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2023-03-29

anond:20230328164307

ちょんまげダメってブコメあるけど何でダメなんか全然分からんわ。

コーンロウちょんまげも辮髪も文金高島田も全部OKだろ。

そもそもコーンロウは爆発する頭髪を抑えるための盛装だろうに。女子生徒が編み込みしてても何も言わないだろうに

2020-11-24

リーゼント」は後頭部のみを指すのか?

一般に「リーゼント」とは、ポマードなどを使って前髪を盛り上げ、側面の髪を後ろに流して固めた髪型のことを指す。

英語圏では、前髪を盛り上げる髪型をポンパドール、側面の髪を後ろに流す髪型をダックテイルと言う。

そのため三つの解釈流通している。

  1. リーゼント」とは「ポンパドール」のことである
  2. リーゼント」とは「ポンパドールとダックテイル」の組み合わせのことである
  3. リーゼント」とは「ダックテイル」のことである

特に近年では「3」が正当で「1」や「2」は誤用だとされることが多い。

事実は奈辺にあるのだろうか。

疑問を持った我々はインターネット大海に漕ぎ出した。

まず「リーゼント」は戦前から存在したようである

以下のブログ引用されている1964年新聞記事には、理容師増田英吉によるリーゼント誕生秘話が書かれている。

http://mudamuda.hatenablog.com/entry/regent

むかし、リーゼントスタイルというのがあった。戦後一世を風びした、流線型のあれ。これを二十代で考案したのが増田さん。

(中略)

ヨーロッパ人にくらべ、日本人は髪がかたいこと。もう一つは「ひたいから頭のうしろまでの距離が短いこと。まあ顔面角のせいなんでしょうかねえ」。あとの方のハンデを克服しようと考案したのが、リーゼントスタイル。前面をいったんふくらまして、うしろになでれば、髪が落ち着く距離が長くなる――これがそのヒントだった。

リーゼントについて詳しく調査された以下の英語記事でもほぼ同じ説が採用されている。

https://neojaponisme.com/2014/10/09/history-of-the-regent/

1920年代後半、東京モダンな街・銀座には、スタイリッシュ若者たちが集まっていた。モボ(モダンボーイ)はワイドパンツにかっちりとしたスーツを着こなし、モガ(モダンガール)は洋装和装ミックスしたスタイルだった。彼らの髪型として、モボはポマードで髪を後ろに流しており、その見た目からオールバック」と呼ばれていた。

1933年東京モダン理髪店は、現代紳士のための次のスタイルを求めていた。銀座とある気鋭の美容師が、サイドを後頭部に流し、高島田花嫁のように前髪を押し上げるスタイルを考案した。エキサイティング外国語名前を探していた理髪師は、それを「リーゼント」と名付けた。

これらの説明によれば、この時点ですでに「リーゼント」は単なる「ダックテイル」ではなく、「膨らませた前髪」と一体になった髪型を指している。

ただし、ここでの「膨らませた前髪」はポンパドールと言えるほど大きなものではなかっただろう。

ちなみに「オールバック」も和製英語で、英語ではスリックバックなどと言う。

一方、Google Booksで検索すると「ポールグラウス」という人物が浮かび上がってくる。

三省堂アメリカンカルチャー』より

1934 (昭和7 )年ごろ、日本リーゼントが紹介された。正しくはその前年1933年6月のこと。当時発行されていた専門誌『美髪』の口絵写真掲載された。これをもってリーゼント流行は'33年に遡る、とするむきもあるが、それは正しくない。リーゼント型、という名前とその写真がのっただけで、はやったわけではない。いや、はやらそうにも誰もその仕上げ方を知らなかったのだ。再びリーゼントが紹介されるのは1936年3月。同じく『美髪』誌上で、イギリスの理髪師ポールグラウスなる人物技術解説を試みた。

