はてなキーワード: ソマリアとは
ソマリアみたいな発展が望めないような国はなんで言えばいいんやろか
突然こんなこと言ってごめんね。
でも本当です。
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すんげー雑な言い方をすると、フェミニズムはその役割のピークを迎えようとしている。
言い方を変えれば、フェミニズムは相対化され、限界を迎えている。つまり、フェミニズムは数あるライフスタイルや思想の一つに過ぎず、全ての女性や少数者を包括的に支持し救済するといった、かつての理念として見られていた役割からは剥がれ落ちつつあるということだ。
結局のところ、フェミニズムは全ての女性を対象としているわけでもなければ、全ての少数者を対象としているわけでもないということである。論点先取的に言うならば、この時点でフェミニズムは全ての女性を救うこともできれなければ、全ての女性や少数者を支持する立場から脱落することになるのだ。
考えてみれば当たり前の話で、フェミニズムの原義は男女同権主義であり、そもそも女性のみを対象として扱っているわけではないからである。勿論、男性自身らを扱っていることは自明だし、更には、いわゆる少数者であるところの男性や弱者的男性のみならず、男性や女性の総体、そして全ての人間に対して地平を開いた、社会救済としての思想――それがフェミニズム本来の理念であったのだ。
とは言え考えるまでもなくこのような理念は有り得ない。全てを対象とした救済の思想、という考えが仮に存在するのであれば、それは宗教に求められるべきであるし、我々は誰を対象として救済や支持を表明するかを一考しなければならない。我々は全てを救うことなどできない。全てを救うという思想が仮に現実存在し得るのであれば、それは有史以来の悠久の歴史において既に達成されている筈であるし、そこにフェミニズムの参加する余地は存在しない筈なのだ。
換言すれば、「フェミニズムが全てを救済する」というテーゼを本気で信じている人は一人もいないということだ。
いずれにせよ、全てを救う思想というものは現実的に存在しない。にもかかわらず、フェミニズムないしフェミニストが越権的にその立場を乗り越えようとした結果、それが不可能であるということはもはや陳腐なまでに自明化しつつあるように思う。
フェミニズムは世の中の全ての女性を救っているであろうか? と問われた時、その答えは勿論ノーである。例えば、「セクシーな広告は現実の人間にリスクを生むので自重すべき」、というシンプルな命題においてさえ、女性間で紛糾は起こる。
「広告のセクシーな魅力を私は評価するし、そのようなポテンシャルは広告的価値のみならず女性の価値にも還元されるのではないでしょうか?」と言う女性は、この文脈においてぶっ潰されることになる。「はあああああ!? 貴方が評価したところでもしストッキングやタイツを身に着けた一般的な女子の存在が性的に眼差されたら貴方は責任取れるんですか!?」と。この言明によって既に「一般的な女子」とされる存在の中から、「広告のセクシーな魅力を私は評価する」と言明するような女性はパージされることになる。この時点で、どう考えてもフェミニズムは、あるいはフェミニストの活動は、女性の総体を救済しているわけではなく、最も好意的な言い方でも「女性の部分集合Aを救済しようと『試みている』」に過ぎないのだ。
でもフェミニストはそう思っていないらしく、「我々の活動は最終的に女性全てを救済し、どころか、ホモソーシャル的な思想に囚われた男性さえをも救済することができる」と考えているフシがある。
無理。
無理だから。
例えば、ソマリアでレ○プされている少女をフェミニズムは救うことはできない。彼女らを救うことができるとすればそれは政治の役割である。とにかく、世界同時革命的に思想的啓蒙を行うことは無理なのである。逆襲のシャアを見ろ。
そんなこんなで、フェミニズムの役割は限定的であるし、それは全ての女性に対して及んでいるわけでもない。というか、対象としている女性たちそのものでさえ救済できているかは謎である。いや勿論されてる人もいるんだろうけどね。
話を戻すと、結局のところフェミニズムは限定的に人を救うしかないし、それが活躍できる範囲は決して広くはないのである。この時点で、フェミニズムはある種の専門的な救済機構への道に進むことになる。というか、最善でもそうなるしかないのである。因みに最善以外の可能性としては「自分たちが救世主だと考えている思想強要集団」という可能性が存在している。
