はてなキーワード: アルバムとは
天野はおそらく一昨年に死んだんだと思う。おそらくというのは家族を名乗る人のそういう報告をインターネットで見ただけで、自分は天野の下の名前も実家の住所も果たして天野が本名だったのかも知らないんで、確かめようがないからだ。
天野のことは8年くらい前に、当時付き合っていた優子に紹介されて知った。テキストサイトと呼ぶべきかよくわかんないけど、そういうシンプルな web サイトを運営していて、優子は天野のことを彼は頭が良くて面白いし、彼の書くコードは綺麗なんだ。そう紹介した。確かに天野の書く html や css は当時めちゃくちゃな装飾で溢れていた素人の web サイトの中で明確な秩序を保って美しく存在していた。ように思う。無駄に頭の回転が早くて、ニヒリズムの塊みたいな天野の知識量はどのジャンルにおいてもだいたい自分を上回っていて、優子と天野の MSN メッセンジャーの会話を横から見るのは素直に面白かった。
天野も自分もクラブミュージックが好きだったので、音楽の話を少しした。テクノが好きだと言う天野に最近 Squarepusher を聞いていると言ったら珍しく知らないと言うのでえっおまえ Squarepusher 知らないの。まじかよ絶対知ってると思ったのにとかなんとか言って手持ちのアルバムの mp3 を送ったら、かっこいいと言って喜んでいた。お返しに自分の知らなかった WEG の mp3 を送ってくれた。こいつは無駄に口が悪いけどどうやら相手が嫌いでそういう態度をとっているわけではないらしい、ということがわかった。まあ別に自分は好かれていたわけでもないだろうけど。
天野はいわゆるメンヘラクズだった。被虐待家から出る気もなくてきとーにバイトしてはネトゲをしその日暮らしを続けている、それなりに頭の良いボンクラだった。優子は天野の能力を買って有償でコーディングだかなんだかの仕事をふったりしていたが、天野は仕事を受ける時はそれなりにやる気のあるようなそぶりを見せるのに、作業を開始すると途端にだるみの境地に達してしまうらしく、締め切りや納品の約束が守られるようなことはなかった。らしい。まあよくいるよね、そういう人。というわけで天野は、能力はある、ように見える、残念なクズだった。そんな自分は更に人のことをとやかく言う資格のないアホなクズだが、アホから見ても天野の頭の回転は素晴らしかったので、これがたまに聞く「生き辛い人」というもんだろーかと思った。
天野には2回会った気がする。一度目は数人で集まって飲みに行った。二度目は優子と3人で飲んだあとオールでカラオケに行ったような気がする。天野は実際に会うとネットの中の攻撃的な物言いが全く想像できないくらい物腰柔らかで、長身で、声がよくて歌がうまくて、手が綺麗だった。これって典型的ギャップモテっつーやつじゃね?なんつーかこいつずりーなと思った。
そんな天野に女神が現れた。聞けば横浜に住んでいてネトゲだがネトゲの実況をするねとらじだかで知り合った年上のお姉さんだそうだ。もっと聞いたら天野という年下のネット弁慶で会うと物腰柔らかで長身で声が良くて歌がうまくて手がきれいなメンヘラニヒリストを「私が救ってあげるの!」と使命感に燃える赤縁メガネをかけた面の皮の厚い地雷感満載のアラサーお姉さんだそうだ。自分と優子は天野の機嫌を損ねないようにねえねえ天野くん、赤縁メガネはあかんくないか?赤縁メガネはあかんくないか?とヘラヘラ冗談を交えて忠告したが、天野は聞く耳を持たなかった。天野は日本国民に共通する「惚気けは恥ずかしいから適当に自虐ネタや相方卑下ネタでお茶を濁す」などという技は全く繰り出さず、女神がいかに素晴らしく自分が女神をどれほど愛し女神のために生きるかということしか語らなくなりクソつまらないので話すのをやめた。腹いせに天野の知らない女神の日常ブログなどを見つけしばらくヲチしたりしていたが、更新頻度は低いし、そもそも自分は自他共に認めるロリコンなので、すぐ飽きて見るのをやめた。赤縁メガネの BBA に興味はない。
そんな女神はなんのかんの理由をつけてネトゲ内で天野という彼氏がいることは伏せていたらしい。まあなんか、ネトゲとかねとらじとかいうのはいろいろ事情もあるらしいですからねっと思っていたが、女神は女神にゾッコンでありながらもなんだかんだ言ってクズいその日暮らしを抜け出さない天野にだんだん飽きてきたらしく、天野をキープしながらネトゲ周辺で堂々と男漁りをするようになったらしい。そして程なくして天野は捨てられた。自分はほれみたことかと思いつつ、坂を転がり落ちるように不安定になっていく天野のメンタルが心配ではあった。あとから知るところによると、女神や女神の周辺の Twitter アカウントに、定期的に嫌がらせじみた Reply を送ったりもしていたらしい。今まで嫌なことがあるとすぐ諦めて、人に執着しなかったはずの天野の行動とは思えなかった。しかし同時に自分も優子と仕事とその他と絶賛修羅場っていたので天野のことは次第に忘れていった。
翌年の秋の終わりに、 Maltine Records っていうナウでヤングでカリスマ~なネットレーベルが主催するイベントに友人知人の荒川智則が集まって楽しいことをするというのでいそいそと出かけていった。財布が厳しいから今回はパスするわといっていた友人に「今日来なかったやつバカ」と SMS を送って楽しく荒川智則した。朝、ガラガラの電車内で Twitter を開くと、「富士そばステッカーをSさんに貰った」という post が RT で回ってきていた。天野だった。生きてた。ついでに来てた。なんだよかったな。そのまま寝落ちして電車を乗り過ごした。
クズなりに大人としての責務を果たすべく忙しくしていた翌年の夏、もうすっかり優子のことも天野のことも忘れていた頃、また件の Maltine Records がイベントをするよっ☆彡っていう告知がまわってきた。絶対行くだろjkと何人が思っただろうか。自分も思った。思うと同時にふと天野のことを思い出した。あの状態の中で見つけ出す自信は正直ないけれど、もし会ったら?そもそも行くんだろうか?行くよな普通に考えて。行くとか行かないとか、何か Twitter で反応してるかな。
天野の Twitter ID をブラウザに打ち込むと、天野のアカウントは消えていた。ユーザーネームを変えたのかと思って検索したけれど、違った。同じように「あれ?きぐりーさん消えた…?」と戸惑っている人が数人いることが確認できた。みんな知らないってことは、本当に消えたんだろう。そうか。でもまたすぐ戻ってくるだろ。あいつがインターネットを止められるわけがないんだから。
その時のイベント「やけサマ」には、出発の直前にだるみに襲われて、行かなかった。前から決まってた予定に限って、よくあるよね。
年が明けた冬、魔が差して優子の Twitter を見た。元気かなとか、そういう特になんということのないきっかけで。なんということのない可愛い日常を遡っていくと、天野の訃報が書かれていた。天野はやっぱりインターネットを止められていなかった。メインアカウントが消えた後の新しい天野の Twitter アカウントにリンクが貼られていて、弟さんを名乗る人が訃報を書き込んでいると書いてあった。あわててリンクを辿ると、確かに天野の弟を名乗り、葬儀を終えたこと、本人の遺志によりこのアカウントのログは消さないことなどが書かれていた。その前には、年が明ける前の秋に、女神のことを引きずり続けた天野がゆっくりと絶望し衰弱し、最後の食事を買い、所持金が無くなり、恐らくどこか人に見つかりにくいところに行って、そして post が途切れる様子が記録されていた。
優子はこのアカウントをずっと見ていたのだろうか。別れたあとも天野と交流があったのかどうかわからない。どうでもいいことだけど、天野の行動が Twitter のログの通りだったなら、おそらく天野が死んだ日かその翌日くらいに自分は優子とは別の人と婚姻届を提出した。ような気がする。本当にどうでもいいことだけど。
ログをさかのぼり「やけサマ」が開催された8月21日の post を確認すると、「やけサマ」をめいっぱい楽しむ天野の様子が書かれていた。おまえはしゃぎすぎだろというくらい。そうかやっぱり行ってたのか。そんなに楽しかったなら自分も行けば良かったな。あの中で見つけられるとは思わないし、見つけられたところで「あ、どうも。お久しぶりです」とかなんとか、こっちが拍子抜けするくらい物腰柔らかで当たり障りの無い対応しか返ってこなかっただろうけど。
たまにふと、やっぱ生きてるだろという気になって検索してみる、と誰かがどこかに書いていた。それは自分も同じだ。別にあのとき行って探して、止めていればとかは全然思わない。2回しか会ったことないし。ちょっとインターネットで話しただけだし。ただなんかずっと気になっていた。そういうわけで、明日はまた Maltine のイベント、今度は「山」だ。多分行くと思う。同時に天野のことも思い出した。のでこれを書いた。多分しばらくしたら消すと思う。
ずっと気になっていると言えば結果的に優子から借りパクすることになってしまった本やゲームが数点あって、気にしながら数年持っていたんだけれども、この間引っ越す機会に思い切って処分した。もしそんな機会が訪れたとしてももう物を返されても困るだろうし、あのときは迷惑かけましたと少し包むくらいが大人というものではないかと思ったからだ。けれど多分そんな機会は、やっぱり訪れない気がする。
基本のプランにはちゃんとした六切写真台紙が1つしかついてなくて、追加でアルバム頼むと2万とか3万とかする。
写真のデータも貰えるから、両親には写真屋で大きく印刷してもらったものを渡そうって話をしていた。
お互いの両親にだから2つだよね?って言ったら夫は自分の両親にアルバム渡して、私の両親には自分で買った台紙に入れて渡そうって当然のように言ってる。
それおかしくない?って言ったら謝ってくれたけど何か納得いかないような態度。
何かあれば夫は自分の両親の方に行くのが当然って感じがして、かなりもやもやする。
結婚したら新しい戸籍作るのに、どうして「嫁が○○家に仲間入りした」って感じになるのか分からない。
JASRACの音楽を使う場合はJASRACに届出と支払う必要があり
JASRAC外の音楽を使うならそれはそれで個別に許諾申請する必要があるから
頑張ってね
http://www.jasrac.or.jp/info/create/pop02.html
卒業記念CD・DVD等を制作されるときの著作権手続きについて
http://www.jasrac.or.jp/info/dl/video001.pdf
学校の卒業記念アルバムDVDを製作し、生徒に配布したいのですが。
https://secure.okbiz.okwave.jp/jasrac/EokpControl?&tid=10497&event=FE0006
定年退職の記念に趣味の歌を吹き込んだCDを製作し、お世話になった方々に差し上げたいと考えています。JASRACへの手続きが必要ですか?