グラウス1932年ごろにイギリスの理容雑誌で「リーゼントスタイル」を発表しているらしい。

まり、このグラウスが「リーゼント」の生みの親であるという。

命名者がイギリス人なら「撫で付けた横髪がリーゼントストリートのようにカーブしているから」という日本人離れした命名センスにつじつまが合う気もする。

このグラウスリーゼントは「前髪を横分けにして、横髪は長く伸ばして後頭部へ撫で付ける」というものだったようだ。

「ダックテイル」に近いが、やはり「前髪」の形とワンセットで説明されている。

いずれの人物が考案したにせよ、二十世紀初頭に世界的に流行したオールバックのバリエーションとして、日本では1930年代に「リーゼント」が登場したということになる。

さらに言えば「ダックテイル」が発明されたのは1940年アメリカだというので、むしろ誕生リーゼントのほうが先である

まあ、元となったオールバック自体シンプル髪型から、当時似たようなアレンジは多かったのだろう。

当時の日本で、リーゼントで有名だった人物としては榎本健一灰田勝彦岡晴夫あたりが挙げられるが、いま見れば「前髪を横分けにしたオールバック」といった感じである

ただ、前髪をぺったりと撫で付けたオールバックと比べると、この「リーゼント」の前髪はボリュームがあると言えるのかもしれない。

https://www.amazon.co.jp/dp/B001BBXG4Y

https://www.amazon.co.jp/dp/B01M5DHEU9

さて、リーゼントポマードを大量に使うので戦時中日本では禁止されて退潮したが、戦後すぐにアメリカ兵のファッションを真似るかたちで復活した。

いわゆる「アプレ族」である

https://danshi-senka.com/archives/191

リーゼントヘアで頭を固め、サングラスアロハシャツ姿で第2次大戦後の街中を闊歩するアンチャンたち。無軌道な行動をとるこのような若者たちを、当時のマスコミフランス語アプレゲール(戦後という意味からこのように呼んだ。(中略)彼らのファッションのお手本となったのは、日本に進駐してきたアメリカ兵隊たちのカジュアル服装で、つまり戦後まもなくのアメリカンスタイルの真似をしたに過ぎない。

リーゼントアロハシャツ岡晴夫の影響だともいうが、要するにアメリカかぶれの不良少年といったところである

どちらかと言えば紳士向けの髪型だった「リーゼント」が、この時期から不良文化と結びつけられるようになったのだと思われる。

ちなみに欧米でも「戦争ポマードが統制され短髪が奨励される」→「髪を伸ばしてポマードを大量に使う俺ってワルだろ?」という流れで、ポンパドールやダックテイルが不良の象徴となったという面はあるらしい。

さら1950年代に入って大きな変化が起きる。

イギリスではテディ・ボーイ、アメリカではエルヴィス・プレスリージェームズ・ディーンと言ったように、欧米流行していた「ポンパドール+ダックテイル」というスタイル日本に輸入されてきたのである

特にエルヴィスの影響力は凄まじく、日本でも1958年デビューした「ロカビリー三人男」などがエルヴィスを真似たスタイルで人気を得た。

このときに「ポマードで固めた前髪と後ろに撫で付けた横髪」という共通点で括られて、エルヴィス的な「ポンパドール+ダックテイル」のことを、日本では「リーゼント」と呼ぶようになったのだろう。

