はてなキーワード: 拡散とは
(『本書の概要』で述べるとおり専門的すぎるため省略)
●『人口過剰』
p.176 人格影響説…非同一性問題→非人格的総計説、非人格的平均説…新たな理論Xを求める。
p.181 非人格的総計説は…とにかく人間を増やすべきだという「いとわしい結論」と、まだ存在しない人間を対象とする誤った前提を否定できる。ただし、人口のサイズに対するガイドラインはなくなる。非人格的平均説は…人間の出生に条件を付ける「単純な追加の問題」を否定できる。…非人格説は幸福の最大の総量/平均値ではなく、不幸の最小の総量/平均値を目指すべきだ。よって、理想的な人口はゼロだ。
●『段階的絶滅』
p.191 高齢化。とくに一部が「最後の人類」となることはQOLを大幅に低下させる。
p.194 現存の人々のQOLを良くするために新たに生命を作ってもよいか。また、その条件は。
p.195 総計的人格影響説、平均的人格影響説…不幸から見た場合、平均説は明らかに誤り(QOLが悪い人生が60億あるより、120億ある方が悪い)。総計説なら部分的に許される。
p.198 平均説・総計説とも功利主義に対するのと同じ批判を受けうる。→権利・義務論:厳格な説ならすべての子作りは許されない。厳格でない説なら部分的に許される。
●『絶滅』
p.202 小惑星の衝突といった外的な脅威、持続不可能な消費、環境破壊、疫病、核兵器、生物兵器。
p.204 ①皆殺し②「最後の人類」への害悪③人間がいないという状態…①は明らかに悪い。②は最後の世代の方が、最後から2番目の世代より、未来への願望・欲望が絶たれるという点で害悪が大きい。ただし、これは絶滅が早いほどにいいという議論と矛盾しない。③道徳的主体や理性的思考者がいなくなり、多様性もなくなる。それらの受益者はいないし、「永遠の相のもとで」価値があるか不明だ。
○第7章『結論』
p.210 「道徳台帳」という功利主義の理論を退けるピーター・シンガー。「失望主義(反失望主義」を退けるニルス・ホルタッグ。
p.211 そもそも反直観的だというのは判断材料として有力ではない。…この結論(反出生主義)が反直観的という理由で否定し、背理法的に非対称性を退ける。…快楽の不在は悪で、苦痛の不在は「悪くはない」と見做すことはできない。さらに、支配的な直観は①他人に害悪を与えることを子作りに限って度外視している、②出産を奨励する直観は心理学的に歪められている、という問題がある。
p.214 背理法的に非対称性を論じることができると見做せば、我々より悪い人生を送る人々に、我々の直観を同様に反直観的と非難されることになる。
●『楽観主義者への応答』
p.215 楽観/悲観主義には事実、価値判断の2つについてがある。無論、反出生主義はどちらも悲観主義だ。
p.216 反出生主義の楽観主義的転回=避けられない絶滅を良いことだと考える。他の人々にとっては悲観主義的だ。
p.217 楽観主義者は悲観主義を苛立たしく思い、非難する。出生は「覆水盆に返らず」で、自分を憐れまず、いかに自分が恵まれているか考え、人生をフル活用し、喜びを感じ、前向きに考えなければならない…①人を元気付けるというだけでは正当とは言えない。②自己を憐れむことなく自らの存在を悔やむことはできる。何より、反出生主義はまだ生まれてこない子供のためのもので利他的だ。盆からこぼれてもいなければ、こぼれる必要もない。③自分の人生に満足すべきだという意味を読みとって「いかに自分が恵まれているか考える」ことは、自分に都合のいいように解釈することを必然的に伴い、そうしろという命令には全く説得力がない。反出生主義は苦痛の拡散をせず、なおかつ自分の人生をより悪くなくすことができる。④楽観主義は苦痛に対する妥当な否定ではなく、ただの無関心でしかない。明るい方向がつねに正しいというのは、ただの無根拠なイデオロギーだ。自己欺瞞を回避できれば、集中して取り組まなければならないのは、おおむね希望より逆境だ。彼らは幸せかもしれないが、だからといって正しいわけではない。
●『死と自殺』
p.220 存在してしまうということはつねに害悪だという見解は、死が存在しつづけるより良いということや、自殺がつねに望ましいということを意味しない。存在するものは存在しつづけることに様々な利害関心を持ちえて、人生を続けるに値しないほどの害悪は、それらの利害関心を無効化するほどでなければならない。
p.221 実際、存在することの害悪の大きな1つは死ぬこと(不死ではないこと)だ。
p.221 エピキュリアン:死は死ぬものにとって悪くない。死が来た時点でその主体は存在せず、よって死は経験できない。…①すべての条件が同じなら、長い人生は短い人生よりいい。②死んだ人間の願いは尊重すべきだ(もし死は害悪でないのなら、死後生じることで害悪ないことはない)。何より、③殺人はその犠牲者を害するという直観に反する。
p.222 ①存在することが害悪だと考えるひとさえ、同意なくその人を殺すのはその人を不当に扱っていると考える。②予防原則:エピキュリアンの見解が間違っていた場合、深刻な害悪がもたらされるが、反出生主義が間違っていても、害悪がもたらされることはない。
p.223 生前の非存在と死後の非存在は非対称的だ。人に歴史は個人の歴史から構成される。
p.223 「生前の」人物から奪うというのは…害されるのが「生前の」人物なら過去への因果関係が生じているという議論…死が害する瞬間は「つねに」または「永遠に」だ(例:「最後から2番目の大統領」は「つねに」、「永遠に」そうだ)。…デイヴィッド・スーツ「それは「純粋に関係的な」点において惨めであるということで、彼が害されているということは言えない」。
p.225 ともあれ、反出生主義はエピキュリアンを意味しない。エピキュリアン:死は害でも益でもない。→エピキュリアンの見解を退けるとすれば①死はつねに害悪である。②つねに利益である。③害悪である場合も利益である場合もある。…①②は明らかに間違い。反出生主義は③で、QOLの評価と、それが存在しつづけるのをやめるべきときの基準は、自己決定の原理によるべきだ。しかし、一般的な見解より合理的な自殺に寛容なことは確かだ。実際、西洋の文化のほとんどを含む多くの文化に合理的な自殺への大きな偏見がある。
p.228 一旦、誰かが存在してしまい、その人への愛着が形成されると、自殺は苦痛を引き起こす。せいぜい子供のいない人生の苦痛を比較することで和らげるだけだ。さらに、周辺の人への害が増えることがあり得る。
p.229 旧約聖書でヨブは生れてきたことを悔い、エレミヤはさらに堕胎してくれなかったことを恨んでいる。タルムードはヒレル主義とシャマイ主義の論争で、人類は作られない方が良かったという後者に軍配を上げている。
p.231 反出生主義は人間好きによるものだ。しかし、人類は自分からは絶滅せず、多数の苦痛が生まれつづけるだろう。これこそ、人間嫌いが反出生主義に達しない理由だ。…人々は反出生主義も子作りをやめることも受けいれないだろう。それが人間好きに由来するとは考えにくい。それは人間に対する悪意ではなくとも、存在してしまうことへの害悪への、自己欺瞞的な無関心によって行われている。
