夢くらい見させてやれよ・・・
これ書いてるのはたぶん、夏休みの高給バイトっつーことでよくわからんまま面接受けて、右も左もおぼつかず悪戦苦闘してる女子高生かフリーターなんだろうと思うが、かくいう自分も一応”中の人”経験者なので、事情を知らん他の人も含めてこの手の撮影商法に関してさらっと説明しておく。
(ただし園内での撮影許可に関しては、手元のパンフに「当園の委託を受けた業者が、お客様の撮影を行う場合があります」「入場の際には、お客様など入場者を含む写真が、当園の宣伝その他の目的に使われる事を許諾したものとします」などの断り書きがされてる例がほとんどだ。園内はそもそも、基本的には私有地であることを忘れんように)
観光地では昔から、地元の写真館が旅行記念写真撮影もやってる例が多いんだが、今じゃデジカメや携帯電話のカメラ機能が高性能化してるしでこのビジネスモデルは徐々に時流に合わなくなり、廃業や合併も珍しくなくなっている。まずここら辺の事情は、皆の想像通りだ。
元増田の場所では富士フイルム社製のライドフォト自動撮影システムが組まれてるけど、娯楽施設以外で販売されるものでは市販の「写真プリンタ」をRAID的に組むことで見た目の出力速度を向上させるソフト(ご丁寧に、ドングルプロテクト付きだ)でプリントした”写真”を渡す業者もある。
http://www.print-better.ne.jp/story_memo_view.asp?StoryID=6103
で、こんな写真を買う人がいるのかって?いるんだよ!そうでなきゃ、自分もとっくに食いっぱぐれてる。具体的な納入先を挙げると、企業や学校の旅行に老人クラブ(年金友の会)、各旅行代理店ごとのパック旅行ツアーでの団体撮影がメインだ。
撮影機材だが、昔は6x7のブローニーフィルムで周遊前に撮影・即座に現像して焼付けし、宿泊するホテルのロビーまで出張して販売していたものだが、最近は撮影からプリントまでフルデジタルでたったの3分。無線LAN経由で、キヤノン・ニコンのデジタル一眼で撮影・純正トランスミッターを使用してデータ転送がおこなわれる仕組みになっている。
・・・要はつまり、ガジェット好きな大半のはてなー諸君には、「いらんわ」と言われるだろう商売なわけだ。
ここでひとつ、疑問が浮かぶだろう。「撮影がデジタルカメラなら、なぜデータを売らないの?」。
自分も一度そう思った。やってみりゃいいのにと。
ところがそこからは、ウェブシステム系の構築や保守、といった壁が高く立ちはだかる。今まで培ってきた記念写真販売ビジネスのノウハウは、そこにはまったく通用しない。
具合の悪いことに、写真ビジネスに関わる人間というのはみな、どこかガンコなところを抱え、しかも年齢が高い人がそう少なくない。したがって、機材のデジタル化に対応できずに絶滅した業者が多いわけだ。
(ただしスタジオアリスなど系列の写真館では、「一定期間経過した後に」などの条件で撮影データの販売もしている。もっともこの辺は、ストロボや貸衣装などの撮影器材を常時稼働できるようメンテナンスしている分の人件費も込みのコスト、と考えたほうがいいだろう)
このため、近年の30代未満の旅行者がおそらく求めている「物質としての写真は不要・ブログにきれいにアップロードできるデータがほしい」といったニーズに、当の記念写真撮影業者側が対応し切れていない、という妙な状況に陥っているのだ。
いっそのことウェブストレージ系ビジネスと提携すれば話も早いのに、と自分は感じてしまう。
ただしビジネスとして考えた場合は別で、旅行の際にお金を自由に使えるのは、現状では高齢者が圧倒的だ。
だったら、彼ら向けに写真を売っていればまだ”延命”できる、と考えてしまうあたりがこの業界の悪弊というか、限界を見る思いがする。
