はてなキーワード: 精巧とは
あまりに凄すぎたので、とにかくこのホットな感動を伝えたいという衝動に突き動かされて今これを書いている。
もう本当に凄い。
クオリティという意味でもそうだし、面白さという意味でもそうであるし、何かもうこの映画の全てを総合して凄いとしか表現しようがない。
もう色々な人に出来る限り観に行って欲しいくらいに素晴らしい映画なのだが、その中でも特にオタク達に観に行って欲しいのだ、この映画を。
何故ならこの映画は普段のディズニーアニメのメインターゲット層であるお子様達よりも、素敵なお姫様と王子様とのラブストーリーに憧れる少女達よりも、大人になってもディズニーラブなお姉様方よりも、それらのどの層よりも、何より冒険と戦いと伝説の勇者にいまだに憧れる馬鹿野郎共にこそ深々と心にぶっ刺さる熱い熱い熱い映画であるのだから。
そう、この映画は大いに感動も出来るし、ハートフルな気持ちにもなれるという普段のディズニーの看板を全く偽ることなく、果てしなく広がる海を旅する冒険と、心を奮わせる激しい戦いと、熱き血潮と筋肉と入れ墨をも同時に詰め込んだスーパーマッチョアクション巨編なのである。
しかしこのまま熱く内容についても語り尽くしたいところではあるのだが、まだ公開して一週間も経っていない今そこまでネタバレしてしまうのは気が引けてしまう。
何よりこれを書いている目的はより多くの人にモアナを見て欲しいという気持ちからであるからして、そんな未視聴の人達から初見の感動を奪ってしまうのも忍びない。
なので、大筋のネタバレを避けつつ「モアナと伝説の海」という作品の魅力をいくつかピックアップして紹介していきたい。
1.ストーリーがいい
すでに巷では海のマッドマックスだのワイルドスピードだのと評判であるが、まずモアナは決してそんなインパクト重視な部分だけの映画ではないことを強く主張したい。
確かに途中から明らかにマッドマックスだし、終盤のセーリングバトルはまさしくワイルドスピードである。
そういう面がモアナのわかりやすくキャッチーな面白さであることは否定しないが、それらに劣らぬ魅力がそんな荒唐無稽な描写を単なるパロディやギャグで終わらせない骨太なストーリー展開にある。
序盤の展開を少しネタバレしてしまうことになるが、ここで軽くその一端を語らせて欲しい。
・村長である両親や周囲の期待に応え、村を継ぐという自分の将来がすでに決まってしまっている少女・モアナ。
・しかし同時に彼女は小さい頃から抱き続ける、海を越えて旅することへの憧れを捨てきれずにいた――。
ここまではディズニーでよくある抑圧されたプリンセスという構図であるが、モアナはここからが少し、いやかなりいつもと違う。
・しかし、村長の娘として過ごす内に、彼女が暮らす島には徐々に異変が現れ始める。
・島の命が涸れていく――。
・異変の原因は、今も口伝で伝わる神話の昔に起きたある伝説に原因があった。
・伝説は嘘ではない。海へ出ることを夢見るモアナの唯一の味方である祖母は、島に危機が訪れた今こそ彼女に真実を語る。
・島の先祖達の真なる歴史、そして島の中のとある場所に封印された船達。そして幼少の頃より海に選ばれし者であった自分の運命。
・島に、いやこの世界全てに危機が迫る今こそ、少女は己の運命と先祖から受け継いだ血に突き動かされて、封印された船を駆り、世界を救う旅へと出発する――!
そう、もう完全に少年漫画なのだ。ジャンプに連載されていても違和感がないほどに完全に少年漫画なのである。
何だったら船をロボットに置き換えても通じる。
飄々とした老人が語る真実。選ばれし血筋と運命。島に封印された兵器で世界を救う旅に出る少女。
まさしくロボットアニメ文法そのまんまである。そんな作品を見てみたいと思わないオタクがいるだろうか。
俺は見たい。そして実際に見た。凄い。この序盤以降も、もう本当に自分が望むままの血湧き肉躍る冒険活劇が繰り広げられるのである。
この時代にガッチリと、一分の隙も無く見事な、全く伝統的でブレることなく王道を真っ直ぐ突き進む冒険活劇が見られるのだ。
それこそが、そんなストーリーこそがモアナ最大の魅力であると、自分はまず自信を持ってオススメしたい。
そして二つ目のポイントもそのストーリーに掛かってくる部分なのであるが、「この映画は全くラブストーリーではない」というところをそれとして挙げたい。
そうは言ってもディズニーで、一応プリンセスが主人公なんだぜ? ラブストーリーじゃないなんてことあるの?、と思われるかもしれない。
自分のようにモテない独身男が一人で観に行っても全く闇を抱えることがない程に、清々しいくらいにラブストーリー要素は一切ないのである。(一応カップリング的なものはあるが、あくまでファンの受け取り方次第である)
前年度のディズニー映画「ズートピア」も恋愛関係というよりはバディものに近い関係性であったが、モアナはそれよりも更にバディもの、なんだったら師弟もののような関係性となっている。
一応に一応を重ねて今作のプリンス的立ち位置であるマウイというキャラクターは存在するし、彼と二人でモアナは旅をすることになるのだが、映画全編通して二人の間には一切恋愛を匂わせるような心の交流は存在しない。
しかしだからと言って二人の関係が薄いということは全くなく、冒険を通じてモアナという少女とマウイという英雄の間には友情のような、あるいは兄妹のような、あるいは師弟のような、固い固い絆が結ばれることになる。
そしてそこに恋愛というモチーフが一切入ってこないというのが、本当に爽やかで気持ちよく思えるのである。
恋愛的感情の一切無い男女のコンビというと「シュガーラッシュ」の例も存在するが、デフォルメの効いたキャラクター同士であるあちらよりも一人の人間としての形を色濃くデザインされた男女二人が恋には落ちないモアナはより珍しく映るだろう。
そしてそんな関係の二人だからこそ、シンプルに恋愛だけでない複雑な魂の結びつきを感じる余地も生まれ、キャラクターとしての奥行きを生み出しているようにも感じられるのだ。
独身男の心を傷つけない優しさという点だけではなく、そういう作品的な深みを生んでいる意味としても、ラブストーリーでないということはかなりオススメ出来る点であると個人的には考えている。
3.単純な悪役のいる物語ではない
これまたストーリーに掛かっているポイントであるが、個人的にもこのポイントは独立したものとして強く推したかったので語らせて欲しい。
さて、ディズニー映画と言えば必ずわかりやすいヴィラン(悪役)がいるというのが御約束である。
時には極悪非道、時にはコミカルで憎めない、そんな多種多様なヴィランがディズニー映画には登場するのだが、彼らはまた必ず物語の最後には主人公達に打倒されるものでもある。
単純な小悪党というパターンも多いが、彼らは多かれ少なかれ作品内の歪みを体現した存在でもあり、彼らが単純に倒されるだけでいいのだろうかというモヤモヤを残していったりもする。
それをして作品に奥行きと考察の余地を与えたり、現代における社会問題を反映させた構図としてみせたりするのがディズニー映画の一つの魅力ではある。
それは個人的にも長所ではあるとも思うのだが、やはり作品を見終えた後でいくらかの引っ掛かりや疑問を抱えたままになるし、それがあまり気持ちのいい感情ではないことも否定は出来ないだろう。
しかし、今回のモアナにはそれが一切存在しなかった(と、個人的には感じている)。
単純に歪みと闇を抱え、倒されるだけのヴィランというものが存在しないのである。
確かにモアナの冒険の途中には、モアナ達を狙う敵達が登場したりはする。
しかし、いずれも己の信念、というよりは生き方に基づいて立ち塞がるのであり、憎み合う敵というよりは障害物に近いものとなっている。