逆に言えば、フェミニズムは自分たちの救うことのできる範囲というのをしっかり限定して、その上で物事に取り組むべきなのである。企業のマーケティングの一挙一動を監視し「社会に悪影響がある!」と発信するのはフェミニズムの役割ではない。それは本来、公共広告機構とジャロの役割だ。
ソマリアの女性を救うことができるのが政治であるのと同様の意味で、役割はきちんと分担しなければならない。広告のことはジャロにまかせておいたらどうじゃろ? という話である。
役割を限定することは極めて重要で、繰り返すように我々は世界同時革命的に全てを救うことはできない。しかも、救済の対象を限定することによって全てが解決するのかと言えばそうではなく、そこには必ず利害のバッティングが起こる。例えば、広告をバッシングされることで不利益を蒙る企業が存在するのが現実だし、あるいは、広告をバッシングされることで不利益を蒙る献血促進団体が存在するのが、そのような例に当たる。必ずそこにはお互いの利害の衝突があり、お互いの倫理があり、お互いの目標があり、お互いの努力がある。
全てを救うことができないというのはそういうことで、要はそこにはお互いの、利害の衝突があるということなのである。誰かを救おうとすれば誰かが救われないということなのだ。
そして、誰かを救うということは、別の誰かを救おうとする人間を切り捨てるということなのである。
つまりここにおいてフェミニズムの立場は相対化されることになる。
フェミニズムは自身の擁護しようとする人々と利害的に対立しているところの、別のグループとの対立を味わう。お互いに誰かを切り捨て、自らの救いたいと望む人々をのみを救うしかない袋小路に辿り着く。その時点で、思想の優位性、発言の正当性などは捨象されてしまうのだ。つまりフェミニズムは誰かを救うことを諦める代わりに誰かを救うという形を、最善の可能性においてさえ取らざるを得ないのである。全てを救おうとしてもそこには最悪の可能性が導かれるだけで、まずは、誰を救いたいのかを限定しなければ、誰も救うことなどできなどしない。
そして、現実に生きる人々が常に取るべきなのはそのような態度である。現に、今を生きる人々はそのような態度を常に取り続けている。例えばアツギという企業が社員や依頼先のイラストレーターを守るように、それが当たり前のことなのだ。そしてそこには避け難く対立が起こる。誰かをぶん殴れば誰かにぶん殴られる。誰かをぶん殴れば誰かに毛嫌いされる。何も、フェミニズムだけが特別というわけではないのだ。
警句的に言えば、ありとあらゆる対立において、ありとあらゆる闘争において、誠実な闘争というものは存在しない。どんな対立であれどんな闘争であれ、それは不実で胡散臭くて汚らしいものだ。しかし、今回の件を見る限りで、そこには一般論を超えたきな臭さを感じざるを得ない。
それは恐らくフェミニズムの限界に起因するきな臭さなのではないかと思う。彼女たちは、全ての女性を救うことはできないし、男女同権思想が自明として救済しなければならないところの男性を救うこともできない。また、強い社会的ストレスの中で生きる少数弱者を救うことができない。時には、彼女たちは女性をも切り捨てる。
勿論、救う対象を限定することは大切だ。誰もかもを救おうとすることなど人間には所詮できないのだから。
とは言え、まさにそこに、一般論を超えたきな臭さの源がある。つまりそれは、自覚なく人々を切り捨てておきながら、自身の限界を意識せず、まるで全てをも救い得るかのように振る舞う、フェミニストとフェミニズムの傲慢のことである。突然こんなこと言ってごめんね。
でも本当です。
(多少ネタバレ含みつつ紹介します。内容の記憶違いもあるかも)
既にあらゆるブログで言及されているように舞城小説の中に「殺され続ける女の子」のモチーフは多い。
普通の高校生達と、ほぼ木記ちゃんみたいな女の子が主役の短編『ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート』はその筆頭だが、
誰も死なない少年少女の青春もの(小学生の子供達の話よ!?)ぽい体裁で、良くまああんなに落ち込むラストにするな。
苦しく後味が悪く恐ろしく、超面白い。(短編集『キミトピア』に収録されてるよ!)