本稿の著作権・著作人格権は完全に放棄する。無断での利用・転載はむしろ推奨する。
○第1章『序論』
p.10 子供を産むことの決断には様々な理由があるだろうが、そこに存在することになる子供の利害が含まれているはずはない。
●『誰がそんなに幸運なのか?』
p.12 「生はあまりにも酷い。生まれてしまわない方がよかっただろう。誰がそんなに幸運なのか?」(ユダヤ人の格言)
「決して誕生しないことは、死ぬ運命にある人間にとっては最善の事柄だろう。しかし、このことは十万人のなかの一人の人間にだってほとんど生じない」(フロイトのジョーク)…「非同一性問題」→私たちはたしかに非存在がよりよい状態にあるとは言えない。しかし、存在するものについては、存在することは当人たちにとって悪いことだと言える。「これは哲学的なゲームでも冗談でもない」
p.15 生殖をするカップルは、苦しみを生みだす氷山の頂点にいる。遺伝的な起源の責任。=デレク・パーフィット「起源説」
p.16 反出生主義の偏見…子供嫌い、子供を持つことによる自由と財産の制限
p.17 出生の偏見…子供をもたないことは利己的で未発達→①子供は別の人間なのだから、子供をもつ動機は利己的でしかありえない。②(1)子供をもつことはしばしば不注意の結果でしかない。(2)生殖の衝動は原始的なものである。
p.19 全体主義者の政治団体は軍事的な理由で生殖を奨励する。民主主義国家も、つねに生殖を支持する層が勢力の大半を占めている。…あらゆる国家は移民より生殖により人口が構成されている方が正当化される。
●『本書の概要』
●『読者への指針』
●『存在してしまうことが害悪であるということがあり得るか?』
p.27 「非同一性問題」「未来の個人のパラドックス」…(ex)遺伝性の障碍
p.29 非存在は存在と比較できないため、存在することがしないことよりも「より悪い」と言うことはできない。…存在の害悪は単に「悪い」というだけで十分だ。
…誰かが死んだ方がマシだと考えるとき、自分の状態が良くなると考えるわけではない。存在しなくなる方が良いほど人生が悪いものである可能性と同じく、はじめから存在しない方がいいほど人生が悪いものである可能性はある。
p.31 誰かが存在していることとしないことを比較するのは、2つの状態を比較するのではなく、まったく別の事態を比較することだ。…障碍が耐えがたいにしろ人生を生きるに値しないものにするほどではない場合は、そうでない場合より難しいと考えられている。=生きるに値する人生において、存在するよりしない方がいいというのは矛盾だ。→これは「生きるに値する人生」という表現の多義性が原因だ。
p.32 「生きるに値する人生」は実際には「生き続けるに価する人生」だ。だが、問題は今はまだない人生であり、これに「生きるに値する人生」という表現を使うことはできない。「始めるに値する人生」を始めない方がいいというのは矛盾だ。
p.34 道徳的な問題に関わる意味で、人が存在するようになる過程は長く、段階的だ。
p.40 非存在に苦痛がないことはいいことだと言える。可能性において存在する誰かの利害で判断することができる。我々は、自分たちについて存在しなければよかったのにと仮定することができる。
p.42 人々を幸福にする積極的な義務があると考えている人でも、幸福な人々を存在させる積極的な義務があると考える人はほとんどいない。
p.44 非対称性は思考実験「遠く離れた(異国の住民の)苦痛と、無人の場所(無人島・火星)」(…非対称的な判断)で実証できる。
p.46 積極的な功利主義者は幸福を増加させようとする。そこにも①人々を幸福にすること、②幸福な人々を生みだすこと、の違いがある。①は倫理の要請だと言える。しかし、②を倫理の要請だとすると、個人の価値は幸福の価値から派生することになり、人々を幸福を生みだす手段だと見なすことになる。
p.52 つねに健康な人と、病気がちだがすぐ回復する能力をもつ人を比較すれば、存在しないことの利点がつねに勝ることは明らかだ。回復するのは手段的な善であり、内在的な善ではない…という批判は成立しない。実在する人物について善がないことに「奪われていない」という判断ができるのは手段的な善のみだ。この区分は意味がない。
p.54 楽観主義者の快楽と苦痛の費用対効果分析…は「存在しない」場合との比較でなされていなく、無意味だ。…快楽に苦痛の2倍以上の値がある場合、「存在する」ことの費用対効果分析は成立する。しかし、QOLを決定する快楽・苦痛の割合、苦痛の下限の問題がある。何より、思考実験「つねに健康な人と、病気がちだがすぐ回復する能力をもつ人」はつねに相対的に前者が勝る。
・『別の非対称性』
p.59 シフリン:より大きな害悪を防ぐために小さな害悪をもたらすことはいい。しかし(純粋な)利益をもたらすために害悪をもたらすことは悪い。よって、生殖は悪い。存在が利益をもたらすとしても、あらかじめその存在の承諾を得ることは不可能だ。また、その仮想上の承諾を想定することもできない。…①存在しなければ害悪を被らない。②存在することの害悪は耐えがたいものでありえる。③人生という害悪を逃れるには大きな代償を支払わなければならない。④仮想上の承諾はその個人の人格を無視している。…そもそも、出生が利益をもつことはない。
p.63 出生された人物の権利を生殖が侵害するということは、その権利を請負う人間はその時点で存在していないためにありえない…という議論は生殖の特別な特徴を無視している。害悪を被り「得る」ということで、特別な権利を認めるべきだ。なぜなら、存在しない権利がないということはありえない。…自律していない存在(=子供)にはより大きな利益をもたらすために害悪を与えていいというパターナリズム的な議論…は、子供とまだ生まれていない子供は異なり、出生は絶対に悪いということで否定できる。
p.64 フェーイゲ「反失望主義(antifrustrationism)」:選好が充足した場合も選好がない場合も等しくいい。悪いのは選好が充足しない場合だけだ。よって、出生は悪い。
p.68 自らの人生を楽しんでいるという理由で、存在してしまったことを良いことだと考える…もし存在してしまわなかったら、その楽しみを逃す人はいない。しかし、存在してしまわなかったことで、苦しみがなくなるのは良いことだ。
p.69 存在して良かったかどうかを間違うはずがないと考える…存在してしまった当人の存在が良い/悪いということは、存在してしまったことが幸福/不幸ということと同じではない。
p.72 人生の良さと悪さの差は、順番、強度・頻度、人生の長さ、閾値、で人生の質とは変わってくる。
p.75 ①ポリアンナ効果:楽観主義。人生の質を改善するらしく思われる要因のほとんどは、人生の質の自己判断にあまり影響を与えていない(例:体の各症状に対する自分の健康状態への判断がほぼ一致するのに、幸福への判断とはあまり一致しない)。②適応。③比較:幸福の自己判断は、実際は相対的な指標による。
●『人生の質に関する三つの見解のどれをとっても人生はうまくいかない理由』
・『快楽説』