まとめてみよう。

以上からすると、「リーゼントとはダックテイルのことである」とは言えないように思う。

少なくとも「ダックテイル」のみをリーゼントと呼んでいた時期は存在しなかったのではないだろうか。

2018-01-10

無垢似合う女は少ない

あの文金高島田と角隠しと綿帽子いか

あれをやって美しくなる女が少ない

髪に花を飾ってヴェールかぶる方が大概の女は美しくなる

無垢で美しい美女ドレスでも美しい

何で日本発祥なのにこんなにウェディングドレスに完敗してるんだ

2017-05-23

ヤンキー義家のハゲ隠し

久しぶりに動画見て、高島田みたいな前髪になってて笑った

今後のヘアアレンジに期待大

2014-03-18

【続】女性なのに薄毛で悩んでる

http://anond.hatelabo.jp/20140308094637

以前、アラサー女ですが抜け毛に悩んでるという話をかかせていただきました。

暖かいコメントや的確な意見をいただいて、とても救われました。

ありがとうございます

普段明るく自虐を言えるほうなので、家族や友人には、

かるいノリで、薄くなっちゃってさあとか笑いながら報告したりしてましたが、

まあ思ったより傷ついていたようで、自己憐憫ながら、しばらく自分で書いたエントリー読み返してはめそめそしてました。

で、病院に行きました。今一週間以上経ちました。

多発性円形脱毛症だということです。

でっかいフロンティアハゲではなく、小さなハゲが無数にできたことにより

全体的に薄くなったようです。

病院では、ドライアイス局部ハゲにあて、血行をよくし、発毛を促す治療

アレルギー系の飲み薬、ステロイドの塗り薬を服用してます

効果としては、、、抜け毛は一時期よりは少なくなりました。

がまんづよく続けるしかないみたいです。

はいえ、髪はまだまだスカスカですし、先日書き込んだ時が抜け毛が激しく

頭頂部がうっすくなってしまい、なんかやもすると河童みたい。

というわけで、部分用カツラをつけることにしました。

頭頂部あたりを隠す、そう!よくお昼CMでやってるようなやつ!

できるだけ、髪が薄いことで感じるストレスを緩和したいなと思いまして。

まさか、29にしてカツラに手を出すことになろうとは。

でも気にしなくなるならそれでいいかな。

病院とかつら着用で、だいぶ前向きになれるような気がします。

ブコメで、ストレスについて多くコメントいただいてましたが、

ちょっと自分でも振り返ってみました。

やっぱり転職してかなり楽な職場になったものの、

感じないストレスが身にかかっていたんだなあとしみじみわかりました。

あと、円形脱毛症になる前に家族結婚を反対されたりして、それで悩んでいたのがあったかもしれません。

いやーそれかも。。家族は今までずっと、自分の味方だと盲目に信じていた分、

家族の思いと彼への思いにいたばさまれ、毎日悩んでいました。

今はふっきれたので大丈夫ですが。。。

髪が元のようになるころには、目指せ、文金高島田

あれもカツラだけど。

2013-10-24

http://anond.hatelabo.jp/20131023131933

備忘録として、私がした結婚式を。

私たち夫婦は前提として、以下の2点があった。

1)沢山の人を呼ぶ派手な披露宴や、儀式に興味はない

  キリスト教でないので神に対して誓いたくない、両親への手紙は、わざわざみんなの前で読む必要はなく親に直接言えばいい、

  色直しもキャンドルサービスも金の無駄・・・偏屈同志の二人の意見はぴったりであった。

2)なるべく中間搾取されずに、払った金額ができるだけ招待客にいきわたるようにしたい。=コスパを高くしたい。

予算

まず、開催時期を半年後に決め、開催地を決めた。

次に、結婚式の枠組みを決めるために試算を作成した。

1.大前提として、夫婦として妥協できる持ち出し金額を決めた。結婚式が終わってからが長い二人三脚のはじまり

  したがってお金は極力出したくはなかったが、かといって皆に遠方から来ていただいているのにも関わらずプラスにしたい

  (持ち出しをしない)という観念もなかった。それは失礼だと思った。

  話あって、私たち場合は、持ち出しは40万程度と決めた。

2.必ず呼ばなければいけない親戚をリストアップ、期待されるお祝儀計算した。

3.人数、新郎新婦側のバランスを考えて招待する友人をリストアップし、一人当たり3万円(夫婦場合5万円)のお祝儀勘定

  それとなく周りに声をかけて、参加意思を確認。

この1と2と3の和が、私たちの全ての予算となった。

なお、ケチケチと算盤をたたいて、予算以上の金額を払いたくなかったということではない。

しろ終わった結果がこれより多少ずれていても良いと考えていて、

とりあえず予算の大枠を決めないと、業者と話したときに方針がすぐぶれてしまうことが容易に予想できたからだ。

(尚、精確には2次会の参加徴収費×期待人数も予算に含まれる。)

