はてなキーワード: 薄っぺらとは
相手が他に出来る気がしないし、親も兄弟も半ば自分たちを呆れて見ている節があるので、認めてくれる人が肉親より他にいる嬉しさもあって結婚した。
人付き合いが苦手だ。壊滅的に気が利かない。それではダメだと過剰適応した結果、仕事の後はどっと疲れるし、いらない仕事を押し付けられる。それでもなんとか今までの経験を生かしながら投げ出さずに頑張ってきた。
世間で言うところの普通はこれかと勉強して時には演技して生きている。そして、こちらの綻びを付け入る人間も残念ながら僅かにいるので注意を払っている。
一番自分にとって気持ちが落ち着くのは、人付き合いを必要以上に持たないことだった。その分、注意を払わなくてすむ。子供さえ持たなければ、必死に周囲と関わる必要がない。家も賃貸でなんとかなる。車も持たなくても最小限で生きていける。
ここでわかるのは、子供を持てたからこそ、人間としての深みや度胸が出来るんだということだ。喜怒哀楽ぜんぶを注ぎ込んで、自分の愛するものを一から育て上げる。泣いた吐いた笑った立った喧嘩した。自分たちの過去と重ね合わせ、涙した。親から貰った命を我々は全然輝かせていない。人間として薄っぺらだと。むしろ、生まれてきて後悔ばっかりだと。
ここで、子供を欲しがったら子供が出来たら子供を育てたら、幸せになれると思うところが浅はかだ。人として社会生活を営むのに、なんとかしがみついて必死で、家帰ってから感情のリカバーに1時間かかる人間に、待ったなしの子育てなんて、すぐに詰む。自分の時間がない、こんなはずじゃなかったと嘆き出す。生きている人間だから投げ出すこともできない。自分たちが社会に関わった時と同じく、子供が世間に馴染めなかったら、無理やり矯正にかかるだろう。思い返せば、肉親にもなんとかやってる姿を見せて安心させていた。結婚でなんとか勘弁して、やはり子供は難しいと頭の中が堂々巡りして、子供を産むのが難しい年になり、母親を看取った。後、10年若かったら何かが違ったのだろうか。
数少ない友人にそれをいうと、みんな必死だよと言う。自分が生きてきたことを肯定しないとなりたたないと。
そうだろうな。残された人生、父や義両親、連れ合いのために生きるべきだ。子供を持って育てている人は本当に素晴らしい。こんな人間でも生きててごめんなさい。時々、申し訳なくなって、泣く。
そして、安倍が2012年の自民党与党復帰後、災害が起こるたびに批判している政策で有名だ。確かにダムや新幹線の建設が数年単位で遅れ、計画も縮小したものが多いので土建屋にとっては死活問題だったことは予想できよう。
しかし、今回の台風でそんな薄っぺらい批判は数少ない野党叩きのネタを何年経っても言ってくる面倒くさい人間でしか無かったことが明らかになった。
一番の問題は二階幹事長の「ほどほど」発言だ。そもそも台風にほどほどもクソも無く、一定の条件が揃えばどれも台風であり、台風以外でも条件によっては決壊するリスクは孕んでいる。そんなことは西日本豪雨災害の復興に携わった自民党なら分かりきってるはずだ。
しかし、自民党は何も分かっていなかった。永田町の自民党本部が何も被害が出なかっただけで全く日本を見ていない発言をしたのである。
永田町だけで見れば地下鉄も止まっておらず、浸水も土砂崩れも起きていなかったが、それは自民党が東京一極集中政策により治水事業を東京を始め都市に集中させたのが原因だ。
それこそ気圧だけ見れば東京神奈川で大きな被害が出るから、普通永田町で「ほどほどの災害」にはならないはずだ。地方を切り捨てて東京を守る選択をした公共事業の一極集中が今回の地方での大きな被害に繋がった。
最近仲良くなった友人のオタクがワンピース大好きで、今ならギリギリ映画間に合うからって貸してもらって結構読んだ。全巻一気に渡されたのは流石に引いたけど、昨日台風で外出れなくて暇だったし。が、題名にも書いた通りマジで刺さらなかった。途中で読むの辞めてしまった。漫画全巻揃えてグッズも買い漁ってる大好きな人間に刺さりませんでしたとも言えないけど、死ぬほどモヤモヤしてるのでここに吐き出す。
まず、事あるごとに仲間仲間連呼するのが無理だった。ジャンプ漫画のオタクもしてるし、仲間意識強かったり仲間の為に命賭けるって言うのは燃えるんだけど、いちいち言語化されるとマジで冷める。薄っぺらく感じてしまう。言わないとわかんないの?みたいな。これは私が陰キャなのも悪い。しょうがない。
二つ目、エース。ニコニコでmad見たことあって死ぬのと白ひげ敗北者煽りに弱いのは知ってたんだけど、読んでみて経緯を知ると余りにバカすぎて引いてしまった。頂上戦争編が面白い!と友達もネット民も言ってたけど、結局このバカの為に周りが振り回されまくっただけの話なんじゃないだろうか。どこで感動したらいいのかわからない。普通に逃げてるときに船長煽られて挑発に乗っちゃった、ならまだ同情できる。だけど処刑されそうなコイツを助ける為に何人も命懸けで突っ込んできて大混乱になったわけで、しかも直前にその船長から、最後の船長命令だ、全員生還しろと言われた上で命懸けで逃がされてるのである。これで煽りに乗って死ぬのがマジで人の気持ちや周りのことを何一つ考えず一時の自分の感情で動くバカすぎて一気に冷めてしまった。普通に読むの辞めた。友達の最推しがコイツなのがマジでわからない。私は二次元キャラで一番嫌いかもしれない。
今嬉々として感想を問うLINEが来てるのだが、クソでしたというべきか多少合わせておくべきかわからない。ただ私はこの作品の映画に千円近く使いたくない。だったらジョーカー見たい。友達に勧められた作品で刺さらなかったどころか不快になったことがないのでどうするべきかめっちゃ悩んでいる。続き読まなきゃダメかなこれ。
問題点を3つに絞ろうか
いやーまあ確かに最初はおおすげえ!!こっからストーリーが大きく動くのか!ってなりましたよ。
でもその世界と現代がいまいち繋がってないっていうかね、やっぱこういうのは似てないようで似てるとか、あっちの世界で起きたことがそういえば現代でこんな影響を!とかいうのがないとね。
ただ単に2つステージがありますよってだけじゃあ、世界が薄っぺらく引き伸ばされてるだけですよ。
