はてなキーワード: ジッドとは
最近のLGBTって「生まれつき持っていた”本当の性別”や”本当の性欲”のままに生きる」って話じゃん。
でもブリジットは違うよね。
元々男として生まれて、「男なのに女」として育って、最終的に「元々男として生まれて女として育てられた果てに女としての自分を受け入れた」っていうかなりのレアケース。
大体の作品は似たような設定の時に「男として生まれたのに女として育てられ、親離れの過程において自分は男であるという自覚を持って親に押し付けられてきた人生との決別を果たす」って物語を描く。
多くのトランスジェンダーは「本当は男(女)として生まれた」だし、LGBも「本当は男なのに男に欲情する(女なのに女に欲情する)性欲の持ち主として生まれた」なんだよね。
「どう生まれてきたか」がこの人達は大事なんだけど、ブリジッドは「どう生きてきたか」なんだよね。
昔のオカマってこっちが多かった気がするんだよ。
自分という存在を確立させる旅の過程において「生まれ持った生き方とは別の生き方を選択する」って物語の中で生きることを選ぶ。
今のLGBTって「狭量なみんなの手によって奪われた本当の人生を取り戻す」って感じじゃん。
でも昔のオカマは「自分自身の生命エネルギーを高めることで人生という荒野を切り開く」って生き方をしてた。
今でもオカマバーに行って面白かったなと感じるのはこのタイプのオカマに出会ったとき。
あの人たちは「囚われることを辞めた人」なんだよね。
今どきのLGBTって逆に「持って生まれた物に囚われ続けることを選んだ人」が多い気がする。
途中まで男で生きてきたんだからもう男として生きればいいじゃんみたいな気分になれない人達。
どう生きたいのかって問に対して「本当の自分を探している」って答える人。
かのA.ジッドも奥さまがVirginだったとか
先程、下記の記事を見た。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49798
紹介されている本は未読で、この記事も流し読みした程度なのですが、
自分は今日が人生さいごの日だったら、何をするかなあ、と考えたので、書く。
あさ目が覚めて、これが最後の1日だったら、
外にお出かけしても良い程度、鏡を見て、じぶんでいいねーと思える程度に、
シュッと(化粧もして)整えた、さっぱりと気持ちの良い格好をする。
部屋やPC内にに見られて困るようなものはないので、このへんはそのままでいい。
各種アカウント類は整理しといた方がよいだろうか?ID開放のため。でもめんどうだなあ・・・まあそんなにないし、いいか。
それから、お出かけする。
本は、夏目漱石「草枕」と、、、あとジッドの「狭き門」とか、それともアラマタ大辞典とかにしようか。重いか。
助手席にはお気に入りの・・・相棒のぬいぐるみを乗せて、出かける。
私はとてもとても好きなので、どこまでも行っちゃいそう。
シンガポールのボタニックガーデンのようなところがいいなあ
まあここはシンガポールじゃないので、
土日になると家族連れでにぎわう系の公園の、気持ち良い木陰を探す。
気候がわるかったら、広い図書館か、お気に入りのカフェでもいい。
気分によって適当に海まで行ってもいい。
そうやってふらふら好きにしたら、夜は
すべてが準備されるようなところで過ごしたいので、良いホテルに泊まります。
満室なら残念です。
携帯電話はおいていくつもりなので、いきあたりばったりで
泊まれるところにとまる。
もしもその日の終わりにバタリと息の根が止まってしまうなら、ホテルはナシ。
どこか誰もしらない場所で、つまり猫が死ぬときにふっと姿を消して死にざまを見せないように死ぬのが一番理想なので
よいところを探して山へ分け入って分け入って、そっと山の肥やしになりたいなあ。
その場合は車はおいて単身そういう場所を探さないといけないので、
事前にいろいろ調べないといけない。たいへんだな。
きっと葬式などをあげたいだろう。
となるとやっぱり身体はわかるところに用意しておかないといけない。
しかし、最後に家族のもとへは赴きたくない…ひとり穏やに過ごしたい…
そうして、そうっと、すぅっと、消滅したいのですが、人間は社会的生物なので、なかなかそうはいかないようです。
あと、ありがたいことに、愛すべき友人たちもいるのですが、
彼ら・彼女らの幸福は、基本的にはいまから死ぬわたくし以外のものがもたらすであろうから
別のここで何か最後に一手かかわりを持とうとする必要はないと考えまして、
連絡などはせずそっと早くに忘れてもらうのがいいよなあ、と思うのだった。
と一通り考えてわかったことは、やはりというか、なんというか、
私が求めているのは、穏やかにひとりでそ・・・っと何もせず何もおこさず関わらず