そしてその全てが憎めなくてどこか面白い、魅力のあるキャラクター達となっているのだ。
だからと言って、モアナという作品がそんなただ優しいだけの世界を描き、テーマ性の薄いものになっているのかというとそんなことも一切ない。
作品のテーマは最後まで一本筋の通ったものが存在しているし、それは様々なことを深く考えさせられるものである。
モアナを取り囲む世界も優しさに満ちていることは否定しないが、時にどうしようもない厳しさというのも十分に描かれている。
そして、この世界におけるこれまでのようなヴィランが体現する歪みというものは、モアナとマウイを含む全ての人物が己の心の中に持っているものとされている。
モアナとマウイは冒険を通じて自分の歪みと向き合うことでそれを打倒し、誰にも押しつけることなくそれを昇華する。
だからこそ、明確なヴィランの存在しない物語というものが存在し得るのである。
そして、そんな物語の迎える結末というものが、もう本当に、涙が出るほど清々しく、爽やかな気分にさせてくれるのだ。
何の引っ掛かりも疑問もなく、ただただ爽快感だけを残してモアナという作品は終わってくれるのである。
単純なハッピーエンドではなく、みんながこれからも考え続けていかなければならない。確かにそういう作品は大事だし、素晴らしいこともわかる。
しかし、たまにはここまで気持ちよく、優しい世界を描いた作品を讃えるのもいいではないか。
さらに加えてこの作品はプリンセスの不遇を描くに辺り、誰かしらや何かしらからの悪意が存在したりしないことも個人的には素晴らしいと思っている。
物語の序盤のモアナは抑圧された状況下にあることは確かなのだが、それは全て優しさと正当な理由があってのことなのである。
だからこそ、モアナの旅立ちのシーンが本当に胸を打つものになっている。
そしてそれはプリンセスの生い立ちや状況だけでなく、マウイという存在や行く手を阻む様々な困難の全てに単純な意地悪や悪意だけで構成されているものがない。
そういった部分も、この作品の優しさと爽やかさと気持ちの良さを支えているように思う。
作為的な悪というものが存在しない点。それもまたこの作品における重要なオススメポイントとさせていただきたい。
これについては今更自分のような者が語ることはないほど周知されていることだとは思うのだが、それでも今一度ここではモアナの魅力としてオススメさせて欲しい。
そして透き通るような美しさを持ちつつも精巧な絵画のように鮮やかな色をも見せ、生き物のようにうねる、これがアニメーションで可能なのかと驚愕しきりの海の表現。
愛くるしくも時に凜々しいキャラクター達の活き活きとした表情と動き。
そして何より激しいアクション! グリグリと動きまくる格闘戦! ド迫力な神と英雄のバトル! 躍動する筋肉! 精緻な美術設定によって作られた変態改造船舶!
もう枚挙に暇がないし言葉も足りない程に美しくて活気に満ち溢れた、そして過激かつマッチョなモアナの世界がスクリーンの向こうには広がっているのだ。
なのでこれはもう是非ともディスク化を待たずに劇場へ足を運んで、ドデカいスクリーンでこの映像美を拝んでいただきたい。
そのマッチョでマッハなアクションにはとてつもなく興奮することは間違いないし、そのあまりに美しい世界観に感動することもまた間違いがない。
特に予告編でも一部見ることが出来る夜の海を光る船団が行くシーンは本当に、本当に美しすぎて溜息が出るので絶対に劇場で見て欲しい。
そして海のマッドマックスと呼ばれる所以たるシーンも併せて是非。いや、マジでスゲーのよ。
5.挿入歌の使い方が最高
これもまあ今更自分が語るようなことではないと思うのだが、それでもあまりに感動したので書かせて貰いたい。
劇中歌の強さで天下を取ったディズニー作品と言えば「アナと雪の女王」が記憶に新しいが、個人的にはモアナのそれはアナ雪に勝るとも劣らぬ力があると感じた。
その上で、更にアナ雪よりも強いモアナの要素として劇中歌が挿入されるタイミングがとにかく最高ということが個人的には挙げられると思っている。
アナ雪で一番有名かつ作品のテーマソングともなっている「Let It Go」であるが、実は劇中での使用は一度のみなのである。
それもエルサが城から逃げ出して自身の能力で氷の城を作り上げるという、映像的には圧巻の美しいシーンではあるのだがタイミングとしてはいまいちカタルシスを感じていいのか微妙な部分で使用される楽曲であった。
対してモアナにおけるメインテーマソングである「How Far I'll Go」は、作中で数回に渡って使用される。
そして、それは主人公であるモアナが悩む時、壁にぶつかった時に、己を慰めるように、あるいは鼓舞するかのように歌い上げるのだ。
この劇中歌の流れるタイミングと、ストーリー的なカタルシスの一致がとにかく素晴らしいのである。素晴らしいシンクロ具合を見せてくれるのだ。
そしてこのテーマソングが一度ならず幾度も使用されるというのもありがたい。
作中のシーンに合わせて幾つもの曲を書き下ろすディズニーにしては珍しいしそこを欠点に感じる人もいるかもしれないが、一つの曲を大事に使ってくれる今回の方が個人的にはより好みであった。
そして何より言うまでも無いこの「How Far I'll Go」という楽曲自体の素晴らしさ。
切なくも力強いこの曲のサビの部分は、何度も使用されてこの歌を覚えていくことで作品の後半に進む程により心を震わされ、感動させられる作りになっているように思える。
更にモアナ役の吹き替え声優である屋比久知奈さんの歌声もこれまた最高で、これがあってこそと思えるものであり、この歌声と曲が合わさる相乗効果は本当に言葉にならない。
そして無論、「How Far I'll Go」以外にもモアナには素晴らしい劇中歌の数々が存在しているし、それらの使い方も言うまでもなく素晴らしい。
特に「We Know The Way」という曲はこれまた複数回使用される曲なのだが、映像と力強いメロディーとを合わせて自分の中の冒険心というものをこれでもかとかき立てられる素晴らしい曲であった。
とまあ、とにかくモアナの劇中歌は「曲自体の素晴らしさ」、「それが使用されるタイミング」、「その曲を覚える程繰り返し使用してくれる演出」と三拍子揃ってとてつもない感動を与えてくれるものとなっているのだ。
そしてそれを劇場の迫力ある音響で堪能出来る至福といったらもう、是非とも映画館に足を運んで味わって貰いたい。それ程大きなオススメポイントである。というかモアナでも極上爆音上映とかないですかね……。
さて、以上が自分のモアナという作品で素晴らしいと感じたポイントであり、オタク達にオススメするポイントである。
いかがだろうか、正直書いてる内に止まらなくなって自分でもちょっと引くほど長くなってしまったが、それくらい情熱に任せて書いてしまえる程モアナという作品は面白かったのだ。
なので、これを読んで少しでも食指を動かされた人には、本当に是非、すぐにでも劇場で観ていただきたい。
というか今すぐ観よう、今日のレイトショーで観よう、明日のレイトショーでもいい、休日は言うまでもなくモアナで予定を埋めよう。
誰に何を言われたからでも、観覧特典のような配布があるわけでも、ディズニーから金を貰ったからというわけでもない。
ただただあの優しくも熱い冒険の世界をまた味わいに行きたいからである。
そしてこれを読んでいる皆様にも、是非ともそれを味わっていただきたい。
純粋にそう願いながら、この文章をようやくここで終わらせることにしよう。
いや、やはり最後にもう一度。
…
……
………
…………
……さて。おまけで、かなりネタバレになってしまうがもう一つのオススメポイントを書き残しておきたい。
6.特殊性癖
巨女こそが女神の姿であり、自然であり、豊かな緑であり、巨女が島となり、大地となり、命を生む!
