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はてなキーワード: ベーマガとは

2019-07-26

ドク「PC-8001 だと? 芸夢狂人はまだゲームを作っているというのかね」

マーティ「今お医者さんやってるよ」

ドク「なら高橋はるみ看護婦ベーマガの影は患者だな!」

https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1198036.html

2019-06-24

いい時代になったもんだ

子供がさ、授業でC言語習ってきてさプログラム面白いとか言ってるのさ。

そんで、昔を思い出した。

俺は昔FM-NEW7のBASICベーマガとかプロポシェとか見ながらゲームプログラム組んでた。

って言ってもゴリゴリBASICで作るだけ。

実用レベルの速度出すにはマシン語部分が必須だったけど、小学生には6809のアセンブラの本は高くて買えなくて、周りに誰も教えてくれる人もいなくて結局芽は出なかった。

パソコン通信も始めたのはもっと後の時代だったし。

今はゲームを作るツールGUI実装されてるし、インターネット情報収集できるし、ちょっとうらやましかったりする。

2019-06-21

anond:20181225211030

そういえば自分はどんな雑誌読んでたっけなと思って、挙げてみた。

40代おっさんが、単発で買うのではなく「しばらく継続して買っていた」雑誌

ベーマガ

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コンプティーク

トラ技

タクテクス

RPGマガジン

ドラゴンマガジン

ニュータイプ

モデルグラフィックス

・カーグラフィック

・HiVi

今でも買ってるのはない。

今でも発行されてるのは下4つくらい?

2019-03-26

anond:20190326154623

俺が知ってるNIFTY-SERVEを例にとれば、NIFTYは昔からCompuServeと相互接続しているので海外チャットできる環境普通にある

インターネットサービス宣伝され始めたのは90年代後半であり、この頃はパソ通と並行して利用することも珍しくなかった

N88-BASICプログラム投稿は95年のベーマガでまだまだ現役

増田の俺でもこれだけ指摘できるんだからお前の嘘松認定っていつもこんな風にガバガバなんだろうな

2018-12-14

ザベってぜんぜん話題にならないね

ベーマガ電子版で復刊という記事で思い出したけど。

ベーマガネットでたびたび話題になるけど、ザベって休刊後に話題にされてるのを見た記憶がない。

最初 The Basic という誌名だったけど、Basic雑誌と思われるからってザベに改名した雑誌

まあ、そもそも90年代プログラミング雑誌とかそんなに話題にならないか

OhMZとかOhXとかは見たことあるけど。

2018-11-20

anond:20181120174955

ベーマガに載っていたコードを書き写してはゲームをしていたあの頃、写し間違えると動かないのが悲しかった。

プログラミング素養がそれほどない上に、peek, pokeとかなじみの無い命令を使われて全くコードが読めてなかったから、丸写ししか無かったしね。

2018-11-10

TETRIS EFFECTでゲーム製作した学生あの日を思い出す

テトリスの新作がPS4で登場した。

あぁうん、言いたいことは解ってる「テトリスの新作?またかよ」だろ。

だがこのエントリを読んでいる者の中には少なからずこのエントリタイトル共感してくれる者が居るはず。

そう、今回の新作テトリスTETRIS EFFECT」はゲーム製作経験者が心を揺さぶられる完成度なのだ

そもそもテトリスというゲームゲーム製作経験者ならば一度は製作してみる定番タイトルの1つで、ベーマガ読んで写経した者やファミリーベーシックで組んでみた者、ポケコンの狭い液晶で実現してみた者、PC98で、DOSで、Palmで、Windowsでと書き切るにも困難で挙げればキリがないほどだろう。

それだけの実装例、製作者数があれば独自ルール独自要素を組み込むことも当然の流れであり、テトリスPONG比肩するほど試行錯誤や様々な試みがなされているビデオゲームだと言える。シンプルからこそここまでになった。

そんなテトリスプロが本気になり、しっかりとライセンスを受けて発売されたのが「TETRIS EFFECT」だ。

まずはYoutubeあたりで「TETRIS EFFECT」と検索してプレイ動画を観てもらいたい。そしてその美しさに酔いしれて欲しい。

パーティクルだ、パーティクルなんだ。ゲーム製作経験者たちならば理解してくれるだろう、すごいパーティクルだ。

学生時代のあのとき、そうシューティングゲームを作ったあの日々だよ。

如何に美しいパーティクルを描き出そうかと頭を悩ませたあの日々の未来TETRIS EFFECTにはある。

えっちょっと待って今のとこもう一回!もう一回見せて!」

「マジか音と同期すんのかよ?えっコントローラへの入力にも!!」

「おぉ・・・画面変移に合わせて細かく変化してる・・・すげぇ・・・

TETRIS EFFECTをプレイしていると度々「その発想は無かった!」と感動し、そして悔しくなる。

「なんでこれ当時思いつかなかったかなぁ!」とか「いやもうちょっと行こうぜ!俺ならこうするのに!」とか次々と来る演出がかかる度に楽しくなってしまう。

わかっている。テトリスは古臭いゲームなのかも知れない。飽き飽きしたゲームシステムで今更感が強いかもしれない。

しかしそれでもTETRIS EFFECTはゲーム製作をしていた学生時代自分を呼び起こし、若返った心に斬新さを見せてくれる良作ゲームだ。是非ともプレイして欲しい。

2018-06-25

今の小学生パソコンを与えて何させてるの?

小学生の頃うちの学校にもパソコンがあって、

真っ黒な画面にBASICしかなくて、

なんか友達ベーマガプログラムを打ち込んでたのを見てたの覚えてるけど。

今の小学生に与えてもBASICすら入ってないパソコンで一体何するというのか?

