はてなキーワード: おざなりとは
厚生労働省はさ、子供は0歳から保育園に預けて働けって言うじゃん。それもおざなりだけど。
保育士は子供の気持ちとか知ってるだろうけどさ、オーバーワークなんだから、
一人一人にいい顔できないでしょ。
愛情たっぷり与えるには、父兄や地域の協力が必要で、不審者通報させてる場合じゃなくて…とか。
どういう接し方したら子供が素直になるとか。
ゴミみたいな情報が山積してる世の中なんだからさ、国がそういうの示してくれないとさ。
頼むわ。
自分はあまり賢くない受験生だが、その自分ですら、民間試験といい、新テストといい、永田町の人たちは就職氷河期ならぬ進学氷河期でも起こそうとしているのか、と疑いたくなるほどの出来である。
自分は英検、GTEC、TEAPと受けたが、かなりレベルに差がある。どれがどれとは明言しないが、こんな簡単なのか、というものからセンター試験より難しいものもある。
そんな差がある中で、どうやって共通の成績を出せるのか。一応、CEFRというものがあるらしいが、能力が変わらない自分一人でも試験ごとにズレが生じた。
能力に差がある人が受ければ、自分の実力以上もしくは以下の成績になってしまうだろう。それを「公平」と呼べるわけがない。
そして、首都圏の人たちはまだいい。自分に合った試験もしくは簡単な試験を選択できる。だが、地方の人たちはどうだろうか。地方の人でも受けやすいように受験会場を近くに設置するとあるが、それはすべての団体が同じような場所に設置してくれるのだろうか?
A地方はGTECしか受けられません。とか、B地方はTEAPだけです、とかになればどう考えても地域格差が出るのは目に見えてる。そうでなくとも、首都圏の生徒のように日帰りで受験する事ができない生徒だってでてくるだろう。少なくとも、地域によって格差が生まれるのは明確だ。
折角、地方創生大臣なんて役職作ったのに地方を忌避させるような事をしてどうする。もはや呆れや怒りを通り越して滑稽としかいいようがない。
そして試験の中身もグローバルとは程遠いものが多い。特にスピーキングはガバガバである。
GTECは機械でスピーキングテストを行うが、各問に与えられる解答時間はかなり短い。何回か考えている間に解答時間を過ぎて解答出来なかった。だが、実際の会話で制限時間などあるだろうか?流石に何時間も黙るというのはダメだろうが、流石に十数秒話さないだけで話を聞かなくなる人などおるまい。重要なのは少し時間がかかってもいいから内容をちゃんと伝えられるかが重要であろう。コミュニケーションとはそういうものではないだろうか。
英検とTEAPは試験官とのテストであるが、当たり外れがひどい。英検は受けてから久しいので忘れてしまったが、TEAPは日本人のおばあちゃんだったが上手い下手の前に声が小さくて聞こえなかった。聞こえなければ会話なんてできるわけない。大きくと何回かお願いしてやっとだ。(というかそもそも、日本人同士で英語能力をテストするのに意味はあるのか。グローバルとは何なのか。)
リスニングはICプレイヤーでなくスピーカーである。スピーカーだと座席位置によって聞こえ方が違うし、だれかが咳をしようものなら、耳に入ってくるのは英語ではなく咳の音である。
これを避けるためにセンターではICプレイヤーを導入したが、民間試験が採用する気配はない。なぜわざわざ劣化させようとするのか。
極めつけは、グローバルな人材育成のための導入だと言っているくせに、英語しか選択肢が無いことだ。グローバル化とは、世界中の人たちとコミュニケーションをとる事ではないのか?
であるとしたら、何故、英語以外の外国語の試験が導入されていないのか?
お偉いさん方は、英語さえ話せれば世界中で会話が可能だと思っているのか。そんな訳ない。
英語以外は学習指導要領外だから採用するわけない、という人がいるかもしれないが、この試験に採用されている英検1級やIELTSはどう見ても、高校の指導要領外のレベルである。英語であれば要領外でも許されるかと言われればNOであろう。なおかつセンターでは外国語は選択できる。
私にはグローバル化云々と語る文部科学省のホームページが胡散臭いものに見えてしょうがない。
どんな商品であれ、実験であれ、試行と修正を繰り返して完成するのは自明だろう。試行を一回行っただけで、精度が完璧になる事は奇跡に近い。
だが、もうプレテストは行わないという。それでどうやって精度を向上させるつもりか。まあ、「1~2年は精度向上の期間」と言っているので、来年整った試験ができるのは望み薄だろう。
内容もこれまた酷い。解いてみたが、ほぼほぼ文章を抜粋しろというものだが、小学校と中学校とやってた「~に当てはまる部分を本文中からn字で抜き出しなさい」を思い出させてくれる出来であった。要するに、思考力などほぼいらない。そして、おそらく言っている事は同じでも、言い回しが特殊だという回答も出てくるだろう。それを対応できるかも問題だ。
おおよそ50万人が受験する試験を20日程度で採点しなくてはいけないので、学生バイトを採用するといっていたが、学生バイトに公平かつ適切な採点をしろというのは無理な話だ。
彼らは素人である。たとえ明確な採点基準があったとしても、それと全く同じ言い回しの解答とはいかないだろう。そういったときに彼らの採点は公平と言えないだろう。
また不正や贔屓も横行するのでは、という心配もある。自分の後輩に受かってほしいと思う先輩もいるし、受験する側も大学生にいい点が取れるように「お願い」するだろう。そうなると、もはや公平云々など言っていられない。
数学は単に数式を書き込むので、採点ミスというものは少ないだろうが、それならなぜセンターのままにしないのか甚だ疑問である。
そして大学入試とは本来、独立行政法人の仕事、すなわち利潤追求を目的としない事業ではないのか。何故、事業を請け負っているはずのベネッセに対策講座などという、あからさまに利潤追求を目的としたものがあるのか。
受験者も大学も得をしない、得をするのは一部の企業だけだ。そんなことは既に分かっている。様々なところから不満や怒りの声、中止を求める声が上がっている。(当然だろうが特に高校から)
どうして、この問題の当事者であるはずの学生の声を政府は聞いてくれない?教育は国の繁栄の最重要課題のひとつではないのか。
大学での教育が重要なのは、ご存じだろう。なのに、なぜさらに実力とは違う部分で門戸を狭めようとするのか。
ここまで長々と書いてきたが、詰まるところ、改善なき改革はやめていただきたい。もし、どうしてもというのなら、きちんとした整備された状態になってから、いつに実施するというのを決めてほしい。受験生は数か月で新しいものに対応できるほど万能ではない。中止すると混乱するなどとおっしゃるが、混乱するのは我々高校生ではない。学生をおざなりにしてきたあなた方だけだ。
最後に、
この日記を書いてて、懐かしい言葉を思い出した。子どもを保育園に入園させられなかったお母さんが放った、「保育園落ちた日本死ね!」という言葉だ。
自分たちの努力ではどうしようもできないほどの壁がある、しかもそれが国民の代表であるはずの行政によるものであると感じている今、あのお母さんの言葉が重く響く。
以前は保育。そして今度は教育。
だれからも「入試落ちた日本死ね!」という言葉が出てこない結末を迎えられる事、そしてこの日記がしがない高校生の戯言で終わる事を祈る。
これは友人関係よりも自分の趣味と信念に基づいて行動した結果だ。誰しもがこうなるとは限らないが少なくとも私はこうなった。この先もこうであるのかは分からない。
近頃過去のことが頭を何度も過ぎる。
例えば、中学校の頃仲の良かった友人の一人と音信不通で彼はどんな男だったか
私はどんな風に接していたか曖昧に脳裏を過ぎるのだ。
