はてなキーワード: 自由市場とは
はてなブックマークやTwitterなどで、「中立」「客観」と言った態度について批判的に論じるものをたびたび見かける。特に、差別や政治など、権力闘争の類で非対称性が存在するときによく使われるイメージがある。それらについて私なりに論点を整理してまとめ、コメントしようと思う。これらの論に親和的な人も、逆に批判的な人も読んでほしい。
まず、当たり前の話なのだが、何かを批判するときは通常複数の論点から批判できる。
例えば、社会民主主義は新自由主義の立場からすれば「市場が政府権力によってゆがめられ、効率的な資源分配が出来ない上に政府権力が不健全に増大する」と批判できるし、共産主義の立場からすれば「結局彼らは資本主義や自由市場と言った搾取を『多少マシ』にしている程度であって、本質的解決には役に立っていない。どころか、革命に向かう人々を減らすという点で有害ですらある」と批判できる。
これを見て、もし社民主義者の人が「アンチ社民主義者は矛盾している。市場原理主義みたいなことを言いながら、資本主義を否定している。彼らは矛盾している」と言うのがおかしいというのは分かるはずだ。あるいは、「新自由主義者は社民主義を批判している。これは共産主義者と同じだ。よって新自由主義者は共産主義者なんだ」もおかしいとわかるだろう。
インターネットではそれぞれの発言と発言主が結びつかず、なんとなく「自分の考えを非難する人」を全部同じカテゴリに放り込む処理をしてしまいがちだ。(なお、話をややこしくするのは本当に矛盾した意見を言うやつも一定数存在することだ)
そんなわけで、いわゆる「中立」「客観」批判者は皆「お気持ち」(ここでは、自分の快不快の問題をシームレスに社会的な問題につなげて、自分の感情に社会が従うべきだ的な発想を持っている人)の人たちだ、という雑な世界観を持っている人も多いが、ここで「中立」「客観」批判の理屈に触れて、「なるほど、こいつらはこういう理由でそういっているんだな。(自分は賛同できないにしても)まあ理屈は分かるな」と思ってくれれば幸いである。
これは厳密には『中立』『客観』を否定していない。どころか、不徹底な『中立』『客観』を批判し、本物の『中立』『客観』を目指そうとする方向性も見受けられる。
実際問題、はてなやTwitterでは、『中立』『客観』(それからこれと似ている『是々非々』など)を「右」と「左」(あるいは任意の対立する二大勢力)のどちらも全肯定/全否定しないことだと思っている感じがする人が複数見受けられる。まあ確かに、「右」のいう事を全肯定/全否定、とか、「左」のいう事を全肯定/全否定すると最初から決めてかかるのは紛れもなく党派的な姿勢であり、中立的でも客観的でもない。しかし、そもそも「右」がどうとか「左」がどうとか党派性を意識し、この二者のいう事には従わないぞ!みたいに決めてかかっているのは、全く同じではなかろうか。ようは、「中道」という第三の党派に過ぎない。そうではなく、中立や客観というものに自分は完璧に到達できないのだという事を自覚し、他人が中立的であるか客観的であるかは究極的にはジャッジできない(もちろん明らかにこいつ主観的に過ぎるやろみたいな人はいるけど、そう思っている私の方がおかしい可能性は否定できない)という事を踏まえなければ、「中立」「客観」という言葉は単なる党派性の御旗にしかならない。
これは実のところ、「正義の暴走」論とよく似ている話だ。正義の暴走を非難する人は正義が嫌いなのではなく(まあそういう人もいるが)正義のために正義の暴走は抑止した方がいいという話をしている。正義の暴走とは、やっている本人たちが勝手に正義と思っているだけで、実際には悪である、というロジックだ。同じように、「中立」「客観」の濫用を非難する人が「中立」「客観」を否定していないのも当たり前の話だ。彼らが否定しているのは「中立」「客観」を装った「党派性」「主観」だからだ。(面白いのが、「正義の暴走」論を持ち出す人の多くは「中立」「客観」の濫用の問題を考えず、「中立」「客観」を批判する人は「正義の暴走」論を持ち出されると不満を表出することが多い事である。両者はほぼ同じことを言っているのだが)
まあ、つまりこの批判は「お前は自分が客観的と思ってるかもしれないけど本当は違う(かも)しれないぞ!」というものである。個人に向けるときは喧嘩する気がなければ使わない方がいいとは思うが、一般論としては(特にわたしのような『中立』『客観』が大好きな人間ほど)よく頭に刻んでおいた方がいいと思う。
こちらは、『中立』『客観』的な態度を、ある一分野のみについてとはいえ明確に否定している(と私は思う)ので、論点①とは様子が違う。
まあ言っている事は正直分からなくもない。この手の人たちが良く比喩として使うように、「足で踏んでいる人と踏まれている人」の間で『中立』『客観』的な議論を成立させろ、というのは無茶である。差別されている人と、その差別をたとえ直接はしてはいなくても差別によって得られる利益を(その自覚なしに)享受している人の関係は、「足で踏んでいる人と踏まれている人」のそれよりはるかに複雑で見えづらいものがあるが、似たような関係性であるという事は、その是非は別として、可能ではあると思う。なので、倫理的な個人が差別問題について論じるときはその辺に気を付けて論じてもよい、論じた方が好ましいくらいのことは私も思う。
しかし、この考えを強い規範として言論空間に導入することに対しては私は警戒心を抱く。
「誰が加害者か」「誰が被害者か」「どこからどこまでが『差別問題』か」「どんな事実を適示すればそれが『被害者非難をあおっている』と言えるか」
これらをみんなが納得いくように定めるのは非常に難しい。間違った基準を定めてしまえば、例えば本来「被害者」である人たちを「加害者」として力づくで非難する事や、本来「加害者」である人たちの罪悪を「被害者」として覆い隠すこともありうる。「被害者」「加害者」の推定が正しかろうと、「被害者非難をあおっていると言える事実」と認定されたものがもし違えば、その事実は公論上での扱いが不当に小さくなりかねない。差別発言自体は言論の自由で守る価値はまったくないのだが、論点②の批判が拡大すると差別発言以外も巻き添えになるリスクがとんでもなく大きくなりそうである。そもそも一国の言論空間なんて政治勢力も右から左からワラワラ湧いてくる場所なんだから、うかつに基準を厳しくしたら、その基準が「万人」でも「マイノリティ」でもなく「特定の政治権力」の都合の良いようになってしまう可能性もある。一方で、剥き出しの、それこそ差別主義者やデマもなんでもござれの「言論の自由」が良いとも思えないし、「中立」を装って攻撃を誘発する人たちを何とかしたいという気持ちはあるので複雑なところである。
(ちなみに、個人としてこの観点から批判すること自体はどんどんやったらいい。問題なのはこの考えが強い規範になることである)
①②は曲がりなりにも論として成立しているが、③は論外である。これこそが「お気持ち」である。
これについて論じることは特にない。まあしいて言うならば、「個人的な感情の表明」自体は何ら悪ではないという事は付け加えておきたい。こういう風に、自分の感情だけで他人を思うままに動かす権利が自分にあると思っている人をまともに相手する必要がないというだけである。
①②③それぞれ、言う層が全然違ってくるということがイメージできるだろうか。
①は、左右問わずおそらくそれなりに頭のいい人、論理的な思考が好きな人が言うと思う。(ただし、論理的な思考が好きな人は左に行きやすいので、左が多い気はする)
②は、明確に左の中でも主張が強めの人が言うだろう。(なお、加害者と被害者の構造を、中国と日本あたりにすれば、右の主張強めの人たちも似たようなことを言っている)ここで重要なのは、彼らの主張は我々と大きく違うが、別に彼らは頭がいいわけでも悪いわけでもない。どちらかと言えば頭のいい人が多いと思う。
③の人は、多分単純に頭が悪い。左にも右にも真ん中にもこういう馬鹿は沢山いる。ただし、バカの中でもわざわざ自分はバカですとアピールしたがるインセンティブが強いのは右左の中でも過激な人たちだろう。
「お気持ちサヨクはバカ」みたいなことを言う人たちは、多分①②の理屈で「中立」「客観」を批判している人に左翼が多いという事と、③の人たちにバカが多い事を混同して、左翼=お気持ち=バカみたいな図式を作り上げているのではないかと思う。あと、「お気持ちサヨクはバカ」と言った同じ口で「リベラル(おそらくこの人はリベラルとサヨクをほぼ同義として使っているはず)は啓蒙思想を押し付けている」みたいなことを言っている人もいた。確かに②は啓蒙思想押し付けのダメな部分全開という感じで、③はバカである。たぶん構造としては②が③の人たちを率いて暴れまわっているという感じではなかろうか。まあそんな感じで、「中立」「客観」大好きな人たちも、③は論外として①②の理屈は普通にそれなりに通っているっていうことをちゃんと意識しよう。(まあ意識できてる人もいるだろうけど)
これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。
ただ、内田が、
「感情の器」って、あくまでも個人的な身体条件のようなものだから。
というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。
たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミスが道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会の規範を構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。
そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現を内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。
家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。
アレックス・カーが20年前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。
おりしも建設省に代表される特別会計の闇が浮き彫りになった時代。
アメリカの7倍のコンクリートを使って日本の山河をコンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。
その『犬と鬼』のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。
「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。
A・カーは、フェアプレイの精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者のトップが黒海に豪奢な別荘を保有し、人民は実質的に農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ明治の開国後、対外侵略に夢中になったかという精神性に触れてゆく。
「徳の逆説」は、身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司の説教がブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。そして気が付くと俺も親父と同じことを子供に、という連鎖。
最近、想起するのはやはり旧統一教会。家族の価値を高らかに謳いあげておきながら、その活動が原因で多くの家族が崩壊している、といった、「おまゆう」問題。崩壊させているがゆえにますます高まる家庭の価値、という悪循環。これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を規律しようとするときの動機付けのメカニズムなのだ。
内田と永井の議論のテーマのひとつである人権・平等。あたかも普遍的な原理についても、
それを概念として具体化して社会が取り込んだ過程を決して忘れてはならない。
アメリカの建国者の一人、トーマスジェファーソンは人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。
これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきだろう。
どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者の懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質が人民に備わっていると信じて建国者はデモクラシーを設計した。裁判を通じ、繰り返し憲法の価値観をテストする、という振り返りをビルトインした設計は本当に優れたものだ。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と財産権の矛盾が、南北戦争の北軍の正当性を決定的にする。
内田の議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要なキーワードを出している。それは他方で外付け実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。
「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。
これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも親は関係ないかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。
内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのか。以下、自分なりに整理を試みる。
舶来の概念というのは明治以来、洪水のように入った。民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後は憲法そのものがアメリカの経験に基づいたものだ。
しかし、日本の人権教育は、残念なことに、人権の普遍性を論証することに熱を上げてしまって、そもそも誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説や定義を整理してきれいに論じても、だから何?の議論だった。
戦後、人権を外付け実装してきた日本は、そのルールや規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。
今現在、旧統一教会問題で話題の、国家と宗教というテーマにしてもそうだ。
政教分離のキーワードとなるのは、恐怖からの解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは古今東西の課題だ。宗教といかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。宗教的寛容、これが統治のカギだと気が付いたのはカルタゴに勝利した古代ローマ。
そのテーマに対して、新天地アメリカに到着したプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界では試みたことのない壮大な社会実験だった。百家争鳴な多様性のなかで社会を構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提に立つ必要が再確認された。それが言論の自由の関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、自由市場の比喩が生まれる背景ともなった。
他方、旧世界のフランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会の権威と苛烈な弾圧が恐怖であった。だから公共空間の合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランスの言論の自由は、その意味でカトリックを否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要な意味をもっていて、先日、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したことの歴史的な背景は深い。
このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があり、生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だし考えるコツだ。利他性じゃなくね。
それは、実は国によって微妙にコンテクストが異なるものであり、普遍的価値として昇華できなくもないけれども、むしろ司法を通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が重要で、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な仕組みなのだと思う。逆に言うと、普遍的な価値なら、なぜ何千年も克服できなかったかの意味を問うというか。
しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易ではない。戦後の日本の裁判所も含めて。
でも、それこそが日本の人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。
その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの、感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。
内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは、自分の国や自分の家族、自分自身の歴史だと俺は思う。
自分や自分の先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理だけが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本のアジアや欧米との対外関係であり、開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験だ。
歴史というと大げさだが、要するに「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神を自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。