https://secure.okbiz.okwave.jp/jasrac/EokpControl?&tid=10625&event=FE0006
以下転載
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つらくても、音楽ゲームの人生を過ごしていた。音楽ゲームのおかげで、音楽が更に好きになって、作曲もそれをきっかけに始めた。
正直、かなりBEMANI音楽ゲームに恵まれた。さようならって言いたくない。BEMANIがオレの人生を変わった。人々と出会って、人生の理を体験して、そして音楽がオレの中の一番高い位置を定めた。
何回も何回も、KONAMIがやっちゃったことが、オレみたいなBEMANI信者を傷つけ、絶望させ、そして諦めたくなってた。が、結局なんだかんだの理由を見つけて、自分を説得して、ゲームを引き続いて好きになることにした。
たとえポップンが2作間(TUNE STREET、FANTASIA)稼働してなくても、たとえ未だにe-amusement gateの使用がかなり不便としても、たとえ今回のKAC2013に海外の待遇がどんなにひどくても、たとえKONAMI公式と香港の代理がどんなにプレイヤーに冷たくても、たとえKONAMIのアーティストさんとプロデューサーさんがどんなに働かされてネタ尽きになっても、BEMANI信者達はまだ希望を持って、きっとこれから楽しくなるよと、いろんな意見を提出し、ゲームを支えるように動力した。
この音楽ゲーム界において、オレはさまざまなでき事があった。海外のプレイヤー達をつながって、コミュニティを作った。自分なりの面白いやり方を宣伝し、日本のプレイヤーまで感染させた。ポップンを復活させるために、意見書を直接にサウンドディレクターであるwacさんに渡して、果たして海外がポップンSunny Parkを遊ぶことができた。BEMANIゲームの愛と努力といえば、オレは少なくはないはず。
しかし、ある事情があって、もうBEMANIゲームが好きになれなくなった。KONAMIが、ほんのすこしの決定をして、オレの夢を破壊した。
それは先日、10月30日のこと。8月に行われた、サンボルフロアの自由研究コンテストにで、オレが一員としているチームが、KONAMIから本収録通知きて、契約書をサインしてKONAMIに送った。
だがしかし、10日30日に、公式ページが結果を発表したところ、オレのチームが入ってない。リーダーからメッセージが来て、楽曲が不採用になりましたとのこと。
そう。その理由で不採用に。ルールにはっきり記載してない理由で。
ルールの最初にあった、「参加者の資格は、日本国内在住の方のみ」ってもちろん知ってる。しかし共同制作者についての制限は一切記載されてない。
それより、すでに韓国とアメリカ在住のアーティストがサンボルに参加している。チーム内の話し合って推測した結果は、申し込む人が日本在住であれば大丈夫だと。それに基いて、チームの一員として、このコンテストを参加した。
もちろん結果はご覧の通り。不採用。
ちょっと昔話だけど。10年ぐらい前、プレステで家庭用のダンレボとギタフリをちょっと遊んで、そして9年前ごろからキーマニを触れ、合わせて10年以上BEMANI音ゲーを遊んだ。キーマニとギタドラの楽曲の影響を受けて、15歳ごろから作曲を始めた。だんだん成熟になって、音楽ゲーム以外の分野でも曲を作ってみた。
もしかしたら、いつか、オレの曲がこんなすばらしい音楽ゲームにも収録させ、楽しい曲と楽しい譜面をみんなに遊ばせるのかな、と思っていた。これは、音楽ゲームプレイヤーとクリエーターとしてのほんのすこしの夢だった。それを叶えるために努力していた。
最初からキーボードから五線譜を入力し、そしてFLStudioを使い始め、音楽ゲームに楽曲が収録され、自分のアルバムを作り、ゲーム音楽をいろいろ作った。すべて実際の行動で自分の作品の品質を証明させ、聞く方に楽しませるためだった。
BEMANIにも3回投稿したが、すべて落選した。毎回でも出した作品を聞き直して、進歩を目指し、今度もっと素晴らしい曲を作れるようにがんばった。
音楽ゲームの楽しさを知るため、何年間も研究して、名無しのガキから海外の音ゲー代表の一員になった。3回でも公式大会に出た。日本、台湾、中国、アメリカなど、いろんな国のプレイヤー方と話し合って、各地の音楽ゲーム文化とプレイヤーの実力を理解し、音楽ゲームプレイヤーがほしいもの、そして楽しんでいることは一体なんなのかをたくさん聞いた。
ついにBEMANIアーティストと直接に話す機会があった。彼らの世界はいったいどんなものなのかを知りたい。そして自分の夢への正しい方向を見つけたい。
KACA2011のギタフリ部門に優勝して、AOU2012に行くことになった。バックステージに、dj TAKAさんと話した。もちろんBEMANIに曲出したいって話をした。そしてdj TAKAさんは、これからIIDX17のリミックスコンテストみたい、いろんな公募をやるつもりなので、どんどん参加してください、って励んでくれた。審査担当のdj TAKAさんがいうから説得力あるかと信じて、いつか参加できるじゃないかな、と思ってた。
そして、2012年4月に、SDVX FLOORが開設した。2013年4月、海外のSDVXも稼働し始めた。今は2013年11月で、もう一年半経った。海外のプレイヤーはまだSDVX FLOORを参加することができない。
2013年5月に、台湾のBEMANI座談会を参加した。台湾の関係者がオレの友達で、ポップンについての意見をその場で述べようと誘った。もちろんポップンだけではなく、すべてのBEMANIゲームについての意見も考えた。SDVX FLOORを海外にも対応させるの話ももちろん。
そして座談会に来たBEMANIの方は、おおたPさんだった。そこで、海外はいつFLOORに投稿することができるか、とおおたPさんに言った。「日本人のフリにして参加したほうが早いですね」と答えた。ほぼBEMANIの最高責任者かつプロデューサーである方から教えてくれたので、信じてた。ずっとこの日を待っていた。
しかし、コンテストは何回も行われたけど、応募資格はまだ日本在住のプレイヤーのみ。
