はてなキーワード: アウトプットとは
ネットの外で、つまり、人との対面的状況で「会話」ができる、という事態が、理解できない。
下書きもないし、校正もできないのに、どうやって文を組み立てているのか。
もし、意識というか自我というか、心に浮かんだ言葉をそのままアウトプットしていたら、
いわゆる統合失調症の「言葉のサラダ」みたいになって、人に理解ができる文の形にはならないのではないか。
あるいは、そもそもぼくなんかは、感じていることや考えていることを、単語レベルであれ「言葉」に変換するのに相当時間がかかるわけで、
思っていることを話してください、とか言われても、非常に困るというか、
何も思っていませんとしか言いようが無い(何も思っていないというより、求められていることがまだ言葉にはなっていません、というのが正確だけど)。
任意の場所に出かけて行って、あらかじめ話すことを決めていくのであれば、まだ、何を言うべきかに困らないかもしれないけど(原稿をつくればよいので)、
会話って、アドリブというか、インプロビゼーションでやっているのでしょう? 知らないけど。
それって具体的に、どうやるのでしょうか。
(今日は、自殺予防の電話と、よりそいホットラインに電話したけど、忙しいみたいで、電話が繋がらなかった。今日は、話が出来なかったので、増田に吐き出す。)
友人にも、話しても、辛い。というか、話して友達を失うのが、怖かった。徐々に、こうやってアウトプット出来ているけれど。
もう。働きたくない。
義実家との縁を切りたい。
でも、働けっていう。
失業手当が、貰える。それまでの額面が30万円だったんだから。
15万ほどは入るはずだ。
しばらくは、失業手当でいいじゃないか。
あるいは、傷病休業手当金が入る。
妻も、いっぱいいっぱいだ。
それと、被害妄想の傾向が強いそうだ。
なんていって、さらっとながす。
妻も、何人なの友人も、「お父さんとあなたは別人格」というが。
わたしは、『ローンを苦にして、うつ病になり、家族の犠牲になった父親』というイメージを自分にも、重ね合わせている。
ああ。
この私の気分を話すことも、気が重い。
話したが、わかり合えない。
結局、前回は、一ヶ月前は『時間を下さい』、で、終わった。
どうせ、怒らせるに決まっている。
がっかりする顔をされる。
でも、もう、良い子ちゃんは止めたい。
(「相手が、どんな顔をするかは、コミュニケーションを取るまで分からないものだ」という感覚がいまいち、まだ、わからん)
ネガティブなことを話したときに、相手がどんな顔をするだろうかと、想像するだけで疲れる。
働き過ぎると、うつ病になって、自殺するだろうと、いう恐怖感があって、PTSDのようになっている。
自分の恐怖感が、相手を巨大にしている。
それは、理屈で分かるし。
『思いを言葉にするのは、簡単ではないのよ』を優しく話してくれた人もいる。
睡眠導入剤も、飲んだ。
勇気を出して、精神安定剤的な緊張をほぐす(頻脈を抑える)薬も処方された。
漢方薬のイライラに効果があると言われるツムラの54番?の薬も、飲んだ。
どうすれば、いいの。
『奥さんが、無理をして、内職をしているのも、分かる』
でも、
ああ。
ヤバイ。
ヤバイ。
自分で、考えやすいように、アウトプットを行い、更にそれを要約して、整理する。
『考えること』は、人間の言動のシステムのうちの一部分であって、単独では、状況を改善するためには、力を発揮しない。
この場合の英語的には、respectリスペクトだろう。敬意を払うというのか。
相手へ気を遣ってとか、不快な思いをさせないような表現を避けて下さい、という意味だろう
また、結婚をすると、奥さんから旦那さんへ向けて(あるいは、愛人から不倫相手の男性へ向けて)
『私たちの将来のこと考えてくれてるの?』などと、言われる。
このケースも、頭脳労働というよりは、感情労働的な側面と決意表明を求めているのであり、
「私の気持ちを気遣って(将来の生活の安定性を見通せる経済的な保証を下さいな)」
ということなのであろう。
人間関係を始めとして、何が正解か分からないような問題であると、
などと、言われる。
人間関係や将来のことなど、やってみなければ、分からないことも、人生には、多い。
仮説を立てることは大切だが、検証をしていない仮説は、ただの絵空事(空想)である。
そんな仮説に縛られては、いけない。ABテストでもするつもりで、バンバン動いた方が良いのだろう。
思い出さなくても良いネガティブな経験を整理する(捨てる・忘れる)のが、良いのだろう。
確かに、一時的に充分な休息を取って考えないことが、一番の薬だったりする。
落ちついた頭で、考えた方が、良い結果を生み出す。
怒られるのが、怖いので、行動や思考の幅が狭まっている自分の状態に気がつくためには、考えるよりも、休むである。
(第二次世界大戦中の日本軍のような状態で幾ら考えても、被害が大きくなり、真の意味で「お国のため」にならないことを選択していたという結果を導いていたりする。他人のことだと冷静に見れるが、自分のことだと、致命的なダメージを受けてからでないと、気がつかないということがある)
トコトンまで、やってダメなときは諦めるか、別の手段というか、問題設定を誤っていないか、前提条件自体をもう一度、洗い流してみる。
長くなったので、今日は、この辺りに。
こんな一覧を作ります。曖昧にするとブレるので確実に全て決めて、何かにメモし、その人格をプレイするときは確認します。
とりあえずこんぐらい。昼休憩終わったのであとで続き書きます。
4点/5点満点
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特に、最初こそ酒飲みながら観てたけど、2時間半の間でお腹がすいてしまった…
そこでクライマックスであろう最後45分くらいから生卵掛けご飯を食べた
丁度そこらへんで村田がバラバラに解剖されて愛子と社本が血みどろになりながらくんづほぐれつしてて
もともとグロに耐性はあったんだけど、流石にちょっと来ました。
自分がよく気になってる登場人物の同期づけとかもしっかりなされていて、脚本としては完璧だったと思う
狂ってるんだけど、その原因となる出来事がどこか泣けたりして
ただただ必要以上に血とか内臓とか見せられた感を勝手に感じてて5点満点にできなかった
じゃあ自分の中で5点満点の作品に出会えるのか?そもそもどんなのが5点満点なのかわからなくなったな
あまりに文句の付けよう無いし、どこか心情に共感しながらも自分に重ね合わせる事が出来る登場人物がいなかったから、特に書くことない
文章を書く能力というのは、人間にとって最重要であり、その他の能力たとえば絵が描けるとか料理が上手いとか科学実験のカンがいいとかの技能や能力よりもはるかに上位である。言うなれば、文章が書けない人の存在価値はゼロである。なぜならその他のすべての能力やアウトプットというものは、すべて言葉を通じて他人に伝えられなければ価値が発生しないからである。価値が無ければ社会的にも経済的にも生存することが困難になる。
芸術や食事やコミュニケーションはそれ単体で価値があると信じたくなるが、不思議な事にそれらの価値は言語で報告されなければならないのである。言語で書かれた小説が文学賞を受賞したときに、ではその内容や喜びをダンスで表現してくださいなんて言われることはないが、芸術作品が受賞した人には喜びの「言葉」が求められるのである。言語に比べその他の能力は、極めて非対称なのだ。
言葉でしゃべることも重要かもしれないが、時間と空間を超えて無数に拡散して伝えることのできる文字列にその価値は及ばない。テクノロジーが進化して動画配信が容易になったこの時代であっても、申請や報告や社会のやり取りは必ず文書である。
つまり、文字を書く能力というのはすべての能力に対してAND演算、掛け算で効果が数値化される能力であり、つまり文字がかけない人というのは、ゼロが掛けられるので価値はゼロなのである。
私は、ものを作ったり調べたりして、その結果をおしゃべりで情報をやり取りすることがとても好きで、それなりに能力を発揮できていたと思う。しかし文字列を読むことが極めて困難な障害があり、特にパソコンに文字を入力するときに困難さが伴い、普通の人なら小一時間で書けるらしい書類であっても猛烈な疲労とともに一週間程度はかかることがザラである。
そのためか、文章を書けないことで人生の多くの部分で、信頼を失い、落胆され、結果を残すことができないでいる。若いころ、文章を書くというのは人間の能力の一部であると信じていたし、文字が発明されたのは人類の歴史上ほんの最近なのだからそれ以前のことを考えれば、文章を書くことが人間の価値をゼロにまで落とすだなんて想像もできなかった。しかし、実際はそうではなかった。自分の価値はゼロだ。
だからあなたがもし、芸術家やスポーツ選手や技術者を目指しているのであれば、その専門的な技を磨く時間にすべてを注いではいけない。文字列で報告できる能力を同時に培わなければならない。誰かツーカーな上司が守ってくれている間は、言われたことをやっているだけで喜んでもらえるかもしれないが、指導的な立場になったり、誰かに意見を求められるようになるともはや技だけではダメなのである。それどころか、スキルは文字列に信頼を与えるための肩書程度にしかならないのである。
むしろ文字列さえ書ければ他の能力は殆ど無くても問題がない。なぜなら文字列を書けなくて安く買い叩かれている人苦しんでいる人が、世の中には多くいるからである。彼らのアウトプットを頂いて、それを文章にまとめて広めてあげればいいのである。文字列以外、作りだす必要性はないのである。
- 自分に言葉や社会のルール、基本的な道徳観を教えてくれのはだれか?
