はてなキーワード: ebmとは
https://anond.hatelabo.jp/20241013084419
に要点をまとめておきました(文字数制限に引っかかったので分割)。
厚労省より昨日公表された日本人の食事摂取基準(2025年版)について、ある糖尿病専門医の解説ツイートが一時のトレンドになるレベルでバズっていた。
日本人食事摂取基準2020→2025で食べる順番(ベジファースト/カーボラスト)が削除されておる!!!!!
はてなブックマークでもこの件に関するTogetterまとめについてそこそこブクマがついて、ホットエントリーに上昇している。
[B! 健康] 「今まで頑張ってお野菜から食べてたのに...」炭水化物より先に野菜などを食べることで食後の血糖値を抑制するという食べ方が厚労省『日本人の食事摂取基準』から削除される
しかし、筋肉博士医師の主張は真か偽かで言えば端的に誤りであるし、好意的に読んでもミスリードである。
食事摂取基準は国の作るガイドラインであるから、改訂方針やら策定の検討会議事録やらは誰でも読める形で公開されている。
「日本人の食事摂取基準(2025年版)」策定検討会|厚生労働省
私は医師でも医療関係者でも栄養士でもないが、証拠があるので安心して医師の誤りを指摘できるというわけだ。
実のところ、ベジファーストが食事摂取基準から削除されたというのは正確な表現ではない。
2020年度版では、ベジファーストについて一文取り上げていた「食事摂取パターン (eating pattern)とシフトワーカー」という節が糖尿病対策の章からまるごと削除されたのである。
食事摂取基準の策定根拠は健康増進法である。法に定められた食事摂取基準の取り扱う事項は以下の通り。
栄養素というのは、もちろんたんぱく質とかビタミンとかミネラルとかのことを指すので、野菜の食べ順なるものはOut of Scopeなのだ。だから削除されたそれだけである。
真偽の話でいうならば、これで筋肉博士医師への論破は完了だ。ただこれだけで話を終えるのはおもしろくないので、もう少し深い背景を見てみよう。
「人に栄養指導するプロならば、ただ基準値を参照するのではなく、策定根拠である本文を読んでくれ。基準値は妥協の産物でもあるのだからそれに縛られず、患者一人ひとりに合わせて柔軟に対応してくれ」
食事摂取基準を策定する側の偉い先生は、「基準値より本文だ!」という想いをよく語っておられます。
なんでそんなこと言わなきゃいけないのかというと、ぜんぜん読んでなさそうなプロの栄養士がそこそこいる現実があるからですわ。
でも、それもある程度は仕方ない。2020年版で494ページですからね。鈍器本のページ数です。忙しい栄養士が横着して基準値だけ見る、そして基準値が独り歩きしだす。偉い先生はこれがホント嫌なわけです。
しかしエビデンスというのは毎年増えていくわけで、理屈で言えば毎改訂ごとにページ数は増加します。今でさえガイドラインを読むのは大変なのに、これ以上!となるのは大変ですよね。
そして読む人が大変なら、作る人はもっともっと大変です。食事摂取基準2020年度版には以下の記述があります。
食事摂取基準が参照すべき該当分野の研究論文数は、増加の一途をたどっている。5年に一度の策定では、策定作業に十分な時間を費やすことが難しく、作業負担も大きいため、策定体制の強化や策定プロセスの効率化に向けた方策を講じなければ、将来の食事摂取基準の策定に支障をきたすおそれがある
実際、2025年度の検討会資料を読み込んでいると「人手不足でもはや持続困難だ」っていう研究者の悲鳴がかなり伝わってきます。
そんなこんなで食事摂取基準をこれ以上肥大化させることは避けねばならないってのが2025年度改訂の問題意識の1つだったわけですわ。
日本では、政府の作る食事摂取基準以外にも、EBM(エビデンスベースドメディシン)に基づく多種多様な診療ガイドラインが存在します。これらは専門の学会が作っとるわけですが、ここにも「食事療法」という節はあるわけですね。
栄養素の基準値策定と、食事療法。かなりカバー範囲が重なり合っています。政府と学会、お互い独立に作っているものですから、似たような記述がお互いのガイドラインで執筆されるという無駄が生じます。さらに悪いことに、違う人が作っているわけだから、食事摂取基準と診療ガイドラインで矛盾が生じるという事例もありました。当然、現場は混乱しますね。
食事摂取基準と診療ガイドラインで連携して、お互いの責任範囲を排他な形で定めよう、縄張りを線引きしよう。そうすれば読み手の負担も書き手の負担も軽くなる。そういうことになったんですね。
偶然、糖尿病診療ガイドラインの改訂作業は、食事摂取基準2025年度版と同時期に行われていました。糖尿病診療ガイドラインの食事療法を2024年度版と2019年度版とで比較してみましょう。
2019年には13あったQ&Aが2024年には8に減っています。
2019年にはあった、栄養素絡みのQ&Aが軒並み削除されています。
理由はここまでの説明で明らかですね。食事摂取基準の縄張りを尊重したのです(正確に言えば、「総エネルギー摂取量」の記述はまだ問題が残っているのですが……)。
さて大いに脱線した話を戻しましょう。食事摂取基準の糖尿病に関する記述から、ベジファーストがから削除されたのはOut of Scope、範囲外であるためでした。となると、執筆責任は糖尿病診療ガイドラインの食事療法にあるはずです。
あれ? 2019年にはあったベジファーストが、2024年版糖尿病診断ガイドラインでも消えてるぞ? なんでやねん。
最初に筋肉博士医師のツイートは、「真か偽かで言えば端的に誤りであるし、好意的に読んでもミスリード」と書きました。「好意的に読んでも」と書いたときに想定していたのは、「食事摂取基準」を「日本の糖尿病ガイドライン」と読み替えれば仮説としてはありうるだろう、という意味でした。
しかし読み替えたとしても、「エビデンス不足がようやく露呈」というのはミスリードな表現だと私は考えます。
糖尿病診断ガイドラインは食事摂取基準と違って、学会で作られているので改訂方針について外部の人間がアクセスできる情報がありません。どういう意図で情報が削除されたのかさっぱりわからないんですね。削除の理由をすぐに「エビデンス不足」に断定するのは証拠がありません。
しかも、糖尿病診断ガイドライン2024年版で検索すると出てくるニュース記事、
を読むとですね、副題が「糖尿病の新診療ガイドラインに見る食事のポイント」で、解説者がガイドライン策定委員会に所属する食事療法の専門家(京大教授)であるにも関わらず、新ガイドラインでは記述が削除されたはずのベジファースト/カーボンラストについて解説が行われているんですね。
内容は「世間で言われるベジファーストには誤解がある」というものですが、大雑把に言えば食べ順を考慮して食べることを推奨する解説で、2019年の旧ガイドラインに準拠していると読めます。つまり「ベジファーストが誤りだったから削除された」わけではないことを示唆しています。
じゃあなんで削除されたのか? 私は別の仮説を提示したいと思います。
2019年ガイドラインと2024年ガイドラインを交互にじっくり眺める見てください。
2024年版の方が、Q&Aの問いの文が相当洗練されているんですよね。
診療ガイドラインというのは、「Minds診療ガイドライン作成マニュアル」という規範となる規格がありまして、Q&Aをどう書くべきかというのも死ぬほど細かく厳密に定められています。
細かい事抜きに、マニュアルにどういう要件が書かれているかということを超雑に述べると、まず問いは「臨床上生じる意思決定に関する疑問」でなければなりません、そして回答はガイドライン策定者自身が実施するシステマティックレビューに基づくものでなければなりません。
