はてなキーワード: 共感覚とは
すごい丁寧に作られてる感じがした
・どってんアーメン、相対性理論とパスピエ足して割った感すげえ!!!もう入りのギターがバチクソ相対性理論じゃん!!!
・「変えられないものを受け入れる心の余裕を〜」「続きを知ってるかしら」の行は下りは浅学なので意味を解りきれてないが「良い…」と感じた
・全体的に良くも悪くもフワフワしてたな…
ギターちゃんが学校を辞めた理由の「私はおばあちゃんが思うみたいな人じゃない…」に納得しきれなくて…
でもそういう「明確な理由は無いが漠然とした真綿で首を絞める感じ」で通常ルートから外れるのが逆に今の若い人っぽいのかな…「老」にはついていけん世界や…でもエンディングミスチルやしターゲット層が謎やな…ってなった
・テルミン君も親は勉学押し付け毒親って程でも無いし勉学と両方できてるし、そこまで問題か…?見た目とか動きとかポジ的にLGBT系の何がかあるキャラかと思ってた
・OPの味噌っかす幼少時代ジゼル?と対のラストの自分が自分でよかったジゼルの対は目茶苦茶よかった 自分が自分でよかった(自分が今まで生きていた事報われ自己受容もの)物大好き
Godなんちゃら
・主人公ちゃんとシスター先生が同じ廊下でスカートフワッとさせてつい踊っちゃうシーン、良すぎる アニメーションの楽しみをわからせられて頂いた
・百合に挟まれる男かと思ったら色彩共感覚ちゃんがドクストの千空くん(大樹君と杠ちゃんが幸せならオッケーです)だった 色が綺麗ならオッケーです
・しかし高校生で女2人 男1人バンドは人間関係こじれの予感しかせず男1人君がいかにフェミニンっぽくてもなんかハラハラした
・バンドとしてのストーリーの流れ+3人各々の背景でちょっとストーリー散らばって「これに向かって話が進行する!」って物語の明確な目印が無かったから終始良くも悪くも見ててフワフワした
あとバンドもののラストは演奏会に出て大トリ演奏シーンでシメなのは定石なんだしバレンタイン祭参加はもうちょい早めに提示して欲しかった
・バンドの演奏シーンが涼宮ハルヒ方式でビビった もっとBLUE GIANTみたく色彩ガンガンの感覚ゴリ押しで来てくれるかと思ったらそうでもなく演者を客観的に撮影する方式だった…なんでや…SARUの神作画で主人公ちゃんの色彩共感覚視点でトリップさせて貰いたかった
あとその曲でその盛り上がり方はせんやろ…なってるやろがい!!!
お洒落な丁寧な暮らし書店兼喫茶店に入ってソワソワし続ける気持ちだった
・もしかしてサイエンスSARUの作品は合わないのかもしれない… 作画オタクじゃない
・おっ教会が燃えるやつか?急に物語にエッジ効かせてくるやん…と思ったらそんなことなかった
・教会でジゼル踊るシーンで心の底から「わあっすごい すごい」(萌え袖で指先だけパチパチさせる拍手)する性格の良さが足りず真顔のクソワロタAAみたくなったのでちょっと視聴にあたり感性が足りなかったのかもしれない
でも今考えたらOPとEDのジゼルの中間地点という表現で必要だったのかもしれん
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・追記
本人やんけ!!