それじゃ駄目。
大いなる流れみたいのがあってそれに逆らえないんだ―って話なのかも知れないけどね。
でもそれならそれで巨大な流れに翻弄される感じを出してほしかったな。
セーブ&ロードが出来る特別な存在ではあるけど、でもまあ結局は既定路線に乗って世界を回すだけの歯車なんでっていうのはありきたりだなーって。
当時はね、画期的だったのかもね。
未来の情報と不思議な石を持ち帰って過去で知識無双するだけなんですよね。
たとえば、シュタゲでアキバがオタクの街じゃなくなってしまうシーンみたいなね、過去を変えたことで未来が大きく変わってしまう事のアハ体験を見せてほしかったんだよなあ。
そうだね、時間が戻せたら色々先回りできるね、で? それをこういう見せ方されてもいまいち面白くないんすけど。
結局この作品の何が問題かって、折角の時間遡行っていうギミックが単なる未来視程度に過ぎないことなんですよ。
時間と空間を移動できる状況でやってるのが占い師から未来が見える水晶貰った程度でも同じこと出来るレベルなんですよね。
時間旅行してるだけで当時は画期的だったんだぞって言うかも知れないですけど、その時代にもドラえもんとかあったわけですよ。
時間遡行という最高のカードを主人公に握らせておいて、この程度っすかっていう感想がどうしても出ちゃいますねえ。
「総当りADVにセーブ&ロードで今までにないプレイ感を生み出したのが凄いんだからアニメを見ただけの奴が文句言うな」
そうね。
そのとおりね。
ごめんなさいね。
このあいだ畠山選手がな、わざわざ味スタのFC東京の試合前ゲストとして来てくれて「FC東京、サッカー関係者、ファンのみなさん味スタを開けてくれてありがとう、ラグビーに使わせてくれてありがとう」というようなことを言ってくれたんだよ。
なぜならFC東京(あと東京ヴェルディも)はラグビーワールドカップの開催期間だけでなくその前後含めて合計3ヶ月の間(11月まで)ホームの味スタを使えなくなる。それも事後承諾でFC東京にはロクに調整も相談もなく決められたというクソ対応でな。結局そのあいだFC東京は北関東から九州まで8戦連続でアウェーロードだ。しかも今年は初の優勝争いまでやってるような状況でだ。
だから気を遣ってわざわざサッカーの試合に挨拶にまで来てくれたわけだ、畠山選手は。あの振る舞いにはまさに品位や情熱、そんで他競技に対しての尊重があった。それに比べたらあんたには口だけの薄っぺらさしか感じないわ。畠山選手の気遣いや行動に傷をつけるような一文だよ最後のは。偉そうに『ラグビーをラグビーたらしめるキーワードは「品位・情熱・結束・規律・尊重」』とか書いた次の行でな。情けない。
私は新作発表されたSという某ゲームが好きだった
新作が発表されて、めちゃくちゃモヤモヤしたのでここに書き留めることにした。
Sはハードも変わっているものの、1〜5までナンバリングされている。
OVAだったりドラマCDだったり舞台、Sのグッズが販売されている専門店だったりと、20年前の作品にしては多種多様なジャンル展開がされていたと思う。
私が通ったものとすれば、
ドリームキャストが1〜4
ゲームだけでは語られないOVAで、キャラたちの過去だったり、設定だったりが知れたりして、子どもの頃は本当にその作品に冠するものしか見ていなかったかもしれない。
気付けばずっとやりこんでいた。
誰が一番好きかと聞かれれば、1に出てくる主人公のお姉さん的立ち位置の人だ。
いろいろあって、敵の女になってしまう。所謂、悪堕ちお姉さんなのだが。
その格好がめちゃくちゃエロい。闇堕ちお姉さんが性癖かと聞かれれば、そうかもしれない。
でも、闇堕ちにもちゃんと理由があるし、単純に敵の男が好きだったからなんていう理由だけじゃない。
Sと私の人生はほとんど一緒だったと言っても過言ではないと思う。
グッズ専門店には幼少期によく連れて行ってもらって、マスコットキャラのネコのぬいぐるみも買ってもらった。
閉店した時はめちゃくちゃ泣いた。大人になって一人で跡地に行った時もちょっと泣いた。
グッズ専門店に併設されていたコンセプトカフェのノベルティも今でも持ってる。
劇場版も映画館に連れて行ってもらって、パンフレットや映画館限定グッズも家にある。
サウンドトラックを聞いてある程度のシーンまでも分かるぐらいにはやり込んだと思う。
Sとコラボした桜色のドリームキャストだって動かないけど、ずっと持ってる。
新作とまではいかないけれど、移植版が出て同じハードで遊べるようになればいいな、というのが願いだった。
ちゃんと情報を追ってみると、事実だったので仕事の昼休みに泣いた。
あれだけ待ちわびていた新作だ!!!!!
ソシャゲじゃないといいな、なんて不安もPS4となった瞬間に吹っ飛んだ。
けれど、キャラデザもプロデューサーも全然違う人。唯一同じなのは音楽の人だけ。
本当にSという作品なの?と思ったけど、完全新作なんだし、仕方ない。コンセプトは同じなんだし、何よりSというタイトルを背負ってる以上、やらないという選択肢はなかった。
絵柄の統一性のなさ
え?なんで?どういうことなの?
本当に今までのシリーズを通して遊んだことがある人が作ったものなの?と疑わざるをえなかった。
絵柄の統一性のなさは昨今のソシャゲによくあるような流れだったから、まだ受け入れられた。
でも、前作メインヒロインの闇堕ちの可能性だけは信じたくなかった。
ゲーム、OVA、劇場版と通して見てきたメインヒロインを裏切られたような気持ちだった。
そんな簡単に闇堕ちなんかしないし、父親も闇堕ちした設定だったから、連続で同じようなことする?
あの時、流した涙ってなんだったの?
いろいろなキャラから託されたメインヒロインが闇堕ちの可能性で?しかも中の人も同じで?
そんなのシャア・アズナブルとフル・フロンタルみたいなものだとしても納得いかない。
新キャラageのための要員だったとしたら、意味も薄っぺらい闇堕ちだとしたら…。
ここで一気に不信感が増してきた。
設定も取ってつけたような設定だらけで、前作のこと知ってる?って聞きたくなるようなことばかりだ。
タイトルだけ間借りしてるんじゃないの?
