訳ない。
ところが一方でSESの面接は楽勝だった。面接というよりはほとんど雑談レベルで聞かれることといえば出身地、趣味、大学の専攻、etc.。お見合いかよ、なんて突っ込んでる間に全て受かった。人類なら全員受かるのではないだろうか。
どの企業も似たり寄ったりで、結局、面接で唯一「将来なりたいエンジニア像」について聞いてきた企業に決めた。ここならキャリアを積めるかもしれないと思ったからだ。給与が1番高かったのも理由の1つだけど。
タイトルにもあるが、この企業がそれはもうギリギリのブラック企業だった。
入社初日はよく覚えてる。とんでもなく小さいビルの1室。インターホンを鳴らすと、なんと社長自ら出迎えてくれた!素晴らしいことのように見えるがSESなので自社に誰も社員がいないのだ。ホントに1人も。
社長から会社について説明を受ける。時折、ここは良いところだぞ!社員は家族みたいなもんだ!と挟んでくるがブラック企業の常套句をなぜ連呼するのか。そして早速お前呼びされた。
「俺は今から営業行ってくるから、お前はSlackで指示を仰いで。じゃーね」
ん?社長がいなくなったら社内1人ですよね?電話とか来たらどうします?指示って誰に聞くんですかね?何時に帰ってくるんですか?
聞こうと思った瞬間には電話しながら外行っちゃった。やばい。とりあえずSlackの全体チャンネルに入社挨拶と指示くださいと投げる。返事なし。1時間経過したところで返事が来た。多分上司だ。
「新人担当が決まってなかったので連絡遅れた。とりあえず俺に聞いて。今日は自社開発してるサービスの開発環境構築しといて。PCに前の人が使ってたメモ入ってると思うから。以上」
えぇー。新人担当くらい決めておいて欲しいです。自社開発のサービスって何ですか聞いてません。あとメモに書いてあるライブラリ、バージョンが古くて起動できないです。
などなど聞きたいことは山ほどあったが上司も常駐先で忙しいようで返事が最速で30分かかるし、聞く度にバカかアホかと嫌味を言われる。こりゃ自分でなんとかするしかない。
環境構築をしてると電話が鳴る。しょっちゅう鳴る。人材紹介の営業がほとんどだったのでかけ直すと言ってメモだけしておく。1件だけ社長はいますかと聞かれたので名前を頂戴したところ銀座の高級クラブだった。私用電話をするな。
定時になったが鍵を持っていないので帰れない。Slackでヘルプを求めるが誰も反応してくれない。結局その日は22時頃に社長が帰ってきた。営業という名目の飲み会だったようでベロンベロンに酔っていた。「鍵渡すの忘れてたわ〜」だって。早めの退職を心に決める。
どうやらSESとして派遣されるのは1ヶ月程後のようで、それまでは自社開発をするらしい。実務で経験を積めるならラッキーと思ったが、この自社開発サービスがクセ者で大変苦しむ。
開発環境は大変にレガシー。当時すでに下火だったPHPとjQery。バージョン管理は驚きのSVN。2年前のチケットが放置されたRedmineには辞めていった社員の名前がズラリ。
開発スケジュールは社長が思いついた機能を誰かが開発する流れなので常にグダグダ。SESで現場に出ている社員は常駐先の仕事が終わってから自宅で開発をしているらしい。もちろん残業代なんてものは存在しない。よって誰も開発したがらない。社長はこのサービスを市場に流通させると息巻いていたが、とても使い物にはならないクオリティ。ゴミだ。ゴミを開発する仕事だ。
とはいえ仕事が他にないので頑張って開発した。ここで頑張ったのが後に牙を剥く。
1ヶ月後、常駐先が決まった。有名企業の子会社で技術レベルも相当高かったと思う。今から考えるとここに出向されたことが唯一の救いだった。
他SES企業から常駐している人たちのチームに加わる。チームリーダーはとても優しい人で分からないことは何でも教えてくれた。顔すら知らないのに罵倒してくる自社の上司よりこの人の部下になりたいと思った。
常駐先の社員は有能だが淡々とした人が多く仕様確認以外で話しかけると嫌がられた。自分の専門外でどうしても分からない技術があったので1度だけ質問したことがあったが、何で分かんないかなぁとタメ息をつかれた。こわすぎる。
とはいえ優しいチームリーダーの元でなんとか仕事ができるようになった。知らない技術を学べるのは楽しくヤル気も上がった。
自社の業務は最悪だった。1週間に2度くらいの頻度で社長に呼び出されるので帰社する。
ある日、雑用をこなしていると初めて見る社員が現れた。社長と話しているがスゴい罵倒されている。かわいそう。
早く辞めたい。この一心だった。
でも今辞めたら転職できる気がしない。
その後、常駐前に自社開発を頑張ったせいで自社開発を押し付けられてしまう。9時~18時は客先常駐。19時から雑用係。明け方まで自社開発という生活になる。
結果、客先で倒れた。チームリーダーに何があったのと問われ、自社の開発が大変で……と答えてしまった。チームリーダーは客先社員に報告。客先社員は客先営業に報告。客先営業は弊社の社長に報告。当日に社長から呼び出しをくらう。
身体の心配なんてされず、ただひたすら罵倒された。客先で倒れるなバカ野郎!お前のせいで謝る羽目になっただろクソが!とか言ってた気がする。意識が曖昧だったので細かく覚えてないけど。
客先に自社開発の話をするな!情報漏洩で訴えるぞ!とも言われた。これは正しい指摘だけど一方で自分は技術的な内容もサービスの内容も話していない。そもそも残業代未払いだろ。
そう思うと無性にイライラしてきて、その場で退職したいと伝えた。
社長は暴れだした。
机を蹴り飛ばし大声で怒鳴っている。お前にいくら使ったと思ってるんだ!お前は障がい者だ!地獄に落ちろ!とか言われた。やばい人だ。
以上がプログラミングスクールからブラックSESに就職した話。ここまで読んでくれてありがとう。
ちなみに転職は成功して、今は自社開発企業で楽しくエンジニアやってるよ。先日リードエンジニアになって年収はSES時代と比べ物にならないくらい増えた。人間関係は良好だしリモートワークもフレックス制もあるからのんびり働ける。
あと数年頑張ればもっと有名な企業に転職できるかもしれないしフリーランスで自由気ままに海外生活も夢じゃないレベルになった。
エンジニアに夢はあるんじゃないかな。でもそれはスクールを出てすぐに掴めるものじゃないと思う。スクールの同期生は半分くらいがエンジニアを辞めたらしい。現実に絶望したのかな。
もしあなたがプログラミングスクールに通いたいなら止めないけど、まずはネットでプログラミングに挑戦してみて欲しい。1日8時間。連日の開発が嫌じゃなければスクールに通ってみてもいいかもね。年末年始も開発しろと自分は思わないけど、週5で開発できないと仕事にならないし。
最後に、この記事を書くきっかけになった、鉄道会社を辞めたエンジニアさんが幸せになりますように。
終わり!
