はてなキーワード: 剽軽とは
大学入試の小論文を書くような気持ちで文章を書くのは窮屈で仕方がないことだと分かった。
小論文では体言止めすらフォーマルな表現じゃないとして減点対象になり得る。
タメ口の文体のなかでいきなり敬語使うってのも剽軽といえばいいかあるいは軽薄さが売りのエッセイやブログなんかで普通にありがちなものだが、それも文体が統一されてないと減点。
しかしそういう意味で満点な表現が面白くて日本語としてこなれた表現とは限らんのだよな。こんなんじゃ表現の幅が狭まるばかりだ。
誰にも批判されないようにと、小論文を模範として文章を書くようにいたが、もうやめだ。
文法上の誤りさえなければあとは自信を持って好きに書いていいんだと思う。
主人公「おれ」は自涜に惑溺している少年である。「おれ」は過剰な自意識を抱えて他人の目に怯えている。「おれ」は死について、自分が無になることについて、強い怖れを抱いている。十七歳の誕生日の食卓で「おれ」が自分の中でもあいまいな考えで皇室批判や自衛隊批判を口にしたところ、自衛隊の病院で看護婦をしている姉から着実な理屈で論駁されてしまう。「おれ」は逆上して姉を蹴りつけてしまうが、そのことにすぐ後悔し、自責の念にまみれながら、逃避的に自涜を行なって寝る。「ああ、生きているあいだいつもオルガスムだったらどんなに幸福だろう」
翌日は、古文の定期試験の日だったが「おれ」は試験に全く歯が立たない。試験が終わり、東大志望の優等生の連中は小賢しく試験問題の論評をしている。クラスの剽軽ものの「新東宝」は試験問題を下ネタにしてクラスの女の子を笑わせている。どちらも「おれ」には疎ましい。試験の次の時間は体育の800m走であった。「新東宝」は「おれ」が密かに恋情を抱いているクラスのマドンナの杉恵美子に「マスをかくやつはすぐへたばる」と怪情報を流したと冗談を言う。「おれ」は他の走者より完全に遅れてゴールインする。ゴールインしてみると「おれ」は走りながら失禁しており皆の嘲笑の的となった。
絶望しながら自治会をさぼって帰宅の途につく「おれ」に「新東宝」が声をかけてくる。右翼の街頭演説のサクラにならないかという。右翼のサクラをやっていることは「新東宝」の秘密のようである。連れ立って新橋駅前にいくと街宣車の上で「皇道派」の逆木原国彦が演説をしている。演説は全く盛り上がっていないが、逆木原はまったく気にせず演説を続ける。「あいつらは売国奴だ 、ヘドだ 。おれは誓っていいが、あいつらを殺してやる」「諸君、自分の弱い生をまもるためにあいつらを殺しつくそう、それが正義だ」「おれ」はこの言葉に胸を打たれる。
気がつくと後ろに三人組の女事務員がおり「おれ」を指差して「あいつ、《右》よ、若いくせに。ねえ、職業的なんだわ 」と言っている。逆木原の演説に感化された「おれ」は他人の目を跳ね返す力を得ており、こう怒号する。「 《右》がどうした、おい、おれたち 《右》がどうしたというんだ、淫売ども!」これをきっかけに「おれ」は「皇道派」に入党し、家を離れ「皇道派」本部で暮らすようになる。「きみは天皇陛下の大御心にかなう日本男子だよ、きみこそ真の日本人の魂をもっている選ばれた少年だ!」
「おれ」の学校での立場は180度変わる。「皇道派」のサクラを隠れてやっていたことが負い目の「新東宝」が宣伝係となって、俺の《右》としての武勇伝を学校中で広める。「新東宝」によると、800メートル走での「おれ」の失禁の失態は 、懲罰的にランニングをさせた体育教官への「軽蔑の 《右》的表現」ということになった。自治会の《左》の秀才が「おれ」に議論をふっかけてくるが、「おれ」は自分自身がかつてあいまいな考えのままにしていたところを突くだけでよかった。杉恵美子は「おれ」に興味津々の目でいう。「あなたみたいに時代錯誤の 《右》少年は防衛大学にでも行くことね 」
「おれ」には他人の目が怖くなくなってきた。逆木原に性欲を抑圧せず「トルコ風呂の女にきみの男根をひともみさせるんだね」と言われたときは不安だったが実際にいってみると杞憂だった。俺は「鉄串のような男根」を持つ男だった。「おれの男根が日の光だった、おれの男根が花だった、おれは激烈なオルガスムの快感におそわれ、また暗黒の空にうかぶ黄金の人間を見た、ああ、おお、天皇陛下!燦然たる太陽の天皇陛下」。「おれ」は他人の目を克服したこと、そして自分が天皇陛下の御子であることを確信する。
「おれ」は逆木原の書庫で天皇陛下をときあかす書物を探し出す。谷口雅春の 『天皇絶対論とその影響 』を読み、求めていたものをかちとる。 「《忠とは私心があってはならない》」 「天皇陛下に精神も肉体もささげつくすのだ。私心を棄てる、おれのすべてを放棄する!」「おれ」は自分があれほど恐れていた死の恐怖からまぬがれているのをさとる。逆木原が「七生報国、天皇陛下万歳」と書いてくれた稽古着で「おれ」は柔道や空手に熱中して取り組む。
安保闘争の国会デモでは「おれ」は十万の 《左》どもに立ちむかう二十人の皇道派青年グループの最も勇敢で最も兇暴な最も右よりのセヴンティーンとなった。デモの最中に女子学生が死んで、デモ隊が打ちひしがれて泣きながら黙禱していた時、「おれ」は強姦者のオルガスムを感じ、黄金の幻影にみな殺しを誓う、唯一人の至福のセヴンティーンだった。
原作者も楽しみにして放映まで盛り上げてたのを見てるからネガティブなことは言いたくない。
でも初回の最初で「あ、これ駄目だ」ってなった。
だからあの酷いバレエになるのは技術不足やリソース不足ではなく、スタッフがバレエをあのように見てるってこと。
業界屈指のアニメ技術力を持ちながらあんな物は作らない。作るわけない。
スタッフがバレエに何も感じてないのがあのアニメを見れば手に取るようにわかる。
じゃあなんでこんなもんアニメ化したの?