p.81 人間は人生の大部分をマイナスの精神状態で過ごす…空腹、渇き、便意・尿意、疲労、ストレス、暑さ・寒さ。前述の3つの心理学的効果で無視されているだけ。さらに…持病・加齢:痛み・苦しみ、眠気、挫折感。災厄:アレルギー、頭痛、挫折感、苛立ち、痒み、寒気、生理痛・閉経後の火照り、吐き気、低血糖、発作、罪悪感、恥、退屈、悲しみ、憂鬱、孤独、無力感、喪失感、その他、被害感情全般。
・『欲求充足説』
p.84 精神状態について判断を間違うことはなくとも、欲求については間違うことがありうる(単に快楽を追求している場合は除く)。…欲求は当然、満たされていない時間の方が長い。また、欲求が満たされるのは一時的で、そもそも、欲求が満たされないことも多い。現状維持の欲求さえ、実現は不可能だ(老い、死)。
p.86 マズロー「つねに新たな欲求が生じる」。イングルハート「人間が永遠の幸福を得ることができるなら、何ら行動しなくなる」。マズローは人間はおおむね幸福で、不満足は病的状態だと言うが、ショーペンハウアーは不幸こそ人生の当然の状態だと言う。
p.88 欲求の充足までに困難があった方が、あるいは充足の過程そのものが良いという議論…は明らかに不条理だ。
p.92 「客観的リスト」は「永遠の相のもとに」ではなく「人間の相のもとに」構成されている。…40歳で死ぬことが不幸だとして、90歳でそうでないのは何故か? 「色んな芝生に生えている草を数えることに人生を捧げている男」(ロールズ)の人生は無意味だが、その視点と人類の視点は大差ない。
p.93 人生の質は「人間の相のもとに」判断すべきである、あるいは、具体的な背景に応じて判断すべきであるという議論…は明らかに不条理だ。
p.98 害悪に満ちた人生を、①すでに存在している人のためでなく、②功利主義的な目的でなく(また、そうであっても)、生みだすことはできない。人生の質の判断は当てにならず、よって、人生を続けるに値するかは別論だ。
●『子作り』
・『子作りの義務はない』
p.103 子作りの義務…①射程:子供を(1)何人か、(2)できる限りたくさん、持つ。②正当化の理由:(1)存在させられる人々の利害関心、(2)その他(他者の利害関心、功利性、信仰、等)。…存在させられる人々の利害関心によれば、子作りの義務はあり得ない。それ以外の理由ならあり得るが、それにしても相当に疑わしい。とくにできる限りたくさんの子供を持つべきだという場合は。
p.105 生殖衝動、子作りへの関心…「性交への関心」「親になることへの関心」と「子作りへの関心」を分ける。前2者に子作りは必要ない。
p.107 他者の関心…両親、部族・民族、国家。しかし、こうした他者の利益を適えることは、それによる当人の利益を適えることと表裏一体だ。
p.109 子作りへの関心は…これまでの議論から権利を制限されるべきだ。
p.113 子供を持つべきでない道徳的義務があるなら、子供を持つ道徳的権利はあり得ない。よって、子供を作る権利は(愚行権を含む)法的権利だ。
p.114 法的権利は道徳的義務と対立する場合、そうした方が良いという仮説を必要とする条件付きのものとなる。そして、阻却可能条件(子供を作るべきでない)がつねに適合する場合、その法的権利は妥当ではない。
p.115 政府が子供を持つべきでない道徳的義務を認めると、施策としてあり得るのは①権利を与えず自由放任する、②禁止する、のどちらか。①は権利を与えず容認するというのは矛盾で、いずれも積極的な②を包含する。②はその道徳的代償が子作りの禁止による利益を上回ることはないと思われる…非最大化主義的非帰結主義者の見解。
・『子どもを作る権利を意見の相違があるということに根拠付ける』
p.116 法的権利とその正当化にはこのことだけで十分だ。危害原理の必要条件:ある行為が害悪であるかどうか意見の相違がある場合は、危害原理の射程の外にある(例:人工妊娠中絶)。…ただし、奴隷制のように、ある行為が害悪か議論の余地があるだけでは許されないものもある。
p.118 危害原理の例外となる意見の相違は妥当/無条件のどちらか。奴隷制やアパルトヘイトは明らかに妥当ではない。
p.120 少なくとも反出生主義が最も優れた反論と比較して十分に検討されるまでは、妥当な判断のできる理性的な人々によって、意見を妥当に違えることができるかは結論付けられない。
p.121 少なくともリベラルな社会において子供を作る法的権利が撤回されるのには長い時間がかかり、そのときにはその意見は広く認められているだろう。それまで、新しい人間を存在させてはならない道徳的義務を認めつつ、子供を作る法的権利を認めることはできる。…実際、テイサックス病やハンチントン病のような遺伝性の病気、エイズのような感染病など、他の場面では許されないほどの害悪を与えることが、子供を作る場面では容認されている。
p.123 障碍…障碍は社会に構成されたもので、実際には障害(disability)ではなく不能(inability)だ。また、障碍の出生前診断は政治的に悪いメッセージとなるという「表出主義者」の議論…障碍が不能ということは、「より悪い」ということを否定するものではない。健常者と同じQOLを持つ障碍者も、さらなる障碍についてはQOLを低く見積もる。また、反出生主義はむしろ平等主義だ。
p.132 ロングフルライフ…訴訟は①子供を持つ法的権利に関する妥当な意見の相違。②QOLの評価は個人的なものだ(とくに現在のロングフルライフ訴訟は代理人によることが多い)。もし判例ができれば、もうQOLの評価は個人に独特なものではない。の2点の課題がある。
p.135 セックスは子作りの目的でなされる場合のみ道徳的に容認されるという多くの反論がある見解(オーラル・アナルセックス、レイプ、不倫、不妊症)を、反出生主義は「性倫理の反生殖的見解」として完全に退ける。
・『誕生の悲劇と婦人科学(gynaecology)の道徳』…『悲劇の誕生』と『道徳の系譜(genealogy)のもじり。
p.140 1人の子供を救うために新たに子供を持つという場合は…(a)自分たちの関心(interest)を満たすため、(b)今存在する子供に弟妹を与えるため、(c)家族、部族、民族、種族を大きくするため、(d)何の理由もない、という場合よりはるかに良い。これらは、他人を手段として扱ってはならないというカンティアンの命題によりいっそう当てはまる。
これは二次創作界隈で性根を拗らせてしまった、文字書きの独り言だ。
個人サイトから幾星霜、TwitterやPixivなんかで手軽に作品を投稿できるようになった昨今、規模の大小はあれどどのジャンルも二次創作は盛んであると言えるだろう。
そんな中で私も、細々と小説を書いていた。身の内を焦がす推しCPへの熱を昇華したくて、欲望のままに書き連ねていた。
最初は本当にそれだけだった。
ただ、自己評価の捻じれまくった私には、「評価が見える」という環境が苦しくて仕方がなかった。
二次創作において、小説は決して絵より評価されない。誰だって視覚的に直接訴えかけられる絵の方が、いとも容易く拡散されて評価される。
分かっていた。そんなことは分かっていたのだけれど、それでも辛いものは辛いのだ。