ニュースサイト見てたら自分の記事出てきてめちゃくちゃ笑った。以下気になるブコメに返信。
退職を伝えた後、休職以外認めないと言われたので休職した。心療内科で会社がブラックだから辞めるために診断書くださいと伝えたらすぐに診断書を貰えたので退職願と一緒に社長に提出。
社長はずっと恨み言をつぶやいてた。
「お前はエンジニア向いてないよ」
ハンコ押してさよなら。その日は人生で1番清々しい気持ちでマックを食べた。
転職活動を始めたかったが入社半年で辞めたので実績が終わっていた。ポートフォリオでも作るかと思い、AndroidとiOSでアプリを作ってリリース。Web系も手広く勉強した。GolangとかTypeScriptとか。あとAWSもちょっとだけ。
3ヶ月くらいで貯金が底を尽きたので転職活動スタート。自社開発10社くらいに応募。面接できたのが3社。
2次面接で「恋人いるの?」と聞かれ、最終面接で「このアプリ使いにくいね」とボロクソに言われた会社に内定をもらった。サービス内容も人も面白かったしオフィスがキレイだったので入社。今に至る。
そういえば、転職先で前職の源泉徴収票が必要になったとき総務の人が前職に電話してくれたんだけど、めちゃくちゃに悪口を言われたらしい。
嘘松だったら良かったのにね。有名企業に行ってみたいとかエンジニアとしての夢はあるけど、今の会社は気に入ってるしストックオプション欲しいから辞めずに開発頑張るよ。
そうだね。スクールで教わったことは正直オンラインで学べるレベルだったけど、フリーターがいきなり正社員になれたんだから斡旋制度には助けられたよ。自分がスクールに求めるのはもう少し実践的な内容にして欲しいことかな。せめてHTTP通信くらいはカリキュラムに入れるとか。
難しいと思う。社長が「スクール通っていた期間も入社していたことにしよう!」と悪魔的な発想を持ち出して経験者の体で出向してた。
もちろん業務内容にはついていけずチームリーダーに頼りっぱなし。最終的にテストコード担当になってた気がする。
仰る通りです。すみません。
ただ、ホントに個人的な意見を書かせてもらうとWeb業界のデファクトスタンダードからこれらの技術はすでに外れてると思う。
こういう意見が出るから技術にはあまり触れずに書いたんだよな〜。
そうかもね。
諦めろとは書いてないけど指標のひとつにして欲しかった。スクール通ってたとき「あ、この人プログラミング嫌いなんだな〜」って人結構いたから。向き不向きはわかると思う。
卒業した時点では同期生は全員エンジニアとして就職してた。スクールが何をしてでもねじ込む。その後もエンジニアを続けてたのが半分くらい。卒業した1年ほど後に同期生にバッタリ会ったことあるけど人材派遣側に回ってて笑った。
終わり!
ピルの服用を始めた。
きっかけは生理が酷すぎて会社のトイレで吐いて早退したこと。毎回が酷い訳ではないけど、毎回じゃないから逆に予測がつかなくて困るのでいっそコントロールしようと思った。
以下感想
①ピル飲むの面倒くさすぎて世の中のピル(に限らず毎日欠かさず薬)飲んでる人尊敬する。
「1日1回」がこんなに面倒くさいと思わなかった。確実に毎日飲むの忘れて布団にもぐる。布団の中でウトウトしてきたところで「今日の分飲んでない!」と気づいて起き上がって飲む。気づかずに寝て起きてから飲む日もある。むしろそういう日の方が多い。自分がこんなに「1日1回」を守れない人間だとは思ってなかった。
②副作用におびえる
職業柄、仕事中に飲食が全くできない環境に置かれるので、副作用(血栓症)がすごいこわい。なので仕事前に水を飲み、昼休憩にも水を飲み、仕事が終わった瞬間にも水を飲む。仕事中トイレには行き放題なのが唯一の救い。
どれくらい水分をとっていれば血栓ができないのか、の具体的な摂取量がわからないのでとにかく水を飲むんだけど、これお茶とかジュースでもええんやろうか……?水を沢山飲むの無理なんだが?