この映画は紛れもなく巨女信仰映画であり、子供達に巨女属性を幼い頃より刷り込ませ、更に一般的認知をも拡大せんとする目的で作られた映画であることは間違いがないだろう。
送りバントが上手そうな名前の虫、ニダンバッタには秘密の技があった。
なんと空中でさらに跳躍、というか進路を変えることができるのだ。
名前にバッタとつくが羽根のない虫であるニダンバッタは空中で動くため羽根の代わりに、
「うんこ」を利用している。
具体的には大質量の「うんこ」を高速で肛門から射出することで反作用を得て、
空中疾走するのだ。
緊急時に分泌されたそれらが反応することで爆発する。
この化学反応はニダンバッタの仲間が「おなら」として、天敵を撃退する目的で使っているものを応用していた。
そのためニダンバッタを追いつめた天敵は四散したうんこを正面から浴びることにもなりかねなかった。
実際、爆発の破壊力はすさまじく。うんこだけではなく、内臓の一部も飛び散っている。
瀕死でも子孫を残すことができれば二段ジャンプを会得するインセンティブは働く。
モコモコした褐色の足場に飛び移った。
と、動かないと思われた「足場」の持ち主がすばやくニダンバッタを食べてしまった。
手羽の先端に唐揚げを思わせる疑似餌をもっており、寄ってくる虫を補食する生態をもっている。
仲間のチキン類と同じく飛翔能力が低いため、「待ちの狩り」を得意としているのだ。
紫外線で観察すると虫が好む各種の花のおしべを精巧に模していた。
花粉を食べようと飛び移ったニダンバッタは自慢の二段ジャンプを行う隙もなく、
しかし、たまに運の悪いナゲキ鶏が口内でニダンバッタの液体火薬を反応させてしまい、
文字通り「爆発を味わう」ことはあった。
年末の華やぐ街にあって、ボクは忘年会帰りの気分で心地よく歩いていた。
街をゆく人のなかに、フリフリの服を着てキャリーケースを引いた女子を見つけた。
なんとも色白、綺麗な黒髪ロングをスラリと伸ばしていて、年の頃は20代前半といったところだろうか。
ふとボクのアタマに、もしこの娘がコミケ帰りのコスプレイヤーだったとしたらどうだろうかという妄想が浮かんだ。
妄想はしだいに子細になっていき、ボクの心を満足させた。
コミケではどんな格好をしていたのだろうか。
ひょっとすると、胸をはだけ、ケツ出して、パンツ晒して悦に浸っていたのかもしれい。
もちろん、ローアングラーに股間を激写されていたかもしれない。
どんなコスプレだろうか。
あのアニメかも、いや最近話題のあのゲームかも、さっきの娘にはどんな衣装が似合うだろうかと着せ替えてみる。
きっと、家に帰ったらあの娘は帯同していた男とセックスするに違いない。コミケでカメコに見せつけたその格好のまま、セックスするに違いない。
もはや妄想は検証も妥当性の考慮も必要ない。妄想はただ確信へと昇華した。
どんなセックスをするのだろうか。
鮮やかで、精巧に作られた衣装は一枚も脱がさないのかもしれない。
服の上から、あんなところ、こんなところ、ゆっくりとさすっていくのかもしれない
ついには男女は一つになり、衣装の擦れあう音と体液が奏でる美音が部屋中を満たし、嬌声がアクセントを添えるのだろう。
あの娘は紅潮した顔を男に近づけ、つながったままディープキスをするのかもしれない。
長い長い興奮の末に男は果て、昼間には何十人というカメコを魅了してきたあの衣装に向かって欲望の白濁汁をぶつけるのかもしれない。
男はみんな精巧にできたシステムや機械が大好きである。特に非日常的なものはロマンを感じる。
非日常的で大掛かりな装置や仕組みに惹かれた場合、宇宙開発関連や軍事設備に興味を持つ。そしてアニメ等で戦闘行為に対するかっこよさが刷り込まれているのでミリタリーに入り込む。
非日常的で大掛かりな装置や仕組みに惹かれたが、より身近な物に興味を持った場合、それが鉄道だ。鉄道は身近ではあるが大掛かりな装置で技術の固まりである車両が緻密な運行技術の元で運用されている。子供やオタクなど好奇心旺盛な人種はホームから発着する宇宙船に乗ってるようなわくわく感がするだろう。
非日常的でちょっと大掛かりな装置に惹かれた場合、車が好きになる。車のどこが非日常的なのかと思うかもしれないが、ボンネットを開けるとそこには機械の小宇宙が広がっている。また乗り込むと自らの力で機械を操り、生身では不可能な走行体験ができる。ロボットのコックピットに乗ったかのように。
非日常的で複雑精巧な装置に惹かれた場合、コンピューターに興味を持つ。まさに現代のカラクリである。歯車が半導体になり、力学的な力が電子の移動になり、複雑さがとてつもなくなった。ガラスエポキシ板上の小宇宙に思いを馳せて、命令を与えると結果が帰ってくるこのやり取りに夢中になる。そして奥の深さに気づくだろう。
人間、特に男は生身の生活から離れた精巧で非生物的な仕掛けに惹かれるものだ。その精巧な部分がブラックボックス化され、感覚が麻痺してしまった人々も多い中、好奇心のある人々が惹かれ続ける。
「主人公が努力しないことがラノベの売れる秘訣だ(意訳)」と言うのは散々指摘されている通り事実ではないと思います。
そもそも「ラノベの主人公」で括って一概に語れる訳がない。それが一般的な傾向に言及しているとしても。
色々な主人公が居て、それぞれ色々な特性を持っています。それは作品を素直に読めば理解できるところであると思います。
ではなぜそのように思うに至ったのか、川上氏がそのような偏見を持ち発言するに至ったその影響の大元となるものはなんだったのか、自分なりに考えました。
主人公が(何かと比べて)簡素な努力の描写で強さを手に入れたり、最初から強さを持っていたりするパターンの作品は確かにあります。それは本当にラノベに限った話ではないですし、欠点ではなく特徴でしかない。
そういった作品は「成長物語」ではないのではないかと思います。
「成長物語」ってなんだ。
「成長物語」という言葉は私が過去何度か某掲示板で見かけた単語で、「無力かそれに近い主人公が鍛錬(=努力)や葛藤をすることで身体的・精神的に強くなり、敵を倒していく」そのような物語の類型であり、そのような面白さや内容が主である作品のこと、という意味で以下使います。
ソードアートオンラインの主人公キリトを例にあげてお話しします。
(しかし、私はソードアートオンラインの電撃文庫版のアリシゼーション編に入った1巻目あたりまでしか読んでいません。プログレッシブについては漫画版で確か3巻まで読みました。)
これも某掲示板での話なのですが、アインクラッド編においてキリトがしっかり努力をして強くなっているという主張を私がすると、奇異の目で見られたりします。
「俺TUEEEE」という言葉とイメージが一人歩きしてしまった所為かと思うのですが、実際にキリトが努力をしているシーンとしては、月夜の黒猫団の話。夜にモンスターを狩って経験値を稼いでいたものが挙げられます。
ですが、それ以外で努力・鍛錬をしている印象的なシーンというのはなかなか思いつかないです。しかもそういうところを指して「努力描写が少なくキリトの強さに納得できない」と言っていたりします。某掲示板での話です。
違うんですよ、そうじゃない。逆です。
まず読者には「キリトが強い」という前提があるわけです。それに対して「強いということはそれだけ努力をしているんだろうな」と推測する。それを裏付けるための努力描写な訳です。なるほどこれをコンスタントに続けていたんだなと理解する。だから垣間見える程度の努力描写で構わない。
そしてキリトは二刀流スキルを手に入れます。これはソードアートオンラインのプレイヤーの中で反応速度が最も速いプレイヤーひとりに授けられるユニークスキルです(この事実が明らかになるのがいつだったのか失念しましたが)。これはVRとキリト自身の適正なども関わってくるそうなのですが、もっと小さな頃からVRで自分に英才教育を施した結果とも考えられます。「結果」が「努力の証拠」として提示されるわけです。
「成長物語」は面白い。そこに異論は有りません。主人公が血の滲むような特訓の中で何かに気付き、成長し強大な敵を乗り越えていく。素晴らしいじゃないですか。努力は大切なことだと子供に知ってもらいたいがために勧める気持ちもわかります。
しかしこの「成長物語」は数ある物語の類型のひとつでしかない。
ソードアートオンラインは努力の尊さを説くところに主眼を置いた物語なのでしょうか?
