文章を書く能力というのは、人間にとって最重要であり、その他の能力たとえば絵が描けるとか料理が上手いとか科学実験のカンがいいとかの技能や能力よりもはるかに上位である。言うなれば、文章が書けない人の存在価値はゼロである。なぜならその他のすべての能力やアウトプットというものは、すべて言葉を通じて他人に伝えられなければ価値が発生しないからである。価値が無ければ社会的にも経済的にも生存することが困難になる。
芸術や食事やコミュニケーションはそれ単体で価値があると信じたくなるが、不思議な事にそれらの価値は言語で報告されなければならないのである。言語で書かれた小説が文学賞を受賞したときに、ではその内容や喜びをダンスで表現してくださいなんて言われることはないが、芸術作品が受賞した人には喜びの「言葉」が求められるのである。言語に比べその他の能力は、極めて非対称なのだ。
言葉でしゃべることも重要かもしれないが、時間と空間を超えて無数に拡散して伝えることのできる文字列にその価値は及ばない。テクノロジーが進化して動画配信が容易になったこの時代であっても、申請や報告や社会のやり取りは必ず文書である。
つまり、文字を書く能力というのはすべての能力に対してAND演算、掛け算で効果が数値化される能力であり、つまり文字がかけない人というのは、ゼロが掛けられるので価値はゼロなのである。
私は、ものを作ったり調べたりして、その結果をおしゃべりで情報をやり取りすることがとても好きで、それなりに能力を発揮できていたと思う。しかし文字列を読むことが極めて困難な障害があり、特にパソコンに文字を入力するときに困難さが伴い、普通の人なら小一時間で書けるらしい書類であっても猛烈な疲労とともに一週間程度はかかることがザラである。
そのためか、文章を書けないことで人生の多くの部分で、信頼を失い、落胆され、結果を残すことができないでいる。若いころ、文章を書くというのは人間の能力の一部であると信じていたし、文字が発明されたのは人類の歴史上ほんの最近なのだからそれ以前のことを考えれば、文章を書くことが人間の価値をゼロにまで落とすだなんて想像もできなかった。しかし、実際はそうではなかった。自分の価値はゼロだ。
だからあなたがもし、芸術家やスポーツ選手や技術者を目指しているのであれば、その専門的な技を磨く時間にすべてを注いではいけない。文字列で報告できる能力を同時に培わなければならない。誰かツーカーな上司が守ってくれている間は、言われたことをやっているだけで喜んでもらえるかもしれないが、指導的な立場になったり、誰かに意見を求められるようになるともはや技だけではダメなのである。それどころか、スキルは文字列に信頼を与えるための肩書程度にしかならないのである。
むしろ文字列さえ書ければ他の能力は殆ど無くても問題がない。なぜなら文字列を書けなくて安く買い叩かれている人苦しんでいる人が、世の中には多くいるからである。彼らのアウトプットを頂いて、それを文章にまとめて広めてあげればいいのである。文字列以外、作りだす必要性はないのである。
http://anond.hatelabo.jp/20150920131141 あくまで筆記と文字が存在することを前提として述べるならば、という定義が抜けている。 上記がない場合絵文字は象形文字として最初に存在したし、絵は...