※2015.Apr/06th 追記:
ブコメにも記しておりますように、このエントリの著者は id:guldeen であります。退職したタイミングだからこそ言える事というものも、世間にはあります。
生物には本能がある。それは 役割のことであり 生きる本来の目的である。
苦しみや悲しみを無くして
直感としては 多分そうだ。
人間っていうのは おそらく 地球の脳であって、 その力で 地球全体を統合しなくてはいけない
脳は 脳だけでは生きられない。 体があって 初めて成り立つ
体は 能が無くては ただの烏合の集 限りなく無秩序なものだ。
「地球を美しいものにしよう」 という本能が おそらく人間にはある。
人間の行動の核は これだと思うんだよ。
それが 変形して 「自分なりの 美しいものにしよう」 になる。
人との和があれば 勇気と行動力があれば 卓越した技術があれば 限りない知識があれば
必ずこのどれかを 人は欲しがる。 本音では欲しがっている。大抵はこれがさらに変形したものである。
人は本当に力を得ることが出来る。
人本来の目的である 地球を美しいものにしよう という欲求が満たされる。
ここまでは 非常に単純なんだけども。
じゃあ 美しいとはなんなんだろうかという問題になる。
タナトー欲求というものがある 破滅願望や悪に憧れる心のこと。醜いものに心奪われることというのが人間にはしばしばある。
これらは 単に昇華されてない 美意識なんだろうか。 ただの気の迷い 間違いなんだろうか。
病気というのは 体に免疫をつけるために起こる。 悪の心に惹かれるのは 精神の病気で 人間が試されているということ。食うか食われるかの戦い。
SM という言葉と 僕はよく使うんだけど、 これは 単にセックスの形態のことを言ってるんじゃなくて
人の闇を昇華させる 奇妙な営み 全般のことを言っている。
オタクがエロ漫画を描くのも ヤクザが任侠に寄るのも 宗教も 異常な権力欲求も すべてSMだと思っている。
これらの営みって言うのは、SMっていうのは 美しくないものなんだろうか。
世の中が 人類が望むような天国 になったとき、 無くなってしまう物なんだろうか。
だとしたら 名残惜しい気持ちがある。
悪の心を消し去ったとき、 人間は果たして幸せになるんだろうか。地球は平和になるんだろうか。
それは本当に天国なんだろうか。
悪って言うのはなんなんだろう。
日本刀にある美しさは 拷問器具の美しさは コロッセオへの憧れは
消せるものなんだろうか そうは思えない。人間の営みの一つじゃないのか
それを含めて 美しいものであるという価値観こそ 真に美しいものなんじゃないだろうか。
じゃあ 悪が断ち切れないものなのだとしたら。 今のこの状況が完全であって 新陳代謝はあっても 根本で成長が無いものなのだとしたら
一体人間は 何のために生きているんだ?
人ってのは何がしたいんだろう。 地球が生まれて それで一体何だったんだろう。
空に投げたボールが飛んでいって それから落ちていく それと全く同じことなんだろうか。 意味は無い 現象があるだけ。
こういうことを考えさせられて 自分は何をさせられているんだろう。 どこに行くべきなんだろう。
何も考えないことが正解なら なぜ考えてしまうんだろう。こんなことを考えていても 損をするだけなのに
いや 現実逃避することが目的なのか。 だから考えるし、答えが無い。
現実で戦わないと。 具体的な何かをしないと。思うままに、感じるままに。 考えたってしょうがないじゃん。
ああ、いいまとめだ。 ほんとうにつまらない。回りまわって チンケな自分が見えるだけ。 いや 自己否定すらもしょうがない。
やる。ただこの一語。
なんでその場で店員に言わないの?