自然に任せた生理では数日〜1週間くらい予測とズレることが稀にあったので朝起きたら布団が大惨事とか、トイレに行ったらパンツが大惨事とか稀によくあったけど、スケジュール通りにピルを飲んでいる間は生理はこないし、スケジュール通りに飲むのをやめれば生理がくる。全知全能の神にでもなった気分。うっかりおねしょしてしまった小学生みたいな気分とはもうお別れできるので無敵
④意外と高くない
まーでも毎月決まってくる訳でもない酷い生理のためにピル代かけるのもどうなん?とも思うけど、スケジュール通りにピル飲んでる時にスケジュール通り生理起こすと生理痛がほぼない。全くない訳では無いけどロキソニンは必要ないレベル。それによって毎月のように飲んでいたロキソニン代が浮く。そうすると浮いたロキソニン代でピル代が充分まかなえるような気がする(ちゃんと計算してないけど)
⑤以上を踏まえて
「1日1回」きちんと飲むのが1番守れなさそうで不安だけど、まあそのへんはなんかの病気の治療薬ってわけではないのでゆるめに考えればメリットの方が多いわけで、健康に問題が出ない限りは飲み続ける気がする。
9月12日(土)、俺は、全身麻酔下で行われる精索静脈瘤(グレード3)の手術を断ることにした。
精索静脈瘤のことは、男性不妊を受診した人なら良く知っていると思う。
精巣の周りの血の流れが滞ることで、玉袋の排熱がうまく機能しなくなり、
精子の運動力が弱ってしまうというものだ。ご存じの通り精子は熱に弱い。
精巣のエコーと触診の後、俺はこう告知された。
左:3.6mm。右:拡張が見られる。自覚症状は全くなかった。
完治を望める治療法は外科手術しかない。保険適用で自己負担は4万円。
命に係わるリスクなんて全くない、腹腔鏡による低侵襲な手術で、
盲腸切るよりもはるかにイージーだ。ひと眠りする間に治っている。
それで、俺の精子が元気になるなら、しない選択肢は無いと、理性ではそう感じている。
†
5chとTwitterで全身麻酔の体験談を読んでいて、本当に気が滅入ってしまった。
過呼吸とパニック気味になり、みっともなく妻の前で何度も泣いた。
「あっという間に落ちる」
「10数えようとして最後まで数え切らずに落ちた」
「一瞬で落ちて、次の瞬間ベッドの上に居る」
これを、苦痛の全くない素晴らしい治療と捉えるか、それとも……
俺は、これはとても怖いと感じた。
手術を受けている間の、無意識下の自分はどこに行ってしまったのか?
目覚めた後の自分は、本当に、目覚める前の自分と同一なのだろうか?
突然プツンと意識が途切れるのは一時的な遮断ではなく、死そのものでないか?
今ここにいる自分は死に、同じ意識をバックアップした他人が目を覚ましているのでは?
そういった、途方もないものを想像した時と同種の、金玉が縮こまる感覚が、ある
手術に対する恐怖心は、弟が大病をしたこともあり、子供の頃から人一倍あって、
手術になったらどうしようと夜一人でベッドで震えて眠れないこともあった。
幸いにして、大怪我一つもせずにこの歳まで生きてきた。
だから、この問いに対する結論は先延ばしにしていればよかった。
その先送りのツケを、今払わされている。
いまどき、ガン告知だって、もう少しあっけらかんとしているだろう。
いい歳して、そのくらい動揺してしまった。精神的に堪えられそうになかった。
精液検査の結果は悪いものではなかった。運動率は少々低かったが。
放置したところで、ガン化したり、命に別状のある病気でもない。
男性不妊以外では、積極的に治療されることは稀という事実も存在する。
言い訳だけはどんどん出てくる。
結局、手術は受けないことに決めた。
†
手術が怖いと訴える若者の存在自体は珍しくもないかもしれない。
幼い時から、気を失う、失神することへの恐怖が半端無く強い。
30年余りにわたり肥大し続けた認知の歪みは、ちょっとやそっとで打ち砕けるものじゃない。
そうはいうが、お前は毎日キッチリ5時間寝てるじゃないかといわれるかも知れない。
正直に答えよう。俺は、睡眠を取ることさえ、怖くなってしまうことが、よくある。
実際俺は、イヤホンでASMR音声を聞き続けていないと、不安のために寝落ちすることができない。
耳から入ってくる音声を頼りに、眠りにつく前の自分と、目覚めた後の自分の自意識が
ひとつながりになっていることを、毎日自分に言い聞かせ、それで漸く、おっかなびっくり
落ちていくことができるようになったのだ。全身麻酔ではそれができない。
手術室でもASMRを流してくれたら、それも可能かもしれない。
先日は、それすら堪えられなくなった。中間過程――睡眠によって4時間も5時間も、
途絶えてしまった自分の意識の屍――を想像してしまい、そのことがとてつもなく、恐ろしく
感じられたのだ。それは、死の時間そのものだ。横たわるベッドはさながら棺だ。
自分という存在が消滅してしまう恐怖を抱えて、どうして、赤子のように、
最近は、睡眠中1時間おきにアラームを鳴らすことで、これに対処するようにしている。
1時間の睡眠ならまだ「こちら」へ戻って来られるという感覚的なものが、自分の中にはある。
ウトウトしたかと思ったタイミングで、アラームが鳴る。現在の時刻をチェックする。
これを繰り返すことで、無意識を回避しつつ、朝までの時間をやり過ごす。
論理ではないのだ。
結局自分が納得できるかどうかが、恐怖を乗り越えるのに一番大事だと思わされる。
全身麻酔ではそれができない。
手術室でも1時間おきに覚醒させてもらえれば、それも可能かもしれない。
(思考実験をしてみたが、30分で完了する手術なら、躊躇なく受けていたと思う)
昏睡への恐怖を訴える患者に対して、麻酔科のWebページではこう説明されている。
今まで麻酔から目覚めなかった患者は存在しない。必ず覚醒している。だから大丈夫だ。
真っ当な説明だ、こちとら原理まで散々調べたからそれは承知している。
そう、それでも、絶対安全な「作り物の死」であっても堪えられないのだ。
思い出したが、俺はジェットコースターも楽しめない人間だが、それと同根な気もする。
ビビリの俺は、カリブの海賊からスモールステップで難易度を上げていかなければならない。
幸いにして精索静脈瘤には、自費負担にはなるが、日帰り局所麻酔による治療も
存在する(ナガオメソッドは良さげだがとても高額で、貯金を溜めておかないと払えそうにないが)。
どうしても自然な受精が困難であればこちらも選択肢に入れることにしよう。
†
これから20年30年生きていれば、体中にガタがどんどん見つかるはずだ。
脳ドッグを受ければ、脳動脈瘤が必ず1個や2個は見つかるだろう。
祖母は心臓が弱かった。心臓にカテーテルを挿入しないといけないかもしれない。
そのたびに、泣きわめいて何とか全身麻酔を回避する方法を探し求めるのか。
きっと俺みたいな臆病者がガン告知で取り乱し、代替療法にハマった挙句、
治るはずのステージをみすみす悪化させて、全身転移の末苦しんで死んだりするのだろう。
いや、それよりも何よりも、人生の終焉に待ち構えている大関門――死――、
死こそ、人知の及ばぬ、理性の制御できない最たる存在ではないか。
妻や、まだ見ぬ子と、どれだけ輝かしい日々を送ったとしても、それはいつか終わるのだ。
偽りの喜びでしかないのだ。
俺と、その家族が暮らしていた記憶は、いつの日かこの世界から消え去ってしまうのだ。
それに何の意味がある?
