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2023-07-31

anond:20230731154029

アンケートに対する返答では無いが、

常にストックが有るうちの場合は、それはそれで非常に困ってる。

冷蔵庫の中はいつもパンパン冷凍庫の中もいつもパンパン

何か買ってきても入れるところが無く、余計なもの買ってきてと怒られる始末。

じゃあその冷凍食品いつになったら無くなるんだよ?といつも思う。

居間以外の部屋にストック品の山。

食料品なんかで、常温保存の効くもの食品庫以外の場所にも結構有る。

何千円分買うと送料が無料になるからとか、余計に買わされてるんだから止めろと言っても聞かない。

俺はがらんとした家に住みたいのに、家の中はいつも物で溢れてる始末。

それを考えると、ストック品が無くて困る事が有ったとしても、元増田が羨ましい。

2023-07-29

パートナー写真は撮っておこう

まず書くと、俺は嫁を数年前に亡くしている。

そこの詳細は省くが、先日7回忌を終え気持ちに余裕があるので、おまいらにも同じ後悔をしてほしくなくて書くぞイ!余裕と書いたが別に元気だぞイ!

嫁は写真が嫌いだった。

会社の集合写真でみんな笑顔で!とか言われてたのに1人だけすげー変な笑顔で映っていたか上層部判断で嫁だけ外されたのは今でも義母さん達と話のネタになるぐらい、それぐらい写真に対して抵抗があった。就活の時は証明写真機の前で5時間ぐらい己の中の写真嫌いな気持ちと戦って撮ったらしい。

から俺も嫁の写真は撮ってなかった、別に撮らなくても困らなかった。むしろあれだけ嫌がってるのに撮ろうという気にもならなかった、カメラを向けたら俺は殺されていたかもしれない(^_^)

俺たちは訳あって結婚式とかもしてなくて、嫁もウェディングドレス興味ないって言ってたし、まあ普通にいつも通り旅行行って、嫁の家族食事会して、ぐらいで、だから写真必要な時がなかった。ちなみに食事会の写真は嫁が撮った、結婚指輪持った俺と嫁の家族、何の写真なんだ。

嫁が死んだ時、遺影に使われたのは随分と若い時の写真だった、高校卒アルだ。義母さん達と話し合った結果、これが1番まともに写ってるねとのことで。葬儀屋の方には何度も本当にこれでいいんですね?と確認されて、本人に聞いたらこれもダメって言われますよ、って答えた。こいつらヤバい奴らだと思われていたかもな。

こじんまりとした、知り合いだけのお別れ会みたいな感じで、高校大学からの付き合いがある参列者の人達から、え?なんで?生前からの本人の意思なの?と聞かれまくって、いや実は嫁は写真が嫌いでして…って話をしたら、確かにちゃん写真映りたがらなかったねー!嫌いだったんだー!と言われて、嫁の好きな堅苦しくないお別れができて、それはそれで良かったのかもしれない。

(その後、嫁の友達から微妙に1/3ぐらい嫁の写った写真写真撮るの気づいて残像になってる嫁の写真など送られてきました、ありがたい)

遺影の話があったからか、嫁の写真ないな、と改めて思ったりした。旅行に行った先で撮った写真は数あれど、嫁が写ったものは全くない。(手とかはあるけど)

嫁との思い出は俺の中にしかないのだと、唐突理解した。

俺は怖かった、この先嫁のことを忘れていくんじゃないかって、けどその時、何をきっかけに思い出せるだろう。嫁の持ち物や、旅行写真や、そういうもので嫁の顔や声を思い出すことができるんだろうか。

結果、まあ忘れていく。しょうがないよね。旅行に行ったことも、嫁とこんな話したな、ということも、あんなことあったな、こんなこと言ってたな、これ食べてたな、とかおおかた覚えてはいるけど、あの時嫁はどんな顔で笑っていただろうか、そう思うとなにもない。こんな顔で笑っていたな、と思っても、それはもはや俺の記憶の中でしかない、答え合わせがしたいんじゃなくて、もう何もないという事実に押しつぶされそうになったことが何度もある。寂しくて仕方がない。

嫁が死ぬの前提で写真を撮るって話はおかしいけど、演技でもないけどもう死んでるから、もし嫁が死ぬのがわかっていたら、俺は嫌がっても撮っていたかもしれない、それは俺の都合で、嫁は死んだ後にまで嫌いな写真があるのなんか嫌がるかもしれない、けど俺は、ああ1枚ぐらいはあればよかった。そう思ってやまない。

年齢的にももちろん気持ち的にも再婚は考えてないし、義母さん達とは普通に家族同然に仲良くさせてもらっているので、これからも俺は俺なりに生きていく。

嫁のことを細かいことも、場合によっては大きなことも忘れていくのは寂しいけど、まあ死んだ先できっと暇そうに待っている嫁が未来はいると思うと、少し嬉しい、というか、早く会いたいって気持ちがある。お別れしないなら別に写真がなくてもいいから嫁も嫌がらないし。

別に死のうとかじゃないよ!今度義父さんとゴルフ行く約束もしてるしな!

パートナーがいる諸君パートナー写真は少しでいいから撮っておこう。毎日じゃなくても、何かあった時の1枚が積み重なったら生きてても死んでても、意義のあるものになると俺は思う。

あと、俺は俺の知らない幼少期の頃の、まだ写真が嫌いな嫁になる前の、嫁の写真をよく見せてもらう。小学生ぐらいまでの写真が山ほどある、嫁は唯一の子供だったか義母さん達が山ほど撮ってた。義母さん達の家の居間に置いてあるからご飯食べに行った時とかに適当に見ている。知らない頃の嫁だけど、それでもああ嫁だなと思う、っていう話も付け足しておこう。パートナーの幼少期の写真があって見られる人は是非見ておくといい、おすすめだぞイ( ^∀^)

2023-07-04

実家の親の面倒ってみんなどうやってんの

8050問題が見えてきたワープアこどおじ40代俺、地方実家で70代父親と二人暮らし

親父には毎月、光熱費通信費固定資産税と親父の生活費を含めて手取りの5割を渡している。

その分と年金+バブル直撃世代の貯蓄をもってすれば老後の心配などどこ吹く風……

のはずなのだが、先日親父から借金の支払いが追い付かない」との理由

この半年で俺が貯蓄できた分の同額に相当する金の前借りを求められた。


飲む・打つ・買うを地で行く父親は定年間際まで借金まみれだった。

生前の母や祖母の尽力により、なんとか近縁への借金はほぼ片付いたのだが

その2人がいなくなった今、貧乏くじはその時たまたま都落ちして実家にいた俺に回ってきた。


こどおじとは言ったものの元々自分の部屋は無く、実家に帰ってきた時に空いていた祖父の部屋を使っているので

厳密には子ども部屋おじさんではない。俺の学習机は今も居間の片隅に置かれたまま。だから何だよって話だが。

東京で鬱やって退職して、30代で実家に帰った時は自分の部屋ができて嬉しかったのを覚えている。

程なくして祖母と母が立て続けに亡くなって自分家計を支えることになるなんて当時は夢にも思ってなかったし。

(母が生きていた頃は母に手取りの3割くらいの金を収めていた。銀行行く機会が減ったと喜んでいた)


祖母が亡くなった時は母が、母が亡くなった時は俺が遺産管理を引き受けた。

親父は以前その両方の口座の管理人だったが使い込みが激しく、家族会議の末権限剥奪した過去がある。

母も「何かあった時の為に」と俺にだけ口座の暗証番号を教えていたくらい。

相続したその口座も、平均的な同世代夫婦の貯蓄の半分程度の資産だった。

母は父に代わって二世帯分の家計子ども3人の教育費を主に自分給与所得で切り盛りしていたので

父の借金を肩代わりしながらよくこれだけ残せたなと思うほどではあったが。

(なお俺が高校を出てから学費バイト奨学金自力清算した(自慢)。きょうだいの分は知らない)


親父には基礎疾患があり、今はまだ元気で車も運転できるが段々怪しくなってきている。

寡夫となり若干丸くなったとはいえ浪費癖は変わらずだし、今後の医療費も増えこそすれ減ることはないだろう。

きょうだいは皆所帯を持って県外に出ているしそちらの暮らしぶりもよくないようなので援助も見込めない。

自分甲斐性の無さも含め、先のことを考えると暗澹たる気持ちになる。

実家住まいは甘え」「老後のために2000万」とか見るたびに自分と父がどれだけ不出来であるか痛感させられる。

5年先、1年先すら自分がどうなっているか想像できない。


年代人達は、自分の親の面倒ってどうしてるんだろう。

働き盛りの現役世代なら親と自分(+所帯)の面倒を見切れるくらいの稼ぎはあって当然、なのか

そもそも親は親で自活してるから子が面倒見る必要はない、なのか

普通とされるラインが分からない。

それが分かれば自分に対して思うことが「甘えんなカスもっと頑張れ」か「不憫だがまあ頑張れ」のどっちかに決められる。これは気の持ちようとして結構かい

はてなー40代以上多いし所帯持ちも多いだろうから参考までに教えてほしい。

皆にとって親の存在負担か?