醜さの渦を ねっとり照らし 空を切るだけの"ネットリテラシー"
君らの何が悪いんか 見えぬまま 燃料に代わる代わる引火
誰が呼んだか デジタルネイティブ イイねをばらまく 手に拡声器
「低脳•ガキ」と罵るだけじゃ いつまで経っても尾を引く「はてな」
本気でやらなきゃ 打ち倒せない 愉快で甘美な「うちら」の世界
優遇されてるっていうか君の給与額が多いんでしょ。所得税は特に控除とかなくて、
330万~695万までは年金・雇用保険・健康保険額(ほぼみんな一定)を除いて20%で控除額が42万くらい。400万てちょうどその下限位置くらいにあるので効率がいいんだよ。
俺も独身だけど計算したら所得税年間58万も取られてたよ…手取りは400万ちょい。年収700万超えないと手取りが増えたという感じにはならないようになってるんだな、今の税率。
野菜の安い地域なら別に2.5万でも不思議ではないと思うけど。だいたい毎日愛妻弁当作ってくれる奥さんなんだから料理なれしてるんでしょ。
あと、家賃八万という辺りから関東のある程度の都市部だと思うが、東京の西側ならともかくその他の地域なら食費はそんなもんに収められるよ。子供の離乳食のぞけばほぼ大人二人前だぞ。
食材を切り盛りするのに慣れてて魚と果物と菓子を諦めれば、別にそんなに大変じゃない。人数増えるほどあまりが減るので食材計画立てやすいし、若干ストレスはたまるが栄養足りなくなるより先に料理してる人間のストレスが溜まる。
あと外食費1万つうことは月に二回程度の外食なんだし、奥さんの息抜きサイクルうまく作れてる感じじゃないの。
つーか3歳児と1歳児連れて外食って、息抜きどころかただただストレスかかるだけだよなあ(遠出して外食するしかない場合なら仕方ないが)。
買ってきて食う方がよっぽど楽だろうに、やる事が意味不明。
増田だけが外食したーいと我儘言って子供は奥さんに丸投げ、奥さんは子供の世話にかかりっきりで何食ったかも分からない、なんて状況じゃなければいいが。
ゲスパーすぎ。
等しくない。
目を開かせて世界を見て、その上で自分をどう位置付けるか、どう考えるか、について決めるのは、その本人の不可侵な特権であり、それに対して周囲の先達が「かわいそうだ」とか「幸せだ」とか言うのは権利の侵害であると言っている。
まあ根本は馬鹿なのが問題なんだけどちょっと同情する部分もあるというか。
35歳の私は大学時代にWindows95が発売されてその後パソコンが一気に普及して自宅でも大学でもパソコンは結構使っていて、
インターネットも利用していたんだけど基本的にはサイト閲覧だけだった。
もちろん一部の個人が開設していたテキストサイトとかはあったけど、ドシロウトが「ホームページ」を作れるなんて知らなかった。
掲示板てものに書き込んで見ず知らずの人とやり取りをしたのもこの頃かな。
その後ウェブログという言葉を知って徐々に普及し始めたんだけど人との繋がりとかほとんど無かったというか、
それこそただの日記の公開みたいな感じだったと思う。
ただ、人との繋がりが無かったからこそ世界中に開かれた場であることを認識していた気がする。
ソーシャルネットワークなんて言葉はそれからだいぶたってから知った気がする。
ミクシィが始まった頃かな。
で、
こうして振り返ると私より上の世代は個人が情報発信するまでにいくつかの段階を経験してきた。
閲覧のみ → 掲示板書き込み → テキストサイト作成 or ブログ作成(誰も見てないけど地球の裏側の人も見れる) → SNS(ブログ+仲間との繋がり)
情報発信する前段階として観察する期間があって他人の成功や失敗を見てきた。
次に匿名で掲示板やサイトやブログ作成して情報発信をして、ミクシィで人と繋がったりコミュニティを利用したりした。
で、
最近の馬鹿たちの話に戻ると、彼らは気がついたらそこにいきなりSNSがあった世代なのかなあと。
観察して何かを感じて何かを学ぶ過程を知らずに、仲間と繋がるツールを与えられた。
仲間や繋がりのことは意識するけど、その画面の向こう側に広がるインターネットを意識するのは難しいよなあと思ったり。
もちろん馬鹿な彼らと同世代の中でもちゃんと学んでわかっている子もいるだろうしそういう子のほうが多いのかもしれないので、
結局馬鹿が馬鹿なだけってのもわかるんだけど、それもなんだかなあと。
で、
タイトルなんだけど、
例えば某巨大掲示板なんかだと匿名で好き勝手にレスしててちょっとおかしい内容だったりすると、
「半年ROMれ」とか言われちゃってカッとなってレス返すとフルボッコで涙目になるとかあったりして、
その時の「半年ROMれ」って「半年ROMって勉強しろ」というよりは「うぜえから消えろ」の意味だと思うんだけど、
実はやっぱり「半年ROMって勉強しろ」の意味もあるんじゃないかと思ったり。
実際、ROMって雰囲気を掴むとか傾向と対策を学ぶとか、情報発信の前にやること色々あるよってことで大事なんだなあと。
で、
大した根拠がない以上、単なる勝利宣言だよねそれ。
おそらく増田を含むはてな民のようなほどよく高学歴で頭の良い人たちだろう。
馬鹿に振り回されて疲弊する日々とさようなら!早くクビにしてあげられるよ!
自分がクビになる可能性のほうが高いかどうかは貴方のコミュ力次第です!
やったね!