運よく在宅勤務で顔を見られることもない。
まさに今この時も、数秒後に脳卒中で誰にも気づかれず突然死してしまう妄念が頭から離れない。
大人になれば、こんなくだらない恐怖は薄れていくものと信じていた。それがどうか。成人して以降不安は強まるばかりだ。
まだ若いから、と一笑に付してきた最悪の可能性が、日に日に、無視できないほど大きくなっていく。
幼少期からの不安感が全く緩和されていないことに、絶望しか感じない。
死の数か月、数日、数時間前、俺は更に激しく動揺し、どれだけの絶望で染められているのだろうか。
どうして自分のことしか考えられない人間になってしまったのだろう。
誰よりも出産を希望していた妻に対して、本当に申し訳が立たない。
それとも、こんなにも死に怯え、生まれてこなければとさえ思っている男が、新たな命の親になろうだなんて、烏滸がましいということなのだろうか?
今年はコロナが多くのものに影響を及ぼした。私は今大学4年だが、未だに就職先が決まっていない。
全てがコロナのせいではないと思う。周りの友人も着々と就職活動を終わらせている。私はたいした努力もせず就活戦争に敗れ、今はベッドの上で壁と向き合っているか働くかの毎日を送っている。
卒論も書かなければいけない。でも私はほとんど書かずに、今は教授からも見放されていると思う。そもそも前期の単位を全く取れていないので留年確定している。両親にはまだそのことを打ち明けられていない。
6月末に祖母が亡くなった。私は遠距離の彼氏に会うために大阪に出向いていたところで、その訃報を彼と一緒に寝ていたベッドの上で聞いた。私はそのことが恥ずかしくて、今すぐにでも大阪から実家に帰りたいと思った。2月ごろから祖母が病気で在宅看護されているのも知っていたし、7月頭は会いに行こうと思っていた。でも私は祖母に会うことはできず、きっと祖母が亡くなった時、私は彼氏とセックスをしていた。
祖母に申し訳なかった。私は初孫で、祖父母にとって唯一の女の子の孫で、きっと他の子たちよりもほんの少しだけ大事にされていた。しっかり者で優しい女の子。そう評価されるのが嬉しかった。でも大事な時に私は彼氏にうつつを抜かしていた。母親に「今どこにいるの」と聞かれた時居場所を伝えなければいけないのが苦痛だった。
元から学校はサボりがちだったが、祖母の葬式以来授業に出れなかった。就職活動もここ1ヶ月していない。彼氏とは祖母が亡くなった1週間後別れてしまった。
こういう風に書くと私が祖母の死にショックを受けすぎてなにも手がつかなくなった風に思われるかもしれないがそうじゃないんだと思う。私にも説明がつかないが、死にたいと思うことが日に日に増えて、夜眠れなくなって、結果生活リズムが崩れて社会的な行動が取れなくなっただけ。
私はうつなんだろうか。わからない。死にたいと思うし消えたいとも思うけど、何も自殺に繋がる事はしていない。
でも死にたいと言う割にクーラーのついた部屋にいるし、仕事で高い焼肉を食っておっさん相手に「こんなの初めて食べました!」と笑いかけている。デリヘル嬢なんておっさんが連れてった飯屋で美味しそうに食べておっさんの口臭のきつい口とキスしてちんこなめて同じベッドで寝るだけの仕事だ。ずっとニコニコして必要とあれば喘いで、祖父母と同じ年代の男性に「父親だと思って」と言われて「ありがとうお父さん」なんて言ってちんこしごいて射精させる仕事。週に3回仕事して大体7万もらえる。それで生活している。
ツイッターでは死にたいとずっと言っている。唯一の相互のリア友が「一緒に死のうか」と言ってくれる。その子と心中することを考えると幸せになるから毎日そのことを考える。でもその子は今旦那さんとの子を妊娠していて、きっと私と死んではくれないんだろうなとも思う。
はやく死にたい。はやくこの世から消えたい。どうして安楽死が許されないのか理解できない。
死にたいね、これを書きながら泣いているけど、どうせそのうちトイレに行ったりして、ちょっとウトウトして、携帯いじってるうちに1日が終わるんだと思う。どうせそのうち涙も止まってる。死にたいと強く思う気持ちが、本当なのかもうよくわからない。留年確定したことも就活ほとんどしてないことも彼氏と別れたこともデリヘル嬢だと言うことも全て隠して嘘をついてきた。私の嘘はそれだけじゃないし、自分でも誰にどの嘘をついたか、どんな嘘だったか全然覚えてない。
親がこんな私を知ったらどう思うだろう。この前LINEで「大好きだよ」と言ってくれた母親。「困ったことがあったら言いなさい」 と言ってくれた父親。私は周りに恵まれていて、とても大切にされている。それなのに死にたい。友達の女の子と手を繋いで早く死にたい。
ごめんなさい、死にたいよ。
それだけの日記です。
それはもう十年以上前の話だ。
僕は朝五時には起きて、五時半くらいに家を出て、五時四十分くらいの電車に掛け乗り、そこから乗り継ぐこと約2時間という結構な通勤時間でとある職場に毎日出勤している生活だった。
