はてなキーワード: アウトプットとは
付き合う→同棲→お別れ(同棲解消)→友達となり、最近はまた良い関係になってきて、復縁したいな…と考えていたところに、
向こう(モテる)が他の方から猛アタックをされ、結果、付き合うことになったということで
私(モテない)とは完全なお別れとなりました。
そんな経験から気持ちの整理ということもあって、同棲しようとしている、しようと思っている皆さんへ、
お節介を語ってみようと思った次第です。
・同棲って意外となんとかなるよ
不安に思ってることは、愛情があればなんとかなっちゃうなあもんだなあと思いました。
炊事、掃除、洗濯、お金がない、大抵のことはなんとかなっちゃいます。
広い部屋なんか借りれなくても全然大丈夫です。
愛ってすごいです(すごかった)
同棲をはじめて少し経つとまるでもう結婚しているような感覚に陥いるんですよ。
同棲生活が長く続けば続くほど結婚を意識しつつも、踏み切れずにいました。
でも別れって突然やってきますよ。
そのタイミングがたぶんベストな結婚のタイミング(なはず)なのです。
・同棲を解消する時
想像してみてください。
引っ越し先をそれぞれ決める、今使ってる生活用品をどっちが持っていくか分ける、引っ越しまでの間の気まずい生活、
などなど悲しい(或いは怒りの)気持ちのまま、これらを二人で協力して進めなければいけません。
これはかなり大変です。
それと、引っ越し屋さんを見積もりに呼ぶのもちょっとだけ気まずいですよ。
だって、これとこれはこっちの家、これはあっちの家って説明しないといけませんからね。。。
・同棲を解消して。
圧倒的な孤独感に溢れていました。
二人で使っていた物が一人の生活空間にあるわけですから、ふとした時に悲しみが襲ってきます。
時間が解決してくれますが、ある程度時間が経つまではなるべく一人でゴハンを食べないように
新しい恋人がいるのが一番いいんでしょうね…。
いかがでしたでしょうか。アウトプットしてみて強く思ったのは、やっぱり結婚ってしたいと思った時に
するべきなんだなと言う事です。
もっと相手のことを見極めてから?同棲しようと思った時点でその方はきっと結婚に値する方ですよ。
経済的な自信がついてから?そんな保障なんて誰にもありません。保障もないのに待たせるなんて時間の無駄ですよ。
○○が不安?それが解消する保障はあるんですか?保障もないのに待たせるなんて時間の無(略
ずっと一緒にいたいならすぐに結婚しちゃいなさい。
はあ、ビール飲んで寝ょ...
昨日オープンキャンパスで借り出されて、高校生や中学生相手に話をし続けていた。
疲れた。
やりたいことは明確である必要はないし、やりたいことの一つ、というくらいでいい。
例えば、医療関係のことをしたい、でも薬学部はなんか違う、ということを言っていた女の子は、ウチでやっている研究もつながるよ!!むしろロボットだって医療につながる(サイバーダインの介護ロボの話した)し、目的があるならば手段は色々あるよ!! という話をした。
自分の研究と全くかぶっていなくても、〜やりたいです!!という人には、この研究室ならやっていると思う、と紹介することができる。
逆に、生物になんとなく興味を持った、という人や、とりあえず来たでーという人には、どういう話をすればいいかわからず、自分の研究の話をせざるを得ない。
そして相手に響かない可能性が高い。悲しい。
物理やりたい、とかでは無く、物理を使って何がしたい、という感じで具体性を持たせること。 ある程度相手に合わせた内容だとなお良。
パクリだの何だのと言われてるけど、パクリではないと個人的には思う。
デザイナーがロゴを作る考え方のプロセス上で、必ず一度は考えうる形なので。
(それは独創性無くてダメじゃね?という話は一旦脇に置いておく)
案外気づいてる人少ない気がするけど、あの形にはTとLの形が共存してる。
2文字以上の要素をロゴマークに共存させる考え方はデザインにおける常套手段で、
2人のプログラマーが似たような動作を要求されるソフトウェアを開発するときに
プログラムのプロセスが似ていたとしてもパクリとは言われないだろう。
所謂ゴシック的(※1)なサンセリフ体を元にしてあの形を組むとただの罫線だ。
色分けするのもアリだが、白黒で使われるシチュエーションを考えるともっと