自分が理想とするものと現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。
自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。
ネイションとしていえば、戦争体験の振り返りが重要なキーになるし、国家と宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米の経験を教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁判決は行政が戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料を支出したことを違憲とした歴史的な判決で、戦争の経験がしっかり振り返えられた、という点で、司法の仕事としてとても大きなものを残したと思う。建国の精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。
しかし、戦後77年。戦争体験が風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通の体験、共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代。
50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と語り合う、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。
「あの頃は」という共通の過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして60年安保闘争を支え、水俣の闘争があった。外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。
つまり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。
それが、失われ、外付けの価値観だけが、カラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴で、失われつつある寛容性の正体なのだろう。
永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代に
と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、それが生まれてきたプロセスを振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。
また、日本国憲法に組み込まれた歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。
それはかろうじて80年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、
視聴者からは、おしんは私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数届いたという。
しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ。
しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日的な振り返りだった。さらには、あさま山荘であり、学歴社会、バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧と、戦争の記憶との関連が薄まった。当然、日本国憲法のリアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教と国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。
しかし、いずれにしても過去の記憶と憲法の規範が直接に結び付かない、その世代の経験、そこに、永井が紛争国の辺境の地を自分のテーマに選んだヒントがあるように思えてならない。
紛争のリアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生のときに知った人権、そして憲法の価値を、自分なりの振り返りとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。
しかし、たとえ社会の人々と共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、どうふるまうべきかを動機付けられる。
私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこからは自分が母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親も単身赴任でしたし。
といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。
「全然、人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。
動機付けられるものが、必ずしも、家風であったり、模範的なロールモデルとは限らないのだ。
この体験と辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。
読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理に思えてくる。
A clue to the problem may be found in what I call the theory of Opposite Virtues. Nations, like people in this respect, may pride themselves most highly on the quality they most lack. Hence “fair play” is a golden virtue in Great Britain, the country that attacked and subjugated half the globe. “Equality” was the banner of Soviet Russia, where commissars owned lavish dachas on the Black Sea and the proletariat lived no better than serfs. The United States prides itself on its high “moral standard,” while perpetuating racial and moral double standards. And then there is l’amour in France, a nation of cold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselves most on being so distinctively “Canadian.” In Japan we must look at the time-honored ideal of Wa, “peace.” Wa means security, stability, everything in its proper place, “knowing what is enough.”Yet a persistent irony of Japanese history since 1868 is that for all the emphasis on peace and harmony, they are exactly the virtues that Japan did not pursue. At the end of the nineteenth century, rather than settling back to enjoy its new prosperity, Japan embarked on a campaign to conquer and colonize its neighbors. By the 1930s, it had already acquired a tremendous empire in East Asia; this inability to stop led to its suicidal attack on the U.S. base at Pearl Harbor, as a result of which it lost everything. Something similar is happening again. Perhaps Japan values Wa so highly for the very reason that it has such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.
