罪を犯したとき「反省」を求める、というのは実は日本含むアジアに特有の考え方らしいんだよな。
西欧思想が普通罪人に求めるのは、贖い。具体的な応報が必要で、ある意味で精神性とは関係ない。
原罪と、キリストによる血の贖い。払った犠牲の大きさ、そういうのが重要になる。
池袋暴走の爺さんの奴が最近はあったな、なんであれこんなに皆が悪いと言うかというと、罰金を払っても、懲役がほぼ確定してても、そこには精神が無いから。
日本じゃなかったらあそこまで大きなニュースにはならないと思うよ。合理的な裁判やってるだけの爺さんの話なんて。
だから、君の整理した論点って、西欧思想とか合理哲学で考えてる人たちとは、食い違うの当たり前だと思うんだよな。「反省」がないからダメ、「反省」があれば良い。そんなことが書いてある倫理の思想書はない。
東がわかってない、と君は言うけどわかってないのではないと思う。無いのよ、反省が重要なんて考えは論理の中には。文化、お気持ち、非合理の話になってしまう。
その上で、「反省」を求めることの方が、果たして絶対に正しいのか?
そういう対立というか、すれ違いが起きていると思う。
キリスト教の原罪思想って言ってみりゃ極端な性悪説で人間はすべて罪人であり、正義は神のみにあるって考え方だからな。 人間が人間だけの力で正義の側にいられるわけがないくらい...
「反省」は具体の大きさなどより、精神を求める。 ほんとにそうかなあ。 日本でも他のアジア諸国でもだけど求められているのは反省を可視化するための手続きだと思うよ。 精神の...