彼と最後にあったとき私は何か間違ったことを口走ったのだろうか。今となっては分からないことばかりが頭を過ぎる。
もしくは
高校の時私は死んだように毎日を過ごした日々だ。
あの日々は人生の休暇だったのだろうと今になって思うが、あの頃のように私はもうゆっくり過ごすことが出来ないだろうと思う。
なにかに追われてるように人生を今は過ごしている。
本当にこの行動で良いのか、将来私はより良い環境にいるのか。良い環境に居たとして後悔はないのか。
または
専門学校の慌ただしい日々の中で家族をおざなりにしながらも、自分の事に打ち込んだ日々を思い出す。
資格取得とサークル活動それにアルバイト。
毎日が忙しく、夜帰宅しても急ぐように食事を食べてはすぐに自室にこもりアニメを見たりプログラミングをしたり、動画作成をしたりと趣味に没頭していた。
そんな日々が送れたのも今となっては亡き母のお陰だったと思う。寝坊すれば起こしてもらえ、夜帰ると食事が並んでいた。
今は家に帰ると一人で朝も誰も起こしてはくれない。
毎日毎日一人だ。段々と汚れてくる部屋を見ながら部屋を掃除してくれていた母を思い出す。
何もかも任せきりだったなと今は思う。母がボソリとまたガンかもしれないと言ったときや、家でふらついた母をみても「そんな風に思うこともあるか」と思っただけだった。もっと注意深くなるべきだったのだ。
もっと早く病院に行くように言っていれば少なくとも後数年は生きれたかも知れなかった。
そんな風に昔の日々と現在を対比する。
何気ない姉弟、母、父との会話、もうそれは再びすることが出来ない。
前職を転職した際に私は選択肢を誤ったのか?
もっと給料の良い職場も選ぶことが出来た。なのにゲーム業界を選んだ。
趣味でゲームを作りつつ彼女でも探して円満な家庭を築くような選択肢もあったはずだ。
今、私は一人だ。実家ではいつも母、姉、父、祖父が居た。そして時々別居しているもうひとりの姉の旦那が面白いことを話すのだ。
そんな日々はもう来ない。
実家には父と姉だけだ。
皆が元気だった頃は家族のLineとかに愚痴などを呟いたものだが、今はとても出来ない。
姉と父ともに傷ついている。これ以上心労をかける訳にはいかない。
弱音を吐くことは許されないのだ。
だからこうして、ただつらつらと心の内をここに文章化している。
私は一人だ。
誰か助けてくれと言って何人の人が振り向くだろう。
私には大事な友人がいる。
しかし、彼らと毎日会うわけではない。月に1回会えれば良いほうだ。そして彼らには私より親密な友人が居る。
きっと私がこの場で死んだとしても気づくのは何ヶ月も後になるだろう。
私一番最初に心配するのは皮肉にも近くて遠い職場の人達だ。
彼らにとっては同僚であり、ただの赤の他人。仲間というほど私は仲がいいとも言いづらい。
私の居場所はどこにあるんだろう。
私はどこに居るんだろう。
職場では常人ように振る舞っているが、発狂しそうな心の内を良く抑えられていると我ながら思う。
ココで奇声を発したらどうなるんだろうとやりもしないことをぼんやりと考える。
本当なら行きたくもない飲み会で、あるはずもない私の内側を演出する。
そうすることで職場の人と仲良くなれるのだ。
職場の一人の人に心の距離感が遠いと言われた。
間違いではない。
しかし、飲み会のときに近く感じたと言われた。
私としては丁寧語で話している普段のほうが素なのだが、
中身を晒したかのようなテンションの高めの私は普段の素だと思われたのだろう。それは演技に過ぎない。
むしろ疲れるので素だとは思われたくはないが、そういった素のように見える場面を晒したほうが世の中うまくいく。
今、私には親身にゲームのプログラムを教えてくれる先輩なんて居ないし、
心の内をSNSに晒したところで仮初の慰めの言葉を投げかけてくれる人も居ない。
どこかで私は道を外したのだろうか。
お金も祖父の遺産があり、私は幸いながら20代後半にさしかかったばかりで時間も少なからずある。はずなのにひたすらに焦り、悲しみ、孤独が襲ってくる。
頭の中が常にぐちゃぐちゃでせめて仕事のことだけを考えようと思ったところで人の感情は中々制御できない。
こんな文章を作れる時点で私は冷静ではあると思いたい。しかし、狂っているようにも思える。
もしかしたら、冷静に狂っているのかも知れない。
段々と掛け違いのボタンの様に不自然さが極まりない。
誰もが羨むような能力が欲しい。どんなに頑張っても最先端を走っている技術者には追いつかない。社内の中では中の上だと思うが世間を見渡すと大した技術力は私にはない。ただのクズだ。
もっと技術力が欲しいと「もっと勉強が出来るようになりたいと願う受験前の中学生」と同じような気持ちが未だに心のなかにあるかのようだ。
独りは嫌だ、独りは悲しい、まぶたを腫らして泣きつく相手が欲しい。怒りをぶつける相手がほしい。
誰も悪くない誰も悪くない。もしかしたら人並みに恋愛もしたこともない私が悪いのかも知れない。
親族の愚痴を言ってる人さえ羨ましい。愚痴を言う親族は生きてるんだから。
あるはずの未来が暗くしか見えない。世間は私に何を求める。私は世間に何を求める。
未だ中学生のような思考回路の私に世間は複雑すぎて目が回る。
私はただの卑屈屋なのも知れない。私には何が何なのか、もうわからない。
そういえば、Twitterでひろゆきが「無敵の人」が増えると言っていた。
https://twitter.com/hiroyuki_ni/status/1133262577402810370
私も遠くない日に無敵の人になるのだろう。
私は美男子ではないが、恥の多い人生を送ってきた太宰治の人間失格の道化を演じる主人公のような自分に嫌気が差す。
私はダメかもしれない。
誰が見ているわけでもないと思うが自分の思いを整理するためにココに書き捨てておくことにする。
はあちゅうのあれ読んで。
https://note.mu/ha_chu/n/n07be9b40c136
俺も子育て中の身ではあちゅうの心情はまぁよくわかる。わかるんだが、どうしても言いたい。
そもそも、産後間もないときは特に、子育てには誰か1人が常に張り付きになる。24時間制のシフトを回さないといけない。こんなことは出産前からわかっている。赤ちゃんには24時間1人が張り付くから家事は別の人が回す。飯、洗濯、掃除、ゴミ出し等。一日4時間くらいと見込んだとして、赤ん坊と家事を回すのにすでに一日28時間分の労働力が必要になる。この労働力をどうやって確保するのか。
そもそも産後のダメージを引きずっているママである。パパは育休あったとしても1週間〜1ヶ月である。夫婦ふたりでは必要なリソースを確保できない。すき家のワンオペも真っ青である。
そのためのシッターであり里帰り出産であり、嫁実家近くに引っ越ししたりなど、まぁ色々と試行錯誤するわけだが、世の中の意識の高い妊婦さんはなぜか産後ワンオペでも回せると妊娠中は考えているのである。アホか。出産のダメージも引きずって満足に体も動かないのに何をどうしてできる想定になるのか。昭和かよ。キアコン(気合と根性)世代かよ。結果割を食うのは旦那である。思ったより体の動かない嫁。泣き止まない、おっぱいが出ない、うんこが出ない、体は動かない、情緒不安定。事前の想定はワンオペで回せると思ってるから必要なリソースの確保も難しい。結局は旦那の睡眠時間を削って回すのである。どんな仕事でも頭を使うし、寝不足なら頭も回らない。旦那にもフラストレーションは溜まっていくが、子育てを手伝う意識が高く思いやりのある旦那は愚痴をこぼさない。そりゃね、嫁のほうが大変ですから。事前の想定が甘かろうが、今起こっている問題を解決しないことには何も始まらない。でもワンミスでこれである。