式場・開催のスタイル選定

ゼクシィネットなどで情報を集めると、一つの現実が浮かび上がった。

結婚式場を使うと、人数が数十人規模でも数百万は必ずかかる” ※スマ婚は不明

これは、結婚式場でも たくさん人を雇っており、豪華な建物や機材の減価償却があり、

毎日目標売上を決まった時間枠内で達成しなければいけないためだと思う。

支払を小さくすべて内容をなんとか質素にするならば、単価が高くなる。

ケーキを持ち込む際、カメラマンを知り合いに頼む場合、自前のドレスを使う場合、、全て持ち込み料を数万円ずつとられる模様。

逆にオプションをつければつけるほど、単価が下がりお得に見えるようにできているが、全体のボリュームは無論膨らむ。

ここのオプションの値段が、半端ない

階段での記念写真に盛大に飛ばすバルーンが5万円

・招待状、メニュー、メッセージカード、席次表、すべて込みで10数万円

キャンドルサービス数万円

ドレスレンタル30万円、着物もお色直しで着るなら40万円

一部金額うろ覚え。とにかく驚いた。

予想と現実乖離が大きく、安くてよい式場があれば・・という、私達の淡い期待は見事に打ち砕かれた。

悩んだ結果、地元田舎の老舗の料亭に決定。

ここは畳部屋でキャパが小さいので、必然と呼ぶ人数は40人までに絞られた。

なぜ料亭にしたかというと、かかるのは料理代と酒代だけで、会場代(≒原価償却代)がいらないからだった。

庭も雅で、貸切のため他グループの喧噪に神経を使うこともないだろうと思ったからだ。

さらに、老舗だけに金屏風と赤絨毯を持っているのでタダで使わせていただけるとのこと。

加えて、入場退場の際に女将さんが唄を歌っていただけるとのこと、、私たちは、ラッキーだった。

数は多くないが、過去にも何度か披露宴はしているとの話。

しかし、会場が小さいせいか ごく稀にしか依頼は来ないらしい。

披露宴の内容がイベントに欠けることは確定したので、せめて招待客には舌鼓を打っていただこうと、

料理予算を一人2万円に決定。酒代別途。親族地元伝来の舞を踊れる方がいたので、依頼。

装い

ドレスはいらないものの、あまりしょぼい恰好も場にふさわしくないだろうということで

新婦和装で、動けて、食事ができて、且つ値段が休めな引き振袖に決定。新郎もあわせて袴に。衣装替えはなし。

地元ブライダル衣装屋を2件回り、相見積をとったが合わせて22万。

田舎ではライバルが少ないため、これ以上下がらない様子だった。柄もいまいちで、種類も少なく、使い古している感じ。

着物がたくさんあって競争が激しいところに行けば、相場もっと安いんじゃないか??

と思いつき、着物メッカであろう京都に照準をあて、ネットオンラインレンタルできるところを探した。

3件ほど目星をつけ、嫁さんに1日かけてもらい実際に赴いてもらった。

目的は試着、値段交渉、条件、手続き確認。

着物制作工房レンタルが一緒になっているところがあり、仕上がったばかりの新品があった。

デザインも気に入った上、値段も安かったので即決。

二人合わせて12万円程度にまで圧縮できた。

さらに、地元着付け美容院も2件巡って相見積をとり、印象がよいところに決定。

新郎希望新婦は文金高島田に。かつらだけで8万円。これはどうしようもなかった。

開催当日

田舎ならではという感じで、酒が入ってから新郎側も新婦側も ひざ歩きで畳の会場を回って、

皆がわらわらと適当にまじりあい、酒を注ぎあい、終始ガハガハやっていた。

人数も多くなかったため、夫婦も一人一人としっかり会話ができた。

新郎は完食した。(それでも新婦時間がなく、大分残したが)

いかつらを外すために、途中で新婦は一度退場。髪だけ整えてまた戻った。

途中、長老がどこから持ち出したかカラオケを歌いだしてやんややんやのハプニング(?)も。

(あれは可笑しかった。)