私は違うと思います。
脱線しますが、ソードアートオンラインを読んでいくと、ゲームの中であるのに「死」や「性暴力」という強い現実の要素が登場したり、現実の剣道場でゲームのスキルが再現出来そうになる。ユウキは自分の人生を終える場所としてゲームの中を選択し、アリシゼーションは記憶を無くしたキリトが、精巧に作られた「ゲーム」の中をひとつの世界、つまり「現実」として認識するところから始まる。
どうも「現実」と「ゲーム」の境を敢えて曖昧にしていくことで、「ゲームに真剣に向き合うように促されている」そのような物語ではないかと思います。
もちろん、勧善懲悪ものの面もありますし、フルダイブ型のゲームという仕掛けを使うことで、効果的に努力の尊さを解く、そういう成長物語もあり得るのではないかと思います。でも、このソードアートオンラインはそうではないだろうと思います。
だからこそ、主眼でない努力の描写は、垣間見せたり、証拠として結果を書くだけに留めてあるのではないかというのが個人的なソードアートオンライン観です。
纏めると、キリトはしっかり「努力をして成長している」が「成長が主眼の物語ではない」ので垣間見せたり、証拠としての結果を見せるにとどまっているのだろうということです。
ダンジョンの攻略や事件の解決で奔走する姿は多く書かれていますが、所謂鍛錬というか努力の描写の量は「成長が主眼の物語」だとすると少ないと感じます。
「成長物語」として見るからおかしく見える。そもそも成長を主眼に置いた物語ではなかったりする。そう言った勘違いが、ソードアートオンラインに限らず様々な俺TUEEEE主人公ものと呼ばれるラノベの批判に見受けられます。
そのようなところが勘違いの原因になっていたりするのではないかと思いました。
正直、このようになんでもかんでも「成長物語」としての観点で見てしまうのは、少年漫画誌の作品を読んで育ったせいなのかとも勘ぐるのですが、それは少年漫画誌に対する偏見ですし、その少年漫画誌の作品にも最初から強い主人公で、成長物語でない作品というのはそこそこの数存在すると思います。
続き
でも、顔の印象は春信からかなり変わったのがわかるかな?
出世作は、現代風にいうなら、昆虫図鑑、鳥類図鑑、貝図鑑的な写生もので(狂歌(和歌のパロディ)が入ってたんだけど)、その精巧なスケッチは博物学的にも価値がある。
お化けの絵の師匠から、写生でヒット、で美人画の大家になる、というのは浮世絵の世界ならではな感じで、普通、伝統的な日本画だったら、一派の画風を継ぐのが弟子の役目で、勝手に画風を変えるなんて許されないものだが、そこは画家ではなくイラストレーターたる浮世絵師、バーリトゥードで売れそうな絵にどんどん転身していく。
https://ja.ukiyo-e.org/image/mfa/sc156956
だいぶパッチリ系になってきたのはわかるだろうか。
指の感じもふくよかで、儚げな印象はもはやない。
みんな同じ顔なのに、表情がある。
なぜ同じ顔なのに表情が違って見えるのは、自分には今でもなぜだかわからない。
キャプテン翼みたいな感じだ。
みんな同じ顔だし、喜怒哀楽も同じ顔、それなのに、キャラの区別も表情の区別も出来る。
まず、富士びたい。
江戸の男性陣は生え際フェチで(今でも日本画は生え際にこだわりがあるらしい。個人的にはどうでもいいんだが)
ひたいは狭めで、台形がいいとされていた。
富士びたいをベジータひたいと勘違いしている人が多いが、正しくは、逆台形(ソリコミのヤンキー)の逆である。きれいな台形の額ということである。
あと、歯並びも重要だったらしい。
現代において、正しい噛み合わせとされているのは、上の前歯が下の前歯よりもわずかに手前にかぶさるのが理想らしいが、江戸時代の美人は、上と下の歯がピッタリか、若干下の前歯が手前にくるのを美人とされていたらしい。
そういえば、欧米人には八重歯の可愛さだとかアヒル口の可愛さが理解できないという話を聞いたことがある。
変な歯並びや口のかたちに萌えたりするのは江戸時代からの伝統なのか。
次に、若干マイナーなところで、鳥高斎栄昌をあげる。
歌麿と同様にドアップが多いのと、あと自分が単純に好きだから。
https://data.ukiyo-e.org/met/images/DP142137.jpg
栄昌は鳥文斎栄之という絵師の弟子で、鳥文斎栄之はすごく品がある慎ましやかな女性を描いたのだけど(栄之に比べたら、歌麿が清楚系といってもせいぜい素人JD、栄之のそれはお嬢様)、これまた師の画風とは一転。
(これを執筆しながらわかってきたのだけど、自分は素人もののAVが好きらしい)
このころ、だいぶパッチリ目になってきた。
https://data.ukiyo-e.org/mfa/images/sc221599.jpg
アニメ絵っぽくなってきたのがわかるだろうか?