私が待っていた新作ってこれだったんだ。
正直、こんなことなら完全新作なんていらなかったのかもしれない。
人生と一緒に見てきた作品がぶち壊された気分で、正直やる気が出ない。
でも割と周りは好意的な意見だから、こんなこと言えないけど、移植だけで良かったんじゃないのかな。
でも離れることは出来ない。
ナンバリングされている以上、どれだけモヤモヤしても、やってみないことにはなんとも言えない。
分かってはいるけど、闇堕ちの可能性があるメインヒロインを出してきた時点で、この作品に期待は全くなくなってしまったのだ。
それでもまだまだ私はSファンとは言い切れない。
12月に新作が発売される。
正直、メインヒロインの闇堕ちだったとしたら、私はディスクをフリスビー代わりにしてぶん投げるかもしれない。
あるいは新作をなかったことにするかもしれない。
分かるクソウザい。信者もキモければシナリオも稚拙。評価出来るのはゲームシステム部分だけ。
初めてやったイべが正月レラジェで期待値駄々下がりだったのもあるが、
女子メギドを会話文で「キャッキャ」と言わせる激寒シナリオに、「大人が考えた純真な子ども」の集約じみててボイスも台詞も不気味さしかないジズと、これに「不気味」じゃなく「かわいそーかわいいー」を感想送るユーザー。
そして誘拐・逃走イベでウケたから二匹目のドジョウ感覚で連発されるイベ後のクソ歌…よくこれで持て囃されるよな。プランシィがいる時点で常人にオススメできる代物じゃないだろ…
アイムも今までは好きだったがリジェネ時の行動が意味不明すぎて、最も苦手なキャラになった。
暴力表現もライターの「絵柄や雰囲気からは想像も出来ない不快な表現でSNS沸かせる」っていう思惑が透けて見えていてそこから感じる感動も物語もなにもない。ただただ不快なだし、アドラレメクの暴力も計画ありきではなくどう見ても理由は後付け。「幼女に暴力振るえば話題になる」ってのが第一にあったのが見えて、うわー薄っぺら…と鳥肌立った。
なぜかイケハヤDISってるだけのくせに
実際1500くらいまではすごいスピードで伸びていた。
最初はすげえなと思ったもんだが、2000を前に完全に伸びが止まった。
軽やかに3000、4000と着々と人気を得ていく中
それもそのはず。
それでもイケハヤだけに絞っていればまだいいのだが、
自ら敵を呼ぶような発言をしては嬉々としてそれにやり返して
イケハヤがよほど嫌いな人間と同じように性格が陰湿な人間だけだ。
その数が止まったということはネットに2000程度しかいないということだ。
イケハヤアンチをきっかけとしつつも自分の魅力で勝負してる人間と違い
今でもやたらとフォロワー数を自慢し
毎日イケハヤにマウントし、それ以外には自分を見せようとしない。
毎日痴呆にかかった老人のように同じようなことを繰り返すだけ。
もはや自分のためにイケハヤを叩く言葉を垂れ流す壊れたラジオと化した。
最初は自慢だったフォロワー数ももうとっくに伸びが止まっていて
もう同じようなお仲間と変わり映えのしないトークを繰り広げてるだけなのに
自分が誰かに求められてると勘違いして毎日元気にイキりちらかしている。
相手が応じなければ逃げたなと言って勝ち誇る勘違いネット弁慶ぶりである。
見ていて非常に醜い。
はてなで有名なメカ肉級らは、最初はこの人間に好意的だったが最近は近づかなくなった。
もはやこいつとかかわるのはマイナスにしかならない判断されている。
わずかに漏れ出る本人はろくに勉強をせずにFXトレードをやるくらいあほである。
最初はいろいろ言い訳をしていたが最近は発言しなくなってしまった。
だせえ。
そのことを認められないぶん、イケハヤ信者より哀れとすらいえる。
一部の人間以外には飽きられ、
それでもネットでの反応が伸び悩み
誰からも求められなくなっていく現実にいよいよ耐えきれなくなって
最後にどういうあがきを見せるか、私はそれが見たい。
その状態があることは人として理解できるが、奇誠庸はどうだったか。
問題提起などと言えるような状況ではなく、出まかせの言い訳でしかなかった。
なので、実際には旭日旗がなかった事が知られてくると全く違った言い訳へ二転三転としている。
これはある程度そういう共通認識があることを知っていて、世間の関心を自分への批判から目をそらさせるために利用しただけでしょう。
ちなみに私は奇誠庸以前から韓国で旭日旗を問題視する記事があったのは知ってる。
しかし同時に、大抵の韓国人に相手にされていなかった事も韓国人自身カジュアルに旭日旗を見ていた事も知ってるし、そんな記事が2000年代以降でしか見当たらないのも知ってる。
近年作り上げられた歴史に変わりはないんでしょう。
私の父親はもうすぐ還暦なのに冷凍ごはんの解凍の仕方もわからないアホである。
今日は娘の私が餃子を作ったのだが、父親が餃子を先に食べたあとポン酢を冷蔵庫に入れたらいいのかどうかを私に聞いてきた。
共働きの母親が仕事から帰って来て、熱々の餃子を食べるときに使うポン酢が冷蔵庫でキンキンに冷えてたらかわいそう。
考えればわかることなのになんで父親はこんなにバカなんだろうって思う
今、57歳でこんなレベルでこのまま家のことを母親に頼り続けてさらに歳を取っていったらもっとバカになっていくんだろうなって想像できる。
私が子供のときからバカな父親だった。いわゆる食べつくし系の男で自分さえ満腹になれば他の家族のことなんかどうでもいいっていうヤツだった。
食べ物の恨みは根深いのだが、子供ながらに「父親が母親よりも子供よりも自分のことが一番大事で、自分自身が一番かわいい」という事実にショックを受けた。
家族がいて、食べ物があって、自分がたくさん食べてしまったら他の人が同じ量を食べられないという簡単なことにも気づけない鈍感さ
そもそも家族を思いやるという気持ちが薄っぺらい。表面上娘の私に気を使おうとしているのはわかるんだけど上滑りしているというか、上部だけの気遣いで根本的に大バカ野郎ってわかってるので気持ちが覚めるんだ。結局は父親は父親自身が一番大事。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/toyokeizai.net/articles/-/300321
これとかみてて思うんだが.... かつて御殿とかは確かに目に余る「ように見える」ものがあった。
でもあれって、ワザとやっていると思う。アレだけ毎回芸能人が入れ代わり立ち代わり来て高速でイジらないとだめ
なのであれば、いくら、さんまでも、自分の路線というのを明確にしておかなければ、なかなか毎週毎週辛いと思う。
それが故に編み出したのが、高速で弄り倒して、シッチャカメッチャカ感を出すという芸風。
軽く、薄く見えようが、最適解がそこ。
また、彼はエネルギーが無尽蔵にあるので、一度ノリ出したらそのまま突っ切ってしまうのが楽なのだと思う。