【2023-07-04 18:30ごろ追記

トラバありがとう。参考になった。

皆いろいろあって何が普通とかないかもしれんね。よそはよそウチはウチの基本に立ち返ってがんばるよ。暖かいコメントありがとうございました。

2023-06-30

暑くて寝れない日記

昨日は最高気温が29度、午後から市内中打たせ湯何億何兆本みたいなどしゃ降りが続いた日で、昼からの熱気と湿気が建物の中にこもって体からも熱が抜けず、足がじんじん熱くて眠れないのでいちばん風が通って涼しい居間の窓を全開にしてそこで寝ることにした。

居間電気は消してダイニングの赤い明かりをつけてちょっと暗くして、テレビは小さい音でつけたままソファに寝っ転がって年始ごろに買ったまま積ん読状態だった「オメガ城の惨劇」をやっと半分まで読み進めたところで、今の時間は02:09。

ここはマンションの9階なんだけど、外の音めちゃくちゃはっきり聞こえるもんだね。

ベランダにはよくこんな小さい羽でここまできたね!ってちょっと感心するくらいな小さい虫がくるんだけど、マンションの外壁に沿って上昇する風に乗って飛ばされてくるんだって以前叔母が言ってた。

音もそんな感じでここまではっきりした姿でやってくるのかな。

地上の音がほとんど隣で聞こえるみたいにはっきりしてて、こんな時間でも下のバス通り乗用車バイクが何台も通過していく走行音やエンジン音が聞こえてる。

大型のトラックみたいな車ははあんまり通らないみたい。タイヤの音が重くないからわかる。

春先からこっち晴れてる日の真夜中はほぼ毎日エンジンふかしながら走りくるってる暴走族どもとそのバイクどもは今日はお休みらしい。

雨天決行じゃないんだな。しおらしいところがある。かわいくはない。

その代わりに激しいけどなんか妙にかわいいリズムを取ってクラクション鳴らす初めて聴くタイプ暴走車が東から西へ走りぬけていった。

うるさいし阿波踊りの曲のMVベースみたいな鳴らし方でおかしい。

なんでこんな真夜中にそれをするんだろう。追われてる車とかいないといいけど。

もう今は02:46で、まだまだひっきりなしに車が走ってる。

こんな時間に、みんなどこに向かってたり帰ってたりあるいは仕事してたり遊んでたり他のなにかしてたりするんだろう。

都会とはまあ呼んでも差し支えない街ではあるけど、いつもこんな感じだったのかな実は。

部屋で寝てるときは聞こえないから知らなかった。なんか少し不思議気持ちになる。

はっきり起きて動いてる人の気配がはっきり外にあっていつもより不安ではない。

車の中の人はでも不安かもしれないな。楽しいかもしれないけど。

私はその人たちじゃないからわからなくてわからない人がたくさんいて安心する。

みんなそのうちに、もしかして明るくなってからかもしれないけど、まあ家とか部屋とか目的地に無事に着いて眠れるといいな。

私はもう少し本を読もうかな。

03:12カラスもう鳴いてるよ。早すぎか。

2023-06-20

anond:20230619142833

左手手前のドアは開け放たれていて小さな居室が見えている。ピンク色のランドセルと整頓された学習机から子供部屋であることがわかる。

子供部屋から居間を通らずに外に出れる間取り例外なく子供がグレる。その女児10年後に不良少女になっていることが暗示されている。

2023-06-12

昨年亡くなった親類のマンションの部屋をわたしの父が受け継ぎ維持している

親類の部屋は8階にある

ときおり管理のためにわたしや父が交代で出かけて掃除や整理などする

昨日はわたしが赴いたが、体調が悪くなりそのままひとりで泊まることにした

突然のことで歯磨きをするすべがなかったので仕方なくそこに残してあった介護用の使い捨て口腔用スポンジで代用する ふにゃふにゃと柔らかく隙間が磨けない

歯磨き粉の味は1年ちかく経っても変質しないようだ

夜中悪夢を見て目が覚める その部屋で亡くなった親類の太い両腕がわたしの肩を枕の真上から押さえている 夢の中でこれは夢である気づきそれで安堵する

自分のこれまでの身の上のふがいないことを親しかったその親類に叱咤されているような情けない気持ちでそのままうとうとと起きていた

朝になって鳥の声がよくきこえ、快晴、そのまま穏やかな午後になり、サンダル玄関から持ち出して居間の窓を開けベランダに出る

そこから景色をみればはるか遠くまで澄んで美しい 風のぬるい暑い

隣の部屋のベランダには美しく手入れの行き届いた鉢植えがある ラベンダーセダム名前を知らない小さな白い花、黄色い花、白茶けた低木

明けきらない早朝恐怖心にまみれたまどろみの中で隣の柔和な笑顔の住人がそれらを静かに動かす音や水をやる音を聞いていた

ベランダから真下を見おろすと一階の庭もタイル張りに美しく整えられて美しく掃除されている ばらの木、ヤマボウシの木を真上から見る

規則正しい隣や真下生活、それらはベランダから見渡す限りどこまでもどこまでも続いているが

しかしそのどれもがわたし人生に明らかにひとつもかかわりがないのだと思うともうここで終わりにしてもいいのではという気持ちが突如として湧きあがる

だがこの部屋で短期間に人死にを出すわけにもいかず見つける人のことを考える

そのくらいの世間体を気にする感覚は残っており何よりその前にも準備がある 恥ずかしいものを隠したり消したり

その懸念があるうちはなにか衝動的な誘惑に負けたまま早まらずも鬼籍の親類をふたたびもみたびも落胆させずにも済むだろうと思うがそれは美しい午後にこそ口を開けているものなのだ今日わかった

なるべくならここには一人で来ない方がいいだろうと考えながらカーテンをしめ、電気換気扇、ガスの元栓、すべてよし、最後に鍵もよし、と口に出しながら鍵をかけてその部屋を夕方に去った

6月日没はどこまでも遅い

2023-05-31

anond:20230531070314

金持ちだけだよそれ。当時は基本居間に1台だけだよ。増田ん家は裕福で良かったな

2023-05-23

居間が汚いのがしんどい

うちの居間家族の居室と合体している。

以前は片付け魔入ってるくらいキチンとした部屋で暮らしていた家族だが、鬱病発症したくらいだっただろうか。

段々と物が増え、新たに購入した物は既にある物の上に積まれるか、床に直置きだ。

もちろん通り道にも物があるから、いちいち跨ぎ越さないと行き来はできない。

故に私はもう家族の部屋にはめったなことがなければ立ち入らない。

カーテンの開け閉めくらいでは行くはずもない。

なにが嫌って、家の中で歩き回るのに、物を跨ぎ越すことほど私をいらだたせることはない。

なにもなければただまっすぐに歩けるものを、いちいちその一瞬に足を取られる。

なんなら、物がひっかかって崩れる、飛ぶ。

その度にイライラして細い血管とか神経とかがぶちぶち切れる気がする。

そしてその雑多に積みあがった物は自然とお互いを支え合い、お互いがなければ成立しないゴミの山となるのだ。

その通販で届いた段ボールいくつ取っておくの?

そこらじゅうに積みあがってるし、なんなら物も入ってる。

メルカリの発送に使うの?ふうん。

不用品はあっても、メルカリ商品紹介文を考えるのが面倒なの。ふうん。

まあ段ボールとかときどきここっそり捨ててんですけどね。

一回もつっこまれたことないから気づいてないんでしょうね。

私の居場所浸食されなきゃいいって思う?

それができりゃいいけど。

まあ物量に負けますよね。

テーブルにもアホほど物あって、こんなスペースじゃ鍋もできないし、ホットプレートも出せない。

なんでこんなにテーブル狭いのって言ってくるから、なんて返答したらいいのかわからなくなる。

いや、主にあなたのせいじゃないんですかね?

そのくせ気軽にガシャポンとか回してくる。

いや、それどこ置くんだよ、マジで

ねぇよ、余分な置き場所とか。

飾られもしない投げっぱなしのガシャポン、何体あると思ってんだよ。

放り出されてほこりまみれのキャラグッズ見るとマジで鬱。

なんかああいう形のあるものに、ほこりが細かいところにまで入り込んで忘れられた感じになってるのを見るのが嫌だ。

拭いたくらいじゃ取りきれないから、洗うしかないんんだよね。

から自分の部屋にはほぼそういう物がない。

てゆーか、人の好きなアニメキャラとかゲットしてこないでよ、頼んでないし。

私がそういうの飾らないって気づいてないの?