これ前提に2019年版の問いを見返してみると「Minds診療ガイドライン作成マニュアル」に明確に非準拠ですね。「〇〇はどう影響するか」系の問いはどう見ても意思決定に関わるものと言えません。
そんなわけで、2019年から2024年の改訂方針には、「Minds診療ガイドライン作成マニュアル」への準拠度を高めるという意図があったと見て取れます。
次に、2024年版で削除された、2019年版のベジファーストに関するQ&Aを見てみましょう。
これベジファーストだけに関するQ&Aではないんですよね。小ネタのアラカルト的な回答で、複数の問題をごちゃまぜにしているという印象を受けます。
そんだけ2019年は自由にやっていたというわけですが、「Minds診療ガイドライン作成マニュアル」に準拠するかたちで、問いを書き直そうとするならば、問題を分割する必要があるでしょう。
試しに書き直してみると、こんな感じでしょうか。
ただ、2019年版のガイドラインでは、小ネタのアラカルトとして立項のバリューを出したわけで、わざわざ3つに分割して3つとも立項するだけの意味があるかというのは難しい問題です。
「Minds診療ガイドライン作成マニュアル」にもこう書かれています。
日常診療において医療行為を選択する意思決定の場面は数多くあるが, その全てについてシステマティックレビューを実施し, 推奨を作成するのは非常に多くの労力を要するため,現実的ではない。そのため,診療ガイドラインでは実臨床における問題に対する回答を導き出したいものを厳選して重要臨床課題として取り上げることが望まれる。
3つともに、「炭水化物制限の推奨」とか「食物繊維摂取の推奨」とかに比べれば、超小ネタですので、臨床課題であっても重要臨床課題ではない、というところで落とされたのでは?、などと私は想像しています。
書籍『佐々木敏のデータ栄養学のすすめ』などでも解説されていますけど、野菜先食べを厳密に実行するべきとするエビデンスは、おそらくまだ存在していないと思われます。
ただ、食事の楽しみを損なわない範囲で、炭水化物系を食べるのを後回しにするのは、それなりに有望な心がけと言ってもいいじゃないでしょうか。また野菜先食べである必要はなくて、たんぱく質先食べでもいいという論文もあります。
ガイドラインでは、誤嚥リスクのある宿主に生じる肺炎、と定義される。
そのうち最も多くを占めるのは高齢かつ進行した認知症患者が発症する誤嚥性肺炎である。
内科救急で最も多く経験する疾患で、入院で受け持つ頻度もかなり高い。
特異なことに、最も多く接する疾患の一つでありながら、専門家が存在しない。
肺炎だから呼吸器なのかといえば、呼吸器内科医は認知症への対応は専門ではない。
精神科は認知症診療が業務範囲に含まれるが、身体疾患が不得手である。
脳神経内科医は嚥下や認知症を専門領域の一つとするが、絶対数が少なく、専門領域が細分化されている。
そんなわけで多くの場合は内科医が手分けして診療することになる。
そういうわけだから、誤嚥性肺炎に対する統一的な見解はない。ガイドラインも2013年から更新されていない。また誤嚥性肺炎に関する文献や書籍はあるし、質の良いものが出版されているが、多くは診断、治療、予防に重きを置く。価値観に深く踏み込んだものは殆どみない。患者自身が何を体験しているかを推定している文章は殆ど読んだことがない。
病状説明も僕が研修医でほかの様々な医師の説明を聞いても、肺炎です、誤嚥が原因です、抗菌薬で治療します。改善しないこともありますし、急変することもあります、といった通り一遍の説明以上のことを聞いたことは殆どなかった。
もっともよく経験する疾患でありながら、どうするべきかの具体的な方針は大学教育でも研修医教育でも提供されないのだ。
にもかかわらず、認知症患者の誤嚥性肺炎は最も多い入院かつ、その患者は入院期間が長い傾向にある。入手可能なデータだとおおよそ一か月の入院となる。死亡退院率はおよそ15-20%で、肺炎としては非常に高い。疫学については良いデータがないが、専門病院などに勤務していなければ、受け持ち患者のうち5人から10人に1人くらいは誤嚥性肺炎が関連している印象がある。
誤嚥性肺炎は、進行した認知症患者ほど起こしやすい。そして、誤嚥性肺炎を起こすことでさらに認知機能が低下する。しばしば経口摂取が難しくなる。そして自宅や施設へ退院することが難しくなり、転院を試みることになる。
典型的には進行した認知症を背景に発症するので、意思決定を本人が行うことができない。患者は施設入居者であることも多く、施設職員がまず来院する。その後家族が来院して、話をする。肺炎であるから、治療可能な疾患の前提で話が進む。進行した認知症=治療不可能な疾患があることは意識されない。
ここでは、進行した認知症、つまり意思決定能力があるとは考えられない患者、今自分がどこにいて、周りの人がだれであって、自分の状況がどうであるかを理解できないほどに進行した認知症患者、と前提する。
退院してもらうための手段、という意味では治療は洗練されてきている。口腔ケアを行い、抗菌薬を点滴する。嚥下訓練を含めたリハビリテーションを行い、食事を早期から開始し、食形態を誤嚥しづらいものに変える。点滴を早期に切り上げて、せん妄のリスクを減らす、適切な栄養療法を併用して低栄養を防ぐ…。
そういったことを組み合わせると、退院できる可能性は高まる。身体機能も食事を再開できないレベルまで低下することはあまりない。
しかしそこまでして退院した患者は、以前の身体機能・認知機能を取り戻すわけではなく、少し誤嚥性肺炎を起こしやすくなり、活動に制限がかかり、介護をより多く要するようになり、認知機能がさらに低下して退院していく。
だから人によっては一か月とか半年後に誤嚥性肺炎を再び発症する。
家族や医師は以前と似たようなものだと考えている。同じような治療が行われる。
そこに本人の意思はない。本人の体験がどうなのかを、知ることはできない。
というか、進行した認知症で、ぼくらと同じような時間の感覚があるのだろうか。
本人にとって長生きすることの体験の価値があるのか、ないのかも知ることは難しい。
というのは逃げなんじゃないか。
状況認識ができなければ、そこにあるのは時間感覚のない快・不快の感覚だけではないか。だとすればその時間を引き延ばし、多くの場合苦痛のほうが多い時間を過ごすことにどれほどの意味があるんだろうか。
なぜ苦痛のほうが多いかといえば、状況を理解できない中で食形態がとろみ食になり(これは美味とは言えない)薬を定期的に内服させられ(薬はにがい上、内服薬をへらすという配慮がとられることはめったにない)、点滴を刺され、リハビリをさせられ(見当識が障害されている場合、知らない人に体を触られ、勝手に動かされる)、褥瘡予防のための体位変換をさせられ、せん妄を起こせば身体拘束をされ、悪くすると経鼻胃管を挿入される(鼻に管を入れられるのは、快適な経験ではない)
どちらかといえば不快であるこれらの医療行為は、治療という名目で行われる。
多くの医師は疑問を抱かずに治療する。治療される側も、特にそれに異をとなえることはしない。異を唱えるだけの語彙は失われている。
仮に唱えたとしても、それはせん妄や認知症の悪化としてとらえられてしまう。
老衰の過程が長引く苦しみがあり、その大半が医療によって提供されているとは考えない。
ここで認知症というのは単なる物忘れではないことを説明しておく。それはゆっくりと進行する神経変性疾患で、当初は認知機能、つまり物忘れが問題になることが多いが、長期的には歩く能力、座る能力、食事する能力が失われ、昏睡状態となり最終的には死に至る疾患である。
多くの内科医はこの最後の段階を理解していない。肺炎で入院したときに認知機能について評価されることは稀だ。