お次また少しだけ時代進んで渓斎英泉
キーワードは「デカい頭」、「猫背」、「生活臭」、「睫毛すごい」
上睫毛もした睫毛もボーボー、小さい目を少しでも大きく見せようと、ゴキブリの脚みたいに太い付睫毛をつけまくったJKみたい。
浮世絵と萌え絵が同じ進化をたどっているなら、萌え絵の行きつく先はブス専のように思えてならない。
http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/wp-content/uploads/exhibition/2014_yositosi_kunitika/01.jpg
http://morimiya.net/online/ukiyoe-syousai/ukiyoe-images/yoshitoshi/itasau.jpg
それぞれ画題は
「けむそう」「いたそう」
ちょっと前に困り顔メイクがブームになったが、時代は繰り返すのかな。
それ以降については、浮世絵は日本画家(芸術として認知された人々)の系譜とイラストレーター(挿絵画家、広告画家)の系譜に分かれていくのだが、後者についていく。
俺が好きなのは油絵や日本画じゃなくて、版画なので。江戸も明治も大正も昭和も、芸術より商業印刷が好きだ。
有名どころで、竹久夢二
このころになると二重瞼が多くなってくる。
竹久夢二というと、女性の社会進出の象徴的な絵を描いているわけで、
ここでエロ談義ばかりですっかり忘れてたけど、女性の社会進出=快活=二重瞼説に戻す。
しかし、江戸時代でも役者絵(男性の絵)は、ものによってはけっこう写実的なところがあり、最小の線ながらも、顎の丸みやエラの張りかた、小鼻や頬の膨らみかたがわかったりするのだが
(もちろん、それがいいというわけではない。完全にデフォルメしてる絵や、本人無視で理想象で描いてる絵もある。歌舞伎堂艶鏡あたりはかなり写実的。東洲斎写楽なんかはデフォルメしてるものの、ちゃんと顔の膨らみは想像できる。)
女性の顔となると、江戸から明治大正にかけて、ずっとずっと平面の中にしか存在できない顔だなと思う。
顎の膨らみがどうなっているのかわからないし、チークは入っているのに、頬骨のでっぱり具合がさっぱりわからない。
フィギア化がすごく難しそう。
ほぼ同時期にこの手の絵の祖と思われる人があと数人いたんだが、名前を思い出せない。
近くを見ているような、遠くを見ているような、瞳の焦点が微妙にあってないのは、浮世絵の役者絵(男性のね)に近い気がする。
とまあ、瞼が二重か一重かはとにかくとして、眼でモテる方法を教える。
黒目、とくに瞳孔部分が大きいほど、モテるらしい。
黒目が大きいほど、柔和で優しそうにも、セクシーにも見える。
漫画なんかでは、催眠術にかかったような描写のときに、光彩と瞳孔を区別しないで描かれたりする。
古くは、アトロピンという薬剤を点眼することで、瞳孔を広げて美人に見せる術があったとかなかったとか。
薬剤なんか使わなくても瞳孔を広げる方法がある。
簡単に言えば、暗がりである。暗がりで美人に見えるのは、そのせいらしい。
逆にいえば、カラーコンタクトは最悪だね。
せっかく瞳孔が広がっても、レンズの模様のせいでそれが見えない。
あと最初の頃に戻るけど、一重なら、セクシー系を目指したほうがいいと思うな。
日本人は、すごく面食いなようで、内面重視というか、外見によく合致した内面を求めるというか。
まあ、そんなこんな。
GalaxyNote7の爆発リコールのニュースでは、意気揚々と韓国製品を叩く人達が目立った。もちろん今回の件はかなりやらかしちゃった感じだと思うけど、「韓国製なんて所詮そんなもの」「粗悪品を買うやつの気が知れない」的な意見も多く見られて何だかなぁと思ってしまった。自分はGalaxy S7 edgeを使ってるけど、はっきり言ってこの機種はものすごく完成度が高い。日本メーカーの製品と比べるのはおこがましい程高性能で精巧だと思うし、iPhoneより先を行っている部分も多いように思う。GalaxyがiPhoneの模倣から始まったのは事実だと思うし、俺も最初はバカにしてたんだけど、初代GalaxyNoteが出た時に「あれ?実は結構がんばってる?」と思うようになった。初代Noteはそれまで見たこともない大きさのスマホだったし、ジョブズが否定していたスタイラスをスマートフォン上でうまく生かすための工夫がなされていた。ただの模倣メーカーだと思ってたけど、この初代Noteあたりから独自性もしっかり出してくるメーカーに変わっていったように思う。結局AppleもPlusシリーズを後追いで出してしまうほど初代Noteはすごい機種だった。
日本車が未だに優位性を持っている自動車ならいざ知らず、電化製品で韓国製を「粗悪品」「模倣品」と叩いて日本メーカーの製品より下に見る人達が未だに多くいるのは見るに耐え難い。日本車にコテンパンにされて日本車をハンマーで叩き壊す情けないパフォーマンスをしていたアメリカ人と同じメンタリティを感じてしまう。インターネットは世界中からアクセスが可能だ。「世界で評価されていて明らかに日本製より優れている韓国製品を必死に叩く日本人」は、他の国の人達から見ると滑稽にしか見えないだろう。日本人はそろそろ「日本の電化製品こそNo1!」という意識を捨てるタイミングに来ていると思う。早く捨てないと今後ますます苦しむし、世界から笑い者にされる。電化製品に誇りを持つのではなく、まだ優位性を持っている他のジャンルに誇りをシフトすべきではないだろうか。
そんな俺でもマンコなる穴だけはあった。
男は嫌いだ。生理的に。
友達ならいいんだけど、俺を女として見てくる。触ってくるやつもいる。
性的な目で見ないでほしい。
俺は男だ。
大きくなった俺を食べる気だったんだ…おえっ
思春期のころ、胸が張ってきた。ま、ちょっと食べすぎたし、太ったんだけだけど 笑
そしたら男子のやつら、俺が乳でかいとか言って喜びやがって、俺のいないところで何カップか当てあいしてんの。
マジキモイしw
俺はそこそこ可愛かったらしい。そんなつもりはないが、鏡を見ると俺が男だったら惚れるなって顔だちではあった。
まあ、乳を気にするくらいなら、あほかで済ますこともできるんだけどさ、一部のクソバカ男子ときたら、
うんこくらいはするさ、男の子だしね。でも丼5杯は出ないなぁ。貯蔵しておく気?ばか。
検便の時に一度変態男子にうんこぶちまけてやったんだけどさ、泣いてんの。
「どうしたの?食べるんじゃないの?」
気持ち悪い。できもしないこと言うんじゃねーよ!って思ってたら、今度は床なめてる男子がいるの。
こいつら何考えて生きているんだろうかと、呆れたわ。うんこだよ、バカじゃね?
高校に入ったら彼氏ができた。男が男と付き合うなんてゲイだろ。でも周囲からは健全なカップルに見えるんだろな。
そいつは、俺の乳にも、うんこ、マンコにも興味がない奴だった。
その点を安心してたから、付き合ってもいいかと思ったんだけど、やっぱ男はバカ。
はじめてのセックスのとき、ご開帳してやってんのに、何もしてこない。フニャチンのまま。
「お前、俺舐めてんの?男だったらチンコおっ勃てて、舐めまわしにくるんじゃないの?」
で、そいつがいうにはさ、
「俺、アナルじゃねーとイケねえんだわ」
「アアア、ア、アナルってどどどど変態の変態、文字どおりクソ変態だね!」
って言ってやったんだけどね。でも、彼はどこか普通じゃなかった(異常って意味でなくて)
「え…」(ドキっ!)
「???」
「お前のマンコチンじゃ役に立たないから、お前は受け専だな。」
女の大切なところをチンコ呼ばわりされた上に、男にケツを掘られる屈辱。
「私は男だ!!」「なんでチンコが生えてこないんだ!」
毎日葛藤していた。チンコはないがチンコ臭いマンコがあり、アナルからうんこもする。顔は可愛いそうだ。
俺は一体何者なんだ。男?女?それともうんこするように作られた精巧なロボットか。
こんなことを悩みながら先日30の誕生日を迎えた。
チンコはまだ生えてこない。
数ヶ月前の事は、やたらと鮮明に思い出せる。
友人がお手洗いに立ったのを見て、スマートフォンでツイッターとはてブを緩く見回っていた時に、見つけたのだ。正直眼を疑うような記事見出しだった。本文を見てからは思わず驚愕して叫んでしまったほど。(というよりも、「あ…ああ…」と狼狽した声が行き場を失いながらも出てきてしまったような形なので、端から見たら知人の訃報が入ったか身代金でも揺すられてるかのように見えたと思う)
お手洗いから帰ってくる友人に助けを求めるかのごとく話を振ろうとしたら、彼の方からも話を振ってきた。多分、彼も同じように記事を見たのだ。2人でほとんど声を合わせるように、私たちは同じことを口にした。
と、ここまで来て頭の中で3代目J soul brothers from EXILE TRIVEのストームライダーを頭に浮かべている人はちょっと一度冷静になって、東京ディズニーシーの方のストームライダーを思い出して欲しい。
そう!そうそう!それ!う、うん、そうね、「緑のチカチカチェックするやつ!!」って間違っちゃいないんだけどそれしかないアトラクションみたいな思い出し方はやめなさいね、その後、仮にもストーム消してるんだから。
「空を斬り走るやつねー」って、え?あ、まあ間違ってはいないけども随分とポエミーな表現ね…
「疾風迅雷 蒼の魂」ってだからそれは3代目の方のストームライダーだろうが。
そんなこんなで、今日はTDSストームライダーのラストフライトの日である。こんなにアトラクションクローズでここまで衝撃なのはミクロアドベンチャー!やビジョナリアムに個人的には並ぶ。ツイッターによればあの人気のトイマニ、タワテラをぶち抜いて今日はストームライダーが最大の待ち時間のようである。センターオブジアースやレイジングですら待ち時間緩いのにストームライダーが120越えってもうなんだか異常気象を発見したかのような気分である。それこそ台風のような。個人的には、ストームライダー60分越えはシンドバッド15分待ちに並ぶ混雑のバロメーターだったのだけどなぁ。
今日はそれほどまでに、ストームライダーを愛する人がいる事を確認する日になる。ここまでくると宗教に近いかもしれない。ストームライダーという儀式を執り行うために長蛇の列をなす信者たち。ポートディスカバリーは聖地。
私ももし舞浜に行けるならそのお姿を拝みにポートディスカバリーへと足を運んでいただろうし、もし入園できなくてもベイサイドステーションからゆるゆると海岸線を回り、最もポートディスカバリーに近い地点からストームライダーに向かって祈りを捧げるくらいのことをしていただろう。エルサレム。
どうかしてると言われそうだが、今私はiPhoneのコンパス機能を始めてフルに生かし割り出したディズニーシーの方角に向かって文を書いている。
ストームライダーの何処がそれほどまでに私を魅了したのか。というと本当に答えになっていないのだけども「どの点においても優秀であった」というのが正直な答えである。
オープン当初としては驚きの、かなり精巧なフライトシミュレーター系でスタツアとの出来の違いにまず驚いた。
動き細やか!窓の外も見れるし!