そこが不思議。
溺れるナイフはもう映像になってるから今連載中の~みたいになったか。
とにかく『ダンス・ダンス・ダンスール』のこともそんな好きじゃないね。
あとさあ、
登場人物が吹き出しの外の手書きでゴチャゴチャッと喋ってる台詞を
ああいうのはカメラを他所へ振って画面外でちょっと遠い音で早口で喋らせたりしろ。
でもうひとつ
主人公の潤平の声が汚いんよ。
いや声優は上手い人なんだろうけどさ。
なんか三枚目的な汚い声、善逸みたいな声を出すわけ。
違うだろうよ。
本来女の子みたいな、見た目だけなら王子様で通る少年なんだよ潤平は。
父の死で無理にマチズモをまとおうと頑張ってきたけどちゃんと繊細な感性を持ってる少年。
だからもっときれいな声をベースに「ババア!」みたいな台詞を言わせるんだよ。
剽軽な汚い声でがならせてどうする。
もう何もかも駄目なんだよな。
3D使うのはいいけど腕の動きひとつだって動かし方のタイミングだろうが。
ただ腕を動かすだけでも下手糞の棒みたいな動きから凄い表現力を放散する動きまであるぞっていう
そういうことを原作ではさんざんやってるわけでな。
あれ読んであんな、普通のアニメと何も変わらない程度の労力しか籠ってない動かし方をするなら
ならなんでこんなもんのアニメ化に手を出したの?
それが本当に不思議で。
拘り込めることをさぼったり感激なく作品を作ったりするならこんな仕事やめちまえよ。
だが作画監督がバレエ…というか踊りに対して感激する感性全くない人間なのは確信してるよ俺は。
バレエの作画するにあたってたぶん振り付けは頑張って資料を揃えてる。
でも感性はない。
だから振り付けを正しくなぞる以上のことがなんにもわからない。
そういう人間が付けてる動きだって言うことは一目見ればわかる。
俺が何にこんなにムカついてるのか、アニメ未視聴の人は1話でいいから見てみてくれ
別に高度な水準の話はしてないのでわかる人は一目でわかると思う。
技術的な限界の問題じゃなくて、表現しようとしてない、踊りに何か感じたことがない、って5秒見りゃわかる。
昔、そこそこ仲の良かった男子が結構くだらない事でめちゃくちゃ叱られてグレてしまった
グレたと言っても、自習時間に机をドンドコしたり、補習をサボってバッセンに行く程度だったけど、まあうちの学校ではグレてる部類だった
彼はそのうち課題を出さなくなり、その事で他の先生にもしょっちゅう叱られるようになり、余計態度を硬化させる負のスパイラルに陥って
もともと下がっていた成績もガタ落ち、結局3浪して消息不明になった。f欄に行ったという噂も聞いたが、謎だ。
彼を叱った先生とついこの間お話しした際に、彼についての話も出たのだが、「怒りすぎちゃったなあ」と後悔していた。他にも彼の没落の原因はあったのだろうが、アレがキッカケになったのは確かだった
「宿題やったの!?」「今やろうと思ってたのに!」みたいなの、大人になってもずーっとあるよね。あんまり叱られすぎると反感や怒りが先行してしまって、なかなか自分を省みることが出来なくなる
叱られて伸びないタイプの人は、やんわりと諭してあげるのが一番良いのだと思うが、叱る側に立つと結構難しい
「叱る」とはどうあるべきなのだろう
鬼の生活指導に叱られて、不登校になってしまった女の子が中学時代いたが、彼女にとっての「叱られる」は、しょっちゅう叱られている剽軽な男子にとっての「叱られる」とは同じ叱られ具合でも全く違うものだったろう
クラスメイトの前で「ちゃんとやれよ!」と一言言う事だっておとなしく真面目な子と活発で不真面目な子とでは受け取り方が全く違う
前者の場合「先生にみんなの前で怒られた」という羞恥を引き起こす、精神的苦痛は絶大だ
本人のタイプに合わせて指導法をきめ細かく変えてやるのが一番人を伸ばす叱り方だと思うが、「人によって叱り方が違う」というのは集団に不公平感を生む
教室のような閉じた、それでいて壁のないオープンな集団の中で人によって態度を変えながら叱るのは難しい
そう考えると、何か悪いことをした子はそっと別室に連れて行き叱るのが適切なようにも思える
しかし、自分自身小学校のころよく知らない先生と二人きりの教室で隣に座って密着されながら委員会資料の作成をさせられたのは軽くトラウマなのでそれはそれで問題があるように思う
一対一での指導、は多分ロリコン教師を欲情させるシュチュエーションになってしまうし、閉鎖的な空間で上下関係が残るのも監獄実験のような状態になって「叱りすぎ」を誘発しそうだ