私には絵が描けない。描けるようになりたいと練習したこともかつてはあったけど、自分の下手な絵が見るに耐えなくて続かなかった。
才能に恵まれなかった、と言ってしまえば聞こえはいいが、つまりは向いていなかったのだ。
そんな劣等感と嫉妬を抱えた私は、絵の描ける人間が羨ましくて仕方がなかった。
具体的に指し示すことなどしないけれど、私は今いわゆる「流行り」に相当するジャンルに身を置いている。
ただしCPは少しマイナーで、Pixivでもページ数は片手で足りるほどしかない。
それでも萌えが留まることを知らなくて、それこそ検索で数人しか呟いている人がいない頃からひっそりと書いていた。理由は、書きたかったから。
Twitterとは便利なもので、いつの間にか同じCPを推す人たちが増えていた。
相も変わらず逆の方が多かったけれど、それでも同好の士が増えて嬉しかった。
しかし悲しいかな、やはり小説しか書けない人間に人権はなかったのだ。
同好の人たちは、皆絵が描ける人たちばかりだった。絵で摂取する推しCPは本当に素晴らしくて、見ていて幸せだった。
だけど、私の中のどす黒い感情は抑えることが出来なかった。
一番の理由は、その人たちが絵だけでなく小説も投稿する人たちだったからだと思う。
言い方は悪いが、絵が描けるくせに、何故小説を書くのだろう。そう思えて仕方がなかった。
彼女らは、その絵を気に入った沢山のファンがいる。小説しか書けない奴とは、影響力が違うのだ。
そういう人たちが書いた小説は、専業の文字書きよりたくさんの評価をもらえる。
何故なら、絵が描けるから。
推しCPに落ちたきっかけを話すタグが流れてきたことがあった。同好の士たちは、楽しそうにきっかけを話していた。
「○○さんの絵を見て」
「きっかけは○○さんで」
当然、挙がるのは絵が描ける人たちの名前ばかりだ。文字書きの名前など言及されるはずもなく。
見えたと思えば、「○○さんので落ちて、△△さんから供給をもらって」、だとかそんな感じで。
そんなマシュマロから始まったいつかの論争には、たくさんの擁護意見があった。
それらもかなりバズっていたから、「小説は必要だ」と思う人もたくさんいるのだろう。
そんなことは分かっている。分かっているけれど、事実としてただの文字書きは評価されないという現実はここにある。
立てた3本の指はW、丸を作る指はP。
ネットの片隅で語られたでっち上げは、悪ノリによって拡散され、いつしか真実となる。
そのサインは、白人至上主義への支持を表明するシンボルとなった。
ある高校では、卒業アルバムにOKサインで写る写真が含まれていることが問題となり、アルバムを作り直した。
あるテーマパークでは、着ぐるみ姿でOKサインをしたことで、演者は解雇された。
競合企業や対立陣営に差別主義者のレッテルを貼りたい企業や政治家。
幾多の人々の思惑によって、「配慮を要する象徴・単語の一覧表」は、肥え太っていった。
3600ページのPDFが公表された頃はまだ良い方で、やがて、誰にもそのリストの全貌を把握することはできなくなった。
マッシュルームカットは公然わいせつと白人至上主義の象徴となり、
「白」「黒」「黄色」は単語自体が人種差別主義者の象徴となった。
街やネットからロゴは消え、色彩も消え、話せる単語も制限されていく中、人々はどこかおかしいと感じていたが、声を上げると差別主義者だと糾弾された。
差別判定・糾弾機関は、軍産複合体を経て、超巨大な国際機関と化しており、人類の誰もが、多かれ少なかれ利害関係を持っていた。
もはや、「反差別」の推進と拡大は誰にも止められなかった。
やがて、事態は、印欧語族に属する言語全てが、差別主義者の象徴とされるに至る。
反発する「差別主義者」と「反差別主義者」との間で核戦争が起き、人類は滅亡した。
『万歳三唱令』(ばんざいさんしょうれい、萬歳三唱令)は、1990年代の日本で、「万歳三唱の作法を定めた太政官布告」と称して
出回った偽文書。創作者の素性や動機、文書拡散の経緯が判明した数少ない偽書の例である。
『万歳三唱令』には、明治12年(1879年)4月1日施行の「太政官布告第168号」という趣旨の表記がされており、一見本物のように
一部には、その存在を信じた者の発案による実施例も存在し、特に復古主義的団体による実施例や紹介が見られる。
『万歳三唱令』に定められている万歳の作法は「両手を真上に挙げると同時に右足を半歩踏み出す」という一般的でないものと
なっており、布告日が書かれていないにも関わらず、番号が打たれている。
実施要領
1.直立不動で両手は指をまっすぐ下方に伸ばし体の側面にしっかり付ける。
2.万歳の発声とともに右足を半歩踏み出し、同時に両腕を垂直に高々と挙げる。
その際、両手の指をまっすぐに伸ばし両掌を内側に向けておく。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E6%AD%B3%E4%B8%89%E5%94%B1%E4%BB%A4
もう活動歴は10年以上、pixivやTwitterのフォロワー数は4ケタ
決して上手くはないけど下手でもない
素人としては充分だと思うし、自分でも満足のいく絵が描けてるのでそれはいい
悩んでるのは、界隈の神絵師たちにことごとく嫌われることだ
これは例だが、自分がたまたま単発で限定キャラのレアを引いたとツイートしたほんの数秒後に神絵師が「10マン注ぎ込んでも限定キャラ出ない…」といったツイートをする
このせいで、暗に自慢していると誤解させたり悪口を言っている状態になり、向こうの被害妄想からブロックされるということが実際に何度もあった
その人たちはかなり影響力が大きい絵師で、仲が良かったころは自分の作品を過剰なほどに誉め倒していた
だが、ブロック後は逆にあることないこと自分の悪口を言いふらしているので自分のジャンル内での心証が悪くなってしまった
その人との元共通フォロワーは、その人に気を遣って自分の作品をいいねはしても絶対にRTしなくなってしまった
次に、身内がよく炎上する
元々炎上商法をやってるような人間ばかりが身内にいるのではない
それまでは真面目にコツコツ同人活動をしていた人間なのに、なぜか急に豹変してしまう
本当に何もしていないのに、炎上主と仲がいいというだけで批判対象になってしまった
これが一度や二度ならまだしも、行く先々のジャンルでそうなるのでタチが悪い
そう簡単に見捨てたり切ったり出来るわけない
だからいつも界隈の心証よりも友達を選ぶわけだが、正直「またか…」という思いは拭えない
だが、例えば、その神絵師が同性愛表現が好みだと、それが苦手な自分はどうしてもその神絵師をフォローできない
それでフォロバをしないでいると、相手がかなりの確率で怒るのだ
あの人はお高く止まってるから
とか
決してそういうのではなく、苦手なものは苦手なだけでそれ以外は嫌いでもなんでもないのに
その繰り返しで、絵師にはほぼ無視され、最近は読み手にまで異様な空気が伝わり、お触り禁止の人と化した
Twitterは鍵垢でもないのにRT0の300いいねみたいな謎の同調圧力に苛まれ拡散はされず
でも通販はいつもランキング上位で、お題箱には大量の「こっそり応援しています」のメッセージ
自分は一体なんなんだ?
そこまで人に隠れて愛でないといけない人物なのか?