最後新郎新婦側で盃をかわし、参加御礼のスピーチをし、集合写真を撮ってお開き。

出口でお見送りと引き出物を手渡し。なんと5時間半も同じ部屋でやっていた。

・招待状、メッセージカード、席次表はすべて自作印刷業者に見積もりをとったが、

 数千枚刷らないと、うまみはない。コンビニレーザー印刷高級紙には対応していないので注意が必要

 kinkosなどを利用するのが良いかと思う。

 模様が入っている結婚式用の封筒などは高いので、安い無地のものを買い、

 消しゴムはんこで鶴や亀などを作ってアクセントに。案外いい感じになった。

 返信用はがきは、楽天で嫁さんお気に入り画家のものを購入。

 宛名習字が得意な妹に依頼。お礼としてお小遣いを。

 席次表は、ドタキャンで何回も作り変える可能性があったため、前日に実家プリントアウトして作った。

 切手など含め、総計で2万円くらいだった。

・招待客が40名と少なかったため、全員個別のプレゼントを用意。楽天活用した。

 嫁さんが昔お菓子を作る職に就いていたので、お菓子詰め合わせも入れた。

 年配の親族は何をあげていいかよくわからなかったので、お菓子と共に1~2万円のギフトカタログを送った。

宿泊客の宿代は全額夫婦負担。ここでも2件ほどホテルに交渉。

二次会はバーで、何もなしでただ皆で飲むだけ。途中で適当分散するよう席を移ってもらい、

 あとは参加者たちの化学反応に任せた。参加者負担2000円で残りは夫婦支払。

 フリーオーダで、それでも8万くらいで収まった。

親族カメラマンだったため、撮影をやってもらえた。お礼として3万円包んだ。

・簡単な司会進行は友人に頼んだ。A4一枚にまとめて、何回か打合せをした。

 こちらもお礼を包んだ。

・招待客の帰りのタクシーは事前にタクシー会社に連絡をとり、

 一括で請求してもらって後日支払をした。

着付け、ヘアメイクの方にお礼を包み、控室での食事を出した。

・高齢で膝の悪い方もおられたため、和室用の小さい椅子?を用意した。

決算

1次会40名、2次会15名。

準備期間の移動費など全て含めた支出が150万で収入が151万。

予想外に多く包んでくださった方が若干名いたため、ほぼトントンになったが、

そうでなければ思惑通りに持ち出し35万ほどに収まっていた。

仔細まで管理し、当初の予定どおり できるだけ招待客に分配することができたと思う。

その他、雑感

1)参加者をたくさん呼びたい場合、それはもう選択肢がどんどん狭まっていく。

  究極的には式場しかなくなる。

  私たちとしては 公民館でもイベントスペースでもどこでも ワイワイとみんなでご飯を食べれて、

  夫婦の顔をお披露目できればそれでよかったのだが、やはり色々考えるとそうはいかなかった。

  まず、何かイベントがないと、空気がもたない。日本人パーティー形式になれていない。

  (知らない人としゃべらない) 若者だけならいけるかもしれない。

  台湾なんかは家の前の道路の一部を貸し切ってパーティーするらしいです。

2)私たちのやり方は嫁さんが無職時間があったためにできたと思う。

  共働きだったらそこまで時間を捻出できなかったんじゃないだろうか。

  私は出張で不在がちだったので、手と足を使った準備は殆ど嫁さんが。感謝

3)後日、写真コンビニプリントアウト、L判アルバムにして家族に送った。

  会場となった料亭から無料招待券をいただいたので、その内にお礼がてら訪れて

  こちらにもアルバムを渡す予定だ。これからの営業に使っていただければと思う。

4)試算表を作って、項目を全て羅列したのが 予算管理にとてもよかったように思う。

  項目を炙り出そうとすると、内容もおのずと煮詰められていくので。

5)私たち田舎で丁度良い料亭があったが、都会にはあまりないのではないか