職員室で叱るという手もあるが、他の先生の前で叱られるというのも精神的な負荷が大きいだろう(忘れ物が酷くて何度やられたことか)
保健室で「厳しい担任の先生」と話をそばで聞くだけの「優しい保健室の先生」という二対一のお説教が思いつく限り一番良いように思う
仕事量を考えると養護教諭ではなく、昼休みだけ来る外部カウンセラー数人で回すのが風通しが良く現実的な形になるだろう
これが家庭の場合「厳しいお母さん」と「優しいお父さん」のような役回りでの叱り方になるのだろう
しかし、甘やかすだけ甘やかす父(母)に子供がなつき、損な役回りをさせられる母(父)の言う事を子供がきかなくなる、というようなケースも聞くので、適宜「厳しい」と「優しい」は交換しながらやっていく必要がある筈だ
「叱る」一つの手前でも、どちらがどちらの役割をするのか話し合う必要があるのはやや面倒だが、子供の糧になる「叱る」のためにはそのぐらいの手間は必要ではないだろうか
職場で叱るケースでも、教育係を一人に一任せず「直属の厳しい教育係」と「見守る優しい先輩」というロールで叱ってみるのも一つの手なのではないだろうか
我々は普段から「叱る」と「怒る」を混同し、ただ感情を発露させるだけの行為を目下の相手にしてしまう事が多いが、効率的に人を成長させるためには「叱る戦略」をきちんと考えて叱るべきだ
個人的に、教育現場における「叱る=怒鳴る」は論外である。怒鳴る事によって相手を萎縮させ、内省させる間も与えない行動が反省を促すとは到底思えない。
生徒、部下の立場は怒鳴られても怒鳴り返すことの出来ない立場である。おずおずと返答をしても「言い訳をするな」と一蹴される恐れがある。怒鳴る行動は対話の機会を奪うのだ。
勿論、いじめや命を落としかねない悪ふざけには少なからず「怒鳴る」のコマンドが必要かもしれない。事の重大さに気づかずヘラヘラと対話による説教を聞き流すような生徒もいる。なぜ「怒鳴る」が必要になるのだろうか。この場合「怒鳴る」はどのような効果を発揮しているのだろうか。
主観的かつブラッシュアップの足りない考えではあるが、一つの仮説がある。「怒鳴るとは上下関係をわからせる手段ではないか」という仮説だ。そもそも、動物としての観点で見ると大声とは威嚇の手段の一つである。動物のように大声を上げることで、相手を威嚇し、上下関係を再確認させるのだ。プラスして、感情をあえて大袈裟に表現することで「自分は真剣だ」と伝える意味もあるだろう。(しかし演者時点が自身の演技に呑まれる可能性はかの有名な監獄実験で示されている通りであるので、十分な精神力と慎重さが求められるだろう)
社会性動物である我々は猿山の猿のように、狼の群れのように序列に弱い。だから不真面目な相手を前にした場合、この「怒鳴る」という行為はある程度有効なのだろう。怒鳴るは相手の「話を聞く真剣さ」を+5するというようなコマンドなのかもしれない。
人間の感情は複雑なように見えて案外単純だ。悲しい時に怒る、傷ついた時に傷つける、というような行動も一見ブラックボックスを抜け出たものに見えるが、案外類型的なものである。それはピンボールの玉がピンに当たって跳ね返りながら、最終的にはいくつかの穴に収束していくのに似ている。無限の可能性を持ちながらも、個々のピンでの跳ね返り方はある程度の予測がつく。我々の行動自体が、大したパターンを持たないからこそ、我々は相手の気持ちを思いやり、共感できるのだ。
「宿題やったの!?」という言葉が子供時代の私たちにもたらしてきた感情は「後ろめたさ」「反省」「反感」である。この感情のパターンが類型的だからこそ、私たちに「先に言われるとやる気なくすよね〜」という共感をもてる。
というように、人間の感情がある程度パターンとして把握できる以上「叱る」のマニュアル化は可能ではないだろうか。
「優しく諭す」というコマンドは相手の「真剣さ」には効果が薄いかわりに「反感」の数値はあまりあげない。だが「真剣さ」の数値が低いと「反省」には至れない。
「怒鳴る」というコマンドは逆に「真剣さ」には絶大な効果を持つ、が、「反感」のポイントを高めてしまう。「反感」の数値が一定を超すと「反省」への道は閉ざされる。
前述の優しい医者と怖い医者戦略も、数値化で説明してみよう。怖い医者は「真剣さ」「内省を促す」方面に強いキャラクターであり、優しい医者は「反感」という感情に共感し、怒りを和らげ「落ち着き」を取り戻させるヒーラーのような役割のキャラクターである。
「叱る方と叱られる方」という絶対的な上下関係に、そのどちらでもない第三者を加える事で、叱り手の感情の暴走を抑えるとともに、第三者による「共感」で叱られる側の精神的負担を減らし、自分を省みる余裕を与える。