実際には、その人の生活にどれだけの介護が必要で、どのくらいの言葉を喋るか、笑顔を見せることがあるか、そうしたことを聞けばよいだけなのだけど。
進行した認知症で入院するのがどのような体験か、考慮されることはめったにない。
訴えられるかもしれないという恐れの中で、誤嚥のリスクを減らし、肺炎を治療するべく、様々な医療行為が行われる。身体が衰弱していくプロセスが、治療によって延長される。
医療において、患者の権利は尊重されるようになってきた。僕らは癌の治療を中断することができる。良い外科医を探すべく紹介状を書いてもらうこともできる。いくつかの治療法を考慮し、最も良いであろうと考える治療を選択することもできる。
しかし患者自身が認知機能を高度に障害されてしまった場合はそうではない。医師が何を希望するかを聞いても、答えてくれることはないし、答えてくれたとしても、状況を理解できないほどに認知機能が損なわれている場合は、状況を踏まえた回答はできない。
そこで「もし患者さん本人が元気だった時に、このような状況をどうだったと考えると思いますか」と聞くこともある。(これは滅多に行われることはない。単に、どんな治療を希望しますか、と聞くだけだ。悪くすると、人工呼吸器を希望しますか、心臓マッサージを希望しますか、と聞かれるだけだ。それが何を引き起こすかは説明されずに)
しかし問題があって、認知症が進行するほどに高齢な患者家族もまた、高齢であって、状況を適切に理解できないことも多い。また、記憶力に問題があることもしばしばあって、その場合は話し合いのたびに最初から話をしなければならない。このような状況は、人生会議の条件を満たしていない。もしタイムマシンがあれば、5年前に遡れば人生会議ができたかもしれない。
親類がいればよいが、これからの世の中では親類が見つかりづらかったり、その親類も疎遠であったり、高齢であったりすることも多いだろう。
そうした中では、理解が難しい場合も、状況を理解して改善しようという熱意に乏しい場合も、(本人の姉の息子がどのように熱意を持てるだろうか)、そして何より、医師が状況を正確に理解し彼の体験を想像しながら話す場合も、めったにない。
意思決定において、話し合いは重要視されるが、その話し合いの条件が少子高齢化によって崩されつつあるのだ。
「同じ治療をしても100回に1回も成功しないであると推定されること」
この二つを満たすことが無益な治療の定義である。この概念を提唱した、ローレンス・J・シュナイダーマンと、ナンシー・S・ジェッカーは、脳が不可逆的に障害された患者を対象としている。
彼らはいかなる経験をすることもないから、治療による利益を得ることもない、だから無益な治療は倫理的に行うべきではなく、施設ごとにその基準を明示するべきだ、というのが彼らの主張である。
高度に進行した認知症患者の誤嚥性肺炎の治療は、厳密な意味での無益な治療ではない。彼らは何かを体験する能力があるし、半分以上は自宅や施設に帰るだろう。自宅や施設では何らかの体験ができる。体験を感じる能力も恐らく完全には損なわれていないだろう。
この完全ではない点が、倫理的な空白を作り出す。
そこで死に至る疾患である印象が失われた。
専門家の不在は、価値の普及を妨げた。病状説明の型がある程度固まっていれば、それがどのような形であれ、専門家集団によって修正され得ただろう。ガイドラインは不十分である。医療系ガイドラインはエビデンスのまとめと指針である。つまり誤嚥性肺炎の診断・治療・予防であり、その価値に関する判断はしばしば言及されない。ガイドラインはないにしても、診断・治療・予防に関して役立つ本はある。ただ、価値に踏み込む場合も、基本的にはできる限り治療するにはどうすればよいか、という観点である。
人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン、人生の最終段階における医療・ケアに関するガイドラインは存在するが、そもそも高度な認知症を合併した誤嚥性肺炎が、人生の最終段階と解釈されることはめったにない。だからこのガイドラインを用いた話し合いができることは少ない。また、多くの医師は、押し付けられた仕事と認識していることから、じっくりと時間をとって家族と話をすることはなかなか期待できそうにない。多忙であればなおさらである。
さらに状況が不利なのは、個々の病院のKey performance indexは、病床利用率であることだ。
認知症患者の誤嚥性肺炎は、しばしば酸素を必要とし、時に昇圧剤やモニター管理を要するなど重症であることが多く、入院期間が長くなる。そのため、看護必要度を取りやすい。多くの病院は、その地域に病院が不可欠であることを示す必要がある。不可欠であることの証明に病床利用率と、看護必要度は使用される。そのため、誤嚥性肺炎の患者を引き受けない理由はない。救急車の使用率も高く、数値上は確かに重症であるので、病院経営上は受け入れておきたい。
介護施設に入所した場合は、誤嚥性肺炎の死亡で敗訴し、2-3000万円の支払いを命じられる訴訟が複数あることもあって、搬送しないという選択肢は難しいだろう。
介護施設から搬送された患者が誤嚥性肺炎であることは多い。その一方で、こういった場合家族が十分な話し合いの時間を割けないことが多い。片手間でやっている医師も、長い時間をかけて説明したくはないので、お互いの利益が一致して肺炎治療が行われる。
一方、最近増えている訪問診療は、誤嚥性肺炎の治療を内服で行うとか、そもそも治療を行わないという選択肢を提案できる場である。そこには期待が持てる部分もある。定期的な訪問診療でそうした話がしっかりできるかといえば難しいが、可能性はある。ただ、訪問診療医になるまでに、誤嚥性肺炎に関する専門的なトレーニングを受けるわけではない点が問題になる。しかし家での看取り、という手段を持てるのは大きいだろう。
訪問診療を除けば、医療の側からこの状況を改善することは殆ど不可能なように思える。
病院の経営構造、施設の訴訟回避、医師の不勉強と説明不足、そしてEBMと患者中心の医療を上っ面で理解したが故の価値という基準の不在、めんどうごとを避けたい気持ちと多忙さ、患者自身が自己の権利や利益を主張できないこと、家族の意思決定能力の乏しさや意欲の乏しさ、こうした問題が重なりあって、解決は難しいように思える。
現在誤嚥性肺炎を入院で担当する主な職種である内科医は、糖尿病の外来診療を主たる業務とする内分泌代謝内科という例外を除いて、減少しつつある。
専門医制度が煩雑になったからというのもあるが、ぼくは少なからず認知症高齢者の誤嚥性肺炎を診療したくないから、希望者が減っているのだと思っている。確かに診療をしていると、俺は何をやっているのだろうか。この治療に何か意味があるのだろうか、と考えることがあった。同じようなことを考えている医師は少なからずいる。露悪的なツイートをしている。しかし構造上の問題点について踏み込むことはそこまでない。
僕は構造的な問題だと思っていて、だからこういう文章を書いているわけだ。
進行した認知症患者の誤嚥性肺炎とは延期可能な老衰である、という共通の認識が広がれば、状況は変化してくるかもしれない。事実、認知機能が低下していない高齢者で、延命を希望しない方は多い。その延命の意味は具体的に聞けば、かなりしっかりと教えて頂ける。
誤嚥性肺炎の診療は、所謂延命と解釈することが可能な範疇に入ると僕は考えている。
後期高齢者の医療費自己負担額一割と、高額療養費の高齢者優遇の組み合わせを廃止することや、診療報酬改定によって、誤嚥性肺炎の入院加療の色々なインセンティブを調整することで、否応なしに価値が変化するかもしれない。そういうやり方をした場合、かなりの亀裂が生まれる気もするけど。
プシコって言葉知らん?