ワード文字赤くしてわーい!って訳か?

2017-10-12

意識高い系や古強者ぶったIT技術者が多い増田を見てて一番の疑問は

今、俺みたいな20代とか、あとはせいぜい30代とかが勘違いしてweb系の安月給で恰好だけ付けて糞みたいなコード書いてイキってるとかその一昔前は横浜組み込み技術者携帯電話開発の殺人レベル拷問労働で安月給のまま殺されまくったり廃人にされまくったり見たいなイメージしか知らないから、知らないのは仕方がないにしてもさ

マイコンBASICだのベーマガ世代の思い出を情感たっぷりに語れるくらいのオッサンで、80年代末期から90年代後半にはもうIT技術者として働いてた奴等は

何で「当時の勤務体系や仕事内容、そして給料いくらから」を誰も言わないんだ?90年代後半までプログラマーSEといえば超スーパーウルトラ実入りがいい職業だったし、残業なんて言うほど大してなかったうえに、20代でマンションローンで買って30代で返済できるくらい稼げてた職業だったろ?

何でそこらへんの時代のことを言う奴が、せいぜい2ちゃんビジネスnewsPG関連のスレくらいしかいないの?

そういうブログHPを立ち上げて情報発信したら、政府のI〇Aとか人売り派〇会社に雇われた小林源文漫画オメガセブン小隊みたいな自衛隊員とか警察特殊部隊構成された殺し屋チームでも送り込まれて口封じされるから言えないとか?

それが不思議で仕方がないんだよな

あ、なんで俺がそんなこと知ってるかって俺の親父がその時代SEだったからだよ

2017-09-20

anond:20170920205036

「やっとスト2があるゲーセンを見つけてさっそくプレイ始めたんですが赤い胴着のケンに勝てません!」

「喜んでいるところ悪いがお前が見つけたのはストリートスマートだ」

っていうベーマガネタを思い出す

2017-05-13

無職だけどプログラミング覚えたい

ハロワ行くと職業訓練プログラミングもあるんだけど

どの言語就職につながりやすいだろうか

おすすめを教えてほしい

こないだ見てたらJavaとかCとかPHPとかあった

こちらのスキルとしては

プログラミングに関しては子供の頃ベーマガ見ながらBASICやったくらいの記憶しかない

すなわちおっさん

あとプログラミング言語じゃないけどHTMLCSS自分ホームページつくったりするくらいにはできる

2016-05-13

プログラミングの極意

師匠プログラミングとは深淵なる神の御業(みわざ)。あらゆることを可能とし、あらゆることが不可能であると知る。」

弟子「さすが師匠っす。私にはまだまだ理解できないっす」

師匠「当然だ。」

師匠「ところで弟子よ。お前はプログラミングを覚えて何をしたい?」

弟子「今はIT技術者が少ないといいます。この未曾有の危機エンジニアとなってこの町を、この世界自分の手で守りたい」

師匠「ふむ。良い心がけだ。精進したまえ」

弟子「ところで師匠

師匠「なんだ弟子よ」

弟子師匠のもとでC#プログラミングを学び始めて1年。if文だとかwhile文とかどうでもいいクソ知識を覚えて参りましたがやっぱり何の役にも立ちません。」

師匠「そうであろう。考えてみろ。お前は日本語を話せるが、アナウンサーにも小説家にも程遠いだろう?プログラミング言語を覚えるだけで何かできるようになると本当に思っているのか?」

弟子「そんな・・・だったら英語覚えて、おとといskypeで話しかけてきたカウガールキャッキャウフフしてた方がマシじゃないか

師匠「ちょ、おま、それアカンやつや」

弟子師匠バカ。もう知らない!」

世界コンピュータ端末があふれるようになって数年。

一般人Windows PCAndroidスマホを使う。*nixだのpicマイコンだのasicだのとは違う。

その時点において、かつて王道だったC言語を学ぶ意義はパンピーには無い。

ベーマガ失われた世界で、人々はプログラミングを見失い、

人が使ってるからという理由自分の使うアプリを決められ、

ひっきりなしに飛んでくる他人からメッセージに反応することを強要される毎日

師匠文字数字から初めて、基本的文法を覚えるだけで1年かかるか……そりゃつまんねーよな」

師匠ファイル入出力やってようやくCRUDが学べる」

師匠関数スコープを覚えて、ようやく構造プログラミングが学べる」

師匠「だが……学校じゃ文法やって終わりってんだからCRUD構造化もやらずに何ができるかってんだ。副作用とかどうでもいいことばかりは教えるくせによ」

師匠機能抽象化モジュール疎結合重要だろう。そのためのオブジェクト指向だろう。」

師匠「なぜ抽象化疎結合かといえば分割統治をしたいからだ」

師匠「なぜ抽象化分割統治をしたいかと言えば、人の短期記憶は5チャンクが限界からだ。つまりは頭の小さな人間が巨大なシステム理解するための知恵だ。

師匠HSPプログラムを書いていて、500行くらい書いたらもう頭がごちゃごちゃになって限界を感じるあの感じ(個人の乾燥です)」

師匠HSP名誉のためにも言っておくが、500行以内であれば簡潔だし、絶大な威力を発揮するツールだ」

師匠「逆にCは3行書いたら、その関数の非力さに頭が痛くなる(個人の乾燥です)」

師匠アセンブラに至ってはmov 1, $ax とか書いた時点で発狂する。なんでintel構文じゃないんだ!と」

師匠「つまるところ、プログラミングとは自由を勝ち取るために、人間限界と戦うことだ」

師匠「創意工夫をこらして、今できないことをどうやってできるようにするのか。どんな可能性があるのか」

師匠構造プログラミングをすればバグが出なくなるわけじゃない。OOPプログラミングがうまくなるわけでもない」

師匠プログラミングの極意とは現実と戦うという覚悟だ」


弟子覚悟wwwww。少年漫画の見すぎなんだよ。何か奇声あげたら変身してパワーアップてかwww?おめでたい奴だな。貴様師匠として利用価値がなさそうだ。このあたりで成敗してやる。カラオケ女の子デュエットしてやる」