パっと見て判る物がいい。
そうなると、もっと書体として判り易いセリフ体を元にしたツメ方になっていく。
形を組み合わせ、出来る限り余計な線を排除し、シンプルに、シルエットでも判るように。
どこかに日の丸を組み込むと64年の亀倉先生へのリスペクト(※2)にもなる…。
と考えて行くとあの形にたどり着くのは容易に想定される。
このプロセスと似たような形をベルギーのデザイナーも踏んだはずだ。
中村勇吾が言う「すごく基本的な形態の組み合わせのシステム」というのはこういう事だと思う。
言わないよね。デザインを説明するなんて、芸人がボケを説明するくらい恥ずかしいもの。
だから精神論に走ったり、凄い人だからパクらない!みたいな言い方になる。
それでは少しも擁護になっていないのだが、どうしても一言言いたかったのだろう。
こういう時は黙っておくべきだ。本人のように。
まあ、本人自身は「パクリではありません」の一言くらいはあるべきだけど。
そんな訳で「ありがちなアウトプットなのでパクリではない」が答えだと思う。
(この"ありがち"っていうのも同業者が変な擁護論に走ってる一つかな)
同じ答えを誰かが言ってた気もするけど、自分も書き出してみたくなった。
以上。
アウトプットの定義がはっきりしていない仕事は非常にやりづらい。
これを初めて実感したのは3年前の新人のとき、忘年会の幹事を任されたときである。
弊社(大企業情報システム子会社)の忘年会では毎年案件の内容をパワポにし紹介するのが恒例なのだが、そのパワポづくりがはっきりいって大変だった。
中途半端にワーク・ライフ・バランスがいきわたっている弊社では、先輩方は「パワポなんか最低限でいいよ」といってくれる。そうはいっても手を抜いて作るのは新人的にはない。そして新人の精一杯水準でパワポを作ったら、幹事団である先輩方の最低限にはどうやら満たないらしくダメだしをされる。
自分たちなりに、昨年レベルを満たす自分たちなりに考えた精一杯のものを完成イメージとして作成して見せているのだが、先輩方のイメージとは違うらしく出すたびに駄目だしされる。
正解のみえないパワポづくりを続け、レビューのたびにダメだしを食らう毎日。新人の頃は疑問ももたずにおこなっていたが、今考えると上の人に見てもらって承認を得るというのが必要なのならば、上の人は完成イメージをはっきり提示することが義務であると思う。
まあ忘年会の幹事なんかでなく実際の仕事では完成イメージをはっきりさせるのも仕事の受け手側のやるべきことであるが、しかしそれでも比重としては依頼側のほうが大きいはず。頼むだけ頼んで出てきた成果物に文句をいう、なんて態度では依頼側はいけませんよーという話。
ゴミ屋敷に住んでました 物を捨てたらスッキリしました 経済的にも落ち着いて貯金もできました おまけにダイエットも成功しました
的な感じになってますけどね、、、。
これって、元の部屋が汚部屋だっただけじゃない?ゴミを捨てただけじゃない?
ついでにいうと低収入のくせに、部屋もゴミまみれのダメ人間だったのが、ゴミだけは捨ててすっきり。みたいな?
って、元の部屋には、ゴミかガラクタしかなかったわけだから、そりゃそれを捨てれば見た目はミニマリストでしょ?
という感じ。
なので、内面に迫ってない。
たとえば、元もとそこそこ綺麗な部屋に住んでて、収入もちゃんとしてて、デブでもなくて。
でも、どうも最近物が多いし、片付けるのに時間がたくさん取られる。みたいな人がミニマリストになりました、という体験談は日本では少ないんじゃないのかな?
例えば、カメラと旅行が趣味で、エクササイズもしてて、今度はトライアスロンもしたい、家族もいる。なんて人がいたら物はどんどん増えますよね?
そういう人が物を減らすには、内面のやりたいことを変えないとだめ。つまりインサイドアウトの流れで変えないと。
本質に手中することで、内面のやりたいことも絞り込んで、より厳選されたことにフォーカスすることで、高いアウトプットを出すみたいな。
こういう人に参考にある記事とは本ってないですかね。
ゴミ捨てて、ガラクタ捨てて、なんにもない部屋で、水だけ飲んで、収入も支出も質素に、なんてのは、働くのやめて、生活保護でもうければ誰でもできるので、実行するのに障壁なんてないわけですよね?