今回、日本のアーティスト4人とチーム名義で、自由研究コンテストを参加した。事前はもちろんちゃんとルールを読んで、過去も海外在住のアーティストが参戦した作品も収録されてることを確認して、参加することになった。ついに、時が来た。あと一歩で夢が叶う。本当に最後の一歩だった。
10月のはじめ頃に、仮採用通知がリーダーに来た。約1週間前、KONAMIからもらった契約書をサインして、回送した。10月28日、こっちから送った書類が届いてると確認した。
2日後(10月30日)、公式ページに掲載された当選者リストには、チームの名義がなかった。同時に、スカイプからリーダーのメッセージが来て、公式からメールによると、
「弊社宛に確認書及びデータを拝受し確認させていただきましたところ、共同製作者の方が日本国外に在住されていることが確認できました。(中略)応募資格がない方がご参加されているが確認できましたため、この度は大変残念ではございますが採用を取り消しとさせていただく運びとなりましたのでご連絡いたします。」
「外国在住者立入禁止」のドアがいきなりしまって、その一歩を踏み出すことができなかった。実力が足りないのわけではなくて、ただただオレが日本に住んでいないだけだ。
チーム全員もパニックになって、対処方法を考えた。リーダーは早速KONAMI側と交渉したけど、当日には何も変わらなかった。翌日にはKONAMIからの連絡がなかった。
この文を書いてる時点(11月1日)には、もうKONAMIに希望を一切持ってない。
もうBEMANIゲームを遊ぶ理由がなかった。騙されたかも?dj TAKAさんに、おおたPさんに、KONAMIの人に。
多分、海外の人は全然目に入らないだろうか?日本人だけで十分だ、と。
これからはもうBEMANIゲームから思い出を作ることができないだろう。ゲームのクオリティがだんだん不評になって、コストダウンがまるまるになって、新しい遊び方とか考えず、連動イベントで貢がせる気が満々に。尊敬していたアーティストさんも、この1、2年間に曲作り過ぎで、もう印象に残る衝撃な楽曲がなかなか作れなくなった。ゲームの面からでも、音楽の面からでも、BEMANIが昔みたいな魅力が、音楽ゲーム業界においての代表役が、もうなくなった。
オレにとっては、今はBEMANIから引退するタイミングだから、落下式音楽ゲームの世界からしばらく離れて、世界各地の音楽ゲームを楽しもうと思う。これからも音楽ゲームを愛してる。音楽自体も愛してる。音楽ゲーム風の曲も作る。ただ、他のメディアを通して、音楽ゲームとゲーム音楽を楽しみたいのだ。
以上。これからもみんなのちからで、音楽ゲームの世界を支えるように。
平成25年11月1日
キリスト教でないので神に対して誓いたくない、両親への手紙は、わざわざみんなの前で読む必要はなく親に直接言えばいい、
色直しもキャンドルサービスも金の無駄・・・偏屈同志の二人の意見はぴったりであった。
2)なるべく中間搾取されずに、払った金額ができるだけ招待客にいきわたるようにしたい。=コスパを高くしたい。
1.大前提として、夫婦として妥協できる持ち出し金額を決めた。結婚式が終わってからが長い二人三脚のはじまり。
したがってお金は極力出したくはなかったが、かといって皆に遠方から来ていただいているのにも関わらずプラスにしたい
(持ち出しをしない)という観念もなかった。それは失礼だと思った。
2.必ず呼ばなければいけない親戚をリストアップ、期待されるお祝儀を計算した。
3.人数、新郎側新婦側のバランスを考えて招待する友人をリストアップし、一人当たり3万円(夫婦の場合5万円)のお祝儀と勘定。
それとなく周りに声をかけて、参加意思を確認。
なお、ケチケチと算盤をたたいて、予算以上の金額を払いたくなかったということではない。
むしろ終わった結果がこれより多少ずれていても良いと考えていて、
とりあえず予算の大枠を決めないと、業者と話したときに方針がすぐぶれてしまうことが容易に予想できたからだ。
(尚、精確には2次会の参加徴収費×期待人数も予算に含まれる。)
ゼクシィやネットなどで情報を集めると、一つの現実が浮かび上がった。
”結婚式場を使うと、人数が数十人規模でも数百万は必ずかかる” ※スマ婚は不明
これは、結婚式場でも たくさん人を雇っており、豪華な建物や機材の減価償却があり、
毎日目標売上を決まった時間枠内で達成しなければいけないためだと思う。
支払を小さくすべて内容をなんとか質素にするならば、単価が高くなる。
ケーキを持ち込む際、カメラマンを知り合いに頼む場合、自前のドレスを使う場合、、全て持ち込み料を数万円ずつとられる模様。
逆にオプションをつければつけるほど、単価が下がりお得に見えるようにできているが、全体のボリュームは無論膨らむ。
・招待状、メニュー、メッセージカード、席次表、すべて込みで10数万円
一部金額うろ覚え。とにかく驚いた。
予想と現実の乖離が大きく、安くてよい式場があれば・・という、私達の淡い期待は見事に打ち砕かれた。
ここは畳部屋でキャパが小さいので、必然と呼ぶ人数は40人までに絞られた。
なぜ料亭にしたかというと、かかるのは料理代と酒代だけで、会場代(≒原価償却代)がいらないからだった。
庭も雅で、貸切のため他グループの喧噪に神経を使うこともないだろうと思ったからだ。
さらに、老舗だけに金屏風と赤絨毯を持っているのでタダで使わせていただけるとのこと。
加えて、入場退場の際に女将さんが唄を歌っていただけるとのこと、、私たちは、ラッキーだった。
しかし、会場が小さいせいか ごく稀にしか依頼は来ないらしい。
披露宴の内容がイベントに欠けることは確定したので、せめて招待客には舌鼓を打っていただこうと、
料理の予算を一人2万円に決定。酒代別途。親族で地元伝来の舞を踊れる方がいたので、依頼。
ドレスはいらないものの、あまりしょぼい恰好も場にふさわしくないだろうということで
新婦は和装で、動けて、食事ができて、且つ値段が休めな引き振袖に決定。新郎もあわせて袴に。衣装替えはなし。
地元のブライダル衣装屋を2件回り、相見積をとったが合わせて22万。
田舎ではライバルが少ないため、これ以上下がらない様子だった。柄もいまいちで、種類も少なく、使い古している感じ。
着物がたくさんあって競争が激しいところに行けば、相場はもっと安いんじゃないか??