師匠「本性を現しおったなぁぁっ!このバカ弟子がぁぁっ!!」

2015-08-22

真のリーダーとはなんなのか

任天堂岩田聡氏が亡くなったことを聞き、とある男性のことを思い出した。

初めて出会ったのは、とある武道クラブ小学校低学年の頃だ。

明るく朗らかで、でも平凡な子供だった気がする。

顔を合わせるのは週に一度だけ。

私は、そのクラブをやめたり、もう一度再開したりを繰り返し、彼もまたそんな感じで、終わったらササッと帰っていたので、それほど多くの言葉は交わしてなかったと思う。

同じ中学になって知ったことだけど、彼は学校勉強が出来るほうだった。

小学校が別であったため、小学校当時の彼の学校での様子はわからないけれど、親経由でオール5をとったという話は聞いたことがある。

私もまた、そういう小学生によくいる、プチ秀才だったので、ふーんという感想しかなかった。

中学での彼も、明るく裏表のなく、私は彼をとても好いていた。

成績は当初、私のほうがよかった。

月並みのように思えた。

普段も、すこし昔の出来事を綺麗さっぱり忘れるし、文系科目は苦手で、記憶力がいいとはとても思えなかった。

でも、時々、ものすごく難しい数学問題(私にはそう思えた)を解いたりして、普通とは違うかのように思える一面はあった。

学年が進んでも、彼は明るく裏表のないナイスガイだった。

でも、私だけは彼の異常性を感じていた。

人間関係における策略性のなさというべき、人に自分をよく見せようとか、他人嫉妬するとか、そういう感情の欠如のような感じ。

決して冷たい人間ではない。

しろ手品とか、芸のような、みんなを笑わせようという行動はよくしていたけれど、本当にみんなを楽しませようとしか考えてない感じがあった。

クラス会などで、話し合っても答えが出そうもないような時はフラリと帰ってしまう、そういうところがあった。

ある日の授業、どういうわけか、自習になり、コンピュータ室でワープロソフトをいじらされた。

内容は覚えていない。流行ってる歌の歌詞入力しなさいと言われてたと思う。

当時ベーマガ愛読していた私は退屈していて、その当時覚えたてのアルゴリズム自分なりに改造して、真っ黒い画面に英単語記号を並べていた。

幾何学模様が順に描かれていき、消えていく、そんな単純なもの

その時となりの席だった彼に、なにをしてるのかと聞かれて、ほとんどそのまま答えた。

「ここが変数の宣言で~」「ここからここまでを何回もループさせて~」

映像として動かしたわけではなくて、当時の中学生からみたら、英語のような文字の羅列があるだけに思う、真っ黒な画面で、私はそんな解説をした。

いま思えば不思議だけど、彼はそれを理解してたように思う。

「へー、イコール記号数学で使うイコール(右と左が同じ)と意味が違うんだねぇ。」

というようなことを彼が言っていたのを憶えてる。

今でも私だけが知ってる彼の秘密。彼自身も忘れてる彼の秘密だ。

同じ高校に進学して、数学物理テストで、彼の才は目立つようになった。

平均点30点代の試験で、1人だけ90点をとってしまったことが彼の名を校内に知らしめた。

その次の、平均点が20点代の試験でも同じ結果となった。

数学教師は、彼に惚れ込み、数学面白さを伝えようとした。

物理教師も、化学教師も同じことをした。

でも、私がみる限り、彼は数学にも物理にも興味はなかったようにみえた。

彼の回答は、数学的ではないところがあった。

前提の元に解かれていて、その解が一般解である確認や他に解が存在しないかの確認がされてなかったりする。

目の前の問題を解決することに、答えに辿りくことに興味があるだけで、普遍法則には興味がないのだと思う。

そのことに気がついた時、彼の人の良さの答えがわかった。

目の前の障害をクリアすることにしか興味が無いから他人を蹴落とそうとか、他人嫉妬するという感情がないのだ。

問題を解決するためのアイディア提案しあう話し合いでは強くても、参加者が気持よく賛成できる落とし所を考えるような話し合いでは帰ってしまうのだ。

彼が私に、彼の彼女に「「わかっちゃいるけどやめられない」と言われ、「それわかってないんじゃん」と笑ったら、怒られた」

愚痴をこぼしたことがある。

私は彼のことが大好きだけど、私が女だったら絶対にこの男とゲットしたいと思うけど、世の中の女の受けは最悪だろうな、と思った。

彼が結婚披露宴に呼ばれたとき、思わず私は彼の結婚相手の女性

「彼の良さがわかる女性がいて、本当に嬉しい。」

褒め言葉なのかけなし言葉なのかわからない言葉をかけた。

後に彼に、「嫁が私にかけられた言葉をとても喜んでいた」と教えてくれた。

自身は、その言葉がなぜ彼女を感動させたかから不思議そうに報告してくれた。

私の友人の話はここまで。

リーダーシップとはなんなのかを考える。

リーダーがバラバラの方向を向いた各メンバーの進行方向を、みんなの意思を、前に向ける仕事であるならば、私の大好きな彼は絶対に向かないと思う。

各セクションのメンツ気持ち考慮して、気持よく「イエス」といえるような空気作り、そんなことは彼に出来ない。

もう中年に足を踏み入れつつある今でも、そんなことが世の中で行われていることすら気付いてない。

岩田聡氏は、私の友人と同じ種類の人間のように思う。

みんなの気持ちを調整して、みんなが気持よくイエスといえるような会議の進行は、会社運営は出来ない。

理詰めで、冷徹に人を切るようなこともしない。

問題本質を見抜き、凡人が、「これしかない、これが最良」と思える答えのその向こうにある、本当の答えに最速でたどり着く。

各セクションの内情など、わからなくても仕事を割り振りできる。

インプットに対するアウトプットさえわかっていれば、自分が知らない分野のスペシャリストだろうと、外部の組織だろうと、使いこなすことができたのだと思う。

人生を、世の中を、Hackするのが楽しかったのだと思う。

目の前に問題があることは、リソースが限られていることは、ある種の人間にとって娯楽だ。