そのメリット・デメリットも承知していて、それも自分の使命だとおもって、芸風をあのまま固定していると思う。
なぜならホンマでっかTVでは相当傾聴しているから。キャラも少し違っている。
学者が一回分析結果を出した際に、驚くほど柔軟な人間であることが出ていた。実際あの番組では、否定はせず、
なので、あの番組の質は高い。
松本人志もそうで、やはりワイドナショーでは相当傾聴に回っているし、あえて批判をうけるという昔の芸風も持ち込み
ながら、結構調整役に回っている。だいたいネットニュースに出て、ハテブ民の目に触れるころには情報が落ちている。
かなり、TVで切り取られたセリフだけではなく、その前後の空気、間とか発言の声色とかでは悩みながらやっているし、
それを引き受けなければ自分はいけないんだという使命感もあると思う。
トップに君臨する人がそれを批判されて、聞こえてないことはない。
さんまは離婚し、戦友、紳助が逮捕され、、松本も結婚し、守るものができて、ふたりとも引退してもあまりある財産がある。
明石家さんま、松本人志の立場だと、こういういろんな番組でキャラを使い分けながら、もともとのキャラで太い収入をもらいつつ、新しい
ところで本当にやりたいことをやっているパターンが多い。むしろ5年前ぐらい彼らの老害(に見えるような芸風)が目立っているのが
が顕著で、今はもうかなり変更して柔軟さの方が目立っている
なのに、ここで5年遅れで批判してくるところが香ばしいなぁ。。。と思う。
また、あの二人はかなり海外に対しても柔軟に見ている。国内でしか活動していないのに、結構柔軟で、松本は右よりに見えて相当柔軟。
さんまが海外にゴルフでいったり、松本が海外にいったりしたエピソードを見ると相手をリスペクトしたり、すごく柔軟に対応している。
昔、そこそこ仲の良かった男子が結構くだらない事でめちゃくちゃ叱られてグレてしまった
グレたと言っても、自習時間に机をドンドコしたり、補習をサボってバッセンに行く程度だったけど、まあうちの学校ではグレてる部類だった
彼はそのうち課題を出さなくなり、その事で他の先生にもしょっちゅう叱られるようになり、余計態度を硬化させる負のスパイラルに陥って
もともと下がっていた成績もガタ落ち、結局3浪して消息不明になった。f欄に行ったという噂も聞いたが、謎だ。
彼を叱った先生とついこの間お話しした際に、彼についての話も出たのだが、「怒りすぎちゃったなあ」と後悔していた。他にも彼の没落の原因はあったのだろうが、アレがキッカケになったのは確かだった
「宿題やったの!?」「今やろうと思ってたのに!」みたいなの、大人になってもずーっとあるよね。あんまり叱られすぎると反感や怒りが先行してしまって、なかなか自分を省みることが出来なくなる
叱られて伸びないタイプの人は、やんわりと諭してあげるのが一番良いのだと思うが、叱る側に立つと結構難しい
「叱る」とはどうあるべきなのだろう
鬼の生活指導に叱られて、不登校になってしまった女の子が中学時代いたが、彼女にとっての「叱られる」は、しょっちゅう叱られている剽軽な男子にとっての「叱られる」とは同じ叱られ具合でも全く違うものだったろう
クラスメイトの前で「ちゃんとやれよ!」と一言言う事だっておとなしく真面目な子と活発で不真面目な子とでは受け取り方が全く違う
前者の場合「先生にみんなの前で怒られた」という羞恥を引き起こす、精神的苦痛は絶大だ
本人のタイプに合わせて指導法をきめ細かく変えてやるのが一番人を伸ばす叱り方だと思うが、「人によって叱り方が違う」というのは集団に不公平感を生む
教室のような閉じた、それでいて壁のないオープンな集団の中で人によって態度を変えながら叱るのは難しい
そう考えると、何か悪いことをした子はそっと別室に連れて行き叱るのが適切なようにも思える
しかし、自分自身小学校のころよく知らない先生と二人きりの教室で隣に座って密着されながら委員会資料の作成をさせられたのは軽くトラウマなのでそれはそれで問題があるように思う
一対一での指導、は多分ロリコン教師を欲情させるシュチュエーションになってしまうし、閉鎖的な空間で上下関係が残るのも監獄実験のような状態になって「叱りすぎ」を誘発しそうだ
職員室で叱るという手もあるが、他の先生の前で叱られるというのも精神的な負荷が大きいだろう(忘れ物が酷くて何度やられたことか)
保健室で「厳しい担任の先生」と話をそばで聞くだけの「優しい保健室の先生」という二対一のお説教が思いつく限り一番良いように思う
仕事量を考えると養護教諭ではなく、昼休みだけ来る外部カウンセラー数人で回すのが風通しが良く現実的な形になるだろう
これが家庭の場合「厳しいお母さん」と「優しいお父さん」のような役回りでの叱り方になるのだろう
しかし、甘やかすだけ甘やかす父(母)に子供がなつき、損な役回りをさせられる母(父)の言う事を子供がきかなくなる、というようなケースも聞くので、適宜「厳しい」と「優しい」は交換しながらやっていく必要がある筈だ
「叱る」一つの手前でも、どちらがどちらの役割をするのか話し合う必要があるのはやや面倒だが、子供の糧になる「叱る」のためにはそのぐらいの手間は必要ではないだろうか
職場で叱るケースでも、教育係を一人に一任せず「直属の厳しい教育係」と「見守る優しい先輩」というロールで叱ってみるのも一つの手なのではないだろうか
我々は普段から「叱る」と「怒る」を混同し、ただ感情を発露させるだけの行為を目下の相手にしてしまう事が多いが、効率的に人を成長させるためには「叱る戦略」をきちんと考えて叱るべきだ
個人的に、教育現場における「叱る=怒鳴る」は論外である。怒鳴る事によって相手を萎縮させ、内省させる間も与えない行動が反省を促すとは到底思えない。
生徒、部下の立場は怒鳴られても怒鳴り返すことの出来ない立場である。おずおずと返答をしても「言い訳をするな」と一蹴される恐れがある。怒鳴る行動は対話の機会を奪うのだ。
勿論、いじめや命を落としかねない悪ふざけには少なからず「怒鳴る」のコマンドが必要かもしれない。事の重大さに気づかずヘラヘラと対話による説教を聞き流すような生徒もいる。なぜ「怒鳴る」が必要になるのだろうか。この場合「怒鳴る」はどのような効果を発揮しているのだろうか。
主観的かつブラッシュアップの足りない考えではあるが、一つの仮説がある。「怒鳴るとは上下関係をわからせる手段ではないか」という仮説だ。そもそも、動物としての観点で見ると大声とは威嚇の手段の一つである。動物のように大声を上げることで、相手を威嚇し、上下関係を再確認させるのだ。プラスして、感情をあえて大袈裟に表現することで「自分は真剣だ」と伝える意味もあるだろう。(しかし演者時点が自身の演技に呑まれる可能性はかの有名な監獄実験で示されている通りであるので、十分な精神力と慎重さが求められるだろう)