表現への法規制なんか女性はしてないです。なんなら男性向けよりエグいエロBLを電子書籍や同人誌で買いまくってますよ。
ただ表で見ることはしてないだけ、そして常識的社会人として、後世のためにも
不快広告をとりさげなければ不買するっていう通常のプロ消費者としての行動をしているだけですよ。
作者が性犯罪した漫画を中断したのも、編集部の経営判断ですよね。自由市場大事ですよね。
この情報社会で契約の手綱をつけないエロ絵師を野放しにしたほうがいいと炎上させ将来を無料で食いつぶしたがる表現乞食のほうがよほど「規制」だか圧迫だかしてます。
法的規制をいうのであればむしろ男性側の都合できめた175条(毛の有無ごときで判断する)なんか本っ当にくだらないから撤廃してほしいですけど、なぜかこの「自称法曹」さんはその話は全然俎上にのせないんですよね。きもちわる。
リベンジポルノ規制法とか中絶サイン不要とかピル配布生理用品配布によって現に女性がこうむっている差別への対策を強化してくれっていってるんですが。
「表現の自由の価値を認めないのかー!!1!!」とか言ってるけど、表現の自由でないものを表現の自由だと言ってるから馬鹿にされてることもわかってない。
次に表現規制の使い方がおかしい。表現規制は公的な強制力を伴う物を指すのに、一民間人が批評批判することを表現規制と言うとか本当に馬鹿でしょ。
「そんな定義は古い今は民間人でも表現規制できるんだー!1!」みたいな事言う馬鹿もいるけど、200年前のトクヴィルの時代(より正確にはフランス革命の時代かな?)に中間団体はむしろ自由を抑圧する物だと観念されてたの。だから、より古いのはどちらかね?
まあ、Twitterなどの巨大プラットホームの影響力が強いので、それが力を持ちすぎるのは表現の自由に一定の問題が生じるという議論は可能だけど、表現規制の問題としてとらえるのはどちらかといえば欧州あたりの法感覚なんじゃないかな?
で、頭の悪い表現の自由戦士がひねりだしたのが、「純粋な批判批評は表現の自由のうちだが、運動は違う」みたいな馬鹿な意見。
政治的言論や商業的言論を考えれば、純粋な言論・表現と運動の違いなど区別できないと分かるよね?それに、表現の自由の価値、自己実現にしろ自己統治にしろ、それは運動という側面もあることを考えると、そもそも表現の自由をまったく分かってないとでない発想なんじゃないかな?
次にひねりだすのが「作品は特別の保護が必要なんだ!」とかいう愚論。まあ、「価値観の自由市場」とか言う面白ワードでググるとそういう事言う人いて、いとワロスだよ。
そもそも、言論の自由でも、経済的な言論の自由はその価値が低い、というのは表現規制する時のハードルの高さの問題にすぎないので、価値が低い言論だから表現規制になるとか本当意味不明。
なんで作品は特別の保護される存在なのか、そしてそれに対する批判批評が表現規制になるかまったく論証できてない。
てか、いい加減、表現規制を求めてないのを「表現規制派」とか言うのやめてくれない?事実に基づかないデマと言われてもしかたないよ。
つーかさ、表現の自由の問題になると、表現規制の区別もできてないよね?例えば、ある表現をテロでもって抑圧しようというのは民間人でもできるけど、それは表現の自由の問題にはなるけど表現規制にはならないって分かるよね?
しかし、民間人の批評や批判が表現規制なら、強制力を持たない行政指導でコンビニエロ本が無くなった事をたいして問題視しないのはなんで?実際コンビニからエロ本消えたよ。君らがオタクコンテンツの広告だけに血道をあげるのに、本当不思議だね。
「フェミ」なり「リベラル」の批評批判は何年前のでも挙げるのに。本当は表現の自由とかどうでもよくてアンチフェミニズムやアンチリベラルしたいだけなんじゃない?
https://anond.hatelabo.jp/20220401000918
つづきだよ。
正解だね。早めに当ててる人がいてびっくりしたね。電力事業単体だとどうかは知らないけど、燃料売ってる側のこの二社は業績が上向いてるね。ちょっと意地悪だったかもしれないね。
id:wakwak_koba 東電が発電所を新設したがらない理由がよく分かった。電気が余ると損をして、むしろ足りない方がスポット価格が高騰して儲かるんだね。つまり電力自由化とは東電救済だったわけだ(ほんと役人は頭がいいなぁ
id:takanq 電力会社がJEPXに意図的に売電を絞っているのでは? という指摘があるのよね。"「新電力」の自業自得なのか?卸価格“超”高騰で露見した「いまだに未成熟」日本電力市場の課題"https://www.businessinsider.jp/post-229526
id:mangakoji 電力会社は、発電量を絞ると儲かる、危ないシステムなんだな。こりゃ日本で電気自動車インフラが進むわけないわ。
旧一電も業界もわざと発電を絞ってるわけじゃないんだよね。発電量=発電所の収入だけど、再エネ発電所が増えれば火力発電所の稼働量は減るよね。コスト回収がどんどん大変になるから火力発電所の廃止インセンティブが高まるね。でも最低限の余力は残しておかないと大規模停電起きちゃうかもしれないから高コストの発電所はある程度残しておかないといけないね。ただでさえ3.11以降は原発も止まっちゃったから供給力の余剰は最近減ってるよね。