  都会では会場の選択肢が少なくて、結局そういう式場しかないような気がする。

6) 円卓方式じゃなく、和室だったからこそ 行き来しやす雰囲気が容易くこなれて、

  いい方向に運んだんじゃないかなあと思う。日本文化万歳


当初、漠然とこんな結婚式、いいなあ~と思っていたのは、宇宙工学研究者小野雅裕さん。

http://onomasahiro.net/tsurezure/852

当然同じものにはならず、計画に時間はかかったし喧嘩もしたが、

僕たちにとって とても満足のいく結婚式になった。

見知らぬ誰かの参考になれば。

2009-09-15

教えてください

 少し前から一つの疑問を抱き続けているのです。果たしてそれが常識的なことなのか、私が知らなかっただけなのか。そして、その疑問から浮かび上がる私の感情を、もしそれが嘘ならば、いったいどこにぶつければいいのか、全く判らないのです。

 自分の運営しているブログに書こうかとも思ったのですが、素性が知られているし、それまでのエントリーとはあまりにかけ離れた、異質な内容になってしまう。匿名で書きたいのなら、それこそ2ちゃんねるでも良かったのですが、茶化されて終わりそうな気がして、踏ん切りがつかず、迷った挙句、こうして匿名ダイアリーに書くことにしました。疑問とは妻のことです。

 二十歳のころに大学で知り合った彼女は、少し大人しめな印象を受けました。遊びが主体のサークルとしては珍しく、彼女はいつも部屋の隅で本を読んでいて、時折起こる笑い声に、長い黒髪の奥からチラリと目を向ける程度でした。

 ただ、他のサークルの仲間から疎んじられていたかというとそうでもなく、皆で何かを決めている時に、勢いだけでやってしまいそうなところに疑問をぶつけ、話し合いの方向性を正すようなところがありました。そんなことから、彼女は仲間内から「一目置かれている」という形容が一番似合うような立ち位置にいました。

 彼女と最初に話をしたのは、飲み会の席での事でした。私はあまり人付き合いが得意な方ではなく、騒ぐことが好きな仲間たちとはあまり上手く馴染めませんでした。

 しかし、たまたま隣に座った彼女の雰囲気。真綿で優しく包まれているような雰囲気にひかれていき、ぽつりぽつりと、私は彼女と話すようになり、彼女もまた、ぽつりぽつりと、私に話をしてくれました。

 以後、私と彼女サークル内で、二人だけで話すことが多くなり、自然と一緒に外出し、当然の成り行きのように付き合い始めました。

 初めて彼女セックスをした夜のこと。とても崇高な時間を過ごした後の、穏やかな流れの中で、彼女は私の顔を覗き込み、微笑みかけてくれました。枕元の照明から放たれる、淡いオレンジ色の光の中での彼女笑顔は、まるでこの世のすべてのようでした。

 卒業後、仕事も決まり、この不景気の中、何とかやり通せる見通しがついた時に、私は彼女結婚を申し込みました。彼女はそれを快く受け入れてくれました。文金高島田に髪を結った彼女は別人のようで、私は少し恐ろしくなりましたが、そのあとに投げかけられた水面のような目線に、私はすっかり取りこまれて、気が付くと式は終了していました。

 結婚生活は順調だったと言えるでしょう。郊外マンションに新婚が暮らすくらいにはちょうど良い間取りの部屋が見つかり、私たちはそこに住んでいました。やがて産まれてくる子供のために取ってある、がらんとした部屋も、私にはなんだか誇らしく感じられました。

 結婚生活に不満を感じていたことがあるとすれば、食事のことでしょうか。一緒に暮らすまでは判らなかったのですが、妻はあまり料理が得意ではないようなのです。味自体はとても良いのですが、なぜか毎回、食事を口に運び咀嚼していると、糸のような歯触りを感じてしまうのです。私はあまり細かいことにこだわらないタチだし、それを感じるたびに「糸くずでも入ってしまったのだろう」と、そのまま飲み込んでいました。