もともとリズと青い鳥とか好きだし山田尚子さんの新作まあ行くかくらいの気持ちで予告を見たところ、“天然そうな主人公がサブカルバンドやろうぜ的なノリで音楽やって結局青春やってライブとかなんだかんだ上手くいく的なよくあるお話ね”、と別に気乗りもせず、SNSでも“話がない”などと書かれているのを見て、ルックバックを映画でみた時くらいいまいち乗り切れない気持ちになったらどうしようと心配していたのですが、開始10分後にはその心配は見事に打ち砕かれ、言語化できない感情の波を視覚的に示されつづけたことによって私は目から水を流し続けるただの機械となりました。人に感情を強制的に感じさせる機能を備えた映画ってすごくないですか?それなのに、あまりにも予告編で得られる情報と実際の映画の良さが違いすぎて皆さんに伝わらないので広告を書かせていただきます。
まず、予告ですが、予告だけ見ると全く面白そうな映画に感じません。予告が面白くないのは、たしかにこの映画に話という話がなく、予告として周知すべき展開がないため、日本の映画広告で求められるストーリー性(タイムスリップして女子高生が特攻隊に恋をした、など)が薄いからなのでしょうね。
そもそもこの映画には、人間の”視覚化された感情”とそれを表現するためのモチーフの連続だけがあります。なので、予告というシステムでシーンをピックアップして繋げることで良さを伝えるのは無理なのかもしれません。
この映画を端的に説明しようとすると、他人のことが色で見える主人公が、いろいろ事情のある同級生と一緒に困難を乗り越えて青春とか恋とかありながら成長する物語って感じになってしまい、正直「薄っ!」ありきたりすぎて、色が見える=共感覚とかなに、中二病?って思ってるしまうんだけど、正直話とか設定とかキャラクターとかもう全部あんま関係ないんですよ。多分この映画、監督もインタビューで言ってたのでそうだと思うんですけど、人(特に若い)の感情を描こうと思ったということだったので、色が見える(共感覚?)という設定は、映像という媒体の中で感情表現をできる限り視覚化することで、表現したい感情の概念を観ているみんな(余す所なくみんな)にわかりやすくするため便宜上そうしてるだけなのだと思います。なので、みていて中二病とかイタイなとか感じる場面は(私はそういうのを感じやすいほうですが)ほとんどなかったですね。なので、話とかそういうのじゃなくて、ただ、若くて未熟(いや、成熟しているといえる人間などいるのか?)な人間の内面を眺めに行くと考えてこの映画に臨んでもらえると受け入れやすいのではと思います。
主人公のこと、ほんわか系とか不思議系とか天然とかってまあ一般的には表される雰囲気なので、予告見てそれがちょっと抵抗感に繋がったという人もいるんじゃないかと思うんですね。ただ、この映画の中ではとにかくその人が外から見られたときにどう見えるかってことは全く関係なく、常にその人の内面が見えるように設計されているのです。例えば一般的にどんな天然でほんわかしている女でも家では彼氏や夫と普通にエロいセックスしていたり、普通にいい生活してる人に嫉妬したり人を見下したりすることがあるように(本作の中ではそういう描写はありませんが)、この映画の主人公も外からみたらほんわか天然ふわふわ系なんだけど、普通に普通の人間として思考していて、それが当たり前のように表現されていて、その人間のグロさがリアルでよかったです。
wakatte.TVというYoutubeチャンネルがある。 おれがもっとも好きなチャンネルだ。 Youtubeチャンネルはどれも面白くないが、 wakatte.TVだけは面白い。
wakatte.TVとはどんなチャンネルかというと、 街中で学歴を聞いて、それをバカにするチャンネルだ。 正確にいうと、 見知らぬ人に出身大学の偏差値を聞いて、 それを元にした企画をするチャンネルだ。
学歴ブラックジャック: 偏差値の10の桁を使ってブラックジャックをする
学歴ボーリング: ボーリングがよくわからないのでよくわからないが、偏差値でボーリングをする
学歴ゴルフ: 箱から質問を引いて、それにより学歴を当てる。3打でパー
天国と地獄ゲーム: 高校と大学の偏差値の落差の大きい方を引いた方が勝ち
学歴エンジェルフォール: 男と女の学歴差が出来るだけ大きいカップルを引いた方が勝ち