元を考えれば、1日に28時間分の労働力をどう確保するのかという話である。一つにベビーシッターさんは4時間で8時間分の仕事をしてくれる。その時間ママが睡眠をとるだけで、旦那の少ないリソース貢献と合わせると回るようになる。もちろん、里帰りはいいんだが、言っても1ヶ月2ヶ月の話なので、里帰り後に心配はある。ママかパパの実家が旦那の通勤圏内であることは最良ではあるが、そんなものはラッキーなだけだし、あと実家があっても頼れない人もいる。
とはいえ、労働力の確保は最優先事項である。これをおざなりにして産後育児は乗り切れない。そしてそれは夫婦二人のキアコンで回せるようなものではない。
夜桜たまちゃんの10月07日未明のTwitterから始まり、少し炎上のようになった件について、時系列順にまとめて見ました。
あくまで私は夜桜たまちゃん、そしてアイドル部のファンの立場ですし、スタッフ側の意見がまだ出ていないため、意見が偏っている可能性は高いことはご承知下さい。
10月06日、夜桜たまちゃんが、下記のようなTweetをしました。また、プロフィールからも、.LIVE所属の文言を消すという事件がありました。
譲れない部分は譲っちゃダメだと思いました。
私は、譲らないです。
私はなんだかんだ言ってもみんなのこと好きだよ
だからこそ、一緒に頑張ってくれたみんなと私の一年半を軽視されるような、言葉を、行動を、許せなかったです。
ごめんなさい。
このことで、ファンからは「たまちゃんの中の人が入れ替わられる」「脱退するのか」といった混乱が起こりました。
10月07日、Tweetの内容について、何があったのかを動画にてメッセージを伝えました。
(タイムラインには残らない形式なので、Youtubeでは該当の動画は見れない)
その動画の内容から判明した、事の内容を時系列順にまとめてみます。
予定日が平日なので、早めに告知をさせて欲しいとずっと伝えていた。
9月末に告知する予定となっていたが、スタッフから何も連絡がない。
どうなっているのかと問い合わせたが、「確認します」と言われ、その後「色々あって忙しいのであとまわしにしていた」と言われる。
それからずっとこの事に大して訴え続けていたが、ずっと邪険にされる。
禄に連絡もされず、忙しくて後回しにしていたとか言われる状況で、ファンの方に「ソロライブやるよ!」なんて胸を張って言えない!と訴える。
何度も考えた結果、「譲れない部分は譲っちゃダメだと思いました」のTweetをすることとなった。
内容としては、どうピックアップしても嘘になりそうだが、できる限り伝えると
・このような状況で、ファンの人に胸を張って「ソロライブやるので来て下さい!」とはどうしても伝えられなかった。そんな嘘はつきたくなかった。
・そんなおざなりなやり方でソロライブをやるくらいなら、やらないほうがよいと伝えた。
・今回のことだけではない、言いたいことがたくさんあったけどずっと我慢してきたことがあって。どうしても許せなかった。
・こちらからすべて「どうなっているんですか」と聞かなくては何も状況がわからないことが続き過ぎた。
・配信も、本を書くのも、他のことも全部好き。そのすべてを全力でやりたい。他を頑張った結果、ライブがおざなりになったなんてファンに思われることは本当に嫌だった。だけど、自分がそう思っているだけではどうしようもないんだということがわかり、思い悩んだ。
・そのことを何度も怒っても、全く伝わっていないんだろうと感じた。
・この騒動の結果、今後どう改善するかなど、スタッフ含め話し合った。
・この配信も、スタッフの人にもちゃんと言い、自由に話していいと言われている。
・他のアイドル部の人は何も悪くない。自分が一人で言っただけ。
・今後のソロライブは未定。もしやるとしたら、「あとまわしにされたソロライブ」というタイトルにして笑い話にしたい。この話を聞いた上で、それでも来てくれるならとても嬉しい。
・考えなく衝動的にやったのではなく、しっかり考えた結果やったこと
・他の人を傷つけたかったわけではないが、そう見えてしまったのは事実。ごめんなさい。
・アイドル部の人を巻き込みたくなかったため、事前には何も言っていない。Tweet後、このようなことがあったというのを伝えた。配信の内容も事前には伝えていない。
・このことに関してはすべて自分の話。他のアイドル部に波及させるのだけは本当にやめて欲しい。
・自分が言えることではないが、めめめのソロライブ、チエリーライブ、この事は関係なく、純粋に楽しんで欲しい。
単純に後回しにされたことを怒っているのではなく、そのような状況でソロライブを通知してと言われ、「そんな状況では胸を張ってファンの人に伝えられない」と訴えても禄に取り合ってもらえなかったからこのようにするしか無かったというのが、ファンとしては嬉しかった。
誰が一番悪いのかと言われれば、スタッフの心を削るほど仕事を押し込んだ上層部だろう。
スタッフの方も、別に情熱が無い訳では無いようなのだが、仕事が忙しすぎて余裕を失い、雑な対応になってしまったように思える。
足りていない人数で、多分禄にスタッフの声も聞かずに運営していた上層部が一番悪いんだろうと思う。
二番目に悪いのはスタッフ。
忙し過ぎるなら上層部に訴えて、人を増やしたり予定を減らすなりしなくてはならなかったと思う。
また、その状態でも、問い合わされて初めて「忙しくてソロライブのこと後回しにしていました」「でも告知はして下さい」なんてことをいうのは流石にどうかと思う。
馬はろくに役に立たなかったようだが、実際の役割がよくわからないので除外。
たまちゃんは、やり方としては100点満点ではなかったのは間違いないだろうが、それでもどうすれば最善だったのかは、誰にもはっきり言えないだろう。
もちろんこれは、私のポジションがアイドル部のファンで、たまちゃん擁護派だというのもある。
ただ、
スタッフの人に何度も訴えたけど、改善する事がなかったというのは、しっかりと事前の対応はしていたと思う。
めめめのソロライブ前だが、その後にもチエリーランドが控えているし、その後だってなんだかんだでイベントなどあるため、どのタイミングで言っても駄目だったというのはわかる
アイドル部のみんなを巻き込みたくなかったというのもわかる。
とは思っている。
たまちゃんの心を押し殺せば、ある程度丸く収まったというのもわかる。
多分、たまちゃんの心を犠牲にするか、他を巻き込んで訴えるかの二択という状況だったんだろうと思う。
個人的には、色々な影響は認識しているが、それでもたまちゃんが自分の心を犠牲にする選択をしなくてよかったと思う。
それでもめめめのライブが終わるまでは待ったほうが良かったんだろうなとは思うが、あのたまちゃんが考えた末の行動だったのなら、本当にこらえきれなかったんだろうというのは理解できる。
そして、たまちゃんが頼ることのできた大人が周りに居なかったのが悲しい。
けして悪い人ばかりでは無く、むしろ情熱を持っている人多いのだろうが、この問題を内部で解決できる人は誰も居なかったのは悲しい。
その後、(これもアーカイブには残っていませんが)花京院ちえりちゃんの配信で言っていた通り、純粋なめめめへの愛情をもって、楽しんで行ければと思っています。
あれ何とかならんもんかといつも思うのだが。
General Security of Military Information Agreement
「軍情協定」
の方がピンと来て分かりやすいはず。
Trans-Pacific Partnership Agreement
「環太協」
と呼んだ方がストンと来るやん。
明治時代の人達は横文字に対して一生懸命訳語を作ったわけでしょ。
philosophy→哲学、とか。みんなが母語で物を考えられるようにと。
フライパンで魚を焼くにはクッキングペーパーが必要、という記事をネットで読んだので、
マツキヨでそれらしいのを買ったわけ。
これsustainableの訳語でしょ。「長持ち」でええやん。
(「オタクエリート」とはなんだ?)