と思いつき、着物のメッカであろう京都に照準をあて、ネットでオンラインレンタルできるところを探した。
3件ほど目星をつけ、嫁さんに1日かけてもらい実際に赴いてもらった。
着物制作工房とレンタルが一緒になっているところがあり、仕上がったばかりの新品があった。
デザインも気に入った上、値段も安かったので即決。
二人合わせて12万円程度にまで圧縮できた。
さらに、地元で着付けの美容院も2件巡って相見積をとり、印象がよいところに決定。
新郎の希望で新婦は文金高島田に。かつらだけで8万円。これはどうしようもなかった。
田舎ならではという感じで、酒が入ってからは新郎側も新婦側も ひざ歩きで畳の会場を回って、
皆がわらわらと適当にまじりあい、酒を注ぎあい、終始ガハガハやっていた。
人数も多くなかったため、夫婦も一人一人としっかり会話ができた。
重いかつらを外すために、途中で新婦は一度退場。髪だけ整えてまた戻った。
途中、長老がどこから持ち出したか、カラオケを歌いだしてやんややんやのハプニング(?)も。
(あれは可笑しかった。)
最後は新郎新婦側で盃をかわし、参加御礼のスピーチをし、集合写真を撮ってお開き。
出口でお見送りと引き出物を手渡し。なんと5時間半も同じ部屋でやっていた。
・招待状、メッセージカード、席次表はすべて自作。印刷業者に見積もりをとったが、
数千枚刷らないと、うまみはない。コンビニのレーザー印刷は高級紙には対応していないので注意が必要。
kinkosなどを利用するのが良いかと思う。
模様が入っている結婚式用の封筒などは高いので、安い無地のものを買い、
消しゴムはんこで鶴や亀などを作ってアクセントに。案外いい感じになった。
席次表は、ドタキャンで何回も作り変える可能性があったため、前日に実家でプリントアウトして作った。
切手など含め、総計で2万円くらいだった。
・招待客が40名と少なかったため、全員個別のプレゼントを用意。楽天を活用した。
嫁さんが昔お菓子を作る職に就いていたので、お菓子詰め合わせも入れた。
年配の親族は何をあげていいかよくわからなかったので、お菓子と共に1~2万円のギフトカタログを送った。
・宿泊客の宿代は全額夫婦で負担。ここでも2件ほどホテルに交渉。
・二次会はバーで、何もなしでただ皆で飲むだけ。途中で適当に分散するよう席を移ってもらい、
あとは参加者たちの化学反応に任せた。参加者は負担2000円で残りは夫婦支払。
フリーオーダで、それでも8万くらいで収まった。
・親族がカメラマンだったため、撮影をやってもらえた。お礼として3万円包んだ。
・簡単な司会進行は友人に頼んだ。A4一枚にまとめて、何回か打合せをした。
こちらもお礼を包んだ。
一括で請求してもらって後日支払をした。
・着付け、ヘアメイクの方にお礼を包み、控室での食事を出した。
・高齢で膝の悪い方もおられたため、和室用の小さい椅子?を用意した。
1次会40名、2次会15名。
準備期間の移動費など全て含めた支出が150万で収入が151万。
予想外に多く包んでくださった方が若干名いたため、ほぼトントンになったが、
そうでなければ思惑通りに持ち出し35万ほどに収まっていた。
仔細まで管理し、当初の予定どおり できるだけ招待客に分配することができたと思う。
1)参加者をたくさん呼びたい場合、それはもう選択肢がどんどん狭まっていく。
究極的には式場しかなくなる。
私たちとしては 公民館でもイベントスペースでもどこでも ワイワイとみんなでご飯を食べれて、
夫婦の顔をお披露目できればそれでよかったのだが、やはり色々考えるとそうはいかなかった。
まず、何かイベントがないと、空気がもたない。日本人はパーティー形式になれていない。
(知らない人としゃべらない) 若者だけならいけるかもしれない。
台湾なんかは家の前の道路の一部を貸し切ってパーティーするらしいです。
2)私たちのやり方は嫁さんが無職で時間があったためにできたと思う。
共働きだったらそこまで時間を捻出できなかったんじゃないだろうか。
私は出張で不在がちだったので、手と足を使った準備は殆ど嫁さんが。感謝。
3)後日、写真をコンビニでプリントアウト、L判アルバムにして家族に送った。
会場となった料亭からは無料招待券をいただいたので、その内にお礼がてら訪れて
こちらにもアルバムを渡す予定だ。これからの営業に使っていただければと思う。
4)試算表を作って、項目を全て羅列したのが 予算管理にとてもよかったように思う。
項目を炙り出そうとすると、内容もおのずと煮詰められていくので。
5)私たちは田舎で丁度良い料亭があったが、都会にはあまりないのではないか。
都会では会場の選択肢が少なくて、結局そういう式場しかないような気がする。
6) 円卓方式じゃなく、和室だったからこそ 行き来しやすく雰囲気が容易くこなれて、
当初、漠然とこんな結婚式、いいなあ~と思っていたのは、宇宙工学研究者の小野雅裕さん。
http://onomasahiro.net/tsurezure/852
当然同じものにはならず、計画に時間はかかったし喧嘩もしたが、
僕たちにとって とても満足のいく結婚式になった。
見知らぬ誰かの参考になれば。
一体何人呼んだんだ…。
分不相応にお高いホテルでやったんじゃないだろうな?
大体はホテルより専門の結婚式場のが安い。また招待客が少ないのに高い部屋借りても赤が出る。
バブルじゃないんだから、今時そんな高い結婚披露宴をやるのは庶民失格と言うか。
(名士ならその額は仕方ないと諦める筈)
式場が進める余計なオプションを断り、ちゃんと吟味すればご祝儀でトントンにまでは持っていけるはずだが?
アルバム作成と撮影は外部の安い業者に頼んで、たまに式場内などどうしても許可されない場所はあるが、その時はその部分だけの撮影だけ式場側に頼む。
どうしても撮影はプロでなきゃって言うんでなければ頼まなきゃいいし、撮影だけプロカメラマンにお願いしてアルバムは自分で作ってもいい。
ブーケも外注できるし、ドレスだって持込して持ち込み料金払った方が安い場合も多い。
招待状も式次第も名前カードも自分でプリントすればインクと紙代だけだぞ。
そういう、自分たちで安く上げる工夫したんだろうか?
要らないもの、どうしても金をかけてもやりたいものの選別や、それに見合ったコストかどうかの調査。
ちなみ、こういう「節約のコツ」みたいなのもゼクシィには載ってる。
少なくとも昔は載ってた。
そもそも金の掛かる披露宴はやらないという選択肢もあるのだぞ?
結婚式だけなら高くても数十万で済む。
なんで誰もが当たり前にやる雰囲気になってるんだよ。
式やらに約400万かかって持ち出し200万。
この不景気に見合ってない。
結婚式に関わる業者が儲かるだけじゃん。
来る人は慣例で出したくもない3万円を出す。
大金ですよ。
二人の2ショットとか見せられても反応に困る。
腹もふくれない料理食う。
好きなもん食べたいだろ。
寒い余興とか見る。
見てる方が恥ずかしくなる。
ふざけんな。
呼ぶ人呼ばない人とか席順とかめんどくさい。
てかこんなにもデジタル機器が普及してる今、撮影だけでなんでそんなにかかるんだよ。
業者に払うの2万とかだろ。
ケーキ入刀とかなんなんだよ。
甘いもの嫌いだわ。
暗いんだよ。
そもそもなんであんなに金かかるんだよ。
誰も結婚しねーよこれじゃ。
少子化にもなるわ。
婚約指輪は給料の3ヶ月分とかほざいてた指輪業界のステマ思い出すわ。
なんなんだよ。
まじ無駄遣いした。
火葬ってどうしてこんなにも気持ちを軽くするのかなぁ。
身内が亡くなって、家に安置されている間、ずっと涙が止まらなかった。
布を取ると安らかで眠ったような顔をしていて、でも触ると硬くて、
死んじゃったんだ…って泣いて泣いてした。
家族がアルバムを引っ張り出してきて一晩中、思い出話をしていて、私も、皆も泣いていた。
棺に移して棺を運ぶ時も、これでこの人はいなくなってしまうんだと思って泣いた。
火葬してもらった。
骨になったのを見た時、涙は出なかった。
いなくなっちゃったんだなぁ…とは思ったけど、不思議と涙は出てこなかった。
悲しい気持ちも出てこなくて一息つけたような感じ。
遺影を見ると色んな思い出が蘇るけど悲しい気持ちは薄いかな。
まぁ故人にとって長い闘病生活の終わりだったからっていうのもあると思うけど。
これが不慮の事故なんかだったら全く軽くならないのかもな。
銀杏ボーイズのサイトを久しぶりに見たら、PV撮影のニュースがあった。峯田のブログも9月に更新されてた。そういえば最近銀杏ボーイズのこと忘れかけてた。最後にライブ行ったのいつだっけ。社会人3年目の冬に戦争反対ツアーでZepp福岡に見に行ったのが最後。そもそも、ライブやってないし、東北ツアー?だっけ、スメルズライクアバージンツアーのライブ映像をCSで見たのがいつだっけ?東京メトロのCMソングに銀河鉄道の夜第2章が使われて、ドキドキしたのいつだっけ?車のカーナビのHDDにはアルバム入ってるし、シングルも、ゴイステも入ってる。最近聞いてないな。