 そうした生活を続けていたある日の朝。いつものように糸を租借した私は、用意を整え、玄関で靴を履いていました。見送ってくれる妻を背中に感じ、立ちあがって振り返ると、妻の肩に妙なものが生えているのを見つけました。

 何かのトゲのような、爪のような。うっすらと毛が生えているようにも見えました。

 私の視線を感じ取ったのか、妻は恥ずかしそうに肩に手を置き、「もう、やだ」と笑いながら洗面所に向かっていきました。一人玄関に残された私は、先ほど見た妙なものを頭に浮かべながら、「行ってきます」と部屋を後にしました。

 電車の中、仕事中、あの爪のことが思い出されました。彼女の肩にひっそりと置かれていた、黒く光るその爪は、しかし私は見間違いだろうと、思い出すたびに打ち消しました。

 仕事から帰ると、いつもと同じ妻が出迎えてくれました。私は少し、ホッとしました。

 不景気のせいでしょう、その頃の私は毎日サービス残業を強いられており、彼女にはいつも先に夕飯を済ませるようにしてもらっていました。

 白い蛍光灯の下で浮かび上がる食卓に、電子レンジメロディーが流れるたびに、おいしそうな食事が運ばれてきます。私がレンジ特有の暖かさに満ちた食事を口に運ぶのを、彼女はいつもそうしているように、ほほ笑みながら見つめてくれていました。

 「おいしい?」

 と、彼女が珍しく聞いてきてくれました。彼女自分料理感想を求めるなど滅多にない事で、私はここぞとばかりに褒めちぎりました。テレビレポーターのような私の口調に、彼女は今朝玄関で見せたような、恥ずかしそうな笑みを浮かべてくれました。

 「いいもの、見せてあげようか?」

 芝居がかった口調で、彼女は言いました。予想外の言葉に私が戸惑っていると、彼女はおもむろに席を立ち、自分の着ている服を脱ぎ始めました。セックスを誘っていると思ったのですが、そのような誘惑を彼女がするとは思っていなかったので、私の戸惑いは増していき、思わず立ち上がって制止しようとしました。

 彼女は私を言葉だけで止めてしまいました。産まれて初めて聞いた、ハッキリとした否定の言葉は、私を母親に叱られた子供のような、とても悲しい気持ちにさせました。私は立ち止まり、ブラジャーを外す彼女をただじっと見つめていました。

 「あなただから、見せるんだからね」彼女は露わになった乳房を隠しもせずに、ついと私に背中を向けました。白い光に浮かび上がった彼女背中は、峰のように白く輝いていましたが、そこに私は八つの黒い点を発見しました。それは規則正しく並び、肩甲骨から尾てい骨に向けて弧を描き、背骨を囲むようにして左右に四つずつ付いていました。爪でした。

 私は、今朝見た黒い爪が彼女背中に並んでいるのに気付くと、目を開き、そっと近づいていきました。右手の人差し指で軽く彼女の白い肌に触れます。ビクンと体を震わせた彼女背中を伝って、私の指は爪に触れました。冷たくて、すべてを拒むようなその爪は、彼女の体の中から、新芽のように浮きあがっていました。

 「女の子はね」妻は説明をしてくれました。「女の子は、生理が始まると同時に、こうして背中から脚を出せるようになるのよ」

 「脚?」

 私が問い返すと、彼女背中にグッと力を入れました。すると爪は震えだし、ゆっくりと、彼女の肌を掻き分けながら伸びていきました。それには関節があるようで、二度ほど肌を隆起させ、折れ曲がった部分を現わしていきました。

 やがてできったそれは、彼女の言うように見事な脚でした。硬くて黒い外骨格は、表面に透明の産毛をなびかせて、彼女を包み込むようにして生えていました。

 彼女くるりと振り返り、優しく包み込むような、それでいて誇り高い視線を私に向けてきました。それに射られると私は、電気で打たれたように、彼女を強く抱きしめました。彼女背中の脚で私を抱きとめてくれました。