そこへ行くには、電車のパターンが幾つかあって、一番早いのであれば一時間二十分で着く。
どうしてそれを選ばなかったかと言うと、ある路線を使うと非常に快適に通勤出来るからであった。
それは特急列車で、ゆったりした座席があり、しかも特急料金がないのである。
毎日ほぼ同じ時間の特急を利用していたのだけれど、朝は同じ人が乗り込むことが多いので、曜日に寄ってはやたらめったら会話をする人がいたりするわけだ。
それで、そういう乗客とかち合わないように、曜日によって時間を変えたり色々工夫して快適になり始めた半年くらいたった頃。
どういうわけだか知らんが、なぜかそんな風に時間をずらしても、いっつも同じ時間帯の列車に乗ってくるある一人の四十代後半くらいの男性がいた。
敢えて表現すると、頭がうっすらはげたメガネを掛けた背が低めの小太りのサラリーマン風のおっさんである。
別に、特にそれが目立つと言うよりはむしろ雑踏にいたら誰も気付かないようなおっさんである。
でも奇妙なことに、何故かいっつも一両か二両くらい、あるいは同じ車両に乗り込むプラットホームの待機ポジションにいるのである。
余りにいつもいるので、二ヶ月くらいそれが続いて、正直気味が悪くなってきた。
こっちは一定ではなく、ランダムに時間を変えているのに、である。
そのうえどうやったらそんなピッタリ時間を合わせられるのか、まるで理解できない。
ほんとに気味が悪くなって、敢えて三十分くらいずらしたら、その時はいなかった。
また路線を変えても現れない。
ストーカーされてるわけでもないんだなぁと思って、元の時間に戻したら、ふと気付いたらまたいるのである。
何なんだあれ? と思ったけれど、一旦無視することにした。
でもそのうちあまり気にならなくなり、慣れてしまって、そして通勤し始めて一年くらい経ったときのことである。
たまーに、だけどいないことは確かにあった。ほんの数回だとは思うけど、あるにはあった。
でも別にそれを不思議に思ったり、心配したり、あるいはその逆にホッとしたこともない。
但し、いないならいないで、「今日はおっさんいないんだな」くらいには思っていた。
で、ほんの少しくらいはあたりを見渡していないことを確認する癖がついていた。
だってねぇ、慣れたっつってもやはり気味が悪いことには違いないから。
だから、おっさんに対する意識はあったのだけど、この日は全く不意を疲れた。
電車に乗り込んでも、僕はいつものように辺りを見渡すことをしなかったのである。
全く度肝を抜かれるほどびっくりした。
なんとそのおっさん、僕が座ろうとしたボックスシートの窓際の席に既にいたのである。
本気で心臓が飛び出るかと思った。
一体いつそこに座ったんだ? と。
でもその前も横も後ろも、続々と座席は埋まっていて、座る席はそのおっさんの通路側しかなかったので、そこに腰を下ろすしかない。
今更次の電車を狙うこともバカバカしいし、僕はおっさんの席の隣りに座ったのである。
そして気味悪い独り言をずっと聞かされる羽目になったのだ。
別に、全然顔見知りでもないので、特に何も話すこともなく、向こうから話しかけてくることもなければ、視線も合わさなかったのだけど、電車が動き出して十分程経ち、
(? このぶつぶつ誰かが喋っているような喋ってないようなこの音は一体どこから聞こえてくるんだ?)と。
どうも窓の外からか、ガラスに何かぶつかってでもいるのかと思ったら、その窓の方を向いておっさんが独り言をずっとブツブツ言っているのだ。
余りに小さな声で、しかし、電車の音に紛れて聞こえないほどでもないくらいの、ギリギリの小さな声で一人つぶやくそのおっさん。
気になって眠れやしない、延々それが止まらない。
あんな気味悪い思いしたのはあの時一回だけなんだけど、とにかくずーーーーーっと、何か日本語のようなものをつぶやく。
でも全然判読できない。
しかし、どうも抑揚だけはあり、聞いてたらそれに慣れてきて、到着駅に着く二つか三つ前の駅で、ほんの僅かだけ聞き取れたのだ。
それは言葉はもう忘れてしまったけど、文字にして数十文字くらいの文章だった。どうも何かに書かれたストーリーのようなものだった。
そして、いつのものように、おっさんは僕よりはまだ先の駅で降りることは知っていたので、僕だけが降りたのであった。
ところが、だ、その日以来、おっさんと会うことは一度もなく現在に至る。
意味がわからない。ともかく、多少は気になりつつも、別に寂しいと思うわけでもなく、物足りなさもなく、そのまま残り三年くらいでそこの職場への通勤を終えた。
僕は文学者でも小説好きでも何でもないので、全然知らなかったのだけど、おっさん遭わなくなって一週間くらいかなぁ、経った時にその言葉をネットで調べたのである。
今はもう覚えていないが、確か、
・今月今夜のこの月を〜涙で曇らせてみせる
みたいな、セリフっぽいものだった。金色夜叉なんかその後も読みもしていないけど。
今でもその意味不明な記憶が頭から離れずこうやって時々思い出す。
あのおっさん、一体何だったんだろう?