と考えると、遺伝因子、環境因子の両方の影響を両親から受けていたと、思うよ。
ヘレンケラー女史に、サリバン先生がいたみたいに、自分を良く理解した上で適切な方法で根気よく導いてくれる人がいるって大切なことだよね。
だけど、アスペルガーだと、人との関わりが上手くいかないし、ADHDで、感情のコントロールも苦手だったりだと、人から理解されずらいし。
なんだろう、人の助けを得ようにも、得ることが上手く出来ないから、そもそも、困っている。
『人は、支え合って生きているんだよ』という基本的なことであっても、僕も、僕の親も、知らずに育ったように、思うよ。
父親は、僕の祖父へ助けを求めることや、会社の人や学生時代の恩師に助けを求めることが出来なかった。
母親も、父親を支えきれなかった。
両親自体が、彼、彼女らの境遇を受け容れきれていなかったように思うよ。
自分自身の性格・気質・能力について、折り合いをつけることが出来ないでいた。
つまり、元増田が言うように、「頭がくらくらする」為に、どうしていいのか、わからん状態が、一生続くかと思うと、絶望してしまう。
砂に水を注いでいるようで、何も自分には蓄積していないように、感じる。
また、ある程度、落ち着いて来た時に、親は愛情を注いでくれたつもりでも、自分では素直に受け取ることが出来なかった面があったようにも、思えるようになりつつあるのかな。。。
普通の人と同じ努力をしても、報われないのだから、やる気もなくなるべ。
そもそも、僕は、自分の失敗から学ぶということが、苦手だったよ。
短期記憶の能力・認知能力が低いとか。同時並行で、処理をすると頭が固まるとかさ。
これらは、直しようがないわ。
いくら、タメになる自己啓発本(w)とかを読んでも、理解の仕方が一般の人とは異なるし、アウトプットで、いつもつまづく。
相手の立場や理解度に合わせて、表現を選んでいくと言うことが、苦手だったりするよね。
単純なペーパーテストでも、ケアレスミスがあったりで、分かっているのに、点数に結びつかずに、意味が無いってのがあるよな。
増田に何かを書いて、ブクマがついて、スターがついて、文章力が褒められるだけでも、マシになったかとも、僕の場合は、思うよ。
作家とか、プログラマー出身のブロガーとか、コンサルタント的な人の中には、どう考えても、発達障害です、ありがとうございました、
という人も、ちらりほらり、いるし。
長島茂雄の子供(一茂も三奈)なんかは、タレントとしては、空気を読める人たちに思うから、
環境によって変わることも、大きいのだろうね。
奥さんが、定型なのかな。
羽鳥慎吾、ホンジャマカの恵なんかを始めとする優秀な司会者は、定型の代表者だと思う。
多くの人の感情を読み取り、適切な言葉で表現することが、上手いから。
一方で、リアクション芸人とか、特殊な分野で一芸に秀でているタイプの人は、
自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)やらADHDでも、やっぱし成功しているように思う。
極端な例になるが、
松岡修造とか、家庭生活では、イマイチな話を聞いたことがあるし。
アスペルガー症候群って今は、自閉症スペクトラムって呼び方に変わって来ているようだよね。
最近、NHK教育テレビで見て参考になったTEDがあるので、リンクを貼ります。
子供の頃に自閉症と診断されたテンプル・グランディンが、彼女の脳の働き方について話します。彼女の“絵で考える”能力が、一般的な脳が見落としがちな問題の解決に役立つと言います。世界は、自閉症の領域にあるとされる人たち-視覚型思考者、パターン型思考者、言語型思考者や全ての風変わりな天才達-を必要としていると訴えます。
http://www.ted.com/talks/temple_grandin_the_world_needs_all_kinds_of_minds?language=ja
ぼくは水耕をしません。
勢によって文書は磨かれる
なんでしょう。ずっと文章を書いていて感じるのは、「一筆書き」で書いた文章が市場面白いんです。
もちろん、そういった文章はところどころ「おかしい」ところもあります。文章がうまく繋がっていなかったり、冗長になってしまっていたり。
でも、その「おかしさ」は、ポジティブに捉えれば「味」とも言えるんです。
言い換えると、遂行してきれいな文章にしようとすればするほど、「味」も薄くなっていきます。
水耕というプロセスを通すと、「違和感のない文章」になってしまうんですね。
説明書ならまだしも、ブログというのは本来アートに属する創作活動です。
小説や詩のようなものです。だからこそ夜でいる人に「違和感」を与えないようなブログは面白く無いんです。
読者はあなたにスピード感を求めているんです。著者の文章を書くスピードというのは、実は読者によく伝わっています。
→断定
よく遂行された文章は美しいですが、読者は同時に「退屈さ」を感じてしまいます。
勢いの中で創作を続けることで、上達するスピードもまた早くなていきます。
→勢い重要
推敲ばっかりしている人はなかなかうまくならないんですよ。
舞台に立つ回数が減りますし、瞬発力も出ませんから。「一筆書き」を世の中に出しまくった人が結局はトップに立ちやすいのです。
→出しまくるぜ
いいんですよ。推敲なんでしなくて。もっと「生」のあなたを見せましょう。
恥をかきましょう。話はそこから始まるんです。
共感を得に来た。
近頃のオリンピック騒動を見ていたら、論議があさっての方向ばかり向いている。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/
やれパクリだの、やれパクリじゃないだの、正直そんなことが重要なわけではないと私は思っている。ってことで各論者たちにツッコミを入れに来た。まぁ見ていってほしい。
あのな、このロゴはな、タイポグラフィーを主としたデフォルメ系のロゴデザインなんだよ?どれも似通って当たり前だろ!目を覚ませ!
何が裁判だ提訴だ。こんな曖昧なもの法廷に持ち込んでどうするんだ!?結果が出ると思ってんのか?てかそれ誰が得するの?