太陽光発電なんかも最近増えてるけど、天候に発電量が左右されるのでどうしても発電量が不安定になっちゃうね。緊急時に発電所動かせって言われてもどたばたしちゃうよね。LNGは高いから発電コスト上がるね。最近は石炭火力はCO2排出量高いから嫌われてるね。
あと、一番大事なのは、電気は「余っても駄目」なんだよね。発電量は周波数に影響を与えるので、足りなければ周波数の50/60Hzを下回るし、余ると上回る。周波数の変動を放置したら色々大変なことになるから(日本全国で家電が故障するね)、電力系統は需要が供給を大幅に上回ると安全のために電力供給自体を遮断するよね。これがブラックアウト、大規模停電という現象で、直近だと北海道全体で停電したやつだね。
なので、電気が余ると損をするから絞ってるんじゃなくて、そもそも余って良いような仕組みじゃないんだね。発電側は発電側で大変なんだよね。
安定供給の点ではその通りだけど、脱炭素や原発の文脈だと「旧一電に現状改善のインセンティブは少ないので自由化は必要」という回答はありえると思うね。ここは人によって主張が違うところだね。私は関係者なのでどうしてもポジショントークになるから私自身の意見は控えるけど、一理あると思ったよ。
id:gimonfu_usr 自由化にともなうコスト引下圧が原発施設安全維持の余力を削ったのですよ。自然を舐めてた「甘え」はあったろうが方向が違う
因果関係としてはたしかにそうかもね(特別高圧や高圧は3.11前に小売自由化が進んでいたよ)。ただ、それは「お金に困ったから強盗殺人やっていいのか」って話に近くて、コストを理由に原発の安全維持を疎かにするのは一線越えちゃってるんじゃないかな。
断言はできないけど「高騰時に停電」は多分無理じゃないかな。供給は送配電事業者がおこなうので、新電力に特定の供給地点の供給を止めるよう指示できる仕組みにはなってないね(追記:「今の契約」では。技術的に不可能ではないかもしれないけど、旧一電側の協力が必須)。色んな人に突っ込まれたはてな電力と増田電力の話はその辺のことを言いたかったんだけど、わかりづらかったね、ごめんね。あと、そこはインフラとしてやっちゃ駄目でしょう、という議論はあるよね。
「消費者への売価に転嫁する」これはいい視点だね。これをやったのが市場連動型プランで、21年の高騰時に月の支払いが数倍とか十数倍になってめちゃくちゃ揉めたやつだね。あれで新電力が炎上したのでその方向はリスクが高いということになり、選択肢は実質なくなったと言っても過言ではないね。あと、そもそも高騰時に価格上がるなら規模の経済で旧一電にはほぼ確実に負けるね。
id:cinefuk リスクヘッジさえ担えないならば、単なる転売屋でしかない
だからこのブコメはクリティカルな批判だと思うね。自由市場で旧一電から客奪って戦ってんのは新電力なんだから、価格設定で新電力が文句を言うのは筋違いではあるね。
id:lifefucker さや取りビジネスだと思うけどなんの付加価値あんの?
シンプルなのは価格だね。新電力は送配電でフリーライドできるので(託送料金は払うけど)、一般的に旧一電より安いね。
それ以外だと、他のサービスと同じ会社にして支払い一本化とか(東ガスとかのガス会社系、auでんきやソフトバンクでんき)、別業種の付帯サービスとか(楽天ポイントがたまる楽天でんき)はあるね。Looopでんきは自社のソーラーパネルや蓄電池とペアで使うと割引が適用されたりもするね。
id:pwatermark そこで「発電もやる」ことでリスクを抑えるみたいな考え方もあるわけだ 民間発電の市場が活発化することで、クリーンエネルギーや脱炭素、場合によっては原子力とか、発電の選択肢が増える まあ絵に描いた餅だけどね
いい話題を振ってくれて嬉しいね。電力系統からの電力供給を前提にするからこういう話になるのであって、経産省は「再エネを中心とした小~中規模の地域発電所をもっとたくさん作って、エネルギーを地産地消しよう」っていう分散型エネルギー構想を最近打ち出してるよ。「マイクログリッド」でググってみると面白いかもね。
https://www.meti.go.jp/shingikai/energy_environment/energy_resource/pdf/015_s01_00.pdf
id:sin20xx 日本は根本が間違ってたんだよ。そもそも太陽光などの発電した電力を高く買う意味はなくて、その電力をむしろ安めに買って、さらに余剰分も全部買ってしまって、それにより揚水式発電等を動かすバランスが必要だった
FITの話だね。再エネを10年間固定で買い取るよって制度なんだけど、最初の買取価格は48円/kWhだったんだよね。後々太陽光発電は価格下げていったけど、山林切り拓いてのメガソーラー乱立を招いたんだよね。制度設計の失敗だね。
id:tohshindainokawaisa 新電力の中の人ならインバランスを悪用してた過去を語って欲しいんだが。こんなの完全にポジショントーク。最近でも一送の持ち出しで最終保障供給させたり賦課金を払わずに破産申請とか、これで被害者面は虫酸が走る