最近はこの言葉使う人あまり見ないけど、昔からプシコとナマポは医療従事者から蛇蝎のごとく嫌われてる
精神疾患全般、DM(糖尿病)患者、急性アルコール中毒、生活保護受給者はネット上でどれだけ叩いてもOKな存在とされてるみたい
トンデモ医学と戦う! EBM推進!という立場の人でナマポ嫌いを露骨に出してる人もいて、まさに現代における穢多・非人の扱い
精神保健指定医持ちの精神科医ですら懲罰的感情で患者を身体拘束してやったってツイートして炎上してたりする
誰もがネットで自由に本音を吐き出せるようになった結果、医療従事者が内心抱えてる差別感情がモロに見えるようになった
スティグマ属性は現実に医療現場において迷惑をかける存在だから、愚痴を言いたくなる気持ちは分からないでもないんだけど、せめて実名と所属を明かして「こういう属性の人を私は差別しています」と表明してほしい
まあ無理か
不快になる事しか書いてないし、支離滅裂な文章なので頭がおかしくなりそう!
コロナがついに5類になる。
医療者側の渦中の人間だったので、正直世間の人たちの意見を意図的に見ないようにしていた3年間だった。
なんでかと言うと、余りにも自分たちのしてる事が馬鹿馬鹿しく、そして虚しく感じてしまうんじゃないかと怖かったから。
渦中から外れた今、5類移行を前に様々口汚く罵る人々をアレコレ見られるようになって、「仕事してる時に見なくて本当に良かった〜」と心から安堵している。
ちょっと心は折れたけど、アル中にも借金まみれにも性病にもならず、何となく生き延びることができた。
関係ないけどいま梅毒がやばいので、風俗行ったり知らん人とやりまくる人は一回検査してくれ。ウン10年後が怖いから。妊娠してると堕すことになるから。早めに治療したらちゃんと治るよ。
まぁ梅毒なんかはどうでも良い。
個人的には感染対策も、ワクチンも、各種支援も、このヤバめ未曾有の超災害に対してみんなわりとかなりけっこうずいぶん頑張ったように思う。
ズタボロの雑巾みたいになって働いた医療関係の人たち、私も含めて超お疲れ。
これからはのんびりスローライフとまでは行かなくても、もう少し心穏やかに仕事ができるようになると良いよね。折れた人はもう休んでくれ。
でも多分こう言うふうに言えるのは私が医療者側だったからであって、コロナで散々苦しめられた学生観光飲食エンタメなどに関係する方々からすると、医療職ってもはや『敵』というか『自分達をコロナで苦しめた諸悪の根源』になってるんだなぁと、しみじみ思った。
医者がああだというから、保健所がこうだというからという強制力のもとで散々抑圧された市政の方々からすると、それもそうかーと言う気持ち。
ごめんねってここで謝ったところで、何の意味もないし、何に謝っているのかもわからないんだけど、辛かったろうなと言うことの傾聴はできる。
できるかな?仕事だと言われるとやれると思う。悲痛な面持ちで頷きながら、手を握るくらいなんてことないぜ。
でもそうなるとむくむくともたげてくるのが「私たちがやった事ってわりと無駄だったな」「そこまで頑張らなくても良かったんだな」という考え。
日本は7万人くらい亡くなって、致死率0.2%くらい。
らしい。いまHP見てきた。
厳しめの感染対策と日本人の潔癖さと村八分文化と医療者の頑張りとあとなんか他にも色んなものが様々に絡み合って、出来た結果だと思う。
でもコロナ禍が過ぎて、こんなに医療職が馬鹿みたいに叩かれるなら、もっと対策は緩くして良かったんだなーとしみじみしてくる。
アメリカもロシアも致死率1%以上あるから、別に日本もその水準でなーんも問題なかった
単純計算すると5倍なんで、35万人くらいは亡くならないと他の国と釣り合いが取れない
あれこれと苦しい思いをして必死になったのがばかみたい
今私の頭を占めてるのはそんな考えばかり。
なんか今日胸糞悪い記事とニセ科学記事を血眼にして読み漁ったので、鬱屈とした気持ちが占めてるせいだとは分かってるんだけど。
こんな事は違いますよってのも、感謝してくれてる人もいるってのも知っておりますが。
でも酸素化が85%とかになって苦しいよ〜ってやってる人を、どうしようどうしようって思いながら治療する必要なんかなかったし、食べ物がないんです!と喚く人たちに、配食をあくせくしながら届ける必要もなかった。命ギリギリの人たちにごめん、もっと早くなんとかしとけばよかったよーって泣く必要もなかった。あれも、これもみーんな無駄。
老若男女、等しく5倍の人が死んで良かったのだと思うとなんか全てがあほらしいなーと言う気持ちがいっぱいになるわけです。
でも多分死ぬのは主に金がない人たちに超偏るんだろうなというのも頭を掠める。それはなんだかな。めちゃくちゃ腹立つな。私も貧しい側だから死ぬし。
でももっとたくさんの人が悲壮感たっぷりに死ねば、いちいち強制的に規制なんてしなくても、自発的に色んなものが少し自重ムードになって、こんなに憎悪の連鎖にはならなかったのかもしれない。
お得意の村八分文化で感染者を自殺に追い込む事はできたじゃないですか。なのであんな感じの対策で良かったんのかもしれない。
イベントもそのままやれば良かったし、飲食店も閉めずにそのままでいたら良かった。
次亜塩素酸ナトリウム噴霧しながら、クレベリン舐めて塩のかかった⚫︎コー⚫︎飲んでおけば治るんですよ。はっ倒すぞ。
病院は患者が押しかけて資源の奪い合いになって、多忙で鬱になる医療者がどんどんやめて医療は崩壊するけど、医者はともかく看護師なんかウジみたいにいっぱいいるし、時がたてば何とかなるんじゃない?
ならねーよ。後輩みんな鬱と不眠抱えてんだぞふざけんなよ。転職できた子はめちゃくちゃ明るくなってたので、それはめちゃ良かった。健やかに生きてね。
今はそんな気持ちでいっぱいになってる。
市政の人たちは医療者の事、嫌いだろうと思うけど
少なくとも私も市政の人たちのこと大嫌いなので、安心して欲しい。
口汚く罵る人はもちろん地獄に堕ちろって思ってる。
あとは上っ面でブルーインパルス笑を飛ばしたり、テキトーなイルミネーション点灯して「医療関係者にありがとう!」とかしてた奴らはもっと唾棄するレベルで嫌い。
本当にきつい時に、他人の自己満足の餌にされたことは一生忘れない。
なおブルーインパルスを操縦した人は悪くない。
でもそれを企画立案したやつも、それに金出したやつも磔⚫︎斬⚫︎にしろと思う。血を流せ。畑を血でみたせみたせみたせ。フランス国歌もそう言ってるだろ。苔むしてる場合じゃないんだよ。
金と休暇以外に欲しいものはなかったけど、それは絶対にくれなかったし。
漠然とした上の連中が、この3年間で何を考えて、私たちに何をしたのかは忘れないでいようと思う。
具体的にいうと選挙に行く。あと有給を取る。手札が少なくて泣けてきちゃう。転職がんばろ。
あとはネットでよく見かける「つよいくちょうのいしゃとかんごし」これも嫌い。
嫌いというか愛憎入り乱れてる。
たしかに良いぞもっとやれって思う時もある。もっと無知蒙昧で下劣で低俗な市民をボコボコにEBMがちがち正論で殴ってしまえと。スカッとするし。
でも結局センセーショナルな文言で煽るようなことを言っても何も解決しないのと、結局他の善良で草の根ネットワークな医療関係者を背後から撃ってることになるし、なんなら私も攻撃受けて辛いので、マジでやめろやという気持ちに落ち着く。
頑張ってるのに患者や市民にリンチされてしまった結果、世間に怨嗟を撒き散らすことになってしまった悲しい乙事主である事はわかるんだが。頼むから美味しいもの食べて、寝て、楽しいことをして、いかりをしずめてくれ。あなたたち、つかれてるのよ。
というか今ここで恨みつらみを書き連ねてる私も同位体なわけですけど。つらみー。
OMIさんがもうそれはそれは散々な罵倒をされてるが、あの人の凄いところはそれを絶ッッッッッ対に怒りで返さないところ。対話をしつづけるところ。まじですごい。
私みたいな底辺クソメディ野郎はもちろん、各方面の優秀なオイシャサンたちまでもが、感情むき出し祟り神モンスターに成り果てていく中で、静かにわかりやすい形で啓発・説得を続けようとするの、これは本当にすごいことなわけですよ。
何なんあのメガネって思ってる人も多いと思うんだけど、まともなことを怒らずに淡々と言い続ける人はまじでとんでもねー人なんで、30年後とかにめちゃ余裕が出て慈悲の心が沸いたりしたらインタビュー記事とか読んでみてください。めっちゃ心を砕いてどうしたらいいか考えて、頑張ってるんだよ、分科会の人。政府はろくに聞きませんでしたけども。ナントカ医師会とかナントカゲカ学会の人なんかより5億倍くらい頑張ってるのは知って欲しい。
とりあえず5月8日が待ち遠しいような、でも別に私の職場何も関係ないような気もするような。
医療関係者なんか来世には絶対選ばねーよと思いながら、転職を頑張ろうと思う。
みんなおつかれ。
なんか罵倒コメントでもついてるかなという戦闘的な態度で見にきたら、普通にやさしいコメントついててびっくりした。ありがとね。
でもさ100のヨシヨシと1の膝蹴りだと膝蹴りの方が脳内を占めない?