法廷が正義だとか思ってるの?法廷なんて政治ゲームだろ。こんなもん裁判に持ち込んだら、適当なパワーゲームになってうだうだやるだけじゃねぇか!それで結局三面記事の良いネタになってコンテンツ力を失うんだよ!
世はフラットデザイン全盛なんだよ!似通ったロゴなんていくらでもあるだろ!全部訴えろってか?
あのさぁ、言いたいことはわかるけどな、これは芸術じゃないの。クライアントが存在するデザイン業なの。わかる?わかるよね。それが仕事だもんね。
ってことでさ、デザイナが独りよがりで作ったってどうにもならないよね。
ホントはさ、リリースする前に一般人的客観的感覚で、アウトプットを精査すべきだったんじゃないかな?一般人から「これパクリじゃね?」とか「これ○○に似てるよね?」とか意見が出るの目に見えてたよね。それってまずいよね。
そういう精査をしなかったじゃん?だから叩かれてるの。クライアントの感覚置き去りでデザインが世に出ちゃったからさ。
え?「クライアントは国であって、国民の事は知るか」って?それは横暴だよ。国家的イベントであるオリンピックのロゴ制作だよ?一生名前が残るよ?すごい大仕事だよ?それはすごーーーく丁寧にやらないとダメじゃない?
ホントはさ、国民は佐野さんに唯一無二でズバッとした有無を言わさぬデザインを生み出して欲しかったんだよ。たぶん。
ここにほかの人を引き合いに出すのは良くないとは思うけどさ、岡本太郎とかすごいじゃん。唯一無二感半端無いよね。きっと国民はそういう仕事を期待してたのだと思うよ。きっとね。
みんな頭を冷やせ!冷静になれ!
お前たちの戦う相手はそいつじゃない!
ここまで燃えたんだから、みんな悪者が欲しいに決まってる。あいつが悪いって言いたいんだろ?
ってことでとっておきの敵を提供してやる。それは広告代理店だ。
そもそもロゴなんてものはシンボルだ。そいつをみたら「あぁ東京オリンピックだな」と思えるものがシンボルだ。
だからな、乱暴な言い方をするとデザインなんてどうでもいいんだよ!要は決めるプロセスが重要なんだよ!
適当なストーリーと適当な理念と演出で、B層共が適当に納得するように仕向けるプロセスが重要なんだよ!
電通だか博報堂だか知らないけど、ちゃんと仕事しろ!ネゴシエーションしろ!CM打て!適当に民放で「2020年東京五輪 期待!開催までの道のり ~本邦初公開ロゴ誕生秘話~」とか言うタイトルでそれっぽい薄っぺらいストーリーなテレビ番組作っとけ!
広告代理店が無理なら国が仕事しろ!もっと上手くやれ!旗振り役が不在なんだよ!
基本的にオリンピックってのは成功することが前提で出来てるから、成功しても成功したことに対する利益が得られねえんだよ!モチベーションが高まらないんだよ!
用意してください。
用意してください!お願いします。
割と東京オリンピックで古いインフラをリニューアルして、更に東京は住み良い街になると信じてます。なので成功させてくださいお願いします。
http://www.amazon.co.jp/review/R33VQYXB3J6P7P/ref=cm_cr_rdp_perm?ie=UTF8&ASIN=4838725833
ネットで叩かれているようですが、事態はもっと深刻だとおもいます。
何より、「グラフィックデザイン」という仕事自体への信頼を落とした罪は、とてつもなく大きいと思います。
擁護していた人間が、信じられない。「仕事」あってのデザイナーです。「彼はいい人」?ふざけるな、です。
真の人柄とは、「デザインの仕事」にこそ、出るものなはず、です。
全てのデザイナーが、こんなパクリ、というか、「雑な仕事」をしているわけではありません。
精一杯、ギリギリの低予算と日夜の仕事の上にちょびっとだけ花が咲くような「地味」な仕事です。
この「パクリ」は、むしろ「佐野研二郎」さん、「森本千絵」さん、「長嶋りかこ」さんら、
大手代理店の実質・専属デザイナーだからこそ、必然的に起こりえました。(まだまだ他にもいますよ)
彼等は、零細のフリーランスや個人のデザイナーと違って、大手広告代理店・電通や博報堂とのパイプがあるため、黙ってても、とんでもない「大きな仕事」が降ってきます。サントリー、資生堂、TOYOTA、HONDA…そんな大企業はデンパクにしかできませんからね。
それをチャチャっと、イメージソースを見つけ出し、Macでコピー&ペースト。下っ端のほぼアルバイトに近い低賃金アシスタントに、徹夜でとてつもない量の「アイデア」を出させ、その「手柄」を横領します。
「横領」と「電通・博報堂・多摩美ムサビ」を中心とする「これがオシャレなんだぜ」という「自己顕示」が、彼等のいう「クリエイティブ」の正体です。
彼等に創造性は一ミクロンもありません。「芸能人」に好かれているから、成り立っていただけです。
「ま、素人だしな、センスねえ・一般人なら、わかんねーだろ。」これが、彼等のいう「デザイナー感覚」なのでしょうか?
違います。真のデザイン感覚とは、「一般の人」にこそ、パッと「見るだけでわかるもの」だと私は思います。
ちょっと心あるデザイナーたちは、みなこの人たちの「センス」の源泉・ソース元が「パクリ」であることにとっくに気付いていました。ただ、一般の人の目と耳に届かなかっただけなのです。
彼等は「デザイナー」というより、「中間搾取業者」さんという方が適切なのです。
デザインに、本当はプロもアマもありません。だからこそ、デザインは過酷な仕事なんです。
かえって、「素人」だからこそ、曇りのない目だからこそ、デザインの本当の良さがわかるし、ウソもバレるのです。
国民の祭典である「オリンピック」に、あんな葬式か、安っぽいブランドのロゴのようなデザインを出してくるセンス。
それに疑いもしないセンス。これが「プロのデザイナーの仕事」なのですかね?
こんな「雑な仕事」が、止まることなく、まかり通ったのも、彼等を批判することが「タブー」だったからです。テレビ・新聞・ラジオという「メディア」の一番の資金源である「広告」を「美しく」作る方(パクリですけど…)なのですから。
まるで、一連の騒動も、「頭の悪いネット民」の批判だから、などと、彼等側の人間は、主張するでしょう。
いえ、今回ばかりは、発見したのはネットの方々かもしれませんが、日夜真面目に働く「デザイナーたち」こそ、一番の被害者です。
こんなズサンな人々と一緒にされたくない、とほとんどの方は主張するでしょう。そして、デザイナーこそ、こういう愚劣なクソデザイナーに怒りを感じるはずです。
和田誠さん、田中一光さん、亀倉雄策さん、横尾忠則さん等、デザイナーがスターだった時代は、手と情熱とで、素晴らしく美しいデザインをつくっていました。いちいち鉛筆で線を引き、イラストレーターと一緒にアイデアを考えていました。
デザイナーという仕事は「広告屋」「看板屋」などと低く見られ、軽蔑されていました。
何が「ミスター・デザイン」じゃ!!その「ネーミング」の恥ずかしさに、言葉も出ません。
最高に笑えないギャグですよ。口に出してみて下さい。「ミスター・デザイン」?。
オレは偉いんだぜ、ってことでしょ。自己顕示欲の塊なんですよ。ちょっと心あるデザイナーなら、誰でも気付いていたことです。
これを機に、「デザイン」という仕事から、足を洗って頂ければ、幸いです。
後記:多くの方に反響を頂きまして嬉しいです。
少なくとも、サントリーのパクリの件は、専門学生の1・2年レベルの課題でも今時するか?という初歩的な「画像のまんまパクリ」です。フリー素材か、写真を取ればよかっただけのことです。
デザイナーとして、本当に、ありえないレベルのミスです。こんな仕事の仕方は、佐野研二郎氏の事務所だけでしょう、と信じたい…。
しかし、それでもまだ擁護する「デザイン村」の人達にはつくづく情けない…。
理研の小保方氏、音楽クラシック村の佐村河内とホントーに、まったく同じ構図じゃないですか!