2003年から2005年。当時大学生だった私は彼らに心酔してた。大学生活、人間関係につまずいてかなり苦しんでた。唯一の救いが銀杏だった。当時福岡に住んでたから、セッチューフリーのライブ見に行くために関西まで遠征してた、ひとりでマンガ喫茶泊まったな。ロッキンジャパンフェス行って、佐世保のセッチューのライブで死ねTに峯田がサインしてくれて、まだ大事にとってる。DVDについてたポスターは今でも部屋にはってる。平和祈願DVDがいつ出るかずっと待ってたけど、待ってることすら忘れてた。
銀杏のサイトのBBS見たら、イトキンの名前があって懐かしくなった。当時銀杏ボーイズはかなりの知名度はあったけど、一定数の人間はヒリヒリした切実な想いで彼らを見てたと思う。私もそのひとりだった。イトキンとは面識はないけど、どこのライブ会場にもいたし彼の知り合は、銀杏のファンサイト作ってたりして私もよくそこにライブレポを見に行ってた。あたりまえだけど彼や彼女らも10歳年をとって、彼や彼女らの生活にまだ銀杏ボーイズが存在してるか、ふと思う。
私が銀杏ボーイズを知って10年。アルバム発売から8年半。大学生だった私は社会人になり結婚し子どもが2人。当時銀杏が載る雑誌は全て買ってたけど、その中で今でも忘れてない、ふとしたときに思い出す峯田のインタビューがある。ストリートロックファイルのアルバム発売直前に出た号で、「今、僕たちは報われなくていい。今、こうやって銀杏ボーイズを聞いている人が、社会に出てそれで世の中が、少しでも良くなってくれればいい。」そんな趣旨のことをいってた。当時、社会人としてやっていけるか不安だった私はこの言葉に背中を押された。
社会人になったら学生時代より、苦しいことが多かった。だけど自由になるお金も、増えてどうしても行きたかった童クリにヤフオクでチケット落札して行った。銀杏ボーイズを切実な想いで、救いを求めて聞いてた。いつから、だろう。切実な想いで彼らの音楽を聴かなくなったの。聴けなくなったの。待っても待っても、活動しないからか。31歳になって自分が変わってしまったのか。
でも、今でも満たされない気持ちがあってそれを埋めれるのは銀杏しかない。家族も他の音楽も趣味も宗教でもない。かつて、銀杏ボーイズに救われた多くの人がいてきっといまだに彼らの新譜をライブを何年も待ち続けてる。働いて毎日をやり過ごしながら待ってる。みんな峯田のロックを必要としてる。
鼻を啜りながら歩いていたら、それは俺である。
昨年の年初から約二年ぶりに帰ってきた。
月末の給料とともに落として、
言わば、やむなく。
リビングに一人いたおかんは不満を言うこともなく、ご飯はいる?と
真っ先に聞いてきた。
おかんの直近の話……ダイエットに成功したサプリを俺に勧めることから始まり、
最近こっちに来た祖母が会いたがってたよ、いつまでもあんたを愛してるんだねという話になり、
太ったの?健康診断引っかかるよ、アルバム見る?と俺の過去話になり、
帰り際に財布落としたなら困ってるんじゃない、ちょうど祖母が"置いていった"
お小遣いがあるよ、と手際よく韓国のりと湿布が入った紙袋ともに封筒を渡された。
中に十万入っていた。
仕事はまぁまぁ、小さいプロジェクトだけど楽しくやってると空元気で答えたが、あれは嘘だ。
大きいプロジェクトでぼっちに鬱病を加速させて、左遷という形で
同期の上司に耐えながら、何とかやっていたんだ。
こんなに太ったのは幸せ太りかも、いい感じの人がいるんだ……と
話を振って照れ隠しのように強引に打ち切ったの、あれは嘘だ。
土日の空白を、コンビニ弁当を買い込むことで毎週解消し続けてたんだ。
それなのに、おかんは気づかなかった。
いや気づいてたのかもしれない。
あんたは、柔和な性格なんだから、太って周りに圧迫してる壁さえ無くせば、
俺はただ、へいへいと遅めの夕刊に目を通しながら流しただけだった。
すまん、ほんとは全部聞いていたんだ……
人とプライベートの話をするのも久しぶりだったが、
孤独のグルメに慣れさえも感じなくなった今、ようやく俺は気づいた。
話していたとき物音のする書斎から扉を開けて顔を合わすことすらしなかったが、
おかんは違った。そのことに気づけただけで、実家を離れて暮らして
心底良かったと思えた。
今まで育ててくれてありがとう。不肖の息子でごめんなさい。
今30だけど、少なくとも物心つく頃にはあった。別にウチが裕福なわけでもないし人から来るのにも当たり前にあった。
少くとも30年前の自分が生まれた頃には、皆カラーで写真をプリントして持ってるし(デジタルじゃないからフィルムは当然プリントする)
写真1枚がクソみたいに高いわけではなかったと思うけど。フィルムの中から自分で選ぶ、なんてサービスなかっただろうし、
写真なんて残ってる家ならものすごい量残ってるし。(勿論、今のデジタル時代に比べれば少ないと思うけど、1枚1枚が高価なら金持ちの家しかアルバムとか作るほど写真を印刷できないだろう)
年賀状の写真なんて小さいし、普通の写真よりは印刷代そのものが馬鹿高い、ってこともないわけだし、
言っても大したことなかったんじゃん?
まあ、20代が、もう30年くらい前に始まったサービスを超古典、と言っても別におかしくないでしょ。
デジカメが主流になった時点でカメラの概念自体も変わってるし、今なんて普通にフィルムカメラとか超古典でしょ、一部のマニアや仕事カメラマン除いて。
もっと酷く言えば他人と一緒に仕事してお金稼ぐ過程で「有害」な個性
従順な歯車であろうが、融通が効かず周囲への気配りに欠ければそれは批判されるべき有害な個性
勉強しても意味を取り違えたり数を数えるのが下手だったり地頭が足りないのは周りの足を引っ張る
頭の傷で死んだ細胞がありしゃべりがおぼつかないようでは金になりにくい
周囲のレベルの足を引っ張らない「普通」を維持することが一番大事
「金」そう「資本主義」の世の中で大事な個性は「普通」レベルに「金」を稼げる個性だ
結婚して子どもを二人以上産み少なくとも大学にやれる位に稼ぐ それが周囲の期待値
その為に必要な能力と個性が備わって無いならば、努力で補えない大それた望みなら
周囲の愛に恵まれて生きていても私は産まれて来なかった方が良かったのかもしれない
お金を稼ぐのに要らない個性は一切合財アンインストールしてしまいたい
と「実名」で本音を書きでもした日にはと「自己啓発!ポジティブ教信者」
「ネットのネガティブなコンテンツは良くない教信者」や「こうすればいいのに」としたり顔で
上から目線で「気が付いていないかもしれないけど可哀相なあなたの為に言っている」って
人が近づいてきて鬱陶しいことこの上ない
解決するような悩みならネットに書く必要も「匿名」で書く必要も無いって事が「実名派」の声の
大きい人達には分かっていない
望み薄き事を分かっているから「匿名」の場所に嘆く人が集まるのに
楽観や見ないふりは現実逃避で、本当はどこにも救いなど無いと分かっているから「匿名」で書くのに
私より悲惨な状況の人が悲惨な場所で踏みとどまっていたり上に行けたりする体験談を読むとそれだけで力を
分けてもらえる 本当か嘘の話かなんてどうでもいい
それと同時に私の目には壁にすがりつきながらも爪から血を流しながら経済格差の深い溝の底に落ちていく
人々も見える
恥を捨てて悩む人にマルチ情報商材や自己啓発を売りつければネットで小銭にはなるだろうね
「実名」を煽ってフルオープンにさせれば心の隙間に付け入ってお金を吐き出させるのに役立つデータ
どんどん集まるよね 気に入らない人の心の弱味を分析して取り憑いてじわじわdisってメンタル壊していく
事だって可能だろう お金は大事だけど、そういうことして喪われてしまう物の方が怖い
私らが資本家の家畜もしくは資本を循環させる一部品の取替えの効くネジに過ぎないとしても
磨り減るネジの悲鳴、規格外で検査にはねられて店にも並ばないネジ
使い物にならなくなったネジ
名も無きネジ
何処へか消え去ったネジを悼む心は忘れずにいたい
全てが「実名」になったら磨り減るネジは悲鳴も上げられなくなる
ネジが悲鳴を上げるのは「けしからん」と批難され取替えられて打ち捨てられるから
いくらでもネジの代わりはある
などとまとまりも無く心に浮かぶ様をただ書き連ねていたら
いまいちブレイクしきれなくて事務所を卒業した歌手が、自主レーベル立ち上げてアルバム発売し
歌手だけでなく作詞家としても良い作品何曲も出し始めたの曲聴いて、人間の才能なんて何がきっかけで
私ももう少し頑張ってみるかと抱えていたネガティブ感大幅に削がれちゃった ははは ウタって凄い
http://anond.hatelabo.jp/20130911131953
今後もしばらくは応援しつづける所存だ。
理由は3つ。
1. 箱押しが楽しい
私はれに推しである。
単純に箱押しすることも考えたが、やはりれにの素晴らしさは半端ない。れに寄りの箱推しだと明言できる。箱で推さないなんてMOTTAINAI!!