一時期は相当思い詰めていた
この前初めて会ってくれた人が
「性格悪いって風の噂に聞いてビビってたけど全然いい人で安心しました」
ファンだからどうしても会ってみたかったと言われて、ありがたすぎて帰り道涙が出た
有難いことに、まだ一ヶ月しか経ってないがかつてのフォロワーに迫るフォローを頂いている
中身は自分なのでやはりRTは殆どされないが、前よりは気が楽だ
本当は他の神絵師同様、アフターや休日にどこかに遊びに行ってスケブ交換してみたかったけど、そういう星の元には生まれてないようなので諦めた
自分の人物像を勝手に作り上げず、向き合って仲良くしてくれる友達を大切にしたい
例え炎上した過去があったとしてもいいところをたくさん知っている友達と付き合い続けたい
こっそりでもいいと思ったらいいねしてくれる人のことを心の支えにしたい
絵を描くのが好きだし、このジャンルが好きだ
多分自分は、実力以上に運がない
けれど、それは悪いことじゃなくて、自分にとっては大切なことなのかもしれない
きっとね
そう思わないとやってられない
負け惜しみです
でも
もういいかな
運がないなら実力をつけるしかない
きっとそのとき、初めて溜飲が下がる気がする
運も実力のうち
つまり運がないなら実力もまだないってわけで
それなら前向きに頑張ろっと
おわり
(わかりやすく事象を説明するため、そして、個人特定を防ぐため、少々事実とは異なる記述をしています。もしコメント等頂いてもその部分への言及はスルーする可能性があるのでご了承下さい)
S担当Pです
同じようなことを思っている人に出会えて少し心が救われています
文章読んでて「わかるわ」連発した
CさんがS担当というのは後日知ったんだけど、それでもモヤモヤが消えない
Sというアイドルは強烈にぶっ飛んだ個性とかアイテムを持っていないから、正直言うと彼女について描かれたキャラソンでも何も知らない人にとっては無難なありふれたものに聞こえると思う
Sの性格や背景を知ったら「そうだよねSはそういう子だよね」と楽しめて、でも知らない人も「良い曲だね」と思えちゃうような曲
Sのキャラソンの歌詞はP(やファン)に向けた感謝の言葉が散りばめられているんだけど、それをそのまま歌ったCさんにファンが「こちらこそありがとう!」みたいな感想返してるのもしんどかった
Vとデレマスだったらデレマスの方が規模は大きいのは分かるけど、それでもSのキャラソンを初めて聞いた人に「Cさんの曲だ」とか思われたらどうしようとか、どうしようもないことを考えてる
ホワイトベリーの夏休みを聞いたジッタリンジンのファンもこんな気持ちだったのかな
あとこれはすごくゲスな話なんですけど、少なからずS担当の拡散力を利用しようと思ったのかなと見ている
Sの名前、愛称、所属グループが書かれたツイートは発見次第即いいねリツイートするから、例えフォロワー数1桁のツイッタラーであってもS関係のツイートは高インプレッション稼ぐことになる
(「S可愛いかも」みたいな独り言すら補足されるから暇な人は呟いてみるといい)
で、彼らはもちろんS担当以外のツイッタラーとも繋がってるから、拡散力が必要なVtuberなんかはS関連を狙い撃ちするだけで割とお得
皆さんすごく大らかだから、Cさんを知らない人も今回の歌ってみたに好意的な反応
総選挙にランクインすらしてなかった頃に比べたらキャラソンがカバーされるなんていうのはSが有名になった証拠なんだからって喜ぶべきなのかな
あーーーでもやっぱそんな大きな心持てないや
言及先の>>「エモーション」のための餌にされるのが、死ぬほど嫌だったのだ<<というのが本当それ
Sを、Sの曲やそれに関わった人たちをもっと大事にしてほしかった
私もまとまらないけど同じこと感じた人がいるってそれだけで少しだけ救われた(2回目)
これからもSのことは大好きです
クソ笑った
こういうキチガイがウロウロしてる世の中の方が絶対刺激的で楽しいよな
海外のキチガイの動画はいっぱいあるけど、やっぱり自分と同じような見た目の奴が暴れてるほうが楽しく見れる
これからどんどん「無敵の人」が現れて、スマホで撮られて、ネットで拡散されると思うと生きる希望が湧いてくるわ
良い時代だよな
昔フェミ界隈にいちいち反論するタイプの女性をフォローしていた。
私は男に頭ポンポンされるの好きだけどなーとか、AEDとか痴漢が逃げて死んだのは無実で被害者のしかけた冤罪だとかテロ元自衛官は実は妻子の被害者とか、男が捏造拡散する系統の男は被害者ツイートはほぼリツしてきた。
見てたら家計折半共働きなのに家の事を力仕事含めて何もしない夫に酷く苦労させられて、何もかも自分に負担がかかる事に疲れている九州の女性のようだった。
でも頼んだらやる事もたまにある程度の些細な良い所に目を向けて前向きに頑張っていこうとしていた。
男を甘く見て甘やかす女はろくな男捕まえられねぇなと思った。
現在元ブログもTwitterアカウントも削除されはしたが大きく拡散された件の記事で思う所があったので書く。
書き込んだ自称大手ゲーム会社プロデューサーは問題外として、その記事への反応の仕方で大きく評価が別れた。
文句なしで満点であったのは何も反応しなかった者たち。そして範囲を明確にし否定した者たち。
主な拡散元になったであろうツイートとそれにぶら下がったいかにも自分は知ってますが何も言いません、一部は合っているなどの反応をした者たちは最悪だった。
内輪ネタで面白がるための発言であったのだろうが、ネガティブの塊のあの記事で一部は合っているなど少し考えればいかに危険な発言であるかはわかるだろう。
ゲーム業界には自称ネットリテラシー高いですよムーブをしている人間は多いが、公開された場所で何も知らないユーザーが見る事が出来ることを忘れないでほしい。
身内のレスキューが亡くなった方が、Twitterで災害時危険行動をするな、インスタ映えで災害現場を撮影に行くなと呟いていた。
Twitterでも大量の災害写真や動画がアップされているのに何故インスタに限ったのか。
インスタがどうなのか知らないが、ニュースで流れる災害動画がほぼTwitterで見た物なのを考えると、災害を撮影して流すのが一番多いSNSはTwitterなのでは無かろうか。
今回も端から「公的空間」だとか「性的消費」だとか決め付けている人がいるが、ちょっと待って欲しい。
それを理解していない相手のことを思考停止だフェミだオタクだお気持ちだとレッテルを貼るので、
不幸である。
「指定公共機関」でもある「民間企業」の赤十字社で使われたポスターが「性的」で
まず、日本では性的だとされている「女性の乳首」だって、世界各国地域ごとに考えが違うのだ。
異性愛者や同性愛者、無性愛者や動物性愛者(冗談じゃないよ)も存在し、
それぞれに趣味嗜好や価値観もちがうなかで、実は「性的基準」を設けるということが難しいのはわかると思う。
さらにその中で、ポスターなどの表現された「結果だけ」を問題視する人もいれば
このように、「一般に見せても許される性的の範囲」と「許されない性的の範囲」が人によってかなり違う、という前提の確認が必要だ。
そんなものに議論の余地はない、という態度の人は多様性を理解する気がないのだから、
そもそも話に加わるべきではない。
これも「官製」なのか「一般に開放された空間」なのかでも意味が変わるので難しい。
「災害対策基本法により規定されるカテゴリで、災害時に官民が一体となった取組の強化を図るためのカテゴリ」らしい。
この前までエッチな漫画を売っていた「あのコンビニ」も含まれているのだ。
イオン内にだって書店はあるし、当然「宇崎ちゃん」も売っているだろうし、なんならポスターも貼ってあるかもしれない。
献血ルームはお菓子や食品を提供していたり、カフェ風だったり、漫画を置いていたり、内装や形態もかなり自由だ。
清潔感は重要だろうが、アットホームであること、気軽に利用できる気安さを重視する利用者もいる。
狭義では、「青少年保護育成条例」(条例なので、都道府県ごとに呼び名も内容も違う)に基づく区分陳列をさす。
エロの話題になるとすぐ「暖簾の向こうに置け」などという人がいるが、
もちろん、自治体によっては区分の方法が違うので、暖簾の向こうに置かなくてもいい県もある。
広義では、まあ「棚を分ける」とか「売り場を離す」とかそういうことか。
今回の場合は当然後者の話だが、なかには前者の前提でポスターを撤去しろと主張する人もいて驚いた。
今回の件はだめだけど、「コミケでの配布ポスターとしてならあり」「秋葉原や池袋の献血ルームで貼るならあり」という人もいた。
こういった切り分けをして一々考える必要があるのだ。
以上のように、ネットの議論では「当然共通認識があると思っていた言葉」が、
実はそうじゃないことも多いのである。
そういう時は要素を分け、ひとつひとつ自分のスタンスを確認してみるのが確実だ。
さらに「これがいい/だめなら他の表現はどうなるか」という他の具体例まで考えを広げてみれば、また新たな発見があるかもしれない。
そういうメッセージが全く含まれていない、と主張するつもりはない。だがそのような部分はごく僅かだろう。
そのメッセージが、誰の目にも触れる可能性のある、公共の場で、日本赤十字によって、発信されている。
これがアニメイトなら、アニメ好きだけが見るので、まだ良かった。
Twitterだけのキャンペーンなら、アニメクラスタの間だけで拡散されるので、まだ良かった。
やってるのが、雅子さまが名誉総裁を務めておられる日本赤十字ではなく、一般企業や個人なら、また意味が違ってきた。
揃うと、どうなるか。
そのメッセージがある空間、そしてそのメッセージが許される社会で、「すべての人には人権があり、その人の体は、その人だけのものである」という意識を、みんなに持ってもらうのが難しくなる。
『宇崎ちゃんだけでなく、他の広告も美少女の胸や尻を強調した絵や、グラビアアイドルが体を強調した写真ばかり使っている社会』だったら、もしかしたらそうなるかもしれない。だが、現実はそうではない。
あるいは、『他は風景などを利用した広告ばかりでも、赤十字の宇崎ちゃんポスターが1つあるだけで、そのような強力なメッセージを発信してしまう』のか? それも違うだろ? どれだけ要素が揃っていようが、ポスター1つにそんな影響力はない。
現実には、男性の性的魅力を押し出すような女性向けポスターもある。あるいは性的な要素を組み込まないように注意したポスターもある。
宇崎ちゃんのポスター1つでどれだけ『「その人の体は、その人だけのものである」という意識を、みんなに持ってもらうのが難しくなる』のかというと、影響は全く無いか、ごく少量でしかない。
また、そのような意識に影響を与え得るものは、何も公共機関の広告だけではない。家族や友達や先生の影響、男性向け雑誌のの広告、本や雑誌の記事などなど計り知れない。
厳密な測定をするならば、平行世界を観測できるようになり、『宇崎ちゃんのポスターが問題なく採用された世界線』と『採用されなかった世界線』を比較するしか無いだろうが…
ともかく、そのような意識を問題だと言うならば、むしろ自己決定権などに関する教育を重視することの方が遥かに重要度が高く、ポスター批判など木を見て森を見ない行為でしかない。
〈追記〉
はなから完璧な文章を書く気などなかった(一般人の匿名ブログにそんな義務もないし)ので、このあたりは反論されるだろうなと思ったところがやっぱり突っ込まれており、興味深く読ませてもらっている。
ただ、ここまで「ひとりの人間として尊重する」ことが大切だって訴えているのに、「頭悪い」とか「病院行け」とか「バカ○○」とか言う人が出てくるのは何故なのか、考えても仕方がないのだが不思議に思ってしまう。
誰かの意見に反対するときは、その人を罵倒しなくてはいけないというルールでもあるのだろうか?
