はてなキーワード: ブログ記事とは
地方公務員になって13年が経った。
元は民間企業の営業をしていて、諸事情があって公務員に転職した。
面接官ではないが、補佐役として面接中の受験者の斜め後ろに座って、喋り方やその他の挙動をチェックする仕事をしている。
自分のことを思い出すに、採用試験の面接では筋違いなことをして相当に苦労した。
できた!と思った面接でも、今になって思い返すと不採用にしてくれと言っているような、そんな内容だった。
受験1年目は公務員になれなかった。苦節の末、2年目でなんとか第一志望に合格できたけど、もっと早く知っておけばよかったという観点がいくつもある。
今回は、先達の1人として、地方公務員を目指す人のために面接試験で大事なことを話してみたいと思う。3点に絞って説明する。
というのも、一般人の平均を超える知能がなくては務まらないタイプの仕事が多いので、地方公務員に比べると筆記試験のウエイトが重くなる。
地方公務員にそこまでの知能レベルは求められない。ほとんどの業務は、中学校までに習うレベルの知識があれば十分に務まる。
※地域を盛り上げるためのイベントの企画・運営や、組織全体の予算を管理する業務などはもちろん除いている。
地方公務員の場合は、一にも二にも人柄や気質、人格などの人間性が重視される。理由は後述する。これが備わっているかどうかを面接で確かめることになるので、必然的に面接試験のウエイトが高い。
5段階評価で4以上の人を採用する。採用したい人の数と同じくらいしか4以上はつけないし、つかない。3を取った人は当落線上にあり、最終調整で選ばれるか、あるいは補欠合格になる。2の場合は自動的に不合格だ。少なくとも、うちの自治体で合格する可能性はない。
「筆記試験で満点近く取れたぞ!」とガッツポーズを決めることができたとしても、そんなに意味はない。仮に満点を取ったとして、面接官に「こいつ頭いいな」と思われるくらいだ。
2.どんな人が高い評価を受けるのか?
その前に、国家公務員と地方公務員の仕事の傾向の違いを述べる。ここでいう地方公務員は市の職員を、国家公務員は一般職を想定している。
・地方公務員の方が地域住民との折衝が多い。国家公務員の折衝先は法人が多くなる。ここでいう地域住民には、市会議員や工事業者なども含まれる。子ども時代に知り合った人が窓口にお客さんとして来ることは実際にある(小中学校の元担任や、高校で同じ部活だった先輩や後輩など)。
・地方公務員の方が業務の幅が広い。例えば、国土交通省だと、どこの部署に行っても、河川や道路の管理をする可能性が高いが、地方公務員の場合は、全ての中央省庁の仕事がひとつの組織内にまとまって存在する。よって、専門的な知識や技能を広く薄く身に着けることになる。
・地方公務員の方が同質性が強い。多くの自治体の場合、在籍している職員の卒業した学校(特に小中高)が被ることが多い。そのうえ、同期の1割~2割しか途中で辞めないので、どの部署にも同じような文化が定着する。例えるなら学校だ。卒業まで40年近くかかる学校といってもいい。それが市役所だ。年齢がいくつになっても「あの代は優れている。あの代は谷間の世代だ」といった話題が交わされる。
こんな世界で心も体も健康に生きていけるのは、誰とでも仲良くなれる人間であることは論を待たない。
特定の者としか仲良くなれない職員は必然的に孤立する。年を経るごとに、周りとの協調が必要になる仕事がやりにくくなり、頼られることが少なくなっていき、多くの場合は定年前に早期退職制度に応募することになる。
面接に臨む際に意識すべきは人柄だ。面接が始まれば終始スマイルを保ち、質問にはゆっくりと落ち着いた口調で最大限のわかりやすさで回答し、不明な点があればわかりませんと言い、回答に詰まったら、そのことを素直に認める。
私は凄い!とアピールしてはならない。本当に凄かったとしても駄目だ。そういうのは黙っていても伝わるものだし、面接官はエントリーシートをすでに読んでいる。
むしろ、アピールが過ぎると自意識過剰であると判断される危険がある。聞かれたこと以外は実績のアピールをすべきではない。どうしてもやりたいなら、数字で表現可能なものに限定する。
しつこくなるが、地方公務員の場合は能力よりも人柄重視で採用を行う。今では絶滅危惧種だが、かつては素行不良の公務員が多かった。市民にため口をきいたり、空残業をしたり、自宅のごみを市役所のごみ置き場に捨てたり、公用車に乗って家に帰ったり、自分は昇進できなかったので市に尽くす義務はないと宣ったり、逆に、俺は労働組合に言われて無理やり昇進させられたと言って部下にすべての仕事を投げたりといった具合に、やりたい放題の連中がたくさんいた。
それでもクビにはできない。処分できるかも怪しい。素行不良の公務員を守っている解雇規制は、同時に市民や仲間のことを思いやれる優れた職員も同時に守っているからだ。評価が低い職員がポンポン免職処分になっている官公庁があったとすれば、おそらくは政治的理由により、評価が高い職員もそれなりの頻度で免職や降格になっている。
今の40代・50代の職員は、こういう市役所の悪いOBをたくさん見ているので、同じ失敗を犯さないよう最大限に気を払っている。その対応のひとつとして、受験者の人柄を見ている。
面接に合格する可能性を高める情報しか集めてはならないし、触れてもいけない。
私の経験で有益だったのは、予備校の一室に置いてあった受験者の面接体験談だ。
この時ばかりは、高いお金を払って受講生になってよかったと思えた(社会人向けのコースを受けていた)。
今思えば、予備校講師による模擬面接もためになった。当時は、公務員ではない人間が面接指導などできるのか?と半信半疑だったが、彼らは受かる人間と受からない人間をごまんと見ている。
そんなキャラではだめだよ、と直観力をもって指摘することができる。予備校で面接指導をする講師の中には、傲慢だったり不遜だったりする人はもちろんいるが、それでも多くの講師から訓練を受けるべきだったと今では思う。
逆に、無益どころか害悪になる情報源もある。現役あるいは元公務員が書いたブログだ。
いったいどこがクソなのかと言うと――ブログ記事を読んでいてわかる。どんなに偉そうなことを言っていても、この人達は職場で高い評価を受けていない。むしろ低い評価を受けていて、その恨みつらみをブログという手段で発散している。
もしあなたが、面接対策として現役公務員や元公務員のブログを読むとしたら、この点に気を付けてほしい。そういう記述を見つけたら、すぐにタブを閉じて別のサイトに行こう。
以下に記事内容を例示する。
・残業時間が少ないと高い評価を得られない、飲み会を断れないなど職場への不満を多数漏らしている
・能力が低い職員を馬鹿にする発言(こういう人間は市民も馬鹿にする)
・副業を推奨している(アフィリエイトは100%懲戒処分案件なので特に注意する)
・給与や休暇などの福利厚生の話題や、得をする働き方など、金銭的な内容を扱った記事が多い
具体的には、これらのブログが該当する。
http://ps-kimotaku.officeblog.jp/
https://www.lifehacking360.com/
