はてなキーワード: 職業的とは
結局家族制がある限り「他人より有利に子育てしたい」って願望は消えないじゃん?
正社員になって十分な福利厚生の恩恵にあずかりたいという欲望、夫婦2人十分な収入を得た状態で子育てスタートさせたいという欲望、子供の競争を有利に導く形質(容姿や頭脳)を遺伝させたいという欲望、子供に潤沢な文化資本を与えたいという欲望、保育園併設のタワマンに住みたい、幼稚舎受験させたい、etc……
こういう欲望を前提として恋愛自由主義という名の優生思想が回ってる(自由恋愛自体が優生論の文脈で日本に持ち込まれたことに関してちくまから本が出ている)以上、いったん人間から子育てを取り上げないことにはルッキズム・メリトクラシー敗者の男女にはどうやっても挽回の目がないと思うのね(まぁ、キモカネ女性は子育てに巻き込まれないほうがもしかしたら幸福度が高いかもしれず、似たような境遇の男女間にある「救済しろ」という声の大きさの互いにはそれが関わっているかもしれないが……)
これらの欲望自体は社会によって規定されている部分があるから、ある程度は再配分によって是正されるかもしれないが、かと言って社会構造がすこし変わったところで結局「競争に有利とされる形質」がすこし変わるだけで競争自体の生み出す苦しみは避けられないと思うのね
子育てが、生存が、競争だから苦しいのよ(それを調整するのが修正資本主義の政府の役目だとは思うが、まぁ、現状はご覧の有り様で……)
特に男性の言う「生きやすさ」に「子孫の残しやすさ」が含まれてるとしたら、たぶんただ再配分するだけで救済されるとも思えないよね、ただ多少金を持たせて「選ばれやすくする」ということしかできないんだから(そしてこちらを選択すると相対的に女性が貧しくなり、男性へ、家へ、子供へと縛り付けられていき以下素敵な無限ループ)
そんなことをつらつら考えてみて、あてがえ論とか女性の自由意志の尊重とか、そんなことでヤイヤイやり合ってもあんまり芯を食ってる気がしないなぁってずっと思ってんのよ
家族制ドリブン、子育てドリブンの欲望が、つらい競争とその結果の格差を生んでるんじゃないの?
まぁこの辺はもうすでにマルクス主義で通った議論ではあるし、かなり赤い主義主張であることは否定しないんだけどさ……
たとえば国民は求められたら卵子や精子を提供する義務があるだけで、子供は国が勝手にAIで多様性を保持しながらマッチングして作って、知らないところで職業的に子育てや教育に従事する人々が育てて労働人口として送り出す
整形当たり前だったり、バーチャル空間で望みのVアバター纏って生活するのであったり、方法は問わないけど、生まれ持った見た目や能力を問われない世界であれば、ただパートナーとして共に生きていくことを選択するハードルは「友達になる」程度には大きく下がるんじゃないか?(この辺は希望的観測であり、コミュ力はどうしても必要になるだろうからなんか自分で言ってても厳しいような気がするが……)
こうなってくると過去のSF文豪たちがディストピアとして警告した世界そのものではあるんだが、労働人口を確保せざるを得ない以上、競争による過度な苦しみは避けるにはこうなっていくしかないと思うのよね
個人的に、どうやっても「今生きてる人間のために次の世代の人間が労働してくれることが必要な世界」では、この選択は俺は別に悪くないと思う
いつかこの苦しみの連鎖を技術が止めてくれることを願ってる(が、多分資本主義の世界からはその技術は生まれないだろうと思う)
弱者男性も性欲はあるし風俗でも満たされないような異性からの承認もほしいと思っている。
でも、そこは自己責任であると弱者男性自身一種の諦念があるので、そこに社会福祉を期待してはいない人がほとんどではないかな。
社会が変わってほしいのは、パートナーがいない男性は劣った存在であり、キモいなどと誹謗中傷してもかまわない(努力していない本人が悪い)という風潮。それから何かの被害を受けたときに、もし被害者が女性だった場合そうするように被害者が弱者男性だった場合でも先入観なしに話をちゃんと聞いてくれるくらいのフェアネスがほしい。
あとは、男性の場合職業的なスキルが高いと収入も高くなり異性からの評価も高くなるので、非モテ問題と低スキル男性の生活問題が混同されがちというのもある。
元増田です。はてなでは定期的に出る話題であり、この仕事をしていれば生徒に必ず聞かれることでもありますね。すでに質問増田氏への反応でかなりの部分が議論されていると思います。国語の先生ごとに考えが多少異なるとは思いますが、現場にいる者として、同じことを生徒に聞かれたと思って、自分なりに誠実にお答えしたいと思います。
以下、常体で失礼。
・まず、この疑問への論点はたくさん含まれていると思う。自分なりに整理してみると
①日本という国家が義務教育で(貴重な時間を割いて、他の教育されない分野を差し置いて)古典を扱う理由(教育の制度論)
②上記の上で、古典が選択科目ではない(または高校の教育現場で「選択させられている」)理由
⑤古典を学ぶことは何かの役に立つのか?(個人レベルでのメリットはあるのか?)