社会性動物である我々は猿山の猿のように、狼の群れのように序列に弱い。だから不真面目な相手を前にした場合、この「怒鳴る」という行為はある程度有効なのだろう。怒鳴るは相手の「話を聞く真剣さ」を+5するというようなコマンドなのかもしれない。
人間の感情は複雑なように見えて案外単純だ。悲しい時に怒る、傷ついた時に傷つける、というような行動も一見ブラックボックスを抜け出たものに見えるが、案外類型的なものである。それはピンボールの玉がピンに当たって跳ね返りながら、最終的にはいくつかの穴に収束していくのに似ている。無限の可能性を持ちながらも、個々のピンでの跳ね返り方はある程度の予測がつく。我々の行動自体が、大したパターンを持たないからこそ、我々は相手の気持ちを思いやり、共感できるのだ。
「宿題やったの!?」という言葉が子供時代の私たちにもたらしてきた感情は「後ろめたさ」「反省」「反感」である。この感情のパターンが類型的だからこそ、私たちに「先に言われるとやる気なくすよね〜」という共感をもてる。
というように、人間の感情がある程度パターンとして把握できる以上「叱る」のマニュアル化は可能ではないだろうか。
「優しく諭す」というコマンドは相手の「真剣さ」には効果が薄いかわりに「反感」の数値はあまりあげない。だが「真剣さ」の数値が低いと「反省」には至れない。
「怒鳴る」というコマンドは逆に「真剣さ」には絶大な効果を持つ、が、「反感」のポイントを高めてしまう。「反感」の数値が一定を超すと「反省」への道は閉ざされる。
前述の優しい医者と怖い医者戦略も、数値化で説明してみよう。怖い医者は「真剣さ」「内省を促す」方面に強いキャラクターであり、優しい医者は「反感」という感情に共感し、怒りを和らげ「落ち着き」を取り戻させるヒーラーのような役割のキャラクターである。
「叱る方と叱られる方」という絶対的な上下関係に、そのどちらでもない第三者を加える事で、叱り手の感情の暴走を抑えるとともに、第三者による「共感」で叱られる側の精神的負担を減らし、自分を省みる余裕を与える。
無論、感情の数値の動き方には個人差があるので、叱り手は自分のコマンドが相手にどんな影響をどの程度与えるのかを考えながら叱り具合を調節していく必要がある。 と言っても、その個人差もある程度はパターンに当てはまるように思う。不真面目だが誠実な子、真面目だが反抗的な子、結局は要素の集合体である。実際に「元気な子(そして剽軽で悪戯っ子)」「明るい子(そして優しくてポジティブな子)」「大人しい子(繊細で真面目な子)」という安易なパターン化はあらゆる人間関係において常に行われている※。タイプに応じてコマンド駆使の仕方のマニュアルがあれば、どんなボンクラでも効果的な「叱る」ができるだろう。
※これには幾らか問題がある。私のように「大人しい子(割合図太く不真面目で陰険な子)」という相反するイメージの要素を持つ人間は取りこぼされる。そして不理解な大人に失望し私は余計陰険になった。教室のような大人数を把握すべき空間では、雑なラベリングが横行して、かえって正確な人格の把握の障害となるかもしれない。ここにもいくつかの心理検査を用いた人格のパターン化による把握が必要かもしれない。
このように数値化して考える方法を主張すると必ず人の心が通っていない、愛がないという人が現れる、が、なんの考えもなしに相手の叱られた後の情動を予測せずに感情をぶちまける事の方がよっぽど動物的で、「人の脳味噌」という回路を通わない非効率不合理なくだらぬ行動だと私は思うのだが。
(だいたい愛の鞭なんて言うが、恐怖政治よりインセンティブによる動機付けの方が効果がある事なんかもう数十年前から言われているのだからいい加減卒業してほしい。)
叱る、は上手くいけばとてもポジティブな効果を発揮する。しかし下手にやればかえって人から反省の機会を奪う。説教や正論は気持ちが良すぎるので、叱り手側は容易に権力を振りかざす楽しさに呑まれてしまう。だから、叱る前に一呼吸置いて、叱る戦略を立ててみるのはどうだろう。戦略という言葉は大袈裟かもしれない。叱る前に叱られた相手の気持ちを考える、それだけの事だ。
人材育成、教育現場、家庭での指導法においては、「叱り方マニュアル」の作成も試みとして楽しそうだ。心理テストで振り分けられた生徒や人材ごとに診断チャートを作成し、それを参考に叱り方戦略を立てる。大規模に実験し調査結果を取り続ければ有効性を立証できるかもしれない。最終的にはAIが掛けるべき言葉を演算し、叱り手という演者がそれに従うようなディストピア教育が出来上がるかもしれない。AIの愛のない教育、は痛烈にこき下ろされそうだが、「データを集め、型に当てはめ、パターン化された指導をする」という一連の行動は学習行動として常日頃個々人が行なっている事であるし、そこに統計処理がより得意なAIを解すのはそれほど不自然でないように思う。
教育者には当たり外れが多すぎる。一生涯呪い殺したいようなクソもいれば、人生の節目のたびにあって感謝の意を述べたくなるような聖者もいる。マニュアルさえあればどんなクソにも一定ラインを超えた指導ができるようになる筈なのに……!と思うと悔しいばかりだ。しかし、こうなると今度は「マニュアル一辺倒の叱り方」という批判が生まれてくるだろうか。教師のマニュアル依存、なんてニュースが流れるようになるのも嫌な話である。優しい医者と怖い医者も何も知らずに信じ込めるとステキな装置ではあるが、そんなプログラムだと言われてしまうと薄っぺらさにがっかりしてしまう。マニュアル化した叱り方は叱られる側に不信感をもたらす逆効果となるかもしれない。うーん、難しい(そこまで進んだ未来だと生徒もプログラムが組まれたのをわかった上で乗れるほど慣れるかもしれない、AIカウンセリラーを利用したマインドセットが人生の基本になるのだ!←楽しそう)
まあ、今のところは感情的に怒る前に、相手の情動を予測しながら諭してあげるというのがいいと提案してみることにします。つまるところは思い遣り。プラスして、叱るときは座って目線を合わせるっていうのも提唱してみる。叱り手側も怒りをセーブしやすいし、叱られ側も対等な立場での対話であると感じやすい、と思うから。(座って足組んでる奴から立たされて叱られるのも、立った状態で目の合わない相手を見上げながら叱られるかもつまらないもの。)それと、誰かが厳しく叱られていたら、優しい第三者として「反感」や「落ち込み」に共感してあげたりね。まあ普通のことです。しかし実践はクソムズイ。人生手強いね!
(思い出話あるあるを書こうと思っていたのに、思いのほか筆が乗って長文増田になってしまった。noteにでも貼るべきだったかな、図解しながら書き直したくなってきた。ところで、25件を無限リロード中の増田様方には大変ご迷惑をおかけします、すまない。途中送信しちゃっただけなので再投稿の甘えではないんだよ!)