[番外にして論外]
公務員として、どんな人間が高い評価を受けるのか調べたい場合は、上に挙げたブログを読むべきではない。まして面接対策など論外だ。
逆に、これから面接対策をするにあたって効果的であると思われるブログもある。これらを挙げて結びとする。
(簡素な見た目で読みやすい。扱う内容も具体的で生々しい。下にある無料レポートは受け取らなくていい。オンライン講座への勧誘を受けることになる)
https://katigumikoumuin.com/siyakusyo-mennsetu/
(業務を進める中で起こった問題を赤裸々に表現している。後学として参考になる)
官公庁への営業活動を担当するあなたへ~元地方自治体の契約担当者による随意契約のコツ~
(元公務員のサラリーマンが書いている。実務を行う公務員の思考回路をリアルに描いている。有料(250円)だがそれ以上の価値はある)
https://note.com/innocence1/n/ne81f2831a9ae
画一的なマニュアルに沿って実施されるからだ。マニュアルがなければ、個人の経験や勘で採用活動をしてしまうことになる。だから、相性のいい面接官に出会って、個性が評価されて~というパターンは少ない。正しい受け答えの姿勢を身に着ける必要がある。
「マーフィーの法則ね」
タイナイが言うには、マーフィーの法則というのは“推測可能なことは起こりうる”って前提に基づいている。
そこから失敗の可能性を掘り下げ、ひいては日常で起こりうる不幸や不運について解析するのが、この法則ってことらしい。
例えば、置き傘をしていない時に雨が降るだとか、ニキビは一番カッコ悪いところにできる、なんてのもそうだ。
「うん、マーフィーの法則だね。僕の場合だと、深夜に書いてしまったブログ記事ほどバズりやすいかな」
しかし、挙げられた例の多くは法則というには大袈裟で、言ってしまえば“あるあるネタ”のようなものだった。
どちらかというと、認知バイアスに基づいた経験則といった方が正しい。
「うーん、こんなものを法則っていうのは、少々おこがましくないか?」
「けどマスダの言っていたことも、ほとんど似たようなもんだよ」
確かに、今日の俺の出来事で、いくつかは当てはまるものもあるだろう。
だが、それだけだ。
現時点では、俺の体験には「マーフィーの法則」っていう如何にもな呼称があり、それを知ったに過ぎない。
あの馬面教師のありがたい言葉から拝借するなら、「学んでなくても出来ること」ってやつだ。
計算式を学び、解き方を勉強しなければ答えは導き出せないんだ。
それでも俺は、この法則に自分の求める“何か”が隠されていると感じていた。
その“何か”は、かかっている靄を晴らすには頼りなく、あってもなくても変わらないかもしれない。
精々、ペンライト程度の頼りない光だ。
だが、そんなものでも、目的地の道しるべくらいは見えるだろう。
そんな予感があったんだ。
言葉をオウムのように繰り返しながら、自分の中で咀嚼していく。
そして、ふと違和感の在り処に“あたり”をつけた。
それはマーフィーの法則そのものではなく「法則」という一部分だった。
その糸を手繰り寄せられるかは疑問だったが。
「うーん……やるだけ、やってみるか」
俺は緩く決心した。
「ねえ、結局マスダは何に悩んでいたの?」
「その答えは、これから、だ」
「え、どういうこと」
伴名練編『日本SFの臨界点』恋愛篇・怪奇篇に収録された全20篇のうち、91年~99年初出の作品は
・岡崎弘明「ぎゅうぎゅう」
の6篇。
ここで、伴名練からは京大SF研の先輩(たぶん)にあたる曽根卓が出した『架空アンソロジー 年間日本SF傑作選91~99を編む』という同人誌がある。
タイトル通り、対応する書籍がない90年代の年間SFベストを選出する企画だが、上に挙げたうち「G線上のアリア」以外の5篇がこっちでも名前が挙がっている。(高野史緒は代わりに同年の「未来ニ愛ノ楽園」が選ばれている)
曽根卓は年十数篇ずつの名前を挙げているから、この年代の名作を選べばかぶるのは当然、という考え方もあるかもしれない。
しかし、ここに挙がっているのは先行アンソロジーとのかぶりを避けた、「定番」とはほど遠いセレクトばかりだ。
また各作家は当時のSF分野を支えていた存在で、どれも該当期間に相当数の作品を発表している。そこからのセレクトが共通するのはまったくの偶然だとは考えにくい。
ほかの年代については、2010年に京大SF研の会誌『WORKBOOK』に載ったという「年間日本SF傑作選を編む00~06」が入手できないので検証不可能。
でも、曽根卓のブログ記事(https://sonesuguru.hatenablog.com/entry/2019/04/04/211833)で藤田雅矢「奇跡の石」扇智史「アトラクタの奏でる音楽」が、
ツイートで中島らも「DECO-CHIN」(https://twitter.com/sonesuguru/status/780075409459118081)、
中井紀夫「死んだ恋人からの手紙」(https://twitter.com/sonesuguru/status/866997074612465670)、
中原涼「笑う宇宙」(https://twitter.com/sonesuguru/status/635871919695265792)が、
同じく曽根卓が編集した同人誌『新・旧ハヤカワSFコンテスト総解説』内の文章("城内首夫"なる書き手の詳細不明)で谷口裕貴「貂の女伯爵、万年城を攻略す」が、言及されているのを見ても
(しかも口ぶりからすると、SFファンならだれもが知っているというわけではなさそうだ)、伴名練とはかなり知識と評価軸が共有されているのが予想できる。
そう、知識と評価軸の共有だ。埋もれたSF作品に対する伴名練の知識量と熱意はもはや広く知られているが、それは孤独な読書で培われたのではなく、導き、導かれ、ともに歩く仲間があってこそだったらしい。
ちょっと調べたら、当時の京大SF研が猛者揃いで、伴名練がそこで揉まれたのは周知の事実だったようだが、自分はこれまでいまいちピンと来てなかったのでここに書いておく。
私は、5年間ほどですが、推していた大好きな男性声優さんがいました。
その方は、推し始めた時はまだ若手でしたが、今では所謂中堅声優と若手声優の間くらいの立ち位置。アニメは毎期何かしらの作品には出演しているし、ラジオもレギュラーを何本か持っています。最近…ここ1、2年ほどですが念願のソロデビューも果たしていて、推していて本当に楽しい方でした。
出演作品やラジオは勿論ですが、イベント、ライブ、稀に出演される舞台も、全通は無理でしたができる限りは追っていました。載っている雑誌も死ぬほど買いましたし、CDも積みまくりました。
推しを応援することが生きがいだと思っていましたし、実際そうだったと思います。
でも振り返ってみると、本当に推していて楽しかったのは最初の2年くらいだった気がします。
その当時持っていた1番可愛いと思う服を着て、何回も書き直して書いたお手紙を用意して、電車や会場までの道順を何回もチェックして…。開演の1時間前には会場近くでドキドキしながら友達と推しの曲を聴いて待機していました。
