はてなキーワード: へのへのとは
上川外相の発言「うまずして何が女性か」だけど、メディアの取り上げ方がヘンだという、当たり前のことを、
生みの苦しみという比喩として昔から成立している表現を、まさしくそのような用法で発言しているにもかかわらず、マスコミは一体なんなんだ。
候補の当選によって新たな知事を誕生させたいとの思いがあったとみられるが、出産を願ってもできない人への配慮に欠けるとの指摘が出る可能性がある。
一連の報道で、とても気になったのは「XXへのへの配慮に欠けるとの指摘が出る可能性」という表現。
こうして、「出産を願ってもできない人」というグループを示唆することで、それらが何かしら傷つきやすいメンタルを持っているという、配慮を要する人々としてイメージを固定してゆくのがとても気になる。これは発言の曲解よりも根が深い。(補記:なかなか伝わりにくいかもしれないが、以下で提起している問題は、<ある表現がいかに配慮に欠けるか欠けないか>ではなく、<ある表現が配慮に欠ける>というふわっとした規範的な圧力が、社会的包摂性とか社会経済的な脆弱性の分析を置き去りにして、主に政治的に利用されることの問題点だ)
実際には、出産を願ってもできない人々というのは多様だ。みんないろんな事情があるんだよ。
単に適齢期を過ぎているだけとか、仕事と両立したいなどの理由で機会を逸している、とか、あるいはそもそもパートナーに出会えないなど、
要するに、ないものねだりをしている場合だってある。経済的な問題で躓いているひともいるはずだ。
じゃあ、逆に「出産を願ってもできない人」というカテゴリーにはそういう社会経済的弱者は入りませんよ、というのかね?
体や心の障害に起因して、ある意味、病理的な意味で、出産ができない人を指すのだと定義したりしてしまう?
そうすると、今度はむしろ、健常ならできるはずのことができない人々は悔しいと思っているに違いない、かわいそうだから、産むとかそんな言葉に触れさせないよう配慮が必要っていう、潜在意識がますます透けてくる。
でも心身の問題で出産できないというのを、自分にはいかんとしもしがたい宿命的なものして捉えた場合、
それって社会経済的な理由で出産できない場合と実際のところ、地続きだと思える。
例えば、親の介護など家庭の事情で適齢期を逃した人がいたとするよね。それってその人にとっては、自分の意思で選んだわけではなく、自分にはどうにもできなかった、そういう運命だったという意味では、病理的に出産できないという宿命とさほど変わらないようにも思うんだよね。
「出産を願ってもできない人」
産みの苦しみとかいう表現を嫌がるような、そういう配慮を要するグループがあたかも存在するかのように、それを空気のように記事するマスコミのほうが怖い。
障害者や病人ができなそうなことを比喩的にでも表現するのは彼らを傷つける行為だとする空気をまん延させることは、「そういうカテゴリーの人たちを可哀そうだと思うべきだ」とする社会規範を空気として押し付けてくることだ。
そこでは、知らず知らずに、どこまでが可哀そうなグループで、どこまでが身から出たさびとみなすグループなのかの選別が空気として形成される。
実際には、よくよく考えると、どこからどこまでが配慮を要する、などと到底割り切れるものではない。誰かを傷つけるかもしれない、と配慮することはそのイメージから漏れた人を知らず知らずに排除することでもある。その意味で、病理的な意味で出産ができない人に限定して、「出産を願ってもできない人」というイメージを作り上げるなら、それは差別的ですらある。その場の雰囲気で、発言の文脈をよく考えずに配慮を求めることで、逆に、特定のグループを過度に保護し、そのグループを弱者として固定化する結果を招きかねない。
抽選結果で「落選」はやめます 都立中高説明会、表現めぐる指摘受け:朝日新聞デジタル
これなんかも、「受験生」の感受性因子(susceptibility)を過剰に捉えていて、おかしなことになっている。
「出産を願ってもできない人」なんていうふわっとしたイメージは、そもそもそんなに必要かね?