私にはかつて、ある趣味があった。頭も身体も使う、青春を賭けた非常にマニアックな趣味だった。趣味を通じて多くの知り合いも増え、ちょっとした小遣い稼ぎにもなっていた。私の承認欲求も所属欲求も競争心も満たしてくれ、アイデンティティでもあった。熱狂的なイベントがあり、仲間がいて挑戦すべき課題があった。あれは本当の「生きがい」であった。
だが、結局あの趣味から遠ざかってしまった。言い訳としては就職をきっかけにして、同好の士がバラバラになってしまったこと。それから、職場での不適応から鬱になってしまったこと。これはあくまでいい訳なんだ。バラバラになった人たちは、今でも熱心に趣味を続けてその道の第一人者となっている。私にはその熱意はなかった。ただ、自分を救ってくれるはずの趣味も捨ててふさぎ込んでしまったから、あの趣味は色あせていくばかりの青春の思い出になった。
悲しいかな。今の私に趣味と言えるものはなく、楽しみはアニメを見て感想を書くことと、ボーナスのたびに風俗サイトを見てニヤニヤして計画を立てることくらいだ。あとは、晴れた軽い運動、たまにの外食、喫茶店での黙想などという、ほんの薄っぺらい幸せをミルフィーユのように積み重ねた他愛のないものだ。いまは、こんな生き方もそれなりに悪くないと思っている。あえて言うなら、風俗通いはお金の無駄なので辞めたい。もし10年前の私がこの姿を見たら、情熱を失った生き方を軽蔑するだろうな。
先日、数年ぶりに趣味のイベントに行った。そこには私と同じように過去の思い出を求めてやってきた亡霊がいた。もう互いに語れる趣味はなく、かつての思い出を語るばかりで、互いの疾患(精神が多い)を心配しあうばかりだった。挙句の果てに、私はかつての仲間に名刺を配って、いい仕事あったら紹介してよって、無粋なことしかすることがなかった。
久しぶりに仲間に会って楽しかったはずなのに、帰ってきた後ですごく悲しくなった。ああ、どうしたらいいのだろう。どうやって、過去を受け止めて、どうやって生きていったらいいんだろう。わからなくなった。
二ノ国の方は映画を見たわけではないのでキレてる人がどのあたりにキレてるのか感想を見た結果の判断にはなるけど
面白い、つまらないはおいといて腹を立ててる、怒ってる人の話ね
ユア・ストーリーはキレてる人はおおむねラスト10分にキレてるし、二ノ国でキレてる人は障害者(車椅子)の人の扱いとそれに付随したもろもろあたりが大きな怒りポイントなんだと思う
そもそも顧客が本当に必要だったものではないってところでキレる人を増やしてる。客が何が見たいかを考えずにギミックだけ仕込むのがもうその時点で雑
ドラクエVの映画を見に行ったらそうではない何かを見せられた、って時点で楽しい楽しくないとかじゃなくてもう裏切られた感があるのよ
今日の晩御飯はカレーね!って言われて楽しみにしてたらハヤシライスが出てきたらさ、そのハヤシライスがおいしいかおいしくないかじゃなくて「カレーだって言ったじゃん!」ってなるじゃん
うまけりゃいいとかそういう話じゃないんですよ。今カレーの口なの。あんたがカレーの口にしたの。ハヤシライス出すならそう言えよ。百歩譲って驚かせたいならごちそうってぼかせばよかったんだよ
まあ広告詐欺な面については監督だけの問題じゃないからそこは百歩譲るとしてもまだ雑が残ってるんだよね
ラスト10分までの伏線ってか必然性がないんだよね。確かに主人公がやけにヘタレだったり唐突な現代用語?とかあったりはしたけど、それがあるから何?
そうじゃなくて「なんでラスボスがどっかの天才ハカー()が作ったウイルス」である必要があったわけ?
うんうん、ラストで主人公にゲームを肯定させたかったのね、ふーん。
でもさ、感情移入もできない自分とはかけ離れたチャラいどっかのニーサンに「ゲームは素晴らしいんだぞぅ!」って言われても心にひびかないの。おわかりですかね
そういうのはちゃんと感情移入できてまともなヒーローが言うから心に響くんであってやることやってないヘタレに言われても薄っぺらいっていうか
そもそも別にそんなクソみたいな奴らに囲まれて育ったわけでもない普通の若者からするとずれた肯定されたってはぁ?ってなるだけなんだよなあ
「そうだそうだ!」って気持ちになるためのキャラの作りこみができてない。感情移入できない、記号みたいな主人公になっちゃってんの
CGばっかり綺麗でキャラの作りこみがほんとできてない、そういう雑さがラストで突き放されっぱなしになって怒る人が増えた原因じゃないっすかね
要はメインキャラに障害を与えておきながらそこの意味がないってことみたいなんだよね
別に車椅子の少年じゃなくても話が成立するよね?コンプレックス作るなら典型的なスポーツ型と頭脳型にしておけばよかっただけで、運動音痴にすりゃいいだけで、障害とか天涯孤独の意味ある?っていう
しかもそんな障害を抱えた少年が序盤で辛い思いをしつつ、最後はそういうの全部なくなって健康体になれる二ノ国に残りました、現実からはさよならだ!ってことらしく
さらに二ノ国と現実世界の一ノ国とを行き来するには自殺、というか命の危機に陥る必要があると
子供向けの映画に「死んだら(死ぬような思いをしたら)二ノ国に行って障害がなくなるよ!幸せになれるよ!」って意味を持たせてしまったと
心の機微がまだ理解できない小さな子供が障害者に向かって無邪気に「死ねば(二ノ国に行って)幸せになれるかもよ!」と言わせてしまう可能性を作ったと
それに対して考えすぎだろと思うかそりゃヤバイと思うかは人それぞれかもしれないけどさ
実際主人公に対して羨ましいわーみたいな感想言ってる人もいたらしいし(伝聞だから確定じゃないけど)
そういうの最初から変な障害つけずに普通の体動かすの苦手なモヤシ少年にしときゃそんな批判は生まれなかったとか
あっちとこっちを行き来する方法を死にかけることにしなきゃそんな批判は生まれなかったとか
そういうほんの些細な配慮で誰もが幸せになれたのにそれをしてないんだからそりゃ雑と言わざるを得ない
車椅子の少年である意味があったのならまだ表現として議論の余地があっただろうけどみた人が「いや、車椅子じゃなくていいわこれ」って言ってるんだよね
あるいは単なる端役だったらそこまで言われなかったかもしれないけどこれ主人公なんだよ
メインのキャラのはずなのに抱えた障害に対して特に向き合ってなくてただ損だけして投げっぱなしジャーマンされてしかも最後は「異世界行きゃ幸せになれるよ」て
監督自身が元から雑だっていうのもあるかもしれないけど、ユア・ストーリーはアルキメデスの対戦と平行で作ったりとか、二ノ国は脚本を一度最初から書き直したとか
そうやってカッツカツにするから細かいところが雑になるんじゃないのかって感じはする
キレられポイントって別に内容に影響を与えずに修正できる部分もあるはずで
どうみても立花が自滅したら笑い飛ばして終わったことにする輩の集まりにしか見えない。
自分がやれない事をやって暴れてるのを見たいだけのクソザルの集まりというのはわかった。
TVはな、つまんないよ。昔の事を例えにするのはいかんけど今はとてもつまらない。間違いない。
だからyoutubeが面白いかっていうと、そうとも言えない。
ただ悪ノリしてる阿呆が馬鹿騒ぎしているだけでTVで放送できないレベルすらやってしまうのがYouTuberにいたりと
それを支持してるバカも多いだけで、あれが面白いってのはどこかに犯罪欲があるんじゃないのかって疑問を持ってしまう。
もちろんな、本当に大したこと無いことをなんだけど「おぉすげえ」と思わせることをしている配信者もいる。
そういう人の配信に人気があるのはわかる。悪ノリしないでも視聴者が増えるという典型的な例だ。
だが、目立つのは悪ノリの方。ただ暴れているか、屁理屈といちゃもんばかりのYouTuber。
しかも、そういう輩を神のように崇めている視聴者はもっとわからん。バカなの?宗教とか即騙されちゃう人なの?