初めて推しを生で見て、「本当に生きてるんだ…」と感動しました。思わず泣いてしまうくらい興奮して、ステージの上でキラキラ輝いている推しが世界一カッコよく思えました。
何日経ってもその姿、声が忘れられなくて、推しへの「大好き」がどんどん膨らんでいって胸がいっぱいで、苦しくもありましたが、それ以上に幸せでした。
この時は私も高校生で、推しに毎月のように会うことは難しかったというのもあってか、推しに会いに行ったイベントは全部特別で大切でした。
もちろん、推しへの「好き」という気持ちはまだあります。でも、推しを応援し始めたばかりの時の過去の自分と同じくらいの熱量は今、全く持てません。
推しのイベントに行っても現場慣れなのかなんなのか、全然高揚感はないし、面白いと思う時もあるけどシンプルに内容がつまらなかったなと思う時も増えてきました。手紙を書く回数も減りました(自己満なのは分かっていたのですが、お手紙を受け取っている様子が全く感じられず勝手に悲しくなったからです)し、推しへの熱量が無くなっていくことをなんとなく自分の中で自覚してきました。
でも、猛烈に推しを好きだった過去の自分を思い出してしまうと振り切れませんでした。
回数は減りましたが、なんとなく現場に行って、なんとなく雑誌を買って、なんとなくCDを買って…
この「なんとなく」が、少しずつ重荷に感じてくるようになりました。「行きたい!買いたい!聴きたい!」が「行かなきゃ、買わなきゃ、聴かなきゃ」に変わっていました。今思えば推しを追うことに義務を感じていたのだと思います。
そして今、コロナの影響で現場はすべて潰れました。行く予定だったイベントは先日すべて払い戻されました。
イベントもない。CD発売もない。推しからの供給もほとんどない。
とうとう私は重荷に感じていた「なんとなく」の呪縛から解放されてしまいました。
なんだか寂しいようでもありますが、それ以上に私は、推しのいない今の生活を普通の生活として送れています。推しへの興味がなくなったかというと、そういうわけでもないですが、謎の義務感から解放されました。
推しを降りるタイミングは今まで何度もあったはずなのにできなかったのは、決定的なきっかけがなかっただけだったのかな〜と思います。
こうしてブログ記事にして文章にすることで、いよいよ自分の中でも整理がつきました。
長いこと応援させてくれた推しには感謝です。沢山の幸せとときめきをありがとう!毎日楽しかった!推しは本当に素敵な人なので、幸せになってほしいと思うし、いつだかの雑誌で語っていた夢をぜひ叶えてほしいなと思っています。
コロナ禍でオタ卒、担降りした方って私だけじゃないだろうな〜と思いながらもつらつら書きました。人それぞれに考えがあると思いますが、Twitterで各界隈で個人名を出して「担降りします」「ペン卒します」とかお気持ち表明してる方を見かけると、関係のない私でさえちょっともやっとするし、推してる方が見たら不快だろうし、わざわざ書くなよって感じだと思うので誰も見てないところに書きました。
話題のブログが釣りや創作ではないと仮定して感想を書こうと思う。釣りだった場合はまな板の上で素晴らしいと褒めたたえるつもりだ。こういう反応をしてしまった時点で釣り人の養分になったあとかな?
私は別に釣りではないので公開Twitterアカウントで分かるようにこの記事を投稿しているだろう。つまり釣られたのがわかったときは逃げられないということだ。ぴちぴち。
はてな匿名ブログでやる必要ある?という話だが昔のブログがどこかにいってしまって、はてなのアカウントが生きていたということだ。
ということで。
(リスペクト)
私の年齢はブログ主の方とガチガチに同年代ではあるのだけどさすがにそこまで細かく言うのには抵抗があるのでふんわりとした表記にしている。
私についての話はあくまで30歳腐女子さんの比較として用いるもの、また私がどの立場から物を言っているのかということを示すことが必要な部分だけを書こうと思っている。これは感想記事であって私の自伝ではないからである。
本文の前に説明しておくことがある。
まず、この記事では主題とする彼女のことを「30歳さん」と呼ぶ。彼女はブログのタイトルからお借りした。30歳腐女子の方の固有名詞がなく、だからといって頻発する人を指し示す言葉を毎回「32歳腐女子の友人側と自称する30歳腐女子」と記載するのは私が疲れてしまうからだ。これに合わせて後述する32歳の方を「32歳さん」と表記する。
次に経緯だ。こんな場末の感想を読んでる人には十分に分かっていることだろうとは思うが時間経過によって経緯が分からなくなることもあるだろう。少し長くなるが知っている人はたくさん空いた改行部分までスクロールしてほしい。
ことの発端は「32歳の腐女子」と名乗る人物が匿名のブログで自身が世間的に求められている振る舞いが出来ていないことへの反省と諦めと希望と前進について書いたことである。30代の女性としての世間的に標準とされるファッションやメイクに疎く同世代からの乖離を感じる女性の、言ってしまうと悪いのだが実はありきたりなお話である。
腐女子であることやオタクであることと年齢相応の振る舞いが出来ないというのは一切関係がない。現代においてアニメやマンガが好きで腐女子であるということは若者の特権ではないからだ。とっくに我らオッサンオバサンがメイン層である。(ちなみにメイン層とターゲット層は違う物だ。例えばポケモンのメイン層は20代30代だがターゲット層は小学生である。ターゲット層をメイン層と取り違える人はよくいる)
「年齢相応の振る舞いができない」のはただ「年齢相応の振る舞いができない」からである。速く走れないのは速く走れないからだ。AはAである。普段運動しないから速く走れないんだというのは正論ではあるが解ではない。速く走ろうという価値観がないから運動しないのであって足の速さに価値観を見出してないからこそ足を速くしないのである。
立ち振る舞いは本人の勉強と訓練で修得することが可能だ。それは「年齢相応の振る舞いをしなければいけないと思う価値観」を強化して再学習することを含める。世間の型に嵌るのは苦しいが生きていくために無理にやらなくてはいけない人もいるだろう。
………。うっかりダラダラと書いてしまったが32歳さんは今回の話の主題ではない。
それから数日後の話だ。
「32歳腐女子」の友人側の話
という前述の記事に影響をうけて書かれた記事がこちらも匿名としてブログに掲載された。はてなブログをわざわざ新規で開設したあたり匿名性にも少し疑問があるのだが隅をつついても仕方がない。
今回の記事において感想の対象となるのがこのブログを書いた30歳の腐女子と名乗る方である。つまり彼女が私の言う30歳さんである。
30歳さんは幼稚園の時からの付き合いになる近所に住む同い年の友人、みんな30歳の幼なじみが3人いたという。その友人のうちの一人(以下、Aさん)は「32歳の腐女子」と同じように幼く、その振る舞いに呆れて親切に(?)助言したにもかかわらずAさんからみな絶交されてしまった、という話だ。
初歩的なことを言っていいですか?