あなたが寄越したメイド服綾波とか、とっくに買取に出してますからね?

5年分のテレビライフスクラップしてから処分したいって言って積み場所かえてから一年半がたちました。

寒気がするね。

いやさー、スクラップしても絶対見ないでしょ。

まあ、最悪見る見ないは置いといてもいいんだけど。

スクラップして、どこしまうの?

どんだけスクラップする手間かかる?

5年分のテレビライフ(正確には1年半分追加されている)、まあ70センチ以上はありますよね。

この一年半まるっきりの手つかずですよね。

一応ときどき声掛けしてますけど、なんか半笑い対応ですよね。

なんで私が半笑いであしらわれなければならないのか?

一昨年の11月ごろに積んで、年内に片付けると言ったのあなたですよ、自分で期限切ってたんですけど?

この間ようやく整理した親関係書類ファイリングしたけどしま場所なくて結局つみっぱじゃないですか。

買った雑誌も未読でつみっぱだもんね。

5ね(ryスクラップしても置く場所ないよ?

うん、体調不良とかもあるんだよね、知ってるよ、ずっと見てるわけだから

持病を複数抱えて、治る見込みなくて大変なんだよね。

日常生活ですら、ちゃんと回せてないもんね。

そういう人になにか要求することの方が酷なのかもね、私は酷い人ですね。

ももう酷い人でいいですよ。

私は心の平穏が欲しいです。

居間うたた寝しても体が痛いと思いながら目覚めたくないです。(物が邪魔で足が伸ばせない)

憂鬱です。

キッチンとか他の場所掃除しても、驚くぐらいすぐ汚れるんですよ。

なぜか。

居間掃除してないせいで、ここからゴミが持ち出されるんですよ。

掃除ってのはね、全部いっせいにやらないと意味ないんですよ。

この間、私の居場所に猫がいたので家族が居場所にしてる方に座ったんだけど、汚すぎて寒気がした。

もう全部捨てたい。

部屋にある物全部捨てたい。

目に入る物全部捨てたい。

一切合切洗いざらいチリ一つ残さず全部捨てたい。

しかし私にはその権利がない。

ここにあるゴミは全て家族の物だから

ゴミだけど人の物だから

去年は食事中にこのゴミの山からゴキブリ出てきたんだよな。(初めてではない)

嫌になってそのときごはん途中で食べるのやめたわ。

あー、全部捨てたいな~。

以前はもっと怒りとか苛立ちとかでテンション上がる感じだったけど、もうさー、そういう感じでもないんだよね。

怒り疲れちゃったのかな。

でも部屋が片付いて欲しいっていう望みはまだ捨てられないでいる。

しろこの望みが捨てられたら、楽になれるのかな。

捨てたい、捨てたい、なにもかも。

2023-05-04

anond:20230504125158

臭い大丈夫だった?😰

…むかしオリジナルレシピラーだった実母が何から閃いたのかわからんかき揚げ天麩羅ネタ納豆を投入し揚げ始めたら洗濯前の靴下臭気台所を越えて居間まで侵略してきて大騒ぎして調理から怒鳴られたことがある~

ちな喰ったら臭いはきれい蒸発霧散たからか無臭で味は大豆の入ったかき揚げ天麩羅だった

2023-05-03

父親が死んだ日から宗教2世として思うこと

父が死んでちょうど一年になる。

この一年家族宗教について、父について考えざるを得なかった。

考え出すと、寝れなかったり不安定になることがあるので、節目に吐き出したい。

というのも、元首相の殺害や、菊池真理子氏の「神様」のいる家で育ちました~宗教2世私たち~ を読み、

私自身、宗教2世として記録と想いを書き残しておこうと思った次第である

創価学会と私】

私の母は、創価学会だ。10代の頃に友達勧誘されたらしい。

私は幼少期に早い段階で、「あれ、家の家族は周りと違う」と気づき

思春期には、親への反抗と同時に学会への不信感を募らせていった。

小学生の頃から月に何度か、知らない大人が集まる場所で連れていかれ勤行をしたり、

意味の分からないビデオを見せられたり。胸糞悪い記憶が残っている。

何も知らない友達から、お前んちの親が

選挙お願いします」

新聞取ってもらえませんか」

と言いに来る。

”お母さん恥ずかしいからやめて”

なんというか、今思えば無駄要求だったと思うが

田舎小学生にとって、周りの友達との関係が崩れていく事がどれだけしんどかったことか。

普通の家ではないということを、表に出さず、隠しつつ、とはいえ田舎だったので周知の事実だったと思うが。

幸い友人に恵まれ勉強も少しはできたので、いじめも無く、表向きは周りの子供と変わらない様に過ごせたと思う。

高校は少し離れた私立進学校入学できた。

同じ中学から進学した同級生親友になった子も、私の家族について良く知っていたが、一度も嫌な顔をせず私に付き合ってくれた。

なるべく親の世話にならず一人で生きていきたいという気持ち学会のせいで強くなり、

部活をせずバイトをフルでいれて(貧乏というのもあったが)、奨学金バイト代で授業料を支払っていた。

そしてここから成人して、就職、都会へ引っ越し、出来るだけ家族と離れることで、学会距離を取ることができた。

【父と家族

私の父は、生まれつき心臓の病を持っていた。学会とは関係無し。

物心ついた時から、薬を常に飲んでいる父の姿を覚えている。

田舎特有の気性の荒い、亭主関白父親であったが。

忘れもしない小学低学年、夜中に居間が少し騒がしく、トイレに起きた私は母に慰められながら号泣する父を見た。

バブル崩壊後の不況の中、持病持ちの父は会社から要らない人間扱いされたらしい。

そこから我が家は、どん底だったとのこと。父は病気のせいで再就職もままならない。

子供が4人(兄、姉、私、弟)。今思えば、生きて大人になっているだけで儲けもんではあるが、

母は強かった。

から晩まで、仕事を掛け持ちして皆を食べさせて、学会活動も、勤行も欠かさずやっていた。

朝は清掃のアルバイトで、私が朝起きて登校するまで家にいることは稀で、

母が夜にアルバイトしていた工場冷凍肉まんをチンして弟と食べて学校に行っていた。

昼間は保険営業をしていたらしいが、学校に行っている間なので詳しくは知らない。

たまに学校から帰って家にいるときは、内職や家事の合間に勤行をしていた覚えがある。

父は弱かった。

私が幼い頃は絶対的存在として、一家の主として君臨していた。

家族を養えなくなり、酒に溺れ徐々に精神的にも肉体的にも弱っていった。

私が思春期の時には、何度もぶつかり合った

「なぜ仕事をしない」

「酒をやめろ」

私は父が病気だと知っていてもなお、問い詰められずにいられなかった。

そのある夜に、父が紫色の顔で鼻血を垂れ流し、シャツを真っ赤にして救急車に運ばれた。

いつ死んでもおかしくない家族が目の前にいた。

兄は優秀だったが。

私とは別の私立高校特待生で通っていたが、すぐに不登校になり、ここから10年近く表に出なかった。

これは原因も私には分からない。ただ精神的に不安定人間だった。やはり家庭が関係するのだろうか。

そしてその間、私と弟は良く兄と仲違いした。

姉は男を追って遠くへ消えていた。家族の中で私と弟はこの兄が大嫌いだった。

そして私が都会に出た数年後、弟から兄が創価学会に入信したと聞いた。

私は信条自由だとその場は笑い飛ばしたが、笑い事ではなくなった。

帰省する度に、母親とはまた違うアプローチをしてくる兄。

「いつかお前にもわかる」

幸せとは何か」

私は本当に何度も実家に帰りたくなくなったが、それでも会いたいという父や母の為に顔だけ出していた。

死に体の父、宗教に偏りながらも必死子供を育てた母。

それだけで息子として顔を見せるくらいは何も苦痛ではなかったが。

【父の死】

そしてちょうど一年前、父が亡くなった。

数年前に心臓病とは別にガンを発症、末期になり3月から緩和ケアに入る。

コロナで面会が難しく、5月中旬になら会えるとのことで、連休をずらして規制予定だった矢先に。

そこで待っていたのは、葬式で揉める家族

結果的に兄の意向学会方式でやることで決定した。

墓も遠方の学会の墓に建てるそうだ。もう兄を止める者はいない、

最後に】

父は学会人間ではない。

私が見てきた限り、一度も勤行をしたこともない。

聖教新聞を読んでいるところを見たこともない。

精神的に弱かったかもしれない、身体も弱かった。

けれど父は、もっと言えば母も学会にのめりこんでいたが宗教というフィルターを通さず、

直接、私たち子供という存在を見てくれていた。

兄はそんな父をなぜそのような扱いにしたのだろう。

それが幸せだと思うからだろう。

からこの一年、私が考えているのは父に会えず、話せず。

本当に父が思っていることを聞けなかったことを後悔しているのかもしれない。

父よ、あなたは何を思ってましたか

私は宗教で苦しみました。

兄は宗教で救われました。

明日実家に帰ります

少し癇に障りますが、おそらくご本尊の近くにある

あなたの位牌に手を合わせられたらと思います

おそらく私は一生この問題と付き合わなければいけないとも思います

あなたがそうしたように。

【】

吐き出したいことをだっーと書いていったら、ある程度言いたいこと言えたっぽいのですっきりしました。

またもやもやしてたことも書いてるうちに整理できたかもしれません。

明日行きたくないなー

2023-04-02

時間空間的に切り取られた、静まり返った場所が好き

すぐ近くにうるさい場所はあるけど、切り取られたように静まり返った場所、とても大好き。

なんだか安心する。

 