……などなど。
・しかし、増田氏の質問「古典は、なぜ義務教育の科目なの?」に対して、学習指導要領等を引き合いに出しながら上記のぜんぶに答えても増田氏は納得しないように思う。なぜかと言うと、それ以前の「義務教育(および後期中等教育)とはそもそも何か?」「義務教育に求められているものは本来どのようなものか?」という重要な命題を増田氏は考えていない(もしくは適切な答えを持っていない)と思えるからだ。
・質問増田氏に足りていない視点は「教育とは多様性を前提にしている」ということだ。学校にはあらゆる子供が来る。子供たちは、あらゆる適性・資質・長所・性質・個性・能力を持って、学校へやってくる。その多様な子供たちに国から一律のシステムとして授けられるのが義務教育である。
子供たちの多様性、というのは学校に勤務していると本当に感じるところであるが、それでなくても、皆さん小中学校にいたクラスメイト、同じ学校にいた児童生徒の「多様性」というものに思いをはせていただければある程度イメージできると思う。
この多様な子供たちに、一律に与える教育が「義務教育(普通教育)」というものだ。これは「全国民に共通の、一般的・基礎的な、職業的・専門的でない教育」を指す。この時点で、小中学校とは原理的に「個人個人の資質や能力に合わせた教育を行う」場ではないということが(その是非はともかく)わかると思う。程度の差はあれ、後期中等教育(高校教育)も同じようなものである。
・そして、ここで注意すべきポイントは「教育に経済的効率という尺度はなじまない」ということである。
これについて(はてなでは評判悪いが)内田樹がわかりやすく説明しているので一部引用してみる。
教育のアウトカムを単位時間を区切って計ること(つまり「効率」を論じること)には何の意味もない。教育を受けたその直後にきわだった成果を示す人もいるし、同じ教育を受けたのだが、その成果が現れたのが卒後50年してからという人もいる。死の床において来し方を振り返ってはじめて「私の人生がこのように豊かなものであったのは、小学校のときに受けた教育のおかげだ」ということに不意に気づくということだってある。
(中略)
これほどに学びの機会が多様であるのは、「自分が何を学んだか」についての決定権が最終的には個人に属しているからである。同じ教師に同じ教科を同じ教室で学んでも、それによって震えるような感動を覚える生徒もいるし、何も感じない生徒もいる。そのときは何も感じなかったが、何年も経ってから電撃的にそのときの教師の言葉の意味がわかるということがある。人間はそのつどの成長レベルに従って、自分の経験の全体を「私をこのようなものにならしめた要素の必然的な連続」として再編集する。必ずそうする。過去の出来事の意味は現在の自分の状態に基づいて、そのつど改訂されるのである。
(中略)
自分が何を学んだかを決定するのは私自身である。そして、「誰も同じその人から私と同じことを学ばなかった」という事実こそが私たちひとりひとりの代替不能性、唯一無二性、この世界に私が生まれなければならなかった当の理由を形成している。
・そもそも、これだけ多様な生徒に対して同一の教育を与えるのならば、それは最大公約数的なものにならざるを得ない。けれど一方で、そういった最大公約数的なものをどれだけ集めても、一部の児童生徒にとって「役に立たないもの」は、多様性に対して共通の教育を提供する限り必然的に発生してしまう。そして、「~の勉強は役に立った」「~の勉強は役に立たなかった」という『後付けの、結果論的な』評価もまた、その生徒児童によって異なってくる。例えば元増田にとって数学は役だっても、国語教員の私の役にはあまり立っていない。逆も然りで、古典を学んで僕は役立っているが、元増田の役には立たなかったのかもしれない(けれど、今後の人生で役に立つ機会が訪れる可能性もゼロではないよね?)。「役に立った/立たなかった」という言葉は、それぞれの人生の差、多様性が生み出した、結果論的な、後付けの評価でしかない。
・まとめると、その教育が役に立ったかどうかは、後付けでしか評価できないが、多様な生徒全員に「役立つ」教育はごく一部の基本的なものに限られる。よって、多様性を前提にした普通教育は「役に立つかどうか」を基準とすべきではない、という前提が、義務教育を考える際には必要である。
・では上記を踏まえ、改めて、義務教育とは何か考えてみたい。おそらくたくさんの学者や先生が議論されていることだと思うけれど、自分なりの表現をさせていただければ「児童生徒たち(と国全体)への、将来のための、大規模な投資」であると思う。(もちろん、これは上記の前提を踏まえた、ある種の比喩表現であることに注意していただきたい)
・前述の通り、ある生徒にとって何が「役に立つ」かは分からないし、卒業後であってもそれぞれの人生の様相が変わればその評価も変わりうる。どの教科がいつどのような形でリターンとなるのか(または全くならないのか)わからない、ということだ。
言い換えれば、義務教育の内容選定にはあらかじめ「(ある生徒には)役に立たないかもしれないが、それでもやるべきなので、やる」という前提が入っているし、その前提があるために「全員の直接の役には立たなくても、間接的には多くの生徒の役に立つようになるといいな」という思想が入ってくる。また、「それを扱わないということは、全員に機会損失のリスクを与える」という側面もある。
だから、リターンがどれだけあるかわからないにせよ、限られたリソースの中で、できるだけ多くのリターンが生徒に(ひいては国全体に)返ってくるような投資を考える、という設計思想になってゆく。
・このような条件を満たす科目としては様々に考えられるが、特に、古典が思考の根本たる母国語に密接に関わっているという点は大きいと思う。そして質問増田氏含め多くの増田が議論で指摘してくれていたように、古典は以下のような理由で上記の条件を多く満たしている。
・「自国の古の言葉だから、国民として学ぶべき」「愛国心の育成」(国家というアイデンティティの形成)
・「文化の発展」のため(「春はあげぽよ」で笑いを一つ作るのも文化の発展の一つの形)
・人文学研究の基礎体力として(研究者は国家に必要で、大学等で研究を進める際に古典をゼロからだと困る。)(たとえ研究しなくとも、国民の知的レベルを上げられる。ちょっとググりたいときに学校で学んだ知識があると有用なことも多いし、知らないことは検索もできない)
・学習すべき内容が時代によって大きく変わらない(日進月歩で学習内容の変遷が激しい分野は義務教育には不適)
・現代日本語に繋がる、語学学習として。(現代語をより豊かに用いるため)
・「故きを温ねて新しきを知る」、長年読み継がれてきたものを読む(教育において、精神論の何がいけないんだろう?)