世界が全て膝蹴りしてくる人に見えてこない?認知の歪みなんだけどさ。そんな時もあるんだよ。
そして市井の人とノイジーマイノリティね。
おぼえたよ、ありがとね。
啖呵切った部分で誤字ってるのは公衆で恥部を晒しているのに等しいが、覚えるために残しておくね。
Twitterで怨嗟の部分だけ切り抜きされてて、それも羞恥心に駆られました。冷静になったら負けだ。
これは公衆便所の落書きと同じなんで、こんなもん真剣に読まんで寝てくれ。もし寝れないならKUTSUNA先生のYahooのやつを読むんだ。50億倍役にたつ。
そしてなんか凹んでる人達へ。こんなもん読んで罪悪感とか悲哀を感じないでくれ。職業選択の自由において大いなるハズレを引いてやがるざまぁと嘲笑うくらいでいいんだよ。私もそう思ってるから大丈夫だよ。
海外の医療者の人へ。なんなら海外の医療者のが本気で死ぬ思いで悲惨だったろうと思う。マジでマジでお疲れ様。海外はたぶんワクチンと文化と政治が絡み合ってあの感染者だから、何かとてつもなく巨大なものに押し潰されるような恐怖と戦ってたのかもしれない。英国とかの病院の廊下で患者が死ぬ話とかもはや戦時中だよ、考えただけで胃が捻転する。
医療職の何が大変なのか理解に苦しむ人へ。職業に貴賎はなく、どの職にもそれぞれの苦労やつらさはあると思う。現場で胸が苦しくなる場面が体験したければ、NHKのエマージェンシーコールって番組見てみて。風呂場で血まみれで冷たくなってる妻を、夫が震えながら心臓マッサージする場面(だったと思う)が出てきます。例えるとそういう類のものです。
『接遇気をつけて♡』ってうちわ持って振りたいやついるよね。うちの職場の人にもぜひやってくれ。
WHOとかいう組織のフグの毒みたいな名前の人が緊急事態宣言を解除したみたいで何よりです。
何がよかったのかといわれるとわかんないけど。
撲滅してないし、何かの感染症の流行り廃りは続くので、少年漫画の打ち切りのラストみたいな「私たちのたたかいはこれからだ…!」みたいなのを延々続ける羽目になるのだ。完。
余命投票制度を反射的に否定する人は、莫大な費用のかかる手術をしないと死亡する幼児と老人がいる場合、どちらも対等に扱うべきだと考えているのだろうか?
費用の制約により救える命が限られている場合、原則としては余命の年数をベースに優先順位をつけるのは自然な発想であり、実際に根拠に基づく医療(EBM)の考えではQOLを考慮した期待余命の年数(質調整生存年)をもとにした費用対効果に基づき判断するのが一般的である。
日本でも質調整生存年に基づく費用対効果を考慮した薬価基準制度は2019年にに導入されており、余命をもとに物事を考えることはそれほど反倫理的ではないといえる。
漢方はうさん臭いだのエビデンスがないだのって話がしょっちゅう出て、そのたびに漢方系の人間は「西洋科学的な分析が相応しいわけではない」とか「数千年の蓄積が」とか「EBM(科学的根拠に基づいた医療)に向けた取り組みもあるのだがなかなか進まず……」とか言ってるけど、大企業から金と人をドカンと取ってきて今風の研究を数年間モリモリやってデータでなぐりゃいいじゃんね。
その人の体調全体を見て、ライフスタイル全体を向上させるのが漢方だから云々ってんなら、それを踏まえた調査研究手法をやればいい。西洋医学で普通使われる調査とは違っても、データ数とその厳密さが十分あれば一般向けの説得力は出るだろ。
幸福度調査とか言うよくわからん意識調査だってそこそこ存在感あるんだからさ。
ツムラ、クラシエ、サントリー、DHC、世田谷自然食品あたりの漢方とか健康食品とかの大企業は金あるんだし、どこぞの有名大学がそれらに共同出資してもらってやりゃあいいのにな。
差別と表現規制の話題を,人工知能学会誌表紙,キズナアイ,宇崎ちゃんポスターと追っているが,フェミニスト側の立論の雑さが目立つようになってきた.フェミニストによると,これらの表現は
という.
この2点について,多くの規制反対論者が「エビデンスはあるのか」と問うてきたが,フェミニスト側は真面目に答えようとしてこなかった.ここでは,市民にエビデンスを提供することが期待されているであろう,社会学者たちがいかに知的不誠実な態度に終始してきたかを見ていきたい.
ここでいう「エビデンス」とは evidence based medicine (EBM; 根拠に基づいた医療) や evidence based policy making (EBPM; 根拠に基づいた制作決定) におけるエビデンスで, 単なる「根拠」「証拠」より強い意味を持つ.例えば,EBMにおいては下記のようなエビデンスレベルというものがあり,一口にエビデンスといっても質の強弱がある:
I | システマティック・レビュー/RCTのメタアナリシス |
II | 1つ以上のランダム化比較試験による |
III | 非ランダム化比較試験による |
IVa | 分析疫学的研究(コホート研究) |
IVb | 分析疫学的研究(症例対照研究、横断研究) |
V | 記述研究(症例報告やケース・シリーズ) |
VI | 患者データに基づかない、専門委員会や専門家個人の意見 |
もちろん,社会科学分野では完全なランダム化比較試験は難しいという事情はあるだろう.それでも,行動心理学の研究や,具体的な事例の紹介はできるはずだ.以下で指摘するのは,表現規制の議論において,社会学者たちが,質の高いエビデンスを提示せず,最も低い「VI 患者データに基づかない、専門委員会や専門家個人の意見」相当の論考しか提示してこなかったという怠慢である.