コロナ騒動がはじまってからというもの、ブクマカがそれぞれ何かに怒りまくっていて、見てるだけでもストレスが溜まるので、自粛要請が起きただけでなんでもない、特に怒らない、震え上がらない、泣き叫びもしない日常について書こうと思う。
★
週末の外出自粛要請が都知事から出たのを受け、昨夜からスーパーでパニック買いの行列とのこと。
毎週身体を動かしてるけど、多分ジムはダメなスポットなので家にいるしかない。
食べるものがなかったら切ないので、昼休みに職場の近くのコンビニに行く。
玉ねぎと鯖の水煮缶、ツナ缶、サラダチキンがあったので、一応買う。
PayPayの残高があったので、Yahooショッピングを物色したところ、米があったので買う。
さらについでに洋服のサブスクリプションサービスにレンタル枠があったので、極彩色のスウェットをレンタル。
仕事帰りにスーパーに寄ると米や乾麺、肉類、卵、硬い根菜がない。
空の棚はなかなか壮観。
でも牡蠣や生鮮野菜、練り物、厚揚げ、きのこ、ブルーベリー、大根、紫キャベツ、梅干しはある。
牡蠣はオイル漬けに、トマトやズッキーニはラタトゥイユに、菜の花はおひたし、練り物ときのことブルーベリーは冷凍に。大根は中華風の醤油漬けに、紫キャベツは甘酢漬けに。
引きこもるしかない週末でも作りおき料理で乗り切ると腹を決めてしまえば楽しい。
帰宅後、牡蠣はオイル漬けを仕込み、菜の花のおひたしとラタトゥイユを作る。
0時を回ってしまった。
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小さな子供がいるクッキングパパの同僚と料理の話で雑談。だいたい失敗談など。料理は失敗して上手くなる。
週末はその料理をしつつ作り置きを消化していくことになりそうだけど、ネットでプチ断食が健康にいいと聞いたので、せっかくだから今日昼から明日昼まで断食してみることにする。
断食前の昼食のお弁当は25日に作ったタイカレーの最後のストックとサラダ。
赤い。辛い。うまい。KALDIはアジア料理好きの自分にとっては食卓のナイスサポーター。
自宅にも大型モニターはあるけど、椅子と机が貧弱。椅子なんか折りたたみのデッキチェアだもん。
せめてお尻が痛くならないクッションもあったほうがいいかも。
大根の醤油漬けを作るため、5cm×1cm×1cmの短冊切りをして、ざるに並べて首が真上に向く扇風機に乗せて夜通し乾燥させる。
紫キャベツを千切りして、ローリエをとタイムを入れた甘酢につける。
紫キャベツの甘酢漬けは別にめちゃくちゃ美味いというものではないけど、汁ごと目の覚めるような赤紫になるから好き。
その作業をしていると、最近仲良くなった人からLINEで新宿御苑の入園規制と週末の雪のニュースを聞きびっくり。
日曜は天も「外に出るな」と言っているかのよう。
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起床。プチ断食をはじめてからもう20時間経っているけど、案外辛くない。
昨日の夜に乾燥させた大根を瓶につめて、上から醤油と紹興酒を花山椒の漬け液を流し込む。
食べごろは3日後から。一昨日仕込んだ牡蠣のオイル漬けは5日後からなので、来週の半ばからはこれらが食卓に登場する。
それにしても午前中に指定しておいた宅配が12時回っても来ない。
やってきたのは12:30。「宅配多いですか?」と聞くと「多いですね・・・」でしょうねぇ。
さっきまで別に辛くなかったのに、お米を炊き始めたり、乾燥味噌汁を用意しているとめちゃくちゃ唾液が出てくる。
菜の花のおひたしとサヤエンドウの胡麻和え、梅干し、海苔、食べるラー油とKALDIで買ったエビの辛い中華ソース的なものをトッピングする。
24時間ぶりなのでめちゃめちゃ美味い。そしてエビ中華ソースがめちゃめちゃ辛い。
Youtubeを見ていたが、断食のあとの食事のためか眠たくなってウトウト。
目が覚めてちょっと甘いものが食べたくなったのでスーパーに行くと、品薄は嘘のように解消。
でもなぜかスナック菓子の棚だけ空。ポテチやかっぱえびせんがない。消費者の振る舞いが謎。
最近み始めた鬼滅の刃を見ながら食べたけど、流血が多い。おかゆ食べながら見るもんじゃないな。
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あまり高いのは無理だけど、どうやら¥9,000くらいでまあまあな椅子が買えそう。
クッションが¥2,000なんで、それなら椅子を買ったほうよさそう。
結局、情報だけ手に入れて手ぶらだが、ベローチェのサンドが結構好きなので、帰りにテイクアウトしに寄る。
いつもはお年寄りの集会場になっているベローチェも、雪と外出自粛要請で閑散。
「さすがにちょっと閑散としてますね」「・・・そうですねえ、雪もありますし(苦笑)」
帰り道、コーヒーを飲みながら、雪景色にそぐわない満開の桜をパシャリ。
サクッとした食感のベローチェのサンドをかじって、筋トレ。筋トレ後はプロテイン。ココア味でまあまあ美味しい。
しばらくして、だいたい在宅に移れる見通しが立った。これで安心。
晩ご飯は炙ったサラダチキンにラタトゥイユをぶっかけて、付け合わせは醤油漬けで余った大根を使ったツナと大根のシーザーソースサラダに紫キャベツの甘酢漬け。
ご飯を食べ終わったらLINEの人に桜の写真を送る。花見も雪と外出自粛で持ち越しだね。
ついでに撮った東京2020の横断幕も送信。こちらも残念、また来年。
お風呂に入って一息、しないといけないことはもう大体済んだな。
来週はどうなるのかな、まあいろいろ起きるかもしれないけど、なんとかしていこう。
夜勤だったがほぼ警備室に詰めるだけだったので楽で時給も良く、さらに通夜ぶるまいの残りを食べさせてもらえる事もあり貧乏学生には非常に嬉しいバイトだった。
警備室には各部屋の監視カメラ映像がありそれをぼけーっと眺めている時間が大半。
お葬式は日中に終わってしまうので、俺たちが働くような夜勤の時間帯で監視カメラの映像に映るのは半通夜が終わり誰もいない祭壇だけが映されている事が多い。
それでも寝ずの番をされる方も少なからずいて明け方まで故人との別れを惜しむ人もいる。