れに推しでまとめることも考えたが、かなこぉ↑の笑顔、しおりんやあーりんの可愛らしさ、そしてももかの頑張りぷりを考えると今は箱推しの方が賢明。将来的にはどうなるかわからん。
ジョギング中にウォークマンでももクロ。長距離を走り続けることができる。
ペースが落ちてきたら走れ!を聞けばいい。
車のHDDにもアルバム三枚入れてある。ドライブが最高のイベントになる。電池に不安のあるiPhoneなんていらない
3. 日々の疲れや何もかもを吹き飛ばしてくれる
しかし、動く彼女らが見たくなったらyoutubeという手がある。
ただ、現時点ではyoutubeがももクロの動画を参照するに適した手段ではないかと思われ。
私がももクロに固執する理由はこんな感じ。
で、本題。
グリーン、イエロー、ブルー、ホワイト、レッド 馬鹿じゃないか?
ブルーはあっても無くてもいい。でもそれ入れたら6色いるでしょうがっ!!
ホワイトってなんだよ。箱色か? 知らねえよ。
パープル用意しとけよっ! 誰が買うのって? 俺だよ俺。俺俺。
2020年東京オリンピックが決定した9月8日早朝。その日、我々日本人は否が応でも7年後の日本を想像せざるを得なかったわけだが、日本の未来を予感させる出来事は同日夜の恵比寿リキッドルームでも起きていた。
今回のライブは、ceroとして久しぶりのワンマンライブだった。タイコクラブに始まりライジングサンに至るまで、全国津々浦々と様々な夏フェスに出演してきた彼らは、一回りも二回りも成長した姿を見せてくれた。ボーカルの高城は自ら今回のライブを「文化祭」と形容したが、オープニングアクトの表現(Hyogen)や、サポートメンバーの面々と力を合わせて作り上げられたステージには文化祭のごとく熱いエネルギーが集約されていたと言えるだろう。
満員のリキッドルームで観客たちが開演を待ちわびる中、開幕したステージに現れた高城。ZAZEN BOYSよろしく「死ぬほど練習をして、マツリスタジオで練習をぶちあげてきたので」と観客から笑いをとる。そして、告知されていなかったオープニングアクトである表現を紹介するとさっと身を引き、表現の演奏が始まる。
アコーディオン、バイオリン(一曲目のみ)、アコースティックギター、ウッドベースの4人組からなる表現はceroと関わりの深いバンドだ。ギターの古川は高城と高校の頃からの知人であり、その後もceroと表現で互いに切磋琢磨してきた仲だ。お互い尊敬しあえるバンドとして成長を遂げた両者が集い、久しぶりの対バンとして出演する彼らを見て高城は舞台袖で涙を流していたそうだ。
さて、表現の演奏はというと、全員がコーラスを務めているのが特徴的だ。セリフのような歌詞をメンバー全員が声を張って歌いあげる様はまるでミュージカルのようである。スキャットやハミングを多用し、途中ポエトリーリーディングのようなシーンも挟まれることによって、声の持つ魔力を改めて感じさせられた。もちろん楽器の演奏も素晴らしく、アンプラグドな楽器のアンサンブルによるオーガニックなサウンドは、その名に恥じぬオリジナルな「表現」となっていた。ceroがコンテンポラリーでエキゾチックなロックオーケストラであるのと同様に、彼らもまた名前通りに素晴らしいバンドであった。
ceroを見に来た観客も大満足のオープニングアクトであったが、ceroの開演までは20分ほどの転換があった。幕の裏から聞こえてくる様々な曲の断片は、これから始まる演奏への期待を高めるには十分だった。
いざ幕が上がり、「セロセロセーロ」と叫び続ける入場曲と入れ替わりで始まった一曲目は“水平線のバラード”。ステージには点滅する6本の蛍光灯を背景に、メンバーが立っており、イントロはスタジオ版にないトランペットから始まった。しっとりとした雰囲気で始まったステージだが、ノルウェイの森風のイントロから入り軽快なラップが冴える二曲目“ワールドレコード”でフロアのテンションは急激に引き上げられる。続く三曲目“マウンテンマウンテン”の4つ打ち部分では後ろの方までほぼ全員が音に身を委ね踊っていた。
盛り上がった後一息つくかのように挟まれたMCで、高城はceroと表現の辿ってきた道を振り返る。そして「世界で唯一表現の全員とデュオを組んだことがある人」と名乗る荒内を「音楽ビッチ」呼ばわりするなどしてステージが暖かな笑いに包まれたところで次の演奏へ。
いつの間にかステージから消えて戻ってきた高城。傘を片手にレインコートを羽織った高城が歌うのは“21世紀の日照りの都に雨が降る”だ。続く“エキゾチックペンギンナイト”では「パーパパパー」と全員が高らかに叫び、フロアをより一層祝祭的空間へと引き込む。少し落ち着いて始まった“クラウドナイン”も結局はcero特有の「祭」感へと収束していくのだった。
二度目のMCはサポートメンバーの紹介から始まる。今までになく多くのサポートメンバーを迎えた今回は、ceroのメンバー3人+サポート5人の8人編成だ。トランペットやスティール・パンをこなすマルチプレイヤーMC sirafuのみならず、サックスやタンバリンを担当したあだち麗三郎、表現での演奏とは変わってパーカッションの古川麦、ドラムの光永渉、ベースの厚海義朗という5人のサポートメンバーがそれぞれ紹介される。
ひと通りメンバー紹介が終わると、スタジオ版に比べて遅く重厚な“大洪水時代”のイントロが始まる。この曲から始まったVIDEO TAPE MUSICによるVJは、フェイザーのかけられたノイズギターと相まって、我々を水中へと誘う。そして、ノイズの海の中へと一筋の光が射すかのように響き渡るのは、高城によるフルートの音色だ。最後には全員がしゃがみ、背景であったスクリーンが前景化される。水中の映像、そして流水音のSEと水の映像しか受け取ることの出来ない状況はまさに大洪水時代といったところか。そして、海つながりで次に演奏されたのは“船上パーティー”。VJには男女の横顔が交互に映り、高城は一人二役でセリフを言い合う。スタジオ版でも印象的な「ちょっと待った!」のセリフの後はじれったいほどのタメにより、聴衆をより一層演奏へと引き付ける。そうして引き付けられた我々観客が次に耳にするのは新曲、“我が名はスカラベ”。メルヘンチックな歌詞とVJは、初めて聞く我々も十分楽しめるものであり、聴衆はみなceroのニューリリースへの待ち遠しさを煽られたに違いない。
新曲披露後のMCでは、大洪水時代から加わったVIDEO TAPE MUSICの紹介。そして最近高城のハマっている「文化祭」というキーワードに関連してTwitterにおける高校生のつぶやきや、ceroのメンバーそれぞれの思い出などと話が弾む。
再びメンバー紹介から入った曲は“Contemporary Tokyo Cruise”。本ワンマンライブの表題曲とでもいうべきこの曲ではミラーボールがきらめき、最も「祭」感のある曲だったかもしれない。そして音は途切れることなく、思わせぶりな長い間奏から始まったのは“マイ・ロスト・シティ”。2ndアルバムの表題曲でもあるこの曲では「ダンスをとめるな」という歌詞、その通り踊り続ける客、ダンスをする人々を映すVJが一体となっていた。
短めのMCを挟んだ後、演奏されたのはまたもや新曲、“yellow mangus”。ムーディーなサックスから始まり展開されるのはceroお得意のディスコビート。そしてこれまた長めの間奏からはじまるのは“わたしのすがた”。途中挟まれる8ビートの部分では赤い照明が似合うほど激しい展開で、普段とは違った一面を見せてくれた。
最後の曲の前には今後の活動を仄めかすようなMCを挟み、演奏されたのは“さん!”。観客と共に「いち!に!さん!」と高らかに叫んだ高城は29歳の文化祭、最後の盛り上がりを演出した。
しかし、我々の文化祭はまだ終わらない。アンコールを期待する拍手に応えて登場したのは高城と橋本。残りのメンバーも続々と登場し、最後の最後に演奏されたのは“大停電の夜に”。ゆったりとしたメロディーはまるで蛍の光のように、我々を切なくも満たされた気分へと導き、文化祭は幕を閉じた。
実は、最後のMCにおいてなんとも頼もしい言葉があった。高城は、表現やVIDEO TAPEMUSICのような仲間たちを見ている中で「日本の音楽がこれからまたちょっと変わっていくんじゃないかな」という実感を述べた後に、「俺達が変えるぞみたいな気概を感じている」と宣言したのだ。変わりゆく東京の風景、そして変わりゆく日本の音楽シーン。7年後、東京オリンピック開催を前に我々はこの日をどのように思い出すだろうか。29歳の文化祭には「ここから何かが変わっていきそう」な予感、そして希望に満ちあふれていた。あの晩、もしかしたら我々は時代の目撃者となったのかもしれない。