あまりにブログ記事が邪悪すぎてうっかり忘れそうになる。読んでしまえば頭に浮かぶのはAさんのことだろう。だけど少し待って欲しい。
(※他人のふんどしで自己顕示欲を果たすことは現在進行形で私が同じ穴の狢なので知らないふりをする)
そもそも32歳さんと同類とみなしたAさんについての記事である。それはAさんがどんなに悪いことをしているか、Aさんがどんなにみっともないかを蛇のように事細かに綴った内容である。
そしてその記事の〆は「32歳さんが私たちみたいにならないことを祈ります」だ。
「32歳さんみたいな子が友達だったんだけど、すっごい幼稚で~、すっごい迷惑だった~、人の話も聞かないし~、32歳さんはそうならないといいね!」
要約するとこうである。
32歳さんのことも殴っているわけだ。
共通点は確かにある。だけど32歳さんの記事だけで「同類」と見なすのはあまりに乱暴だ。30歳さんは昔からの付き合いでAさんのことをすべて知っているつもりになっているかもしれないが、32歳さんはあなたの幼なじみではないのである。
少しでも他人に配慮できる心持ちがあるならあんな酷い記事の〆方はするものじゃないと思う。すっかりわれわれの頭の中がAさんのことでいっぱいになって32歳さんのことを忘れたときにわざわざ「同類だから気をつけてね」と終わらせるのは言ってしまうと悪いがあまりに性格が悪い。
現実世界の交友関係における悪口を匿名の特権で放つのは仕方ないこともある。公には言えないからこそ地面に掘った穴に王様の耳はロバの耳と叫ぶ訳だが、残念ながらインターネットは公共空間である。
記事全文を読んで次に思ったのが30歳さんには文才があるなということだ。褒めている。
ジャックナイフをはじめとした比喩がダサいという指摘もたくさん見ているとは思うのだが私はそうは思わない。そこは読み手の好き嫌いだと思っている。過去にあったことを多少の脚色はあるだろうが表現力豊かに書けているなと思った。うまく順序だてて分かりやすくかける人は少ない。
なので文字書きだと思っていたのだが追記によると300部売る島中の大手漫画サークルらしい。……嘘やろ? このあたりを読むとリアリティラインが下がる。創作実話と私が疑ってしまう所以だ。これは私個人がオタクでありながら同人誌頒布というイベントにサークル参加したことがないのが原因だ。購入側としても片手より少ない数しか行ったことがない。
ブログを信じるならば、夏コミ冬コミ夏インテ冬インテの年4回参加し、だけど島中で、毎回新刊を出し、イベント後の通販を含めて300冊売り切ると自己紹介をしている30歳さんは私にとって天上の人である。
部数を盛っているのでは?という疑いがムクムク沸いてくるのだが私には常識が分からない。
世間的に求められる振る舞いに「常識」があるように、オタクのイベントにおける「常識」もあるだろう。しかし前者は当事者としてわかる事があっても、後者に対しては無知なので分からない。大手ジャンルだとそういうこともあるのかな~とぼんやりしてしまう。調べる意欲はとくにない。
30歳さんは自分をちゃんと客観視できるようになったらその文章力を発揮してドロドロのBL小説を書いて欲しい。死ネタ以外のしんどい小説にこちらは餓えている。二度と読み返したくないくらいしんどい話を読みたい。いらない自己紹介をすると私は小説派である。
文章力については以上にして、そろそろブログの内容についての感想に進もう。これじゃいつまでも終わらないので手早く。
ブログ本文のAさんについての記述の部分は散々他の方から突っ込まれているだろうが私もなるべく簡易的に思うところを書こうと思う。書いている未来の自分に託しているが長文になっていたら笑う。
まずAさんは正社員ではなく派遣先にもなじめず職場を転々としている。
これに対してあまりにも30歳さんを含めた幼なじみ3人組が過干渉である。長い付き合いだから心配するのは分かるが、友達同士で集まる度に3人に寄ってたかって将来はどうするのと数時間詰められるのは嫌だ。私は2回やられたら参加をやめる。
派遣先や派遣先の人間関係になじめずに数週間で転々とするのを繰り返している人間は当然だが正社員としても馴染めない。何週間もかけて何回も面接してようやく正社員になって1ヶ月で辞めるのなら非正規で1ヶ月で辞めた方が迷惑にならない。
しかも辞める度に友人から説教されるわけだ。うーん、地獄かな?
Aさんが年齢相応の振る舞いが出来れば解決すると思っているのが間違いである。見た目と違って言動や性格の部分は本人が意識しても変えるのが非常に難しい。Aさんだって自覚してない訳もないだろう。
必要だったのは正社員になれと詰め寄ることだったのか、30歳さんと友人たちにはよく考えて欲しい。
30歳さんは新しい財布を買ってAさんを含めた友達に見せびらかした。買ったものを見せびらかす行為自体が子供っぽい振る舞いとされるものではあるのだが30歳さんは気づいていない。30歳さんから財布の話題を出したことでAさんも新しい財布を易く買えたと財布を見せたのである。それは子供っぽい財布だったので30歳さんはAさんに呆れてしまったという。
トラップかよ。Aさんからすると新しい財布の話が出たから話を合わせて自分の財布を出したら変な目で見られる訳である。他人の財布につべこべ言うなというのは当たり前の話として、人間関係として正しい振る舞いは「Aちゃんも財布買ったんだ! いいね!」である。よりお互いがフランクな間柄なら「私の方が可愛い財布だもんね!」もアリだろう。野球ボールを投げられたからキャッチボールだと思って投げ返したら「何をしてるの?」と言われたようなものである。
Aさんは次第に友人三人と話をすることを疎うようになり友達グループに隠した別のTwitterアカウントで活動するようになったらしい。そのアカウントを見つけてしまい30歳さん達は監視するようになる。
10歳以上年下の子供とは仲良くなれないし若い子供がメイン層であるジャンルを好むことを理解できないと30歳さんと友人たちは思っている。価値観の亀裂である。人間関係の破綻はすでに目に見えていた。
長年の友人である自分たちには嘘をついて、隠れたTwitterアカウントで本当のことを書いていることが腹立たしく思ってしまったそうだ。あきらかに原因は真実を言う度に説教する30歳さんたちであるのだが。
Aさんの行動を監視しLINEで悪口を言い合うという行為自体良くないことなのだが、人間は悪口を言う生き物である。いってしまえばバレなければ大丈夫なのだが、30歳さんとその友人たちは脇が甘い。結局態度や行動に出ているのだ。そもそも過干渉を悪いと思っていないのだから当たり前か。
普通、非公開の個人間のLINEで話した悪口をわざわざブログに持ってきて「私たちはこのように悪口を言い合った」と書く必要はない。あくまで公で言えない内々の話だから言えたことではなかったのかと首を捻ってしまう。私ならよりオブラートに包んで悪口大会であったとしても「みんなで心配だと相談しあった」と記載するに留めるだろう。
以上のように酷い過干渉をした結果、Aさんにみんな縁を切られておしまいという話だ。
30歳さんは負け惜しみを言う。Aさんが悪いのだ。私はAさんと幼なじみだから親戚だから付き合っていただけでAさんみたいな人とは合わなかったんだ。
30歳さんはAさんを手放す気がなくずっと庇護下、監視下においておくつもりだったことが記事から分かるのだ。過干渉する側は過干渉される側を手放そうとしないものだ。そもそもそのブログ記事自体が過干渉の行為そのもので、関係性を切られても諦めきれずに記事を書いているのがすべての証左である。
おそらく30歳さんはAさんが反省して戻ってくることを期待している。期待しているからこそ書かずにいられなかったのだろう。
本文については以上だ。
以下はその追記についての話をしたい。
ブログ記事が拡散されて多くの反響を得たことで新しい続編となる記事を複数30歳さんは投稿した。
そこには30歳さんの事情が書かれていた………
そもそもお前の話を聞いているわけじゃねぇよ。