国立競技場やロゴマークの件で思うのは、(少なくともネット上の)日本人がプロを全く信用していないんだな、ということ。
ザハは建築のノーベル賞と言われるプリツカー賞を取っているし、佐野研二郎も様々な実績やヒット企画を打ち出して来た人である。
少なくとも芸術面では超一流という評価をもらっている人たちであって、そのアウトプットには一流の人としてのクオリティがあるに決まっているのに、
ド素人共が寄ってたかって叩いていて本当に醜い。どっからその自信が湧いてくるんだろう。
挙げ句、ロゴを戻せだの、日本らしいデザインにしろなどと叫んでいる。
これって「サムスミスがグラミー賞を穫るのはおかしい。俺にとって分かりにくい音楽はだめ。三代目JsoulBrothersが穫るべき。」
って主張してるのと何ら変わらないと思うんだけど。
デザインしたのも選んだのも一流の人なんだから、信頼しろよ、納得しろよ、と思う。
プロを尊敬することをやめたら、あとには安っぽいドンキホーテのような社会しか残らない。
日本なんて所詮アジアの後進国だからそれがお似合いなのかもしれないけどね。
俺はオタクダ。知識にかけては自信がある。インプットばかりじゃなくて、いつかはオリジナリティあふれるアウトプットをしてやろうと狙っている。
だから、俺より先に稚拙なオリジナリティで世に出た奴は徹底的にたたく。パクりだと指摘する。たった一コマ、一行、ひとつのセリフを俺の知識をもってして、パクリだと突き詰めてみせる。そんな俺に判る程度のパクリで、俺をだまそうなんて片腹痛い。俺の考えるオリジナリティは本当にオリジナリティにあふれているんだ。お前が安易に世に出ようとしてパクったのとは志が違うんだよ。むしろ、お前のパクリを見つけて糾弾するのは、オリジナリティを持っている俺の義務だ。お前のようなパクった奴が俺より先に評価を得ようなんて言うのがおかしいんだよ。評価した奴も同罪だ。どうして俺のオリジナリティに気付かないんだ。俺に一言声をかけてくれたら、すごいものを書いてみせる自信がある。
今日もまたアイディアを思いついたが、まだ温めておいて、他のアイディアと組み焦ることで、さらなる完成度を目指していこう。パクッてる連中なんて、後から簡単に追い抜ける。
小町に相談できることでもないので、ここに書いて王様の耳はロバの耳気分になろうかと思う。
長年つきあった挙句破局した彼のブログやツイートを、もう3年以上もチェックしている。
彼とは同じ業界に(今でも)生きている。優秀で、闊達で、でも闊達過ぎて、アウトプットすることにほとんど関心がなくて、私から見ても明らかに業績が少ないという人だった。
でも、彼のことを知っている人は彼が優秀であることを知っていたし、私もそれが誇らしかった。
どう考えても彼よりも劣る同輩や後輩が出世していくのを見て私は歯がゆく思っていたけれども、彼は気にしていなかった。たぶん今でも気にしていないと思う。
私は彼のことが大好きだった。心の底から愛していた。
でも、彼は私に不実を働いていた。
私は彼を許すつもりだった。最終的には。
でも、今にして思うとなんでそんなことをしたのか、私は彼の本当の気持ちを試そうと思ったのか、私は別れを告げたのだ。
彼は、その後、やり直したい、という心情をつづった手紙を送ってくれた。
私は、それでは納得できない、と答えた。
なんでそんなこと言ったのだろう。
その後、そのままの状態で3年が経っている。
でも、彼は、今でもツイートをしたり、ブログを書いたりしている。
別れた直後はさすがにしばらく何も更新しなかったけれども、その後、なにごともなかったかのように再開している。
傍から見れば、一時期忙しくて更新できなかったのだろう、と思えるくらいの短い期間だったけれども。
私は、それを見てしまう。
なんで見るのだろう。
私の身辺は、この3年で激変した。
職を得ただけでなく、ヘッドハントされて出世した。同年代のなかでは一番の出世頭だ。
新しい彼氏もできた。お互い年齢も年齢なので、結婚を考えている。
素敵だし、優しいし、なにしろ優秀だ。
そして、なんといっても、元彼と同じ体臭がする。
彼を抱くたびに、元彼を思い出す。
世界で一番素敵だった、あの彼を。
今の彼のほうが素敵なんだ、優秀なんだ、そう思っている。
そう思うたびに涙が出そうになる。
別れる前と、後とで、内容はあまり変わらない。
今までみたいにバカバカしいことを書きながらも、専門分野に関することでは面白いことを書き続けている。
だけど、一つ変わったことといえば、別れた後、私の誕生日には、意味深なことを書いている。
どういうつもりなのかな。