(検索すると「オタク検定」とか出てくるが、それはSF関係なさそうだが?)
それとも、本気で心当たりがないのか?
果たして「見下せる相手がほしいから」「SF警察が悪い」という結論になるか?
「萌えを混ぜることで作品が台無しになる」そういう傾向(法則ではない)は確かにあるだろう。
有限であるリソース(時間、金銭コスト、労力)が萌えに割かれた結果、本筋がおざなりになるためだ。
SFファンは、そこを警戒している。ゆえに「萌え」はノーサンキュー。
萌えオタはしょうもない「事件」や「騒動」を起こしすぎるのだ。
萌えオタのターゲットは老若男女問わずあらゆるところに存在する。
しかも萌えオタは質より量の物量で押すスタイルの攻撃(嫌がらせとも言う)がやたらと目に付く。
(たった1つのレビューが槍玉に挙げられるSF警察とは対照的である)
SF警察が曲がりなりにも正論でレスバトルしようとしているのに対し、萌えオタは熱量を武器とする。
ブレーキの壊れたヤバイ萌えオタたちが世論を誘導すべく日夜せっせと働いている……。
しかも過激な萌えオタは場合によってはリアルアタックさえ辞さない。
それら努力が本人たちの望む形とは異なる形で実を結んでいるのだ。
つまり萌えオタの普段の振る舞いを考慮すればドン引きされて当たり前ということになる。
それが、なんで「SF警察による被害者」みたくなってるのか?わけがわからない。
(萌えオタの脳内では今流行のブロックチャレンジとかも全部相手のせいにされてそう)
(「コンプレックスを感じさせた」「だから敵であり悪なんだ」という屈折した理屈だ)
(勝手にコンプレックスを抱いて勝手に敵視するのは、なぜなのか?)
>>嫌われっぷりを見れば一目瞭然
「SF警察が嫌われているからSF警察は悪い」という不思議な理屈?(それはトートロジーじゃないのか?)
二次創作ばかり書いているけれど、一次創作に比べて、世界観やキャラの設定を固める、物事について勉強する、小説の命題をきちんと考えるということがおざなりになるなと感じた。
自分が書いているのはギャグ漫画のBLや男女カプの好きだ嫌いだの繰り返し、適当にセックスするという、ズリネタを世界発信している、超絶うんこだ。
世界観や当時の風俗をきちんと勉強しないとかけない、ゴールデンカムイの二次創作を漫画や小説媒体問わず、描き切る作家さんをみると、この人がオリジナルを作ったらすごいのだろうなと、いつも羨望の眼差しで見てしまう。
人のふんどし借りて、ハアハアしてオナニーするのも、それを愛しい作品ですと言い切って作家気分になるのも娯楽と言えば娯楽なんだろうけど、小説を書く、漫画を描くという、想像に触れる作品を一度触れてしまった以上、自分が人に伝えたいことをどこまで通用するか頑張りたいなと思う。
「二次創作は自分のために書いてるけど、生産したからには感想欲しいって思うのは当然じゃん」ってのはわかる。すご〜〜〜くよくわかる。私ももらえればすごく嬉しい。別に罪でもなんでもない感情。もらえなくて寂しい辛いと言うのも理解できる。
でも「感想もらえなくてやめる」とか「このカプに私のいる意味はない」とか「本が売れない」とかやめろ。それは砂かけだと自覚して。
「私がいる意味がない」「空気みたいで辛い」どころか、公式にとっては迷惑行為なんだよ。だって二次創作ではなく全てグッズや課金などにお金や時間使ってくれる方がありがたいし、それがあるべき正しいファンの姿。でもそうじゃなく二次創作にお金かけてるよね、それはなんで?
pixivのカプ件数が一つでも増えたり、イベントでスペが一つでも増えるのは「意味」にならないの?
極論一冊も売れなくても、イベントで推しカプスペや推しジャンルスペが一つでも増えることに意味がある、で十分じゃん。界隈が盛り上がれば嬉しいじゃん。
「自分が注目されたい、自分を見て欲しい、自分が自分が自分が」っていう承認欲求や自己顕示欲満たすためなら一次創作行けば?人様のキャラを自分にスポットライト当てるための道具にするのやめなよ
◇
「感想もらえないから筆折ります」?「本が売れないからやめます」?界隈の盛り上がりや集客が欠けるせいってこと?推しカプに砂かけるのほんとやめて。
「肥大した承認欲求が辛いからやめます」って言いなよ。責任転嫁するんじゃない。
あなたが辛いのは、感想を山ほどくれない読み手のせいでも、五桁RTされない流行りのすぎた斜陽ジャンルのせいでもなく、あなたの心根の問題です。
◇
底の抜けた花瓶に生けられた花に、いくら水を注いでも無意味。水を求めるならまず穴を塞いで欲しい。
花が萎れるのは花瓶が原因なのに、「水をくれないからやる気でません」「誰も水貰えないんじゃ描く意味がないよね……」ってあのさあ…………。
だいたい私も、私以外の人も感想送ってたよ?本も買ったよ?それじゃダメだったのはなぜ?
一体具体的に感想をいくつ、評価をどれほどもらったら満足するの?もしかして、あなたが満たされることは永遠にないんじゃない?どんなにレスポンス貰っても精神は乾くんじゃないの?