インバランス制度は厳密に言うと「調達が足りなかったら請求するし、調達しすぎたらその分お金返すよ」って仕組みだね。一般的にインバランス料金は市場価格より高いね。でも、このインバランス料金は事前に予測できちゃうと「インバランス料金が高い(安い)ときにわざと調達を多め(少なめ)にする」ことが理屈上ではできちゃうんだね。この人が言ってるのは多分このことだね。それはよくないよねってことで、事前予測がしにくいように制度が見なおされたんだよ。
最終保障供給は多分このニュースのことを言ってるんだね。これはよくないね。
https://project.nikkeibp.co.jp/energy/atcl/19/feature/00001/00074/
id:dreamzico 長いよ。オタクはなぜいつも話が長いんだ。その漫画くさいオタク口調・文体をやめて、内容的にももっと短く簡潔な文章となるよう推敲してくれ。1/10くらいの文字数で説明できるだろ。
素に戻るが、身バレ避けるため普段やらない書き方してるので読みにくいのはわざと。そこは正直すまん。
id:watasinoid ×「東電をなんとかせげんといかん」 ○「東電をどげんかせんといかん」
id:gnta 「東電をなんとかせげんといかん」ではなく「東電をどげんとせんといかん」と言いたかったんだろう
id:good2nd 誤「なんとかせげんといかん!」→正「どげんかせんといかん」/「せげん」てなんとも不思議な響き。品詞分解できないからかな
id:hazardprofile とにかく "なんとかせげんといかん!" が気になってしょうがない
id:MacRocco “なんとかせげんといかん”は多分「どけんがせんといかん」をうろ覚えで使った結果出てきたそれっぽい言葉だと予想
id:kaputte はてなの親分怖すぎて泣く / だれも「なんとかせげんといかん」気になってないのもこわい
id:pechiyon “東電をなんとかせげんといかん!”どげんかせんといかんorなんとかせんといかん では
JGP(ジョブ・ギャランティ・プログラム)に関しては、方向性は間違ってないような気もする。しかしながら、平時にせよ不況時にせよ、どんな産業や事業に投資するか、必要な労働力として誰を割り当てるかを、どんな仕組みで決めるかは難しい。何かブレイクスルーが必要だと思う。
・”何を仕事にするかって話は難しくて”その通りと思う。人間は全知全能とは程遠く利己心もある。そんな人間が計画経済をするのは上手く行かない。これはソ連その他の失敗を見ればわかる。
・計画経済よりは市場経済のほうがマシだが、全て市場に任せておけば丸く収まるかというとそうでもないだろう。
・政治の資源配分機能に頼る部分もあってよいと思うが、政治家のお手盛りで差配されないような制度設計が必要。
MMTは何をするかも言ってるよ
要は今までの経済政策だと数字追いかけて、需要が拡大したとき(物が不足した時)に投資が加熱して投機になって過剰なインフレが起こったり、それを抑えようとして失業者を調整弁にして不景気が起こったりを繰り返してきたわけ
それをなるべく実現しようってのがJGP。市場原理の自由市場は残したまま、失業者を国が予算出して全員雇うというもの
そうすれば、景気が良いときはJGP参加者が減るため、財政支出が抑えられ、景気が悪いときはJGP参加者が増えて財政支出を増やすという事が自然と調整されるようになる
要はラグがなくなるって事よ
JGPで何を仕事にするかって話は難しくて、地域ごとに必要とされる事ってのは違うんじゃないかってのがある
だから国が一元的に決めるってのは良くなくて、元の提案者の話だと地域の非営利団体を管理者側にするとか何とか
日本なら労組とかその辺がやれば良いのでは?とか言ってる人もいる
その辺の詳細は正直、俺も良くわかってない
ただ、JGPってのは要は地域共同体を復活させて、その地域に根ざした活動を仕事としようって感じかな。JGP参加者側が自分でこういう事したいみたいな提案もできるみたい
だから、JGPとか見てるとリベラルこそ、こういう地方創生的な観点から制度設計考えていけば良いんじゃね?って思うけどね
既存のハローワークとか職業訓練とかなんていうか社会に人を合わせるんじゃなくて、JGP参加者一人一人に合わせて地域社会を作っていくみたいな感じでさ
いやネタ元を読んだが、証明したのは転売屋の存在する前後の等価性であり、資本主義の自由市場であることには変わらないとと思う。
それは元のノートの主張とは真逆の結論だと思う。以下 p22 より
マスクの例に限らず,超過需要発生時に財を割り当てる際,価格メカニズムに頼るのが最も効率的で あることは,ミクロ経済学の基本事項である.だが,その場で競争的に価格を決めない限り,取引価格 は瞬時には上がらないというのもまた真実である.「市場に任せておけばよい」という楽観主義は,価 格も上がらず生産も間に合わない過渡期(短期)には,何の役にも立たない.とはいえ,短期的な超過 需要は,他の配分方法によって解消されるわけではない.仮に,くじで選ばれた人だけ低価格(たとえ ばモデルの P0)で購入できるとしたとき,購入権の売買がなされたらどうするか.配給も同じだ.結局, 権利を購入したいという人間が現れる限り,非効率性は解消されない.つまり生産量限定時における超 過需要問題の解決は,価格が上がることでしか解決できないのである 13).