キャンパス調査: 地方大学に行ってその大学の人を低学歴やなーとバカにする。これは面白いので、もっと色々な大学に行ってほしい。灘と開成に行ったのだから麻布にも行ってくれ
説検証: 高学歴ほど童貞が多いとか、法政の人に第一志望はいないとか、ありそうな説を検証する
街中で学歴を聞いて、 京大中退の狂人高田ふーみんが「そんなFラン大学によう行けるな。恥ずかしくないのか」とバカにして、 早稲田出身のポンコツびーやまが「ヤメロオマエ」と突っ込むのがパターンだ。 このヤメロオマエはなかなか癖になるツッコミで、視聴者であるはずのおれも、 ヤメロオマエと突っ込むようになってきた。偏差値の高いツッコミだ。 中国でリンチされてた時に生まれていたら面白かった。
正直にいって趣味の悪い番組だと思う。 誰しもが自分が誇れる大学に行ってるわけではないのに、 なんや知らんメガネの曇ったデブにFランだ高卒だとバカにされ、 自分だけならばまだ良いかも知れないが、自分の彼氏や彼女の学歴をバカにされることもある。 ふーみんが今のいままで五体満足なのが信じられない番組だ。 ふつうは、手が出るところだろう。 しかし逆にいうと、学歴をバカにされて一緒にはははと笑っていられるような芯のない人間だから しょうもない大学に行ってるんだと言うことは出来るから、 もしかしてそういうことも見越して、意外に安全な企画になってるのかも知れない。
wakatte.TVのすごいところは何かというと、 偏差値という数値に対して、新しい見方を与えたという点だとおれは思う。 偏差値を他人と比較したことは誰でもあると思うが、まさか 10の桁を使って加算する人間が現れるとは思わなかった。 これを許すと、この汎用的なただの数値を利用して無限に企画を作ることが出来てしまう。 waktte.TVのコンセプトを考えた人間は天才的だ。
しかしおれは、偏差値に対して別の解釈を与えた人間をもう一人知っている。 ルシファーだ。 ルシファーは、偏差値を足し算するほど奇抜ではないが、 偏差値や学歴という概念を学校以外のものにも応用した偉人だ。 さきほどおれは、偏差値の高いツッコミだと言ったが、これもルシファーの手法を真似たにすぎない。 彼は他にも、料理に対して学歴を聞いたりすることもある。 共感覚というのがあるが、彼の場合は、あらゆるものが学歴に見えているのだろう。
もし、wakatte.TVとこのルシファーが共演することがあったら、相当面白いはずだ。 共演によって、偏差値に対して新しい解釈が生まれるかも知れない。ヤメロオマエ!
そのデカさを感じさせる描写がでてくるとワクワクする。銀河を股に掛けた帝国とか、星一つ丸ごと兵器のデススターとか大好きだ。
科学理論がテーマの話も、結局は宇宙全体の話とイコールになるので、スケールが感じる。
物理法則が変わっちゃうと宇宙って滅茶苦茶広いのにその全部がどうにかなってしまう。スゴイ。
タイムトラベルものとかも、時間が長ければながいほどいい。セカイの軸が広がることはセカイのデカさだ。
スケールのデカさがあれば自然と未知ってものが発生するが、でも、未知であるだけじゃ不十分なんだよね、俺的に。
特に国産SFでありがちなのは、なんか科学要素をドラッグだとか、あるいは共感覚だとか、社会とのつながりとかに見出して、最終的に個人の脳と心の内にセンスオブワンダーを演出しようとするんだけど、はあ? という感じ。ワクワクしない。俺の求めるサイエンスフィクションではない。私の内を旅するのは、それは哲学小説。
恋だの愛だのがわからない。増田はバツイチであるが、元配偶者に対して愛情を抱いていると思うことはあった。愛情というのは、他の友人と比較して優遇したいという気持ちが一番近いものだった。元配偶者は自分との関係を総括して、穴の空いたバケツに水を注ぎ続けるようなものだったと言った。
元々他者の感情が分からなかった。早々に自分には分からないが、他者はどうやらわかるみたいだということを察し、小説や映画、漫画を読み、見漁った。自分は一人で過ごす時間が心地良いが、それが過ぎると他者は寂しく感じるということを理解した。愛情という友情の上位互換のような感情……もしかしたら友情とはまた違う感情なのかもしれないが……があるということもわかった。よくわからないけれども、ジェイン・オースティンだって愛情を主軸に物語を書いている。物語の良さはわかるし、愛は尊い感情なのだろうし、いつか理解できればいいなと思っていた。