宇崎ちゃん事件の発端となったのは弁護士の発言であったが,しばらくして,牟田氏による下記の論考が出た:
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68185
女性差別撤廃条約(1979年国連採択、85年日本批准)はジェンダーに基づくステレオタイプへの対処を求めており、日本政府への勧告でもメディアでの根強いステレオタイプの是正を重ねて求めている。
たとえば第4回日本レポート審議総括所見(2009年)では、勧告の項目「ステレオタイプ」に、「女性の過度な性的描写は、女性を性的対象としてみるステレオタイプな認識を強化し、少女の自尊心の低下をもたらす」と警告している。
上のエビデンスレベルに照らすと,条約や所見は最も低いVIに該当するであろう.もちろん,所見を作成する上で何らかの質の高いエビデンスが参照されている可能性はある.残念ながら,そのようなエビデンスがフェミニスト側から提示されることは現在までない.
と,有害性は明らかであるとする.自治体のガイドラインは炎上しないためのHow toであり,これに抵触したからといって即時に性差別にあたるわけではない.例えば,日弁連のポスターですら,形式的にはガイドラインに抵触することが指摘されている:
https://togetter.com/li/1425795
こういう立論の雑さが「お気持ち」と揶揄される一因になっているのではないか.
キズナアイ事件の発端となったのは千田氏による下記の論考である:
https://news.yahoo.co.jp/byline/sendayuki/20181003-00099158/
「相槌」がなぜダメなのかと思うかもしれないが、社会学では「権力」は相互作用の場面からもつくられていくと考えられている。コミュニケーションの場において、どのような言葉が交わされ、どのように会話が達成されるのか。コミュニケーションは当然、社会システムのなかで行われ、そしてまたその社会システムを再生産するのだ。
このNHKのサイトで「キズナアイ」に割り振られた役割は、基本的に相槌である。それは、従来「女性」に与えられてきた役割である。ある意味で、性別役割分業を再生産していると言えるのだ。
「性別役割分業を再生産」というのが上の「1. 現実の性差別・性犯罪を助長する,あるいは直接女性を加害する有害性を持ち」にあたるだろうが,この点に対してエビデンスは示されることはなかった.問題になっているキズナアイのイラストのように,ポルノとは言い難い軽度の性表現がどの程度人の行動に影響を与えるのか,質の高いエビデンスを示してほしい.
https://twitter.com/chitaponta/status/1047386005139906560
ズナアイは可愛いし、別に愛でてくれていいし、ノーベル賞のサイトから引き上げてくれとか要求もしてなくて、今後、同様の企画を作るときは、少し考えてくれと言っているに過ぎないんだけれど、「誰も傷つけていない」「考えすぎ」というのは少し違うと思う。思春期の自分は、やっぱり傷ついたから。
自分が年をとると快適で、性的対象として見られることがときに女性をいかに傷つけるか、想像もつかないことは理解できる。自分の趣味にケチつけられたら、腹も立つだろう。
ここでも,氏の言う加害がどの程度普遍的に通常人に成立しうるのか,なおかつ公共空間から排除すべき加害性なのか,提示されることはなかった.もちろんこれが社会運動なら,こういった「共感」に訴えるだけで事足りるだろうが,当該分野の専門家としての発言が「共感」に終わるだけでは,なんというか残念.
千田氏自身は,法規制を求めているわけではなく「市民的公共性」から自主規制を求める立場であるとする.なるほど,権力の介入を避け,市民の議論によって線引がなされるべきというのは同意できる.その上で,学者として,市民の議論の補助となるエビデンスを提示してもらいたい.
今年の4月,フェミニストから称賛された上野氏の祝辞があった.
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html
上野氏は祝辞という限られた環境ながら,種々の研究を紹介し,数字を引用し,現在の社会にある男女差別を提示してみせた.統計の扱い方には色々と難があるし,私とて上野氏の思想で同意できるものの方が少ない.しかし,ここで注目したいのは,エビデンスを提示しようとする上野氏の姿勢と,表現規制でエビデンスから逃げ回る社会学者たちの姿勢とのコントラストである.
ダルビッシュ選手がトンデモとされる医療本を紹介して、話題になってる件を見て思ったことがタイトルなんだけどさ。
推測だけど、野球選手って基本的にみんな「※個人の感想です」の世界で育ってきてると思う。
小中高と野球をしている中で、「この練習には打率を上げる効果が論文で実証されている」と言って指導している人はまずいないと思う。「こうやったらうまくいったからやっている」だと思う。プロに入ってもそうなのかもしれない。
それから、彼らは一瞬一瞬が勝負なわけで。エビデンスがどうであれ、結果が全て。だからどんなやり方も平等に取り扱うし、それが結果につながればそれが正しくなるわけで。
だから今回のダルビッシュ選手の行動は彼からしたら何の問題もないんだろうと思う。
医学はそうではないんだろう。
だから衝突が起きた。
ただ、彼には彼の生きてきた文脈があるし、医学に従事してる人にも文脈があるし、その辺の折り合いをつけるのは難しいだろうな、と思う。
ただ医学的にいくら問題があると言っても、いきなり彼の文脈に入り込んで声高にそれを否定することはどうなのかな、と思う。もう少し医療側がコミュニケーションの仕方を考えたほうがいいと思う。
医者になってからずっと、このまま医者を続けていっていいのだろうかと考えている。
はじめに断っておくが、医者の仕事がキツいとか、仕事についていけないからやめたいとか言っているわけではない。
自分で言うのも何だが、私はそれなりに優秀な部類に入る方の医者だと思う。
仕事がキツいと思ったことがないとは言わないが、それが原因でやめたいと思ったことはない。
何が問題かと言うと、医者という仕事にどうしても楽しさが見いだせないことだ。
自分の治療によって患者さんが良くなるのはうれしいし、医者という仕事は感謝されることが多くてやりがいはある。
これは間違いないのだが、果たしてそれを糧にしてこれからの人生でずっと医者を続けていっていいのだろうか。というか続けていけるのだろうか。
医者になってはじめの数年は、このまま経験を積んでいけばそのうち医者という仕事に楽しさを見いだせるようになるに違いないと思っていた。
しかし、初期研修医が終わり、後期研修医が終わってもあまり状況は変わらない。
卒後10年くらいでこんなことを言われると怒られるかもしれないが、医者という仕事はある程度のキャリアを積めば、どういった環境で働くかにもよるが、その後はルーチンワークがどんどん増えていく。
この世に一人として同じ人間がいないように、同じ疾患の患者さんで同じ経過をたどる人はいないわけだが、それでもほとんどの場合何かしらの類型化は可能である。「あっ、これ前に見た患者さんと同じ感じだ」というのが増えていく。
そして、現在の流れとしてEBM(Evidence based medicine:臨床試験などの結果を踏まえた根拠に基づいた医療)を元にした各種ガイドライン化が進み、誰がやってもある程度同じ結果が得られるような体制ができつつある。
自分が優秀だとして、その自分の優秀さのおかげで患者さんの予後が変わるシチュエーションなんて、そうそう巡り合わない。まぁ、そんなシチュエーションに頻繁に巡り合うとストレスで寿命が縮むのでやめていただきたいが。
現実の医者の世界のほとんどは、医療ドラマにあるような派手な世界とは真逆の地味な世界だ。
誰がやってもほぼ同じなんて楽しいわけがない。まぁ、医者の楽しみのために患者さんがいるわけじゃないので、誰がやってもほぼ同じということはもちろんいいことなんだけど。
そして、きっとそう遠くない未来には、医者はAIの助言に基づいて最終的な判断を下すだけの存在に成り下がるに違いない。お先真っ暗である。
外科系や循環器内科などの手に職系の内科は違うかもしれないが、きっとそれもそのうちロボットに駆逐されるだろうと思っている。
それはさておき、そんな自分の現状を変えようと思って、臨床にいったん区切りをつけて、大学院に戻って今度は研究をしてみたが、これまたあんまり楽しくない。
それなりに優秀なので教授にも気に入られてそれなりに結果を出してはいるが、現在の医学研究は物量がものをいう世界になっていて、アイデアはもちろんだが、カネとヒトがないとトップジャーナルに載るような研究はほぼ不可能である。
もう数年は頑張って、なんとか博士号だけは取りたいとは思ってはいるが、将来的に主任研究者としてこの世界でやり合っていけるほど自分が研究に向いているとは到底思えない。
そんなこんなで、医者になってからずっと自分探しの旅が続いている。
傍からは脳天気な人間に見えるらしく、悩みもなく順風満帆なエリートコースを歩いているように見えるらしいのだが、内実は大荒れの海を彷徨っているかのごとしである。
よく、「好きなことを仕事に」とか言われるけど、好きなことってなんだ?