そんなのがN国の立花を支持してるから恐ろしい。薄っぺらい信仰心のようなもので応援してるんだぜ。
ま、視聴者なんてこんなもんなんだろうけど。
飯を食うとうまい。
わかる
日曜日の昼前、実家暮らしの俺は冷蔵庫にめぼしい食材が無い事を確認し、
回転寿司はくら寿司よりもスシローの方が好きだったが、家から一番近いスシローでも徒歩30分。
店を訪れるのは久しぶりで、今回初一人回転寿司ということもあり、
普段通り過ぎるだけのカウンター席に座るドキドキ感はそれだけで寿司の美味さに加点される。
席に着くとまずお茶を淹れるルーティン。の前にメニューを見た。
「これは!!」
スシローとくら寿司の大きな違いはとびこの有無たったそれだけであり、寿司屋の善し悪しはそれで決まる。
俺は興奮気味にタッチパネルをねっとりとした指先でなぞり、とびこを2皿注文した。
カウンター席の一番端は休日の昼までも混雑を知らず、あとにやってきた父と娘の2人客も静かでとても快適だった。
そんなこんなで場の雰囲気を味わいながらお茶をすすっていると注文配達レーンにとびこと続いて注文していたえんがわ、フライドポテトが続々と到着した。
すこしとびこが皿に散らばっていたりしていたがそれも情緒。
口の中に放り込めばプチプチと元気な音が聞こえる。
少し多くつけすぎたワサビの行き場のない痛みが涙を誘う。
うまい…
なんてうまいのだろう。
テンションがぶちあがり、隣に座った客の食べっぷりの良さも影響して1皿、また1皿と狭いカウンターに到着する。
7皿ほど食べ、最初に頼んだフライドポテトがよくも悪くも存在を主張してくるが、
この天ぷら盛りあわせ280円の(大葉つき)がどうしても食べたい…
でも、揚げ物をこんなに食べたら死んでしまう…
今年22の俺の胃は脆い。
天ぷらの盛り合わせが手元にあった。
正直これはよくばりだったとおもう。
いい店じゃないか…
俺は満足げに腹を撫でまわしながら、原稿用にモンエナの500ml缶を買おうとローソンに寄った。
レジに並ぶと見覚えのある後ろ姿。
「お、おかん…?」
「俺のは…?」
「あんたは爽」
わるくない。
そのまま一緒に帰ることにした。
「あんたどこ行ってたの」
「そこのくら寿司」
今日は原稿が行き詰って心が折れそうになっていたこともあり、俺の大好きな寿司を食べに行ったというわけで。
「へえ、一人でくら寿司」
「さすがに沢山は食べれなかったなあすぐお腹いっぱいになっちゃった」
俺は満足げに腹をさすった。
「やっぱりおいしくなかったでしょ?」
?
「おいしくなかったでしょ?じゃないでしょ?」
飯を食べてきた人に向かって開口一番「おいしくないでしょ」と断言するなんてサイコパスか?
「なんでそんなこと言うの?わざわざ店へ行ってお腹いっぱい食べて帰ってきている人においしくないってどうしていうの?」
安価で提供される寿司たちにはネタが薄っぺらい、少ない、美味しくないって暴言吐いてもいいのか?
(これらは全て俺の祖母が回転寿司に行くと必ず言う言葉なのでなるべく一緒に飯を食べにいかないことにしている)
「お前はいつも細かいことに反応して!そうやっていつもいつも」
「ちがうだろ!言い方がおかしいだろ!」
言い合っている間に家についた
俺はそそくさと自室に戻り10分ほど泣いた。
またつらくなったら寿司を食べよう。そう思った。
1663円でこんな最高になれるなんて。
「まずい飯に1663円を払った馬鹿」
になった。
数年前学生の頃、オープンキャンパスのバイトをしていた時も同じようなことがあった。
俺はうめうめと飯を食う。
学食の回転効率を突き詰めた飯は素朴な味わいで食べ盛りの学生の為に米は大盛りだ。
今日のタダメシも美味かったぜ、と満足げに教室へ戻ると同じメニューを食べた教員がこう言うのだ。
俺は思う。
人は共感を得たいというのもわかる。
だがネガティブなもので共感を得ようとするやつは何をやってもダメだ。
おいしくなかったならわざわざおいしくないと言葉にせず、黙っていてほしい。
そして仮にとんでもなく自分の口にあわないものを食べたとしても、違う言い方をするべきだと思う。
例えば、
このうどんは俺には味が薄すぎたとか
油が強すぎたねとか
兎に角なんにでもまずいと言うのはやめた方がいい。
独り言でも隣の客に聞こえたらそいつのUXもたちまち下がってしまう。
その教員には言った。納得してくれた。
昔からあまり家族で外食もしなかったし、これからもしたくない。
きっとどんな店に行っても何かにかこつけてまずいまずいと言うのだろう。
うまい飯を食える仲間、美味い飯が食える店。
大事にしてほしい。
10日発売の『文藝春秋』に芥川賞の選評が載っていて、二回連続で落選した古市さんがいろいろ言われている。
候補作は単行本で出版されているが、まだ読んでない。だが、高学歴なのにビルの窓の清掃員をやってる主人公の話で、参考文献が詳細にあげられているらしいことは、なぜか知っている。
参考文献については、前回だったか、候補作の剽窃問題があって、その辺の対策らしいと噂されていた。
で、選評である。
まず山田詠美はこう書く。“(参考文献の)木村友祐作「天空の絵描きたち」を読んでみた。
そして、びっくり! 極めてシンプルで、奇をてらわない正攻法。候補作よりはるかにおもしろい”
“候補作が真似や剽窃に当たる訳ではない。もちろん、オマージュでもない。ここにあるのは、もっとずっと巧妙な、何か。それについて考えると哀しくなって来る”
続いて川上弘美。“結論からいいます。わたしは悲しかった。木村友祐さんの声がそのまま「百の夜は跳ねて」の中に、消化されず、ひどく生のまま、響いていると、強く感じてしまったからです”
“古市さんのおこなったことは、ものを創り出そうとする者としての矜持にかける行為であると、わたしは思います”
吉田修一。“本作に対して、盗作とはまた別種のいやらしさを感じた”
“あいにく『天空の…』の方は書籍化さえされておらず入手困難であり、まさにこの辺りに本作が持ついやらしさがあるように思う。”
堀江敏幸。“他者の小説の、最も重要な部分をかっぱいでも、ガラスは濁るだけではないか”(原文では「かっぱいでも」に傍点あり)
要するに、古市さん、文芸誌に掲載されたが出版されていない佳作を探してきて、うまいこと翻案して小説書いたようである。
いや、具体的にどの程度の参考具合なのは確かめてないので、なんとも言えないが、当代きっての作家先生方が、かなり憤っておられるようなので、相当なものなんだろう。
是非比較して見たいところだが、「参考文献」の方は、『文学界』2012年10月号、だそうなので、確かめるには、図書館でバックナンバーを出してもらうしかなさそう。
にしても、古市さん、お忙しそうなのに、純文学の文芸誌まで必死にあさって「参考文献」集める努力は大したもんだが。
まあ「情報集め」は嫌いじゃなさそうだしな。
まさかとは思うが、担当編集者がうまいこと見繕って選んだのを古市さんに読ませてるとか、そういうことじゃないよね?