結局自分事としては理解できなかった。好きという気持ちは他の友人と比べてでしか言い表せなかった。これを表明するのは、おそらく良くないことなのだろうと思ってそのようには言ったことはなかったが。元配偶者のことは大事に思っていたが、友人を大事に思う気持ちとの違いが自分には説明できなかった。離婚後に交際した人間が浮気をしたが、一般的には悲しみを覚えるのだろうけれども自分には交際に係る約束を違えたことへの怒りしかわかなかった。
わかっていたことではあるけれど、自分は欠落した人間なのだと思い知った。本当は恋人の心が離れたことに対して悲しんだり怒ったりするものなんだろうが、自分はどうだ、恋人の行為に対して怒りを覚えるだけだ。むしろ欠落した人間によくここまで付き合ってくれたものだと思うべきかもしれない。
そこで訊きたいのですが、恋とはどんなものなのでしょうか?幸いにも友情は感じることができるが、愛情がわからない。物語の中の愛情は絶対的なものに見えるが、自分は友情の中で比較することでしか情を感知できない。
本当にマジで全然わからん。怪獣のバラードを聞くと、他人事ではないと強く思う。人を愛したい、愛をわかりたいという気持ちは確かに自分の中にある。
共感覚というものがあるが、それそのものを体感せずともそういった感じ方があるんだなってことは知識として知ってはいる人って多いと思うが、自分にとっては恋愛感情がそういったものであり、周囲の人間は概ねみんなわかっていて、だから他者もそうであるという前提で話してくることがとてもしんどい。
つい最近TwitterでボカロP的な人が「曲を聴いてもらいたいだけなのにイラストやら動画やらでお金がかかって大変だよ😭」というようなツイートをしていた.
それを見て次の2つのことを思った
1. 良い曲を投稿していればイラストや動画にお金をかけなくても(ある程度は)聴いてもらえるのでは?
2. ツイ主の本心としては"曲を聴いてもらいたい"というより"自分の曲を使ったMVがバズってほしい"なのでは?
そして最後に『3. MVと音楽は別物の創作物である』という個人的な主張について書く.
1. 良い曲を投稿していればイラストや動画に金をかけなくても(ある程度)聴いてもらえるのでは? について
まず前提として,各種の動画投稿サイト上で"曲自体に魅力はないがMVが良いから高い評価を得ている音楽"ってあるだろうか?
全く存在しないことはないだろうが,少なくとも私は知らない.
一方で,"MV自体が高い評価を得ていなくても曲は高い評価を得ている音楽"なら比較的たくさんあると思う.
なんならMVと言いながらもイラストや画像を載せているだけだったり,曲に合わせて音の波形のようなものがうねうね動くだけの動画でも良い曲というのはごまんとある.
こういった事情を考慮すると,自分が作った曲をたくさんの人に聴いてもらおうと思った時にMVが優れている必要はなく,ただ良い曲を作ることだけに注力した方がよくない?と言いたくなる.
もちろん,優れた曲を作った上で優れたMVが用意できれば,話題性が出てより多くの人に聴いてもらえるといったことはあるだろうが,それはMVが特段優れたものではなくても(もしくは,そもそもMVなんかなくても),ある程度の人に聴いてもらえるようなクオリティの曲を作れるようになってからでも遅くはないように思う.
むしろ,明らかに素人感丸出しの曲なのに,お金の力を借りてMVだけクオリティの高いものを用意しても,動画の視聴者はなんか違うな...となってしまうだけではないだろうか.
MVが曲の評価を高めるという側面はあれど,それはあくまでも曲そのものが魅力的である場合に限られると思う.
2. ツイ主の本心としては"曲を聴いてもらいたい"というより"自分の曲を使ったMVがバズってほしい"なのでは? について
最近のボカロ音楽は,音楽と動画のセットで話題になるという傾向が顕著である,というよりむしろMVがないけど話題になるような曲の方が少数派なのではないだろうか.
それゆえ,特に最近のボカロリスナーであればあるほど曲にはMVが付随しているのが当たり前であるという認識が一般的になっているように思われる.