彼らのような人間こそ、リーダーであるべきだと私は思う。

2015-06-02

若き日の大御所たち

ライブ映像が好きで、好きなミュージシャンライブ映像をよく漁っているんだけど、彼らが若いころの(若いってほどでもないかもしれないけど)映像を見ていると、表情や全身から大量の熱を振りまいていて、そのエネルギーを見ていると泣けてくる。あるいは、今となっては見せない一生懸命感とかね。

そんなわけで、おれが涙した映像を紹介させてほしい。

それぞれのファンにとっては既知のものばかりだろうが、その辺はご容赦願いたい。



Gil Scott-Heron

https://www.youtube.com/watch?v=3od114a4o7Y

1982 のライブ映像らしい。彼は 1949 生まれらしいので、33 かそこら。年をとっても自信たっぷり確信にみちた表情は変わらなかった彼だが、晩年はやはり体も縮んで声が出てないところも多かった。このライブ映像では声はもちろん、表情からも体からも、あらゆるところから熱を発しており、その輝きはおれの涙腺を強烈にキックするわけです。残念なことに彼は 2011 に他界

彼を知らない人はまずは 49:40- の Alien を聴いてみてほしい。ついでに言うとこの映像に含まれない名曲もたくさんあるので興味あれば掘り下げていただければ。



Ry Cooder

https://www.youtube.com/watch?v=9ZNVhiOY_ug

ギターを手にする人にとってはスライドギターの人として、映画好きの人にとってはヴィム・ヴェンダースの劇版の作家として、もっと一般的にはブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ仕掛け人として知られる Ry Cooder。この映像日本BS で流れたモノらしく 1987(日本語字幕では88と表記されてるけど。。) のライブ映像とのことで、このとき彼は 40 かそこら。

ゴスペル/テックメックス/カリビアン といった要素のミックスなんだけど、それぞれのプレイヤーがズブズブに土着音楽をやってる感が強い。それを一つにしているのは Ry Cooder の才能という他なく。。それぞれのプレイヤーがそれぞれのバックボーンから全力で音を発しているにもかかわらず、たった一点に収束するその集中力音楽への愛情はおれの胸を深く打つのです。




Bill Frisell

https://www.youtube.com/watch?v=EkM3Wiy7j5Q

ジャズを聴かない人にとっては「誰?」って感じかもしれませんが、長年にわたって最重要プレイヤーの一人。ジャズ界隈で活動してるんだけど、彼もまたアメリカンルーツミュージック求道者。(ただ、多作で時期によってやってることが全然違うため一言で説明しずらい人でもある。)

この映像は彼が 42 ぐらいの時のものボブ・ディランカバーカバーを良くやる人で、いずれもオリジナルもっと重要なエレメントをきっちり握っている。

また、彼は客演で非常に良い仕事をする人。驚くほどあちこちに顔を出しており、どこに行っても自分世界全開にもかかわらず、それがその曲の重要な要素を際立たせるという触媒のような人です。

映像演奏は奇をてらわないアレンジで、美しいコードの上で朴訥としたメロがフォーキーさを増しており、それはやさしくおれの心に触れるのです。

結構大変そうなアレンジ楽器にかじりつくように弾いていて、弾き終わった後に見せる表情は今となってはあまり見られないものではないかと。



WAR

https://www.youtube.com/watch?v=lYbrrbbnXnA

現在では WARLOW RIDER BAND の 2つに分裂してしまった WAR の 76 年(だそうだ) gypsy man のライブ映像キンキンに集中したライブ演奏70年代WAR特筆すべき点の一つだと思う。なかでもこの映像BB ディッカーソン のガッツあふれるベースは何度聴いてもおれの胸の奥に熱いものをあふれさせてくれるのです。

個人的には、ディッカーソンはソウル/ファンクにおいて最重要ベーシストの一人だと思うんだけど、あまり注目されない(おれが知らないだけで、ベーマガなんかで特集されてるのかもしれないけど)のでぜひ。

WAR は主要メンバーの何人かはすでに他界しているが、ディッカーソンは LOW RIDER BAND で健在なもよう。

もう一つ、バードンと一緒だったころの WAR

https://www.youtube.com/watch?v=wln_zQsynNY

spilit が凄いのでこちらもぜひ。ダルな前半からサックスソロきっかけとして風景が変わっていくこの流れは WARしかできないと確信できる。




Bootsy Collins

https://www.youtube.com/watch?v=zSnbV1FrIhA

最近ではベースTMスティーブンスに弾かせて、自分は歌ったり叫んだり、ライブハウスの壁を登ったりしている Bootsy ですが、ただただ全力で音楽をやっていたころがあったようで。

I'd Rather be with you は今でもライブハイライトなわけですが、若いころは熱の入り方が全然違う。映像は 1976 年とのことで、51年生まれの彼は 25歳?ですね。。そら熱も入るわ。wiki 見ると、75 年ぐらいまで P-funk 界隈とかかわっていたようで、映像は初リーダーアルバムが出た年。

funk 独特の時間をかけてじわじわ熱を込めていく前半のあの感じからキックコーラスがモゴモゴと盛り上げていく中盤、そしてついに歪んだベースソロに入って行く流れ、もう涙腺崩壊するしかないという。

2014-09-04

ベーマガという単語を見るたびに

絶対ベーゴマが浮かぶ。

ありがちだと思うけどどうしても吐き出しておきたかった。

自分世代とは全然違うんだけど。

2014-08-20

ケチだった親父の話

俺の親父はドケチだった.