冷静に突っ込んでくれている人はありがとう。もっと勉強します。
〈/ここまで〉
それは、女性は誰かの目を楽しませるために存在するのではないから。
性的な目で見る、という言い方が曖昧なので分かりにくいんだけど、「誰かのことを見て性的な満足感を得ること」とする。
「おっぱいの大きな女がいたらどうしても目で追ってしまう。それは本能だ。どうしようもない。そういう生き物だから。それを禁止されたら、恋愛だって始まらないし、子どもも作れない、人間は滅びてしまうじゃないか」
と言う人がいるかもしれないが、それは違う。
・女性の体を見て楽しむことは”禁じられていない”。
この2つは矛盾しない。
男も女も、ホームレスも総理大臣も、誰にでも与えられている権利がある。
これを人権という。
人権は、人に、その人の身体を、その人のためだけのものとすることを認める。
だから不当に拘束されたり、傷つけられたりすることは、人権を損なうことであり、認められない。
その人権の中には、
や、
や、
などが含まれる。
「女性を性的な目で見る」行為は、女性のこのへんの権利を侵害している。
女性を、尊重されるべきひとりの人間として扱っていないことになる。
というわけで、
「おっぱいの大きい女をどうしても目で追ってしまう」→してはいけない。してしまったら、してはいけなかったな、これ以上見るのをやめよう、と思うべき。
「恋愛も始まらない」→女性を触ったりじろじろ見たりしてはいけないのは『許可なく』そうしたとき。女性は、そうされて構わないと思えばそれを許す。あなたがそれをしても人権侵害にならない。嫌だと思ったら断る。あなたがそれをすると人権侵害になる。
大切なのは『それを女性が良しとしているかどうか』。それを決める権利はすべて女性本人にあり、女性は誰にもおもねることなくそれを決められる。
「実在の女性を性的に見て楽しむこと」と「性的なイメージを見て楽しむこと」は違う。
「①日本赤十字が」「②公共の場、誰の目にも入りうる場所で」「③女性を性的に描いてきた歴史のあるアニメ漫画的イメージを使って」「④公共性の高い事業のプロモーションをした」から、問題になっている。
①誰が言うか
メッセージというのは、誰が言うかでその意味が変わってくる。隣の家のおばちゃんが言うのと、小泉進次郎氏が言うのとでは、その重みや社会への影響力が異なる。だから、何かが発言されるとき、それが誰のものかということは重要である。
②どこで言うか
同じ小泉進次郎氏の発言でも、どこで言うかで、意味や影響が異なる。小泉進次郎氏は、たとえば「石油でトイレ流したいな〜」とテレビの前で言うとヤバイが、クリステルだけにそっと打ち明けるぶんには問題ない。誰に届けようとしているか。発言された場所を見ればそれが分かる。
③何を使って言うか
メッセージを伝える手段はいろいろある。いろいろあるので、伝えたい内容を効果的に伝えるのはとても難しい。ときには、意図しないメッセージが伝わってしまうことがある。見る人が多く、発言者に社会的な責任が多くあるほど、その内容は慎重にならなくてはいけない。たくさんの人が見るほど、その解釈も多様になってくるからだ。
④何を言うか
一見、これがもっとも大切であり、①②③はそこまで重要ではないように思われるが、それは誤りだ。何かを伝えようとするとき、これらの事項は絶対にセット商品として扱われるべきだ。たとえば、何を言っているかだけを見て、その行為を判断することはできない。誰が言っているか、どこで言われているか、どのように言われているか、それらをひっくるめて考える必要がある。
「萌え絵」とは、エロゲーをルーツに持ち、人間の身体的な特徴をディフォルメし、大げさに描くことで、独特の雰囲気を持つイラスト、とここでは定義する。
そして、そのディフォルメの目的は明らかに、身体を魅力的に描くことであり、さらには、それを見る人の目を楽しませ、性的な興奮を呼び起こさせることである。
「萌え絵」は禁じられていない。
「萌え絵」を見て楽しむことも、禁じられていない。
「萌え絵」を買ったり所持することも、禁じられていない。
理由はいろいろあるが、ひとつは確実に、児童ポルノなどと異なり、「そうすることで、誰の人権も侵害されていないから」だ。
しかし、その、③「身体をディフォルメして魅力的に描いて」、「人の目を性的に楽しませる」という趣旨のイラストを使って、
①日本赤十字が
したら、どうだろうか?
その行為そのものは、禁じられてはいない。現に日赤はポスターを撤去してもないし、謝罪もない。そして、する”義務”もない。
しかし、この4つの要素があわさったとき、そこから発せられるメッセージは本当に、
ということだけだろうか?