デザイナーたちも、仕事に響くので、黙っている方がほとんどだと思いますが、勇気を出して、声を上げて下さい。
呆れるほどボロボロとずさんな情報が出てきてしまいます。「思考をクリア化」しすぎた結果だと思います。
この本を読んで、「そもそものデザインのやり方」への「違和感」を感じて、すぐに某本屋へ、売りましたが、まさかあのときに感じた違和感が、これほどまでに実現化されるとは思いませんでした。
でも、いかに佐野氏が、「手抜き体質」かが、出ていると思いますよ。
なんと…驚愕の事実が発覚しました(2015年8月30日)。「ペンギンブックス」という、日本人には馴染みが薄いですが、
有名なペーパーブックのシリーズの名タイポデザイナー「ヤン・チヒョルト」のパクリであることが発覚しました。
私も、GGGでの展示に行って、感銘を受けました。本当に許せない。チヒョルトは、ハッキリ言って、
作風は地味です。しかし、心に残るデザインをする私も心から敬愛する、「巨匠」です。
しかし、そのチヒョルトの「表面」のデザイン部分だけをペーストして、パクる姿勢。
本当に許せません。
「スポーツの世界」のヤツラにならば、わからないだろう、という魂胆でもあったのでしょうか?
本当にふざけてる。デザイナーとしても、最低です。許せません。
(コメントに追記)>>広告代理店のデザイナーの仕事はプレゼンが主なので細部まで検討して作りに作り込んだファイナルプロダクツを作成することはありません。ファイナルプロダクツは下請けの専門家に任せます。だから”これとこれをくっつけて~”みたいに30%ぐらいの力で仕事を仕上げるのが”デザインする”ことだと思っちゃってるデザイナーになってしまうんです。しかも代理店にいたというプライドだけは高いから、始末に負えない。
そうなんですよ。彼等のいう「クリエイティブ」は、日本語訳の「創造すること」や「発想すること」じゃないんですよ。
いかにして、「自慢するか」なんですよ。
で、CMの世界では相手のクライアントが、「企業」ですから、世に漏れなかった。会議室の中だけでの世界でした。
しかし、「オリンピック」という晴れの世界で、「Mr.デザイン」こと「佐野研二郎氏」は同じように、惰性でやってしまった。彼にとっては、こういう仕事の仕方が、「普通」なんです。
もちろん、考える力も発想のノウハウも、強さもないから、最終的な「アウトプット」は「何かに似せる形」になります。何かに似せる、しかも雰囲気だけ…ぐらいなら、いいんです。
「何かに似せる努力」すらやめて、「そもそも画像をそのままネットからパクっていいじゃん!」
「フォトグラファーを使う」「イラストレーター(絵描き)を使う」「タレントを使う」のにも、何をするにも、
それを解消するには、タダで「アウトプット」を創り出すには、いくつかのアイデアがあります。
しかし、最も単純明解に、クリアに、ボールドに、全ての制作費が浮く方法があります。
一番安く、早く、タダで済ませられる唯一のデザイン。
一体なんでしょう。
それは「搾取」です(「パクリ」という言葉は、何となく、「万引き」に似た甘やかしの言葉だと思います。そんなレベルではないですよ、コレは。明らかに「システム」として、「自分の仕事」として、やっています。でなければ、こんなに出てくるはずはないです。)。
デザイナーたるもの、誰でも一度は、パクることはあります。学生時代に、一からオリジナルを創り出せる人間など、いないし、天才でもムリでしょう。「習作の時代」はあります。
「自分の周りへのヒト・カネ」がメインであって、「モノ」(仕事)は、どうでもいいのです。軽蔑された結果なのだと思います。
はっきりと、誰かの作ったものを「奪って、人に提出する仕事」に甘んじてたのだと思います。原宿の事務所のMacintoshの中では、イラストレーターが書いたパンも、誰かのブログのパンも、「一緒」です。
ならば、タダな方がいい。
とすら、考える頭もよぎりません。
まったく自然に「ミスター・デザイン」は、搾取します。無限に仕事がつくれ、永久にカネが入ってくる仕組み…。
思考は確かに「クリア」かもしれませんが、その精神は「ドロドロ」です。
クリエイティヴ・ディレクター、アートディレクターという「肩書き」は、「搾取指示人」なのでしょうか。
「クソ・デザイナー」というカテゴライズで、はっきりと「普通のデザイナー」とは一線を画す社会にしたいものです。
全てのデザイナーこそ、今こそ怒りを上げるべきです。
2015年9月1日、ついに、ようやく、取り下げました。が、凄まじいシロモノの反省文を掲示しました。
ここまで「ひどい謝り方」をできる人間が、いたでしょうか。
帰って来た返事は、「被害者」気取り、でした。
やはり、闇は深い、と確信するばかりです。
もうこれは確実に、しれっとして、またヒョロっと、5年後、五輪のバックで「名前の出ない形」で関わってきますよ。1000%。
絶対に、です。「今を乗りきれば、大丈夫」と思っているはずです。
もちろん、いわれのない誹謗中傷もあるでしょう。それはお察しします。
しかし、博報堂の「営業」の人間は、そういうことで強くなるんですよ。何にも言われないのは、クーラーの効いた部屋で、パソコンと戯れるクソデザイナーだけなのです。
自分の大好きなお仲間たちと、カネをバンバン出してくれるクライアントと、ドラゴンボールやドラえもんを使われても、何も言えないそっちのヒトたちの複雑な気持ち、アニメーター、漫画家、アーティスト、イラストレーターを、笑顔でほがらかに踏みにじってきたわけですからね。アートディレクターって、一体何なのでしょう。
博報堂では、こんなに「謝る」ということは「罪悪」なのでしょうか。
卑怯なのは、「テキスト」ではなく「画像」で謝るということも、そうなんですが、
「リュウミン」を使って、この際も「キレイに、クリエイティヴに、素敵なタイポグラフィ」で謝ろうとするクソみたいなデザイン根性です。
「ニッポンは、世界中から尊敬されている映画監督の出身国だった。お忘れなく。」のあの「ドヤ感」の「薄汚さ」が、本当に蘇ってきました。その「キタナさ」が何一つ変わっていない、どのメッセージでも。
これが、逆にいえば、彼のデザイナーとしての唯一の「統一性」なのかもしれません。
ただ、「ドヤ感満載」のデザイナーだと、仕事になりません。本来ならば…。
こういう場合、「真摯なデザイナー」は、実は、普通の、どこにでもある「そっけない」明朝体を使います。
リュウミンだと、あまりに「美しい書体」すぎて、ほぼ「ウソっぽく」聞こえるからです。
そんな「文字への美的感覚」すらないんでしょうね。表面的に、「キレイ」なら、何でもいい。佐野研二郎。
そもそも本当にデザインを学んできたのでしょうか?疑わしくなってきました…。
皆様が5年後忘れていても、私は「佐野研二郎」という、愚劣な「デザイナー」という肩書きをした「搾取者」の名前を永遠に忘れません。
今は、「炎上」し、「祭り」状態かもしれません。
しかし、私は、もっともっと持続的に追求していかなければならない問題だと思います。
この多くの批判が消え、静寂になり、命を吹き返した頃に、
また愚劣な身内自慢とともに、高らかな搾取とクソデザインのオンパレードが、そっと始まる(reborn)ように思います。
絶対に許してはなりません。本当に。
http://anond.hatelabo.jp/20150902120750
http://anond.hatelabo.jp/20150902160738
トラバありがとう(ブクマくれた方も)。二次創作っていうだけで原作の集客力の恩恵を受けているから、それを自分の実力と勘違いしないようにしたいですね。