メジャーセカンドアルバム「吹き零れるほどのI、哀、愛」発売おめでとうございます。
去年の5月くらいに知人からすすめられてファーストアルバム「死ぬまで一生愛されてると思ってたよ」を聴いた。
アルバムのタイトルに衝撃を受け、「愛の標識」が大好きになり、「バイト バイト バイト」を聴いて励まされた。「手と手」はクリープハイプの楽曲の中で1番好きだ。
シングル「憂、燦々」「社会の窓」はもちろん買った。「憂、燦々」を聴いたときに(ん?なんだかちがうぞ)と感じたが、CMに使われた曲なのでクリープハイプらしさが減っているのは仕方ないと思った。
決定打になったのは、Mステへの出演だった。クリープハイプは「ハイトーンボイスで女性の心情を歌う」アーティストになってしまった。そう認知されてしまった。
改めて、私が彼らのどこに惹かれていたのか考えてみた。這いあがれないこと、劣等感、失恋、どうにもならないこと、自分はこう考えていたのに相手はそうじゃなかった・・・行き違いとかやりきれない気持ち、でも普段あえて言わないような気持ちを歌ってくれていた彼らが好きだった。
けれど、ストレートな言葉は、自分たちのバンドについてとか、失恋したことについてではなくて、いつのまにか「女性の心情」を歌うようになっていった。
「イノチミジカシコイセヨオトメ」だって女性の心情を歌うものではあったんだけど・・・ちゃんとやさぐれていた。
もちろん、昔のアルバムだって女性の気持ちを歌っているものはある。でも、それはあくまでクリープハイプの代表曲ではない、と思った。
私はやさぐれている彼らの楽曲が好きで、やさぐれていた頃を忘れないところが好きだった。また、劣等感からうまれた音楽を聴いてみたい。
描いた漫画。
http://bincube.co/casea/sigen_fb/index.html
1993年(小6)の頃から漫画を描こうとしはじめて、1997年ごろまで頑張ったけど、画力以前に、リリースや配信の問題で断念した。
原本をコピーするお金はなかったし、ノートに書いても自由に配付できない。
ペン入れするほど余力もなかった。
そんな自分だけど、WEBの仕事でイラストレーターやフォトショップを学び、プログラマ経験で進捗管理や困難な手順を作業手順を確立し容易にすることを学び、DTPの仕事で縦書き文字のテクニックを知った。
そこで、昨年秋、コミックスタジオ買ったらCLIP STUDIO PAINTが開発中でこれに移行するというのを知り、いける!と思った。
まだ漫画のデジタル技術は過渡期でこれからも進化する余地があるからこそ、ソフトが一新するんだと思ったから。
そこでペンタブレットを中古で4千円でかい、プリントスキャナを中古で6千円で買い、17,5インチの大型ディスプレイの64ビット8GBの持ち歩けないノート(6万)を揃え、環境を整備した。
だから、登場人物を一人にしてしまい、1人称にし、四コマのように起承転結も考えなくていい、だらだら話が続くWEB漫画形式にした。
公開先はとにかくレスポンスが欲しかったから、カップラーメン上げても3いいね!がつくFacebookにした。
Facebookの写真アルバム機能で1話というアルバム作ってガーッとアップした。
Facebookの友人たちは何をはじめたんだ?と驚いてくれたのがモチベーションアップになった。
pixivで横顔の描き方を学び、2chでペンタブレットにはケント紙を引くとペンの走りがツルツルしなくていいことを教わり、図書館の「漫画の描き方」の本でコマは細かくし過ぎなくていいことを知った。
デジタルなので文字もすぐに直せる。配付はタダ。勢いがついて、完結まで漫画を描くことができた。
それから半年、Facebook以外の友達も読みたいといってくれて友達の個人サーバー借りて、漫画サイトを今日ローンチできた。
ビューワーは突貫で自前で作った。スマホでもタブレットでもPCでも見れる上にFacebookやってない人でも読める!!
個人漫画、二次創作漫画は既に盛況だけど、全くゼロベースに近い自分でもいきなり挑戦して漫画が描ける時代にまでなったんだなあとしみじみ思った。
漫画は作るのにすごく手間がかかる。
正攻法でネームからキャラから舞台からオチからなんやかんややると恐ろしい作業量だ。
でも、プログラムの知識が大半の自分でも、プログラム組む時と同じように、手順の再構築と最適化を繰り返してデジタル化にこだわって工数削減で執筆速度は3日で1ページから1日で1話まで短縮できた。
すごい時代になったんだなあと思う。
一昔前ならアップロードもヒーヒー言ってたのにお手軽になった。
今は、先週Galaxy Note2を手に入れたので、ネーム段階の完全デジタル化に挑戦し始めたところ。
複雑な手順、大規模な工程が驚くほど短縮できるというのは、プログラムの世界だけじゃないんだなと改めて勉強になった。
もし、漫画描いてみたいなーと思っている人は是非挑戦してみたらいいと思う。
漫画を描くのも楽しいけど、効率化を追求するのもすごく楽しいから。
数年前のこと、このぐらいの時期の平日に元彼女で、一緒にバンドをしていた子から電話がかかってきた。
別れてからもバンド活動はしていて、彼女はシンガーだったので月に2、3回はライブやら、練習で会っていた(別れてから肉体関係は無し)
家もお互い、都内一人暮らしで、隣りの駅で近かったため、月に一回ぐらいは居酒屋で呑んだりしていた。
そんな彼女からの電話も、そうそう珍しくないのだが、その時は少し面倒だった。
面倒だった理由は、
・バンド活動があまりうまく行ってなかった。(毎年アルバムをインディーで1枚リリースしてたがこの年は予定がなかった)
・金も無いし、休みもなくいらいらしていた。(普段はサラリーマン)
今考えると、その時自分は軽く鬱だった気がする。
サラリーマンでバンドマンとはいえ、本気で音楽活動をずっとしていた。
とにかく自分のことでいっぱいいっぱいだったのを覚えている。
会話の内容は、
・寂しくて、ぬいぐるみを買った。(ぬいぐるみを買うような性格ではないのに)
そんなような、かまって欲しいという内容だった。
それに対して私は
みたいな内容で、突き放すように切ってしまった。
電話を切った後、邪険にしてしまったことを少し悔いながら、メールを送った。
内容は、週末ライブの予定だったため、3日後のスタジオ練習忘れんなよ!というメールだった。
いつもならすぐ返信がすぐ来るはずだが、その日は返信がこなっかった。
もう寝てしまったのか?
怒っているのか?
翌日になっても返信は来ない、電話してもでない。
またその翌日になっても返信は来ない、電話してもでない。
これはおかしい・・病気でもしてるのか?と心配になり、会社終わりで直接彼女の家に向かった。
以前、付き合って間もない頃、突然彼女と連絡がとれなくなったことがあった。
理由は薬物で警察に捕まり、拘置所にいたから、ということがあったのだが。
さすがに、今回はそれは無いだろうと思っていた。
向かう電車の中、もしかしたらという不安に駆られ、駅に着いた時には確信に近いものに変わっていた。
彼女の家についたのは、既に19時過ぎぐらいだったと思う。
2階にある彼女の部屋を外から見ると、煌々と明かりがついていた。
と思いながら、最上階に大家が住んでいることを知っていたので、事情を説明し部屋を空けてもらった。
中に入ると、すぐキッチンで、ドアの先が彼女のいる部屋だった。
ドアを開けようとすると、重くて開けられない。
何か邪魔してる感じだった。
私が来たのを知って、会いたくないから、わざと中からドアを押してるのであれば、どんなにいいだろうか。
と思いながら強引に部屋に入った。
中は、エアコンがびんびんに効いていて、肌寒いぐらいの温度で、彼女はドアのノブにタオルを掛け、首を吊って死んでいた。
その後、大家が警察、救急車を呼び、私は彼女の母親、バンド仲間、近所の友人を呼んだ。
私と、母親と、彼女の親友の女友達に宛てて、「ごめんなさい」という内容だった。
10年の間に、出会ってすぐに付き合いだし、5年同棲し、別れて2年、別々に一人暮らしをしていた。
別れてからはお互いに、別の彼氏・彼女ができたり別れたりしていた。
それをつまみに二人で呑んだりしていた。
自殺する1ヶ月2ヶ月前ぐらいに、二人で呑んだときに、私と結婚したいと、酔っ払いながらも本気で言ってきた。
一度、酔っぱらいながら私にヘッドバットしながら、お前だけ幸せにはさせねぇぞ!