無論、感情の数値の動き方には個人差があるので、叱り手は自分のコマンドが相手にどんな影響をどの程度与えるのかを考えながら叱り具合を調節していく必要がある。 と言っても、その個人差もある程度はパターンに当てはまるように思う。不真面目だが誠実な子、真面目だが反抗的な子、結局は要素の集合体である。実際に「元気な子(そして剽軽で悪戯っ子)」「明るい子(そして優しくてポジティブな子)」「大人しい子(繊細で真面目な子)」という安易なパターン化はあらゆる人間関係において常に行われている※。タイプに応じてコマンド駆使の仕方のマニュアルがあれば、どんなボンクラでも効果的な「叱る」ができるだろう。
※これには幾らか問題がある。私のように「大人しい子(割合図太く不真面目で陰険な子)」という相反するイメージの要素を持つ人間は取りこぼされる。そして不理解な大人に失望し私は余計陰険になった。教室のような大人数を把握すべき空間では、雑なラベリングが横行して、かえって正確な人格の把握の障害となるかもしれない。ここにもいくつかの心理検査を用いた人格のパターン化による把握が必要かもしれない。
このように数値化して考える方法を主張すると必ず人の心が通っていない、愛がないという人が現れる、が、なんの考えもなしに相手の叱られた後の情動を予測せずに感情をぶちまける事の方がよっぽど動物的で、「人の脳味噌」という回路を通わない非効率不合理なくだらぬ行動だと私は思うのだが。
(だいたい愛の鞭なんて言うが、恐怖政治よりインセンティブによる動機付けの方が効果がある事なんかもう数十年前から言われているのだからいい加減卒業してほしい。)
叱る、は上手くいけばとてもポジティブな効果を発揮する。しかし下手にやればかえって人から反省の機会を奪う。説教や正論は気持ちが良すぎるので、叱り手側は容易に権力を振りかざす楽しさに呑まれてしまう。だから、叱る前に一呼吸置いて、叱る戦略を立ててみるのはどうだろう。戦略という言葉は大袈裟かもしれない。叱る前に叱られた相手の気持ちを考える、それだけの事だ。
人材育成、教育現場、家庭での指導法においては、「叱り方マニュアル」の作成も試みとして楽しそうだ。心理テストで振り分けられた生徒や人材ごとに診断チャートを作成し、それを参考に叱り方戦略を立てる。大規模に実験し調査結果を取り続ければ有効性を立証できるかもしれない。最終的にはAIが掛けるべき言葉を演算し、叱り手という演者がそれに従うようなディストピア教育が出来上がるかもしれない。AIの愛のない教育、は痛烈にこき下ろされそうだが、「データを集め、型に当てはめ、パターン化された指導をする」という一連の行動は学習行動として常日頃個々人が行なっている事であるし、そこに統計処理がより得意なAIを解すのはそれほど不自然でないように思う。
教育者には当たり外れが多すぎる。一生涯呪い殺したいようなクソもいれば、人生の節目のたびにあって感謝の意を述べたくなるような聖者もいる。マニュアルさえあればどんなクソにも一定ラインを超えた指導ができるようになる筈なのに……!と思うと悔しいばかりだ。しかし、こうなると今度は「マニュアル一辺倒の叱り方」という批判が生まれてくるだろうか。教師のマニュアル依存、なんてニュースが流れるようになるのも嫌な話である。優しい医者と怖い医者も何も知らずに信じ込めるとステキな装置ではあるが、そんなプログラムだと言われてしまうと薄っぺらさにがっかりしてしまう。マニュアル化した叱り方は叱られる側に不信感をもたらす逆効果となるかもしれない。うーん、難しい(そこまで進んだ未来だと生徒もプログラムが組まれたのをわかった上で乗れるほど慣れるかもしれない、AIカウンセリラーを利用したマインドセットが人生の基本になるのだ!←楽しそう)
まあ、今のところは感情的に怒る前に、相手の情動を予測しながら諭してあげるというのがいいと提案してみることにします。つまるところは思い遣り。プラスして、叱るときは座って目線を合わせるっていうのも提唱してみる。叱り手側も怒りをセーブしやすいし、叱られ側も対等な立場での対話であると感じやすい、と思うから。(座って足組んでる奴から立たされて叱られるのも、立った状態で目の合わない相手を見上げながら叱られるかもつまらないもの。)それと、誰かが厳しく叱られていたら、優しい第三者として「反感」や「落ち込み」に共感してあげたりね。まあ普通のことです。しかし実践はクソムズイ。人生手強いね!