そんなに自己を開けっぴろげにする必要性があるのかと思ってしまう。ブログに寄せられるコメントやTwitterの感想に反論しようとして次から次へと自身やその周囲について暴露をしているのだが別に聞かれているわけではない。30歳さんは自身を正当化しようとして間違えた答えを出し続けている。
「Aさんに過干渉しすぎ」という意見の反論が、「Aさんと私は親戚で家庭環境も知っているから心配になった」である。
聞いてないです。
「雀の涙の貯金額を自称する30歳さんがAさんのお金の状況を言えるのか」の反論が「そんなに私は貯金少なくないし乗用車が買える現金がある(笑)(マウント)」である。
「Aさんにも事情がある。就職については色々な悩みがあるのだ」の反論が「私も昔は責任感のない非正規だったが色々な事情があって一念発起し正社員になった」である。
だから何なんだ。
すべての情報の開示はすべての反論への自身の正当化である。こういう事情があるから私は悪くない、と言われても困る。あなたは悪い。そして言い訳をしているせいでより悪い。Aさんという個人に対して30歳さんがしている行動や発言が悪いことを責められているのであって30歳さんの事情は聞かれていない。
そして読んでいて感じるのは『自分はAさんより優れている』という主張である。自分はオタクではあるし恋愛面など至らないところもあるけれどこういう仕方ない事情があってAさんとは違って社会的に求められる振る舞いがきちんと出来ている、と。
自分に対して至らなくて仕方なくて大変だと言うのが分かっていて、その言い訳ができるのなら、それはAさんだって同じだろう。
おそらく私の感想が本人に届いたとしても30歳さんが改めることはないだろう。他人の思考や行動をより他人が言ったとして従う必要はないからだ。
世の中は怖いなぁ………
そもそも『宇宙塵』の半世紀前の号に載ってた短編やら30年前のマイナー雑誌に載ってた短編やらを発掘して誰でも手に入れられるアンソロにまとめたってだけでめちゃくちゃ偉いんだから、表紙を伴名練の好みに沿ったものにするくらいは当然の権利だろう。嫌ならそれこそ買わなきゃいい。
個人的な感想をいえば、シライシユウコ絵が「マンガ・アニメ的絵」だという意識はあまりなかった。林静一から中村祐介に至るイラストレーターの系譜(もちろん彼らにくらべたらややまんが的ではある)に連なるような存在として認知していた。
ヒョーロンカの人があれを「萌え絵」と呼んでたけど、は? 萌え絵? どこが? って感じだよなw 節穴アイにもほどがある。これでよく評論家が務まるな。
萌え絵ってのは『紫色のクオリア』や『ロケットガール』や『ふわふわの泉』や『スプライトシュピーゲル』や『涼宮ハルヒの憂鬱』や『ある日、爆弾がおちてきて』や『イリヤの空、UFOの夏』の表紙みたいなやつのことを言うんだよ。
あ、『ふわふわの泉』はファミ通文庫で『ロケットガール』は富士見ファンタジア文庫の方な。ハヤカワ文庫JAじゃなく。『ある日、爆弾がおちてきて』もメディアワークス文庫じゃなくて電撃文庫な。
まあ節穴ヒョーロンカ様の目には『サマー/タイム/トラベラー』あたりも「萌え絵」に見えちゃうのかもしれないけどねw シライシユウコ絵が萌え絵に見えるマンはマジで表象とか文化史とかに口を出す資格ないと思うよ。思想信条じゃなくて能力の問題として。
『なめらかな世界と、その敵』あたりが萌え絵とオサレ絵の境界線上な感じしない? まあこのへんは人によって判断が分かれるところだろうけどさ。
だが、他人の感じる「恥ずかしさ」を「時代遅れ」と切り捨てることなく、あるいは読者同士で向き合うことで、ある方向へ流れていけるかもしれない。そこから先は、未来の話だ。作家たちの語るべき領域だ。
時代遅れって切り捨てていいと思うよ。
俺、伴名練と同年代だけどさ、中学の頃って『アリソン』の表紙ですらオタクっぽくて敬遠されてたりしたんだぜ。『マリア様がみてる』すら堂々と読むの憚られる雰囲気あったよ。
そこから、あちこちに萌え絵があふれて、多くの人がそれを受容する時代になったんだよ。いい年こいた大人が堂々と萌え絵の本を読む社会になったんだよ。マジで意識のアップデートを実感するよ。
新しい表現が生まれて自由競争の結果覇権を握ることによって萌え絵が駆逐されるなら進歩だけど、最近は萌え絵がはびこってけしからん! なんてのはただの反動だろ。
そもそも発端のtweetした人、こんなtweetもしてるんだよね。
「オラ女性SF作家特集のブログ記事書くぞ!!!」どーせ「それはSFじゃない」とかボロクソ言われるんだろうけど知るかボケ~。ゼロスタートなのでオススメ教えてください!特に国内作家。
国内の女性SF作家がゼロスタートって、こいつ菅浩江も新井素子も高野史緒も上田早夕里も読んでないの? って話だよな。
『そばかすのフィギュア』も『永遠の森 博物館惑星』も『アイオーン』も『ムジカ・マキーナ』も『華竜の宮』も読んでなかったんすね、っていう。
いや別に読んでないのは何も悪いことじゃないけど、それでSF界のジェンダー問題に物申しちゃうの失笑しない? お前完璧に門外漢やんけっていう話でしょ。何偉そうに「SFの表紙って女の子ばっか」みたいなこと言ってんの? アホなの? 2019年にSF界隈で流行ってた作品のうち『天冥の標』と『三体』と『息吹』の表紙には美少女おらんやんけ。『アステリズムに花束を』も『なめらかな世界と、その敵』もオサレ系の絵であってそこまで萌え萌えしてないよな。
SF1,000冊とか言うつもりないけど本屋でハヤカワと創元の棚の前に並ぶだけで吹っ飛ぶ固定観念を後生大事に抱え込んだやつなんて最初からお呼びじゃねえんだよ。
最初からSFに興味なんてないんだろ? だったら「SFの表紙はどれも恥ずかしいから手に取れない!」じゃなくて「SFに興味ない」って素直に言えばいいんだよ。別にそれは何も悪くないよ。俺も海外文学とか(SF・ミステリを除けば)興味ないもん。興味ないくせに「SF小説とかアンソロの表紙って漫画・アニメ絵の女の子ばっか」なんて言うからツッコまれるんだよバーカ、って感じ。
(アンソロの表紙が美少女ばかりって真顔で言ってるってことは『年刊日本SF傑作選』の存在自体を知らないってことだよな。『傑作選』も知らないやつがSFの表紙は○○ばかりとか言う資格ある?)
アニメ絵が嫌いなSFファンやSFに興味がないアニメ絵好きが口を出すならともかく、アニメ絵が嫌いでSFに興味のないやつがSFの表紙のアニメ絵に口挟む権利がマジでどこにあるんだ? お前関係ないやろ、と、アニメ絵好きのSFファンとしては思うのです。
まあ反応せずサンドバッグになれってことだよなあ。ご提言ありがとうございますとか反応したって信者は叩くんだし・・・。
誰も彼も「売れるから」で思考停止している気がしてならない。いずれにせよ面倒なので関連ツイート全部消しました。要は『チャンピオンたちの朝食』のキルゴア・トラウトの作品が載ってるポルノ雑誌と同じ事で、深く考えちゃダメなやつなのかも。
今回の件で決めた、「オラ女性SF作家特集のブログ記事書くぞ!!!」どーせ「それはSFじゃない」とかボロクソ言われるんだろうけど知るかボケ~。ゼロスタートなのでオススメ教えてください!特に国内作家。LGBTQの作家の作品とかもやりたいなぁ。
某プログラマーの十数年前のブログ記事がバズっている。それを読んだ前提で書く。あの記事への呪詛めいたものだ。
そりゃあお前から見ればお前以外のプログラマーは全員意味不明な大馬鹿野郎にしか見えないだろうよ。お前がそう感じるであろうことには同意する。1日100行しか書かない奴なんて仕事サボってるやつだしそれ以下のやつなんて無益な物体でしかないよな。気持ちはわかる。でもそうなるしかないんだよ。俺は俺たちはお前の思うゴミカス共程度のモノにしかなれない。何が論理性を捨てろだ?感覚でできるから感覚でやれるだ???逆だろ論理でしかできないから論理でやってんだよ。なんでその程度のことが認識できないんだ?????