・古典籍という膨大な一次情報に各個人がアクセスできる(源氏物語などに顕著だが、現代語訳がすべてのニュアンスを残せているわけではない。また、現代語訳のないマイナーな古典籍が例えば古い災害の記録になっていることもある)
・「論理的な推測」を学べる(「~の気持ちを答えよ」問題はよく槍玉にあがるが、大抵は本文に論理的な推測の範囲で心情が書いてあるので、読解問題である。そもそも言語を扱うという行為じたい「論理的な推測」を行う行為なので、よほどひどいものでない限り、最近のものは全文をきちんと読めば適切な出題だと思う)
・あとは、自分にとって古典がどのように「役に立つ」のか(あるいは現時点で役に立っていないのか)、各個人が評価をそれぞれにすればいい。そして今度は、より大きな視点に立ったうえで、改めて教育の中の古典の位置づけやあり方、内容を考え直すということを考えてしかるべき、そんな時代であると思う。もちろん、法律や情報処理の勉強も大事なのは言うまでもない(ただし、プログラミングは教育導入される方向でどんどん進んでいるし、現行の公民分野にも法律はそれなりに入っているはず)。他にも様々なことが教育には要求されていると思うし、その中での取捨選択・優先順位の付け方は、きっと社会全体でなされるべきなんだろう。けれど、それは「役に立つ」という価値観に縛られるべきではないということは強調しておきたい。
あえてここでポジショントークをするならば、古典を学校で扱うべき理由は、先ほどの条件を満たしていることに加えて、「千年単位で変わらない本質的な事柄」とは何かを生徒に示唆してくれ、時間的なスケール感の大きさに思いを馳せる時間を持てるという点だと思っている。(そう思って前の共通テスト古典の分析を書いていました。授業でもよく言うんだけど、千年前に妻を亡くした人間が、現代人とおんなじようなこと考えてるって、結構安心しないですか?)
・これが生徒に対してなら、上記の話はやや難しく話が長すぎる。自分が担任をした生徒(物事の意味について考えようとする人物だった)には、例えばこう話したことがある。
「今あなたが意味を感じていない世界史を、例えば学ばなかったとしましょう。(あなたにとって何が意味を持つのかは今の時点では分からないので、それもあなたの自由ではあります。)そしてそのまま大人になります。その時、あなたは世界史の知識を元とした発想やアイデアを失うだけでなく、その発想を失ったことそのものにさえ気づけないことになります。つまり、自分の可能性が狭まっていることにさえ気づけないでしょう。あなたなら、その怖さってわかるんじゃないですか」
(いちおう、この話をしたこの生徒は、世界史の勉強について、成績は別にしてもこの生徒なりに考えてくれたようではある。後から他の先生にこの言葉の意味について話していたらしい。)
これが古典なら、別な増田が言っていたように「矛盾の語源を知らない」ことの機会損失について話すことになるだろうか(矛盾の故事は中一の教科書に載っている)
・おそらく質問増田氏にとって(多くの生徒と同じように)古典は役に立ちもしなければ面白くもない科目だったのだろうと思います。自分はなるべく古典の面白さやエッセンシャルな部分を伝えるべく授業で努力をしていますが、もちろんそうでない先生もいます。また、今回は触れなかったけれど「入試対策」という四文字が実際の古典学習に与える影響は計り知れず、本質から外れた苦行的な暗記学習・パターン学習が強くなってしまっている現実には自分もジレンマを感じないわけではないです。古典という科目が抱えた問題点や古典嫌いを生むこの構造的な病理は、なかなかに根深いものがあるのもまた事実。最初に挙げた①~④の論点あたりにはかなり課題もあるでしょう。
(少し話題はそれますが、前回の共通テストのエントリを書いてから他教科の同僚と話していて至った結論は「共通テストはより学問のエッセンシャルな部分に近づけられている」というものでした。大学入試が変われば高校の進学校の勉強も変わるので、これは良い兆しです。共通テストには今回のような学問のエッセンスを込めた入試問題を作り続けていただきたいと思います。)
・ただ、今回の質問増田氏のような生徒に対して自分が感じるのは、もっと広い視野で物事を見て欲しいという気持ちです。綺麗事かもしれないけれど、自分にとって意味がないものに見えても他人にとって意味があるものもあります。もしかしたら自分にとって後々意味が出てくるかもしれません。けれど、そのように意味をとらえなおすことができなければ、いつまでも古典は仮想敵のままでしょう。国語教員である自分がどれだけ古典の魅力をここで語っても、それはやはりポジショントークに過ぎません。意味というのはやはり自分で見つけるものだし、見つからないことだって往々にあるでしょうから、それを受け入れることや合理化することだって大事な「勉強」です。
(今回の話題に関連して、最近読んだ本だと、SF作家森博嗣が出した「勉強の価値」(幻冬舎新書)が、ツッコミどころも多いながら興味深かったのでオススメ。)
それに、自分にとって意味が無いと思っていたものがこんなに深く豊かな世界を内包していたんだと気づければ、それは素敵なことです。少なくとも、それを認めることが多様性をはぐくむ態度であると思います。
・P.S.