小中学生の頃は実家居間にいずに、よく仏壇のある部屋や、階段に座っていた

なにをするわけでもなくボーッとしていたり、図鑑を読んでたりした。

 

そう考えると、ぽくは小さい頃からインキャの才能があったんだな、と思う。

 

高校に入ってから部活に入らなかったが、その分とても長い間教室にいた。

朝も夕方部活もないから、教室滞在し放題だったのである

 

中でも一番好きな時間は、みんなが教室に集まる前の朝早くの時間だった。

高校までは90分ぐらいの割と遠いところに住んでいたが、よく先生が正門を朝に開けてくれるのを待機していた。

 

今考えると、ちょっとビビる

 

誰もいない教室に一番乗り。

なんだか、いつも賑やかな場所なのに朝イチで来た時はとても特別空間に感じた

あの朝日を浴びながら勉強する時間は心の底から大好きだった。

二番目に来る同じクラス女の子と、いい感じになったりもした(何事もなく終わった)。

 

大学に入ってからは同じように、図書館に入り浸ったり、深夜の徘徊に勤しんだり相変わらずのインキャぶりを発揮していた。

やはり、普段はうるさかったり、すぐ外に出ればにぎやかになったりと、ワイワイしたところに時間空間的にアクセスやすくて静かなところが大好きなのである

図書館は、外に出れば無限にワイワイしている大学

深夜徘徊は、普段は賑やかな街が静まり返ったあと。

なんだか、特別感があるのと安心感がある。

 

けど、この自分の趣向にハッキリと気づいたのはつい最近

それ以前は単に静かなところが好きなのだと思っていた。

 

社会人になってからコロナ蔓延し、フルリモートワークとなった。

東京にいる意味もなくなり、少し郊外田舎の方に引っ越してみた。なんというか、リトルフォレストみたいな生活に憧れていた。

最初の頃は自然に触れ合うのが幸せで、菜園を始めたり山菜とりをしたりとても満喫していた。

 

が、やっていて虚しさを感じた。

なぞに丁寧な生活に憧れていたが、結局やりたかたことはこれだったのか?と思い始めた。

 

そこでやっと気づいた。そう、自分は寂しがり屋だったのである

なんとも都合の良い人間だ。

 

自分的には、外に出たらうるさくて少しイラッとくるぐらいの環境が丁度よかったのである

そんな空間からこそ、家や図書館教会みたいな静かな場所が輝く。

 

それに気づけて、いまは東京とんぼ返りしている。

賑やかだからこそ、家にいる時間が愛おしい。今ぐらいがなんだかんだ丁度いい。

 

そんな人間味のあるインキャな自分は嫌いじゃないし、そんなんでいいとも思っている。

2023-04-01

anond:20230331215830

玄関スイッチ

センサーライトにしたよ。

トイレスイッチ

センサーライトにしたよ。あと便座の蓋が勝手に閉じるのは今標準装備だろうけど実家が来たときよろこんで真似してた

食洗機の音

リビングの隣の部屋で妻と娘が寝てない。別の階で寝てるから、その意味はいつでもまわせるけど。

居間テレビを頻繁にみる人、

食器たまってると勝手にまわされてテレビ音とかさなって不愉快なことにきづき、

たまったら自分で食洗器を回す知恵を付けたのでありがたい。

・ロールスクリーン

奥まったとこにある北向きの和室だけ合成和紙の屏風みたいな折り目のロールスクリーンにした。いい雰囲気

ほかは薄いレースカーテンに電動雨戸

はかどるー。

駐車場の目地

庭やさん、タイルえらんだらコンクリと砂でうめてくれた。

表面の砂は固定されてなかったようでだいぶながれたけどそれでも1キロくらいじゃないかな。

 

なおパナです。でも電動雨戸はかなり高いよ。

2023-03-30

anond:20230330173858

据え置きゲームできるようになったのは一番下の子供が中学卒業してから

でも中学卒業ってよりは居間TVに繋いでたPS4自分の部屋のモニターに繋いだってのが大きいし、なんで自分の部屋にモニターがあるかっていうとコロナで在宅勤務があったからで

ってなると子供の年齢関係なく一人で居れる場所を作ればもっと早く据え置きゲームできてたんじゃないかと思わなくもない

2023-03-11

被災地じゃない私の震災の記録

当時高校生だった私は、とある理由で全校生徒が体育館に集まっていました。

ある時、携帯電話からいたことのない音が鳴り響きました。校内持ち歩き不可のはずの携帯電話男子生徒の制服の内ポケットからスマートフォン女子生徒のカーディガンポケットから、そして渡り廊下の奥の教室から、けたたましく鳴る不快な音。

そしてズズズというこれまた聞いたことのない大きな低い地響きの後に、突き上げるような揺れが起こりました。体育館という建物はバネが効いているので、観測された震度の何倍もの揺れを身体に感じていました。

女子生徒の悲鳴、頭を覆えという教師の怒号、ギシギシと動く体育館の壁、そして見たこともないくらい左右にぶらんぶらんと揺れる天井の照明、何が起こったかからないと口を開けたままの友人の顔。

大きな揺れは収まりましたが、集会は中止になり即座に帰宅指導がありました。地元が同じ人間は一緒に帰って欲しいと先生が言っていました。電車は動いていなかったので、電車で通っている人たちは親の車を待つことになり、しばらく校内に残っていたといいます

この時、電波はなく、また不幸なことにこの地域だけ停電と断水が起こっていました。私たちは大きな地震が近くで起こったのだということしかわかりませんでした。

私は比較学校の近所だったので、歩いて帰りました。雪が残る道を必死に帰りました。家に帰ると、祖母が外で近所の人たちと話をしていました。咄嗟に外に出たと言います。着の身着のままで、寒さからなのか、揺れの怖さなのか、身体が少し震えていました。それは私も同じでした。あの体育館で感じた恐怖がまだ残っていました。

家の中はぐちゃぐちゃでした。食器棚が全て開き、割れた皿はなかったものの、倒れたものが床に散乱していました。

祖母病気後遺症で目が悪く、なにも触らなかったと言います。私はそれを片付け、両親が帰るのを待ちました。父も母も小学校教諭でしたので、我が家にすぐ帰ることは出来ませんでした。2人とも、自分学校の生徒をすべて家に帰し、家まで送り、その後に家に帰ってきました。

私の住んでいた県は断水が少なかったと、後から言われましたが、私の家のある地域は断水しました。そして停電も続きました。

雪国3月上旬オール電化だった我が家は非常に冷たく、静かで、怖かったことを覚えています。家がこんなに寒かったのだと、靴下を履いて眠ったことは初めてでした。

それまで肌が乾燥することはありませんでしたが、寒さにより乾燥し、頬が粉を吹きました。クリームを塗りなさいと親に言われたのは人生で初めてで、そこで寒いと肌は乾燥するのだと知りました。

全く暖房がないわけではありませんでした。石油ストーブがありましたが、この後どうなるかが分からないので、居間ひとつだけ点火し、大事に使おうと決めました。

父が帰宅して、仏壇用の蝋燭の火を囲み、家族4人でスープを飲みました。

その時に、宮城県が揺れたらしいと教えてくれました。父も母も私も、携帯電話電池が惜しくてネットを見ていませんでした。電波はかろうじて復活していたようでした。

明日になれば電気は戻るだろうと、その日は早くに寝ました。何もすることができず、寝るしかなかったのです。

眠る前、ストーブ灯油を入れるために外に出ました。その時、見上げた空を一生忘れないでしょう。私の住んでいた土地田舎で、普段でも晴れた夜は星が綺麗に見えていました。何度か旅行に行った東京の何倍も星が綺麗だなと思ったものでしたが、その日だけは違いました。星しか見えないのです。大きな星が爛々と瞬き、小さな星たちが埋め尽くし、いつもの星空とは全く違うものでした。