島田雅彦曰く“ナルシスト的私語りが中心で、リアリティ構築に必要な細部も情報のパッチワークに終始しているのが気になった。”
どうやら評価したのは奥泉光だけで、“今回自分が一番押したのは、古市憲寿氏の「百の夜は跳ねて」だったが、選考会の場で評価する声はほとんど聞かれず、大分弱った”そうである。
“外にあるさまざまな言葉をコラージュして小説を作る作者の方向を、小説とは元来そういうものであると考える自分は肯定的に捉えた”そうだ。
ここには、小説における“オリジナリティ”とは何か?という問いが含まれている。
ま、小説なんてそもそも「すでにある言葉」の組み合わせでしか書けないじゃん、というのはある。
で、ありもののコラージュでも新しいものが生まれればいいけど、山田詠美は「参考文献」の方が「はるかに面白い」って言ってるしなあ。
吉田修一は、「参考文献問題」以外にも手厳しくて、“凡庸で差別的な価値観の主人公を小説で書いてもいいのだが、作者もまた同じような価値観なのではないかと思えるふしもあり、とすれば、作家としては致命的ではないだろうか”なんて言っちゃってる。
これは、社会学者にして人気コメンテーター(タレント?)としての活動にも少なからず影響しそうな評価だと思うけど、ま、芥川賞の選評なんて、今時の世間に影響力なんかないのかな?
古市さんという人、本をちょっと読んだことがあるのと、時おりメディアでお見かけするだけで、どんな人か詳しくは知らない。
ただ、妙に芥川賞を取りたがっているらしいという噂は聞く。
なんでだろ?
“気鋭の若手社会学者”も“テレビで毒舌が人気の論客”も、実に空虚で脆弱な肩書きで在ることに、ご本人が一番気づいているということだろうか?
そこで、「学者として研究に力を入れる」ではなく、「いい感じの小説を見つけてきて、うまいこと翻案して芥川賞ねらう」って辺りが、実に薄っぺらいけど。
テレビで知名度得た人が芥川賞狙うって図式では、又吉直樹といつ成功例がある。
あの「火花」という作品が、そこまで傑作かどうかはともかく、この人は本当に、太宰治を筆頭に、文学というものが大好きで、おそらく文学に救われたという経験を持っていて、文学をリスペクトしていることが端々から伝わってくる。
あんまり文学とか語ってるのを聞いたり読んだりした印象がないのだが。
前回の選評では、「ナルシシズムが過ぎる」とか「自己肯定というより自己過信」とか、これまたかなり厳しい言葉が並んでいたと記憶する。
単なる自分語りの舞台として小説を選んでいるのだとしたら、ずいぶん旧い、日本文学における「私小説」偏重な文学観をうすっぺらくなぞっただけかもしれないが。
なんだろうなあ?
社会学者もコメンテーターも、ありものの言葉を組み合わせつつ、持ち前の地頭とセンスと要領でなんとなく現在地位を掴めちまったっぽいだけに、「小説? これくらいなら、ボクでもかけるじゃん」とか思っちゃったんじゃないかなあ、という疑いを禁じ得ない。
【追記】
えらくブクマついてる。文藝春秋なんて読んでないけど、中身は気になるって人は多いのかなあ、と思ったり。
「参考文献」の著者、木村友祐さんがtwitterで発言されておられるので、追記しておく。
本件、「古市さんが窓拭きに興味をもち、取材依頼があり、応じました。窓拭きの達人を紹介しました。古市さんはその取材をもとに書いてます。」そうだ。
お詫びしたい。
なお、「窓拭きの細部以外は、ぼくの作品と古市さんの作品は別のものです。そしてぼくは、〝知名度がないゆえに作品を利用されたかわいそうな小説家〟ではありません」とのこと。
にしても、選考委員の先生方は、どの程度経緯をご存じの上で選評を書かれたのかは分からないけれど、えらく憤っておられるようで、なにがそんなに山田、川上、吉田各氏に火を着けたのか、検証してみたくはある。
最初から全開で否定していくけど、この映画を見て欠点が一つもないようなそういう絶賛しかしない人は
きっと普段から全く内容の無い薄っぺらい作品しか見てない読んでない聞いてない人だと感じる。
今回賛否両論で話題になったドラクエの映画は絶賛できるレベルでは決して無かったと言える。
なんでかっていうと、尺が短すぎた点、主人公が石像になり伴侶が石像になりという部分も表現が簡略化しすぎた。
その後の季節的な流れていくシーンは良かった。ここは評価する。
しかし、ドラクエ5を選んだのだから、もっとドラマがあっても良かったんではないかと感じた。
挙句の果てには、ラスボスが○○○○という流れだ。全て台無しだ。
ファンタジー・アドベンチャーなら、ずっとファンタジーで良かったんだよと。
自分が主人公だという認識はストーリーが終わってスタッフロールが終わった後にでも、
自身の部屋とTVとゲーム機を映すなりしてTV画面に「Fin.」とでも表示させておけばよかった。
それをなぜか作られた世界がどうたらこうたらとファンタジーをぶっ壊してどうする。
今回、担当した監督自体に問題があったというのが一番の問題だったのだが、
絶賛している人たちはラストが熱かった、ラストの展開が面白いなどと分けのわからない絶賛をする。
いきなり現実に引き戻されるような分けのわからない展開が面白いのか。
最初にも言ったが、一切の不満をもたないで名作と言い切っている人は
普段から中身のないものでしか面白いと思えないレベルなんだろう。
絵本でも読んで、もう一度幼児期からやりなおしてみたらどうなんだ。
絵本の方がよっぽど内容が深いぞ。