まさかストームディフューザー刺さると思わなかったし。アトラクションのそういった出来が本当に段違いだった。
キャラクターたちも良い。デイビスのお茶目だけどイケメンな雰囲気(ホラーなら最初におどけて殺されてるタイプ)をよく声優は表現したと思う。ストームを目の当たりにした時のセリフは、その声色だけで息を飲んでいるのがありありとわかる。スコットとベースもいい味を出している。「司令室に来なさい!今すぐ!」の声は今も幻聴のように思い出せる。
バックグラウンドストーリーは、オープン当初はストームライダーがかなり大きなバックグラウンドストーリーを持っていた。だって、ポートディスカバリーの設定がストームライダー計画成功のお祭りって設定なのだから。あのポートディスカバリーの雰囲気も好きだったので、その真髄を味わえる、という点でもストームライダーは価値があった。CWC Center for Weather Controlのロゴなどもリアリティがあった。そういった、ディズニーならでは作り込みを感じ取りやすいのもストームライダーの良いところだった。
アメフロのSSコロンビア処女航海設定がタートルトークやオーバーザウェイブ、セイリングの看板の入れ替えなどでしれっと消えてるあたり、ポートディスカバリーの設定もふわっと変わってしまうのだろうなぁ、と思うと少し切ない。
音楽は言わずもがな、TDS、いやTDR、もっと言えばディズニー最高峰の楽曲だろう。
出来ればCDにはストームライダー組曲だけでなく、搭乗前の部屋で流れるイントロリピートのやつも何処かで収録をして欲しい。
あの名曲が、演奏される場所を失うのは本当に惜しい。ミクロアドベンチャー!の素晴らしいテーマ曲が今はTDLエントランスの一部になっているように、ポートディスカバリーのエリアミュージックとして生まれ変わってくれることに期待をしたい。
そして私が最もストームライダーを愛してやまない理由をあげたい。
なんじゃそりゃ、って人に説明すると、ストームライダーではキャビンに搭乗する直前に、気象コントロールセンター研究員であるキャストさんが実演でミッション内容を説明してくれるのである。
私はこれが本当に好きだった!!
今でこそタートルトークにタワーオブテラーとキャストが説明をしてくれるアトラクションは増えたものの、昔は無かったのだ。
もう、カヌーかジャングルで体育会系なノリしか無かったわけです。
もっとさかのぼればシンデレラ城ミステリーツアーがあったけれども、シーではストームライダーくらいしか無かった。2つのシアターでも説明はあるけど本当に説明くらいなので、ストームライダーが1番エンタメ性があったのだ。
初めて見たときはベースとの掛け合いなどももしやここにいるのか?と思ってしまったほど。
最近では「今の…100万倍くらいですかね?」
はすべり芸としての地位を築いてしまったけども、話口調や映像を使ったパフォーマンスは、本当に素晴らしかった。
東京ディズニーシーはオープン当初は全体的にキャラに頼らない、生身の人間が見せるパフォーマンスを重視していた節がある。アンコール!やミスティックリズムはその最もたるものだけれども、アトラクションで初期のシーが標榜していたライブパフォーマンスのエッセンスを取り入れていたのは今思えばこのストームライダーだけだった。
そこまで難しいことは考えずとも、初めて乗ったとき、あの説明を受けたとき、「これが、これからのTDRのアトラクションなんだ…」と衝撃を受けた。
そう、思い起こせばオープン当初のシーの人気アトラクションの中で、「原作がないアトラクション」はストームライダーだけなのである。
今のファストパス対応アトラクションの中でもレイジングスピリッツとストームライダー、タワーオブテラーだけだ。(タワテラはトワイライトゾーンとはもはや無関係なので)
鑑みればあのあたりのオリエンタルランドはディズニー脱却をコンセプトにしていたのか、イクスピアリにオリジナルキャラを作ったり(何処に行ったんだネポス…)前述の通りアンコール!などのキャラ無しのショーが多かったり、シーではグリ施設は無かったり、かなりストイック、というかランドとの方向性の違いを明確に出そう、という気概があった。自分たちで新しいものを作るんだぞ!という。そんな中で作られたこのストームライダー、力が入らないわけが無いし、面白く無いわけが無いのである。
そう、シンドバッドが友愛のストーリーに書き換えられたり、グリ施設が4つもできたり、キャラ無しのショーは全部廃止された、オープン当初のコンセプトもへったくれも無い今のシーの中で、唯一、ストームライダーはあの頃の雰囲気を持っていた。ある意味では、ストームライダーはオープン当初のシーの遺跡なのである。
そして個人的なことを言えば、プレフライトクルーになりたかった。
たくさんの人の前で、ご案内をする姿が眩しかった。子供ながらに憧れて、いつしかあの案内はすべて諳んじれるようになっていた。
その影響もあってか、演劇部に入ったこともある。今の仕事でも司会業を少し受け持っている。
あのプレフライトクルーへの憧れ、ストームライダーへの憧れが、こっそりと私の人生に種をまいていてくれたのだと思っている。
ストームライダーは、思い出であり、人生の起点であり、唯一無二のアトラクションだった。
明日からは、ポートディスカバリーにストームライダーはいない。
それに伴い、14年に渡るストームライダーによるストーム消滅ツアーは廃止となる。
同センターによると、今後の学術研究へ注力するための選択だそうだ。
本日の閉鎖を持って、センターに勤務の全職員は新事務所へ移ることになる。
そしてたくさんのプレフライトクルーは明日も、新しい場所ながらも変わらずにストームや異常気象と戦う日々が続くのだろう。
もう二度と、凄まじい破壊力を持つストームの中になんか入れない。
もう二度と、100万倍くらいの小粋なジョークにクスリと笑うこともできない。
もう二度と、緑のチカチカの部分だけ決めゼリフのように声を被せる高校生の集団も見れない。
おやつのピーナッツのチェックも、雨に驚くゲストの姿も、エンジンがやたらと故障する機体にも、会えない。
そして、外へ出たときにより美しく感じる空と海のきらめきと潮の香りにも。
ストームライダーはなくなっても、乗った記憶、そしてそこに確かにあったという記憶は誰もの心に、残る。
だからこそこの寂しさは抑えて、大きな舵を切るオリエンタルランドを応援したい。
ここまで記憶に残るものを作ってくれたのだから、きっとそれを超えてくれるだろうと期待をしつつ。
本当に、ありがとう。
ポートディスカバリーは、今日も、晴れている。
「縦ロールさん」
姫カットお嬢様が欄干に手をついて下々を見下ろす縦ロールお嬢様に声をかけた。
いきなり刺し貫かれないための用心である。
「貴方とここで事を構えるつもりはありませんわ。
それよりあちらをご覧になって」
姫カット様が手のひらで示される方をご覧になると、
「手の内を知っておけば、のちのち有利でしてよ?」
「……」
猛者は見えないところで周到なものだ。インシュロック使いのお嬢様も下々を見下ろした。
戦っているのはアセチレン溶断器(切断器)使いのアフロのお嬢様と、
恐ろしげな蒼炎を吹き出している。
アフロのお嬢様が圧縮酸素のバルブを操作するたびに炎が白く輝き、キュゴーと轟音を吐き出す。
彼女の威嚇は効果的だった。顔に火を向けられれば本能的に避けられずにはいられない。