そしてそれに伴って,ボカロ曲の作り手たるボカロPの創作欲求の源泉として,"作った曲を聴いてもらいたい"よりも"作った曲のMVを観てほしい"というものの占める割合が増えてきているのではないだろうか.
もちろん,純粋にボカロで曲を作ってそれを聴いてもらえることが第一であり,別にMVなんか必要ないという作り手も大勢いるだろうことは承知している.
しかし,仮にツイ主がそういった考えであれば,そもそもお金を払ってまでMV制作を依頼することにそこまで固執することはなかったのではないだろうか?
まず,前提として私は音楽をよく聴くが,MVを観ることはあまりない.
その理由を端的に言うと,私は音楽を聴きたいのであり,動画を観たいわけではないからというのに尽きる.
個人的な話だが,つい先日私の好きなバンドが数年ぶりのアルバムを発売するにあたり,YouTubeでそのアルバム内の1曲についてMVを公開した.
公開時にはアルバムはまだ発売されておらず,私は早くその曲を聴いてみたかったのでMVの動画を再生した.だが,あくまでMVを観てはいない.
その時はPCのブラウザでYouTubeを開いていたのだが,動画の再生ボタンを押した瞬間にブラウザから別のウィンドウに切り替えることで,あくまでMVは観ずに音楽を聴いただけであった.
こんなことをしていると,なぜそこまでしてMVを毛嫌いしているのかと言われそうだが,私はMVが嫌いなわけではない.
優れたMVを観て良いなぁと思うことも感動することもある.ただ,それは純粋に音楽を聴いて良いなぁと思ったり感動したりするのとは,情動の発生要因に違いがある.
具体的に言うと,MVを観ながら聴いた音楽には,その音楽についての印象に視覚情報が関わってくる.一方で,MVがなければ,音楽を聴いた時に及ぼすのは純粋にその音楽を聴くことで得られる聴覚情報のみである.(厳密に言えば音楽を聴いている時に目を開けていれば視覚情報はシャットアウトできないがそれは無視する)
それゆえ,私はMVを観ることによって,音楽を聴いたときのイメージに視覚情報が含まれてしまうことが嫌でMVを観なかったのだ.一般的に人間にとって視覚情報は聴覚情報よりも強い影響を及ぼすため,MVを観ながら音楽を聴けば,次に同じ音楽を聴いたとき,その音楽のイメージには少なからずMVの視覚情報から得られた印象が含まれているはずだ.私にとってはこれが好ましくないのだ.
音楽を聴いた時に音楽の全体的な印象として,または特定の音色に関してそこに色彩感覚を知覚する"共感覚"というものがあるらしい.例えば「この音は薄い紫色」だとか「この音楽は白っぽい感じがする」だとか.
私はこの共感覚を持っているとは言えないが,でも曲の中にはなんとなく,本当になんとなくだが色彩感覚であったり,風景(薄い緑色の草原の中を風が吹き抜けている様子だったり,石畳の歩道や教会のある中世の街並みをセピア色のフィルターを通して見た景色だったり)を連想したりするものがある.
これは本当にボンヤリとしたものであって真に共感覚を持っている人の感じ方とは全く異なるものだと考えている.しかし,ボンヤリとした形であれ,音楽という聴覚情報から視覚情報が想起されるという人は自分以外にも少なからず存在するものだと思っている.(具体的な根拠はないですが...)
このような,音楽を聴いた時に何らかの視覚情報が想起されるというのが私が音楽を聴くことが好きな要因の一つであり,また私の好きな音楽というのは,聴いた時に頭の中にイメージや風景が浮かぶものが多い.こういった感性を持っている人がいたら多分共感してもらえると思うが,MVを観て音楽を聴いてしまえば,その音楽の色やイメージのようなものは間違いなくMVで使われていた色やイメージにひきづられてしまう.
つまり,MVを観ることによって,MVを観ることによって得られる視覚情報からの楽しさが得られる代わりと言っては何だが,今後そのMVの曲を聴いたときのイメージが視覚情報から得られたイメージに大きく影響を受けるという代償を負っているとも言える.少し大袈裟な言い方な気もするが,事実である.