少し話は変わるけど、先日コミティアに行った。同人誌自体は今まで結構買っていたけど即売会に参加することは初めてで、間違えてコミックシティ一般参加の大群の中で30分ほど並んだ。その後正しいコミティアの会場に辿り着いたら、あまりにも人口密度が違ってびっくりした。ディズニーランドととしまえんくらいの差はあった。あと、人気サークルって大行列ができてすぐ完売するイメージを持ってたんだけど、コミティアだと超うまい人でも午後まで頒布していて、列ができてもせいぜい5人くらいなんだよね。(あくまでも初参加の自分の見た限りだから、違う場合もあるのかもしれないけど)
そんな部分を見て、元記事で書いた虚しさを強く感じるようになった。あと、いつも投稿に作品名のタグをつけるんだけど、適当に描いたジャンルAではそれを検索して来た人が広めてくれて何十リアクションも行くのに、ジャンルB(21世紀以降も存続しているものの元作品自体がオワコンと化している)では0リアクションということが普通にあって、「もう自分の画力関係なくね」とか思ったり。実際タンブラー見る人は描き手には興味なくて自分の好きなキャラの絵が見たいだけなのでしょうがないけどね。
なんでこんな気持ちになってしまうんだろう?キャラクターが大好きだから描いているはずなのに…マイナーキャラだからどうせ伸びないと思って反応とか気にしてなかったはずなのに、そもそも画力的に最初からリアクションなんて期待してないのに、いつのまにか自分がネット上で見られることばかり考えている。
あっイベント自体は凄く楽しかったです。目当ての漫画も手に入ったし美しいイラストの本も大量に手に入って、本当に幸せでした。
なんというか、自分の中に蓄積したものを一からアウトプットして作品にするって凄くいいと思った。
都内で細々と自営のデザイン屋をやっております。今回のエンブレムの騒動もここにきて(とりあえず)一つの区切りがついたようなので、この一連の出来事において個人的に感じたことなどを忘備録も兼ねて書き留めておきます。
まず、佐野研二郎という人物についてですが、今回の騒動でまぁ国民に広く知れ渡るほどの知名度を得ましたけど、デザイン業界においてはスーパースター的な知名度が元からありました。まぁサッカーの日本代表でスタメンに入るようなイメージですかね。ちなみに僕はJ2にも入れないぐらいですね。サッカー観ないからよく知らないけど。まぁ所詮業界内だけのことを国民的なスポーツに置き換えるのもアレなんですけど。
で、そんな彼がこんな形で騒がれ始めて、まるで自分や自分のやってる仕事に対していちゃもんつけられてるような気になって一人で勝手に心を痛めていたわけです。しばらくは。
今回のエンブレムが発表されて最初に感じた個人的な感想は「これはちょっとやばいぞ」でした。何がやばいかというと、一般ウケしないのは一目瞭然だったんですよ。まぁ皆さんがダサい理由としてあれこれ上げてらっしゃることと同じ理由で。でも選ばれた理由は幾何学的な要素だけで構成された、今後の展開やブランディングを視野に入れてのことなんだなというのは初見でなんとなくわかりました。
とはいえですよねぇ。今回のオリンピック、ボランティアのユニフォームはダッセーって騒ぎになったしスタジアムはまぁあんなゴタゴタですし。もっとさかのぼるとAKBを開会式に出すんじゃねーの?やめてよね!みたいな機運もあったり。もっとさかのぼると、そもそも毎回オリンピックやるたびに選手団のユニフォームがダサいって槍玉に挙げられてるし。もう国民の感情がちょっとでも変なもん出したらただじゃすまねーよって空気が既に醸成されてたわけですよ。
そんななかあのエンブレムでしょ。「こりゃやばいぞ」と思うわけです。
でも正直ここまで大ごとになるとは思ってなくて、なんだかんだいって世間も落ち着いて、そのうちあのエンブレムがいろんな使われ方をして面白い展開がされていくなかで、徐々に世間から受け入れられていくんだろうなと楽観してたんですよね。
ダサいかダサくないかは正直これからの使われ方次第、というのが僕のデザイナーとしての見方でした。
そこにきてあのベルギーの劇場ね。パクりかパクりじゃないかというと、個人的な見解としてはパクりじゃないですねアレは。
ただ、あのときの記者会見で完全な悪手を打ったのは間違いないです。どういうことかというと、デザインのプロセスを素人にもわかるように説明しなかったからですね。
例えを出すと、アルファベットの「E」とカタカナの「ヨ」、ひっくり返ってるだけですごく似てますよね。でもこれらはまったく違う文化と文脈とプロセスを経てたまたまアウトプットが似てしまっただけなのはわざわざ説明するまでも無いんだけど、これぐらい明確に多くの人が納得出来るアウトプットまでのプロセスを開示してくれれば良かったんです。(ダサいダサくないは別な議論として)
ちなみにこの辺りではまだ僕は100%佐野さん擁護の立場でした。
そのあとトートバッグの件とかあれこれパクりだなんだと掘り返されてく騒動を見てて、明らかにいちゃもんだろってのも多かったんですけど、こりゃ完全に黒だわってのもボンボン出てきて。ほんと正直な話をしちゃうと、程度の差はあれネットから無断で画像を拝借して勝手に使っちゃうって経験、ほとんどのデザイナーにあると思うんですよ。
だからトートバッグの頃まではもちろん悪いことだけど同情も禁じ得ないみたいなね。下のデザイナーが勝手にやっちゃったんだろうなーと。だからこの辺までは個々の問題は切り分けて議論すべきという立場で、まだ擁護派でした。
でもそのあとさすがに出てきすぎだよね。僕ぐらい小さな仕事しかしてないデザイナーでも人の目に触れるような仕事では他人の素材を勝手に使うのは怖くて出来ないのによくやるなーと。お客さんによっては「予算無いから素材購入はそっち持ちで。撮影?無理無理www」みたいなのとか「ネットの画像、適当に使っちゃってよ、どうせバレないっしょwww」なんてケースもけっこうあります。やんないけど。でもあれほどのビッグクライアントがそんな予算渋るとは思えないしね。あり得ないよね。
で、佐野氏を結構擁護してた僕なんですけど原案を見て「もうダメだわ」となりました。
だって当初発表していたデザインコンセプト自体が後付けだったってことがはっきりしちゃったので。亀倉さんへのオマージュなんてどこにも無いじゃん!みたいな。あー、どうりで最初の会見でプロセスをはっきり説明出来なかったんだなーと。この時点でもう擁護するのが面倒になりました。心ももう痛まないです。
まぁ結果的に取り下げになったのは佐野氏にとっても委員会にとっても国民にとっても良かったんじゃないかなと思います。というか空港の画像の件、取り下げる理由を探してた委員会としてはとても良い言い訳が見つかってホッとしてるんじゃないかなと。
話がまとまってないけど、あのネットで話題になった扇のエンブレムね。あれを汚いって中島英樹氏は言ったけど、あれはデザインが悪いという意味とはちょっと違いますね。多分だけど。あれはあの丸のレイアウトに幾何学的な法則性がなくて、なんとなく配置してるだけなんですよ。だから揃うべきところが揃ってない。あと配色もなんとなくで決めてるのがわかりますしね。その点佐野氏のデザインは円と正方形のみでちゃんと計算されたエンブレムなので、そういう意味での完成度は明らかに違います。(ダサいダサくないは別な議論として)
最後に「デザインのわからん素人は黙ってろ」というこっち側の人間に多く見られた反応ですけど、あれは呪詛ですよ。絶対にやってはいけない。