私のこと気にかけているのかな。
私があなたのブログやツイートを見続けているのは、不遇のあなたが、(私は成功したのに)不幸でつらくて惨めだということを見て、ああ良かった、こんな人と一緒にならなくて、と思うためじゃないの。
あなたが、一度でも、不幸でつらくて惨めだということをつぶやいてくれたら、私、今の全てをなげうってあなたのところに行くよ。
だって、今のままじゃ、お互い別れてよかったね、幸せだったね、ということになるじゃない。
そんなのいやだ。
【追って】ごめんなさい。明日消します。すぐ消すとせっかくいろいろ嬉しいことを言ってくれた人たちに申し訳ないので。
おっさんくさくてごめんなさい。
【追って2】 今彼とは別れます。
なんか妻の言うところの恋とか愛とかいうのがわかってないっぽい。
ペットとかに注ぎ込む感じの類の割と上からっぽい愛情とか、子供かわいいなあとか、
そういうは感覚としてわかるつもりなんだけど、異性を恋人として~みたいなのがどうもよくわかってないんじゃないかと自分でも思う。
妻から
「あなたは友達としてはすごく面白くていい人だし、あなたのことは好きでいたいと思うけど、
恋人や夫婦としてあなたと一緒にいると愛情が感じられなくてツライ。
それがたとえ病気(発達障害)のせいだとしても、もうしんどい。」
と言われてしまった。
「好いてくれてるのはよくわかるんだけど、なんか違う」と言われてしまったが、
でももう精一杯表現しているつもりなのでこれ以上どう表現すればいいのかわからなくて『?』を浮かべてしまう。
週末に、泣きじゃくる妻をなだめながら、
何が問題点なのか探ろうとして色々話したり紙に書いたりしたけど、問題の発生パターンとしては
妻が「愛情があれば当然こうしてくれるだろう」と期待している行動を俺がとらないことで妻が疑問や不満を持つ。
↓
妻から「なぜこうしてくれないの?」といったことを言われるが、
なぜそうしなければいけないのかがさっぱりわかってない俺が「えっ?なんで?」といった質問を返したり「○○だからこうしたよ」といった返事をする。
↓
まさかそんな(当然だと思っている)ことで必要性をそもそも理解していないっぽい返事がくるとは思っていなかった妻が混乱したり諦めたりする。
みたいなことが日常の中にありすぎるらしい。なるほど、確かに疲弊しそう。
色々話してわかったのは、
「妻が抱く感情の中に、俺が理解できていない感情があるっぽい」
「妻は何か俺がしているのとは別の形での日常的な愛情や好意のアウトプットを求めている」
「教えてもらうと表面上、妻の求める愛情表現のフリはできるが、根本的な部分がわかっていないのですぐにボロが出たり、
かなり俺が我慢を強いられる形になってストレスを感じたりしている様子を見て、
妻は『ああ、わかってないんだな』と感じて愛情がないように感じたり、余計むなしくなる」
「言えばすぐやってくれるけど、言わないとやってくれないんじゃ意味がない」
といった感じ。
そしてそんな状況だったのに
「(発達障害が判明したり給料が下がったり)課題は色々あるけど二人仲良く幸せに暮らしている(未来は明るいゼ☆)」
俺としてはなるべく一緒に過ごす時間を増やすようにしたり、娯楽を楽しんだり、
ちょっとしたことで気を遣ったりねぎらったりみたいなことをしてきたつもりなんだけれど、
うーん、やっぱり妻の言うような恋人と友達の差とやらが俺にはよくわからない。
恋人=セックスしてもいい仲のいい友達で、不義理なことをすると何らかのペナルティがあるもの
といった形で、恋人も友達の延長線上のもので、立場に名前がついてちょこっと昇格した感じだとしか認識できていないのがそもそもダメっぽくて、
なんか妻と話してると、『恋愛感情』と『友達として好き』の間になんかよくわかんないけどすごい断絶があるっぽいんだけど、俺の中でそこは完全に地続きだ。
思えば、あの子が(恋愛的に)好きだ、みたいな主体性あふれる感情をあんまり持ったことが、まだないのかもしれない。
いつも、その時一番仲良くしてた女子からある日突然告白されて、彼女の枠が埋まってなかったら受け入れて、
でもまあ俺の側の関わり方は別に変わらなくて、キスやセックスとかするようになったのと、一緒にいる時間が増えたかな?みたいなパターンばかりだった。
物語の中で出てくる恋愛表現も、登場人物の感情の動きや行動原理にこれっぽっちも共感できなくて、みているのが苦痛になることが多い。
そんなノリの交際を8年ほど続けて、年齢的なこともあるし世間的には結婚ってのをするのがええんやろ?っていう気持ちで結婚してしまったのが失敗だったのか?