わたしにはわたしがいれば完結して満足してしまうところがあるのだった。
実際には今日私は死なないし、私のことを好きな家族をぽいっとするほど薄情にもなれないので、
漫然としごとをして漫然と好きな本をながめて漫然と人の面倒をみて漫然と生きるのであった。
「日記」を書いているのがどこぞの「ビッグ(治した)ブラザー」に見つかって筆を折られた人を見ながら
息を潜めて書き続けているそんな今日
なぜ文章を紡ぐのか
「本を読んで何か感じた事を書いて見ましょう」と作文や読書感想文を課されたときはいつも困っていた
本は物心付いた時からたくさん読んでいた歴史小説や推理小説が好きだった
小学校の図書貸出カードは何枚もテープで重ねられた しかし何も言葉に出てこなかったからだ
いつも作品の説明だけでほぼ埋めていた
自分がなぜそう感じるのか言葉に表現することは書くことどころか、口に出すことさえ覚束なかった
想像力 人生経験 感情の積み重ね 文章を書くこと何もかも足りなかった
教科書を開き 漢字の練習を繰り返し 問題を解くだけ ただ他人の文章を読むだけ
それだけでは何もできない 自分の考えを他人に旨く説明するどころか
自分自身に問うことさえできない
それに気づいたのは14の時
私はユーゴーに嵌まりながら読むだけでは満足できなくなっていった
18歳まではせいぜいテーマに沿った2~3枚の小論文やレポートを書くのがせいぜいで20歳位までは
大人になった今では自分の気持ちを苦にならずに日記に書けるようになったけどそれがなによりも嬉しい
もっと表現が上手い人の日記を読むと楽しい「こういう表現の仕方もあるのか」と感心する
自分の気持ちを言葉に出して上手く整理したいそれが日記を書く理由
今読んでいるのは『ジッドの日記 I』どこからでも読んでいいスタイルで読むことした
ページ順に読まずパッと開いて目についたページから読む 閉じる また繰り返す
読みながらこの人「はてな村のあの人に似てそうだ」と思った
「隠喩」や「創作」について少し考えた 事実をあからさまに書くと消化できない人の反発を
悲惨な話でも舞台を日本から遠くはなれた場所に設定したり、過去や幻想世界のこととして書いた方が
読む人には受け入れられやすいのかな
この本難しい 一端読むの止めてピエール・ギローの『文体論』を読み返すと読み解く助けになりそう
なので一端積む
1.『1984年』ではこっそりテレスクリーンの目の届かぬ場所で日記を付ける好意は「思考犯罪」らしいよ
リトル・ピープル?ビッグブラザーに反抗?そんなつもりで日記書いてる訳ではないけどね?
2.後、ちゃんと錬られた良い記事が読みたい人は新聞や雑誌、アルファブロガーの有料メルマガを買って読むといいとオラは思いますだ
3.下の記事群には一切記載されていない「はてな村」のとあるあなた 正解です
ただしアレは実際に身の回りで遭った事です
生きてきて目にして感じた辛さ悲しさ居たたまれなさが毛糸となって常時データストックされていて、琴線に触れるとその事を思い出して書かざるを得ない
というシステムです 書いたら割りとスッキリしてます 年齢を重ねるほどに愚痴を言える場所も人もどんどん無くなっていきます
これでもネガティブさのブラックコーヒーをコーヒー牛乳位には薄めて書いているつもり
今日は「ジッドの日記」のIを読んでいたけどネガティブな事やTwitterで充分な長さや内容の物も多かったので足らない
足元の蟻にも及ばない私の日記がネガティブでも中味に乏しくてもたいしたことではない 書きたいように書きます
他人がどうこう言っても書く、私のキーボードを止めるのは「仕事」と「飽き」のみ
ブログを転々と引越ししているので飽きたらある日ふらっと別のブログで書く日もくるかもしれない
日記が気に入らないなら「はてな匿名ダイアリー」を読むより『野上弥生子日記』や『蜻蛉日記』おすすめー
私はこれから嵌まりかけている『ジットの日記 I』の続きを就寝前に読みたいんで忙しいからバイバイだ
クソワロタ。
アポリネールが、ジッドが、ナボコフが、ロブ・グリエが、バタイユが
「健全」で「ためになる」んだ。あんなの有害図書以外のなにものでもないと思うんだけど。今も尚説得力あるんだ。
なるほどなるほど、スタンダールの恋愛論を真顔で読んじゃうんだ。
歴史的選別を経てないものは芸術じゃないんだ、つまり現代「芸術」は存在しない、と。
ピンチョンやデリーロもダメか。っていうか、その理屈だと「太宰」は「健全でためになる芸術家」か。
教養なさすぎじゃない?「健全でためになる芸術」ってほとんどないと思うけど。
武者小路実篤の熱烈なファンとかそういう珍しい人なの?芸術なんてほとんどがクソの役にもたたない
不健全不健康不道徳なものですよ。ドストエフスキーが「健全でためになる」んだ。