(思い出話あるあるを書こうと思っていたのに、思いのほか筆が乗って長文増田になってしまった。noteにでも貼るべきだったかな、図解しながら書き直したくなってきた。ところで、25件を無限リロード中の増田様方には大変ご迷惑をおかけします、すまない。途中送信しちゃっただけなので再投稿の甘えではないんだよ!)
先に結論を言っておく。女尊男卑という設定と、女性から男性に対する態度と、男性の女性に対する態度のバランスが悪いせいで、ミソジニーじみて見えるというのが私の見解だ。設定と描写のバランスが悪い。それに尽きる。それが悪いとか良いとかそういうことを言う気は全くない。
この見解にいたるまでの経緯は下に書いた。気になる人が以下の長く枝葉の伸びた文章を読んでくれ。いや、クソ読みづらい文章だから読む必要がない。自分が納得するためだけに書いた。言いたいことは上に述べた通りだ。
ヒプノシスマイクを知ったのは春。独歩という語をタイムラインで見かけ、「国木田独歩のことか。文ストか、文アルか。いや、一二三って誰だ。寂雷って誰だ。ヒプマイってなんだ。雰囲気的にソシャゲか。まあソシャゲはいいや」と調べることなく初夏を迎え、「ジャニオタがヒプマイにハマる」というような名前の記事を見かけて「ソシャゲじゃないのか。ラップか。面白そうだな」と調べた結果、見事にハマった。
ヒプノシスマイクにハマった要因は、シンプルに「人間の声ってすげぇな」という感動と、「さらっと面白いことを言っていて面白いな」という感動である。二重の感動。感動に感動が私の首に輪をかけて括ってきた。(輪をかけてを使いたいがために発生したクソみたいな誤用)
これは単なる私の好みでしかなく羅列すればキリがないが、突っ込みどころのある言葉や音がよい。いわゆる音MADで遊ばれていそうなコンテンツ(概念)が好きなので、ラップで人が死ぬ世界観やさらっと繰り出される面白リリックとかがたまらない。
あらゆる人が言及している通り、「俺のベロ見ろ俺はミケランジェロ」に「お前は次郎だ」と突っ込んだし、「君がくれた愛の形」が月収の「12345600円」という生々しさにも笑った。「ガチャーンドゥルルルチリンチリンチリン」で笑ったし、「泣けど泣けどnekkidフルモンティ」の完成度に感動したし、「ハマのしきたり」や「男ならラップができる」などの主語のデカさにも突っ込んだし、どことなく山寺宏一に似た入間銃兎のテンションの高さも気に入っている。ついでに言えば、観音坂独歩がキレると笑ってしまうし、一二三が麻天狼のローテンション曲の中で一人高テンションなのも面白い。何でお前だけ動画で輝いてんだよ。
決してバカにしているわけではない。むしろ、この突き抜けた感じを清々しく思う。かっこよいだけではない絶妙に耳に残る言葉に引っかかってハマった人は多いのではないだろうか。人間の声のすごさも相まってこの言葉たちはハマった人間の頭蓋骨の中で反響していることと思う。中毒性がすごいよね。
また、池袋→横浜→渋谷→新宿にいたるまでにキャラクターが奇抜になっていくのも面白い。アンセムやバトルでは歌う順番を考慮しているんだろうなと思う。人の目を引く(耳を引くか?)方法を熟知しているんだなと思いながら楽しんでいる。だって寂雷先生のときだけ曲調が変わるの面白すぎません? 一二三の合いの手も相まってじわじわきますよね。
さて、ここまで長々と書いたのは、私がどのような観点でヒプノシスマイクを楽しんでいるのかを表明し、立ち位置を設定した方がよいと思ったからだ。これを踏まえて、最近話題になっている「ヒプマイってミソジニー要素があるのでは問題」に入る。
私はドラマCDを聞かない人生を送ってきたので、ヒプノシスマイクで初めてのドラマCD体験をした。曲をから感じられるキャラクターの印象とは違った面が見られて面白く感じた。特に、観音坂独歩に関しては話し方が穏やかだったので意外だった。正直、もっとクソ早口でボソボソしている印象があった。話し方が早くてもキモがられるけど、ゆっくりはゆっくりでイラつかれる現象に見舞われてんのか? 観音坂独歩は。一二三のテンションというか話し方のギャップもよかったし、池袋の兄弟が仕事できていてすごいなあと思ったし、食事のアレで横浜は関係性のできた人間に対しては気遣いを持てるいい人たちだったというのも確認できた。渋谷に関しては夢野幻太郎の剽軽さや有栖川帝統のコミカルなキャラクターに親しみを抱いたし、飴村乱数が人の臓器を売ることに躊躇しない鮮烈さを持っていることに妙な興奮を覚えた。キャラクターに厚みができていく感覚が面白い。渋谷VS新宿のドラマトラックも面白かったですね。ヨコハマの血の気がある人たち「クソボケ」ってワード大好きですね。左馬刻様はチャラチャラしてたり口で自己紹介できない奴嫌いなんだなってのが分かって面白い。多分左馬刻様はメールしたら電話しろってキレるだろうし、電話したら直接会いに来いとか言いそう。あと、一二三はツイッターとかで定期的に礼節欠いて炎上しそう。あと飴村乱数の先生への話し方から「私あなたのこと嫌いだけど気遣って話しかけてあげてますよ」感が滲み出ていて好きです。