「感想貰ってるけどまだ足りない、もっとほしい、もっともっともっと!レスポンスが足りなくて辛い」って人は「感想ください」って壊レコみたいに延々と言う前に自分の精神を見直して
◇
私は10冊刷って2冊売れれば御の字の、一般的に言えば”底辺”同人書きだと思う。マシュマロは設置してから二年間一度も貰ったことないし、いわんや差し入れをや。
でもマシュマロとかpixivコメみたいな直接メッセージじゃなくて、RT先での空リプはたまに頂く。欲を言えば返信したいから直接ほしいけど、それでもすごく嬉しい。
10個ワンドロ作品あげて、ひとつ感想もらったら一年は突っ走れる。
私はスペース代や印刷代や交通費など同人関係で年20万円お金を使っている。常にマイナスでイベント出れば出るほど赤字。真のジャンルファンならそのお金は全て公式に貢ぐべきだと思う。
でも二次創作してる。なんでだろうね。
あなたが辛いのは仕方がないけど、せめて楽しんで二次創作してる人もいる界隈で、感想を送った人や本を購入した人もいるだろう界隈で、「感想貰えない辛い」「本全然売れない」とかネガティブな意見を際限なく垂れ流すのやめてほしい。お願いします。
やめるのは自由だけど、砂かけするのはやめて。あなたが辛いのをジャンルのせいにしないで。
せめて具体的にどれくらい感想をもらえれば、何冊売れれば満足なのか、目標数を提示するくらいはしてほしいです。
【おまけ】感想たくさん貰ってる人の特徴
感想クレクレしてる人って、返信おざなりな人多いイメージがあるけどそこら辺どうですか
小説より絵、イラストより漫画、18禁アホエロより全年齢ストーリー性、腐より夢小説や◯◯愛され、など「感想もらいやすい作品」傾向というのは確かにある。あるけどその中にも差異はある。
一本小説をあげればブクマは百ほど、でもコメントを10個近く貰える人を知っている。
この方、とにかく返信が豪華。あと速筆。
「かわいいです」「萌えました」という一言コメントにも、「ありがとうございます」だけじゃなく、「Bのこと世界一かわいいと思ってます!」とか「萌えるキスシーンが書けるよう気合入れました」とか「実は裏設定があって〜」など1の感想に100返す。
ここまでやれとは言わないけど、より多くを求めるのではなく、とりあえず今あるもの、今感想をくれた人を大切にすることから始めるのもいいと思うよ
今話題になっているあいちトリエンナーレについて個人的に思うことが色々あったので書こうと思う。細かいことを話して特定されると普通に死ぬのでぼかすが、一応運営ボランティアとして展示に参加している。
クソ長い。
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最初に断っておくと、今話題になっている「表現の不自由展・その後」についてだが、私はぶっちゃけ見ていない。今となっては炎上が勃発した時点で見に行っておくべきだったと後悔しているのだが、いやだってまさか3日で終わるとは思わねえもん。
と、いうのも事前のボランティア研修とかで「表現の不自由展・その後」に注目している人は私の知る限りほぼ皆無だったからだ。一応警備対応とかの事情で説明は受けたがそれについて「楽しみだ」とか「心配だ」とか言っている人は居なかった。別に目を逸らしていたとか重大性を認識していなかったとかではなく、ちゃんと理由もある。
他の人は知らないが、個人的には「表現の不自由展・その後」については「色んな理由で各地の展示会から撤去された作品を集めてみました」くらいの認識だった。面白そうな企画だ、地獄のデスマッチ感がある。しかし確かに面白そうだが、言ってしまえばそれだけなのだ。
話が変わるが我々ボランティアが研修で何をやっているかと言うと、作品の知識を蓄えるのではなく、自身の感性に従って自由に鑑賞する、所謂対話型鑑賞とかVTS(定義は微妙に違うのだが)と呼ばれているものを実践している。具体的にどんな感じかというと、背景知識はほぼなしで作品を見て
「画面は綺麗だけど、人物の顔が悲しそう、破局を予兆しているのでは?」
などとそれぞれの感性や経験に基づいて解釈を語りあうのだ。これが結構楽しい。例えるなら深夜のファミレスでオタクが集まってエヴァ最終回について語り合っている状態に近い。割と何分でもやっていられる。
だがそういった観点から見ると、「表現の不自由展・その後」があまり魅力的でないことは分かってもらえると思う。「近代化」、「ジェンダー」、「作家自身の半生」、トリエンナーレには複雑なテーマを持った鑑賞しがいのある作品が沢山出品されている。「表現の不自由展・その後」は企画としては面白いがある意味「企画落ち」なのだ。事前に具体的な作品内容が分からなかったというのもあるが、それ以上掘り下げようがない。寧ろ中止になった今の方が色々語れる。
そんなわけで「表現の不自由展・その後」がここまでの話題になったのはかなり意外だったし、多くの人にとってあいちトリエンナーレの第一印象がそれになってしまったのは少し残念でもある。
さて「表現の不自由展・その後」の中でも特によく燃えていたのが慰安婦と昭和天皇絡みの展示だと思う。政治的にインパクト抜群だからだ。だがここまで千字くらい駄文を読まされて大分心と頭が冷え切っているところだと思うので、少し冷静に展示のコンテクストについても考えて欲しい。
「表現の不自由展・その後」は「あちこちの展示会で撤去されたやつを集めて展示する」というコンセプトで行われている。よってこの企画で展示されているのは慰安婦像それ自体ではなく、あくまで「どっかから撤去された慰安婦像」なのだ。
ソウルの日本大使館前に慰安婦像が設置されたとき、メディアはこぞって大使館と慰安婦像が一緒に映った映像を放送したと思うが、あの報道に対して「不快だから映すな」と怒った人は居ただろうか。まあ居なくはなかったかもしれないが、多分映さない方がもっと怒られるだろう。怒らないのはそれが「大使館の前に慰安婦像が設置されたという報道」だとコンテクストも含めて理解しているからだ(勿論どちらの場合も制作サイドの意図は別にあるのだが)。
今回の展示ではそこのコンテクストがおざなりにされたまま、日本に実物の慰安婦像が展示されているというインパクトと、SNS上の断片的な情報で事態が拡大してしまった感がある。
また若干話が大きくなるが、余裕があったら歴史的なコンテクストについても一度考えてみて欲しい。慰安婦像というと直ぐに反日というイメージに結びつけがちだが、何故そう思うのか。
そもそも慰安婦なんて居なかったと考えている人からすれば一応理屈は通っている、悪意のある捏造ということになるからだ。
しかし、詳細については諸説あるが、そういうものが存在したということだけについては歴史的資料も揃っているし、両国の見解も一致している。つまるところ歴史に認められているのだ。