あんなに暗い田舎でも、明るかったのです。真に光がない夜はこんなにも星空を輝かせるのだと、心が震えました。そして、とても怖くなりました。知りたくなかったのです。こんなに星が美しいことを、災害で知りたくなかった。冷えた空気が鼻腔を凍てつかせたので、早く家に戻りました。

家に戻ると、父と母が携帯電話を見つめていました。母は手で目を覆っていました。ほら見ろ、と見せられたのはワンセグ放送でした。そこに映し出された映像を見て、足がすくみました。津波映像でした。仙台空港が波に飲まれていく、その映像でした。私は仙台空港自体には行ったことはありませんでしたし、仙台市にもあまり行ったことはありませんでしたが、石巻名取市閖上地区気仙沼には何度も行っていました。仙台空港がこのような状況なら、私たち旅行に行っていたあの場所はどうなっているのか、これはどんな被害なのか、何が起こったのか、全ては分かりませんでした。父の充電はギリギリで、それ以上は見ることができず、その日は諦めて横になりました。私はしばらく寝られませんでした。

閖上のサイクルセンターのどでかい合宿所みたいな部屋に家族4人で泊まり、その施設飲食店晩ご飯を食べたことが昨日のことのように思い出され、その建物は、そこの人たちは、どうなってしまったのか、怖くて怖くて堪りませんでした。

人が死んでしまうような災害だったのだろうかと、それすら曖昧でした。

情報がないというのがこんなにも不自由なのだと思ったのもこの日でした。

翌日電気が復活し、テレビ報道津波被害を目の当たりにしました。

あとはもう、ご存知の通りです。

断水復活までは少し時間がかかりましたが、私の地域はそんなに被害がありませんでした。建物に大きなヒビが入ったり、道路割れたり、といったところでした。余震は続きました。

ただ、普段明るくおちゃらけ雰囲気の友人が、宮城県単身赴任をしている父親と連絡が取れないと瞳と口の端をぶるぶる震わせて話す姿が目に焼き付いています彼女父親津波で亡くなったと聞きました。

私は大学生を経て、社会人になり仙台に転勤してきました。もっと生々しい震災の話を聞くことが多くなりました。

南三陸女川出身の子達は皆、口を揃えて言います。家は流されて実家はないのだと。仕事がなくなって仙台の街中に出てきたのだと。避難中に津波に巻き込まれて、電柱にしがみついて生きながらえたという人もいました。

私の仕事スーパーゼネコン施工管理でしたので、震災復興事業が主の時期でした。真新しいコンクリートの壁が海を阻みます防波堤は高く高く、そびえ立っていました。ひび割れだらけの建物が、そこらかしこらにありました。そして、本丸と呼ばれたあの地にも行きました。人の住まなくなった家は、あんなにも朽ちるのが早いのかと今も恐ろしく思います

なにより、この地域はよく写真展を開きます震災前の写真、直後の写真、今の写真、それらを並べて展示するのです。私はその写真を見て泣いてしまますイオン一角で、震災を知らない子供たちが走り回るイオンの中で行われていた写真展を見て、泣いていました。

今でも、その地に行くと、津波最高到達点という線が刻まれ建物があります。ここまで津波が来たぞという標識があります

どうか忘れないで。風化しないで。思い出して。

今日だけでいいです。

被災地じゃなくても、地震被害はありました。

お願いです。

忘れないでください。

2023-02-19

「妻が勝手ものを捨てた」問題

Twitterで度々炎上する「妻が勝手ものを捨てた」問題

勝手ものを捨てるのはダメだとも思う、ものというのは人それぞれの思い入れがあるだろうから

でもなぜだかあの話題を見る度にモヤモヤするのだ。

表面上だけ見て夫婦間の問題というのは見えないから捨てた側だけが責められる感じがとてもモヤモヤする。

というのもワタシの家でも夫が自分の部屋に入りきらないフィギュアや本などを居間に積み重ねていくからだ。

居間の人の通る場所の横に積み重ねており、それに誤ってぶつかる事もある。

それが崩れれば怒られるし、しばらく機嫌が悪くなり空気が最悪だ。

なんどか我慢限界で片づけて欲しいとお願いしたがハイハイスルーされたり、また不機嫌になる。

勝手に捨ててはならないとは思っていてもいつか我慢限界が来たらワタシも「勝手ものを捨てる妻」になってしまうんだろう。

共通の場を埋め立てて文句言わないならまだ少しは我慢できる。

でも触れるだけで怒るくらい大事ものならば自分の部屋で、ちゃん管理してほしい。

きっとTwitterに上がった全てのそのような話題全てがそういうわけでは無いとは思う。

本当に価値観の違いにより捨てもいるんだろう。

それと勝手に部屋に入って捨てるのは絶対ダメだとワタシは思う。

でも1割位こういった事情というのはあるんじゃないのかと思うとモヤモヤ自分未来図なんだという悲しさがこみ上げてくる。

2023-02-17

anond:20230216090111

1本目はマリオ3なのは確か

居間の共有テレビを陣取ってゲームしてたのは記憶にある

最終的に小さい赤いテレビを貰って中学生くらいまで小さなテレビを使ってた


2本目はうる覚えだけどナッツアンドミルクポパイのどちらかだったはず

今でも思い出す

両親の遠出に連れてってもらって、露天市みたいな場所中古ゲームを買ってもらったな

屋台みたいな店でゲームが並んでるような店で、脇によくわからんゲームを2本抱き合わせで売られてた

確かそこで、2本目のゲームスーパーマリオのセットを買ってもらったんだった

2回目はフォーメーションZともう片方

からファミコンの箱の記憶はない

店の場所は全く覚えてないけど、今でも記憶の片隅に残ってる

2023-02-13

斜に構えた感性お笑いについて

ガキの頃藤崎マーケット小島よしお流行った。今や何が面白いのかはさっぱり分からないが、ゲラゲラ笑っていた。小学校ではラララライだのそんなの関係ねーだのが流行りまくっていた。ハードゲイは今でもちょっと面白いと思う。

中学の気難しい頃は居間テレビを見る事も減り、キャッチーギャグで笑う年でもなかった。友達同士でお笑い話題になる事もなく、漫画の話が多かったと思う。銀魂とかギャグ漫画日和ユーモアは新鮮で、一周回ってとかではなく逆張らず、順張りのノリで素直に面白いと思っていた。

オタクじみたのが多い男子校だったからか、グループ内ではニコ動を観てネットスラングで会話する事がクールな風潮があった。くだらないMADだかやらないかだかの話をして、PSPに落とした動画を観て盛り上がっていた。

スマホを持ってから家でまとめサイトを見るようにもなった。テレビでは見られないようなブラックでエッジが効いている「尖った」おもしろコピペを読み漁った。友達ネット受け売りで話したおもしろトークはウケが良かったが、自分言葉で喋るのが下手になったし、今でも尾を引いている気がする。

総じてテレビお笑い芸人の「浅い」笑いから、「ディープ」でマニアックな笑いを好むようになった頃だと思う。まあ誰しもムキムキのアンパンマンドラえもんのような「シュール」さを好むような感性の年頃でしょう。

一度姉に連れられて新宿ルミネ劇場へ行った事もあった。既に芸人への不信感(?)があったので、嫌々。当時の感覚で、退屈というほどではなかったが、フフッと笑える程度の面白さだった。ずっとムスッとしてるのも感じ悪いかなと思いそうはしなかったが、まあ我慢しようと全然耐えられる感じだ。一切笑えないコンビも少なからずいた。偉そうに素人素人言ってプロ面する癖にこんなもんか、というのが感想だった。

高校の頃にはすっかりネットに毒され捻くれまくったガキになったので、順当にテレビお笑いが嫌いだった。「マスゴミ」が大嫌いで、バラエティ番組を観てるいような人間低俗に思えた。捻くれた性格インターネットへ導いたのか、本当にネットに毒されたのか、あるいは相乗効果なのかは分からない。

この表現は嫌いだけれど、高校にもなるとクラスで「陽キャ」と「陰キャ」とがかなりはっきりと分かれる。それについて色々と気にかける事も多い年頃だ。無論自分後者で、それが「捻くれた自分」をアイデンティティにしようと思わせた部分もあるのかもしれない。

昔よくあったネタ見せ番組は消え、芸人を名乗りながらネタも見せない(劇場での興行が基本という感覚がなく、ネタテレビで見せるものだと思っていた)。ロケで飯を食ったりスタジオトークするだけ。こちらは芸人の先輩後輩など知りもしないのに、内輪ノリでくだらないギャグ愛想笑いする彼らに嫌悪感すらも覚えていた。