では、本題に入る。私はこのドラマトラックにミソジニーを感じてしまった。正直、女尊男卑という設定は読んでいなかった。言葉で戦うという設定に目がいっていた。気付いたのは池袋VS横浜のドラマトラックで山田兄弟が壁に対して税金の話をした辺りだ。その後登場する左馬刻様の件の発言は「そんなキャラなのかな」程度に流していた(乱暴なキャラクターは女をゴミかゴミ箱のように扱うという偏見がある。雑な一般化をしてすまない乱暴なキャラクターたち。)ため、件のはてなブログで確かにと思った。
で、税金の話。男が女の十倍の税金を払っている。その金でこの壁が作られた。この内容に引っかかった。リアルに考えれば、男の方が高い所得であるためにバランスを取っているんだろうなあ(さすがに十倍は現実味がない気もするが)という見解が妥当に思う。それゆえに、ここで税金に言及している山田三郎と観音坂独歩については、彼らは他の男性よりも所得が低いのかもしれない(三郎はまだ中学生なので、一郎の苦労を見てきたのか、大人の話を聞いて知識を得ていたのか、その辺だと思うので、除外してよい気がする。社畜は休む暇がないから金が貯まるというが、このパターンだとより地獄じみてきて観音坂独歩がより幸の薄い(といっても、幼馴染の手厚い保護があるので悲壮感は薄れるもののそういう感じの)人間になりますね。ストロングゼロ飲んでそう)。(ついでに、山田一郎と左馬刻様と寂雷先生も壁について言及しているが、金というよりも権力への言及に感じるので、彼らに関しては所得的に不満があるわけではないような印象を覚えます。)
なぜ、男の方が納税額が多いのかがよく分からないが、男にとっては不条理な税負担なのかもしれない。しかし、その割には観音坂が愚痴る人物はハゲ課長のみであり、女性から不当な扱いを受けているような表現は見当たらない。一二三に関しては特殊なケースのように扱われているため、女性が日常的に男性を虐げることはないように思える。何より、左馬刻様が女に対して直接普通に「クソ女」って言えているというのは、安定して女を罵倒してよい環境にいるってことだもんな。ここぞというときの「クソ女」ではなく日常的な「クソ女」でしょアレは。山田一郎も無花果に対して好戦的に話しているし、(野蛮とか低能みたいな侮蔑は受けているものの、)言葉遣いであれこれ言われて抑圧される描写ではない。言われても反骨するヤンキー的な描写なんだろうか。そういう理由からキャラクター的には不自然ではない感じがして受け入れてしまうよね。
頭に残る女の話は税金の話とヒステリーなストーカーと高圧的な無花果さんくらいである。後は普通の印象があって女尊男卑感はあまりない(私は鈍い人間なんでその辺りは鋭い人が指摘してくれ)。だから、「女という強者によって不当な扱いを受けていることへの反発」というより「女によって搾取されている」というより「女を大事にしなくてはならないせいで要らない負担を強いられている」という感じがある。もっと適切な表現があるかもしれない。なんだろう語彙力がないから分からない。あと、三郎の「ホスト風情」という表現から女性に奉仕する職業は馬鹿にされるものなのかもしれない感じもある。男を支配する女に媚売る裏切者って感じなんだろうか。
何というか、女尊男卑の世界なのに優位な側(女)からの一方的な蹂躙がないのが不思議なんだよ。それが見たいというわけではなく、わざわざ設定を付ける必要があったのかという疑問。だって、税金と壁と可視化されているのって中王区(政治)からの疎外くらいじゃないか。いや、政治から疎外されるって結構な痛手だよね。しかし、入間が結構な権力を持っているのを見ると、そこまで疎外されてなくないかと思ってしまう。いや、あれも男だけの世界だから自由が利くだけだろうか。女子高や女子大にいる女はのびのびと生きているみたいなものと解釈すべきか。しかし、横領したあの人が女である可能性も否定できない。語られていないことは推測しかできず、語りえない。
話の枝葉が分かれすぎてしまってアレだが、要するに、女尊男卑という設定と、女性から男性に対する態度と、男性の女性に対する態度のバランスが悪くって、ミソジニーじみて見える。これは最初に言った。ここに来るまでアホみたいに長い文章を書いてしまった。以上。
早く、内容の全容が知りたい。全て知ってからまた判断したい。飴村乱数さんが何かしてくれそうな感じあるので、どうなっていくか気になるところだ。
ごちゃついたことを考えるのも、何も考えずに享受するのも楽しめるので、特にヒプマイというコンテンツを批判する意図はない。書いてすっきりした。よかった。
「〜〜もへったくれもない」の「へったくれ」って何なんだと思って調べてみたら、
リンクがたくさんあると投稿できないのでhttp抜きにするがあしからず。
★「へったくれ」の語源は不明。「妙なことを言う」という意味の「剽軽(ひょうきん)」→「剽(ひょう)げる」からの成立とされる「へうたくれ(ひょうたくれ)」の転訛か?・・・根拠なし。
確かに音的には近い気がする。