結局、二人でいくら話をしていても、根本的なところが理解しあえなくて平行線なので、
間に立つ人を用意しないと話し合いが成立しないから無駄だね、というところに落ち着いて、その後仲良く外出した。
なんかこう、圧倒的に俺の脳が未熟なのかなあ……。
そして過去の経験上、問題の存在を認識できたから、何年か悩んでればある日突然視界が開けるような感じでその悩みポイントだった感覚を理解できるような気もするんだけど、
いつ来るかわからないその瞬間を待ち続けるような時間はあまりなさそうだなあ……。
どうしたらいいんだろう……。
なんか付き合い始めた高校生の頃から先延ばしにし続けたしょうもないスレ違いみたいなところで悩んでる感じがする。
実は言うほど大したことじゃないのかもしれない。
ずっと恋愛関係については俺が一方的に変なんだと思ってたけど案外そんなもんっていう事例も多いみたいだし。
でも妻は心身症発症しまくってるぐらいだからだいぶ思いつめてるみたいだし。どうしたものか。
20代後半にもなって恋愛相談に医者を使うっていうのも結構恥ずかしいことのような気もするけれど……。
確かに3年ぐらい遠距離になったけど特に大した苦も無く続いた気がする。
「そういうスタイルの愛の形もあってええねんで、それも立派な『愛』やで」っていうのをお互いが受け入れられるかどうかなのかなあ?
大阪の会社(一部上場)に転職したんだけど、経営陣も社員もレベルが低くてかなり後悔している。
■情報に疎い
え、今時そんなことも知らないの?という位情報に疎い。競合他社含めた市場の把握がそもそもちゃんと出来ていなかったりする。
■戦略が立てられない
それだけならこの会社の特性なのかな、と思うところだが、一般の社員も戦略的に考えられる人が少ない。
別にそれが全てだとは思わないが、MBA取得者とかも全然いない。
■人間関係がウェット
よく言えば仲良しなんだが、仲の良さと仕事上の付き合いを切り離すことが出来ず、
仕事がなあなあになっていることが多く見受けられる。
■PRが下手すぎる
これは大阪の広告代理店のレベルが低いのもいけないと思うんだけど、PRや販促のクオリティが低すぎる。
大阪の地下鉄の広告とかを見て貰えばわかるけど、アウトプットがチープすぎてとても東京に対抗できるレベルにない。
これらはうちの会社だけに当てはまるダメポイントなのかもしれない。
でも、他社と商談したりしている中で、大阪の企業全体にこういう問題があるんじゃないかと思うようになってきた。
家電メーカーをはじめ、大阪の企業が没落したり東京に本社を移したりってことが相次いでたけど、こういうことか、と思った。
自分は文章を書くとき、なるべく見てくれた人がほっこりする文を書きたいと思っている。
幸せになれる、は言い過ぎかもだけど、親身なレスポンスを貰えたらいいなって思いながら書いている。
読ませるというより読んでくれる文とでもいうのだろうか。
なるべく書き残すなら前向きな内容の方がいいと思って、そう心がけるようにしている。
経験則上、人や世間なんかに対してヘイトを綴ると、あとで読み返した時に気分が下がる。
なので、そういう文はさっさと流れたり埋もれたりするTwitterとかに書く。
どうしても書きたくなったら、怒りは抑えて最低限の内容のみを書く。
ただ、精神衛生上やっぱりこういった愚痴は書き残さないほうがいいとは思っている。
あと、思いつきや衝動に駆られるがまま文章は書かない方がいい。内容がめちゃくちゃになる(たんに構成力の問題だろうけど)
思いついた内容は推敲したり寝かせたりする。寝かせすぎると腐ってしまうので2週間以内くらいにはアウトプットするといいと思う。
批判する文章に反対というわけではなく、そういう話もあるだろうけど、前向きに受け取れることを書けないかと自分は考える。
幸せなアウトプットをする最大のコツは、幸せそうな人を周りに置くことだと思う。
いじょ!