思春期の焦燥に強く駆られる時期で、「低俗である笑いを求める事自体が減った気がする。などと言いつつ、学年中で淫夢流行り、とにかく会話に語録を挟むのがクールだった(最悪)。最初は「は?野獣先輩?114514って何?おもんな……」と心の底から思ったたものだが、無事イキスギィでゲラゲラ笑う身体になった。今思えば凡庸オタク高校生だが、当時はゲイポルノで笑うヤベー俺ら、みたいな意識があった気がする。

大学生になり、流石に対外的社会性の大切さに気が付き、斜に構えた態度は内面SNSで大切に留めておくようになった。

普通」になりたいとは特に思わなかったが、普通の何たるかは知っておいた方が良いと思い立った。その一環として、人気バラエティの「相席食堂」を観てみた。面白いと言われている回を選んで観たところ、これが中々面白かった。いつしか素直に楽しむようになり、シリーズ最初から通して観ていた。その最中かまいたち山内が出た回が強烈につまらず、不快感すら覚えた。つまらない癖にsupremeを着ていたのに余計腹が立った。消えかけていた芸人への嫌悪感が急激に吹き出した。

まり不快で、逆に興味が湧き色々と調べてみた。M-1なるお笑い漫才)界最大の大会存在と、かまいたちがそこでかなりの結果を残している事を知った。

自分漫才特に嫌いだった。コント面白いと思った事はあるが、漫才で笑った事はそれまで人生で一度も無かった。これはよく言われるエンタの罪なのかもしれない。ジャリの頃好きでよく観てたので。

こんなにつまらない芸人が最大の大会で良い結果を残せるなんてどれだけお笑い界はレベルが低いんだと思い、ネタを観てやろうと思った。2018だか19だかのM-1を観た。

かまいたちネタを見て、初めて漫才で声を出して笑った。面白かった。優勝したミルクボーイよりも面白かった。この時完全に芸人への嫌悪感が吹き飛んだ。内輪ネタや共有されたミームに頼らない、最大公約数的なお笑いでここまで面白くできるのかと。毎年M-1を観るようになった。良いと思う芸人バラエティも。

その後数年経ち、やや熱は冷めてきた。テレビお笑いつまみ食いして、自分芸人テレビ的笑いが好きというよりは、単にかまいたち他数コンビが好きなだけだったのだろうなと思った。

ただ、得られた事がある。フン、つまんね。これでプロなのか。などと思いながら品定めをするように観るのが間違いだった。笑いを求める人間が、「我慢しようと思えばできる」などと喧嘩腰になるのがおかしい。

あと、内輪感に入り込むという事を知った。確かに大して知りもしない芸人内輪ノリは、見ていて不快さを覚える事も少なくないだろう。でも、前提となるミーム空気感を知り、彼らのノリに慣れてしまえば中々面白いものだ。たまにくどいなと思う事もあるけれど。ネットユーモアとて、所見で笑えるようなキレのあるものもあるが、前提となる感覚や風潮を要するものも多いだろう。

漫才コント下ネタ内輪ネタより高尚な笑いだとは別に思わない。テレビではとても出せないような下品でエッジの効いた笑いも未だ大好きだ。しか最近、(多分ほぼインターネットだけで)流行っているオモコロ的なユーモアが苦手に感じるようになってきた。マイナーだけど特定層に深く刺さるようなあるあるや、気の利いたシュールさは、つい上手いなあと思ってしまう事もあるものだ。これも今までずっと愛してきた捻くれたユーモアの類だろうに。結局逆張りじみた感性のものは変わっていないのだろうか。

逆張りがいけないとは思わない。自覚的逆張りを貫ける人は好きだ。でも自分価値観や信念に基づくというより、単にミーハーものへの嫌悪感がそうさせているのなら、少なくともそれに自覚的であった方が良いと思う。芸人がよく言う「批評家気取りの素人」は、そういう素直さの大切さを言っているのではないかと思った。もちろんポジショントーク的なマウンティングもあるのだろうけれど。一度素直に受け止めて、それでも合わないなと思ったらその気持ちは大切にして良いと思う。嫌いは好きと同じくらい大切だ。

画一さや没個性を嫌う気持ちは誰にでもあると思う。その気持ちは大切にして良いものだとも。ただ、単にメジャー逆張りをした所で、それはメジャーの裏返しでしかない。マイリノティにはなれるかもしれないけれど、それもまた没個性的なものだ。ありきたりだが、個性とは自分好き嫌いを大切に重んじた先にあるのだと思う。

笑う時くらい小難しい事は考えない方が良いですよ絶対

2023-02-09

スペクターサウンドを256倍楽しむ方法

 日本では'76年に、フィレス・レーベル作品がまとめて再発売されたことがありましたが、ボックス形式としては本邦初で、しかCDボックスとしては今回が世界初ということになります。また同時に、<ヒーズ・ア・レベル>という、関係者インタビューを中心にした本が白夜書房から発売されます。それを読みながらこのBOXを聞きますと512倍楽しく聞けることを保証します。

 では、時代を追って解説していきます

テディー・ベアーズ

 1958年17才にして彼は”スター”でした。この後ポップス歴史を彩ることになるクリスタルズロネッツキャロル・キングバリーマンビーチ・ボーイズビートルズの誰よりも先に<NO.1ヒット>を持っていた!、このことが良くも悪くもスペクターのその後の人生を決定づけたと思いますポップス史上、#1ヒットを星の数ほど作り続けたリーバー&ストラーや、ジョージマーチンも、自らの#1ヒットはなく、このことが彼を単に<プロデューサー>の範疇では捉えられない最大の理由です。<彼を知ることは、彼を愛することだ>というデビュー曲の<彼>は、もちろんスペクター本人の意味で、そこには強引さ、傲慢さも感じられますが、実はそれが力強くもあり、<スターの要素>そのものだともいえます。彼の仕事ぶりを評して、全てを自分一色に染めてしまう、という批判をよく聞きますが、これはことの本質理解してい居ない人の発言です。かれは<裏方>ではなく<スター>なのです!それを、アーティストの持ち味を引き出すのがプロデューサー仕事だ、という常識的意味で彼を捉えようとするから批判的になるのです。彼こそが<スター>で、誰が歌おうか演奏しようが、他の人は全て脇役なのです。単に映画監督と言う視点ヒッチコックを捉えるとおもしろ解釈は生まれない、というのにも似ています。(誰が主演でもヒッチの映画になります黒沢さんもそうですね。)

 デビューアルバムTEDDY BEARS SING」のB-1「I DON'T NEED YOU ANYMORE」の<ステレオバージョン>はナントリードボーカル女の子の声が左で、真ん中がフィルコーラスしかも、ところどころリードボーカルの3倍くらいの大きさでコーラスが<邪魔をする>といってもいいほどの前代未聞のバランス!です。

 デビューからしてこうなのですから自己主張とかワガママなどという、なまやさしいことではないのです。

SCHOOLもの

 のちにブラックミュージックにのめり込んでいった彼ですが、スタートは白人ポップスでした。まずは自らのヴォーカリストギターリスト、および作曲家としての才能を試すところからはじめた、というところでしょうか。'50年代後半は、まだ黒人音楽一般的ではありませんでしたが、若者の間では熱狂的な指示を得ていました。スペクターもいろいろな黒人アーティストを聞いていたようですが、こと自分デビューに関しては、世間的に穏便な方法をとったところなど<奇[...]

 また'50年代中期には「暴力教室」をはじめ「HIGHSCHOOL CONFIDENTIAL」など<怒れる若者>をテーマにした映画が続々と作られ、その代表としてJ・ディーンが登場し、代表作が「理由なき反抗」-REBEL WITHOUT A CAUSE -でした。このように、当時の若者キーワードの一つは<REBEL>であり、「乱暴者」のマーロン・ブランドのような皮ジャン、サングラスバイクというスタイル流行しました。

 彼のでデビューソングはたしかに<学園もの>でしたが、それまでの、例えばドリス・デイの「先生お気に入り」調のホンワカしたものではなく、女の子自分の想いを直接的、また積極的に<ナゼわかってくれないの?>と切々と歌い上げるというのは冬至若者フィーリングにピッタシきたようです。実はこの手法スペクター特有の<ソフィスティケーションの中の直接性>というもので、彼を理会する上で大事ことなのです。

ガレージサウンド

 ある程度、あるいはそれ以上の音楽素養がなければミュージシャン作曲家になれなかったジャズと違って、ギター1本あればだれでもロックンローラーになれる、というのがロック時代でした。子供技術を会得して成長し、大人の仲間入りをするのがジャズだとすると、ロックは、子供子供のままで音楽ができるというのが特徴でした。ヒョットしたらオレにもなれるかもしれないと、多くのシロウトがわれもわれもと参加したことが、音楽単純化拍車をかけました。ジャズ豊満でふくよか、とすると、R&Rは骨と皮だけといえましょう。ジャズ大人音楽で、背景はナイトクラブ女性お酒が似合いましたが、子供音楽として誕生したR&Rの背景に一番ピッタリだったのはナント、<ガレージ>でした。