とにかくドケチだった.

口を開けば「カネがない」とグチった.

貧乏だった.

お袋は貧乏が嫌で俺を置いて出て行ったらしかった.

食う物と言えばパンの耳,着るものと言えばボロ雑巾みたいな古着だった.

ガキだった俺は友達が持っているスーファミが羨ましくて親父にせがんだ.

帰ってきたのはゲンコツだった.

そんなカネねえ,と.

ケチなクソ親父め.

でも俺はあきらめなかった.

キャラクターテレビの中で自由に動かせるのに,熱中していた.

根負けしたのか,なんとかしてやると言い出した.

俺は興奮で眠れぬ夜を過ごした.

翌週親父が持ってきたのは,中古PC98だった.

どうやら友人から譲ってもらったらしい.

なんだか嫌な予感がしながら電源を入れたら,文字しか出てこねぇし,なにすりゃいいのか分からないし,

まさに「コレジャナイ~」と泣きながら手足をバタバタさせてダダコネたい気持ちになった.

やっぱりクソ親父はクソ親父だった.

曰く,

「これさえあればゲームを作れるらしい.そんなに欲しいなら自分で作れ」

そして俺とPC98とBASIC生活が始まった.

始めはとっつきにくかったが,やってみると面白かった.

ゲーム自分で作れる」という魅力的な言葉に酔っていたのかもしれない.

まだ習ってない漢字の入ったマニュアルも苦にならなかった.

これでいつか俺も,F-ZEROを作ってやるぞと,本気で思っていた.

ゴミ捨て場から拾ってきた古いベーマガを読みながら,小さなゲームを作っては楽しんでいた.

始めてジャンケンができるプログラムを作った時の感動は忘れられない.

グラフィカルなゲームは作れなかったが,友達も一緒になって楽しんでくれた.

だが中学2年に上がるころ,長年連れ添った俺の愛機が突然動かなくなった.

ついに寿命が尽きたのだ.

俺はこの世の終わりのように感じた.

まるで愛犬に死なれたような気持ちだった.

しばらく学校も休んだ.

今思えば前の持ち主から数えて10年近く,よく動き続けたものだと感心する.

ケチな親父は,当然だが新しいPCを買ってくれるわけはなかった.

帰ってきた言葉

「そんなに欲しいなら自分で作れ」

次の日からジャンクめぐりが始まった.

新聞配達で稼いだ金で少しずつパーツを買い集めた.

ゴミ捨て場からまだ使えそうなモニタを拾ってきた.

OS友達Linuxを用意してもらって入れた.

始めて自作PCが立ち上がった時は感動した.

Linuxに移行したのをきっかけに本格的にCを始めた.

親父に本を買ってくれと言ったら,始めは渋っていたが,ボロボロ技術書を何冊か古本屋から調達してくれた.

ヴォルトのアルゴリズムデータ構造と,クヌースのThe Art of Computer Programmingもあった.

難しすぎたし技術的なところが足りないから,遠くの図書館までわざわざ出かけて技術書を借りてきては読みふけった.

学校の授業中にも読んでいた.

プログラミング技術はもちろん,画像処理のための数学の道具についても勉強した.

同級生2次方程式因数分解をやっている横で,三角関数行列計算をしていた.

特にアフィン変換には感動させられた.

こんな風に言うと,さぞ数学の成績がよかったのだろうと思うのかもしれないが,テストの点はそこそこだった.

コードを書くのに必要概念として知っているだけで,証明問題は苦手だった.

特に幾何学はさっぱりだった.

それと,古典社会時間は全部すっぽかしてノートコード書いてたから散々だった.

高校に入ったあたりでX windowシステムを使ったグラフィカルなゲームを作れるようになった.

出てきた敵を撃つだけの簡単なインベーダーゲームに始まりオセロブロック崩しウィザードリィみたいな迷宮探索ゲーム,思いつく物何でも作った.

時代はWin95が出たあたりで,パソコンブームだった.

友達の家にもPCがあるところが多くて,Windows移植して簡単なネットワーク型対戦ゲームなんかを作ったりもした.

ここまで本格的にゲームプログラミングをやっていると,さすがにジャンクパーツを集めただけのPCでは性能に不満が出ることが多くなってきた.

ビルドの待ち時間が長くていらいらしたり,友達の家で動くゲーム自分PCで動かなかったりした.

ダメ元で親父に相談してみたら案の定,

自分で稼いで買え」

親父はどこから取ってきたのか,俺でもこなせる程度の仕事を持ってきた.

始めはパソコン教室バイトだったり,ゲームデバッグだったり,まともなバイトだったのが,

ある日学校から帰ってくると,何に使うのかは知らないが,明日までにこういうコードを書けと言われて徹夜プログラミングしたりするようになった.

時々は他人の書いたコードを別環境移植する仕事をやった.

プロの書いたらしいコードを読んで書き直す作業は,かなりの勉強になった.

給料は親父から手渡しで貰ったが,今まで見た事もないような額になった.