これを読んでいる生徒の皆さんへ(元生徒さんでもいいです。笑)。
自分にとってイヤだったり不得意だったりしてもいいし、つまらないと感じることもいいです(わからない・つまらないは教育する側の問題なので、どんどん声をあげてください)。けれど、だからといって排除することは、自分の可能性が消えるという別な問題を生みます。自分がイヤだったものをイヤなまんまで自分の中に置いておくのもしんどいことだろうなと思うので、ちょっとだけ面白いものを紹介しておきます。
今からでも、古典に関する自分の評価を変える機会になればいいなと思います。頼めそうなら、複数の生徒で担当の先生にもっと面白いものを扱ってもらえるようにお願いしてみるのもいいかも。先生は案外、そういう授業に飢えています。
https://kawadeshobo-blog.tumblr.com/post/129340109097/町田康訳奇怪な鬼に瘤を除去される宇治拾遺物語より
↑これを読んで
https://www.koten.net/uji/gen/003/
先日、増田(会社員)が、取引先の会社員と電話で打合せをしてた時に、話が雑談に流れて相手が「これでワクチン打てば俺は無敵だなー、年度明けまでにはワクチン打ちたいなー」と言い出した。
その人は特に医療従事者だったりエッセンシャルワーク業態でもない、ホワイトカラーの会社員である。コロナ後は週1、2回程度出勤のリモートワーク体制が継続しており、飲み会などは禁止令が出ているらしい。年齢は40代、既往症があるという話も聞いていないし、家族も妻子(確か中学生)だけで高齢同居者がいる話も聞いたことがない。
自分も似たような境遇だが、正直、今年中に順番が回ってくることもないだろうと考えていた。ワクチンの数も足りていないようだし、五輪も何だかんだでやる気らしいから、その期間はワクチン接種体制は鈍化するかストップするかが関の山だろうと思っていたので、ずいぶん楽観的だなと思って、いやー我々中年に回ってくるのは相当先じゃないですか、と思わず口から出てしまった。
しまった、話の腰を折ってしまったかと思ったが口から出たものは仕方ない。早く順番が来てほしいですよね、それまで頑張りましょう、と適当に話を〆ようと思ったが、相手は、話の腰を折られて怒るというよりも、がぜんガッカリの色が濃くなった。あんた、それだけ生物的・職業的に恵まれた場所にいてどんだけ図々しいんだ。
どうも。皆様はじめまして。
具体的にはWEB、紙雑誌でライティングの仕事、たまーに版下記事を丸っと任せていただき、DTPの真似事や簡単なデザイン関係のお仕事もしています。
簡単に言うと、記事ライターというやつです。特定されないよう文体を変えているので、文章に変なところがあってもご容赦を。(金とるわけでもない文ですし)
「憎悪クリエイター」って何やねん?と思われたでしょうが、先日増田で見かけた単語がいいなあ、と思ったので使わせてもらいました。
簡単に言うと、今回タイトル文に使った「遊郭編のタイトル炎上」だとか、「LGBT問題」だとか、「男女差別問題」だとか、「政治屋への批判」だとか、ジャンル問わず、『分断と憎しみを煽る記事』を作っています。
ちょっとジャンキーな言い換えをすると、「レスバトルの火種になる記事」のクリエイターです。人と人の憎しみを増幅させることで昼飯を食べています。
私を含めた、そういう人達のことを、私は勝手に憎悪クリエイターと定義させていただきました。
(まあ、皆様なんとなーく、我々の存在を感じ取っていたとは思うのですが…)
貴方がイラっとした記事や、ジェンダー問題や環境問題とか、正解がないのにも関わらずSNS上での議論が紛糾した問題を思い浮かべてください。
簡単に言うと、情報をある程度恣意的に切り取り、意図的にSNSで炎上するように仕向けた記事を沢山書いて出荷しています。
その方が金がいいから…ではありません。
己の政治主張を通すため…でもありません。
私は元々、ペットのお役立ち情報とか、ネコやインコの記事をメインに書くためにこの副業を始めました。
しかし、いつの間にかネコちゃんやインコが可愛い!という記事よりも、
「アイツがやらかした」だとか「こういう差別が問題になっている!」という記事の方の仕事をいただくことが多くなり、段々そちらがメインになりました。
以上です。
私は過去、妊婦の問題や貧困問題なんかを、さぞ苦しんでいる人々がいるように書きました。
しかしながら、別に私自身は子育てに苦しんでいる人を救済したいとかないですし、逆に苦しめばいいとかもありません。
「AT運転はダサいという声が」といった記事を書けば、勝手にSNSで議論になって盛り上がる、と言えばわかりやすいでしょうか。
炎上したら、しめたものです。閲覧数の多い記事が書ければ、次のお仕事につながるからです。
あと、謝ります。
遊郭編についての記事は書いてません。単に興味がある人が多いだろうから適当に使わせていただきました。悪しからず。
まあ遊郭編についても同じことです。自分もああいうタイプの記事を作ります。動機は需要があるからです。
元の漫画だとか、子供の教育をこうしたい、とかはありません。結果は求めていません。
例えば我々憎悪クリエイターが「ネトウヨやブサヨのここがおかしい!」などという記事を書いたとして、実際に政治主張が左向きや右向きかと言われると違います。
つまり、閲覧数そのものが目的なのです。どんな記事だろうと、読んでもらえなければ意味がありません。
別に炎上の結果企業が叩かれようが、世界が正しい方向に向かおうが、政治家が引退しようが、関係ありません。
人が記事を引用してリアクションすると、勝手に拡散してくれて結果的に第一目標の「閲覧数を増やす」というのが達成される確率が高い。
それだけの話です。リアクションの内容はどうでもいい。賛同でも、否定でもいい。
では何故、「憎悪クリエイト」が多く行われるのか?需要があるからです。
win-winなのです。
どうせ、多くの人は記事の中身まで読みません。勝手にタイトルから「こういうことを言おう!」と決めてくれます。
あります。
憎悪クリエイトを行う時に重要なのは、「なにが嫌なのか理解すること」です。
だからこそ私のような人間は多くのコミュニティに参加しています。
漫画だのアニメだのゲームだの作品の感想を楽しく言う場所だとか、ガールズがちゃんねるしている場所だとか、他にも海外の掲示板だとか。一例ですが。
皆様が何を楽しみ、何にイラっとするのか。わからないと正しく憎しみを煽れないので、ちゃんとコミュニティに合わせた感性を忘れないようにしています。
我々が皆様にわざと勘違いさせていることなのですが、メディアは貴方達ユーザーと同じようにメディアを閲覧することができ、同じ感情を持つことができます。
なにが好きなのかわからないと、その好きなものをけなせない。勘所がわからないのです。
論理を破綻させ、倫理を捻じ曲げる。上手くそれをやることが憎悪クリエイターの腕の見せ所です。
・最強のA案
「見ない、反応しない」
これが答えです。
憎悪を煽るような記事は見ない、そして「取り上げている対象」を叩かない、「記事そのもの」も叩かない。
例えば森氏の失言問題においては、森氏の記事そのものを見ない、森氏の家族を陰湿に叩くメディアを見ないということです。
貴方たちが見た時点で我々の実績になります。アクセス数が伸びれば、当然ながら同じような記事を書きます。
メディアは人の心がないから加害者の家族を追うのではなく、人の心がわかるからこそ加害者の家族を追跡するのだということを認識するべきです。
政治は税金が絡むので市民が監視者になる必要があるというお題目がありますが、そういうお題目を最大限利用するのが我々憎悪クリエイターです。政治だろうが芸能だろうが教育だろうが、同じことです。
閲覧とリアクション。それを得られるならば、できることはやります。
例えば児童が読むものに遊郭編とつけるのはいかがなものか、とか。
倫理や正義、正しさなどというものは我々にとって利用価値の高い道具です。
とはいえ、皆様には何かを叩く権利があります。義務ではありませんが。
犯罪行為や反倫理的行為を叩く行為は、運営や警察がカバーしきれないネットワークにおいては必要な暴力機能でしょう。
100日後に死ぬ爬虫類の叩きについては、某社のアレとかでご理解されているように、我々職業的な憎悪クリエイターからは離れた案件になります。
つまり、「感情面と経済的合理性から叩く意味がないもの」を叩く行為を行えば、それは我々憎悪クリエイターの手から離れた叩き行為です。
ネット上でものすごく愛されているものを叩いてみてはどうでしょうか?
