はてなキーワード: セッチューとは
8年半ぶりに銀杏のライブ。最後に見たの戦争反対ツアーのZepp福岡、社会人三年目。あれから8年半。結婚もして子どもも二人産まれた。確かに私の環境は変わったのかもしれない。でも、2004年4月に久留米でセッチューフリーで初めて銀杏を見たあの時の、21歳の気持ちから、どろどろした気持ちは変わってなくて。33歳になったけど、もがきながら働きながら子ども育てながら。何にも変わってない。峯田。くそったれ。活動しなくて、あんなに聞いてたファーストアルバルもいつの間にかほとんど聞かなくなってたけど、光の中に立っていてねがでて、DVD用にラブレター募集しててメール送った。やっと出た愛地獄にラブレターが載ってた。待たせ過ぎ。でも、素直に嬉しかったのは、銀杏BOYZがただ好きだからか。13年間も好きで、追いかけられるものがあることは幸せか。愛地獄見て世界平和祈願ツアー絶対行こうって思って、福岡くるし、チケット取れた。死ネT着て行った。8年ぶりに見た銀杏BOYZ。変わった。メンバーがやめてサポートになったかとか、それもあるか。ただ殺伐とした空気はなくなってた。せんそうはんたいツアーのときもそうだったけど、愛地獄のスメルズのライブ見て、2004年に一番見に行ってた時期の殺伐としたライブ見れるかなって思ったけど、違った。当たり前だけど、私も銀杏BOYZも変わった。私の環境も、峯田の環境も変わった。それでも、銀杏BOYZは私の中の深くに居着いていて、ドニラバンの銀杏Tを着て、日曜日の午前中子どもを公園に遊びに連れていく。
銀杏ボーイズのサイトを久しぶりに見たら、PV撮影のニュースがあった。峯田のブログも9月に更新されてた。そういえば最近銀杏ボーイズのこと忘れかけてた。最後にライブ行ったのいつだっけ。社会人3年目の冬に戦争反対ツアーでZepp福岡に見に行ったのが最後。そもそも、ライブやってないし、東北ツアー?だっけ、スメルズライクアバージンツアーのライブ映像をCSで見たのがいつだっけ?東京メトロのCMソングに銀河鉄道の夜第2章が使われて、ドキドキしたのいつだっけ?車のカーナビのHDDにはアルバム入ってるし、シングルも、ゴイステも入ってる。最近聞いてないな。
2003年から2005年。当時大学生だった私は彼らに心酔してた。大学生活、人間関係につまずいてかなり苦しんでた。唯一の救いが銀杏だった。当時福岡に住んでたから、セッチューフリーのライブ見に行くために関西まで遠征してた、ひとりでマンガ喫茶泊まったな。ロッキンジャパンフェス行って、佐世保のセッチューのライブで死ねTに峯田がサインしてくれて、まだ大事にとってる。DVDについてたポスターは今でも部屋にはってる。平和祈願DVDがいつ出るかずっと待ってたけど、待ってることすら忘れてた。
銀杏のサイトのBBS見たら、イトキンの名前があって懐かしくなった。当時銀杏ボーイズはかなりの知名度はあったけど、一定数の人間はヒリヒリした切実な想いで彼らを見てたと思う。私もそのひとりだった。イトキンとは面識はないけど、どこのライブ会場にもいたし彼の知り合は、銀杏のファンサイト作ってたりして私もよくそこにライブレポを見に行ってた。あたりまえだけど彼や彼女らも10歳年をとって、彼や彼女らの生活にまだ銀杏ボーイズが存在してるか、ふと思う。
私が銀杏ボーイズを知って10年。アルバム発売から8年半。大学生だった私は社会人になり結婚し子どもが2人。当時銀杏が載る雑誌は全て買ってたけど、その中で今でも忘れてない、ふとしたときに思い出す峯田のインタビューがある。ストリートロックファイルのアルバム発売直前に出た号で、「今、僕たちは報われなくていい。今、こうやって銀杏ボーイズを聞いている人が、社会に出てそれで世の中が、少しでも良くなってくれればいい。」そんな趣旨のことをいってた。当時、社会人としてやっていけるか不安だった私はこの言葉に背中を押された。
社会人になったら学生時代より、苦しいことが多かった。だけど自由になるお金も、増えてどうしても行きたかった童クリにヤフオクでチケット落札して行った。銀杏ボーイズを切実な想いで、救いを求めて聞いてた。いつから、だろう。切実な想いで彼らの音楽を聴かなくなったの。聴けなくなったの。待っても待っても、活動しないからか。31歳になって自分が変わってしまったのか。
でも、今でも満たされない気持ちがあってそれを埋めれるのは銀杏しかない。家族も他の音楽も趣味も宗教でもない。かつて、銀杏ボーイズに救われた多くの人がいてきっといまだに彼らの新譜をライブを何年も待ち続けてる。働いて毎日をやり過ごしながら待ってる。みんな峯田のロックを必要としてる。