例えば絵を描くときに「見たまま描けば写実的にかけるよ」なんていう情報量0のウンコを頑張って無視してやれ骨組み人形だの解剖学だのツイッターに貼られる4ページHowto解説だのを頼って一足飛びで「描けるという結果」をひねり出してんだよこっちは。その頼る解説だって基本的に糞だ。例えばスポーツに関してでもyoutubeに大量にある「誰でもできるバク宙講座!」みたいなカス動画は誰でも《任意の高度な身体動作を代入してください》をできると言いながらそれを実行するために必要な基礎身体能力(筋肉量・体幹・柔軟性etc)に言及してすらいない(してるやつがいたら教えてほしい)。どいつもこいつも適当なことしか言わない。高校の頃に居た数学を教えるフリしながら「なんで分からないのかが分からない」と言いまくってた教師みたいなもんだ。もう一度言うが感覚がないやつは感覚じゃできないんだよ。感覚でやればできるんだから感覚でやればいいなんでやらないの???という主張は感覚でできないやつには一切なんの関与もしない。無だ。0だ。虚無に対しては無視する以外のどの手段をとっても俺たちにとって不幸だ。だからどうでもいい。才能のある人達同士の毛づくろいとしてだけ消費されるべきだ。その用途なら存在価値があるだろう。
件の記事は総人類の大半を占める凡百共には一切関係のない話だ。論理的思考を放棄せよだ?唯一の戦う手段を捨ててどうすんだ???????才能と感覚のないやつがやっていくための手段をこき下ろしてバカにして楽しいか??????????こっちはしたくもない努力を努力して努力するんだよヒーコラ言いながらクソみたいな思考をエミュレートしてんだよそれがどんだけ処理の遅いもんだったとしてもそうするしか無いから。なーにがこれは誰にでも実行可能ですだよここが一番腹立つわどういう見識ならそんな嘘八百がでてくるんだよご丁寧に別記事で方法論めいた怪文書まで用意しやがって嘘を嘘とすら認識できてないのか????????????
あの記事のことはさっさと忘れろ。意味がない。悪影響すら及ぼす。糞が。糞が。クソが!!!!!!!!!!!!!!
小学二年生のときにプログラミングを始めたという才能人(さいのうんちゅ)の意見なんてちゃんと無視して自分の人生をやりましょう。それがいいと思います。
あと、多分俺はあの記事を書いた本人よりそれを拡散してツイッタートレンド1位に持ち上げた奴らの方により腹が立っています。ちゃんと無には無だと言うか皮肉でも言って返す程度にしましょう。でなければスルーしましょう。
あとあの記事は2007年のものなので、今現在の氏がどう考えているのかはわかりません。
以上です。
ゴミカスうんちを読んでくださってありがとうございます。
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今までは、ただ荒れている海を時たま平和なところから眺めていただけだった。
そして、たまたま見かけた漂流物に対して思ったことを気まぐれに書いて見ようと思った。
ここから書くことは、現段階書いている私には公開するかもわからない文章であり、該当のブログ記事に対して思ったことを気ままに書くだけなので何かを伝えるというつもりは一切ない。自分のなかのことを整理しようと思っただけのことで、こばるさんが何を思おうと私は興味はないし、これを読めというつもりもない。
発端はそのブログであっても、おそらくは私の思ったことまとめに終始すると思われるからである。
以上のことを踏まえて読むかを決めてもらいたい。
これは自己保身という人もいるかもしれないが、私にそのつもりはない。
匿名で、なんの影響を被ることもない場所で、ただ書き散らかす文章だから一切の重みはないということを読んだ人皆に伝えるという意図の、私の責任感の表れと取ってほしい。この文章はただの電子ごみだ。
私は、このブログの題名に名前があがっている方のCFにまつわる問題を時たま眺めていた。最近の出来事などの一連も一通り見ていたつもりではある。
私には、一切法律的知識、CFの知識はないため、収支報告を求めるものに、「まあそりゃあ疑念が湧いたら事実確認をしたくなるよね」程度のことを思うことしかできない。これは、お使いに行かせた子供がお金をちょろまかしていないか確認したい、というような感覚と似ているのでCFに適用できるのかは私には判断はつかない。
私はここで、この方の問題について白黒をつけたことを書くつもりはない。あくまで、こばるさんのブログについて思ったことを書くというつもりだからだ。
このブログ記事は「CFした方がネットリンチをされている」という前提で書かれている。(題名からしてそう)
なので私がそのことについて書くということは、その前提に対して物申すということになってしまう。
そうなると、私の考えたいことと外れていくと思うのでとりあえずそこは保留にしておく。
以下、本文を引用しながら書いていく。
ヌメさんへのネットリンチに加担し続けている人たちへ。
あなたたちは愚かです。
優しさに賢さが追いついていない人、賢さに優しさが追いついていない人、その両方が見受けられます。
優しさに賢さが追いついていない人は、大局を見る能力がありません。「優しい」という自己イメージに捉われて、その表面的な振る舞いからはみ出す勇気がないだけの愚か者です。
賢さに優しさが追いついていない人は、あなたが学んできた知識を、愛情を持って世界に還元しないところを見ますと、やはり愚かだと思います。
正直言うと、私はこの「優しさ」や「賢さ」という言葉が何を指しているのかがわからないため、ここは飛ばす。
ただ、「寛容な世界づくり」という言葉から、弱者にやさしい世界をということなのだろうかということを何となく推察するに、この人々は強者に当たるのだろう。そのあとの、声を上げる、などは最近話題のトーンポリシングもろといった感じである。これ以降のところで語気語調で判断するな、といった内容のことが書いてあることだし。
トーンポリシングに関しては、議論の場は対等な人同士が様々なものを用いて議論をするという理想があるが、そこにも権力関係があるのだということを自覚しよう、といったものであると私は認識している。(何かで読んだ、何だっただろう…)
恥を知り愛を知る、は、まあちょっとよくわからない。思いやりだろうか。悔い改めるとかだろうか。
5年後、10年後に、あなたが自分自身の行いを恥じたとき、過去のあなたの行いを誰も責めてはいけません。
もちろん、今あなたがそれを行なっているならば、咎められるでしょう。法に基づき裁かれることもあるでしょう。
あなたの積極的または消極的な加害行為が、今、あなたからの加害を受けている人の心の安寧よりも、優先して認められることはありません。
これはまあ、おおむね一般的な考え方であるように思われる。罪は裁かれ償いをしたら一種チャラである。あとは良心の問題。
まずあなたは、あなたが何に依らなくても、あなた自身が当たり前に存在してよいのだということを、深く理解してください。
これはまず一番最初に、あなたの心の底の底に置いておくべきあなたの自己肯定感です。
あなたが今それを得られていないなら、とても悲しく、残念なことです。
自分自身の心を明かし、賛同でなくとも肯定されることが、あなたが世界を信頼できる根拠になるということを、ぜひ知ってほしいと思います。
自分自身の心を明かす勇気を、あなたの愛する、信頼できる人に向けてください。
その信頼が報われたとき、あなたはあなたのための自己肯定感を得られるはずです。
その経験を得たとき、その自己肯定感や誇りが、他者にとっても同じ、誰にも脅かされてはならないものだということを、想像できる人になってください。
ここはいささか唐突に思われた。なぜここで自己肯定感の話なのだろうと率直に思った。