と、ふざけてるのか、本気なのかわからないテンションでのやりとりもあったりしたのを思い出す。
彼女は、末っ子で寂しがり屋のAB型、ひっこみじあんだが、なぜかシンガーで大酒飲み。
仕事が終わると、帰宅中に缶ビールを飲みながら帰るぐらいで、アルコール依存症だったと思う。
リストカットや未遂などの実績はなく、とにかく酒をよく飲む人だった。
事後、彼女と結婚していればこんなことにならなかったのに・・・と後悔したり。
結婚しても同棲で一度失敗しているのにうまく行くわけがない・・・と納得したり。
こんな十字架背をわせやがって!むかつく!!!と憤慨してみたり。
音楽活動はほとんどやらず、地道にサラリーマンに専念している。
忘れようとは思うが、完全に忘れるのは不可能。(第一発見者だし)
高野哲というミュージシャンがいることを皆さんはご存知だろうか。
大抵の人は知らないだろう。
別に音楽チャートにランクインだとか、ミュージックステーションに出演とかは
していないから、そんなに知名度は無いと思う。
ただ、彼の作った音楽は嫌というほど聴いたことがあると思う。
絶対に。
よっぽどじゃない限り、聴いたことがあると思う。
ヘキサゴンのめちゃめちゃ耳に残るOPテーマソング「Hate Beat!」
これは高野哲が作った曲だ。
でも、曲は知っていた。
高野哲は元MALICE MIZER初代ボーカルである。
そもそもMALICE MIZERのボーカルだったGACKTの前にボーカルがいた事を
知っている人自体少ない。
なんだ、V系か。
ヘキサゴンのOPテーマを作ったのは元MALICE MIZERの初代ボーカル。
MALICE MIZERがわからない人はグーグルで画像検索をしてくれ。
ここまではOKか。
高野哲はMALICE MIZERというV系のバンドを辞めた後、
もう一度いう、MIXTUREバンドだ。
MIXTUREバンドだ。
そこで彼についてきたV系のファンたちは離れた。
活動に忙しくなったためMega8Ballは休止することになる。
それで高野哲が中心になった3ピースバンドnil(初期)を結成する。
※nilは初期と現在で全く違うバンドになっている。後で説明する。
その後、元ラルク・アン・シエルの櫻澤泰徳がリーダーとなるZIGZOのボーカルとして
迎えられる。
ZIGZOは元ラルク・アン・シエル、元BY-SEXUAL、元MALICE MIZERで構成される、
ロックバンドだ。
もう一度いう、ロックバンドだ。
ここでメジャー・デビューし、HEYHEYHEYなどのTV番組などに出演を果たすも
2枚のアルバムを残し解散する。
ソロで活動することになるが、ソロライブで「あいつらぜってぇ許さねえw」とぼやいたとかぼやかなかったとか。
その後、元SADS、現クロマニヨンズの小林勝、風間が加入し現在のnilになる。
もう一度いう、ロックバンドだ。
nilを勢力的に活動しながら、別バンドTHE JUNEJULYAUGUST(以降ジュンジュラ)を結成する。
2つのバンドを勢力的に活動しながら、ZIGZOを再結成する。
ZIGZOの再結成ライブは2012年3月17日赤坂ブリッツで行われ、プレミアチケットになった。
話がなげーなって思ったそこのおめえ、話はまだ終わっちゃいない。
3つのバンドを勢力的に活動しながら、THEATRE BROOKの佐藤タイジ、うつみようこと
ヘキサゴンのOPテーマを作った元MALICE MIZERの初代ボーカルは
勿論、勢力的に活動を行なっていて、インディーズ電力以外はほぼ
高野哲が作詞、作曲を行なっており、アルバムも何枚も発売していて
それだけ?って思った人挙手!
それだけじゃない、彼が作る曲は彼にしか歌えず、
再販される前はプレミアがついており、シングルCDが2万円だった。
プレミアがついて2万円だった。
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昨日書いた上記の内容は書きかけのままアップしてしまったので
追記させてくれ。
そんな作った音楽を誰もが聴いた事があるのに
確認しているだけでもロシア(クロアチア?)、メキシコ、ブラジル、フランス、
台湾、中国、韓国、アメリカ、スウェーデンの国にファンが居る。
不思議だろ?
こよなく愛するファンが海外に沢山いる。
答えはMALICE MIZERを辿ってファンになったそうだ。
でも海外では地道な活動の甲斐あって、広く認知され評価されている。
特にMALICE MIZERは別格で、神格化(言い過ぎかもしれんけど)されているくらいだ。
因みにその高野哲がボーカルとっていた時代のMALICE MIZERのVHSビデオは
プレミアがついている。
映像はギザギザ、カクカクのVHSビデオ、プレミアがついて数万円で
取引されている。
ここまで読んでくれたあなた、薄々高野哲が気になり始めたころじゃないのか?
「もしかして、高野哲というミュージシャンは凄い人なんじゃ?」
高野哲というミュージシャンをミュージシャンが語る時、口を揃えて言うことがある。
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再追記させてくだせえ。
ステマ(ステルスマーケティング)じゃないのか?というコメントの件について。
嘘偽りなく正直なところ、俺自身が高野哲というミュージシャンについて語りたかっただけなのだが。
申し訳ない。俺の文才が足りないだけです。
もしステマするならyoutubeの動画のひとつでも貼りたいところ、なのですが。
高野哲というミュージシャンについてはステマは必要がない、としか。
書けば書くほどステマっぽくなっていくのでここらへんで、すみません。
発表しているし、我が強い。
そんなミュージシャンが自分以外の人間を認め、「天才」と評する事自体、
とても不思議な事が起こっている。
この世の中には色んな種類の「天才」がいると思ってる。
また、世間に見出される「天才」と世間の喧騒に埋もれてしまっている「天才」。
作った作品は今も昔も変わらず良いもので、ただ、世間が存在に気づいていないだけ。
ただ、それだけ。
世間が高野哲というミュージシャンに気づいたその時、世界が変わる。
因みに彼(彼ら)はライブでこそ、その真価が見れる。
CDというメディアでは彼(彼ら)の魅力は半分くらいだろうと思う。
こんな人、ごまんといるというコメントについて書くの忘れてた。
ごまんといるかどうか、高野哲が「本物」か「まがい物」か、9月8日に赤坂ブリッツでライブがあるので
自身の目と耳で判断してみてくれ。
その上で、ブログでも、アノニーでも「ごまんといる」やつだったと書けばいい。
ただ、見もせず、聴きもせず、「ごまんといる」とは勿体無いとだけ言っておきたい。
それに、おまいさんは「ごまんといる」やつだったと書かないと思う。
高野哲を見たおまいさんは鼻息荒く帰ってきて「最高だった」というに違いない。
で、youtubeや色んな動画サイトで高野哲の動画を検索するに違いない。
かつての俺がそうだったように。
そして、これを見ているおめえさんは未来の「俺」になっているんだ。
高野哲について語らせてくれってな。
こんなところに、つらつらとな。
聴くのも自由、見るのも自由、またその逆も然り。
これを書いている俺は元々高野哲のファンじゃなかったとだけ、言わせてくれ。
うーん、やっぱりステマかな、これは。
どこかで聞いたことのあるようなフレーズ。ググっても見つからなかったのでネット外の伝聞情報をここに記す。
モチェルダウンス(モチェルダウンス)は、イギリスのロックバンド。1969年にヘルシンキで前身バンドを結成、1992年にメジャーデビュー。デビュー以降外部ミュージシャンの起用は多いものの、同じパーマネント・メンバーで活動している。「ハテナノムーラ」がヒットして以降は常に第一線で活躍し続け、現在アメリカを代表するバンドの一つである。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第1327位。
ジョン・レモン
ミンナ・アホネン