言論空間を浄化して、きれいな発言だけをすればいいというものではない。
浄化できるというのも幻想でしかなく、「女性なら生むべきだ」という固定観念を打破し社会的包摂性に配慮したつもりでいて、内実は単にステロタイプな別の固定観念が形成され、それが政治利用されることもある、ということも頭に入れておく必要があるだろう。
政治家の発言に過度な配慮が求められると、知らず知らずに本来の意図や文脈が歪められる恐れがある。
特に選挙に絡んだ発言については、妙な世論誘導に使われかねない。
自由な表現が妨げられることで、社会全体の健全な議論が損なわれることになる、ということの不利益をちゃんとマスメディアは理解しておくべきだ。
ご存知ドラゴンボールZの主題歌「CHA-LA HEAD-CHA-LA」。作詞は森雪之丞。
へのへのかっぱ。
このへのへのかっぱがすごい。
へのかっぱの頭にへのを重ねて、へのへのもへじとかけた駄洒落が言えるくらい俺は余裕だ。CHA-LA HEAD-CHA-LAだ。っていう悟空の精神が表れている。すごい。
多分曲に合わせて偶然できたフレーズなんだろうと思うが、それにしたって「へのへのかっぱ」は天才的すぎる。
CHA-LA HEAD-CHA-LAの歌詞全体を見ると論理的には意味不明だがすごく感覚的に伝わってくる。悟空が自由に飛び回っている姿が目に浮かぶ。先入観が入っているところもあるが、でもやはりCHA-LA HEAD-CHA-LAはすごい。
CHA-LA HEAD-CHA-LAはすごい。
http://news.livedoor.com/article/detail/14233641/
↑いわく、やはり曲が先にあって歌詞は後から作ったそうだ。CHA-LA HEAD-CHA-LAの他にも雪之丞氏の作詞にまつわる興味深い話が書かれている。良ければ読んでみては。
量が質に転化するとはよく言われるが、速さが質に転化するという言い方はなかなかされない。
速さとは時間あたりの量だから、量が質に転化するなら速さも質に転化するのは自明のことなのに。
速さ自体が質とされることはあっても、速さが質へと変わっていくという言い方は滅多にされないこの世の中は、どう考えても理不尽である。
その理不尽さときたら、フエラムネが卑猥なお菓子と勘違いされてしまう理不尽さを遙かに凌駕している。
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諸君、スピード社会の今こそ、速さはちゃんと質に転化されることが周知されるべきだよ。
スローライフなんて唱える人もいて、それも一理あるけれど、やっぱり今の時代めまぐるしいまでの速度とは無縁でいられない。
であれば、その速度を受け入れて、そこに価値を見いだすべきではなかろうか?
速さから逃げたり否定したりするのではなく、単に速く片付く以上の良き側面に気付き、着目し、速さを利用すべきではあるまいか?
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世の中ちょっと速くなるとすぐ諦めてしまう人が多すぎる。ちょっと不慣れな速さに慣れてみるだけで圧倒的にサクサク片付くのに。
それなのに、多忙な状況ですら、すーぐいつもと殆ど変わらないペースでやってしまう。諦めの速さだけは一流だよほんと。
これでは誇り高き戦闘民族の王子が吐き捨てるように言った「もうだめだぁ…おしまいだぁ…」を笑えまい。
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個々の人間がそんな有様だから、今の先進各国というのは、スピード社会のポテンシャルを現状全く活かせてない。
同様の文明批判は古くからあるが、少なくとも現代においては非常に的を射ていると思う。質なき速度。それを人は「暴走」と呼ぶ・・・。
卑近な例では、質を無視して無理に締め切りに間に合わせるという悪しき慣習が、キミの周りにもはびこってないだろうか?
速度に慣れようとするのではなく、無理に速さを生み出そうとするという発想がもう貧困すぎィ!と叫びたくなったことはないかい?一度くらいはあるだろう。
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まず、個々人が変わるべきで、そうして初めて人類は新たなステージを迎えるのだよ。
くっ!今こそ、セカンド・バリュー(速さの第二の価値)に目覚めるのだ。
鎮まれッ俺の右手ッ!目覚めよ、セカンド・バリュー・・・という訳で、まず衝撃的な成功体験をしていただくのが早いと思うんですよw
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そのためにどうしても必要な、是非とも活用すべきものがある。それが「リズム」なんだな。速さにノリノリな人の必需品、それがリズムなの。
我々がどうしても自分のペースに固執してしまうのも、リズムがあるから。キャパを超える速さになると辛く感じるのも、リズムがあるから。
みんな「速いから疲れる」とカンチガイしてしまってるけど、そうではなくリズムが崩れるから疲れるの。
慣れたペースでやるのは、リズムに乗りやすいから疲れにくい。速いペースでも、リズムに乗れれば疲れにくい。
リズムに乗れるペースのことを「マイペース」と呼ぶなら、遅くても速くてもマイペースにやれる人こそが、何が起きても気分はへのへの河童な疲れ知らずなの。
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そういうことだから、みんな音ゲーやろうぜw手っ取り早く自己のマイペース帯域を拡張するには、音ゲー以上の手段は現状存在しないから。
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マイペース帯域が大幅に拡張される一大革命が起きて、これまでの凝り固まった心身の使い方がガラガラと音を立てて崩壊すると、