その金で新しいマザーボードPentium IIと32MBメモリを何枚かと,自分の開発環境用にWindowsPCを作った.

こんな感じで高校には通っていたものの,勉強らしい勉強ほとんどしないで過ごした.

当然大学入試は全部落ちた.

それでも,手に職はあるわけだし,しばらくは同人ゲームでも作って過ごそうと思っていた.

だけど親父は反対で,大学ぐらい入れと言い出した.

てっきり学費ケチれる分,喜ぶとばかり思っていた.

それでもやる気のなかった俺に,

大学合格できたら最新のMacintoshを買ってやる」

一体何が起こった,このクソ親父,脳の病気にでもかかったかと本気で疑った.

どうやら正気で言っているらしいと分かると,俺も必死勉強を始めた.

そうは言っても,中学時代から受験意識した勉強なんてさっぱりしてこなかった俺には,何をどうしていいのか分からない.

しかも,やっぱり親父はドケチで,塾や予備校なんていく金は無い.

しかたがないから高校時代友達で,頭のいい大学に行ったやつにお世話になることになった.

結局2年かかってしまったが,そいつと同じ大学に入れた.

厚かましくも,キャンパスにまでついていったりしていたから,新入生として入って行くと顔見知りに驚かれた.

親父は約束通りPower Macintosh G3を買ってくれた.

だが,俺の親父はドケチだった.

今回のドケチさはちょっと予想外だった.

「せっかくいいパソコン買ってやったんだからそいつ学費ぐらい稼げ」

さすがにそいつは無いだろうと思った.

自分で遊ぶ分くらいは当然稼ぐつもりだったが,学費丸ごととは.

お前が無理言って入学させた大学なのに,そりゃないだろと.

いくら国立大学とは言え4年分の学費となると200万ほどになる.

しか教科書代やもろもろを考えると300万円は無いと厳しい.

300万円稼ぐために俺ができることと言えば,やはりゲームを作るぐらいだった.

から大学ゲーム開発サークルに入ることにした.

志望動機を聞かれて,

ゲームを作って300万円ほど稼ぐためです」

と言ったら爆笑された.

金が必要理由を言ったら,一瞬でお通夜みたいな空気になったけれど.

先輩が相談に乗ってくれて,成績優秀なら学費免除になったり半額になったりすることを教えてくれた.

それならなんとかできそうな金額だった.

大学生活は楽しかった.

学校の授業でプログラミングをやるということに驚愕した.

プログラミングをしているだけなのに,「お勉強」として扱われるなんて.

情報科学の基礎を作る数学面白かった.

今まで何気なく使ってきた道具に,こんなに深い基礎理論があるなんて,知らなかった.

講義が終わったらサークル棟に入り浸って,入学祝いMacintoshで朝までゲームを作ったりしていた.

学費を稼ぐためのゲームだが,やはりエロゲを作ろうということになった.

ただし,そのためには絵師必要だということで,先輩が漫画研究会から絵師スカウトしてきた.

かわいい女の子だった.

一目惚れした.

彼女の絵は綺麗で,エロかった.

こんなちっこくてクリクリして可愛い女の子が,こんなドエロい絵を描くなんて!

俺の頭はすっかり茹だって,も~だめだ~という感じになった.

それからなんやかんやあって,結果的彼女俺の嫁になった.

詳細は伏せるが,なかなかにこっ恥ずかしい青春を送った.

とにかく,彼女の絵を俺のゲームに入れると,

今まで○とか■とか,ちょっとしたドット絵しかなかったキャラクターに命が吹き込まれるようだった.

作った同人ゲームも,学費がまかなえる程度に売れた.

先輩たちが,売上金を快く俺にカンパしてくれたおかげでもある.

満ち足りた大学生活だった.

就職先には当然ゲーム会社を選んだ.

スーファミはもう時代遅れになったが,自分の作ったゲームが本当に発売されて,ゲーム機の中で動いているのを見た時は嬉しくて泣いた.

娘が生まれた時と,どっちがと思うくらい泣いた.

さて,俺のドケチな親父だが,娘が生まれてほどなくして死んだ.

あんなにドケチに金を惜しんでいたのに,財産も何も残さず死んだ.

遺書を読んだら,葬儀簡素親族だけで行うように,とあった.

最後最後までドケチなまま逝った.

親戚付き合いらしい親戚も居ないし,どうせ誰も来ないだろうと思っていたが,

葬式当日には呼んでもないのに大勢の参列があって,なんだこれは,人違いかなにかかと思った.

なんでも,親父の運営するNPO法人従業員だとか,親父の寄付金で建てた養護施設代表さんだとか,

親父とは無縁の世界の住人だとばかり思っていた,立派な善人ばかりだった.

家に居ないことの多い親父が外で何をしているかなんて興味なかったし,どうせ競馬かなんかで稼いでるんだろうと思っていた.

最後最後さら最後まで,面倒事を運んでくるクソ親父だ.

葬儀が終わって,ちょっとした額になった香典の山を眺めていると,

「さあ自由に使っていいカネだぞ.お前はそれで何をするんだ?」

そんな声が聞こえてくるようだった.

なんだかむかついたので,その金は今まで通った学校プログラミング関係の本を寄付するのに使うことにした.

一銭も残さずに,全部.

それでもなんだか負けた気分だったから,ボーナスをつぎ込んで,倍額にして寄付してやった.

ケチなクソ親父を,見返してやった.

最高の気分だった.

それが6年ほど前の話だ.

ところで最近小学校に上がった娘が,アニメに出てくるようなフリフリなドレスを着て学校に行きたいと言い出した.

うそんなお年ごろになったのか.

女の子の成長は早いものだ.