利害関係的に誰もが損をする。そういう対象を叩けば、最初のうちは我々の意表をつく行為です。叩く対象がなんでもよいのであれば、そちらを推奨します。
憎悪クリエイターの利用者は多くの場合、怒りをぶつける相手が欲しいだけです。
憎悪そのものが目的であり、その結果としての改善を望んでいる人などほとんどいません。
貴方達が議論している「すぐに解決しない問題」は我々の昼飯代程度の金のために作られた問題だということです。
色んな記事を書いてきました。
女性差別を失くそうという記事、フェミニストがウザいという記事、ヴィーガンになろうという記事、ヴィーガンがウザいという記事。ナチスは正しいという記事。ナチスにならないためにはどうしたらいいのかという記事。
アニメや漫画の規制を促す記事。漫画やアニメーターの保護を訴える記事。弱者を守るための記事。弱者を利用する記事。
全て、憎悪を煽るためです。憎悪は構造上、金を産みやすいのです。
巨悪がいて、情報を統制している、などというファンタジー世界は存在しません。
貴方達の需要に応え、私達憎悪クリエイターによって安い金で作られているのが貴方達が社会問題や命題だと思っていることです。
(あ、でも某広告代理店が「年金受給者」と「若者」の対立を煽ろうとしていたのはガチです。長期目的は知りませんが、かなりの予算が動いていました)
何故憎悪クリエイターが生まれるのか?需要があるからです。貴方達が私達を産んでいるのです。
貴方達は自分のスタンスやポリシーに理解がない人間を叩くことを常に望んでいます。
論理の破綻を見つけるのが嬉しくてたまらない、知識をひけらしたくてたまらないのが貴方達です。
我々を消す方法は、「見ない、反応しない」です。そして皆様にそれができないのは、私達が一番知っています。
私は、少し疲れました。私の言いたいことが皆様に伝わり、この記事が誰にもリアクションされず、誰にも見られなければ私の勝利でしょう。
しかし、私はきっと勝てないでしょう。
給料が安い理由として、「権力のあるオジサン世代が保育の職業的価値を理解していないから」が多いが、気持ちはわかるけど少し的外れ。
(1)これまで保育士になってきた人たちの社会階層は、それにつかなかったら専業主婦やスーパーのパートをやっている女性だった。エリート就活生は見向きもしない。こうした人たちにとっては、月手取り13万でも決して安くは感じられない。また、保育を家庭の中で「無償」で行っている専業主婦も依然として少数ではない。
(2)かつての保育士は公務員で、かなりの高待遇だったが、不況や増税反対の世論による財政逼迫、公務員バッシングなどを背景に、保育施設の拡大において民営中心方式が採用された。しかし、民営だと当然ながら経営難と事業破綻を恐れるので、現在は余裕があったとしてても人件費にはおいそれとは回せない。また経営者が過度な報酬を得ていても、公務員だった時とは違って、メディアは批判がしずらくなっている。
(3)安倍政権は2019年10月から、当事者や現場が切に求めている待機児童対策や保育士の待遇改善を後回しにして、無償化措置に踏み切ってしまった。これはたださえ疲弊していた現場の負担を激増させ、退職者を増やしている。今振り返っても天下の愚策だと思う。
以前こちらにて「今後のことを考えるならGotoキャンペーン中止だけではなく、観光産業自体もなくすべき理由」を書かせて頂いた者だ
もちろんGotoを失敗にさせるよう合法的方法において仕向けてきたが
そうでなくとも 冬というのは
ただ今年の方が インフルエンザが減少したとも聞く
散々、我々はずっと毎年多数の感染者を出していた
インフルエンザが蔓延していた時に営業を強いられたというわけだ
で、Goto一時停止を決めたとか言っているが
少しでも存続をさせようってか
違うな やるべきことは
観光業をなくすべき
解除されないような状況にすべき
副作用を一切出されない状況になるまでは
もちろんオリンピックに間に合われても困るが
「食」なんてのも
自分で作らず、他人につくってもらったものを食べてるという行為も
他力本願もいいところだ
「ポテサラ」論争があったのもつい前の出来事だったのを忘れた奴も多いが
素材買って調理したらそれでいいだろう
酒提供する店なんてわざわざ人間の本性を暴いて酷い時は事件を起こすもの提供するのも
なぜ存続させる必要があるか?