実際、ツーサイドアップお嬢様は腰が引けていた。
「てやっ!」
気合いと共に、安全帯のフックがフックにふさわしい軌道でアフロに向かって飛んでいく。
「うふふ……このフックは外側を研いであるのよ」
そのまま金物を舐めそうな厄い表情でツーサイドアップお嬢様は言った。安全要素がどこにもない。
くさり鎌そのままの用法で、自爆に注意して、彼女は連続攻撃を繰り出す。
それには事前の加熱が必要であり、高速移動する状況では非現実的だった。
アフロのお嬢様は何度か試すそぶりを見せたものの時間の浪費に終わる。
だがそれは伏線だった。
「フックが切れないならスリングを切ればいいじゃない!」
いつもより一歩踏み込んだ火が化学繊維のスリングを焼き溶かす。
高熱に劣化したスリングはフックの遠心力に耐えきれず、危険な金物は接線方向に飛んでいった。
「ちっ!」
かんばせに焦りの色を浮かべて後退するお嬢様を、青い炎が追いかける。
そこに一閃、銀色の光が走り、褐色と黒のボンベから伸びる二本のホースを切断した。
「ふふふふ!わらわの安全帯は安全なダブルフック(ランヤード)でし!!」
外野のお二方は品評された。
「アフロさんの真の恐ろしさは、二つのボンベを抱えて動き回る、その膂力!」
アフロお嬢様はすかさず武器をボンベそのものに持ち替えて振りかぶった。
ごちん!
鈍い音に続いて、爆音がとどろく。
が、どぅーん!!
アセチレンは空気中分量2.5~81%の広い爆発範囲をもつ、とても危険な物質である。
酸素については言うまでもない。
アフロお嬢様の安全処置より攻撃を優先させる果敢な精神が裏目に出た。
ホースが切断されたまま戦闘を続けた二人は起こるべくして起きた事故に遭ったのだった。
「……し、獅子奮迅の爆発でしたわね」
「突っ込みませんわよ……」
爆煙たなびく中、まなびたいことのなくなった姫カットのお嬢様は
髪をなびかせて観戦席をたった。脇腹をさりげなく庇っている。
二人の戦闘中も縦ロールのお嬢様に仕掛ける機会をうかがっていたのだが、
ついに決定的な隙は見つけられなかった。
ただ一矢を報いてもいた。
止められた一房の巻き毛を見つめて一笑する。
残り6人!
前回
http://anond.hatelabo.jp/20160409213124
次回
少し前に拷問系AVがどうのとかTwitterで話題になっていた。そんなに多くのツイートを追いかけたわけではないのだけど思うところはたくさんあった。
だいたい落ち着いたところだと思うので、ずっと考えてたことをまとめて書いてみようと思う。
自分はDMMのアダルトビデオ、特に拘束、SM系の動画を手当たり次第見ることが以前はあった。話題になっていた拷問系?はそんなに見てないかも。まあ、最近はそういう欲求がほとんどないので、全然見ないけど。
見ると言っても大抵無料サンプルのみで、何故なら、…単に集中力が持たないからである。そんな感じなのでこの話題についてあまり詳しくはないと先に言っておく。
ちなみにxvideosで見ていたことも少しだけあったが、著作権の問題が気になりすぎてやめた。その点、DMMの動画なら安心だ。無料サンプルばかりで正直申し訳ないとは思っている。
Twitterでの例の話題で気になったのは、アダルトビデオでの行為は大手メーカーなら当然フィクションでありそんなことは当たり前で、ばかばかしい指摘だ、というような反応が割とあったことだ。
たしかに自分も見ているときはもちろんフェイクであると思って見ていたし、俳優の方々を本気で心配したことは一度もなかった。というか、妙にノリのいい音楽とアニメ声のあからさまに演技!という感じのものしか見たことがないので、正直あまり実感がない。趣味に合わないものは徹底的に見ないわけだし。
しかし労働環境はどうなのかという視点で考えると、劣悪なところは結構多いのではないかと思えた。
何しろこんな世の中で、一般的な職場でさえ驚くほど劣悪なところがあったりするのに、アダルトビデオ業界というオープンになりにくいところで劣悪な現場が全然ないとかそんなことがあり得るだろうか。
もちろん、優良なメーカーもあるだろう。それに一応審査があるはずで、映像倫理機構とかその他複数あるらしい。ちょっと調べただけでは詳しく分からなかった。あまりに過激な内容であれば多分審査の段階で弾かれると思われる。
(ただし自主制作のものだと審査があるわけでもなく、本物の拷問まがいの行為の動画がある可能性がある。そこまでいかなくとも、酷いものはあると思う。)
自分はメーカーとか全然詳しくないのだけど、色々工夫して映像を作っているという話は聞く。大抵は模型やらなにやらを使って創意工夫のもとで拷問というフィクションを生み出しているのだと思う。
ただ審査があるとは言っても作品を見ただけでは実際の労働環境までは分からないわけで、特にアダルトビデオの性質…素人だとか盗撮だとか本物のレイプ映像だとか、たとえ実際にはフェイクであっても創作性とは別のところが重要視される分野であることを考えると、そこらへんがホラー映画などとはちょっと事情が違うというか、これって大丈夫なのか、と思ってしまうポイントである。
過去に起きた事件というのも、本当に大丈夫なのかと考えてしまう一因である。また知的障害者などが被害にあっているという情報もあり、そういうのも気になるところ。
もちろん、そういった問題があるからといってすべてのメーカーがそうだというわけではないし、色眼鏡で見られやすい業界であることを考えると、極端なところを取り上げて騒ぐとみんな潰れてしまうのではという懸念も理解はできる。
ただ本当に、いかに興奮できるか、抜けるか、という実用性が重視されるものであり、過激になりやすくオープンにしにくい、しかも粘膜に直接異物が触れるなど相当にハイリスクな性質を考えると、映画やドラマその他の映像作品とはやっぱり事情が違う、フィクションだから大丈夫だと安心できないなと自分は思った。
こんなのフェイクに決まっているしいちいち騒ぐほどのことではない、映画の殺人シーンがいかにリアルであっても騒ぐ奴いないだろうというのは確かにそうなのだが、映画には訓練されたスタントマンやCG、精巧なセットを作り上げる美術スタッフが存在すること、莫大な予算と時間がかけられているということを我々は知っているし、
それによってリアルな残酷映像を安心して見ていられるのだと思う(まあ映画の撮影にだって問題は多くあったりすると思うんだけど)。
どうやってリアルな映像を作っているか、俳優がどのような努力をしたかなどが詳細に語られることも多い。
アダルトビデオも最近はどうやって映像作りをしているか語られることも割とあるとは思うのだが(メイキング映像とか)、その性質を考えると制作現場はもっともっとオープンにされるべきだし、それをアピールしていく必要があるんではないか。
表現するものが何であれ、というかどんな仕事であれ、労働環境は改善されるべきだし、どのような対策をとっているかなど具体的なことがもっと必要なのだと思う。危険を伴うなら尚更だ。
劣悪なメーカーが、努力している優良なメーカーの足を引っ張っているというツイートを見かけたけど、たしかに現状そんな感じなのだと思う。
また過激な表現を守りたいのであれば、アダルトビデオを安心して見るために劣悪な労働環境をなくそうという声を積極的に上げなければならんのではないか。
観測範囲にはなかっただけで、そういう声も結構あったのかもしれないが、自分はほとんど見なかった。異常者扱いされることへの反発の方が多かったように思う。