子供には不自由させたくないと思っていたが,調べてみると我が子の眼鏡にかなう服は,日常的に着る服にしては,ちょっと高い.

悩ましい問題だ.

家の家計は諸事情により逼迫している.

さて,どうやって安上がりにすませようか.

2014-07-23

素晴らしい

http://anond.hatelabo.jp/20140723014631

神童元増田です。素晴らしい!この家に産まれたかったです。

また、今はい時代になったのだとも思いますネットで受けられる大学の授業も増えていますし。

 

ちなみにベーマガは何号か買っていました。掲載されていた例を参考にテトリスアルカノイド自作してみたりもしましたが、買ってきたゲームの方が楽しくない?という周囲の友人の指摘にそのとおりだと納得してしまい、そのままに至ります

長男が、知的好奇心を分かち合える友人を見つけることができるといいですね。

 

2013-01-27

パソコン

パソコンゲーム機代替で、ファミコンがなかったかパソコンをいじってた。

たぶん、小学校入学する一年前だったと思う。

当時、我が家ファミコンがなかった。

親戚のおじさんがくれたMSXROMカセット一つをくれたので、それで遊んだ

パチンコレースゲームだった。

しかし、ぜんぜん面白くない。

そりゃ、おさがりが最新機種なわけがない。

1世代前の機種と、そこからさら1世代前のゲームだ。

友達の家でやったスーパーマリオに比べると、カスだった。

保育園の年長組の自分でもわかった。

なぜか、BASICに興味を持った。

MSX-BASICひらがなが打てて、青い画面に白いひらがなが綺麗だったというそれだけの理由だった。

保育園の年長組の自分にはワープロのものだった。

時が経ち、漢字もそこそこ読めるようになった小2の頃(読書が好きな子供で、小学生が習うような漢字は小2でだいたい読めたと思う)、付属解説書を読むようになった。

実際、それはまあ面白もので、数の加減乗除数字文字の表示、ループやIFといった簡単命令について読み進めていくとブロック崩しプログラムが出来上がったりしたのだ。

実は小学校2年生の自分は、かろうじてアルファベットが読めた。

読めたというか、文字として区別出来ただけだが。

母が「楽しいABC」という新聞広告の教材を買ったせいである。

会話編と単語編があり、母は会話編が子供向けかと思ったらしいが、自分単語編、というかアルファベットしか興味を持たなかった。

読み方には興味がなく、純粋に形として覚えた。

Aを「エー」と読むからなんだっていうのだ。

ひらがなカタカナのように、それを覚えれば音を表せるというわけでもないのに。

が、MSX命令するときには、アルファベットという記号を使えばいいということを理解した。

まあさておき、BASIC命令英語としての認識はなかった。

記号24種類あるというだけだった。

MとNを記号としての区別はできたが、それぞれどっちをエムと読み、でどっちがエヌと読むかはわからなかった。

IFはIという文字とFの連なったもので、その塊で意味をなしていることは知っていたが、"イフ"と読むことは知らなかった。

しかし、もしも~という命令必要だということはわかってた。

ブロック崩しを改造して、シューティングゲームのように自機から玉を打てるようにしたあたりで、のめり込み、「ポケットバンク トランプゲーム集」からテープレコーダーに保存して(その機種はフロッピーディスクがなかった)

プログラムに興味なんかなかった。

ただ、ゲームがしたかっただけだ。

そうこうしてるうちに、弟がごねてファミコン我が家にやってきた。

小学校4年生のときだったと思う。

MSXなんか忘れて熱中した。

自作ゲームなんかよりずっと楽しかったもの

しかし、ファミコンが壊れた。

そして、ほどなく叔父さんのおさがりのMSX2がやってきた。

夢のフロッピーディスク搭載機。

ディスクステーションMSXファン付録ディスクにはゲーム10本以上つめこまれていて、ゲームに飢えていた僕ら兄弟にはたまらなかった。

解凍に1時間くらいかかったけどね。

BASICときと同様、やはり英単語を知らぬままDOSの使い方をおぼえた。

しかしそれもつかの間、ほどなくファミコンが治った。

というか、ただの接触不良だった。

再びMSX2はほこりかぶるようになった。

っていっても、たまに起動してたけど。

同時期、PC9801がきたが、ろくに触らなかった。

母親ロータス1-2-3を使ってた。

いまでもエクセルをろくに使えないので、当時どのくらい使えてたかは謎だけど。

ファミコンソフトを買うお金がなかったから(実際、弟が駄々をこねればソフトなんていくらでも手に入っていたのだが、駄々のこね方を真似ることが出来なかった。いまでも出来ない)、ベーマガプログラムをPC9801に打ち込んだりしたものの、なんだかN88BASIC面白くなかった。

ファミコンに飽きると、MSX2ばかりいじってた。

弟はMSX2のときBASICに興味がなかったので、誰にもそういう話はできなかった。

turboRが欲しくて仕方なかった。

値段は張るけど、自分プログラム入力すれば今後ソフトはいらない!という狂った考えだった。

しかスーパーファミコンがやってきて、弟に「~っていうソフトがすげー面白いらしいぞ!」っと吹き込み、弟を通じて親にソフトを買ってもらうという方法を覚え、夢にまで見たゲーム三昧生活

その頃はMSX2のフロッピーディスクドライブ調子が悪くなり(たぶんベルトが伸びたんだと思う)

エロに目覚めてPC98のエロゲをしたり、インターネットエロ画像を漁りたいためにWindows95をいじったりしたが、やっぱりプレステのほうが面白く、そんなにはまらなかった。