負の歴史を展示し続けることは未来に生きるだれかにとっての悪意になるのか、日本を始め第二次世界大戦に関わった各国には慰霊碑やモニュメントがある、ドイツやカンボジアには国内の虐殺を記憶するモニュメントがある、それを見て不快になる人はいるだろうし、寧ろ不快になるべきなのかもしれないが、ならそれらは排除されるべき悪意なのか、そもそも悪意は無条件に「悪」なのか。
場所によって反応も変わる、オバマは広島の原爆資料館に行ったが、アメリカでスミソニアンがエノラ・ゲイ展示をやろうとしたときは退役軍人たちから大バッシングが来た。そういった反応の違いは展示の意味、ひいては歴史の意味に影響を与え得るのか、得ないのか。
そして誰の、誰に対する悪意なのか、人の属性は一つでないし必ずしもはっきり分類出来る訳でもない、あなたが引いた「味方」と「敵」の線など気にも留めず他人は好き勝手踏み越えて生きる。例えば、韓国人男性と日本人女性が慰安婦について議論しているとして、彼らは一体どの立場にいるのか、そこに存在する先入観は何か。
話が大分概念的になってしまったが、何が言いたかったかというと、コンテクストというのはそれだけ膨大で複雑なのだ。
勿論コンテクストには政治性だって含まれる。慰安婦像が純粋に歴史的なモニュメントというより政治的に使われているのは明らかだし、恐らくそれは大半の日本人のせいではないので、あんな一触即発なもの見たくも聞きたくもない、というのは分かるし別に普段はそれで構わないと思う。
ただ死ぬほど暇なときにでも少し考えてみて欲しい。メディアの報道を見ていると日韓で政治的な同意が得られれば慰安婦像は撤去されていると考えている人もいるようだが、その必然性はない、だって歴史に認められているから。というかそれで撤去されたらマジで純粋なプロパガンダだったって言っているようなものだからやめろ。
像はコンテクストの中で存在し続けるし、今回の展示もそのコンテクストの一部である。
批判するにせよ擁護するにせよそこに対する考察がなければそれはインパクトに押された感情任せでしかないだろう。
それでも慰安婦像許せないし完全に撤去したいんだけどっていう人はどうすればいいかって?そこも歴史に学ぼう。
アメリカでコロンブスとかリー将軍の像が次々撤去されているのはニュースで聞いた人もいるだろう。時代の変化とともに歴史観は書き換わる。虐殺や奴隷制擁護者としての側面が評価され、彼らは英雄ではなくなった。もはや歴史に認められていないから像だって撤去される。
個人的には英雄として評価されていた歴史も含め展示するのも面白いんじゃないかとも思うが、少なくとも公共の場のモニュメントとしてはふさわしくないと判断されているのだ。
つまり慰安婦像を撤去したいのなら何らかの方法で歴史観を書き換えれば良い。そして歴史学の徒は全力で戦って阻止すれば良い。
トリエンナーレ運営が「表現の不自由展・その後」の公開を取りやめたことについて、ネット上では様々な意見が飛び交っている。これについては「脅迫に屈した」とか「作家に許可をとっていなかった」とか確かに色々と問題がある気はするのだが、津田総監督や大村知事が会見で言っていた「安全管理上の問題」という観点からは正直仕方がないと思っている。
第一に展示施設自体の問題だ。あいちトリエンナーレには複数の会場があり、「表現の不自由展・その後」が展示されていたのは愛知県文化センターの8階、所謂「県美」だ。関係者の名誉のために言っておくが、日本は災害が多いだけあって美術館や博物館といった文化施設の安全管理にはそれなりに注意が払われている。耐震設備に水害対策、防火設備、さらには盗難や破壊防止のための監視員や監視カメラが多くの施設で導入されている。
しかしテロや大人数による襲撃までは対応出来ないというのが現実だろう。海外の博物館ではそういった事態も想定して手荷物検査などを実施しているところもあるが、日本でそれをやるのは割に合わないと言わざるを得ない。
第二に運営側の問題。最初に言っておくがあいちトリエンナーレのような文化事業というのは基本的にクソクソ&クソ金がない。
確かに税金から拠出の予算10億は大金だ、これだけあれば50回くらい安心して老後を過ごせる。しかしそれでアーティストを100人くらい呼んで75日間展示会をやれと言われたら難易度はルナティックだ(他に寄付金とかもあるので実際の予算規模はもっと大きいはずだが)。
よって私も含めた運営スタッフの多くはクオカード1枚で半日働くボランティアである。加えて事前に結構勉強もしないといけないし、当然交通費とかも出ない。
これだけ聞くと何が悲しくてそんな苦行をとか思われるかも知れないが、最初に言った通り美術館とか博物館とかも含めて文化事業は取り敢えず金がないので、もうそういう人たちがいないとほぼ成り立たないのだ。そこで講習会とかバックヤード体験を餌にこじらせ教養オタクたちをボランティアとして釣っている、というか釣られている(※個人の感想です)。言っていて悲しくなるし話が逸れるのでそこら辺は省くが、つまるところ何が言いたいかというと、テロとか起きると我々はタダ働きの挙句何も出来ずやられる。勘弁して欲しい。
最後に若干抽象的な話になるのだが、良くも悪くもあいちトリエンナーレは寄せ集めというのがある。
運営側の細かい事情は知らないが、直前までどんな作品が出るか分からなかったりしたので、少なくとも運営と作家が一体となって特定のテーマに沿った展示を作るという感じではないと思う。恐らく「情の時代」とかいうぼんやりしたコンセプトに基づいて作家を招待して展示スペースを用意している感じだ。
「表現の不自由展・その後」だって別に運営が企画した訳ではなく、かつて行われた「表現の不自由展」を招待しただけだ。
展示施設の職員に至ってはそれを公務員の業務として受け入れているだけである。
よって、運営の中心スタッフ、末端のボランティアスタッフ、施設や関連団体のスタッフ、さらに作家間で一人一人が一つ一つの作品に全て賛同しているとかそんなことはあり得ない。まあそれはある程度の規模の組織では当然のことだと思うし、そうでなければ大規模で多様性のある展示会なんて開けないだろう。なので断っておきたいが、会場とかSNSで関係者に絡んで「トリエンナーレの見解」とやらを聞き出そうとしてもそんなものはない、せめて総監督に聞いてくれ。
そんな緩い結束でつながっている人々を「脅迫に屈しない覚悟」に巻き込むのは正直言って無理がある。
それらを踏まえてトリエンナーレ運営の対応はある程度仕方なかったとは思うのだが、しかしそうせざるを得ない状況には大きな問題がある。
先述の通り、施設や組織の問題でテロや脅迫に対応することは出来ないし、安全上の問題を考えると「表現の不自由展・その後」の展示中止は仕方ない側面もあると思う。
しかし考えてもみて欲しい、そもそも武器とかガソリン持った奴相手に対抗できる団体・個人がこの国にどれだけいるのだ、極真空手の総本山とかか?結構な大企業だって本気で襲撃されたら対応出来ないことの方が多いだろう、必然的にそれを仄めかす脅迫の時点で相手側の要求を飲まざるを得なくなる。