 麻雀同様4人(あるいは3人)いればすぐにできたのがR&Rの特徴でしたが、ニュー・ヨークのようにせまいところで大声を上げれば、お母さんに怒鳴られるだけですからストリートへ出るわけです。50'sのDoo Wapブームの背景は街角ストリート・コーナーが似合ったわけです。

 それにくらべて土地の広大な中西部西海岸は車がなければ不便なので、当選、どこの家にもガレージがあり、ここが若者の格好の練習場所となりました(蛇足ですが、今の日本ロックサウンドの背景は<貸しスタジオ>--密室--ではないでしょうか?)。さて、楽器感覚でどうにか弾けますが、作曲というのは簡単そうでもやはり多少の音楽素養必要です。しかし、若者の、なんでもいいからR&Rをやりたい!という想いはこんなことではくじけません。骨と皮だけのロックを、さらに皮も捨てて骨だけにしたのです。それが<ギターインストゥルメンタル>でした。これは、楽器感覚的にかき鳴らすだけですから、とりあえずだれにでもできました。ジャズ単純化ロックとすれば、これはさらに、ロック単純化で、その極致であったわけです。

 これが<ガレージサウンド>の正体でしたが、この時代呼応するかのように、新しく生まれ現象がありました。それは、録音機が少しずつ普及し始め、ガレージ居間などでの<ホームレコーディング>が行われるようになったことです。そして、デモテープのような、ある意味では乱暴

チャートに登場するようになり、まさに音楽大衆化が、内容だけではなく、音質までにも及んだのです(エルビスバディ・ホリーデビュー曲地方の、オヤジさんが社長、オカミさん専務、というような町工場風のスタジオで録音したものです)。

 それまでの録音は、演奏者と録音技師ガラスを隔てて別々の仕事場でした。技師演奏者にマイクの使い方を指導することはあっても、演奏者の方が技師に注文をつけるというケースはめったにありませんでした。しかし、ホームレコーディング特有の、機械いじりの好きな少年の思い付きや、また機材不足からひねりだした斬新な工夫は、新しいサウンド母体となるのです。

 スペクターは、テディー・ベアーズの録音の時からスタジオ内と調整室を行ったり来たりして、録音技師を困らせていたようですから、コダワリの姿勢最初からのようです(口述しますが、後年よくいわれるワグナー好きやソウルミュージックの追求というのは、スターありがちな<後付け>である、と私は考えています)。

 このホームレコーディングが、実は<スペクターサウンド>の根幹なのです!<BACK TO MONO>の意味もこのことなので、一つのかたまり大人数、熱気、乱雑の中の整理、複雑の単純化、そして<ホーム>、これが彼の求めたものでした。かたまりは<MONO>、大人数はミュージシャンの数、熱は<ハルブレインドラム>、整理は<J・ニッチェアレンジ>、単純化は<L・レビンミックス>、そしてホームは<西海岸>、これがスペクターサウンドの中味の分析ですが、詳しくはこれも後述します。

インストマニア

 この当時のロックンロール少年と同じく、スペクターギター少年でした。本名フィル・ハーヴェイとしてインストレコードも発表しています。また'58、'59年はインストロックの当たり年で、チャンプ栖の「TEQUILA!」が#1になったり、B・ホリーのインスト版ともいえるファイヤーボールズ、リンクレイ、そしてジョニーハリケーンズサント&ジョニーサンディー・ネルソン(「TO KNOW HIM~」のドラムデビュー前の彼です)、そして極め付きはギターインスト王者、デュアン・エディーの登場でした。

 日本ではなぜか、ほとんど評価されませんでしたが、ギターリストとして一番の人気とヒットのあった人で、そのサウンドユニークさとポップ・シーンへの影響は大きいものがありました。またイギリスでの人気は特に異常で、'60年の人気投票では1位でした(すごい!)。近年リバイバル・ヒットした「PETER GUN」などは後の<007シリーズ>や<バットマン>のもとになったともいえますし、日本では未公開の映画「BECAUSE THEY'RE YOUNG」のテーマは、彼の"トワンギー・ギター"と流麗なストリングスとのコンビネーションは、すぐアル・カイオラが取り入れて「荒野の7人」となって登場、西部劇インストテーマの基本形となりました。また「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のジョージマーチン楽団の「リンゴテーマ」も、まさにD・エディーのマネジャープロデューサーレスター・シルで、テディー・ベアーズの録音の際、隣のスタジオ仕事をしていて知り合ったといわれ、この人と出会ってなければ<スペクターサウンド>はこの世に存在しなかったといえるほど重大な出会いでした。

 シルはこの時すでにスペクタープロデューサー向きであることを見抜き、早速契約を結び、最初に買った曲のタイトルナント「BE MY GIRL!」。

 スペクターについては、まわりにいた人に才能があったので、本人にそう才能があったわけではない、という人もいますが、これは間違いです。確かにまわりにいた人々は有能でした。しかし、彼はプロデューサーとして一番重要な要素である<何をやりたいのか>ということが明確にありました。それは前にも述べましたがいろいろな意味での<直接性>というテーマを持っていたことです。これはもちろんR&Rのイディオム佐野元春調)ですが、荒々しいサウンドの中の直接性より、スペクターポップスに折り込んだ直接性の方がより<暴力的>ですらありました。

 例えば、R&Rの時代になって<BE>という動詞で始まるビッグ・ヒットは「BE MY BABY」が第1号です(BE CAREFUL~などの慣用句を除く)。簡単なようですが、作る側にまわってみると、これが簡単に言い切れるものではないのです。まさにこれをスパッと言い切れるのが<スター>なのです。「TO KNOW HIM~」の断定と「BE」の命令。このシェイクスピア調の、時代がかったともいえる口調が、逆に新味を呼んだのではないでしょうか。この大時代的で、且つ直接的な手法は「I WANT TO HOLD YOUR HAND」(ユーモアの点ではJ&Pの方が数段上ですネ!)に共通したものを感じます

 シルと契約直後、スペクターはD・エディのセッション見学しています。さっそく実地訓練をさせようというシルの計らいで、時は'59年の4月の後半でした。この年のエディーの最大のヒットは6月に発売された「FORTY MILES OF BAD ROAD」(9位)で、この曲はナントベースドラムだけをイントロでフィーチャーした、ポップス史上初のヒット曲>なのです。さて、ベースドラムイントロといえば「BE MY BABY」ですが、この2曲の因果関係についての疑問を、10年ほど前の<ニュー・ミュージック・マガジン>で発表したことがありましたが、時期的にはこの推論が成り立つようです。が、モチロン、その因果については全く憶測の域は出ておりません。

 エディーのスタジオは1トラックテープレコーダーが1台しかないという粗末な設備ながら、そのエコーを駆使してのサウンド作りは、特に録音にはうるさかった若き日のスペクターには刺激的な体験だったと思われます。トワンギー・サウンド秘密であった水道管やドラム缶をエコー使用するという一風変わった手法は(そのためシルは何10個もドラム缶を買い、しかも一番響きのいい缶を探したといいますスペクターが興味を持たなかったはずはありません。

 そのような多彩な録音技術を駆使していた人は、D・エディー・サウンド製作者<リー・ヘイズルウッド>でした(エンジニアはエディー・ブラケット)。ヘイズルウッドといえばナンシー・シナトラとのデュエットアストロノーツの「太陽の彼方に」の作者として日本ではおなじみですが、エディーのプロデューサーとして最初評価された人なのです。

中したスペクターは、一瞬たりともヘイズルウッドの背後から離れなかった>と発言しています

憧れのリーバー&ストラー

 その後シルは、スペクタープロデューサーにすべく、今度はニュー・ヨークリーバー&ストラーのもとへ送り込みました。’60年代代表的なコンビレノンマッカートニーとすれば、’50年代リーバー&ストラー時代で、ロックビジネスを目指す人々にとっての目標でした。スペクター学校の先輩でもあった彼らのデビューに一役買っていたのが、これまたレスター・シルでした。シルがマネージャーをしていたコースターズをきっかけに、ドリフターズ、そしてエルビスへの曲提供プロデュースを行い、初のR&Rにおける独立プロデューサーとしての地位確立したのがこの二人なのです。

 スペクターにとって、このニュー・ヨークでの修行時代の最大の収穫はベン・E・キングヒット曲「SPANISH HARLEM」をJ・リーバーと共作できたことでしょう。これはR&Rビジネスへの切符を手に入れた、つまり、お墨付をもらったということ......って、最大の自信となったことは疑う余地はあり.....