僕もネットの心無い書き込みを見て「素人がなんも知らんくせに」という感情が何度も湧き上がったのは正直に告白します。でもそれを言ったらもう終わりなんですよね。わからんやつは黙ってろじゃなくて、わからせるためにこっちは何が出来るか、わかってもらうための努力まで込みで考えてものを作るのがデザイナーやアートディレクターの仕事だと思うんです。
だから出産直前で佐野氏擁護の発言をした森本氏がこれから新しい命が誕生する前になんでこんな呪詛を振りまくんだろうと不思議で仕方なかったです。あれなんて典型的な「素人黙れ」発言だったので。
普段あまり文章を書く習慣の無い人間にありがちな、非常にまとまりのない文章ですみませんでした。
でもデザイン業界側の人間で僕みたいな捉え方してる人ってわりと多いんじゃないかと勝手に思ってるので、多少そんな人たちの代弁ができたんだとしたらいいなと思ってます。
になったね。佐野さんの件でそう思った。
気に入らない相手がいれば、そいつの過去の実績を調べ上げればほこりを見つけることが出来るもんね。
はてなに多いエンジニアなんかはアウトプットしたものが表にはでてこないから有利だよね。
なにか一つバレても過去のものを調べることは一般人には無理だからね。
逆に言うと、嫌われてはいるけれど
http://papuriko.hatenablog.com/entry/2015/08/31/173033
読んだ。ちょうど最近読んだ本と関係ある話だったのでこの機会に紹介しておく。紹介したいのは「岡田斗司夫の愛人になった彼女とならなかった私」だ。
良い意味でタイトル詐欺だった。岡田斗司夫関係の話はこの本のメインではない。それよりもかなりまじめに社会学チックな話をしてる。そもそも岡田斗司夫界隈に関わろうとする時点ですごいバカか逆に非常に意識の高いというか貪欲な人間なのだろうと思っていたがどうやら後者のようだ。単に岡田斗司夫の事件をレポートすることを目的としているというよりは、このチャンスを利用して最大限己をアウトプットしようという気概を感じる。岡田斗司夫が女性を一方的に搾取したかのように感じるひともいるだろうが、どうもしっくりコなかった。それよりも、岡田斗司夫んに群がった女も、一方的にくわれるだけではない、あわよくば彼を逆に食い物にしてやろう、転んでもただでは起きないぞ、というしたたかさを持った人間揃いでないか、という可能性は念頭においても良いと思われる。
さて本書で問題となっているのは、主に男性の、異性に対するコミュニケーション能力や経験の衰えと、それに反比例するかのように膨れ上がる恋愛に対する欲求だ。恋愛ベタになっているのに、恋愛に過大な期待を抱くようになっていき、ギャップがどんどん大きくなっているらしい。現代が男の性的欲求を満たすためにあまりに高度に発達しすぎたせいで、男たちは現実の女性と恋愛するコストやリスクを負担する合理性を見いだせず、それでいてバーチャルでいろんな刷り込みをしているから現実への恋愛に強いあこがれを持ってしまう。コストやリスクをかけず、ときメモのように自分を鍛えることもせず、それでいてバーチャル世界のようなめくるめく恋愛体験や性的体験を求めるというモンスターがゾロゾロ生まれてきている、と。分析だけにとどまっているのが学生っぽいなという印象はあるが、なかなか読ませるつくりになっている。
本書は男性を中心に話を展開しているがこれは女性にも当てはまる話であろう。男女問わず二次元にはまるオタクや、アイドルに貢ぐブームは地続きなのかもしれない。個人的には艦これやら、とうらぶにはまってる人たちについてさすがに気持ち悪すぎると感じていて、そのあたりもわかるかと思ったがこの本を読む限りここでの話とはちょっと違うようだ。オタクの話は部外者には本当に難しい。
また、どちらかというと本書はマクロな話よりも、ミクロな世界としてサークルクラッシャーやオタサーの姫などに関する分析に力を入れており、この部分が面白いのでぜひ読んでみて欲しい。
今回は受け関連。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
作り手の意図をメタ的に読み込む観方は、間違ってはいないが本質を見失うぞ。
もう少し別の視点で観てみよう。
物語の何で笑い、どこで泣くか、仮に正解があるとすればそれを決めるのは作り手だろう。
みんながみんな、生まれてからすぐに物語の受け手として自己を確立しているわけじゃない。
そういう人たちに物語を感じてもらう場合、それを導いてくれるものがあればありがたい側面もあるんじゃないかな。
そういう意図をもろもろに、「演出」というんだと私は解釈している。
受け手として成長し、舌が肥えた君のような客には粗末に映るかもしれないが。
君だってそういうもので受け手として成長させられてきただろう。
世界で話題になった名作が、過剰な売り込みでウザがられたり、作品そのものは変わらないのに印象は変わる。
同じ受け手でもね。
一緒に笑ったり泣いたりする観客が近くにいれば、自分も安心して笑ったり泣いたりできる。
そういうのが気になったりした経験はあるだろう。
そして、周りの影響を一切受けずに作品を享受できる自信が本当にあるのかい?
善悪の話をしているわけじゃあない。
皆が皆、受け手として確固たる自己を確立できるわけではないのだよ。
番組だってそうだ。スタジオに観客がいる撮影方法がいまだ健在なのはそのためさ。
それら演出がなくなるときがあるとすれば、全ての人間がそれぞれ受け手として自己を確立することを要求されるときだろうね。
まあ、もちろんそういう演出のゴリ押しが酷くて、台無しになることもあるだろう。
よってそういう「演出」は有益ではあるだろうけれど、不公平でもあるわけだ。
それらの選別は私が決めることじゃあないがね。
物語をメタから見たとき、登場人物たちの行動には何らかの意味がないといけない。
もしそれらが他の演出や描写で分かるのなら、それを登場人物が喋るのは蛇足になるのさ。
学ぶべき教訓はこうだ。
「蛇足と駄作は紙一重」
一応擁護しておくが、言語化してそれをアウトプットするということ自体はとても大事なことだ。
細田守氏の作品以外だと、クリストファー・ノーラン作の「インターステラー」が最近の映画の中ではいい例かな。
「ウルフに再会できるかもしれない。その小さな可能性が私をかき立てる」とかを筆頭に、登場人物が心情描写を正確に語りすぎていて逆に笑ってしまうかもしれないな。
クリストファー・ノーランは、こういう心情描写を登場人物に細かく語らせたがる癖がある。
そこに着目しながら、彼の他の映像作品も色々と観てみることをオススメするよ。
良作と駄作両方を評論していて、かつ良作判定にした作品の評論文がいかに巧みかだ。
私がいうのもなんだが、駄作がなぜダメかを説明することは、良作で何が良いかを説明することより遥かに簡単だからな。
駄作の評論はダメな要素の共通イメージを持ちやすいため、後はそれを如何に面白くディスるかに注力できる。
それ自体は、そういうものを期待している読み手もいるわけだから構わない。
だが、そうやって面白い駄作の評論を書いている人が、いざ良作判定のものを評論すると、途端に稚拙になるというケースは非常に多い。
なので、私は良作の評論も巧みな人こそ「いい映画評論家」だと思うね。
良いものを良い、悪いものを悪いと言うだけで評論が成立するなら一般人が各々でやればいいのであって、評論家なんていらないのだから。
一応、釘を刺しておくが、映画評論家はもちろん映画を観ているが、読み手の君だって観る(観た)こと前提で語っているからな。
私の言った意味は、クリスファー・ノーラン作品みたく正確に語らなくても分かるよな?