理系の非モテは純愛を信じて欲している(だからこそ非モテなんだが)。
主観的には「自分は純愛を差し出しているのにキモがられて裏切られてきた」と感じている。
恋愛工学は「あなたを裏切ってきたあいつらと同じ土俵でゲームに勝てる方法を提供します」というのが売り。
筆者が理系出身なだけあって、理系ウケが良いフレーズばっかりだし、キモ理系でも(だからこそ)すぐにインプット&アウトプットできる内容になっている。
復讐は容易に達成できるが、それは自分が忌み嫌った女共と同じ、純愛を蹂躙する行為にほかならない。
自分を消耗させながら復讐心を満たしても、結局飢えは満たされない。
今回ははてなブックマーク関連。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構と織り交ぜて答えて生きたい。
動物のアイコンとか、アニメや漫画のキャラクターがいいだろう。自撮り写真とかは難易度高いし、ロクなイメージをもたれていないからやめておけ。
……なに、探すのが面倒だと? では、他の適当なコミュニティサイトのアイコンを流用してみてはどうだ。「デフォルトアイコン」で検索すれば結構でてくるぞ。
それが嫌ならデフォルトのアイコンを申し訳程度に加工したりとか……もう、そのまま使っていればいいんじゃないだろうか。デフォルトアイコンに拘りがある人も少なくないようだし。
まあ、そんな拘りがあっても、パッと見みんな同じ人に見えるが。
まあ、仙人は霞を食べて生きているように、はてブのユーザーは星を食べて生きているからな。スターそのものに知性や権威は全くないが、答えようじゃないか。
誰でも思いつく、没個性的なブコメを書けばいい。「誰でも思いつく」ということは、逆をいえばそれだけ共感されやすいということだからだ。
「読みにくい」と思った記事があったら、真っ先に「読みにくい」、「改行しろ」と書けばいい。誤字や誤用があれば、他のユーザーに先を越される前に指摘してやれ。
他だと気になるワードがあれば空目しておけ。例えば最近のだと「マッドマックス」→「ベイマックス」とかな。
……自分で言うのも何だが無理やり感があるし、面白いか面白くないかでいえば面白くないかもしれない。だが、「ソックス」→「セックス」みたいに、空目をわざわざアウトプットして喜べるのは若者の特権だ。君は若いのだから、気にせずコメントすればいい。
たくさん貰えるかはともかく、スターをくれる人はいるんじゃないかな。最悪「スターください」と請い、乞食でもやらないようなことをしてもいい。きっと、チアノーゼのような色のスターをくれるぞ。
まあ、それで貰えるスターに、君という「個」への賞賛は全くないが背に腹は変えられない。
……贅沢な奴だな。では私がはてブでよく使う、魔法の言葉を授けよう。
「カミサマみたいに人格が優れて判断が完璧な政治家や政党」がどこかに居て、しかもその人に端から端まで自分らのリスクをぜんぶお預けできるのが税金を払っている庶民がもつ当然の特権、なんていう、考えの甘ったれた輩をよく相手をしたもんだね(苦笑)
民主主義ってことは、民衆自らが動いてリスクテイクする社会なのに(代議士に代理してもらっているけど)、民主主義をまったく逆行している輩が多すぎよね。民度が低いから、政治も結果的にアウトプットの質が低くなるのかな...結果はともかくも、要のところを見ていない・調べていない・計算していない
どっちかいうと集団的自衛権には個人的には懐疑的だけど、テレビの自称コメンテータとかにはそれ以前の輩が多くて、あいつらと同類にされたくはないわ。。と思ってしまう(もしかしたらそれが狙いで、あいつら口先と逆のミッションを持ってたりして...)
酒でも飲みながら書いたのかって文章だな……。
「別に自分が本を読んでいて論理的な思考を得たとも思っていない」
「本を読む人って、やっぱり論理的な思考、そのアウトプットにも優れているから」
どっちなんだ。
本を読む人とそうでない人の違いに関しては、ある人がこんなことを言っていた。
本を読まない人種とはそもそも気が一定以上合わないってことがわかった。結果論としてね。特にちゃんとした理由はない。
読みまくってる人ってわけでもないし、たまに読むってだけでもいい。全く読まない人とだけ、気が合わないんだと思う。
別に自分がめっちゃ文字に対するこだわりだとか、愛があるわけでもなく、また別に自分が論理的な思考に長けているとも思わない。
この文章に関して言っても、自分の言語表現と思考のアウトプット能力の低さを感じるし、別に自分が本を読んでいて論理的な思考を得たとも思っていない。
そもそも論理的な思考ってはたして自分が頭の中でしている「これ」なのかもわかってない。
まったく本を読まない人って、ほぼ例外なくほんと直感的に生きている感じはすごくする。
湧き出した感情だけで行動する人、いるじゃん?
A「手伝ってよ!」B「え~」みたいな。
で、本を読むと鍛えられるのは言語能力はもちろん、情報処理能力、多角的な思考力の上昇に効果があるといわれているし、すごく実感している。
たぶん本を読まない人って、本を読むことによって得られるコミュニケーション能力を、失ったことに気付きたくないんじゃないかな。
やはりこうまとめていて思ったけど、たぶん本を読まない人って、ある意味頭が鈍いって言い切っていいと思う。
おそらくもう慣れすぎていて本を読むことにすら脳がその疲労に耐えられないんじゃない?