やはり似た話の連作『淵の王』の3編目、中村悟堂くんの話には突然「ロミオメール」というワードが出てきて流石に笑った。
トラバの指摘通り、舞城のミステリは全くロジカルではなく、メタかつ重複する世界の中でひたすらカオスに陥って行くものが多い。
『九十九十九』が傑作すぎる。
イドより何倍もカオスでメタメタ(そもそも作家、清涼院流水の小説内のキャラクタを使ったトリビュート作だし)で大爆笑カレーでとにかくぶっ飛んでいるけどラストは泣けたり。イド10話好きな人にぜひ。(長いし重い)
カオスさは低めでさらっと読めるのは名探偵ルンババの出てくる『世界は密室で出来ている』。
自分が何者かわからない名探偵主人公、『獣の樹』はヒロインが駄目で好き。
・鳴瓢(および殺人鬼)
昔の講談社のミステリ枠を読めば大体酒井戸(や聖井戸)みたいな主人公だが、少ないけどもちろん鳴瓢みたいなのもいる。
SFでもミステリでも無くて、普通の暴力と性行為と性暴力の出てくる純文学短編、
で、同時に(IDINVADEDの)「殺人鬼」の存在と行為についても結構語っていると思う。
イド2話の富久田のつぶやきみたいな台詞は完全にこの話を思い出しましたね。
「人それぞれのイド(殺意の世界)=人それぞれの鼻クソご飯」である。
あと、短編集(短編集ばかりです舞城)『短編五芒星』の中の『バーベル・ザ・バーバリアン』の主人公は刑事で、色々あって病んで荒んでかなり鳴瓢的な感じにいくのだが、最後に語る「俺の心が冷えたきっかけ」が意外なところにあり、かつピュアなメッセージとなっていてしみじみ良い。
・富久田
富久田のようなデフォルメされたアクの強いキャラ、いそうでいなかった気がする…
が、頭の穴というモチーフはもちろん、超名作『好き好き大好き超愛してる』収録の『ドリルホール・イン・マイ・ブレイン』ですね。(文庫の好き好き大好きには収録されていないらしい…)
穴あきボーイとユニコーン娘が出会ったらまあそうなるよね、というカオス青春SF?
あと、強迫神経症(何かに取り憑かれる)みたいな部分が出てくるのは『短編五芒星』の
位 | 記録 | 名前 | 所属(出生) | 年齢 | 日時 |
---|---|---|---|---|---|
23 | 2:04:16 | Kaan Kigen OZBILEN | トルコ(ケニア) | 33 | 2019/12/01 |
35 | 2:04:43 | Elabbassi Elhassan | バーレーン(モロッコ) | 34 | 2018/12/02 |
64 | 2:05:11 | Mo Farah | イギリス(ソマリア) | 35 | 2018/10/07 |
65 | 2:05:12 | Felix CHEMONGES | ウガンダ | 24 | 2019/10/20 |
78 | 2:05:26 | El Mahjoub DAZZA | モロッコ | 27 | 2018/12/02 |
80 | 2:05:27 | Jaouad GHARIB | モロッコ | 36 | 2009/04/26 |
84 | 2:05:29 | 大迫 傑 | 日本 | 28 | 2020/03/01 |
85 | 2:05:30 | Abderrahim GOUMRI | モロッコ | 31 | 2008/04/13 |
87 | 2:05:38 | Khalid KHANNOUCHI | アメリカ(モロッコ) | 30 | 2002/04/14 |
96 | 2:05:48 | Sondre Nordstad Moen | ノルウェー | 26 | 2017/12/03 |
こうしてみると大迫半端ねえな。
ものすごく勉強して医師や官僚や経営者になってもハードワークだし、まったく勉強せずにバイト掛け持ちやブラック企業勤務でもやはりハードワークだ。
Work or die.
どこかの王に生まれたら?
王とかもっと大変だ。
側近に政治を任せて遊び呆けていたら側近が力を持つから、彼らの都合でいつ首をすげ替えられてもおかしくない。
じゃあ親政をするといったらやはり勉強しなければならないし、平民では経験し得ないほどにリーダーシップを求められる。
何しろ国家の命運がかかっている。決断ミス1つで大勢の民が命を落とす。
日本では左派と言えば平和を望み、多様性を訴え、自由の獲得へ邁進する政治的主張を持っている人々というのが共通認識だ。
これらの人々は多くの場合、日本国憲法9条の堅持を中心とした反戦主義とほぼ同義となっており、軍拡政策へ対して異を唱えることが右派と比較すると圧倒的大多数だと言える。
しかしながら日本の主流左派とほぼ同じ主張を持ちながらも「だからこそ軍拡が必要だ」と訴えている人々が居る。