まあ、もし君が他人の評価で作品への印象がコロコロ変わったり、シンパシーの合う評論だけを読んで喜々する人間でなければ、の話だが。
……おっと、仮にそうだとしても責めているわけではないからな。
大多数は、外から何らかの影響を受けている。
「市民ケーン」が放映当時は酷いバッシングを受けていたというのは有名だな。
私としては評論もまた「コンテンツの楽しみ方の一環」だと考えているが、それで個人が本質を見失うようなら勿体無いとは思うよ。
任天堂の岩田聡氏が亡くなったことを聞き、とある男性のことを思い出した。
初めて出会ったのは、とある武道のクラブで小学校低学年の頃だ。
明るく朗らかで、でも平凡な子供だった気がする。
顔を合わせるのは週に一度だけ。
私は、そのクラブをやめたり、もう一度再開したりを繰り返し、彼もまたそんな感じで、終わったらササッと帰っていたので、それほど多くの言葉は交わしてなかったと思う。
同じ中学になって知ったことだけど、彼は学校の勉強が出来るほうだった。
小学校が別であったため、小学校当時の彼の学校での様子はわからないけれど、親経由でオール5をとったという話は聞いたことがある。
私もまた、そういう小学生によくいる、プチ秀才だったので、ふーんという感想しかなかった。
中学での彼も、明るく裏表のなく、私は彼をとても好いていた。
成績は当初、私のほうがよかった。
月並みのように思えた。
普段も、すこし昔の出来事を綺麗さっぱり忘れるし、文系科目は苦手で、記憶力がいいとはとても思えなかった。
でも、時々、ものすごく難しい数学の問題(私にはそう思えた)を解いたりして、普通とは違うかのように思える一面はあった。
学年が進んでも、彼は明るく裏表のないナイスガイだった。
でも、私だけは彼の異常性を感じていた。
人間関係における策略性のなさというべき、人に自分をよく見せようとか、他人を嫉妬するとか、そういう感情の欠如のような感じ。
決して冷たい人間ではない。
むしろ、手品とか、芸のような、みんなを笑わせようという行動はよくしていたけれど、本当にみんなを楽しませようとしか考えてない感じがあった。
クラス会などで、話し合っても答えが出そうもないような時はフラリと帰ってしまう、そういうところがあった。
ある日の授業、どういうわけか、自習になり、コンピュータ室でワープロソフトをいじらされた。
内容は覚えていない。流行ってる歌の歌詞を入力しなさいと言われてたと思う。
当時ベーマガ愛読していた私は退屈していて、その当時覚えたてのアルゴリズムを自分なりに改造して、真っ黒い画面に英単語や記号を並べていた。
幾何学模様が順に描かれていき、消えていく、そんな単純なもの。
その時となりの席だった彼に、なにをしてるのかと聞かれて、ほとんどそのまま答えた。
「ここが変数の宣言で~」「ここからここまでを何回もループさせて~」
映像として動かしたわけではなくて、当時の中学生からみたら、英語のような文字の羅列があるだけに思う、真っ黒な画面で、私はそんな解説をした。
「へー、イコールの記号は数学で使うイコール(右と左が同じ)と意味が違うんだねぇ。」
というようなことを彼が言っていたのを憶えてる。
今でも私だけが知ってる彼の秘密。彼自身も忘れてる彼の秘密だ。
同じ高校に進学して、数学や物理のテストで、彼の才は目立つようになった。
平均点30点代の試験で、1人だけ90点をとってしまったことが彼の名を校内に知らしめた。
でも、私がみる限り、彼は数学にも物理にも興味はなかったようにみえた。
彼の回答は、数学的ではないところがあった。
前提の元に解かれていて、その解が一般解である確認や他に解が存在しないかの確認がされてなかったりする。
目の前の問題を解決することに、答えに辿りくことに興味があるだけで、普遍法則には興味がないのだと思う。
そのことに気がついた時、彼の人の良さの答えがわかった。
目の前の障害をクリアすることにしか興味が無いから、他人を蹴落とそうとか、他人に嫉妬するという感情がないのだ。
問題を解決するためのアイディアを提案しあう話し合いでは強くても、参加者が気持よく賛成できる落とし所を考えるような話し合いでは帰ってしまうのだ。
彼が私に、彼の彼女に「「わかっちゃいるけどやめられない」と言われ、「それわかってないんじゃん」と笑ったら、怒られた」
と愚痴をこぼしたことがある。
私は彼のことが大好きだけど、私が女だったら絶対にこの男とゲットしたいと思うけど、世の中の女の受けは最悪だろうな、と思った。
彼が結婚披露宴に呼ばれたとき、思わず私は彼の結婚相手の女性に
「彼の良さがわかる女性がいて、本当に嬉しい。」
後に彼に、「嫁が私にかけられた言葉をとても喜んでいた」と教えてくれた。
彼自身は、その言葉がなぜ彼女を感動させたかわからず不思議そうに報告してくれた。
私の友人の話はここまで。
リーダーシップとはなんなのかを考える。
リーダーがバラバラの方向を向いた各メンバーの進行方向を、みんなの意思を、前に向ける仕事であるならば、私の大好きな彼は絶対に向かないと思う。
各セクションのメンツや気持ちを考慮して、気持よく「イエス」といえるような空気作り、そんなことは彼に出来ない。
もう中年に足を踏み入れつつある今でも、そんなことが世の中で行われていることすら気付いてない。
みんなの気持ちを調整して、みんなが気持よくイエスといえるような会議の進行は、会社の運営は出来ない。
理詰めで、冷徹に人を切るようなこともしない。
問題の本質を見抜き、凡人が、「これしかない、これが最良」と思える答えのその向こうにある、本当の答えに最速でたどり着く。
各セクションの内情など、わからなくても仕事を割り振りできる。
インプットに対するアウトプットさえわかっていれば、自分が知らない分野のスペシャリストだろうと、外部の組織だろうと、使いこなすことができたのだと思う。
『多摩美統合デザイン学科の学生として思うこと』という記事に対する考えを述べようと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20150821111821
・"最初に自分があのエンブレムをみたとき、直感的にかっこいいと思いました。シックで、いままでのオリンピックエンブレムをは一線を化すような新しいデザイン、
新しい東京のイメージを担ってくれるような力強いものに感じました。"
・"現状では異端であるもののそれがこれからのベーシックになっていくはず"
『多摩美統合デザイン学科の学生として思うこと』の筆者は上記の様な内容を、エンブレムが批判されるべきではない理由としてあげています。しかし、どれも論理的ではなく、感情論でしかありません。
デザインとはある程度の理論が存在し、その上にビジュアルの様な表層に見えるかたちを構成するものです(私が学んだことが正しければ)。"直感的"、"シック"、"新しい"、"東京のイメージ"といった感覚的な部分を持ち出し、それを理由として扱うのには無理があると考えます。
私個人の見解でエンブレムの評価に価する点を述べるのであれば、ロゴが”展開する”という部分でしょう。文字への展開、ピクトグラムへの展開、映像への展開など、様々なメディアへの仕組みこそがこのエンブレムの本質だと思うのです。これらの展開する仕組みの齎す価値は不動のものだと考えます。佐野さんの会見でのプレゼンテーションに寄っては、印象が大きく変動したように思えるし、ビジュアルの印象が良くない点が今回多く取り上げられていると思いますが、それはモチーフが曖昧であること、形に込められている意味が表層に現れていないことなどが原因ではないかと推察しています。著名なデザイナーの方や、デザインを学んでいる学生などがこのロゴを批判しないのは、単なる擁護ではなく、ロゴの仕組みを推察し価値を見出しての意見だと考えておりますが、もちろん一般にその仕組みをプレゼンテーションすることや、ビジュアルに仕組みを表すこともデザイナーの仕事であると思っております。その点は佐野さんの今回の会見は残念で致し方ありません。