それが「本読まないんだよね」っていう言葉に隠れているけど、
ようは「本を読むの耐えられないんだよね」っていうことだよたぶん。
また、本を読む人は本を読む人とレベルが合うし、本を読まない人は本を読まない人とレベルが合うんだろうね。
良し悪しはない。
結構この読書するかどうかによる人間の分け方は信用できると思う。
本を読む人って、やっぱり論理的な思考、そのアウトプットにも優れているから、
それが本を読まない人にとって「理屈っぽい」「冷たい」っていう言葉になって表わされるんだと思う。
本を読まない人にとって本を読む人の言葉というのは感情を感じないんじゃなかろうか。
「冷たい」「理屈っぽい」って、ようは少しでも文語的な表現になるのに慣れてないだけで、
ただ、本を読む人っていうのも、そりゃもともと人間うまれたとき「ほん」なんてものは知らないわけだし、
文字を読むことを知ってしまってから脳みその構造が変わってしまっているだけで、
もしかしたら生物的に見たら本を読む人の方が、毒されているというか、普通じゃない可能性もあるね。
要するに本を読む人は文語的な表現を口語でするようになるから、
本を読むことに脳が耐えられない人にとって「冷たい」「理屈っぽい」という表現になる、
しかし本を読むことってはたして常識かといわれると、本当は人間は本を読まない状態が自然であるといえる。
さぁいったいどっちが正しいのか?
そりゃ本を読む人だよ。
だって1900年以降の現代社会の進化って、論理的な思考なしには不可能だからね。
いまのこの世を回しているものに、自らの価値を反映させるには、論理的な思考が絶対的に必要だからね。
この言葉が持つ意味は現代では広すぎるけど、これ以外の言葉もないんだよね。
一般職や専業主婦を目指す女性か、人と接し続ける仕事をする男性にのみ効果があって、それ以外の人が感覚的に生きると、
自分の意見がない、周りに合わせる、協調性があるとしか言えない、自分の長所短所がわからない、
そういった事態に陥るので、決してよくないと俺は考える。
一番なんとなく腹が立つのは、こういう人間に限って自分の長所を「情に熱い」っていうんだよね。
その熱さ、みんなあるよ。
本を読まない人に告ぐ。
君らが思う、「あいつは何考えてるわからない」という言葉って、
要するに「俺には理解できない。俺に合わせろ。」って言ってるのと、同じことなんやで。
本を読む人からしたらね。
ただ、本を読まない人にとって、本を読む人がそれに対して立腹すること自体が理解できないから、
俺ほんと頭悪い文章書くな。
[ずっと思ってた](でも一切そのことを事前に全くアウトプットしてない)とか
[そう思ってブクマしてなかった](そんな思慮について事前に一切アウトプットしてない)とか
ソーシャルブックマークサービスのコメント欄で最近よく見かける.
どういうこった.
そんなに思ってるなら事前にそういう主張をしてたんならまだ納得いく.
でも言ってないのにそう思ってたとか,ただの後出しジャンケンじゃないの.
実際はそう思ってなかったり,ただ気づいてなくてブクマしてなかったのを
後付けでそう主張して,自分は賢いんだーみたいに虚栄張ってるのと見分けがまったくつかない.
言ってて恥ずかしくないの.
先日面接受けて、ボコボコにされた。びっくりするぐらい答えられなかった。自分の知識にないことを問われたんだから、そりゃ答えようがなかった。結局、私の不勉強が原因だった。
今まで根拠の無い自信でずっと突っ走ってきた。意識高い系学生みたいなことをして、色々楽しい事もあったし、それなりに酷い目にもあったけど、今までのは笑っていい思い出でしたって言えるぐらいだった。
でも今回のは、ちょっとヤバいかもしれない。日常生活の中で急に吐き気が来たりフラッシュバックしてきて叫びたくなったりと、一番ひどい。
たった10分足らずの面接でトチったぐらいでここまで何かに追い込まれて、呼吸するのも辛くなるなんて、考えたこともなかった。
Twitterでいわゆる「かまってちゃん」なアカウントを散々見てきて、「こいつら何してんだろ」なんて鼻くそほじりながら小馬鹿にしてた。
でも、今ならあんなことをする人たちの気持ちが何となく分かる。自分のキャパシティをオーバーしたら、何とかしてアウトプットしないと、息苦しくて仕方がないんだ。
相談できるほど信頼している人間なんて居ないし、そうなるとインターネットぐらいしか捌け口が見つからなくなるんだね。
その上で増田を捌け口にしているわけだけど、すっごいダサいな、私。気持ち悪。
でももういいや、気持ち悪くっても。なんでもいい。かまってちゃん、させてほしい。
なんなら、サンドバッグとして殴られようとも、死体蹴りにしてくれてもいい。
とりあえず、おやすみなさい。