左派であれ右派であれ「そんな連中見たことがない」「もしかして暴力革命主義者のことか?」のどちらかの印象を持つ人が大半だろう。
しかしそうではない。左派軍拡主義者たちからすると暴力革命などもってのほかで、彼らは日本が戦争へ至らないために軍拡が必要だと主張しているのだ。
左派軍拡主義者たちの主張の中で他主義者たちが興味を示しそうな顕著な主張は「憲法改悪の反対」だろう。
彼らは旧民主党系、共産党系、社会党系などのいわゆる野党連合と同調しつつも「憲法改正の反対」ではなく「憲法改悪の反対」を主張しているのだ。
そうつまり「左派軍拡主義者は憲法改正に反対していない」という主流左派たちからすると驚愕するかも知れない主張を胸に秘めているのだ。
そんな連中は何処にいるのか?と疑問に思うだろうから答えよう。
運輸業界と聞いて「運輸業界の人々が左派軍拡主義を訴えるのは仕方ない」というリアクションを直ぐさま取った人は平均値よりも日本の歴史へ詳しいと言えるだろう。
惜しくも察することが出来なかった人々へ端的に説明するのであれば「日本は戦国時代から第二次世界大戦までにかけて、発生させた戦乱はほぼすべて『物資不足への危惧』を理由に起きている」のだ。
戦国時代は恒常的な飢饉により食糧を中心とした物資の奪い合いが発端。
明治維新・日露戦争・第一次世界大戦参戦はロシアの南下政策が発端(ロシア側も不凍港など運輸を理由に戦乱を起こしている)。
大東亜戦争・太平洋戦争も物資輸送網の確保が戦乱を起こした理由である。
物資の運輸を司る運輸業界がこういった点へ敏感に反応するのは無理もない。
特に海運業界は第二次世界大戦中の海上輸送網の戦略的対応および、その戦後処理に対して日本政府のやり方へ対して不信感を募らせた。
その記憶は現在でも継承されており「海上輸送網の軽視は日本という島国の立地条件から考えて間違いなく国難に繋がる」と信じて止まない。
それらはソマリア沖での海賊対策やホルムズ海峡での多国連携護衛作戦、有事の際には日本沿岸で就航している民間フェリーが自衛官を輸送する協定を政府と結ぶなどから、海運業界は海上輸送網を防衛するための軍拡を許容している。
逆を言えば他国を侵略するための軍拡は許容しないことが「憲法改悪の反対」という主張へ繋がっているのだ。
さて、これを知った主流左派の人々はどう思うのだろうか。
中には絶対的な非暴力主義とも思える主張をする人も居る。要は「軍拡こそが戦争へ繋がり、もし日本が戦乱へ巻き込まれれば降伏すると良い」という類の主張だ。
これは尊敬に値する素晴らしい考え方であり、国際法が尊ばれる現代国際社会では降伏した者へ更なる追撃を加えようものならば間違いなく戦争犯罪という判定になる。非常に納得行く理論だ。
しかし「日本の運輸業界が問題視しているのは降伏する以前の部分」であることに絶対的な非暴力主義者の多くは気付いていない傾向にある。
何故ならば日本は島国であり弱点は輸送網にあるからだ。それは歴史が証明しており、日本が戦乱に巻き込まれることは輸送網に攻撃を受けるということに他ならないのだ。最小限の攻撃で大打撃を与えられるなら指揮官はそれを選択するだろう。
つまり、輸送網への攻撃ということは即ち船舶や航空機が攻撃に晒されるということであり、非暴力主義者たちは沈みゆく船舶や航空機を見てから降伏すると言うのだろうか?
平和のために死んでいく船乗りやパイロットはそれはもう英雄扱いだろう。私達に降伏するという選択肢を取らせてくれた船乗りやパイロットには最大限の敬意を払わなければならず、永久にその勇姿を語り継がねばなるまい。
そう、戦争は悪であることを現代に伝えてくれている神風特別攻撃隊のように扱わなければならない。
……船乗りやパイロット当人からすると何とも馬鹿馬鹿しい主張だ。他人の平和のため、非暴力主義の正しさのために犠牲になれと言うわけだ。
船乗りやパイロットは死にたくはない。しかしながら日本が戦乱に巻き込まれるということは間違いなく攻撃目標は船乗りやパイロットである自分たちである。
船乗りやパイロットは日本で最も戦乱に近い民間人であり、ならばどういう結論に至るのか?と言えば輸送網を守るための軍拡なのだ。
一種の藁人形論法とも言える極端な例の絶対的な非暴力主義者をたとえに出したが、左派主流派の平和主張には運輸業界に属する船乗りやパイロットが犠牲となってしまう平和主義になりがちだということへ冷静に考えると気付くことがある。
左派軍拡主義が日本という立地条件において絶対的に正しいのかはわからない。あらゆる主義主張は正しい面と間違っている面、それら両面が同時に存在してしまうのは常にあることであり絶対的に正しいとは言えないだろう。
このエントリは左派軍拡主義という日本へ居ないことになっている主義主張へ目を向けてもらい、あなた達の主義主張へ役立てて頂くために公開した。