よって,私にとってMVというのは視覚と聴覚の両方を同時に刺激する存在であり,音楽というよりはアニメや映画といったものに近い創作物であるという印象がある.
例えば,映画と音楽という創作物について考えてみると,音楽は映画を構成する一部分ではあるが,これら2つの創作物を同じ土俵で評価・議論したりするのは違和感があるだろう.
それと同様に,MVと音楽という創作物もそもそも別種のものと捉え,区別するのがより自然な見方ではないかと考える.
にも関わらず,現状では多くの人がMVと音楽というものをあまり区別することなく,「音楽の良し悪しや評価 = そのMVの良し悪しや評価」と考える人が多いように思えて違和感を感じている.
アイドルマスターSideMは救済、よく聞く言葉だ。
実際私もFRAMEの楽曲に人生を救われたクチなのでとても分かる。
しかし、自らが想像もしていなかった曲に救われた、いや、もっとささやかな気づきだが、そんな出来事があったのでここに記そうと思う。
なお、読む方へ。私はこのような文章を書くのに慣れていないので、至らない、誤解を生じる表現があるかもしれない。衝動で書いている自分語りだ。はてな匿名ダイアリーを使うのも初めてだ、改行が分からない。後でヘルプを見て編集しよう。
よくある『SideM救済曲リスト』で見たことのない曲なのだ。びっくりだよ。
都築さんのストーリー、そして声優さんの歌の技量も相まってこう……とても美しくてエモーショナルな曲だと思う。大好きな曲だ(二回目)
でも救済曲か? 少なくとも私にはその印象はなかった。今朝までは。
音楽が人を救うのは、その内容が、聴く人間の状況によると思う。寄り添う、背中を押す、隣を歩く。音楽は様々な形で、人々のそばにいてくれる。
この曲に救われた経緯を説明するには、「救われた」私の状況も説明しなければならない。簡単にいこう。
大好きな友人と喧嘩をした。喧嘩と言えるかはわからないが、たぶんそうだろう。
詳細は省くが、私の軽率で感情的な発言が原因だろうと思っている。
心はふさぎ込んだ。食欲もなくなる、なにをするにも億劫になる。ただ仕事から帰ってすぐ眠りについた。
頭の中にめぐる色々な種類ものを言語化することはできなかった。後悔、怒り、悲しみ、そんな単語だけで表現するにはあまりにも複雑だと、私は思った。
朝が来る。のろのろと支度をして通勤電車に乗る。
車窓越しに差す朝日を薄眼で眺めながら、惰性でランダムで流す数百曲のプレイリストの中から『Sanctuary World』が再生される。
そのメロディを聴きながらふと思ったのだ。
私の心は音楽のようだ、と。
自らが聴こえる楽曲を、聴いていない相手に口頭で描写できるだろうか。私はできない。
(曲のジャンルにもよるが)複数の楽器が各々音色と音階を、リズムを伴って、重なっている。
心も同じなのではないだろうか。思考と感情は様々な様相で同時並行で走り、そして形作られたものが私なのだ、そう思った。
この感覚を、読んでいるあなたに十全に伝えることができないのがもどかしい。
注釈として、私は若干の共感覚を持っているのだろうか、音楽にはほんのり色と形が見える人間だ。
また、私は音楽に対する感受性が強い。普通にコンサートで号泣するタイプだ。
何にせよ、私が『Sanctuary World』を通して救われた、というか、少し心が軽くなった、そんな話だ。
もしかしたら他の曲を聴いているときに、このことを思ったのかもしれない。
しかし、『Sanctuary World』の歌詞はこんな言葉で締めくくられているのだ。
ごめんバチャ豚っていうのも2年前までなんだけど
うちに泊まってる女子がYoutuber大好きでよく見るんだけど
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4.「と言うわけでやってまいりました」
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5.薄い企画
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6.なんかエモいっぽいこと言って終わり
これで数百万登録者稼いでるのすごいなって思った
新世代ってやつ?東海オンエア方式って聞いたことがあるが、見たことないんだよね(食わず嫌いなだけ)
コメントでのいじりとか視聴者いじりとか芸人っぽい企画とか結構頑張ってると思うのよ
ああでも上で言ったお出かけフォーマット以外の企画はちょっと面白いことある
地味に金かかってたりとか
元々面白い女子のふざけトークとか、ああいう女子校ノリは受けそう
結局「イケメンや男子友達が何か薄いトークしてる」ってのが女子に受けてるんだろうか?