 以降、彼女は、マンションの部屋の中では脚を伸ばしっぱなしにすることが多くなりました。彼女によると、それを背中にしまっているのはとても窮屈らしく、私が仕事に出ている時などはそうして、足を伸ばして休めていたそうです。女性は皆そのような脚を持っているそうで、女だけの空間では、気が抜けて、爪がうっかり顔を覗かせていることもままあるようで、それを指摘すると大抵、笑いが起こるとのことです。

 「当たり前のことよ」と彼女は言いました。「あなたが知らなかっただけ。女の間では当たり前すぎて、普段話題にも上らないわ」

 ある日曜の昼下がりなど、私が個人的な買い物から帰宅すると、彼女上半身裸で、胸をあらわに、脚を伸ばし放題に伸ばしながら掃除機をかけていました。面喰っている私を見て、彼女掃除機を止めて「お帰り」と何気ない口調で云ってくれました。

 そして、彼女のことを知った日から、セックスがそれまでと比べて何倍も楽しくなりました。

 私たちはいつも正上位で事を為すのですが、私が上になって彼女の中に入り、覆いかぶさるようにして腰を動かしていると、彼女背中から伸びた足、その爪が、私の背中カリカリと引っ掻くのです。時に優しく。時に、傷ができるほど強く。私がその痛みに苦悶しながらも、セックス快楽を止めることができず腰を振っていると、彼女は上気した顔で、艶めかしく、嬉しそうに笑うのです。その顔を見た私はさらに興奮し、彼女の爪もまた、私の背中を強く掻き、いつしか快楽と痛みが混ぜあわされ、同一となったところで、私はいつも果てるのでした。そんな私を彼女は、脚と腕で優しく抱きとめてくれる。それはまるで、母の中にいるような気持ちでした。

 そうして私は、いつしか彼女の足に掻かれるだけで、ひどく興奮してしまうようになってしまったのです。

 私は床にひざまづき、椅子に座っている彼女に見下ろされながら、自慰行為にふける。彼女は私を見下しながら、背中の脚で体中を引っ掻いてきます。胸を、腹を、背中を。私の体は蚯蚓腫れだらけになり、会社トイレズボンを脱いだ時に思わずその傷を目に留めてしまい、興奮し、一人でしてしてしまったこともあります。

 ただ、私は彼女言葉に信じることが出来ない部分があります。それは、「女の子ならだれでも脚を持っている」という部分です。本当にそうなのでしょうか。今まで私は生きてきたけれど、そんな話は聞いたことがないし、もちろん見たこともありません。私はこれまで妻一人しか経験がないので、他の女性の肌を見ることが叶わなかったのです。

 「誰にも言ってはダメ」と、彼女は最初の晩、初めて脚を出しながらセックスした時に言いました。「これは私たちだけの秘密なの。もし男の人にバレたら、それを知っていると知られたら、大変なことになる」

 しかし、私はどうしても知りたくて、こうして匿名で筆を取らせていただきました。

 最近、朝の通勤電車に灰色のブレザーを着た女の子を見かけます。近所の女子高生であろう彼女は、毎回私のマンションの最寄駅から二つほど行ったところの駅で降り、私の会社の最寄駅から三つほど離れた駅で下りていきます。ある日、たまたま仕事が早く終わって家路についている時、彼女部活仲間らしき子供たちと一緒に乗ってきたことがあります。私はマンションの最寄駅から二つほど手前の、彼女の最寄駅で降りて、彼女の後を追いました。ボブカットの黒い髪と、健康そうな肌が私の目には瑞々しく映りました。彼女は私の見ている前で、自宅へと帰って行きました。

 彼女にも脚があるのでしょうか。妻の言い分が本当だとするならば、彼女もあの艶めかしい脚を持っていることになります。彼女の脚の爪に引っ掻かれることを思うと、私の体は火をつけたように熱くなります

 もし、彼女が脚を持っているなら、妻の言い分が本当なら、私は彼女に声をかけてみようと思います。

 教えてください。女の人の背中には、蜘蛛の脚が生えているものなのでしょうか?

 
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