//kotobank.jp/word/%E3%81%B2%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%9F%E3%81%8F%E3%82%8C-613424
「だってもへちまもない」にも繋がっていてなかなか説得力がある。
いまでも関西では「だってもへちまくれもない」と言うことがあるそうだ。
★『野乃舎随筆』には「今下ざまの人の悪言に、ヘウタクレといふは、ヘタクレといふ辞の転言なるべし。ヘタクレは、クソタクレといふ辞の転言ならん。もとはクナタブレを訛れるなるべし。クナタフレを、屎タフレと訛(あやま)りて、其対言に屁タクレといひしを、それを又、ヘウタクレと、音便にいへるならん」とある。
なんだか詳しい。
★茨城方言に「へったくれる」が残る。もしかすると、これが関わっているか。「へたった」「へこたれた」と同義…参った、挫(くじ)けた、くたびれたなどの意。
「ヘタクレ」「クソタクレ」が挙がっているが、「ヘタレ」「クソッタレ」は関係があるのだろうか。
そういえば「糞垂れ」や「洟垂れ」なら分かるが「バカタレ」などは何が垂れているのだろうか。
糞便の「くそ」に、軽侮を強意する接尾辞「たれ」(用例;「ばかたれ」「あほたれ」、「だら」の変化したものか?)を付したもの。
//ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%8F%E3%81%9D%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%82%8C
この場合の「たれ」は垂らす(=もらす)というより、「アホたれ、バカたれ」に見られる目前の人を罵る際に付ける接尾語というニュアンスが強い。
//zokugo-dict.com/03u/unkotare.htm
どうも物理的に何かを垂らしているというわけではないようだ。
ちなみに「へたれ」の語源についてもやはり諸説あるらしいがここでは措く。
この「罵倒に使われる接尾語『たれ』」というのは何だろうか。
「たれ」と「たくれ」が同根だったら話が早いのだが…
上記には「『だら』の変化したものか?」とあるのでそれを調べてみよう。
考えてみれば「あほんだら」の「だら」だろうし、北陸の方言にも「馬鹿」という意味で「だら」というのがあった気がする。
「あほんだら」の語源については「阿呆太郎」であるとの説もあるが、近隣地域で見られる同様の罵倒語である「だら」「たくら」が阿呆と結びついたものである可能性がある。
「あほんだら」から「だら」が出来たのかと思ったが、「だら」が先にあって「あほ」と結びついた可能性があるのか。
阿呆太郎→あほんだら→だら、という順番の可能性はあるのだろうか。
あんぽんたんは、「阿呆」と愚か者の意味の「だらすけ」が複合された、「あほだら」「あほんだら」が、転じた言葉である。
「阿呆」は「あっぽ」とも言われ、「陀羅助(だらすけ)」という薬(「陀羅尼助」の略)もあったため、「反魂丹(はんごんたん)」や「萬金丹(まんきんたん)」という薬の名から、「安本丹」ともじられた。
ええー…愚か者の意味の「だらすけ」って何よ、検索しても薬の「陀羅助」しか出てこないけど。
と思ったら、関東の方言で「でれすけ」というのがあるらしく、これは明らかに「だらすけ」の転訛なんだよな。
罵倒語「だら」を薬の「陀羅助」に引っ掛けて「だらすけ」と言っていたとか?
それだったらやっぱり「だら」が先にあったということになるのか。謎である。
「ばかたれ」について、別のところの説明にはこうある。
「たれ(垂れ)」は「はなたれ小僧」「小便たれ」「ばかたれ」など、名詞について人を軽蔑する意を表わす語としても用いられる、これは、小便や鼻水などきたないものを「垂れている(ぶら下げている)」ことを表わしたとする説、重みでだらりと「垂れ下がる」姿がだらしなく見えるところからとする説などがある。
一周して、やっぱり物理的に垂れているところから出発してるんじゃないか。
ちなみに「へこたれる」は「凹む+垂れる」が語源だそうなので、前述の「へったくれる」説が正しいなら、この「垂れる」が由来だと言えるかもしれない。
ここで驚愕の新説が登場する。
これについては,実際に何かを「垂れて」いない罵倒語の「たれ」は,平安時代にはやった「たくらだ」という言葉の末裔だといわれています。
中国の古典に「田蔵田」という間抜けな動物が登場するのですが,これが日本人の笑いのツボにはまったらしく,後々までバカ=たくらだとい図式が成立します。
//detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1321653228
「へったくれ」,「ばかたれ」,「ごんたくれ」,「あかんたれ」など,何かを垂れているわけではないにもかかわらず「たくれ」「たれ」という語尾をもっている場合は,ほとんど「たくらだ」の訛りである「たくれ」「たれ」と解釈して差し支えないといわれています。
//detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1321653228
これまでとぜんぜん違う説明じゃん!