毎週熱心に見入っているアニメ「響け!ユーフォニアム」も、気がつけばあと1話でおしまいである。
この作品、プロ・アマ問わず音楽に取り組んだことのある人、更に部活に明け暮れた経験のある人は否応なく引き込まれるのでは?と思わされる。
とにかく京アニブランドの名に恥じない、とんでもなく作り込まれた傑作であり、見どころも沢山あるのだが、その一つはなんといっても滝先生。
主人公たちが所属する弱小吹奏楽部に赴任するや否や、どこまでも紳士的な物腰と笑顔で効率よく、かつ凄まじい勢いで部員たちを引っ張り上げ、それまでのどこかダラっとした集団を、コンクールを戦い抜くガチグループに変えてしまった顧問である。
巷では「あんな人が指導者だったらなあ」という声も少なからず聞こえてくる。
自分も何となくそんな気分でいたのだが、よく周囲を見渡してみたらリアルでそういう人がいた。
既に習い始めて数年経っているせいでそのスタンスに慣れてしまっていたが、振り返ってみるとかなり衝撃的な教え方だったので、それをつらつらと書いてみる。
赴任早々、滝先生は部員たちを集め「どのレベルまで行きたいか」選ばせ、そこで部員たちが大した考えもなく、かなりいい加減な流れで「全国を目指す」と決めてしまったことから、先生の猛特訓が始まる。
翻って自分の場合、レッスンを再開するのは大学受験を機に止めて以来だったが、今思えばなんとも身の程知らずというか、「○○の協奏曲と✕✕のソナタをやりたい」と言ってしまったため、ガチのメニューが始まった。曰く
「実はそんな厳しくやらず『いいですよ~よく出来ましたね』とひたすら言って楽しく教える方法もあるのですが、増田さんがやりたい曲は本当に上手くならないと出来ません。
そして本当に上手くなりたいのであれば、私もそうそう甘い顔はしません(にっこり)」
さて、レッスン再開当時の自分は、高校まで習っていた分の貯金を相当食い潰しテクニック的に荒れ放題、かなりアクの強い音を平気で出すレベルに落ちぶれていたのだが、一番まずかったのはその場のノリと勢いだけで演奏してしまうこと。
それの何が問題か分からなかった自分に、先生は「増田さんの演奏を真似してみますので見ていて下さい」と、自分の楽器を借りて再現してみせた。
そのあまりに破廉恥な音に、しまいには「もう勘弁して下さい」と言って止めてもらったが、ショックで帰宅後泣いた。まさしく「悔しくて死にそう」だった。
それに限らず、あの頃は毎回レッスンが終わるたび「あー今日も上手く出来なかったなー」と思いながら家路についていた。
帰ってからの練習は悩むを通り越し、真剣に苦しんだ。「まだ音が荒い、一体どうしたら・・・」と試行錯誤の日々だった。
また先生は自分の特性を見抜き、かなりフレキシブルな教え方をしてくれている。
例えば練習メニュー。
普通器楽でも声楽でも、練習と言ったら基礎練と曲練がセットである。そうじゃない練習なんて聞いたことがなかった。
それもさらう曲は全てコンサートピース級の名曲ばかりで、さらう過程で問題が出てきたら、問題箇所のため部分的にロングトーンとかの基礎をやってみるという練習方法。
こちらとしてはそんな思い切った練習では不安なので基礎練はしないのか訊いてみたところ、こう返された。
「生徒さんにも基礎練で伸びる人と伸びない人がいますが、増田さんは基礎練では伸びないと思います。
多分増田さんは基礎練のスケールやエチュードをやっつけでこなすタイプでしょう?
その先にあるのは曲練もやっつけ、更には本番もやっつけ・・・それだと何のために演奏しているんだ?という話になります。
レッスンを止めた後、そうやってどんどん音が荒れていったのではないでしょうか。
ですから基礎練はやらなくていいので、その分曲練に集中して下さい。
そもそも曲が仕上がることが一番の目的なのですから、だったら直接曲に取り組むほうが分かりやすいでしょう。
技術は演奏出来るようになるために、必要に応じて身に付けていけばいいのです。
その代わり、一音たりともいい加減な音を出すことは許しません。
どういう音を出したいかきちんと頭でイメージし、それが音になるまで一切妥協せずさらってきて下さい」
・・・とまあ、そんな感じでレッスンを受け続けた結果、どうなったか。
これ以上ないくらい厳しい目で見ている先生をして
「半年でここまで出来るなんて、順応性が良すぎて逆に出来てるか疑いたくなります」
「一年前とは別人です。以前どんな音で増田さんが演奏していたか忘れてしまいました」
と、そんな褒められ方生まれて初めてというアウトプットを得られた。
この先生は本物だ!と思い知らされた。
そうは言っても、目指す高みはまだまだ遠い。
でも結果が出ていると意外と気にならなくなるのだから、「人は単純だ」。