暴力による権利への挑戦に対しては個人レベルでなく、社会全体として対抗しなければならないし、行政側には憲法に基づいてその義務がある。
最初に特定されたら困るから匿名で意見すると書いたが、そもそも身の危険を感じて発現を躊躇しなければならない状況自体がおかしいのだ(勿論それとは別に自衛はするが)。
また、津田総監督が会見によると脅迫と並んでまずかったのが「電話」らしい。
抗議の電話でまず事務局の回線がパンク、結果つながらなかった人たちが県美や文化センターに掛け、何の対策もしていない職員が罵声を浴びせられる、しかも公共施設なので切らずに対応しないといけないという事態になったらしい。所謂「電突」と呼ばれるものだ。
ネット炎上とともに話題になることの多い電突は、市民による集団的抗議の形態とも見做せるが、一方でインターネットという新興メディアによるメディアスクラムともとれる、特にやられる方からすればそうだろう。
確かに組織には説明責任がある、取材と報道の自由もある。けどそれが対象となる人々の生活を過度に制限するようになればそれは権利が守られている状態とは言えないし、何かしらの法にも触れそうなのだが、恐らく相手が不特定多数ということで対策が難しいのだろう。スクラムを仕掛けた側を罰しろとかではなく、対象となった側を守る為の社会整備は必要だと思う(と、ずっと前から言われている気はするのだが…)。
誤解しないで欲しいが、ここでいいたいのは抗議をするなということではない。
表現の自由というのは反論されない権利などではない、ただやり方の問題だ。
話がまた大きくなるが、個人的にはどれだけ平和主義を語っても「戦い」なんてものはなくならないと思っている。政治も、経済も、受験も、スポーツも、婚活も、創作も、結局は「戦い」なのだ、ただそれをいかに物理的な暴力を伴わず決められたルールの範囲内でやるかが、人類が積み上げてきた理性とか法治とか文明の指標なのだと思う。
抗議は存分にやればいい、カウンターとなるアートを作成しても良いし、ネットに長文を書き込んでも良い、署名やデモでも良い。そして表現の自由と言っても万能ではない、脅迫罪、威力業務妨害罪、侮辱罪、名誉毀損罪、プライバシー権、著作権…憲法に定められた公共の福祉の概念に基づいてそれを規制する法律なんてごまんとある。そのうちの何かに抵触してそうなら訴訟という手もある。ただやるからには全て合法的にやれというだけの話だ。
pixivで気に食わねえ解釈を見つけたら自分の解釈を倍の質と量で投稿して相手の筆を折るのが仁義というものだろう。すまない今のは完全に個人の意見だから忘れてくれ。
じゃあこの場合どうしたらいいのか。
少し話が飛ぶが比較のため「コンビニエロ本問題」について話させて欲しい。「コンビニエロ本問題」とは女性客などからの抗議を受けてコンビニから18禁の本が撤去されている事態のことだ。あれを表現の自由と結び付けて語る人もいるが、私はそうではないと思っている。
何故ならあくまでコンビニは民間の営利団体だからだ。コンビニ業界に詳しい訳ではないので話半分に聞いて欲しいのだが、もしコンビニ側が「エロ本を撤去しないとタピオカを積んだトラックで突っ込む」とか脅迫を受けているならば、それは許すべからざる犯罪だ、しかし多分そうではないだろう。
抗議が原因と言われているが、恐らくより正確には「エロ本絡みの抗議や客足減退に対してエロ本の売り上げが割に合わない」が原因なのだと思う。
コンビニで18禁本を最後に買ったのはいつだろう、正直質はともかく量と利便性はネットの方が格段に上だと思う。正確な売り上げは知らないが、エロ本だけで月々1兆円くらい純利益が出ているなら、あの容赦のないコンビニ業界が Permalink | 記事への反応(15) | 22:16
最近仕事で英文メールに対応しなきゃいけなくなったので今更マスター英文法とか引っ張り出して勉強してるんだが、
(基本的にトラブルに関する話題が多いので、受動態とか過去完了とか現在完了進行形とかの便利さが今更理解できた)
よくわからないのがThinkとBelieveのニュアンス。たとえば下記のようなのをよく見かけるんだが
1) I think this issue got solved by yesterday's patch. Could you check again?
2) I believe this issue got solved by yesterday's patch. Could you check again?
(2)の I believeは、「修正済であることを確信しています」なのか「もしかしたらたぶん直ってるので」なのか、どっちなんだろう
Believeで辞書を引いてみると「物・事の真実・存在を信じる、が本義。確信の弱い時にも用いる」と書いてあって、これ文脈から判断するの無理くね? という
ThinkもBelieveも意見の表明であり、 "This issue got solved by yesterday's patch" よりは弱いというのは理解できるので、
その弱い意見の重みががたぶんだろうが確信だろうが大差ないんだろうなあとは思うんだが
とはいえひとつの単語が「信じる」と「たぶん…だと思う」の両方で使われるってどういうこと? というのが正直言って理解できない
みんな歳を取ったっという事かも知れない。
描かれている内容が『(政治的に)正しい』とか、メッセージが素晴らしいのが『いい映画』。いくらお金が掛かっていてもメッセージがおざなりな娯楽映画は『ダメな映画』という政治的な有り様に反発していた町山さんが、ポリコレベッタリのハリウッドの映画が素晴らしい!も含め、こんな政治的な人になるとは思わなかった。
今はアメリカで好きなだけ大麻でも吸ってご機嫌なんだろう。そりゃ結構だ。とっくにtwitterもフォロー外したし、ミュートもした。
昔の本は楽しかったし、映画秘宝も判型が小さいのも含め結構な間買っていたよ。
でも、さようなら。
出世ってほどじゃないんだけどアラサー終盤でやっとリーダー職になって、社会人になって初めてお給料が増えた!ちょーーーうれしい!!
今まではずっと貧乏専門職で、いつもTシャツジーパンスニーカーみたいな恰好のままPCの前でだけ仕事してたけど、立場が変わることにより生活も結構変わってきた。
まず、お客さんのところへ行くことがいきなり増えたので、ある程度ちゃんとした服を買わなきゃいけなくなった。今までファストファッション中心のペラペラな服ばっかり着てたから知らなかったんだけど、(物にもよるが)1万円代後半の服って皺がつきにくい!なんか生地がちがう!ピーンとしてる!!あとかわいい!!!
ワンピースなんかは帰宅したらファブリーズ吹きかけて、何回か着たらクリーニング出せばいいから、洗濯物の量が随分減ってラクになった。いつも平日にた溜め込んだ洗濯物を休日にまとめて洗ってたので、土曜日が洗濯機回して干してだけで終わる、絶望…ってことが格段に減って嬉しい。あと高い服はかわいい!さいこう!!