性産業は論外
(太田啓子弁護士、石川さんや小砂さんをはじめとした活動者には頑張ってもらいたい)
医者も不足していると聞く
なのになんだ、職業的にも「遊ぶ」ことばかりしか考えない奴らは
これは駄目だとしか考えられなかった
深刻だとしか言いようがない
言いたいことは他にもあるが
機会があればまた書いてやる
暗い場所、なんか精神世界みたいな場所で誰かと誰かが邂逅するシーンが好き。以下、ネタバレを含みつつそれらのシーンを解説していく。
エヴァの最終話近辺も似たような感じのシーンあるけど、あの辺は演出としてかっちりし過ぎているのでそこまで好きではない。
物語終盤において、主人公兄弟である高倉冠葉と高倉晶馬は、真っ暗な空間において隣り合う二つの独房にそれぞれ入れられている。飲み水も食べ物も見当たらないその場所で、二人は飢えていく。なお、二人の姿は物語中の青年の姿ではなく幼少期の頃の姿を取っており、したがってこのシーンが、現実ではない抽象化された世界の出来事であることが示唆されている。
お互いに独房から励まし合いつつも、飢えてかつえていく二人であったが、やがて兄である冠葉が叫ぶ。
「あった!」と。
「何が?」と晶馬が疲れ切った声で問うと、冠葉は「林檎があった。今まで気付かなかったけれど、独房の隅に落ちてた」と晶馬に伝える。「晶馬の方にも落ちているかもしれない、探してみろよ!」
暫くの間晶馬は林檎を自分の独房で探すものの、そこに林檎はない。やがて諦めを含んだ声で晶馬は言う。「僕の方には無かったよ。おめでとう、冠葉は選ばれたんだ」
この「林檎」はこの場合、「両親からの愛情」のメタファーである。晶馬は幼少期において様々な事情により、母性的愛情が欠落した生活を送っていたのである。冠葉はその乾き切った晶馬の言葉に愕然とするのだけれど、自らの手で林檎を二つに断ち割り、そしてその一方を、独房の鉄格子越しに、晶馬の方へと差し出すのであった。
先程、愛情の例えになっていると説明した林檎であるが、同時にこの林檎は、旧約聖書における「善と悪の知識の実」のメタファーにもなっている。
ピングドラムにおけるキャッチコピーは複数あり、その内の一つが「僕の愛も、君の罰も、すべて分け合うんだ」である。愛と罪を共有する、というテーマが、この暗闇のシーンにおいては描かれているのである。
「『列車』はまた来るさ」
飼い猫「レノン」の後を追って、寮が併設されている学校の敷地内を走る主人公。その主人公の目の前に、幼い頃の主人公の心の支えとなり、今もなお親友として日常を共有する棗恭介が現れる。夜の暗い中庭において、恭介はレノンを腕に抱えていた。これまで、レノンは度々メッセンジャーとして主人公を翻弄していた。その尻尾に結び付けられた何者かのメッセージが、時に主人公を誘ない、時には誰も知りようのない個人的な秘密を示唆しもしたのである。
そしてその夜、いつものように主人公の理樹を誘なったレノンが最終的に辿り着いたのは、親友である恭介の元へであった。それを追ってやって来た理樹は、これまでレノンを介して自身にメッセージを与え、様々な示唆を与えてきた人物が恭介だったことを悟るのである。恭介はこれまで理樹に対して、「この世界には秘密がある」とレノンを介して度々伝えてきた。そのメッセージを目にした理樹は半信半疑ながらも、示唆に従い様々な問題の解決などを手伝う羽目となっていたのである。
全ては恭介の悪戯であったと悟った理樹は、「結局世界の秘密とは何だったのか」と冗談めかして尋ねるのだが、「世界の秘密は本当にあるんだ」という思いもしなかった答えに直面する。
「それは形而上学的に存在していたとされる世界のことか何かなの?」「そんなものは存在しないよ。この世界には秘密なんてない」そう困惑しながら言葉を返す理樹に対して、恭介は笑いながら身を翻し、闇の中へと消えていく。結論から言うと、恭介の言った言葉は本当であった。彼の言う世界の秘密とは、恭介を含めた理樹の友人の一切は全て故人だったというものである。その事実に直面することで、主人公が精神的に廃人となってしまうことを避けるために、超自然的な力を用いて恭介は理樹に対して幻影を見せ続けていたのだ。
原作版ワンパンマン第106話、類稀なるエスパーとしての才能を見出され、施設に半ば幽閉されることとなったタツマキは心の調子を崩し、超能力の発揮を躊躇するようになる。その結果研究員たちによって部屋に監禁されるタツマキであったが、やがて研究施設で飼育されていた実験動物の暴走事故が発生し、あわやタツマキもその犠牲になろうとしていた。
そんな時やって来たのが、後にヒーロー界を席巻することになる「ブラスト」である。ブラストは危なげなく暴走中の実験動物を抹殺すると、タツマキに対して自身が趣味でヒーロー活動をしていると告げる。普段は働いているのだけれど、これはあくまで趣味なのだと。
とは言えブラストの強さは圧倒的である。彼はタツマキに「何故能力を使わなかった?」と問いかける。当時十歳の幼児だったタツマキは、一時的に心身の不調で能力が使えなくなったと釈明するも、ブラストはその言葉が嘘であり、自身を根本的に人間扱いしてくれない施設の研究員に対する、自己主張の一環であることを看破していた。「今後の君のために一つだけ教えておくよ」
「いざという時に誰かが助けに来てくれると思ってはいけない」
ブラストはヒーローであり、誰かを助ける側の人間ではあるものの、自らが異常者であることを自覚していた。つまり普通ならば、人は人を助けなどしないのである。タツマキは幼いながらにその事実を突きつけられ、やがて自身も職業的ヒーローの道へと進むことを決意するようになる。誰も人を助けようとしないのであれば、自らが助ける側に回るしかないという事を彼女は悟ったのである。
他にもるろうに剣心追憶編の、剣心が巴を手に掛けるシーンで、巴の墓前の幻影を見る剣心のシーンとかも好き。
そのシーンに至るまでに、巴のこれまでの記憶が暗闇の中でリフレインするシーンとかもかなり好きである。
これらのシーンに限らず、「暗闇の中での邂逅」は多くの場合その作品におけるハイライトと直結している場合が多い。凝縮された幻影とも言うべき、強烈なシーンとして、これらの暗闇は描かれるのである。恐らく、これらのシーンを描く作家の、作家性の極地が、これらのシーンには反映されていると言っても過言ではないとも思われる。
これは間違いないのだが、俺=新世代=SNS世代の作品鑑賞方法で発見したことがある。
というか別に鬼滅に限った話じゃないのだが、キャッチーだから例としてタイトルを使わせてもらった。