ありそう
俺もきらら系好きだったし
ここらへん誰かもっと深堀りしてほしい
ノリとして思い出すのはSMAPxSMAPとか鉄腕ダッシュとかだけどあのレベルまで企画力が上がってくれたらおっさんでも見るんだけどなあ
薄いお出かけ2時間はきついって
夕方とかにテレビでやってるぶらり途中下車の旅みたいな番組のフォーマットなんだわ
あれ本当にきつくない?
いや違うわ、俺が衝撃なのは、あのフォーマットって枯れた爺婆が見てるんだと思ってたんだけどそうじゃないのかってあたり、分からなくなってきた
これそのYoutuberがどうこうっていうより
「数多のYoutuberがいろんな企画やった結果、あのフォーマットが正解だった」
ってことなんだよね?
こわい
違うわ、思い出した、俺水曜どうでしょう楽しめなかった組なんだわ
そこか、たぶんそこだわ重要なの
昔、登場人物が誰も死んでないアニメ見て「いつ始まるの?」って言ってたの思い出すわ
しらんけど
あと本人らも言ってたけど男女混合グループ増えたよね
___
むしろ俺もハマれたらいいなーと思う
ところでVtuberでもお泊り配信とかあまり楽しめなくて、結局線引きはそこら辺なのでは説もある
わかったYoutuberも切り抜きを見れば良いんだ、全部見る人ってそもそもガチ勢じゃん、にわかが楽しむには厳しいの当たり前だわ、何ならVtuberだって全視聴できるのなんて数人だわ、推しですら半分はきつい
ただYoutuberって編集済みであれなんだよね、やっぱ薄いわ
共感覚? って思って調べてみたら、なんか思ってたのと違った。
親がそういうのに厳しかったというのもあったが、
多趣味なので、テレビゲームばかりに時間やお小遣いを費やすことができなかった。
だからというわけではないが、ゲームは少ないタイトルを一人で進めることが多かった。
同年代の人らは、友達の家に集まってワイワイ言いながらゲームすることもあったかと思うけど、
自分は妹が横で見ているを淡々と進めるみたいなプレイしかしたことがなかった。
例えばFF5なんだけど。
ビッグブリッヂの死闘、っていう有名な曲あるよね。
もちろんキャラ立ちしてるギルガメッシュの影響もあるんだろうけど、
あの印象的なアルペジオは忘れられない。
当時はインターネットなんてなかったので、
友達とゲームプレイについて会話するってことがなかった自分は、
「ビッグブリッヂの死闘」って、超有名曲だったんだ、って知った。
多分、友達とプレイしてたら「この曲、めっちゃカッコイイ!」みたいに盛り上がるのだろうか。
でも、自分の中で「かっこいい曲だな、コレ」って思ってたら
他の人も「かっこいい曲だな、コレ」って思ってるって現象。
なんで「良いモノに触れて良いと感じる」のかなあ、
そしてそれがなぜ他人と共有できるのかなあ?
ってすごく不思議。
じゃあお前運転し終わったばかりのエンジンとか触ってみろよって話よ。
そもそも夏場だったら単に外に出しっぱになってるだけの金属が全部アッチッチだろうがよ。
分かる?
つまりこの表現を使ってるやつはくっそつまらねえフィーリングで語っているってわけ。
雪国にでも住んでるのか知らんけど金属だからって冷たいとは限らないってことを知らねえだけなんだな。
共感覚の一種だとしても金属のテカテカした感じに冷たさを覚えるかって言うと違うと思うんだよな。
獣の毛皮は暖かそうだけど、毛無猿たる人間のヌメヌメした皮膚があたたかそうかって言われると微妙じゃんよ。
ノーセンス。
アンセンス。
センスが終わってませんすか。