いやでも実際に「たくらだ」という言葉はあるらしい。
たくらだ【田蔵田】 の意味
ジャコウジカに似た獣で、ジャコウジカを狩るとき、飛び出してきて殺されるという。転じて、自分に無関係なことで死んだり傷ついたりするもの。愚かもの。まぬけ。
一人の文殊より三人のたくらだ
東北の方言の「たくら者」「たくらんけ」なども「たくらだ」に由来しているそうな。
これが正しいなら「へったくれ」も合わせてこれが語源ということになる。
ん、そういえば「あほんだら」のところでも罵倒語「たくら」というのがあったな。
それが「たくらだ」由来なんだとしたら、「だら」の語源も「たくらだ」なの?
なんとなく繋がってきたような…。
またはじめに戻って「クナタフレ」説について調べてみよう。
【史料1】では「多夫礼」のみであるが、下って戊午(12日)条の宣命によれば「久奈多夫礼(クナタブレ)」とある。上記では「改名多夫礼」とあるから、久奈が氏(ウジ)で多夫礼が名と思われる。クナは「頑な」のクナ、タブレは万葉集に「多夫礼多流之許都於吉奈(多夫礼たる醜つ翁)」(巻17、4011)を確認でき、狂っている意と思われる。よって、ここでは「頑なで狂っている者」という姓名に改められたことになる。
たぶ・る 【狂る】
気が狂う。
「たぶらかす」なんかも「たぶる」が語源らしい。
最初の『野乃舎随筆』では、「クナタブレ」が「クソタブレ」と勘違いされて「クソタクレ」と訛ってさらに「糞」の対として「屁」を用いて「ヘッタクレ」になった、というような説明がされているが、「たぶれ」が色々なものにくっついて「〜〜狂い」「〜〜馬鹿」みたいな感じで使われているのなら、「糞馬鹿」みたいな感じで「クソタブレ」と言われるのは自然なことのように思う。
この『飲んだくれ』の”だくれ”とはどういった意味なのでしょうか?
実はコレ、、、
だくれは、タクレということばと同義で『愚か(おろか)になる』という意味なのです。
//www.buddhism-j.com/6-27nondakure
でもそうか、最初に挙げられている「剽たくれ」の「たくれ」もこの「たくれ」か。
ということは「剽たくれ」説と「クナタフレ」説は、「剽」と「屁」という字の違いこそあれ、ほとんど同じことを言っているわけだな。
追記:いや「剽たくれ」が「たくらだ」由来の可能性も普通にあるのでここは結論を出すべきではないか。
脇道に逸れるけど、「塗りたくる」とかの「たくる」ってのは何なんだろう。
これか。
「荒々しい」というのは「狂う」に通じる気もするし、「飲んだくる=盛んに飲む」と解釈するとめちゃくちゃそれっぽいけど、でも「ひったくる=むりやり奪い取る」から「荒々しく」が派生したんだとしたら、「ひったくる」は「引っ手繰る」だし、別語源なのかな。
というわけで「へったくれ」の語源はこんな感じに整理できるのではないか。
1. 「たぶれ(狂う)」に由来する罵倒語「たくれ」(剽たくれ・屁たくれ)
2. 「田蔵田」に由来する罵倒語「たくれ」(剽たくれ・屁たくれ)
3. 「垂れる」に由来する罵倒語「たれ」(凹垂れ)
映画「華麗なるギャツビー」の予告編を見る限りでは、これはあまり期待できない。語り手のキャラウェイは一貫して没個性的な、自分の語る物語に取り残されるような傍観者であらねばならない。そしてギャツビーは物憂げな翳りと張りつめたいかつさを同居させたなかに、静かに燃える焦燥を潜んだ物腰を帯びていなければならない。ギャツビーは上流階級出身ではないにも関わらず、さも上流階級の人間であるかのように振舞っている。しかし、彼がその一員になろうとしている高級住宅地の人間たちは、まるで無教養な労働階級のように即物的で低俗な世界に生きている。滅びかけた階級社会の皮肉な倒立は、前時代の制度に形式的な価値を見出そうとするギャツビーの営みの到達不可能性を暗示している。だが、彼の愛がまさに愛するはずもない女性を愛すること、その不可能性の上に立脚した愛だったことが、ギャツビーの寄る辺なき孤独を証している。「絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、流れに逆らう舟のように、力の限り漕ぎ進んでゆく」悲愴感を映像で描写するには、ディカプリオの裏表のない溌剌とした生命感は屈託がなさすぎるし、マクガイアの器用な剽軽ぶりはギャツビーを傍観する者として余裕がありすぎる。だから期待ができないのだ。