まず前提として、俺は20代後半。インターネット中毒タイプの人間だ。
具体的には2ch、個人の感想サイト、それにまとめサイトだ。年齢を重ねてからはTwitterなんかも始めた。
真面目に、親の顔よりおそらくPCの画面の方を長く見て生きてきた。
「アホが何か言ってる」と思っていただいて結構だが、一応偏差値はそこそこ高かったし、読書感想文では県で賞も取った程度の知力はある。
まず、結論を書こう。
つまり、
「作品に感動したかどうかを決めるのは自分ではなくなった」のだ。
そういう時代が来た。ないしは来る。
要するに、鬼滅という作品を読む・観るなりして、泣く、キャラを好きになる、続きが気になる、技がカッコイイと思う。
これらの感情を、コンテンツを楽しんだ本人ではなく、最早他人が決めているということだ。
作品の評価を自分で決める能力が、「俺=新世代=SNS世代」にはもうないのだ。
「なるほど、水の呼吸というのはカッコいいんだな」「なるほど、煉獄さんの死のシーンは泣けるんだな」「義勇としのぶさんの関係はエモいんだな」
作品を読む前、もしくは後にSNSやサイトの情報を取り入れて、上のような感想を自分の中から「発掘」し「言語化」する。
そして、自分の中の感情というものを整理し、「俺はこう思ったのだ」と認識する。
これが、現代人が作品を鑑賞し、心中で行われている工程である。
「いや流石に作品でよく描かれる、家族の愛とか……そういうのはわかるだろ?」とツッコまれるかもしれない。
それが残念ながら、わからないのだ。最早家族愛は、感情の共感の最小単位ではないのだ。
俺は鬼滅の刃を見て泣いた。煉獄さんの母が出てくるシーンでそれはもう泣いた。
だが、その感情は俺以外の誰かが発露した感情を取り入れて、これは泣けるシーンだと認識したから泣いたのだ。
上の現象、俺だけのことかと思っていた。だが、どうやら違う。現職で小さな子供と触れることが多いのだが、同じことが起きている。
若年期からSNSなどに触れていると、みんなそうなっていくのだ。
(俺はまとめサイトや2ch、俺より若い世代はTwitterやLINE、という違いはあるが)
何故こうなるのか、答えは簡単だ。
俺がどう思ったのかを考える前に、SNSやネットにはわかりやすく言語化された感想が文章や映像になって落ちているからだ。
まあ、俺達の世代だけの話ではない。
「へーこのシーンってこういう意味があったんだ!」とか、「へーこのシーンの演出ってこういう意図だったのか!」
と思ったことはないだろうか。それが極大化しただけの話だ。
監督のインタビューや評論家のテキストを見て、みんなやっていたことだ。
作品に対する解釈の補助というのは、評論家という人間に職がある時点で過去から必要とされていたのは確かだろう。
だが、おそらく今、俺達の上の世代が考えているよりも、ずっと事態は進行している。
つまり、俺にとって「鬼滅の刃」が面白い理由、それは「俺の視界内の人が面白いと言っているから」だ。
「俺はこの作品が好きだから好きな人の意見だけを集める」「俺はこの作品が嫌いだから嫌いな人の意見だけ集める」
新世代は、このエコーチェンバー現象の影響を受けないのではないのか、というのが俺の考えだ。
つまりこういうことだ。
「視界内の人間が好きだと言っているから作品を好きになる」のであり、「視界内の人間が嫌いだと言っているから作品を嫌いになる」
では、今後何が起きるのか、これが一番重要なことだ。心して聞いてほしい。
おそらく、「作品に対してどう思うか」の感情を先導する人間が今後、より重要視される。
まとめサイトでは、匿名掲示板で行われた、作品への感想が打ち込まれているだろう。
おそらく、この流れがもっと明確に商業化され、工業化されていくのではないかと思う。
つまり、
「感情の先導者」が職業的に生まれるのではないか、と俺は考えている。
現在も存在する、評論家やレビュワーといったものではない。もっとプリミティブな感情の先導者だ。
「○○が可愛かった」「○○がかっこよかった」「アレは面白い」「アレはつまらない」といった感情を、これからは代表者が綴り、
俺達は彼らが思うように、思う。
そういう時代が来るのではないだろうかと考えている。
いや、もしかしたら、もうとっくにそういう時代なのかもしれない。
貴方のお子さんが「何か」に対して抱いている感想、それがYoutuberのものではないと思えるだろうか。
つまり、「作品を見て単独で何かを想うこと」が出来る人間が、おそらくは特別な存在になっていく。
ここからは少し話がズレる。
上の話、最早漫画作品だの、アニメ作品だのに限られた話ではなくなってくんじゃないか。
つまり、親子の愛から政治、飯の味、天気……事象に対するあらゆる感情を「発露」し「言語化」するための専門職が設けられるのではないかと思う。
俺達は、おそらく他人を愛する、という感想を、他人を憎む、という感想を、他人に考えてもらう日が来るのだ。
いや、もしかしたらもう来ているのかもしれない。世界はITで繋がった。
情報量は爆発した。
もう、人間の脳が処理できる総量を超えているはずだ。
ならば、本当に人は、自分の感情が自分から発せられたものであると思えるだろうか。
我思う故に我あり。
俺達は最早「我」を投げ捨てながら生きている。
職業的なペルソナは生身が見えている上で演じるものだから、見る側も演ずる側もその人の容姿の印象に引きずられる。
一方、VRアバターも、ネトゲアバターも、SNSやネット掲示板上も、まったく別の姿かアイコンかあるいはそれすら存在しない状態から個性を一から構築できる。
普通の人はそれほど「自分」からかけ離れた表現をしようとしないから気づかないだけで、この2次元的な性質はものすごく強力で可能性があるもの。
これを従来の「自分」的なものを持たない、そもそも常時オンラインゆえに「自分」が希薄なデジタルネイティブ世代が操るようになると、良くも悪くもめちゃくちゃ面白い世の中になりそうだなって話だよ。
アバターを操ることを半ばビジネスにしている人たちを見ていくと、一般人の想像を絶するほどストイックにやっている人が多いことに気づくだろう。誰に言われるでもなく。それは、それが理想だからなんだよ。俺の理想じゃない。誰かの理想でもない。たぶんミームがそうさせている。でもリアルとバーチャルの間に致命的な歪みは生まれない気がしている。吸収して昇華していけるたくましさがあるに違いないと思うんだよ。SFで描かれる世界に首を突っ込みつつあるね。ホロ外装技術が完成したらますます現実はバーチャルに浸食されるだろう。2045年、キズナアイが1億人くらいに増殖してても不思議はない。今ネットで2ch語やなんJ語をみんなが使うようなノリで、キズナアイの姿と声と思考パターンを借り、ワイに扮するようにアイに扮する人が溢れてもおかしくはない。