ある日、いつものように余った寿司を頂いて警備室でウトウトしながらハッと起きると棺桶に顔を伏せて悲しんでるご遺族の映像が映ってた。
時間は夜中の1~2時位だったと思う。
「若い人なのかな?気の毒に」と思いながらそのモニターを見ていると、そのご遺族の方が突然パッと顔上げて思いきりモニターの方を見てきた。
解像度がよくないから表情は分からなんだけど、さっきまで棺桶に突っ伏して悲しんでいたご遺族の方が突然カメラの方を見つめているのは明らかだった。
監視カメラだから相手には分かりようがないんだけど、思わず怖くて目をそらしたが少ししてまたモニターに目をやるともうずーーーーっとこっちを見てるんだよ。
怖くて怖くてモニター消そうと思ったけど消し方分からなくて、モニターが視界に入らないように必死に本とか読みながら夜警から帰ってくる同僚を待った。
明らかに睡眠不足で、日中もウトウトしてしまうのだが、少しアプリがうまくいかないと不安に支配されてしまい、コミュニケーションが狂い出す。
なんとかしなければという思いに捉われて、空回りし出す感じ。空回りして一手ミスると更に不安に襲われ、のループ。
普段は街で美女を見たところで何も思わないのが、睡眠不足で疲れ切っていてネガティブになっている結果、世の中でいかに等価交換が行われているか、自分に差し出せるものがないかに自覚的になってしまい、絶望する。
元々学校やクラスで浮いてしまうタイプだったから、コミュニケーションや世渡りが下手で就活もうまくいくはずがなく、大企業に入れるはずもなかった。
そこを踏まえた上で、這い上がっていきたかったわけだが、どうにかなるものなのかこれは。
自分より何もかも優れた人がごまんといる中で、どうしたらいいのか。
短時間睡眠でも頭が回ると言う人はいて、そこは身体を鍛えたりすることである程度は改善の余地がある気がするが、体質なのだから仕方ない気もする。
寝ればいいのだ。簡単な話だ。
しかし、朝に惰眠を貪るのはいくらでもできるが、夜に早く寝るのは、なかなかできない。
意識すれば早く眠れるようになるだろうか。
眠れない原因を自分のメンタルではなく外部要因に置いているのがいけないのか。
そうだな、本当にどうしようもない人間だが、3大欲求だしな。フードスタンプならぬ、睡眠スタンプだ。クズにも寝る権利はある。全然うまくいってないのに寝るなんて。いや、睡眠は当然の権利だ。
定期的に殺人的な眠気に襲われるんだけど、気付くと決まって排卵予定日の数日後なんだよね。
だから確実に黄体ホルモン増加の影響だろうと疑っているんだけど、これが睡眠薬と同等の眠気の強さとかネットでみた。でも会社の人そんなの知らないじゃん。特に男性には理解できないだろうよ。
もうほんと意識を保つのも難しいくらいの眠気なんだけど、同僚の女性社員達はそこまで酷くないみたいで、私だけなんかウトウトしてる人みたいに思われていたら悲しいし、というかとにかく眠くてつらい。
生理痛はあまり重くなくて、生理周期もかなり整っている方なんだけどほんとこの眠気やばい死ぬ、死にそう。(死なない)
誰かこの異常な眠気わかってくれる人いないだろうか。眠すぎて何もできない。
Day,4
4日目
昨夜の夜遅くにニョニャクエと共にジャスミンティーを流し込んだ為か、昨日の夜ほどは眠れなかった。
まあただ、今日は長時間のバス移動があるので、少しくらいはウトウトできるだろう。
今日の12時にはホテルをチェックアウトし、バスでシンガポールに向かう。
ホテルで見たマレーシアのテレビは、全く違う言語の4チャンネルがある。
日常の全ての瞬間で、全く別のバックグラウンドを持った人々が暮らしていることを実感する。
あった。
マレーシアでは、人口の半数以上を占めながら経済的には必ずしも恵まれていないマレー系、その他マレー半島、カリマンタン島の少数民族を、企業設立時の税制や国立大学の試験で優遇する「ブミプトラ(土地の子)政策」が取られており、その事が民族間の対立感情を呼んでいるという事のようで、この辺りは中華系が主導権を握るシンガポール独立にも話が発展したりしている。
また、マレーシア国内には混血や世代交代を繰り返し、マレー系、少数民族、中華系、タミル系、どの民族にも括れない人達が多数存在し、そう言った人たちは青春時代に自分のアイデンティティに悩んだりもするらしい。
だた、ブミプトラ政策を格差縮小という本来の目的から離れて、より民族主義的な捉え方で推し進めた政治活動は揺り戻しにあい、アイデンティティに悩む2世3世も、「なになに系」ではなく「マレーシア人」として自己を捉えなおしたりするという事で、「民族国家」と「多元主義」の間で揺れるのがマレーシアと言う国のようだ。
「宗教対立」についてもあるにはあるが、どちらかというと「経済格差」による感情の縺れの後付けのようなものでしかなく、「民族」「宗教」自体に関しては、「そこにあるもの」として自然に受け入れているように見えるのが印象的だった。
ホテルをチェックアウトし、シンガポールへのバス便が出るマラッカ・セントラルに向かう。
GRABでタクシーを捕まえると、運転手のおじさんは「ありがとうございます」と日本語で言った。
それ以降は「どこへ行くのか」「シンガポールへ」「マレーシアは暑つすぎます」「雨が降って無いよね」「私は運がいい」など英語で簡単なやりとりをしているうちにマラッカ・セントラルに到着した。
長距離バスに乗ってしまうとトイレがないので、今のうちに済ませておく。
そう、マレーシアの公共施設のトイレは使用にチップが必要で、「トイレの受付」さんがいる。
高級ホテルの「紙もあるものの、文化としてちゃんと常備してある」尻洗いホースで使用の予習していたので、ホースで尻を流すスタイルにも対応できた。
衛生観念の違いは深く考えすぎない方がいい。
ここはまだマレーシアだ。
でも、今回自分がそうしたように、マレーシア旅行に行くならロールのトイレットペーパーを持っていった方が良い。
バスのチケットを購入し、出発ゲートでしばらく待っていると、シンガポール行きのバス便が到着した。
長距離バスに揺られて3時間ほど、ネット情報によるとこのままマレー半島とシンガポールを繋ぐ橋の前後で出入国審査があるらしい。
大きなバスターミナルに到着し、皆ぞろぞろと降りてゆく。
ここで出入国かな?