たしかにこんなのを見るなんて信じられない、醜悪だという声は結構な数あり、正直内容を考えると仕方がないと思う。
見ない人には慣れなどというものはまったくない分野であり、見る人だけが見るもので一般的な理解は得にくい。
だから興味ないならほっとけということではなく、表現は守られるべきだからこそ労働環境は厳しく問われるべきで、オープンになりにくいからこそ野暮な指摘は重要なんではないか。
「これは表現であり創作物である」ということをしつこいくらいにやっていく必要があると思う。
あんまり健全だと興奮できないという声は結構あると思うのだが、制作現場にまでそれを求めてどうするというか、そういう声を聞く必要はないだろうと。
労働者が死にそうになりながら作った製品でなければ満足できませんとか言われても。
俳優が危険をおかしていることをアピールして作品の価値を高めるというやり方もあるけど、程度によるかな。
あと当たり前だけど性教育は必要。人間の身体の正しい知識、他人の身体の扱い方が浸透してなさすぎる、幻想が溢れすぎていると思う。現実的な前提あってのフィクションでしょう。
と、まあこんなところ。もっと現場の声を聞きながら現状とか問題点とか表現についてとか考えてる人はいると思うので、そういう人の話を聞きたいかなあ。
ああ、僕が中原麻衣(@nakaharamei)くんに頭来てる理由がなんかわかってきた…。あの人の言うとおりアニメ見ても絶対に面白くないし、あの人は自分の意見を言わないんだもん。もっと自分の快楽を上げるためにアニメ見てる人の書き方とは違うんだもの。彼の話を聞いても何が好きで、どこに共感してるかが見えない…
僕がだーまえ作品の、とりわけ「実在する病名や社会制度を引用しておきながら、その実態は誤解を招くデマを流布してるからとても賛同できない。」的な話をしたのは、ああ言うものが真実味とかいい話にお茶を濁すんだもん。視聴者がどう思う改善に自分達で「ありえない」と言ってしまってるのよねぇ〜
あとは、アニメを知識で見ようとする姿勢…「知識があるともっと楽しい」じゃなくて、はじめて見た人の感想を尊重せずに「ファーストガンダムの信者から最近の若者呼ばわりされたゼータが」とかなんとか言うバカ…。そんなことは作品の中身の批判でも、モチーフ同士の相互の矛盾とも一切関係ない批判
例えば、艦これだって「弓道警察」を僕は批判できないし、東方警察のそれと全然違うと思ってる。だって、艦娘は艦娘の装備や言動が史実に基づいていてその精巧が評価を浴びている以上、熱心なファンなら「お茶を濁すような半可通な描写、原作の設定を無視したメガネ外しはやめろ」と思うのは必然なはず
でも、東方警察って東方の原作とはこれっぽっちも関係がない「艦隊これくしょんなどに移った東方ファンを批判する言葉」でしかない。それって作品を楽しむ上で何か関係がある。他人がやめたコンテンツであっても、自分が手に触れて面白いものは面白いならそれでいいんじゃない?弓道警察とは逆じゃん
コンテンツを楽しむ上で「より感動を味わうために作品の中のメタファーやコンテクストをより深く調べてみたい」と思った時、それが可能なのはそれだけの強度(下調べによる知識)を持った作品であり、作品の中で現実的なメタファーや知識でいいシーンを作った以上、他の部分でもそれを見られるんだよね
何がいいたいかというと、メタファーに気づくことで作品が楽しくなることもあるけど、メタファーを軽視することで楽しめる作品もある。前者がガッチャマンクラウズインサイトみたいな奴(ちゃんとここ10年の日本政治を理解してると楽しい)で、後者がCharlotteでありだーまえ作品なわけだ
しかし、多くの場合はメタファーをきっちり理解しようとする・ほりさげようとする人にとって楽しい作品のほうが名作であり、アニメ・ゲームを楽しく見ようとする姿勢とはむしろ知識をつけて作品の現実的・または元ネタに該当するものを紐解いていく見方になりがち。これはよくもわるくもね。
で、僕は徹底的に作品を解釈したい(心理描写なり、元ネタにしてるメタファーや予備知識を知って納得したい)人で、中原麻衣くんはそういうことをする人がやり過ぎて強度の弱い作品の批判に走るのをバカにしてる(ある基準に対するアンチ)なんですよ…だから水と油なんです
http://amazonasinsample.azurewebsites.net/
日米amazonの価格差を抽出しているサイトなんだけど・・・
Amazon というのはとても市場的にできていて、需要と供給がそのまま価格になってますよね。需要が高く、供給が低ければ高価になるし、逆に需要が低くて供給が多ければ、自然に値段は下がるでしょ。なので、眺めていると、どんなものに価格差があるのかがわかって、わりと面白いんです。
たとえば・・・
日本の電車の模型、おもちゃはわりとアメリカで高く売れる。またアメリカのおもちゃは日本で高く売れる。
●B000BVRPN8 Nゲージ 10-253 101系中央線快速 (10両) 特別企画品 日:21800円 米:27800.4円
中央線の模型がアメリカで売れるの?ってかんじ。日本のおもちゃって精巧にできているからだろうかね?アメリカのおもちゃに比べるとマニアが喜ぶのだろうか・・・。自分は鉄道に興味が無いので価値がまったくわからんのだが。
●4777012751 鉄道車輌ガイドVol.9 国鉄時代のEF64 0 (NEKO MOOK 1775 RM MODELS ARCHIVE) 日:2571円 米:9633.6円
アメリカでこんなものが需要があることに驚き。日本の鉄道が好きなアメリカ人がいるってことかな。
日本人にとってはなんだこのゴミってかんじだけど、そういうアメリカ人にとってはインテリアにはいいかも。
●B001DNLV88 高感度★トラッカーII 金属探知器プロキット Bounty Hunter社【並行輸入】日:28900円 米:16680円
金属探知機って何に使うの?アメリカでは安いってことは日本より需要があるんだと思うんだけど・・・。
庭に地雷でも埋まってるのかしら?日本でも需要あるのかしら。埋蔵金でも探すの?
●B00CN3R17M バービー エルベ・レジェ Herve Leger by Max Azria Barbie Doll 日:25800円 米:14397.6円
顔がすごいブサイクなバービー人形なんだけど、日本でも需要があるってことだよね。25800円も出して・・・。最近ミニマリストっていう貧乏用語が流行った国とは思えないんですけど。誰が買うの?
●B001NQZHZS ラーニングカーブ きかんしゃトーマス 木製レールシリーズ トーマス と トビー [並行輸入品] 日:12291円 米:2398.8円
きかんしゃトーマスに12000円も出す人がいる、というのが信じられん。機関車トーマスだよ?
●B00VQ7YD9U Cort コルト EARTH70OP Dreadnought アコースティックギター 日:57800円 米 29250円
アメリカのギターも日本で高く売れるみたいだね。日本で買えばいいだろうにわざわざ輸入して買う人がいるのも
私には何が日米のギター間で何が違うのかこれもさっぱりわかりませーん。
こういう、Amazonで価格の比較をして日米でどんな理由があって価格が高い低いなどの
そういうWebサイト作ってみようかな。