生産が追いつかないときは製造業者が価格を上げることで非効率性を解消できるが、転売屋がそれをやっても効果は同じだ。ノートは、だから転売屋の存在は無意味だというのを全体通して言ってるんだけど、よく考えると現実には製造業者は価格を柔軟に上げないでしょう? だったら転売屋の初期の行為には意味がある、彼らの値付けが正しい、って事になる。
あと、ノートでは転売屋の市場が異なるケースでは効率性に貢献する、とも言ってるね。この点も転売屋の意義にプラスだ。
ただ、転売屋に有利な仮定になっている、と断り書きのあるものの中で「最終消費者は,転売屋と取引をすることを厭わない.」は、もはやあまりにも現実離れしている、と思う。そう設定しないと分析が複雑になるだろうから仕方がないことだけども。
ここら辺のネタ元はこちら:https://www.eco.nihon-u.ac.jp/about/magazine/shushi/pdf/90_02/90_02_02.pdf
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「セックスワーカーの地位向上のためには、自由市場に任せるのではなく、国が積極的に保護・介入すべき」という意味では性風俗”規制”には賛成だな。
セックスワーカーはむしろ「才能のある一部の選ばれた人間だけが従事できる、ハイレベルな専門職」となるべきであって、「誰でも無免許で」許されるべきだとは思わない。
安楽死・尊厳死が合法化した後でも「嘱託殺人」という罪状が残るように、セックスワークが合法化した後でも「売買春」は違法であるべきだと思う。
例えば、「セックス本番は数日前から予約が必要で、数回の打ち合わせが必須」とする。無免許のアルバイトを雇うとして、「免許持ちのプロが打ち合わせに立ち会うことを義務付ける」とか。その程度が落とし所かなぁ。
大学教員は1回の授業90分のために給料を貰ってる訳じゃなくて、その日までの準備時間に賃金が発生してると考えられている。それと同じで、セックスワーカーも「一回の本番」にお金を払うのではなく、「それまでの準備」にお金を払うという意識が一般的になって欲しい。
https://anond.hatelabo.jp/20210318185716
最初に言っておくと、“擁護”という言葉、muchonovさんこそが批判されているというフェイズにおいてその様に用いられる“擁護”という言葉は、ただの批判回避でしかありません。『「xx批判」に対する批判』を「xx擁護」という事にしておくと、あくまで批判されてるのはxxだけという事に出来て、「xx批判」こそが批判されてる事実を誤魔化せる、そういう小手先のテクニックです。これはその意図の有無に関わらず、です。
自分は、著作物に対する著作者の諸権利には二次利用者の表現の自由に優越する要素が確実にあると思う。だから、著作権を持つコンテンツホルダーに対して二次利用者が配慮を示すこと自体は、何らおかしなことじゃない。「コンテンツに対する権利を持ってる人達がガチで怒ったらどうなるかわからないから、謙抑的にやりましょう」というのは二次利用者としてごく常識的な判断だし、自分だって似た状況が発生したらフツーに相手の「お願い」に従うし、何ならゴロニャンする。日頃「表現の自由」について何か勇ましい物言いをしてたとして、その忖度や阿りとのギャップを誰かに笑われても構わない。「それとこれとは別です」でおしまい。
いやいや、意味わかんないですよ、これ。
だって「発端」のブコメ(https://b.hatena.ne.jp/entry/4699940658477561058/comment/muchonov)は
「好意の多寡」云々と強弁してるけど、勇壮な表現の自由戦士たちが権利者の意向には簡単にゴロニャンするという構図は変わらない。自分たちからオモチャを取り上げる権利を持つ相手に屈服してるだけ
ですよね。
それに対してこちらが、それは“事実上の『私は「表現の自由」について全く理解していません』宣言”だよねと指摘して、そこにmuchonovさんから返ってきたブコメ(https://b.hatena.ne.jp/entry/4699974732078626146/comment/muchonov)が
そうかなあ? 自分は著作物に対する著作者の諸権利は二次利用者の表現の自由に優越すると考える一方で、元増田は「グロく描こうが殺そうが馬刺しにして食おうがなんでもあり」だと言ってるんですけど。
この時点で、もうだいぶ「????」なんですが、これについてこちらが『“著作物に対する著作者の諸権利は二次利用者の表現の自由に優越すると考える”様なmuchonovさんが“コンテンツホルダーの意向には簡単にゴロニャン”とか言っちゃうの、さすがに意味不明すぎでは。』と指摘して、それに対する応答が上の増田なわけですよね?(こちらへの応答だけのつもりではないにせよ)
日頃「表現の自由」について何か勇ましい物言いをしてたとして、その忖度や阿りとのギャップを誰かに笑われても構わない。「それとこれとは別です」でおしまい。
とか仰ってますけど、笑ったの、他ならぬmuchonovさん自身ですよね。その“笑われても構わない”って、それ「笑う側のmuchonovさん」からしたらつまりは「“表現の自由戦士”たちは、おとなしく我々に笑われてろ」の意味なわけですよね?うん、やばいですね☆
って、muchonovさんの中では、「著作権」と「表現の自由」が、かめはめ波の撃ち合いか何かみたいになっていて、「著作権」の方が勝ってる…という様なイメージなのでしょうか?