しかし、慎重過ぎるほど慎重に調べるべきだった、実のところここで降車すべきではなく、そのまま乗っていればまたバスは発進するのだった。
しばらくうろついて「間違えたか?」と気づいた時にはもう遅い。
バスの誘導をしていたおじさんに対応をたずねるがうまく言葉が通じない。
そのうち、浅黒い、というかかなり褐色みの強いおじさんが話しかけて来た。
どうやらここはタクシーで入国するためのプラットフォームらしい。
話していると増えるおじさん。
3人ほどの褐色のおじさんとスマホの翻訳を見せてコミニュケーションを図る。
国境を越えて目的のホテルまで運んでやる、80シンガポールドルだ、という。
話しかけてきたおじさんのタクシーに乗るなど、危なっかしい事この上ない。
その上値段はマレーシア市内で利用するときの10倍以上の値段だ。
「マジか、高すぎじゃね?」と思ったが、逆にこの高さがある種の信用の根拠となった。
たとえ怪しいボッタクリだったとしても、すでにこの価格なら得るものは得ている。
運に身を任せることにした。
そもそも2年前の台湾から始まって、この旅行記を書き始めたのは、その体験が自分にとって心動かされただけでなく、そんなに若くもない歳で、英語も大してできなくても海外旅行はできるし、実際に行ってみると自分が「世の中」だと思っていたものが「世の中の一部」でしかないと発見して、世界の多様さや美しさを感じられるからで、そんな旅行に行ってみたい、と思える人が増えればいいな、と思ったからだ。
だからあまりに高いハードルを超えたり危険を冒したことを自慢する気は全くなかった。
皆さんもマレーシアから陸路シンガポールに入国する際はぜひ写真付きのたくさんの情報を集めてほしい。
歩みがゆっくりなので、タクシーによる入国について調べてみると、確かに確立されたルートで、自分が払ったシンガポールドル換算で80という数字もやや高めであるが常識の範囲を出ないものらしい。
外を見るとスコールが降ってきた。
こうなると、降車の必要がなくドライブスルー形式で出入国審査が済ませられる(!)タクシー入国は高い金を払うなりの価値はある様だ。
長蛇の列の出入国をクリアして、シンガポールに入り飛ばすタクシー、予定より2時間ほど遅れてシンガポールのホテルに到着した。
マレーシアでは東横イン以下の一泊7,000円でキングサイズのベッド、共用にジムとプールとサウナがついたラグジュアリーホテルに泊まれたが、ここシンガポールでは一泊10,000円で「東横インの方がまだマシだ」というような、窓のない上にセミダブルベッドで居室が埋まってしまうようなホテルにしか泊まれない。
街を歩くと、その発展度合いに目眩がしそうだ。
夜の街を一人で歩いて全く心細くならない賑やかさと綺麗さだが、橋一本超えただけでこの経済格差は自分の価値観に揺さぶりをかけられるみたいでちょっと心がザワザワしてくる。
マレーシアから独立したからこその発展なのだろうが、その前からもこの華僑中心の街は他地域とかなりの格差があったのだろう、これだけの格差があれば、別れた方が正解かも知れない。
この格差が同じ国にあったとしたら、多くの人は心穏やかでは無いだろう。
肉骨茶と油條、ジャスミン茶で19シンガポールドル、約1,650円。
マラッカで食べたニョニャ定食なら、おかずが2倍の6皿に増える値段だった。
いま病室にいる。ここ数日ポンポンベッドを横に敷いて病室で付き添った。明け方まで呼吸があったんでウトウトしながら寝てたら突然看護師さんに声かけられて飛び起きたらさっきまであった呼吸の波形がモニタからなくなってる。
時々心臓が痙攣を起こすだけだ。
病室では母が合唱で歌ったモーツアルトレクイエムをタブレットで流してる。
聞こえはしないだろうが。
母、と書いているが、私が呼びかけるときはいつもお母さん、だった。
お母さんっていい響きだなと思う。
ピアノをよく弾いていたお母さんの爪をきれいに切ってあげた。ピアノ弾けないくらい弱ってから初めてお母さんの指の爪が長いのを見た。それまで鍵盤に爪が当たるのがいやだと神経質に短く切りそろえていたから。私はお母さんが弱って病院に入ったとき、お母さんの爪が伸びてるのを見たとき、すごくショックだった。初めてああ、お母さん、もうだめかもしれないと思った。
爪の伸びたお母さんなんてお母さんじゃない。
死が迫ってるんだなあと実感して悲しかった。
ありがたいことに、仲違いも喧嘩も散々したし、お互いを毒親毒娘だと思ってた時期も長かったのに、こうなると嫌なことはあまり思い出せない。
母の死に瀕して優しい顔をみて、私も優しいぃ持ちでいられることが嘘みたいだ。
何を書いてるかわからなくなってきたけど
お母さん、ありがとう。