ハイテンポな作業でも驚くほどリズムが安定するようになり、そこで初めて高速の景色が開けるのだ。
あの日見た高速の景色を僕達はまだ思い出していない。思い出すのだ、性に目覚めて間もない男子中学生のような、あの新鮮な感覚を。
xy平面でネバネバ動いてたのが突如ふわりとz軸方向に浮き上がって自由に高速飛行できるようになるような、あの感覚とともに。
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すぐにはその感覚は得られないであろう。何度も古い景色と新しい景色を行き来せねばならんのだよ。
これは非常に申しにくいのだが、気の遠くなるような作業なんだ。老婆心から言っておくが、多忙な人は諦めてくださいw
でも忙しさがそれほどじゃないのなら奥の手がある。そう、ニッチタイムにこまめにゲームすればいいのだ。
言ったろう?こまめに新旧の景色を行き来する必要があると。新しい開放的な景色を見たあとで、
その新鮮な気持ちで古いノイジーな景色を見る。すると、ネバネバとしたノイズがよく見えっから。
やがて、「速くしたほうがラクじゃーん」ってことが自明に感じられるようになってくる。
前回のエントリーを読み直したところ、自分でも若干しっくりこなかった部分があったので、
まずそこを補足したいと思う。
「へのへの事件」を引き合いに出して上記の内容が最近のハイクに当てはまるのではないかと書いたけど、
最近の「長文議論」までそれに当てはめてしまうのは、いささかズレているような気がした。
長文の投稿に関しては「理解を超えているもの」としてしまうのは言い過ぎかもしれない。
「長文議論」及び「排除志向」に関しては別の方向からもう少し考えてみる必要がありそうだ。
ブコメを見ていたら、「はてなはなぜセグメンテーションをしないのか」という向きのものがチラリと見えた。
これに関して私見を述べると、セグメンテーション以前にハイクの位置づけ自体がハッキリ決まってないんじゃないかなぁという気がする。
なんというかある種実験的な場所。はてラボの延長みたいなもんだったりするんじゃないかなぁと思う。
私のような一介の素人がどれだけ考えたところで正解に辿り着けるとは思わないので、これだけにするけど、そんな気がする。
だからセグメンテーションのような幅を狭めるようなことはしないんじゃないかな。
ユーザーの志向による振り分けみたいなのは、現状のキーワードとユーザーのFollowingシステムによってある程度確立されていると思うし。
ただ、このFollowingシステムがハイクの「狭い」世界をより狭くしているような気が最近してきた。
自分のFollowingページをメインで使う、所謂「idページ引きこもり」ユーザー(この例えに他意はない)に関して言うと、
Followしているもの以外はあまり見ない傾向があり、それ以外への接触の回数が減っているんじゃないかと思う。
その手のユーザーの発言を見ていると、「自分のFolloingしか見ていない」というようなものもチラホラあるし。
その結果セグメントが生まれるという構造に繋がるんじゃないかと。
今後そのセグメントによって何か新しい動きが起こるかもしれない。
「長文論議」はひと段落したようだけど、ユーザー間の揉め事(?)が原因で、退会やエントリー削除が幾らかあったようだ。
こういう場合の心理状況ってやはり、「もうめんどくさい」とか「もう見たくない」だったりするんだろうか?
それとも一連の行動自体が「抗議」的なスタンスだったりするんだろうか。というのは考えすぎかな。
個人間の揉め事もそうだけど、色んな要素が絡まりあってハイク全体的に不穏な空気が漂っているような気がする。一触即発というか。
直接ハイクの出来事とは関係ないが、たまたま読んでいた本に書かれていたことが引っかかった。
それは、「人は理解を超えたものに遭遇したとき、それを恐怖、嫌悪、排除の対象とする」みたいな感じのこと。
これを読んでピンときた。「あぁ、そうか。ハイクで時折見られる現象はこれか」
もう何ヶ月も前の話になるが、ある特定の時間帯になるとひたすら「へのへのもへじ」を連投するユーザーが現れた。
特に文章の投稿もなく、ひたすら「へのへのもへじ」。
そのころには既に「TOPページ尊重論」が出来上がっていたので、程なくして衝突が起こった。
「へのへの」側のユーザーの言い分は正直、私も良く分からなかったので割愛する。
そして既存ユーザーの言い分はこう。「そんなに画像を連投したら携帯ユーザーが見づらい」など。
この主張は近頃の「長文議論」にも通じるところがある。まぁ、それはいい。
その時、たまたま見かけた書き込みで引っかかってたものがあった。それは「正直、気持ち悪い」。
そう、始めは無言で、その後の「へのへの」ユーザーの主張はなかなか難解なこともあり、多くのユーザーが理解し切れなかったのだ。
そこから「自分が理解できないものは不快、だから排除」この向きがハイク内では強いということが分かったのだ。
もちろんそうではない流れもあるのだけれど。
当時も漠然とそれは理解していたし、その傾向に関して言及する人も幾らかいたように思う。
ただここへきてそれがより明解になったというか。
海外でね、「日本で普通に食べられるクオリティー」の飯を提供するレストランって希有なのさ。
だからベルリンのカント通りにある「へのへの」っちう牛丼屋はこっちに暮らす日本人にとっては心のオアシス。
すでに他の人がブログに書いてるけれど、「普通に旨い」のよここの牛丼は。それがどれだけ有り難い事か!
http://berlinhbf.exblog.jp/8344361/
http://diary.jp.aol.com/ky5quyzaedzk/219.html
こっちで良く見かける妙にコジャレたきしょい「アジアンオリエンタルエキゾチックワンダフルダイニングエクスペリエンス」でも、
「米と魚を海苔に巻きゃSUSHIなんだろ」なんていうインチキ日本料理でもない。普通に食える日本食。
HENO HENO
Kantstr. 65
10627 Berlin