もちろん発信者はそのつもりだったに違いない。
ここまで読んでくださったみなさんには、きっと分かってくださることと思うが、メッセージはときに、発信者の意図しない隠れたメッセージを伝えてしまう。
そして、そのメッセージによって、傷ついたり、安全を脅かされたりする人がいることを、発信者は常に意識する必要がある。
つまり、ここで伝わってしまう恐れのある、発信者の意図しない、隠れたメッセージとは、
「女性の体は、目で見て楽しむためのものである」というメッセージである。
そのメッセージが、誰の目にも触れる可能性のある、公共の場で、日本赤十字によって、発信されている。
これがアニメイトなら、アニメ好きだけが見るので、まだ良かった。
Twitterだけのキャンペーンなら、アニメクラスタの間だけで拡散されるので、まだ良かった。
やってるのが、雅子さまが名誉総裁を務めておられる日本赤十字ではなく、一般企業や個人なら、また意味が違ってきた。
揃うと、どうなるか。
そのメッセージがある空間、そしてそのメッセージが許される社会で、「すべての人には人権があり、その人の体は、その人だけのものである」という意識を、みんなに持ってもらうのが難しくなる。
自分の体を、許可なく性的な目で見られたくない人は、その社会では安心して生活できなくなる。
ポスターによって、直接傷つけられたり、悲しい思いをしたり、個人として尊重されないような事態は、発生しない。
しかし、そういう社会づくり、人権の守られない、安心して暮らせない社会づくりに、確実に貢献してしまっているのである。
目に見えて血を流す人がいないから、その表現には問題がないと考えるのは、あまりに短絡的だ。
数字として出ない、影響がわかりやすく見えないことだからこそ、慎重になる必要がある。
「宇崎ちゃんがセクシャルな意味合いを含む萌え絵で、献血ポスターにふさわしくないことは、甘んじて認めよう。では、同じまどかマギカでも、マミさんはダメで杏子なら良いのか?」
これは本当に難しい。胸がこのくらいくっきり描かれていたらアウト、とか、このくらい頬が染まって困り眉をしていたらアウト、などと線引きをすることはできない。
では、どうしたらいいんだろう?
議論をしたらいい。公共の場は、どうしたらみんなが安心して過ごせる場所になるか。萌え絵が好きなオタクは、どこに行けば誰の尊厳も傷つけず、自由に萌えを叫べるのか。ボランティアによってなされる献血の尊さや、明日にはあなたが献血に救われるかもしれないことを、まっすぐに伝える広告とはどのようなものか。
声をあげよう。間違っていてもいい。いっしょに考えよう。自分と違う意見の人を、クソなんとかとか、バカなんとかと貶めるのをやめて、同じ社会に暮らす自分と違った考え方のひとりの人間と認めよう。相手の顔が見えないインターネットでは難しいかもしれない。それでもインターネットだからこそ時と空間を超えたフラットな対話が可能なはずだ。
話し合おう。萌え絵が好きな人にも、ロリコンにもショタコンにも腐女子にも進次郎にも、あなたにも人権がある。人権の概念は、まだこの社会に浸透しているとは言えない。あなたにもきっとあるはずだ。こんなことをされたくないとか、自分を大切にしたいとか、悔しく思ったことが。そんな思いをしなくてもいい社会を、次の世代にプレゼントしよう。
別に自分は賛否とか正直どうでもいいが、もうなんか面倒なので適当な代案を出したい。
あれだ、昔に重い税金や兵役という意味の血税を、血を取る税金だと誤解したために起きた(とされる)血税一揆ってのがありましたが。
これを誤解でなく、マジで血を取るタイプの税制法案とか出してみりゃ良いんじゃないですかね?
実際に血を強制徴収するわけにはいかんので、その年に献血をすると控除額が増えるという形式のをね。健康に関わるんで、
……いやマジで。これならオタクとか関係なく、マジで献血してくれる人がガンガン増えると思うんですよね。
しかも献血しようと思ったら健康体にならざるを得ないんで、結果的に健康意識が芽生える。人命救助に役立ってる意識も芽生えるから、自己肯定感や社会意識にも繋がる。
割と真面目に万々歳じゃないですかね?
これを政治家が選挙公約にポツンと1人だけ盛り込めばオタク好きオタク嫌いの両方どころか、今回の消費税増税で節税意識が強まってる国民全体に大ウケ。勝ち確っすわ。
献血ポスターのイラスト問題が、連日タイムラインを賑わせている。私のタイムラインでは大元のツイートは流れてこなかったが、オタクがオタクの献血を賞賛し、"環境セクハラ"をこき下ろすツイートがちらほら見られた。シンプルによくわからん、と思った。私自身もオタクだから人のことを言えないのかもしれないが、オタク、オタクを賞賛するのが好きすぎる。献血は確かにえらいが、そんなに過剰にオタクだけ褒めそやすのはどうなのか?それにセクハラは色々な問題を抜きにしてもまず透明化したらダメなのでは?とさまざまな思いが巡り、このオタク献血賞賛ムーヴがどこから来たものなのか調べることにした。
先に結論を述べておくと、「二つの議論を一緒くたにして考えるからダメなのだ」である。
この一文だけで察してくださる方もたくさんいることだろう。そんな方にとっては、以下の文章にさして内容はないと思う。煮るなり焼くなり好きにしていただきたい。
さて、今回の件の発端となったのは、恐らく弁護士のこの方による引用リツイート。
https://twitter.com/katepanda2/status/1183729350207623169?s=21
渦中のポスターは、漫画「宇崎ちゃんは遊びたい!」のヒロイン、宇崎花ちゃんと献血のコラボキャンペーンポスターである。
『文字通り絵に描いたような爆乳で困り眉の女の子が、挑発するような台詞・表情で』献血を促している。
多分、弁護士の方がここで問題にしたいのは『』の部分だけだ。献血を促すこと自体に文句を言っているわけではない。ポスターに採用されたキャラクターの造形に問題があるという話で、漫画・アニメ作品が採用されることに不服があるわけではない、と思いたい。このていで話を進める。
話は変わるが、Twitterランドはスラム街である。日々クソデカ主語や極右極左、クソリプパクツイデマツイお気持ちマシュマロと戦うオタク諸君はこのあたりよくご存知のことであろう。こんな環境で、果たしてまともな議論ができるだろうか?できるわけないのである。揚げ足取りは腐るほどいるし、文脈が読めないまま発言の一部のツイートだけが一人歩きしたり、過激な思想を持った影響力の強い人々が発信する偏った意見が多くのRT・いいねを獲得していたりするのだから。一つの議論をまともに話そうというのがそもそも無理な話だ。
ここで話を戻そう。
先のツイートは、一見すると問題提起に見えなくもない。いや、そのつもりがあってしているのかもしれない。この弁護士さんはフェミニストの方々の間では有名な方だと聞いた。だとしたらこの方の主張は、『環境型セクハラに配慮しないポスターを貼るのは無責任だが、日本の環境は麻痺していてそれを問題にする人もいない』であろうと思う。
環境型セクハラと言っているもののそもそも微妙に意味が違う気がする(気になったら各自調べてください)のだが、今回のを要約すると"生きているだけで目に(女性が客体である)性的なイラストが目に入ってくる"というところだろう。
私はこの主張にのみ関して言えば、議論されるべき問題であると思っている。女性身体の過度な客体化とアニメ文化が密に結びついた日本では、驚くほど性的アイコンが強調されたイラストがそこら中にあふれている。性的アイコンは巨乳とか服の上からでも分かるマン筋とか、困り眉赤面涙目とか、濡れてんのか?みたいなピタピタの服によるわかりやすいボディラインとかそういうものである。生きていれば上述のアイコンの何かしらを目にしたことがあるだろう。それこそ都会ならば場所や時を選ばず、どこにいても見られる。コンビニのエロ本撤去が少し前に話題になったが、あの区画に限らず様々な場所にあの手のイラストや漫画があふれているのだ。意識して見てみるとわかるが、そのイラストに感じる独特の「気持ち悪さ」はよっぽど理解がないと感じ取れないかもしれない。それだけ、この国の女性客体化思想は深く深く根付いてしまっている。