増田にこんなことを書いていることからわかるように、パソコンとインターネットが好きで、株を少しばかり嗜むこともあって、岡三RSSを駆使して自作した株の自動売買システムをいじくっている時が最近の一番楽しい時間だが、プロの投資家としてやっていけるような才覚はおそらくない。
医者とパソコン・インターネット好きということを活かすという意味では、医療ITベンチャーのスタートアップなんかも楽しそうではあるが、この年になって妻子を抱えた身としてそんなところに身を投じる勇気は残念ながらない。
AIとかディープラーニングとか、医療の世界でもっと活用できそうなことが転がっていて、すごく心躍る世界ではあるのだけど。
なにより、医者という身分はいろんな意味で居心地がいいので、なかなか捨てづらいものがある。
「医者の仕事に楽しさが見いだせない」とか言いながら、実際に臨床を離れると患者さんを見る機会が減ってかなりさみしかった。
今はバイトベースで外来や救急をしているが、患者さんを診ると充足感があるのは確かだ。
給料はいわずもがな。大学院生をしながら週1〜2回の外来・当直で妻子を養っていける。こんな職業は他にはたぶんない。
なんとなく不満をぶつぶつ言いながら、このまま荒波に順調に流されて行ってしまいそうな気がする。
一重盲検だって成立しねーんだよっ!検査だろうが療法だろうがな!
製薬会社がそうしたように、セキュリティソフトの会社がそうしたように
歪んだデータで作られたエビデンスを掲げた検査や療法のマニュアルやビデオが氾濫することになる
ああ、楽しからずや
私が、私自身に裁かれさへしなければ。たぶん、「人間」も私を裁くことはないだらう。
坂口安吾「余はベンメイす」より
つまりは、自分を騙しちまうような目の曇った哀れ者が溢れれば、途端に壊れちまう世界なのよ
ああ、先輩よ
“澆薄の世の習ひとて、淑徳が却って不徳に對うて、語を卑うし、頭をも下げて、許容を乞はねばならぬわい”
恋愛工学がなぜすごいかって、EBMと同じ理屈だと思ったから、医学でたとえた。
自分の身内なら当然話はかわる。ケースバイケースがいいのも理解している。恋愛も、やられる女からしたらそうでしょうね。
しかし、医学みたな秀才達がガチで考えた結果がこうだっていうなら、そりゃそうなんだろうなって俺は思ったし、多分人類にこれ以上の答えないから、
てかさ。
本当に患者のことを考えてたら、副作用でかい薬で、寿命のバスか~とかを、冷徹に決められないでしょ。
一応、医療のプロトコール的なもんで、患者の意思を尊重って言うけど。本当の本当に考えたら、決められないんだよね、どんな薬使うかなんて。
これって、ナンパ師達がやってきたことをまた同じように繰り返しているんだけど。
確かに面白いと思った。
工学って名乗るくらいだから、専門用語を作ってみたりして概念を数理モデルに落とし込んでいる。
これは非常に俺は納得できた。
言ってることは、
「ナンパでの声かけは、定型文作って、それで話かける、これを『オープナー』と言う。『写真撮りましょうかオープナー』『こんばんはオープナー』などいくつか定型作れ」
こういう感じで、定義つけられた行動をひたすら繰り返せば、ヒット確率が5%なら20人話しかけられればいけますね。これはナンパ業界では常識だけど、これを『メソッドだ』と割り切ったのがよかった。
俺は、どーも話しかけることに感情の機微的なものを感じすぎていたが、メソッドだから心を無にしてやってしまえるんだ!と解く。
それとか他には、「セックスすれば女はその男を好きになる、セックスする前は女が主導権あるが、セックスした後の主導権は男。だから、セックスする前にセックスできるように女をいかにだますかが大事」というのは常識だけど、それまでの過程をいくつかに分割して、それぞれ無感情でできるメソッドでくくっている(まったく同じデートコースを繰り返すことで流れになれるとか)
もちろん、これまでもナンパ技術で、さんざん言われてたことだが。どーもナンパ技術は、「メンタル」「度胸」となっていた。俺はどーしても感情で話してしまうから難しいんだけど、それをできるようになる。
会話についても、どーも俺は感情を読み取って話ししていたが、「ラポールを作るんだ、これらの技術を繰り返すんだ」と単純化されてしまうと、なるほどできそうだと思えた。俺は、機微にこだわりすぎて、大筋を忘れていたみたいだ。
あと、恋愛工学は、それぞれの過程で専門用語を作って、ある程度体系化しているからこそ、研究しやすいと思う。
オープナーのメソッド、連絡先聞き出しのメソッド、クロージングのメソッド、デートに誘うメソッド、デートからセックスに持ち出すメソッド、セックスを断られそうなときのメソッド。
もちろん、これまでもナンパ師はこういう分割で研究してきたんだけど。どーも彼らナンパ師の言葉はふんわりしていて。理系には分かりにくかった。オラオラだぜ~とか、ノーグダとか、体験してない側には意味不明だった。
あと、「普通の漫画とか映画とかドラマとかの手順を踏んだ恋愛は無理」ってのをはっきりと書いてくれたこと。イケメン美女なら、できるんだけど。それを普通の男がやってもまず無理。ってのを教えてくれた。
まあ正確には無理じゃないが、ヤリチンと女が遊んで、その間のキープってのを普通の男は付き合ってると言ってるんだよ。ってことをはっきりと言ってること。その、ヤリチン側に回る手順は、一般の、仲良くなって、尽くして好きになって~ではないと。
女達が偉そうに教えてくる優しくしろだの、マメがすきだのは嘘だ、女はヤリチンに相手してもらえなくて、だから押し付けがましくそういう理想像があったらいいなってだけだ、本当は冷たくされて喜んでるんだ。と。
これは本当に目をさまされた。なんで、ナンパ師達が、あんだけオラオラやってるのか俺は理解できていなかったが、なるほど、そういうフレンドシップ戦略、とか一人の女だけを好きだぜ、みたいなのはキモいと女は感じるようにプログラムされてるらしい。
なるほどと思った。女向け恋愛映画は、ヤリチンくさい男が、一途に君だけ見てるぜ的なのが多い。ヤリチンはそれを読んで、やりまくってる、やりまくってるそぶりも見せる、しかし、君が好きだ、君の話を聞いてタイアピール。をする。
これはその通りだなと。ヤリチンが好きなんだから、一途に思うこと自体無意味。余裕を持たせるために、たくさんの女と同時平衡にアプローチしろ。それ、ナンパ師が毎回言ってたが、意味が分からなかったが、なるほどと分かった。
俺は、どーもそのあたりの機微を詠みすぎていた。
医学なんかでも、確かに患者の話を聞くのだけれど。じゃあ薬はどうやって選ぶのか、手技はどうするのか、ってなるとそれは冷徹に論文に根拠を求めるんだよね。
この部分、昔の医療は医者の経験とかで判断してたんだけど、それよりは論文に寄ったほうがいいよね(EBMっていう)ってなった。
そうすると、すんげー専門用語が多くなった。それもそのはずで、専門用語ってのを理解できるってのは原理を理解できるってことに近い。専門用語を知ってる知らないってのがダイレクトに理解してるしてないにつながっていくから、専門用語を作ることが合理的になる。
そういう意味で。確かに恋愛工学はいままでの焼き直しだけど、そこに名前をつけたのがいいなと思った。