筆者はデザインを感覚のみで捉えているような意見しか述べていなかったので、理屈的な部分を理解していないのだと考えています。表層的な部分を見て判断するのであればデザインを学んでいる学生としての視点にすら及ばないと思われます。
現在確認したところ記載内容を削除されておりましたが、"情報デザイン学科は、先端技術を用いて新しい可能性を模索することに力を注いできたが、”ただ新しいことをする”学科に陥っている。卒業制作展を見に行ったが、アニメーションのクオリティーは低いし、キネクト使ってることがすごいというアピールをしているかの様で気持ち悪かった"
というのが大まかな筆者の内容です。
筆者は、”なにかから影響を受け、文脈が形成されていくことを「パクリ」の一言で否定しないでください。”とも仰っています。
情報デザイン学科の卒業制作展に赴き、感覚的に得た情報(クオリティーが低い、気持ち悪い)を持ち出し学科自体を批判していることは、ロゴをパクリだと批判している意見と違いはないように思えるのです。
根本的に考れば、"学科が失敗"することの定義が曖昧であり、失敗ではない例とはどのような存在かを述べていませんし、統合デザイン学科の"ベーシック"を学ぶこと()は成功したという実績が存在するのでしょうか?対として情デが"新しいことをするだけの学科”であるとすれば、統合は"ベーシックしかしない"ということになりますし、発言が軽率であることは確実です(削除されたので自覚したとして捉えていますが)。この意見がロゴ批判と違うと思うのであれば、もう少し理屈で語っていただきたいと考えました。
デザインは感覚がすべてではありません。機能を意図的に含めた様々なアウトプットがデザインです。それを学んだのが情報デザイン学科でした。
今回取り上げさせて頂いた記事があまりにも破綻しているように思えたので、書かせていただいた次第です。
長々と書きたくなかったのですが、文才のない私にはこれが限度でした....。
乱文ではありますが以上が私個人的な意見です。ありがとうございました。
とのことでしたが、情報源はどちらですか?これもまたネット批判の悪い点と同じで、情報源を明示することや自身の理屈の元で意見として述べるのであれば良いと思いますが、それが事実かどうか、何故そう思うのか、という所を明確に述べないまま批評するのは、"なんとなくロゴがかっこ悪い"、"多分パクリ"、と言う方々となんら変わりはないと考えています。誤情報が錯綜するのがインターネットですが、発言する際に少しの考えを載せるだけでも変わるのではないでしょうか。
人が製作した作品に対して、展示を見に行っただけで"クオリティが低い"と述べる方は、本当にその作品のクオリティーを見ているとお思いでしょうか。文脈によって形成されるロゴを否定しないで欲しいと本人が述べているにも関わらず、文脈の見えない視点から人の成果物批判をしていては矛盾が生じます。それがデザインを学んでいる方のするべきことでしょうか。ちなみに私は、クオリティは感覚であると述べている訳ではなく、引用元の筆者の述べている内容は感覚的に捉えたクオリティだけであると述べているのです。背景などを読み取らずに捉えたものが"クオリティ"であるかすら疑問ですが、私自身は文脈を含めてのクオリティであると認識しています。
彼のデザインの何が良いのかさっぱりわからないという人たちへ。
ひとつ間違えて欲しくないのは、彼は「デザイナー」ではなく「スターデザイナー」というお仕事をしているということ。スターデザイナーのデザインを審美的な視点で見ても意味はない。
広告代理店はスターデザイナーがいたほうが仕事を取りやすい。クライアントもスターデザイナーがいたほうが依頼をしやすい。若いデザイナーにとってスターデザイナーのおこぼれはありがたい。リクルート的にも憧れのスターデザイナーはいて欲しい。安心、ブランド、憧れ、そういったものがあったほうが仕事は楽なのだ。業界の構造的にスターデザイナーは必要とされている。それだけではない。
業界は盛り上がりが欲しい。社会的にいかに広告やデザインは素晴らしい仕事か、存在するに足る職業かをアピールできなくては人やお金は集まらない。ただの人の発言には注目は集まらない。だから嘘でもスターが必要になる。アイドルグループにセンターが必要なように。わかりやすいアイコンがあり、それが魅力的ならば人は集まってくる。業界の社会的地位のためにもスターデザイナーは必要とされている。
必要だからスターは作られる。スターの実際のアウトプットは本当にすごくなくてもいい。代理店や業界紙がそういうことにすればいいのだ。あなたがスターの作ったものに首をかしげるのは当然だ。アイドルが幻影でしかないようにスターもまた幻なのだから。
しかしこれは業界内だけの話ではない。インターネットがこれだけ社会に浸透し、すべての価値が相対化される世の中でも、人はどこかに「絶対的にすごいこと」があって欲しいと希望している。そういう需要に、業界は「すごいこと」に見える幻を作り出して応えているだけなのだ。だから権威をつくり、賞をつくり、賞を与えて、スターをつくる。
しかし私たちはすでに知っている。相対化された世界では、どこの誰とも知らない誰かが与えた評価に意味はない。賞レースは身内の馴れ合いゲームでしかない。うんこをしないアイドルはいない。
でもね。メジャーがなければマイナーは立たない。メインがなければサブは光らない。王道がなければ邪道もない。身も蓋もないことを言ってはロマンがないのだ。嘘の世界のほうが夢があるのだ。そして夢で膨らんだ幻は金になるのだ。
あなたにはスターデザイナーの作ったものの価値はわからない。インターネットの中にいるから。スターの価値は相対化してはいけない。
彼の仕事の評価を声高に問うあなたは、正義を行っているのかもしれない。でもその行いは社会から夢やロマンを剥ぎ取っていくことになる。
事務作業の手が足りないからと言って派遣社員を安易にとるのはやめたほうがよい。
4時間で終えられる仕事があったら、4時間きっちりで終わらせる。
延びてしまって5時間になることはあっても、3時間や2時間と早く仕上げることはまずない。
教えた手順の通り、マニュアル通りに業務をこなして、標準の作業時間で仕事を終える。
その点については短期的にはまったく問題はない。
しかし、仕事はこなしていくにつれて学習や経験により効率化が図れるもので、
業務プロセスの改善や管理手法の改善でも処理スピードは上がるものだ。
いままで4時間かかっていた仕事が、ちょっとした工夫で2時間で片付くようになる、
データ処理などはちょっとしたツールの開発で作業時間が10分の1以下になったり
することもある。
ただ、そうなってしまうと困るのは「決められた仕事」を「決められた時間」で
こなしている派遣社員だ。
彼らは拘束時間で給料が決まるし、効率化で人員に余裕ができると契約更新はされない。
効率化で人手不足が解消されるのだから当然と言えば当然のこと。
しかし、短時間では絶対に終わらせない。なぜか、旧来のプロセスでもう一度行って、
確かめるという謎の行動をとる。
また、私語や離席、休憩時間の取り方が増えたりと目に見えて明らかに怠惰になる。
効率がよくなっているにもかかわらずアウトプットは変わらないままというマイナスの
結果になる。