もう何度も述べてきている事ですが
「表現の自由」で最も重要なのは『価値観の自由競争(市場)』。『公権力からの自由』はあくまでその手段の一つ(もちろん重要だが)。『表現の自由度』はその結果。
です。
これは、『絶対に「正しい」とされる、そんな「思想」は存在しない。だからこそ、「思想」の媒体たる「表現」は常に「自由競争」の下にあらねばならない。』事こそが、「表現の自由」の根幹である、という話です。
また、「市場」の中で自身の「効用」を最大化する事は、個々の主体が持つ権利であるべきだから、という考えに基づくものでもあります。
ですから、もしこれを否定しようとするならば、『全人類が、それぞれの権利を放棄してでもコミットすべき、絶対に「正しい」とされる「思想」が存在する』と主張し、証明しなければなりません。完全に狂気であり、全知全能の神の召喚でも試みた方が早いレベルだと思います。
つまるところ、その根幹が「自由市場」である以上、各々の「私的所有(財産)」を認める事は「表現の自由」に織り込み済みだと考えるべきです。「表現の自由」vs「著作権」、どちらの方が“優越する”か(アクセルとブレーキ、どちらの方が強いか)みたいな話とは違います。
ですから、“日頃「表現の自由」について何か勇ましい物言いをしてたとして”も、「私的所有」を認める事に“ギャップ”はありませんし、もちろん笑われる理由も存在しません。
これはmuchonovさんに限った話ではないと思いますが、恐らく『「権利がある」というのは、「その“権利”を行使した時に不評を買わない権利がある」の意味ではない』という事を理解されていないか、もしくは失念されています。
他の言い方をすれば、『「ルール」に従うか/逆らうか』と『「ルール」を肯定するか/否定するか』は、それぞれ別の事柄だという話でもあります。
(一応言っておくと、個人的には例の“お願い”について、曖昧であり「忖度学級会」を誘発するものだとして、2018年6月時点で批判的にコメントしています。)
また、「私的所有」を認めるという事は、その是非(その「大きさ」の妥当性や、そもそもの有無等)を問わないという意味ではありません。それは「表現の自由」とは別個の問題として論じる事ですし、今回の流れで言えば、もう少し著作権に関する是非は、議論の俎上に載ってもよいだろうと考えます(個人的には著作権はもっと「小さく」していくべきだと考えていますし、むしろ逆に「大きく」なる傾向のある現状については危惧しています)。
実際、話題になった「馬名のパブリシティ権」の話は、その辺りが問われた件だとも言えるかもしれません。もちろん逆に、「せやかて、やっぱ馬名については馬主が優先的ステークホルダーであるべきやろ」と主張するのも、それはそれで一つの考えでしょう。
どうであるかと、どうあるべきかは、やはりそれも別の事柄なのですから。
muchonovさんは二者の関係を「権利者と利用者の力関係」と述べており、もちろん嘘ではないのですが、それ以前にまず「供給主体と需要主体」の関係である事を忘れてはなりません。
コンテンツの二次利用は権利者のお目こぼしのもとで成り立ってるグレーゾーンで、『お願い』を無視し続ければより厳しい使用規制が課せられたり、コンテンツ自体が供給されなくなっちゃう危険があるから、みんなそれを避けるために『お願い』を遵守してる。
供給側としては、コンテンツに対する需要がなくなってしまう事こそが最も恐れる事態の一つであり、つまり(馬主のご機嫌よりもよほど)需要側のご機嫌こそを気にしなければならないわけです。趣味で製作しているアートか何かではないのですから。
恐らくは、だからこそ曖昧な“お願い”なのであり、また2018年6月20日なのでしょう(せめてアニメ放映中には冷や水を浴びせたくない、夏コミが控えてる、ゲームはしばらくリリースできそうにない…というタイミング)。
そしてもし、muchonovさんが記した様な「逆転現象」が起こるのだとしたら、それこそが「惚れた弱み」であり、正に元増田が述べていた状態そのものなのです。
「お客様は神様」と「殿様商売」との間で揺れ動く、その実に「自由市場」的な動きの中で「表現」の在り方も変動するというのは、むしろとても「表現の自由」的である、とすら言えるでしょう(元増田に、そこまでの考えがあったとは思わないし、個人的にはやはり「忖度学級会」には否定的だが)。
にもかかわらず、それを“バカみたいじゃん。”と切って捨てるmuchonovさんの発言のほうが、よっぽど“バカみたい”なのではないでしょうか。
HanPanna 価値観の自由競争というのはrag_enさんの造語なので、法学だと思わないように(もし学説があれば教えて下さい)"思想の自由市場"について知りたいならコチラのブログのが良いです。https://arecolle.hatenablog.com/entry/2021/03/06/124923
“法学”ってどこから出てきたん?というか、『公権力からの自由』はあくまでその手段の一つでしかないよ(大切だけどね)って話、してありますよね?ちゃんと読んでます?
なんか理解されてないようですけど、その箇所への反論は「ちゃんとできるようにしてある」んですよ。つまり『全人類が、それぞれの権利を放棄してでもコミットすべき、絶対に「正しい」とされる「思想」が存在する』と主張し、証明してみせればいいだけなんです。はい、頑張ってください。
まぁ、HanPannaさんが同じ話題でやらかすの、これで3回目ですし、間違った事でも言い続ければ押し通せるみたいなの、完全にオカルトなんで勘弁してください(HanPannaさんに許可を頂ければ、過去のやりとりも晒しますよ)。
あとリンク先、よりにもよってU.G.R.R.の人かよ…ギャグで言ってるのか?ってのが正直な感想ですけど、ぶっちゃけ謎の(マジで謎の)出禁を食らってるので(とはいえ、さすがに閲覧不可は無視するが)言及は避けておきます。やさしみ。
Silica ところでこの"価値観の自由競争"の中では寛容のパラドックスはどうなるんだろう、この人の言う"SJ"的な価値観がその競争に勝利したらどうなるの?