自己肯定感がないからこそ、曰く「愚か」な行為をしているという考えであるのかと推察するが、「自分自身の心を明かし、賛同でなくとも肯定されることが、あなたが世界を信頼できる根拠になる」という点では、賛同/肯定をされた時点でその賛同/肯定されたものが、結論として善であろうと悪であろうとその内容はかまわないように受け取られる。
それとも、「愚か」なことであってもその自己肯定感が生まれたらばそれ以降回心できるはずといったようなことなのだろうか、私には少々やはり呑み込めない。
ある層に受けることを言ってしまったらその承認におぼれてしまい、そこから抜け出せないこともあるのではないか、等々考えてしまう。
まあやっぱりよくわからない。
あなたが何かを決めない限り、あなたは誰にもジャッジされることはありません。
あなたは、いつでも世情に合わせて、怒られないための「正解」を選ぶことができます。
あなたは卑怯です。安全な場所で、物事を見定めているつもりになっている自分自身のことを恥じてください。
私としてはここが一番の山場であった。ここで、こばるさんは他者に対して「対立する勇気」求めている。
私はここが一番引っかかった。
「意見を表明する勇気」ではなく、「対立する勇気」であり、「中立」、決めかねるという一つの判断を否定していると思うからだ。
以下は、浅い知識によるものだから、最初に書いたことを思い返して、あまり真に受けないで読んでもらいたい。
私は、この言葉を読んだとき、エポケーという言葉を思い出した。
エポケーは、判断停止や判断中止とも言われる。これは、懐疑的なものの見方として生まれたもので、常識などを棚上げし、事実を見るというようなことである。「これまではそうだった、だからこれからも違いない」ここに対して待ったをかけるようなものと私は習った記憶がある。思考停止とも違うということも。
判断を停止するということは、結論を下すことを中止するということで、こうだった場合にどうなるかといった想定をしてその場合の結論としてはどうなるか、と考えることをやめるわけではない。
判断停止をし、意見表明をしないということは確かに叩かれるものがないという点で「無敵」かもしれない。
しかし、むやみに敵を作るような行為は慎んだほうがよいのではないだろうか。対話が可能と思えないのならば、口をつぐむということも選択肢に入って来るのではないだろうか。そこで人は絶対に意見を言わねばならないというのは酷であると私は思う。
立場を明らかに、意見を表明できないのは、冷笑主義でもない限りそれ相応の判断停止の理由があるのではないか。
または、明らかにするほどのことではないという一種の”判断”でもあるだろう。
ここをおして判断を迫るのならそれ相応の論拠を明確に提示していく必要があるだろう。
また、全貌を知らないままに下した判断には危険性があるのではないかと言いたい。
ヨクシラという言葉があるが、ヨクシラで首を突っ込み盲目的に突っ走るというのは恐ろしいことである。むやみやたらに判断を求めたらいいというものではないと考える。
ただ、これはヨクシラで判断を下し動いている人々に対して判断を下し行動することをやめろといいたいのではなく、その判断に基づいて物事を見ることに固執しかねない、という危険性を留意しておくべきではないかという意味であり、柔軟性があるのなら、意見を表明するという言語化を通して自身の考えをまとめることができ、それを叩き台にしていろいろの人との対話をすることで自身の知見を深めることができるため、それ自体をすべて悪いとは思わない。
これはヨクシラでない人であっても同様のことがいえると思っている。固執することは恐ろしいことである。
そして、これらの話はどちらか、いずれか、なんらかの想定されるコミュニティに与するという話ではないと思う。
私は、「対立する勇気」という言い方にどうしても、二項対立ですべてを説明しようとする姿勢が見えてならない。
人々はそうそう一枚岩ではないだろう。学校のクラスの分裂ですら、賛成反対と大きく分けてみた中をのぞけば、容易にその中の分裂が見える。
「有力な参謀」という言い方も、ある組織構造を持った何かを想定しているように思える。
ここ以降は、声を上げるリスクについての説明などで、黒人の男性が黒人の若者に対し言っていた言葉を彷彿とさせるものだった。
以降に関しては特に思うところはない。しいて言うなら、「数は力」という言葉と、黒人差別を意識させること自体だろうか。(全体な気がしてきた)
「数は力」に関しては正当性があると思ってのこの書き方なのかもしれないが、それはマイノリティマジョリティの流動にしかならないのではと思ってしまう。
数は結果であることが望ましいのではと、素朴に思う。まあ、綺麗事なのはわかる。正当に数を得られるように頑張ってほしいものだ。
政治について学んでおらず、社会学に関しても知見が浅いので、これは当たらないかもしれない。(田中角栄しかでてこない程度の知識である。)
黒人差別を意識させる書き方をしてることが引っかかるのは、これは黒人差別と同じものではないからだ。
差別だって犯罪だってそう名のつくものは悪いものだ。だって、リンチで差別で犯罪だから。ネットリンチを批判することに是非は問われないだろう。
ただ、ネットリンチというレッテルを誰か他者に貼ることはどうだろうか。
私は、この悪者としてのレッテルを他者に貼ることが端的に言って怖い。
これを叩かれるのが怖いということだとは勘違いはして欲しくない。
ここでは、叩かれることは問題ではない、他者にレッテルを貼ることが問題なのだ。
その時周りなどは関係ない。私とその人との問題でしかない。間違っていた場合のことを考え、極力それをしないように努めなければならないと私は考える。気分としては推定無罪、のような感じだ。自分が責任を取れないと思うから、責任を持って私はどちらに加担することもしない。
誰かが言ってるから、そんなことで自分の行動を決めてはならない。
こばるさんのこのブログ記事は、前提がもう、ネットリンチというレッテルを誰かに貼っている。
想定されているだろう個別具体的な人々はいるのだろうが明確にはされていないから、私にはわからない。ネットリンチは無くさねばならない。
たしかに当該の方にネットリンチと(法的、公的に)されることをしている人はいるのかもしれない。
それならば、その人は然るべき罰を受けるべきだ。
私もそのネットリンチをしている人々に対してのみに当てられたものだったら特に何も言おうとは思わなかった。
しかしこの記事では、ネットリンチとこばるさんが思うものについて、ネットリンチだと断定しない人間(中立)への批判がされていた。
私はそこにとても引っかかりこんな長文乱文を迷いながら書いている。
繰り返しになるが、ネットリンチだと判断するのは、ネットリンチを批判するその個人がしなければならないと私は思う。少なくとも、公的な場で決まりきっていないなら、そうなる。
それはしかし、「どう見ても正しさの欠片もないもの」と「正しいけど程度として問題があるように思えること」など、いろいろなものがあるのではないだろうか。私刑は正しいことではない。
少なくとも私は、ネットリンチというレッテルは、どこまでいったら貼って良いものなのかの知識はない。
こばるさんはそのような発言をして批判をするのなら、せめて、明確にネットリンチがなされていると自分が思う根拠を示す必要があったのではないかと思う。
しかし、黒人差別と同等なほどに、誰がみても、正当性を持って、ネットリンチと言えるものなのだろうか。こばるさんがネットリンチだと思っているものは。
ネットリンチというレッテルを使わずに、自分が目に余ると思う行為をしてる人たちについての問題提起をするということだって、一考の余地はなかっただろうか。ネットリンチとされなくても、人道的に嗜められるべき行為などはある。