大学生社会人になると、エクセルワードパワーポイントを覚えていった。

今でもパソコンに興味がもてない。

Officeメールブラウザがあれば他にソフトはいらない。

おわり。

2011-10-07

ドロップアウトしたら Apple で働くことになった話

Steve Jobsのスタンフォード大でのスピーチ翻訳ありがとうございます

ドロップアウトというほどでもないかもしれないけど、人生万事塞翁が馬、というお話NHK でのインタビューで SJ 本人も言ってますが10 年先なんて未来のことはわからないです

江島健太郎さんみたいな自分語りの話になってしまうんですが、私もベーマガで育った世代で、高校の時は N88-BASIC という今は懐かしい言語を叩いていました。

そのままパソコンどっぷりな路線を走っていれば、いちプログラマとして今頃どこかの会社デスマに参加していたのかもしれませんが、大学海外旅行に目覚めた私は、リアル世界のほうがおもしろい、これ、リアルドラクエじゃん!とパソコンのことは忘れ、バイト旅行を繰り返す大学生になっていました。1 年くらいぶらぶらしたりもしました。

海外のいろんな国のいろんな人たちの生活を見ていると、日本既定路線に乗ってあくせく働くのがなんだかおかしく思えてくるんですね。だって米ドル換算のお金では日本人はるか金持ちしょうが、そんなお金はなくてもみんな楽しそうに暮らしてる。何してるんだかわからない人たちがたくさんいて、だからって暮らせないわけじゃない。もちろん、通りすがり旅人に過ぎない私には見えてないものはたくさんあっただろうし、逆に日本にいたって皆が皆、杓子定規な生活を送っているわけでもないっていうのは、後になってまた悟るわけですが。

はいえ、これと言ってやりたいこともなかったし、大学勉強ももうやめてもいいかなと思いつつ、一応理系学生だった私はそのうち研究室を選ばなければいけない時期に差し掛かりました。当時は AI と称して人工知能とか流行ってたんですが、ここで昔の血が少し騒ぎ出し、ちょっとまじめにプログラミングをやってみるかと思い、情報工学系の研究室に応募したんです面接では僕は燃えます!みたいな受け答えをし、それなりに手応えはあったかなと思っていたんですが、蓋を開けてみたら、不合格でした。燃えますといいつつ、勢いだけで中身の伴わない若造だったから落とされたかなと、振り返ってみれば思います。真面目に勉強したいという人は他にもいくらでもいたわけで。

二次の応募とかもあったんですが、似たような結果で、最終的には一番人気のない情報工学とはまったく関係ない研究室への配属が決まりました。ちょっとやさぐれましたね。ところがこの若気の至りかプチ挫折のようなものがなければ、私は Apple で働くことにならなかっただろうし、間違いなく今の会社でも働いてなかったと思います

すっかやる気をなくした私は、その研究室でもメインストリームではなく、傍流のテーマをやることになりました。その傍流の研究リードしていた院生Mac を使っている人で、そこで私も研究室の隅にあった Mac を使うことになりました。Macintosh Classic でした。メインストリームNECパソコンとか使っていたので、そっちに行っていたら、やはりデスマ参加者になっていたかもしれません。

そして研究に夢中になる代わりに Mac に夢中になりました。Mac 雑誌を読み漁ったり、片っ端からフリーウェアをインストールしたりとかしてました。自分Mac も手に入れました。トラックパッド搭載の PowerBook で、以来、私はトラックパッド派ですThinkPadトラックポイント派の人とは永遠にわかりあえないでしょう。AppleMagic Trackpad をリリースしたときは、俺の時代がきたと思いましたね。

Mac に夢中になる一方で、大学を出たら何をしたいというのもなかったんですが、就職活動はしてみて、大きくはないがそれなりにおもしろそうな仕事を取って来てる会社に、システムエンジニアとして内定をいただきました。ですが、詳細はまた別の長い話になってしまうので割愛しますが、結局内定は辞退してしまました。大学は出たもののいわゆるプータローになったのです海外ぶらぶらしすぎると、良くも悪くも開き直ってしまうんですよね。

また海外に行ったりして、帰ってきたところで、たまたま声をかけられ、小さな事務所の立ち上げから手伝うことになりました。ここで偶然か必然か、社長Mac好きな人で、事務所で使うパソコンは全部 Mac を使うことになります。私はそのセットアップやメンテナンスをやることになりました。メイン仕事海外とのやりとりで、必要に迫られてそこでなんとか英語の読み書きも覚えました。

それからまたいろいろあって、その事務所をやめ、再びプータローになったのですが、Mac 好きは大学の時からずっと継続していました。Mac情報サイトを巡回するのが日課だったのですが、失業保険も切れそうだというある日、MACお宝鑑定団Apple Japan求人の話を見かけました。受かるとは思っていなかったのですが、失業中だしダメ元で応募してみることにしてみました。

面接はもちろんスーツで行ったのですが、Apple面接担当された方々は全員 T シャツしかApple T シャツを着て現れたのが、かなり印象に残っています別に毎日 Apple T シャツを来てるわけではなく、この日はたまたまみんな Apple T シャツになってしまった、と後から聞きましたが。面接自体はそんなにうまく受け答えができなかったと思いました。でも、なぜか採用通知が来ました。

振り返ってみれば、真面目に大学勉強してたら一般企業に行ってただろうし、第一希望研究室全然行けなくて、一番人気のない研究室のさらにマイナーテーマをやることになったおかげで Mac出会えたし、内定を辞退してプータローしたり、小さな事務所で Mac の面倒は何でも見なければいけなかったお陰で、その後の Apple での仕事につながる知識や経験を手に入れることができたし、そうしたことが折り重なって Apple で働くことができたのだと思います

私みたいな人間を雇ってくれた Apple、そしてその Apple を作ってくれた SJ には本当に感謝しています。Good bye, Steve.

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