とまあこんな具合に、この問題は一朝一夕140字ちょっとでは到底語りきれない深刻な問題なのである。そして悲しいかな、今回の件について、この文脈で議論を展開している人はあまり見られない。
「萌えアニメのキャラを献血ポスターに使うのの何が悪いのか?」
「セクハラだかなんだか知らんが献血量が減ってないならなんの問題もないし知ったこっちゃない」
「我々はオタクの献血で命を救われた。オタクが献血に行くことのなにが悪いのか」
こんなもんである。そもそも論点がズレていることに、一体この話題に参加したオタクの何人が気づいているのか。指摘しているツイートも少なからずあったが、そちらはバズらずじまい。なぜだろう。原因はわからない。
そもそもこの問題の要点は『性的アイコンが強調されたポスターはセクハラだ』であり、『オタクが悪い』『アニメキャラ(クソデカ主語)はポスターに相応しくない』とは誰も言っていない。誰も言っていないのに、勝手にオタクの好きなものが批判された、こき下ろされた、エログレーゾーンのアニメキャライラストを全て規制しろということか、表現の不自由だと逆ギレしているのである。
何故?これもわからない。表現の自由が誰かを不快にするのを厭わず行われるべきだというのなら、なぜ「表現の不自由展」はあんなにバッシングを受けたのか。人に不快感を与えるという点でそこに上も下もないと思うのだが。
結局日本は右寄り日本人男性の視点優先の社会構造が浸透しすぎており、女性の視点や気持ちはほぼ透明化されているということなのであろうが、このあたりは話しだすと論文一本じゃすまないので今回は割愛しておく。右寄り日本人男性というカテゴリーも微妙なところだ。男性というだけで生きやすい国なのだ、ここは。
一方で、もし発端の弁護士の方にアニメキャラ全般をこき下ろす意図があるとするならば、それはそれで問題である。過度なミサンドリーという点でもそうだが、このご時世、アニメイラストというだけで拒絶反応を示していてはキリがないし、正当なフェミニズム思想や反論の材料にならない。アニメイラストが不快、というだけでは「個人の問題」になってしまうのだ。とにもかくにも、今回の件は議論にするには材料や前提となる問題提起の部分が弱すぎた。
長々書いたが結局のところ、今回の騒動は
①性的アイコンが強調されたキャラのポスターが誰にでも見えるところにあるのは不快だしハラスメント
②ポスターにアニメキャラが採用されることはなんの問題もなく、それを規制することは表現の自由の侵害である
という二つの問題がごっちゃになったまま拡散され、憤るオタクたちが様々なツイートをし、歪みに歪んで広まったというわけである。繰り返すが、誰もオタクがダメともオタクの血が不快とも言っていない。だから「女は献血への貢献度が低いくせにごちゃごちゃ言うべきではない」とか、「巨根男性がポスターについてたら男は嫌だろ?」とかはまた全然別の議論を立て直さなくてはいけないのだと思う。このあたりはミソジニーとミサンドリーが混ざりすぎて本来の目的を失っているようにも見える。個人の快・不快ではなく、議論はフラットな目線で行いたいものだ。私自身それができているか甚だ不安ではあるが、特大スラム街・Twitterにいるともう何が何だかわからない。そしてその辺りを踏まえて、発端の方のツイートが個人の快・不快に帰結するものかどうかについても、議論すべきかもしれない。私は社会全体の問題だと思うけれど。
ついでに今回の問題をこねくり回したツイッターの人々を十把一絡げに「オタク」と言ってしまったが、これも本来良くない話だ。まさにクソデカ主語。目につくツイッタラーが皆オタクに見えてしまうのは、ツイ歴五年になるクソオタクこと私の決定的に良くない点である。反省。
さて、散々色々とりとめなく書いたので、このあたりで渦中のポスターのメインキャラについてもひとこと。
失礼ながらタイトルも知らなかったのだが、「宇崎ちゃんは遊びたい!」はTwitter発の漫画作品らしい。現在はニコニコ静画などで連載しており、コミックスも三巻まで出ているようだ。以下あらすじ。
一人でいることが好きな先輩を「ぼっち」扱いするウザい後輩が絡んでくるドタバタラブコメディ。非日常的な要素はなく、基本は主人公とヒロインを中心に大学での青春を描く。
ヒロインはショートカット、巨乳、八重歯、~ッス口調、アホの子というキャラクター性を持つ。ただし他の女友達と過ごす時や独白では標準語で話す。(Wikipediaより引用)
清々しいほど分かりやすくオタクの好きなやつである。私も好きである。属性は盛りすぎてもいけないが、あって悪いことは一つもない。かわいいことはいいことだ。こんな後輩欲しかった。いつか思う存分揉めると、その柔らかい触り心地を夢見て大学生活を送りたかった。
この宇崎花ちゃんは今回なにも悪くない。だから過剰に擁護すべきでも、過剰にディスる必要もそのいわれも全くない。じゃあ誰が悪くて、なにがいけなかったのか。今回の話はこのあたりが議論されるべき点だったと思う。そしてすでに意見を述べている人々は、反対意見の人々の意見も詳しく聞いてみるべきだ。
最後に、今回の件で一つ良かったことがあるとすれば、献血に興味を持つ人が少なからず増えた点ではないだろうか。結果的に宇崎ちゃんのポスターは本来の目的を大幅に逸れて拡散され、献血を広めることになった。そして宇崎ちゃんの読者もさらに増えたことだろう。よかったね。
献血は人類のために必要不可欠な活動であることはわかっているつもりだし、今更その重要性について語る必要はないだろう。ツイッタラー各位は特に、今回の件で献血に救われた人間の話をたくさん見たことと思う。私はウッキウキでカントリーマアムをもらいムシャムシャ食べながら献血を待っていたら、ヘモグロビンと鉄の量が足りず献血ルームから追い出されてしまったが、今後も献血をする人が増えるよう祈るばかりである。
情報を集めてそれを拡散し、優越感を得たいという欲求が必ずしも間違いとは言い切れない。
だが、役所の出している資料について意味が分からないと言い出す頭の持ち主ではいつの間にかに情報もデマになって逆に困る人もでてくるかもな。
飛行機はCO2を大量に排出するから良くないという「飛び恥」が欧米で流行してると報じられたが、現地ではさらに進んだ考え方として「生き恥」が広まっている。人は生きているとCO2を排出して地球に優しくないから死のうという運動だ。既に28人が「生き恥運動」で亡くなっている。実際に死んだ人はまだ少ないが環境保護団体「地球のための選択肢」によると自殺志願者は既に37564人もいるそうだ。環境保護団体はこの動きを賞賛していて積極的に死ぬよう市民に呼びかけている。自分たちは監督責任があるから最後に死ぬらしい。は?まあそんな訳で欧米では地球のために死ぬ素晴らしい人々が出てきている。だがある時一人の環境テロリストが気付いた。全人口に占めるヨーロッパ人の割合はそんなに多くない。自分たちが頑張ってもたかが知れてる。むしろそこそこ贅沢していて人口が多い中国や日本インド韓国の人口を半分に減らした方が効率的なのではないかと考えたのだ。すぐにこの意見は拡散されてヨーロッパの総意となった。かくしてアジア人半減作戦は実行に移され中国インド日本韓国をはじめとした大量排出国はもちろん今後大量排出国になるであろう発展途上国にも核兵器を撃ち込んだ。各国とも果敢に応戦し核ミサイルを撃ち落としたが残念ながら大量の核兵器がアジアを焼き尽くしアジア人は半減した。当然アジア各国はブチ切れた。すぐさま準備を整え中国、インド、北朝鮮、日本はヨーロッパに向けて核兵器を撃ち込んだ。日本は沖縄にあったやつを勝手に使った。環境テロリスト政権に支配されていたヨーロッパ各国は自分たちの崇高な理念のもとに行われた核攻撃をアジア人は絶対に受け入れてくれると勘違いしていたので全くの無防備であった。そのため全ての核兵器が撃墜されることなくヨーロッパ全土に降り注ぎヨーロッパ大陸から人が消えた。そして放射能汚染により人類は滅亡した。