 ま.... ドリフターズの「THERE GOES MY BABY」...にストリングスをフィーチャーする手法を....ことも<スペクターサウンド>への引金になったと、私は思います。その手法プロデュースしたジーン・ピットニーの「EVERY BREATH I TAKE」は、全くドリフターズ調でしたが、すでに<スペクターサウンド>は出来上がっていた、ともいえる、本家を凌ぐ作品でした。<ゴフィン&キング>との最初作品でしたが、この日のセッションにはリーバー&ストラーをはじめ、B・バカラック、B・マン&C・ウェイル、アルド出版社代表のD・カーシュナーら、そうそうたる顔ぶれが集まったといいます。そしてこの作品が、ここに集まった全ての人にスペクターの印象を強く与えることとなり、一緒の仕事が始まるわけです。特にこの曲で印象深いのはドラムフレーズですが、G・ゴフィンの証言によれば、フィルドラマーゲイリーチェスターに指示をして、それが実に的確だった、ということです。

 この修行時代にすでに、J・ニッチェやH・ブレインがいなくても、これだけのものを作っていたことは見落とせません。スペクターサウンドを作ったのはやはり彼なのです。

 この曲は残念ながら大ヒットにはなりませんでしたが、来たるべき<スペクター時代>の幕開けを飾るにふさわしい素晴らしい曲でした。

 また、この頃、レスター・シルとリー・ヘイズルウッドは共同活動を解消、スペクターは新たなパートナー、いわば後釜としてシルと関係を結び、それが二人の頭文字を合わせた<PHIL+LES>の誕生となりました(シルとヘイズルウッドのレーベル名は二人の息子の頭文字から<GREG+MARK>というものでした)。

ガールグループ

 '60年代初めにシュレルズがキャロル・キングの名作<WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW

....きっかけに、ガール Permalink | 記事への反応(0) | 09:24

2023-02-05

増田♂52歳のナントカ

(´・ω・`)「…鼻が冷えて。第2次尿意と第1次大便意も極まってキタのでトイレいってネコのために四六時中暖房中の居間に降りるかぁ~」ちなネコはワイちゃんのではないという認識やでー

2023-01-31

貧乏人、家を買う

タイトル通り。

大袈裟でも何でも無い、我が家は本物の貧乏家族である

子供が5人以上、10人未満。

加えて私ら親はオッサンとオバハン。

唯一の救いは、お互いに安定した収入がある事。

だが、その額は決して高くは無い…。

食べ盛りの子供達の食費や習い事

生活費、夫のお小遣い

これに家賃光熱費を払うとなれば、

残るのは微々たる物しか無い。

給料日当日、払うものを分けて薄っぺらくなった自分給与封筒を持った夫が言った。

「…俺は支払いの為に働いているのかもしれない…」

それでも、楽しみながら節約レシピを参考にしては、新しい物に挑戦してみたりする。

もやしあんかけが美味しいって!

作ったげようか?!もやしは安いし!」

そんな私に長女は穏やかに

いいね、美味しそうだね」と答えてくれる。

そこに縦にも横にも急成長している男子が返答する。

「んじゃ、オレは肉」

………もやし下りを一蹴される。

男って………いつか結婚した時、嫁にシバかれるであろう。

だが、確かにもやしだけでは栄養がと考えさせられ、仕方なく肉を自分以外の家族全員分を買いにスーパーへ走るのである

そんな毎日に、金を貯めるなんて余裕は本当に無かった。

この十数年の間に受験やら入学卒業、そんなイベントの度に幾ばくかの貯金も底をつくことを繰り返して来た。

からタイトルにある家を買うなんて事は、夢のまた夢であり、憧れでしか無かったのだ。

それに、オンボロ貸家で暮らすこの日々は、不便もあったがそんなに悪く無かった。

近所の人に恵まれた事や、小さいながらも庭がある事。

薄すぎる壁のおかげで外の音もよく聞こえる。

夫の車の音もしっかりと聞こえたし、子供達の登校時の笑い声や、帰宅途中の元気な足音、すずめの鳴き声、行き交う人々の何気ない雑談

嫌う人も多いかもしれないが、私には心地良い日常だった。

私の住む地域は降雪量がそれなりにある場所で、冬はどうしたって厳しい。

何よりもしんどいのは夜、眠りにつこうとする時だ。

家族全員が眠りについてから家事を終えた私は下の子の布団に入る。

この時点で寒過ぎる。

ストーブはついているのに、冷気がものすごい勢いで入ってくる。

そっと下の子の頬に手を当てると、もう冷え冷えになっている。

生きてるよね?!のレベルで、腹の動きを見て呼吸を確かめしまうほどだ。

今でこんなに冷たくなっていては、夜中はどうなるのか。低体温になってしまうのでは無いか不安になり、居ても立っても居られず冷気の入る場所を探り出す。

ここだ!と思ったのは、やはりドアの隙間。

一応クッション性のあるテープは貼られているものの、年数が経って冷風が吹き出しているでは無いか

パッと部屋を見渡したら、使ってなかったマフラーが落ちていた。

我が家の2歳になる女児は、物色職人として日々働いている為、色々な所に色々な物が引っ張り出されている。

いつもであればヒステリックグラマーと化して片付けておくのだが、何度閉まっても出てくるマフラーを諦めていたのが幸いだった。

挟めてやった。

冷気レベルを下げる事に成功

ものすごい発明だ、冷気には長い布だと自己満足し、さて寝るか…と思ったのも束の間、布団に入ろうとした私を吹き付ける更なる冷気を感じる。

確認

ああ、もうダメだ。

ドアの四方全てから冷気が出てやがるとがっかりした。が、そんな事で諦める私では無かった。

外気温とほぼ変わらなくなった居間に行き、工具箱からマスキングテープを取り出す。

そしてドアの隙間という隙間にマステを貼りまくり、冷気・シャットアウト!!

何この達成感。

diyってこういう事なんだ、癖になりそう(後に違う事を確認

自信を持って布団に入る。

後は安眠するだけでは無いか、冬に圧勝したと思ったその時だった。

………鼻が寒い

鼻だけが異常に寒い

の子もやはり温まって来ない。

なぜ…?

せっかく入った布団から上半身を出し、ティッシュの切れ端を片手に冷気を探る。

もはやコールドバスターである

「ヒュ〜〜………」

かに冷気の音がする。

どこだ…どこなんだ…まさか

そう、ドア横にあるコンセントの穴から、冷気どころか寒風が流れ出ている!!!

けれど、コンセント自体劣化していて、そこにテープを直張りする勇気など無かった私は、おもちゃ箱授乳クッションを積み重ね、言うなればブルーメン音楽隊工法で冷気を横に逃す事にしたのだ。

寒い事は変わらないが、直接当たるより良いだろう…。

眠さも寒さも限界だった…。

もう布団に入るのは何度目だろうか、

二度と朝まで布団から出るまい。

明日、この功績を皆に伝えようとウトウトしていた時

「テーレーレーレーレーーレレーーー♪」

静寂をぶち壊す大音量で、ストーブが鳴いた。

延長ボタンを押さなければならない。

手は届かないだろうと確信していたが、今、上下逆になって足で延長を押すのはきっと無理だよなと色々悩んだ末、布団から出て行った。

ただの厄日だったかもしれない。

だが、私は決意した。

家買うと。

手を加えるにしても、また小金が掛かる。

自分の物にならないのに…これまでも結構掛かっているのだ。

潮時だ…。

ここはコールドスリーブ施設だ。

きっかけはそんなこんなで、家を買いました。

今月とうとう引越しです。

嬉しいのと、寂しいのと、冷気への苛立ちと…

この気持ちを残しておこうと思い立って、書いてみた次第です。

2023-01-26

節電ニャン🐈

電気代のために電気かけ敷き毛布を肩からかけてます

あったかい。

昨日まで

こたつ(一人用)+ホカペ1.5畳の半分(目盛り2)+貼るカイロ

今日

こたつ(一人用)+電気かけ敷き毛布(目盛り3)+貼るカイロ

しました。

ホカペがわりと古くて、いきなり高温になるし(設定するところが遠くて寝てても届かないのにいきなり温度上がる💦)

電気毛布ランニングコストが低いようなので。これでやってみる。

ちなみに今の室温は7.8℃くらい、キッチンは昼で日が当たってても6℃くらい

温度計おいたらどんどん下がって怖ったので居間に戻したよ💦ひょっとして余裕で5℃くらいかも)

なのに、節電さらにしようとしている🐈

2023-01-25

anond:20230124224654

凍るかな

ダンナ居間

コップ置く

寒波の来襲

令和5年の第四週

anond:20230124224654

今朝起きたらうちの居間は1.8℃だった

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