ひとことで言って気持ち悪い。
この人の言ってることも、この人を誉め称えてる人も。
わたしの中学時代もヤンキーが暴れ回って、ブサイクデブの周りにかわいい女の子が群がってた。
その人の周りにいることが、「ステータス」だったんだと思う。だからその「変な世界」はなんとなく知ってると思う。
ガラスはしょっちゅう割られてたし、トイレでタバコとか当たり前だったし。
その世界のボスと同じクラスになったから、そのボスがいる時はほぼ、授業はまともに行われなかった。
公立の普通の中学校だったけど、団地とかも多い場所だったし、たぶん今でいうDQN親とかもいっぱいいたんだと思う。
なんかわけのわからないもめ事も確かにあった気がする。
でも、それだから「しょうがない」とか、「この世界しかない」とか、言ってるのはおかしい。
絶対こんなとこ抜けてやる、って半泣きで勉強した。
高校行ってもまた違う「うちらの世界」が広がってるところだったから絶望したけど、高校やめて自立してやる、って必死でバイトしてお金稼いで外に知り合いをたくさん作った。
こいつらと自分は違う、って思いたくて、本もいっぱい読んだし文章もたくさん書いたしいろんな人と遊んだしやってみたいことはとにかくやってみた。
勉強もしたしいっぱい考えたしいろんなことの答えを見つけようともした。
親とか先生とかバイト先の大人とか、(勝手な理屈はこねてたけど)やたらと反発しまくった。
そのおかげか、結果的に大学にも行けたし上場企業で正社員にもなって結婚して子供も生まれてお母さんしてるし、今はまあ規模はしょぼいけど個人事業主やって納税したりしてる。
低学歴だとかDQNとか、都合の良い言葉がいっぱいできたせいで安易に飛びつき過ぎ。
そんな「世界」を切り離さないで、とか言ってる暇あったら、自分が抜け出せ。
「誰も教えてもらえなかったから知らない」んじゃない。
自分で考えて行動して「知ろうとしなかった」から知れなかったんだ。
冷たいかもしれないけど、知ろうとしない抜け出そうとしないそれを当たり前と思うのはその人が悪い。その世界で生きていれば良いと思う。
それはたぶんそんなに不幸なことじゃない。DQNにはDQNの幸せがあって、彼らはそれを求める愚直さはあるからある意味では健全。
それに、そんな風に切り離されるのは当たり前。
中学歴とか高学歴の人は「人を変えること」を望むのは、人が生きていく中で1番難しいことだって、多くの人が知っているはず。
だからこそ願わくば、そんな人たちに迷惑をかけられませんように、ってたまに祈るくらいのものだと思う。
でも、それをおかしいと思ってるのに、そこに留まっているのは質が悪い。
それこそ、そんな自分だけの世界で生きていたいだけなんじゃないの?
「なんとかしてほしい」と思っているなら、自分がなんとかすれば良い。
どうしたら良いんだろうどうしてもらったら良いんだろう、じゃなくて、自分が何をどうするか。
逃げたって戦ったって捨てたって考えたって登ろうとしたってなんでも良い。
つまり「恵まれない境遇でも幸せになれる道を探せればそれでいい」ってことだろ?
それは結局「見てはいけないものには目をつぶれ」ということに等しいよね。
彼女とか、嫁とか、付き合うとか、別れるとか、浮気とかセフレとか、好きとか、嫌いとか
そういうの抜きで友達
ふっつーの友達
時間が合えば一緒に昼飯食ったり、
何人かで集まって飲みに行ったり、たまに二人で飲みに行ったり、
めちゃくちゃ仲がいいってわけでもないけど、会えば立ち止まって話す。
追いかけはしないけど、「こんなことあったんだぜ」って報告はする
シモネタとかもふつーにする
AV回したりもする
「ごめーんおこんなよー」
些細な事だから、流れるように仲直りしたり、
利用したり貸し借りしたり、
「たのむよー手伝ってー」
「しゃーないなー、手伝ったるけどどないしてくれんの?」
「えーあんたうちのこと女として見てたん?」
「女じゃん?当たり前だろー」
「マっジで?冗談やろー?」
「なになに、動揺してるの?」
「じゃあなにー、もしかしてうちのことたまにエロい目で見てたん?」
「ははは、知らなかったのー?」
「そうやったんやー知らんかったわ。まあええけど」
「いいの?」
「ん?ええよ?全然」