俺は、ナンパ師たちのテクニックを学んでも一向に実行できない。
正確には、10回くらいはナンパして、5回は話かけられず、5回は2,3人にこんにちはーとか、道を聞いたりしたが、韓国人の女と1回おちゃした程度で、連絡先交換もなかった。
でも、工学といわれて、メソッドだといわれるとできそうな気が少しした。
医学でも、自分の経験だと微妙に挑戦しにくいが、「この論文でこっちの薬がいいと結論でている」といわれると、「証拠があるし、悪いことしてない気になるしいっかー」とやれる。逆に、勉強してるからできるんだぜーくらいに誇らしい気持ちすらあるw
女性は恋愛したいのに、恋愛工学だと女性はセックスするためのもので。しかも工学にあてはまる女ってのは一部のそういう工学にはまりやすい女だけだ。という主張。
これもその通りだと思うが。
論文で薬を与えられる患者というのは、完全にモデル化されてるし、それぞれの患者に効く効かないは個人差あるけど、それでも薬を投与する。統計的には効くから。
そして、経験的な医療では、患者の話を十分に聞いて機微を察して薬を投与するが、それでは学問として成立しない意味合いもあるから、論文重視になって、だれでも同じ医療が受けられるようにしている。
確かに、女性の言うように、恋愛の機微で感情を持ってやるべきだってのも分かるんだけど、それでは男は女と付き合えないというわけだ。女なら股をひらけば男をゲットできるが、男は50人に声をかけて1人と付き合えるかどうかなわけだ。
まったくのゼロの女しか捕まえられない男に、次のステップである恋愛の機微とか説いても無意味じゃないかと思った。
ってか、そういう恋愛の機微を捕まえる、一途な男にたいして、女はどういう態度を取ってきた?クリスマスプレゼントだけもらって、デートがあっても浮気相手のヤリチンに走って。そういうのが多すぎる。だったら、女がそういうの言う資格ないと思うんだよね。
また、一部の女にしか効かないというが、それでいいと思う。効かない女もいる、それは当たり前。効く女だけに薬を売ってるんだろみたいな話だが、それでいい。まったくのゼロで女に相手されないより、そういう女でもやれるほうが絶対いい。
まあここまで散々持ち上げたけど。俺はそれでも、風俗に行く。
金もあるし、楽だから。セックスもクッソ自分の好き勝手にできるから。
だって、恋愛工学での女って、確かにゲットできるんだろうけど、面倒くさいよ。
そりゃ、自分の奴隷みたいな女を見つけられればそれで風俗行かなくてすむだろうけど、それまでにどんだけの労力かけるんだよ。
俺は、医者で、一回の当直で10万とか給料もらうから、ナンパにかけてる時間分働けば、風俗で美女とやれる。
風俗ってのも、よーするにナンパ師に似た、スカウトマンがいい女をナンパして、風俗に横流ししてるわけだから、ナンパしてるより効率がいい。
でないが、趣味の一つとしてコツコツ続けるのはいいことだと思う。
そんな時に、近くの高齢者施設に行ったら、すごくショックだったことがありました。それはほとんどの病棟にいる患者さんがほとんど寝たきりで、胃瘻されていた。そしてその患者さん、ほとんど意識がない。寝たきりで意識がなくて、会話もできない。痛いも痒いも言えない。その状態で何年も、長い人は10年以上です。
胃瘻をする人が皆寝たきりだ、みたいな安易なイメージ誘導はよろしくない。
大事なのは胃瘻ではなくて「栄養を与えるか」「栄養を中止して最期とするか」のどちらを選択するか、ということだろう。
近くに総合病院があるということよりも、市民が意識を変えるってことが、病院があること以上に価値があることだと僕は思います。
一般論としてはそうだろう。
(中略)
だから呼ぶのは訪問看護師、在宅医。もちろん、発熱とか一時的なことで、これは良くなるよってことであれば家で点滴したりして治療します。でもそうでない時は、残念ながらお看取りすると。そういう世界です。だから救急車が減る。しかも医療費も減っちゃったんですね。
救急車の出動回数の減少や医療費の減少は、救急車を呼びたいような人が夕張以外へと転居した、等の統計上のトリックも考えられる。
だが、ここに述べられているように在宅医療の徹底がなされていることも大きな一因であると考えてよいと思う。
しかもですね、何と死亡率まで下がっちゃったんです。これがすごい。
日本人の死因の1位がガン。2位が心臓系。3位が肺炎。1、2、3、全部下がっちゃった。すごいですよね。何がポイントか。多分、僕が思うに予防の意識ですね。
何年で下がったのか、どの程度下がったのか全く見てとることができない。
その後に「日本人の死亡率は100%」と言っていて”死亡率”という言葉を使っている矛盾にはつっこまざるを得ない。
3大死因の死亡率が下がったなら何の死亡率が上がったのか?
死亡率の変化には死亡診断書を書いた医師の変化に影響されているのではないか?
予防意識が死亡率にまで影響するにはかなりの年月を要するのではないか?
今日本がここです、25%。数十年後には40%になります。じゃあ、高齢化率が2倍になったら、借金も2倍になるんですか……? 医療費はどんどん上がってますもんね。ちなみに夕張は今ここです。かなり先取りしてますね。でも日本中が夕張みたいに高齢化率が高くなる。爺ちゃん婆ちゃんばっかりになる。そんな世界になります。
今回の中で根拠があると言えそうなのは終末期における在宅医療の推進。これは本当に進めていくと良いと思う。
国民の健康に対する意識を高めるというのは国が躍起になっているところ。
その方法として総合病院がなくなってしまえばいい、というのが夕張市のストーリーだが、
全国で総合病院を取り壊す訳にはいかないので、全国的には総合病院へかかりづらくするという現在の政策と近い物になると考える。
改めて読んでみると、「医療費、救急車の出動回数の減少」はグラフもどきの絵のせいで印象が悪いが理屈は合っている。
「死亡率の低下」には短い中に突っ込みどころがこれでもかと詰まっており、ここが一番ダメ。
『病院がないほうが死亡率が下がる! 夕張市のドクターが説く、”医療崩壊”のススメ』というタイトルも統計的トリックを警戒させて印象が悪い。
死亡率の話を抜きにすれば、印象の悪さとは反して普通の終末医療の話だった。
そこにずさんなデータを持ってきてしまったことで、ブコメでの突っ込みが多くなるのは必然だろう。
タイトルでその個所を煽っていることも突っ込みを誘発している。
まとめてみると、十分受け入れられ得る在宅医療推進の話なのに、論拠としてうかつに死亡率のデータを出したせいで話全体の信頼性を失わせてしまう、残念な例だった。
人体の仕組みは川のメカニズムよりもっと複雑だから、『なぜ』そうなるかを現時点で説明しきれないとしても、『確かに良い』と多くの人が言ってきて、今も言っているものについて、まだその理由が分からないうちから捨ててしまうような真似だけはしない方がいいと思うんだ。
これは別にいわゆる東洋医学とやらに限った話でもなく西洋医学とされてる今の医学だって同様の事はある。作用機序のわかってる薬ばかりでもないし、根拠を説明しきれるような治療ばかりやってるならEBMとか言われる事もないわけで。オリエンタリズムで実態以上に西洋医学と東洋医学の違いが強調されてるように見える。