2次元的なペルソナは、自分の中に溜まっていく現実的で生々しいドロドロ部分をあえて理性で隠して、ないものとして、抑圧するでもなく不可視化して、アニメ的ないい子として振る舞う。理想的で知性的な好かれる振る舞いを、キャラというブーストを乗せることで「作る」ことが可能になる、という点が異なる。そして見ている側も、「作っている」ことは理解の上で、その「作ろう」とすることに敬意を払う。そういう世界観。
2次元的なペルソナって言ってるけど目新しいものじゃなくて、ただの職業的ペルソナでしょ
タレントなんかの職業的ペルソナもそれに近いだろ、求められるキャラクターを演じてるし、それを尊重して楽しむって合意があるわけじゃん
まあ、妄想を真面目ぶった文章で書くだけのちょい変な面白い人だったんな、増田とかだとガチ勢が混じってるからガチ勢だと思っちゃったわすまんな。
はてなブックマークのトップページを毎日のように見ていると、いろいろな立場から当事者として意見を表明したり、そうでない人も加わって多様性に関する論争が行われているのをよく見かける。政治的立場、人種、性的指向、ジェンダーアイデンティティ、発達障害、難病、等々。
多様な立場の人たちがいて、さまざまなニーズがあり、周囲の人々は配慮を必要としている。そういうことがわかるのは、おそらく、いやきっといいことなのだ。多様な立場の人々がお互いを配慮しながら共存できるようになればなるほど、社会は強くなっていくはずだから。
それは頭ではわかっているつもりでいる。でも最近は、ちょっと疲れてしまった。
多様な立場の人たちが、自分のことについて、相手のことについて、意見を表明する自由はある。
だがそれは、相手を完膚なきまでに叩きのめそうという情念をもって、口汚く相手を罵っていいということをただちには意味しないはずだ。
職業的なライターでもやっていない限り、インターネット上に人が書き綴るものは編集を経ていない。情念に任せて書き綴った攻撃的な文章は直ちに放出され、拡散され、読んだ人を直撃する。
はてなブックマークのトップページには多様な意見が出てきていると思う(左翼的な偏向があるという指摘はさておき)。それはおそらく価値のあることなのだと思う。
問題は、編集を経ていない攻撃的なテキストを、こちらの意思では思うように避けられないことだ。
いかにも早口で喋っていそうな、情念に駆られた人の語り口そのもので、論争相手を口汚く罵るテキストが目に入ってしまい、なんというか、疲れる。
いちおう職業的に
カロリーを誤認するので、栄養失調で倒れやすくなる。太るよりも、痩せるほうが健康は怖い。
低血糖でぶっ倒れることがあるので、断り書きのない人工甘味料は殺人だと思えといいたいが、それすらも、ノウハウなのでいえないよのなかが悲しい。
なぜ人工甘味料が健康被害を引き起こすかとかいくらになるかわからんからなきちんと説明できると
もともと人工甘味料の効果は、カロリーを誤認させて、痩せるというものだが ということは必要カロリーを下回る場合があり(味覚で判断する人生が長いと)
低血糖で運転中に、意識が混濁した場合最悪他人を巻き込んで事故が起きるので人工甘味料の表示は、かなりはでにやらないと危険
このはなしでも、カネになる話を言うなよっていわれるから、なんかやだよね
増田ではマイナスな話題でよく出されるゲームだが、普通に大人気で覇権だから何が面白いのか知りたくて興味本位で遊んでみた。
ストーリーをよくよく読み込んでみると、やはり主要人物が全員悪役由来だからか
「ガチャも回してもらえる愛されるキャラクター」と「ヴィランとしてもヒール行為をさせる」ヘイト管理の両立バランスが難しいのか、
どの章もガランと何か大切な穴が空いたみたいな印象を受ける。章ごとに起こる事件は最後に解決するが、実質的には何も解決していないのだ。
可哀想と思ってもらうために章ごとに用意された可哀想要員のキャラクターたちは可哀想になったままというか…
また、教訓や寓話で理解してる現代人にとっては、どれもただただ自業自得すぎるお話に見えてしまうというか。
でも女性だけ向けのアプリゲームとしては演出がお洒落で丁寧であるし(ディズニー様様かもしれない)、
キャラの中でもラスボスめいたマレウスの登場の仕方を始めストーリー中で個々のキャラクターを知る過程は楽しめた。
でも総評を考えると、ストーリー(というかプロット)がそんなに…となる。
このゲームが大好きで、毎日このゲームを考えてるプレイヤーはどういう部分にのめり込んでいるんだろうといろいろ考えてみた。
ストーリーは未熟だが、キャラクターはどれも親しみやすい設定と突飛な設定が融和して魅力的に思えるし、キャスティングに驚く(こんな声だったのか、という)キャラクターもいた。
題材が題材だし、読める空白や行間が多くていわゆる「考察」が容易なんだろうが、それがこのゲームを楽しんでる人たちが一番好きな要素なのかと推察した。
要はキャラクタービジネスなんだな…キャラクターがよくないと売れないんだろう。(ディズニーでありかつ枢先生を起用してる時点で売れる要素があるのはともかくとして…)
あとはお洒落なところも大事だと思う。そういう趣味でもあるかと思われそうだが、このゲームが流行る前に覇権だと教えてもらった魔法使いの約束とかいう女性向けソシャゲも遊んだが、
衣装がとにかくモードさがあるというか、流行をうまく取り入れてかつリッチに仕上がった服飾ばかりだった。
ツイステの枢先生はその辺に関しても評価が高い漫画家だったろうこともあるし、とにかく小洒落てデザインが凝ったものは売れるんだろうな
非モテだったので、今はダメでもカタい職業に就けば30歳ぐらいまでに結婚とかできるぞ、と思って、結局なんだかんだ成り行きもあって教員になった。
女性も多い環境、職場婚は年数軒必ずあるが、根暗で陰キャで運動音痴で悪目立ちばかりするコミュ障、仕事がバリバリ出来るわけでもないので相変わらずモテないままもうすぐ30歳になる。
既に窓際族予備軍でさえある自分はコロナ休校で暇になってしまったので、暇つぶしになんかゲームでもやろうかとなんとなくギャルゲーに手を出したらハマってしまった。もう現実世界の女性とは選択肢なしでは話せなくなりそうだ。