私は少なくとも、一連を見てて何に義があるかというのは、簡単に言えるものではないと思っている。
いろいろなひとがいろいろなところでいろいろのスタンスで話してるのを見かけるからだ。
そこまで注視してない私ですら様々な意見を目にするのだから、もっと様々な人がいるだろう。
私が見てる中にも、見てない中にも、ネットリンチに当たる行為があるのかもしれない。
ただ、私は誰かから困っていると言われたら、然るべき対応を、としか言えない。
手に余ることをするのは、無責任だ。
デマの流布をしないことが、一番私としては誠実な態度だと考える。
こばるさんの想定には私のような問題を外部から眺めている人間などが入ってないのかもしれない。ただ、この書き方はあまりにも広範な人を巻き込んでの批判ではないかと思う。
後半の論調的にはネットリンチに気づきつつ口をつぐんでいるサイレントマジョリティーを想定されているようにも感じられたし、基本的にこのブログ記事は、正義は我にあり、と信じて書かれているように思われる。
なので、正当な判断をしたらきっとこばるさんの側につくとこばるさんは信じているのだろう。
個人的には、正義は我にありと信じてやまない、揺らがない態度というのは、少々怖いものだと思う。
たとえ考えが変わらなく思えても、問い続けることは大事ではないだろうか。
乱文なので、また編集をすると思います。ここまで読んだ人がいたら、お疲れ様です。文意通らないとこあるかもだけど許してちょんまげです。
頓珍漢なこと書いている気もするけど、暫定的に。
「法律家の主人公が荒くれ者のリバティ・バランスを射ち取り、市民から賞賛され上院議員となるが、実際にリバティを射ったのは主人公の恋のライバルだったことを誰も知らない」という話である。
映画は名作だ。
暴力が蔓延る西部において、法律を重んじ非暴力を貫く主人公ランスは、周囲からは「腰抜け」扱いされている。しかし議員になる夢を捨ててまでもリバティに挑む。
そして、自分がリバティを射った(殺した)と思っている間は、議員に推薦されても断るのだ。
片や、恋のライバルである牧場主トムは、銃の名手であり「暴力」側の人間だ。
だが彼は同時に「法による秩序」を望む人間でもあった。トムはランスを影ながら手助けしてリバティを射つ。
しかしランスが「人殺しの自分は議員になれない」と悩んでいると知り、彼にだけ真相を伝え、お前のような人間が政治をやるべきだと告げて背中を押す。トムは恋にも破れていた。
そしてランスは立派な政治家となる。トムはひっそりと死んでいく。
現代日本において、ある政策のプロセスについて質問され、「プロセスなんてどうでもいい」と発言した政治家がいた。
彼の属する政権与党はこれまでも様々な形で政治プロセスを蔑ろにしてきた。公文書改竄、統計の捏造、そして直近の議事録の不作成。
そしてその政治家は、プロセスについて釈明したブログ記事の中で、あろうことかリバティ・バランスを射った男のファンだと意味ありげに言及した。
この映画は、まだ法と秩序の浸透していない世界を舞台しているからこそ通用する神話である。
上記のストーリーと最低限の民主主義を理解していれば、その記事で名前を出すには最悪の作品だとわかるだろう。
「スーパーの入店がイニシャルごとになったら」を計算するというその着眼点は非常に興味深いものだと思うが、
やはり日本人には、アルファベット分けより、平仮名分けの方がわかりやすいだろ。
やや古いが、ア行は本当に多いのか?というブログ記事にある2011年時点のデータを使うと、
イニシャル | 世帯数 |
---|---|
ア行 | 18.1% |
カ行 | 15.7% |
サ行 | 13.7% |
タ行 | 10.6% |
ナ行 | 8.7% |
ハ行 | 10.3% |
マ行 | 10.9% |
ヤ行 | 9.3% |
ラ行 | 0.7% |
ワ行 | 2.0% |
らしいぞ。(ただし、元データは有効数字が揃っていなかったので、小数第1位で四捨五入した。)
入店を2分割にしたいのなら、タ~ヤ行(合計:49.8%)と、それ以外(合計:50.2%)で分割すると、ほぼ半々になるぞ。
3分割にしたいのなら、ア・カ行(合計:33.8%)、サ・タ・ナ行(合計:33.0%)と、それ以外(合計:33.2%)で分割すると、いい感じだぞ。
テレワークで在宅勤務が多くなった。環境を整えていて、そういえばHHKBが昨年末に新しいの出たんだなと購入者のブログ記事やYoutube動画を漁っているのだが、昔とずいぶん変わったなと思うのだ。
本業プログラマでもなさそうな、それなりにフォロワーがいる中堅Youtuberやアフィリエイト記事を書いているブロガーが買ってレビューして絶賛している。自分の金で誰が何を買おうとどう思おうと自由だけど、動画編集やブログ記事執筆でUS配列やキー省略の利点なんてあるんだろか。「カーソルはFnを押しながらで不便なのですがなんとか慣れます」とか「USキー配列はすっきりしていてかっこいいからです」とか言っているのだ。
EXCELを多用するようなときは、修飾キー+カーソル/HOME/END/PAGEUP/PAGEDOWNを駆使するので60%キーは効率が落ちるし、周りのWindowsサーバやらPCがJIS配列だらけでRDPなりVNCなりで繋いでトラブルシュートや設定作業するような現場なら自分だけUS配列だとパニックになるだろう。SnippingTool/スケッチ登場以前のWindowsでPrintScreenなしとか考えたくもない。
自分は仕事がプログラミングメインになってはじめてHHKBいいなあと思ったので、猫も杓子もHHKBみたいな風潮に違和感を覚えてしまう。異動や転職でエンドユーザーサポートなんかが多くなったらすぐに普通のJISテンキーレスか、フルキーボードに戻すと思うし。
・記号を多用するから()[]{}が隣り合っていて、;と: , 'と" がSHIFTで切り替わるUS配列が便利だ、とか、
・viやemacsキーバインドのエディタ使うからカーソル移動はhjkl / pnfb 他のショートカットで自由自在なのでカーソルキー要らない、とか
10年くらい前は記事をたどってもガチで使ってる人の記事ばかりで参考になったけど、最近は評判がいい→アクセス数が稼げる→使ってコンテンツにしよう、という思考の順序がおかしい手合が多くてげんなりする。こういう連中にのせられた人が買ってメーカーを支えることになるから、これもまあアリなのかな。それともこういう記事や動画見て買ってつかえねーってアンチになる人が増えたりするのかな。
安倍首相と会食のランサーズ HPに「25日時点で内閣府の文字があった」は誤り
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200228-00010006-bfj-soci
香山さんが指摘する「ネットで政権擁護・野党disの書き込みの仕事募集してた」というのは、過去にランサーズのサイト上で、政治関係の仕事の受け手を募集した複数の事案があったことを指していると見られる。
2017年には「当方の運営している政治系ニュースサイトのコメント欄への書き込みをお願いしたい」とする募集があった。「特に保守系の思想を持っている方を募集」とし、該当する例として「安倍政治を応援している方」「テレビや新聞の左翼的な偏向報道が許せない方」などと記され、話題となった。
最近では“【7500円(250円×30記事)】政治がテーマのブログ記事(800字文字以上)の仕事“と題した仕事依頼も掲載された。
内容の例として「タイトル:安倍総理のいいところがわかるエピソード」と書かれ、1記事あたり800文字以上・250円で、毎月30記事を依頼するものだった。
現在は、ランサーズ側が「利用規約・仕事依頼ガイドライン細則違反のため削除しました」として閲覧制限をかけ、当該依頼を削除している。