今回は受け関連。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
作り手の意図をメタ的に読み込む観方は、間違ってはいないが本質を見失うぞ。
もう少し別の視点で観てみよう。
物語の何で笑い、どこで泣くか、仮に正解があるとすればそれを決めるのは作り手だろう。
みんながみんな、生まれてからすぐに物語の受け手として自己を確立しているわけじゃない。
そういう人たちに物語を感じてもらう場合、それを導いてくれるものがあればありがたい側面もあるんじゃないかな。
そういう意図をもろもろに、「演出」というんだと私は解釈している。
受け手として成長し、舌が肥えた君のような客には粗末に映るかもしれないが。
君だってそういうもので受け手として成長させられてきただろう。
世界で話題になった名作が、過剰な売り込みでウザがられたり、作品そのものは変わらないのに印象は変わる。
同じ受け手でもね。
一緒に笑ったり泣いたりする観客が近くにいれば、自分も安心して笑ったり泣いたりできる。
そういうのが気になったりした経験はあるだろう。
そして、周りの影響を一切受けずに作品を享受できる自信が本当にあるのかい?
善悪の話をしているわけじゃあない。
皆が皆、受け手として確固たる自己を確立できるわけではないのだよ。
番組だってそうだ。スタジオに観客がいる撮影方法がいまだ健在なのはそのためさ。
それら演出がなくなるときがあるとすれば、全ての人間がそれぞれ受け手として自己を確立することを要求されるときだろうね。
まあ、もちろんそういう演出のゴリ押しが酷くて、台無しになることもあるだろう。
よってそういう「演出」は有益ではあるだろうけれど、不公平でもあるわけだ。
それらの選別は私が決めることじゃあないがね。
物語をメタから見たとき、登場人物たちの行動には何らかの意味がないといけない。
もしそれらが他の演出や描写で分かるのなら、それを登場人物が喋るのは蛇足になるのさ。
学ぶべき教訓はこうだ。
「蛇足と駄作は紙一重」
一応擁護しておくが、言語化してそれをアウトプットするということ自体はとても大事なことだ。
細田守氏の作品以外だと、クリストファー・ノーラン作の「インターステラー」が最近の映画の中ではいい例かな。
「ウルフに再会できるかもしれない。その小さな可能性が私をかき立てる」とかを筆頭に、登場人物が心情描写を正確に語りすぎていて逆に笑ってしまうかもしれないな。
クリストファー・ノーランは、こういう心情描写を登場人物に細かく語らせたがる癖がある。
そこに着目しながら、彼の他の映像作品も色々と観てみることをオススメするよ。
良作と駄作両方を評論していて、かつ良作判定にした作品の評論文がいかに巧みかだ。
私がいうのもなんだが、駄作がなぜダメかを説明することは、良作で何が良いかを説明することより遥かに簡単だからな。
駄作の評論はダメな要素の共通イメージを持ちやすいため、後はそれを如何に面白くディスるかに注力できる。
それ自体は、そういうものを期待している読み手もいるわけだから構わない。
だが、そうやって面白い駄作の評論を書いている人が、いざ良作判定のものを評論すると、途端に稚拙になるというケースは非常に多い。
なので、私は良作の評論も巧みな人こそ「いい映画評論家」だと思うね。
良いものを良い、悪いものを悪いと言うだけで評論が成立するなら一般人が各々でやればいいのであって、評論家なんていらないのだから。
一応、釘を刺しておくが、映画評論家はもちろん映画を観ているが、読み手の君だって観る(観た)こと前提で語っているからな。
私の言った意味は、クリスファー・ノーラン作品みたく正確に語らなくても分かるよな?
まあ、もし君が他人の評価で作品への印象がコロコロ変わったり、シンパシーの合う評論だけを読んで喜々する人間でなければ、の話だが。
……おっと、仮にそうだとしても責めているわけではないからな。
大多数は、外から何らかの影響を受けている。
「市民ケーン」が放映当時は酷いバッシングを受けていたというのは有名だな。
私としては評論もまた「コンテンツの楽しみ方の一環」だと考えているが、それで個人が本質を見失うようなら勿体無いとは思うよ。
今回はピックアップ関連。 真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。 Q.「嘘と虚構を」といいますが、割合としてはどれくらいですか。 正確に出せと言わ...