お客さんに対してもそうだけど、後輩たちにちゃんとした大人として見てもらいたいと思うようになったので、化粧品もちょっとだけ気を使えるようになった。知らなかったんだけどファンデーションって使うと減るんだね。一生使いきれないと思ってた(そもそもほぼ使ってなかった)。
中でも今まで面倒であんまりやってなかったネイルがすごく楽しい。これまですぐにハゲてたのは安いやつばかり使ってたからだったんだ。思い切ってデパートのカウンター(これまであんまり縁がなかったから緊張した)で買ってみたら、ムラになりにくいし長持ちもするじゃん、まじかよ。
爪がキレイでぴかぴかしてるって全然気分が違う!仕事中、自分の爪に落ち着いた色のネイルがきちんと塗ってあるのを見ると、自分は大人なのだ!しっかりせねば!という気持ちになれていいね。ただジェルネイルはメンテが大変そうだからまだ挑戦する勇気がない。
若い頃はそれなりに美容に興味があって頑張ってた頃もあったけど、20代の終わりごろ、自分には「結婚して家族と和やか暮らす」ことが実現できないと気付いてからは、仕事と趣味に没頭していて化粧もスキンケアも服選びもかなりおざなりになってた。宝石みたいなデパートのコスメやショーウインドーの中の綺麗な服は、どう頑張ったって自分には手に入らないんだから、視界に入っても「私には関係ない」って自動的に判断して無視してた。
でもやっと歳相応のメイクやファッションに手が届いて「頑張れば自分にも買えるんだ~」と思えるようになてから、目に映るものがみんな自分に関係あるんだと思えるようになった。今まで本屋くらいにしか用事のなかった駅ビルに、行ってみたいお店がいきなり増えた。なんかもう、何見てもすんごくキラキラして見える。
すごくいろいろあって結婚も子供もあきらめたけど、周囲は着々に結婚したり、子どもが産まれたりしている。そんな中私も容姿だけは彼らと同じスピードで着々と中年になっているのに、自分だけが幼稚な精神のまま成長せず、周囲から置いてけぼりにされてる気がしてた。
それでも、自分なりにようやく「大人になった」って自覚できるようになれたから、貧乏でも孤独でも約10年間好きな仕事を続けていてよかった。ワープアはマジで死ぬほどつらかったけどね…。
独身女は何かと風当たりが強いけど、他人に何を言われようが、私がめちゃくちゃ楽しく生きてればそれでいい。これからも私が楽しく生きていけば、これから歳を重ねてゆく女の子たちがいつか独身中年になる頃には、独り身の女だってもっと生きやすくなってるはずだ。
男も女も、結婚するひともしない人も、病気や障害がある人も。みんなが生きやすくて、他人に文句なんか言ってられないくらい楽しく生きられればいいのになーーーって言ってるそばから「子供産まない女はゴミ」みたいな雑音が毎日毎日目に入るのであった。うるせー!子供育ててないぶん経済に貢献するし、年金も収めるし募金もするし、子供いる友達んちに料理作りにいったりもするわ!!私が結婚&子育てしてないぶんのエネルギーでそれなりに世界回してるから!!!そんなことより何より私が!!!!私が幸せだからそれでいいんだ!!!!!
とにかく今がいちばん人生楽しいし仕事もめっちゃやる気だし(普通に客はムカつくよ)、高いお洋服や化粧品はかわいいでーーーす!!!私が買うからメーカーの皆様も頑張って素敵なものいっぱい売ってください!!!!!!!!以上!!!!!!!!!!!!!!!!
そこで思ったのだが日本でドローンが敵視されがちなのはサウンドがよろしくないためではあるまいか?
自動車やバイクなどの動作音もかつてはあまり気にも留められていなかったのだろう。
しかし昨今ではエキゾーストノート(※排気音のこと)のよしあしまでまでもが評価の対象となる。
自動車関連の話題では「このマフラーは官能的なサウンドだ」などと語られることが多い。
その一方でドローンは「サウンドの良さ」がおざなりにされている印象だ。
ほとんどのドローン(現行モデル)のサウンドは単刀直入に言えば騒音だろう。
ドローンの動作音はサイズにもよるがチェーンソーやシェーバー、ハエの羽音を連想させる。
やりたくない。やることでプログラミングスキルが上がるというのはわかる。実際1年やって効果はあった。だが、この程度の効果なら1年かけずに身につく方法は多分もっとある。勉強に使っている自社システムも斜陽で、社長はこれ以上そのシステムを使った案件はとらないと言っている。そんなシステムで若手向けにわざわざドリルを作ってやらせているのは、ひとえに保守ができる人間を増やすためなのだろう。
どちらかというと、ドリルそのものというより研修の進め方の諸々が気にくわない。自由参加と言いつつ実質強制。参加しないと査定に響くと皆分かっている。実際参加せずに査定が下がったとして、それが不参加のせいだと判断する術が俺らにはない。締め切りはあるが、業務に差し障ってはいけない。少しなら業務時間を使ってもいいというが、終わるわけがないのでサビ残だ。家でやることがたくさんあるのでサービス残業が何よりも憎い。
表向きホワイトで通ってる会社だから、きつい言葉が飛び交うようなことはない。録音して何かの証拠になりそうな発言を、上司はきっちり避けるだろう。この場合「参加しないと査定に響く」のフレーズさえ引き出せればクロにできるけど難しそうだ。
強制の研修なら残業代を出せ。強制じゃないなら参加しない。どうせエンジニアは向いていないから、転職するまで窓際社員でも別にいい。
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俺の出来が悪いのは家で勉強をしないからだと皆が言う。まあそうだと思う。実際してない。他にやることがありすぎてそれどころじゃない。最近その作業に責任が生まれてきているから尚更おざなりに出来ない。この時間のやりくりの難しさ自体は、おそらくどんな仕事でもついてまわる宿命だ。いろいろ試せばもっとうまくやれるはずだと思う。「それどころじゃない」って言ったけど、プログラミングの勉強に関しては会社が気に食わないから優先順位が低いだけだ。ネットでググると「好きで勉強できるやつじゃなきゃ出来ない仕事だ」という話がゴロゴロ出てくる。それで需要と供給がつりあうならいたずらに文系から採用したりしないだろ。
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駄々こねてないで転職するまでは大人しく真面目に取り組めばいいのに。アスペ気味だから無理なんだ。上に書き散らしたようなことがずっと頭の中でぐるぐる回って、目の前のソースコードに集中できない。わかることもわからなくなる。間に合う課題も間に合わなくなる。上司に呼び出される。要約すれば「他の人達はみんな頑張っている。特に今年の新卒の子たちはすごく熱心だ。その中で君は頑張っていないように見える。頑張れるかい?大丈夫かい?」。
うるせーハゲ。口調が厳しかろうが優しかろうが、サビ残の時間数を努力値に置き換えるその考え方がのさばるから、若手はみんな脇目も振らずに自分の身をすりおろす。新卒なんて特にそうだ。すりおろしてボロボロになって辞めていった同僚がいる。生き残ったら生き残ったで「俺らがしてきた苦労をどうしてお前はしないんですか?」とか言うようになる。というか、上層部はこんな手弁当の教育させてないでちゃんとした研修に予算を使えよ。学園長の思いつきかよ。
クライアントワークのある仕事をしてるけど、めんどくさそうだなって思う話は後回しにしちゃう。
面倒だなって思った対応はおざなりになってしまって、トラブルが後から出てきて余計に面倒なことになる。
あと、交渉事ができなくて自分で仕事増やしてしまって、めんどくさ、ってなってる。
先日、クライアントのところに往訪した際、先方の上司と担当者がいて。
先方上司からの無茶振りに困惑しつつも「承知しました」と返答した私を見かねて
担当者が「そのまま話受けると業務が増えて大変でしょう?ここをこうして~で、~して、ってすると増田さんの負担減らせるんじゃないんですか?」
と割って入って助言してもらう始末。(本当にありがとうございました…)
それでも改善しようって思えない。事実クライアントに迷惑かけてしまってるのに。
頑張らなくていいやってぬるま湯に浸かってる。